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2013.05.12
足利、渡良瀬川(わたらせがわ)を走る (桐生、足利)

アクセス;
 JR両毛(りょうもう)線、 「足利」駅、東部伊勢崎線、「足利市」駅 より


散策のコース;
 足利、織姫神社、渡良瀬川の河原


ポタリングのコース;
 往路;   西善(にしぜん;前橋市南部)より伊勢崎(いせさき)、笠懸(かさがけ)、薮塚(やぶつか)、
  桐生(きりゅう)と抜けて「渡良瀬川(わたらせがわ)」の川岸に出て、川岸に沿って足利まで走る。
 復路;   足利市駅より伊勢崎駅まで東武線にて輪行し、再度、伊勢崎から自走する。

  :走行距離(往復)  73km
  :走行時間      約4時間半


カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm−72mmF2.4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)


 春たけなわ、皐月咲く爽やかな季節の中を薫風を受けて爽快に走ろう、という事で足利に向かう事にした。

 前橋市の南部、西善にある私の実家から北東方面を望むと、赤城の裾野の右側に足尾や日光の山並みが見える。

 利根川や広瀬川の流域はいつも走っているが、その遥かな山並みに向かっては走ったことが少なかった。そこで、たまには普段滅多に舞台としない「渡良瀬川(わたらせがわ)」に沿って今回は走ってみようか、と考えたのだった。

HARP C2900と渡良瀬橋

<本日の愛車 HARP C−2900>

HARP(ハープ)は前橋の老舗サイクルショップ、
タキザワ(TAKIZAWA)のオリジナル・フレーム。

<C−2900>は東レ製。
ハイモジュラス・カーボン素材を使っている。

800Tカーボンを使った台湾のTRAIGON社が供給するフレームだ。
フォークや、コラムなどを含めたフル・カーボンなので実に軽量。
この車体のフォークとフレームの合計重量は僅かに1.3キロにしか過ぎない。


赤城ヒルクライムを見据えて手組みした車体だが、
ツール・ド・草津が季節はずれの降雪で中止になったために、
普段乗らないこの決戦用の車体に慣れておく必要があった。



それには「LSDトレーニング」が一番。

低負荷の運動強度で長距離を一定速度(一定の負荷度合い)で走り続けるのだ。


緩やかな登りの今回の道のりは、丁度、トレーニングする意図にぴったりのコースである。

しかも、蕎麦というニンジンも目の前にぶら下るので、俄然それが走る励みになろうというものだ。
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セルフ撮影(渡良瀬川) セルフ撮影

渡良瀬川の川岸、
サイクリング・ロード上を走行中。

 およそ30年前の古い話になる。卒業後は計算センターを母体とした情報処理会社に勤めたのだが、約10年の間、前橋からその会社のある桐生まで車で通勤していた。

 片道の距離は約30キロ。学生時代、アルバイトの際には都内で自動車を運転していたので運転には不慣れではなかった。コラム・シフトのボンゴ・ワゴン(マツダ)やオートマチックが出たての頃の人気車だったアコード(ホンダ)やパワーの在るグロリア(日産)などだ。だから運転自体には慣れていて通勤でも問題が無いものと思われた。

 しかし、通勤に慣れるまでの最初の3ヶ月間は車での通勤が許されていなかった。その後は解禁になるので、最初は中古のグランド・ファミリア(4ドアのセダン)を買った。新車を買うだけの現金も、借金するだけでの充分な信用も就職したての私には無かったし、親を丸め込む才覚もなかったからだ。そしてやっと半年後になって、晴れて新車のサニーを月賦で買う事が出来た。

 しかし、そのサニーはファミリアの登場で俄然人気の出たハッチ・バックタイプではなく、完全なファミリー・カーだった。ありきたりの何の変哲も無い4ドアのセダンだったが、赤い色の車体を選んだのは当時盛んに流されていたコマーシャルに影響されたからだ。

 画面の中では、真紅のサニーに乗って黒いジャンプ・スーツを着た「松坂慶子(まつざか けいこ)」さんが登場してきた。当時はまだ新人の「時任三郎(ときとう さぶろう)」さんも同じコマーシャルに出ていて、「サニー」が狙っているのは親父世代ではなく、本来は若者向けの大衆車なのだというメッセージを乗せていたからだろう。コマーシャルでは車種が秘めたスポーティイさをアピールしていたのだった。少年の頃から時代劇「江戸を斬る」での松坂さんが大好きだったので、凛々しい姿で颯爽と現れるサニーのコマーシャルにはすっかり参ってしまったのだった。

 蛇足だが、桜吹雪を見せながら啖呵を切るというのがご存知遠山の金さんの定番スタイルだ。しかし肝心なトレード・マークの桜の彫り物(刺青)をまるで見せないという、今までにない時代劇があった。西郷輝彦さんが演じる異色の”遠山の金さん”が登場する「江戸を斬る」の人気シリーズだ。最近になって名作時代劇として当時のプログラムが画質を改めて再放送されている。その相手役を務めていたのが松坂さんであった。金さんにとっての江戸の街での活動拠点である「魚政(うおまさ)」を切り盛りする小粋な江戸娘の姿(劇中での設定では本当は水戸家の息女)も実にいい感じだ。それに、絶対絶命のピンチを救う鈴が凛々と鳴りながらどこからか飛んできて、凛々しくも歯切れの良い太刀捌きの紫頭巾(北辰一刀流の千葉道場、千葉周作の弟子でもあった)などが出現すると、(少年の頃の私もそうだったのだが)今の私もその粋な姿についウットリとしてしまう。テレビを前にして、録画番組を見てもう何も言えなくなってしまうのだ。


 さて、そのサニー。桐生から関東各地にある近郊の顧客である都市ガス会社(相手先)への日帰り出張にもそれを使って出掛けたし、当時は山間へのドライブへも良く行ったので、最初の4年間で10万キロを越えて走るという凄い走行距離になった。

 次に買ったのはホンダのインテグラで、オートマチックのDOHC車。当時珍しかったリトラクタブルのヘッドライトが重量級であったが、どちらかと言えば軽い車体と言えたのだろう。スピードが無理なく出て、平地も坂道も高速道路も、どの場面でも軽快に走ることが出来た。只でさえ忙しい通勤時には、その小気味良い加速が大いに役立ったものだ。

 いや、失礼。「車」の事など、どちらでも良い話だった・・・。
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思考する友人H氏

「関東ふれあいの道」ってどれだけの距離で続いているか知ってる?
と友人Hにちょっと意地悪な質問を投げてみた。
<本日の相棒 友人H 氏>

残念ながら、その質問の答えは返ってこなかった。山歩きをしない人にとってはそれを知らないのも無理無いことだった。


欧米諸国のようにレンジャーが常駐した自然公園が無く、公園整備の状況や姿勢など、自然に接する環境的な取り組みとしては先進国最低のレベルにある日本。

その現状は、惨状といってもいいものである。

しかし、他国のトレイルやロング・パスがどうなっているのか、という世界的な状態を知らなければ、その貧しい限りのお粗末な状態には気が付かない。


「関東ふれあいの道」などは公共事業の稀有な成果であろう。

それは「東海自然歩道」に次いで、私達の大切な自然を楽しめる、身近で大きな財産といえるものだ。

 片道30キロのマイカー通勤では、いつも時間との勝負になった。

 今では体力が持たないので眠り続けていられなくなって、しかも思い通りの時刻に目覚められる様になったのだが、若い時分は朝が眠くて仕方が無かった。1分でも長く寝ていたかったのだ。だから朝はいつも一刻を大きく争っていた。その苦境のせいだろう、前橋の南部にある実家から桐生の「広沢」までの道筋は、脇道や抜け道に到るまで熟知していた。

 電車通勤で考えれば、首都圏のサラリーマンにとっては極く短い距離なのだが、車社会の群馬県内にあっては、私の通勤距離は長いものといえただろう。前橋市、伊勢崎市、笠懸村、阿左美村、桐生市といくつもの行政区を跨いで走る必要があったし、南ではなく北のルートでは、更に赤堀町、国定村、粕川村、新里村なども通過することになった。

 これだけの距離になるとアクシデントはつき物で、どこかで工事や事故などによる渋滞が発生すると、もうアウトだ。そのロスのために出勤時間を守れなくなってしまうからだ。例えば、雷雨を含む突然の豪雨など、天候に左右される場合も多かった。年に2回ほどだが、降雪があれば積雪があってもなくても片道3時間の移動を覚悟しなければならない。


 その際に培った距離感が私にはあった。自動車出の移動とは異なるが自転車で足利まで行くのは、群馬と栃木の両県を跨ぐとはいえそう難しい距離ではない。それに桐生まで行けばあとは足利まではどんなことをしても行き着ける。しかも渡良瀬川に沿っていけば快適で安全な自転車行が愉しめるはずだ。

 そうした諸事情を力説して、少し渋っている友人H氏を説得する事に、私は見事に成功した。そして、いざという時の手助けとして一応の準備もしておくという事を付け加えて、念を入れたのだった。もしもの際に活躍する輪行袋を携えて、こうして私達は一路東へ向かい、足利の街を目指すことにしたのだった。

 足利の街ではいつもながらの目標があって、何といっても美味しい蕎麦を愉しもうという事がその第一なのだが、もうひとつ別のものがあった。何度か街を訪れてもいつも素通りしてしまっていた「織姫神社」へ今回はお参りしようではないか、という重要な提案事項があったのだ。
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「葉鹿(はじか)橋」から梅田方面の山並みを見る。

梅田の山は奥深い。

桐生から足尾へと続く山稜となっている。
渡良瀬川、葉鹿橋

<足利(あしかが)までの行程について>

 前橋南部から目的地の足利の街へ行くには、まず桐生(きりゅう)か太田(おおた)のどちらかを目指す必要があった。そのためのコース取りでは、幾つかのルートが考えられた。

 赤城の南麓に沿って走る道(赤城一の鳥居から「風っこ街道」で旧宮城村を経て行く道)を北端として、大胡へ出てから粕川・新里・大間々方面へ向かって桐生の北部へ出るという山麓の丘陵地を行くコース(最初のルートのひとつ南側に位置するルート)や、前橋今井線で大室・赤堀から笠懸の北端を通って岩宿(いわじゅく)へと抜けるコース、しかしこれでもやはり尾根筋を幾つか越えるので坂道のアップダウンが発生する。

 そこで、それらのコースよりさらに南のコース取りをすれば、僅かな登りがあるだけでずっと平坦路を進むことが出来る。

 国号「50号」線に沿ってその北側や南側を平行して走っている農道や、伊勢崎まで一旦出てから笠懸に抜ける桐生県道を行く道、などがそうした平坦基調のコースになる。

 さらに目的地の足利までを視野に入れて進むとなると、境(さかい)・尾島(おじま)・太田(おおた)と抜ける「日光例弊使街道」を使うという選択肢も出てくる。

 この日の行程としては、距離は長めになるが「南コース」を取るのが最適だと考えた。中央前橋から桐生の相老(あいおい)まで続いているローカル線の上毛電鉄線に沿って進むのも変化があって楽しいルートなのだが、榛名山ヒルクライム・レースを直近に控えた足を思うと、その山稜を進むともいえる道筋はちょっと敬遠してしまう。

 レースを直近に控えた今は、斜面を登り攻めて負荷を掛けたいという攻めの時期ではない。やはり数ある進行路の中では笠懸(かさがけ)の平坦路を進むコースが最適な選択だろう。


 そこで笠懸(かさがけ)を進むという今回のコース取りを想定してみると、そのルートはおよそ以下のようになるだろうか。

 そのルートとしては、西善町の実家からいつもの自転車行の基点地としている駒形(こまがた)へまずは出て、改めてそこから伊勢崎へ向かうのだが、その先が幾つかの通行路として想定される。そして伊勢崎の駅前から東へ伸びる「桐生県道」へ出て古くからの街道筋を一路東へ向かって進んでいけば、その先に広がるのが笠懸である。そのルートでは田部井(ためがい)を通り抜けて、やがて薮塚に出て、さらにそのまま進んでいくことになる。

 笠懸は大間々台地(おおまま だいち)に広がる渡良瀬川の扇状地ともいえる広い地形の領域だ。道の途中では境(さかい)への分岐や赤堀(あかぼり)への分岐、国定(くにさだ)への分岐、さらに薮塚中央への分岐などが順次現れるが、かまわずに道をまっすぐ東進し続けていく。すると道は阿左美(あざみ)に出て、やがて旧桐生市で言えばその郊外になる広沢(ひろさわ)に出る。

 広沢は、渡良瀬川の川岸に古くから拓けた集落だ。橋を渡って北上しないと桐生市街へはいけないが、この町は市の郊外であるのに実に賑やかだし、交通量も多い。

 広沢で渡良瀬川の河川敷に降り、川筋に沿って道を下流へ降っていくとやがて目指す足利へ入れる、というものだった。
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太田方面の丘陵を望む

渡良瀬川から南を見る。

広沢から端を発して太田側へと続く丘陵地帯が見える。
友人H氏、激走中!

激走中の友人H氏、
後方は桐生「広沢」からみた赤城山。

<コースの実走 その1 「駒形(こまがた)」から「伊勢崎(いせさき)」まで>

 実家の直ぐ南には県道の高崎・駒形バイパスが通っているが、この少し南に北関東縦貫道路(高崎市〜ひたちなか市間の全線が開通済み)が走っている。

 駒形から伊勢崎(波志江、伊勢崎)、太田薮塚、太田桐生、足利とインターチェンジが作られて赤城の裾野を大きく巻いて横断していく。倉賀野(くらがの)から今市までの日光例弊使街道を柴宿(「斯波:しば」というのが伊勢崎の旧地名である)から足利まで進む経路(街道筋)とほぼ沿っていて、その北側に造られた大規模な高速道路だ。

 伊勢崎市街から桐生県道へ出るのではなく、途中の道からの景色も楽しみたいので、結局、始めに想定したルートの前半とは異なった道を行くことにした。縦貫道である「北関東自動車道」に沿って進むことにしたのだった。

 北関東自動車道の高架道路の南北には側道が通っている。高架の台座となる平坦部に造られた道路だ。駒形ICから伊勢崎ICまでの間を見ると、北側は広くて片側1車線の対面交通路、自家用車だけでなくトラックの通行が多い。そして南側が幅員が狭くて中央車線区分の無い相互通行路。このため南側の側道では車両はほとんど通らない状態になっている。


<北関東自動車道の側道の状況>

 北側はずっと赤城山を初めとした山並みの姿と裾野に広がる田園地帯を眺めていられる。だから景色が良いが、縦貫道の北側の側道を走るには通行量の多い車道脇か小石で接着舗装された歩道を走る事になってしまう。

 その歩道は広くて安全なのだが、道の左車線側にしかなく、しかも接着されているとはいえ道の表層は滑らかでなくずっと小石でごつごつしている。だからロード・バイクにとっては走り易い道という訳ではなかい。

 走り易さと安全性を考えれば、南側に続く側道を選んで進む事になろう。その南側では敢えて路肩を進む必要がなくて、車線内を余裕を持って通行できるからだ。それに景色も北に比べて悪いわけではなく、南に広がる田園地帯と、ずっと彼方の地平上に霞む秩父や奥武蔵の山並みが楽しめる。

 通路の選択としては、サイクリング・ロードではないが、同等に安全なこの南側の側道を走るべきであろう。北から流れ来る川(粕川や韮川や早川など)に接して橋が無くて、仕方が無く北側の側道に廻る必要があるが、川を渡れば直ぐにまた南側へと戻ることが出来る。

 それに駒形の先、波志江(はしえ)ICの手前には沼のほとりに綺麗な公園があるので、途中の休憩が出来る。その先の伊勢崎ICまでは、こうして安定した側道を、安全に走ることが出来るのだ。
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セルフ撮影

桐生の広沢、渡良瀬川の河川敷にて。
サイクリング・ロード上をシャーっと激走中。
友人H氏、いまだ激走中!!

<コースの実走 その2 「伊勢崎」から「桐生(きりゅう)」まで>

 伊勢崎ICの周辺は大規模な工業団地や物流団地になっている。だからIC周辺の道は今までと違って少し複雑さを増す。道の選定をひとつ間違えると、工場や倉庫の広大な敷地の回りを一周しないと元の場所へ戻れないし、思わぬクランクが重なって進行方向が判らなくなる。

 「北関東自動車道」は東西方向に続いてたが、この一帯の中央部分では北西から南東方向に走る「上武(じょうぶ)国道」が抜けている。東へ進むためには、この国道を横切って少し国道に沿って南へ進んでいって旧東村(あずまむら)に出てから、改めて国定(くにさだ)方面へと向かう必要があるのだった。

 佐波東(さわ あずま)の農協のあるところまで、国道脇から続く田園の中を東へ向かって進めば、そこが桐生県道との交差点だ。


 その辺りは「田部井(ためがい)」という場所になるのだが、ここは平安時代末期から栄えていた新田荘(にったのしょう)の北端で、一族の末裔が拠点として荘園内に開発したひとつの「郷(こおり)」であった。古くからの開けた土地である。

 ここに定着して苗字を変えた田部井(ためがい;新田家氏流の源氏支族)氏は数代に渡って領主としてこの土地を治めていたので、この場所は少し賑やかな街並みとして開けている。さらにここから北部の赤堀(あかぼり)や国定(くにさだ)、南部の世良田(せらだ)へ向かう通行路が分岐するという、要衝の地でもあった。

 開発前の一帯は、浅間山の噴火による荒蕪地となる以前から、「笠懸(かさがけ)野」といわれた荒涼とした原野であり、広く荒れた土地であった。しかし、現在は県道の四囲には広い豊かな田園が広がっている。平安末期以前の荒れた様相は、とても今の風景からは想像が出来ないものになっている。


 県道をさらに進むと、薮塚(やぶづか)の街に入る。俄然、道の両脇に店舗が現れはじめる。ホームセンターや大型のスーパーを始めとして、こじんまりとした幾軒かの食堂の塊りやコンビニなどが続く。薮塚の中央は尾島(おじま)に近く、更にここから南部域にあるのだが、この県道沿いは飛び地のように賑わっている。

 ほんの少し、その店並みが途絶えるが、やがてまた商店が連なり始める。阿左美(あざみ)に入ったのだった。公営ギャンブルとして栄えた桐生のボート・レース場がある地域だ。今はボート・レースは人気としてどうなのだろう。通勤していた頃は開催日になると通りを走る車も多くなり、苛立った運転をする人も多くて随分と怖い思いもしたものだ。

 県道を更に進むと、線路が見え始める。太田から薮塚を経由して続く東武鉄道の桐生線だ。そしてその踏み切りを越えれば、そこが桐生市の広沢である。
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<コースの実走 その3 「桐生(きりゅう)」から「足利(あしかが)」まで>

 広沢周辺はちょっとした丘陵であり、すこし坂道が現れる。県道から線路を越えた先に国道「50号」線があって、広い2車線で栃木県の小山市まで高速道路のように続いていく。国道の南側には小高い丘があって上部に住宅地がある。広沢に勤めていた頃の友人(同期)がそこに住んでいるのだが、これが意外な急坂で驚いた記憶がある。

 今回は国道を進まずに、渡良瀬川を降っていく計画なので、一旦は国道まで出るが、そこで道を折れて広沢の中心へと向かうことにする。若い頃に良く通った定食屋さんやかつ屋さん、それに川岸にあった焼きそば屋さんや鳥料理店などが思い出されたからだ。

 もう30年も昔のことで、そうした昔馴染みの店が今もまだあるかどうかと不安に思ったが、試しにかつ屋さんと鳥屋さんの2軒を訪ねてみた。区画整理がされていて、かつ屋さんのあたりは様子が変わってしまって最早見つけようが無かったが、川岸にあった鳥屋さんは辛うじて見つかった。しかし、残念ながら店はひっそりとしていて、すでに営業は止めてしまっているかのようだった。

 昼時(13時を少し回った時刻)に食事を採るのに見事に失敗した形となったが、ここまでくれば足利まではあと一時間ほどだろうということで、それほど空腹でもなかった私達は我慢してさらに走り続ける事にした。

 そういう経緯で広沢から渡良瀬川に沿って続いているサイクリング・ロードに出て、そこを進み始めた。

渡良瀬川CR、広沢辺り 忽然と続いていた道が終わってしまった。

しかも、道の続きは、川の中という驚くべき状況に言葉も無い・・・。

 昭和橋を超えた先の川岸に建つ市営住宅を過ぎて給食センターからさらに先へ向かったら、川岸に整備されていたサイクリング・ロードが突然岬状の突端になって途切れてしまった。

 小川が渡良瀬の本流に合流している丁度中州のような状態の土地の頂に道が作られていたのだった。先まで行って行き止まりなのなら、せめて手前に掲示をしてくれれば良いものをと恨みに思ったがどうにもならない。道を引き返して、川筋から一旦離れて国道との間にある集落に入って、そこを進むことにした。

 その一帯は広沢バイパスの裏手になるが、さすがに織物で名を成した桐生だけの事はあった。染物屋さんや刺繍屋さん、織物工場など、古い雰囲気を残す工房(問屋)が路地を挟んで幾つも建ち並んでいたのだった。まるで、昭和の昔に戻ったような街並みの佇まいが目を惹くが、生活観に溢れてすっかり古びてしまってはいても、その家並みは威厳に満ちた落ち着いた暮らし向きの雰囲気を色濃く残していた。そこで出会った家並みには歴史的な建造物などは勿論無く普通の民家が建ち並んでいるだけだったのだが、本当に素晴らしい雰囲気だった。

 その昔姿を色濃く留めた地域は、織物のまちである桐生市の伝統産業を支えた家内制手工業の小さな工房や工場が建ち並んだ一郭だった。今では多くが営業を止めてしまっているようだが、それでも数軒が残って伝統を支えているのだろう。
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渡良瀬川CR、広沢周辺 右岸ばかりでは飽きるので、偵察のため一旦は左岸へ渡ってみた。


いや、何のことは無い。

右岸の道が浄水施設の横にある公園を過ぎて、またしても急に尽きてしまったのだ。

 その一郭を抜けて水質浄化センターまでの少しの間、渡良瀬川の右岸を走ったが、また川岸の道がなくなってしまった。一旦左岸へと戻る法が良かろうとその先の橋を渡って、また元通りに左岸を走った。

 そこで今度は「葉鹿(はじか)橋」を渡って対岸の「山前(やままえ)」に出て、その後はずっと右岸側を進むことにした。足利工業大学の横を抜けて下流へと進んで「北関東自動車道」の高架を潜ってなおも東へ進んだのだった。

 川岸には葦が密生しているので、護岸上からは川筋が判らない。そのためだろうか、このあたりでは川風が吹いて来るのが感じられない暑い状態だった。

渡良瀬川CR、山前辺り 足利工業大学の横を走る。


道は狭いが、きちんと草が刈り取られていて走っていても気持ちが良い。

渡良瀬川まではこの河川護岸上の道からは距離がある。

しかも河原は葦の様な草に覆われているので、川筋を見ることができない。


赤十字病院の先で、河川敷のグランドが現れるが、そこから先は渡良瀬の川面が直接見られるように変わる。
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足利市街地で整備される自転車通行帯 足利市街地で整備される自転車通行帯

市街中心に設定された自転車通行帯の様子。

<足利での自転車通行事情  ― 事故を防ぐ素晴らしい工夫>

 足利に入ってからは実に快調に走る事が出来た。

 走ってきた川岸の道は山前を過ぎたそのあたりで終わってしまった。

 川岸には広い歩道(遊歩道なのだろう)もあったが、それも赤十字病院の先の緑橋のところで尽きてしまった。だから、そこから先は車道を走る事になった。

 川筋に近いほうは進路の右車線側になるので、そこは走れない。私達は道路の左側に移って、また走り続けた。歩道は無いし路肩は狭くて荒れていた。しかし、その後の足利駅までの車道が空いていたので、走行に関しては大いに助かったといえよう。たまに追い越される程度の混雑振りで、まるで車の通行自体が少なかったので、自転車にとっては走り易い道になった。

 市街地に入れば、ご覧の写真のように足利では大いに安全策が取られている。大宮などの馬鹿げた歩道上での通行帯ではなく、自転車が走るべき本来の位置がしっかりと保たれているからだ。

 車道の左側に規制されたベルト帯がある。しかも、自転車にとって危険極まりない高リスクな路肩部分はペイントされていない。少しでも自転車での走行を理解していればそうした工夫は当たり前に浮かんでくる安全策なのだが、実に良く考えられていると感心せざるを得ない。
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足利市街地中心の自転車通行帯 足利市街の自転車通行帯の様子。

やはり、自転車は車両。こうあらねば、という正統派の事故解決策がここにある。

歩道を走っている限り歩行者の安全は守れないし、右側走行している限り自転車自身の安全は無い。


やがてデータを蓄積してみれば明らかだろう。
足利での自転車事故の統計と、同規模の行政体での事故統計を比較してみれば、その施策の有効性が証明されよう。

 足利のような車道上ではなく、自転車通行帯を示すエリアの設定が歩道上での区分けであったら、果たして人々はその通行制限を守るだろうか。その答えは「誰も通行制限を守らないだろう」というものだ。現にさいたま市の状況がその好例である。

 上の写真をもう一度観て欲しい。歩道の車道寄りの領域には段差があって、しかも電柱や樹木が建っている。そこを徒歩ではなく自転車で通行するにはかなりの慎重さが必要になるはずだ。片手に携帯電話を握って離しながら走る高校生(時にメールを打っている者もいるから驚く)や二列で走ることを決して崩さないママチャリなど、だれが危険を犯してまで車道寄りの歩道上を走ろうか。車道寄りではない障害物の無い歩道中央部分か、または車道から一番遠い部分を歩く歩行者にベルを鳴らして蹴散らしなが走るに決まっているではないか。

 私が住むさいたまの中央区もまさに今書いたとおりの状況だし、大宮駅周辺で近年気合を込めて整備された歩道なども全く同じ状況だ。そこでは、歩行者用の通路があり、植林されたグリーンベルトを挟んで車道寄りの歩道上が歩行者用とは別の色でペイントされた自転車専用の通行帯が用意されている。しかし、その自転車専用に仕切られた通行路を走る自転車を見ることはまずない。

 皆、歩道上の歩行者専用に広く取られたスペース部分を走っている。路面が明確に色分けされて、歩道の入り口にはアイコンによるそれぞれの区分を示す標識が立ち、さらに路面にはペイントによって歩行者と自転車とが漢字とアイコンで表記されて区別され、通行区分の制限として明記されているのにも関わらずだ。

   歩道は店舗や駐車場へのへの出入り口でもあり、いくら整備しても車道から進入して来る車がある。電柱や街路灯や駐車場の空き具合を示す電光掲示案内板、さらに自動車用の標識など、多くのものが自転車区画とされた通行帯エリア上に置かれている。自転車専用帯を通行する自転車にとっては、どれもまるで走行には関係の無いものばかりで、それらはすべて言ってみれば走路上に林立した単なる障害物でしかないものだ。

 歩行者用と自転車用に歩道上を別つグリーン・ベルトの部分にそれらの街路灯や電柱や電光掲示板などの一切の構造物を建てることが充分可能なのに、為政者がそうしなかったのは何故だろう?。自転車走行のあり方を実際に観察して見れば、僅か数分の間で直ぐに気が付く事であるのに、そうした事をまるで考えなかった無思慮や怠慢の結果がどうなるものなのか、それはすでに見えていよう。大宮駅前を通行する多くの自転車達は、危険だからという漠然とした理由によって車道上は勿論通行しないし、邪魔な障害物で通路を塞がれているからという理由で自転車専用に設けられた歩道上の安全な通行帯も走る事は無い。結果として障害物の何も無い歩行者専用の区画しか走らないという悲しい結果となっている。

 自転車は車両なのだから、歩道上を走らせては歩行者との事故の発生要因は拭い去れない。それは絶対といっても良いだろう。綺麗に区分けされてグリーン・ベルトも用意されて、そうした手当ては一見すると小洒落てはいるが、まったく何の効果も意義も無い。そうした歩道の存在が、私には堪らなく恥ずかしくてならない。

 足利市街の車道上に設定された、道脇に伸びたこのペイントを一度で良いから真似てみたらどうだろう。為政者に必要とされる質実剛健さを伴った確かな知性とは、こうしたところで発揮されるのだろう。
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「♪渡良瀬橋」のモニュメント 「♪渡良瀬橋」の
モニュメントは、渡良瀬橋の左岸の袂に建っている。


歌詞がプレートに刻まれていて、
横の支柱のボタンを押すと、歌を作詞した森高千里さんの歌声が流れてくる。

<「渡良瀬橋(わたらせばし)」を確認する>

 渡良瀬川の護岸上の道を走ってきた。市街地への入り口となる基点は数箇所あるが、右岸にある東武鉄道の足利市駅に一番近い橋が、「渡良瀬橋」だ。古いトラス式の鉄橋のような橋である。


 以前、新田から廻って夕暮れの足利を訪ねた際に、「渡良瀬橋(わたらせばし)」を仰いで沈む夕陽を渡良瀬川の河原から眺めたことがある。

 私達はその夕陽を眺めるためだけに新田から東武線に乗って足利へ行ったのだ。そして、その日は見事に沈んでいく夕陽をそれを写す川面と供に楽しむことが出来たのだった。

 しかし、その時には、大切なモニュメントの存在を知らずにそのまま帰って来てしまった。今度はチェックしておいたので所在もはっきりと判っているから、その存在を確認した上で渡良瀬の夕陽を愉しめる。

 川岸は堤防となっていてその堤の上は道路になっている。渡良瀬川の左岸、「渡良瀬橋」の少し下流にそのモニュメントはあった。以前、自転車を止めて最初に夕陽の写真をとった場所だった。しかし、そのときには歩道上にさり気なく建てられたこのプレートに歌詞が刻まれたモニュメントを気にも留めていなかったので、完全に見落としてしまったのだ。

 森高千里さんが歌う「渡良瀬橋」の歌詞は彼女自身の体験をもとにして作ったオリジナルの作詞であるが、その歌詞が石碑に刻まれている。そしてその横には一本のポールが立っていて、ボタンを押すと頭上からその歌が流れてくる仕掛けになっている。

 私が20代後半の時期に遭遇した彼女の人気は素晴らしいものだった。ミニ・スカートのスレンダーな容姿が光っていたからだが、歌は決して巧いわけではなかった。声が細くてブレスもなっていなくて、要するに本人が宣言したような本当の「非実力派」だったのだ。

 最近になってカムバックした彼女を見て少し驚いたのは、当時のチャラチャラした感じがどこにも無く、とてもいい感じで年を重ねた女性に変貌していたからだ。余りの彼女の変化に気を良くしてしまったのだ。そしてどうにも気になって、最近の彼女の行動を確認してみたのだった。以前の歌をもう一度歌い直して、再録音を進めているという事や諸々の近況を知る事になった。
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「♪渡良瀬橋」のモニュメント 左岸に建てられた
「渡良瀬橋」のモニュメント。

前方の右手に写っているのが、歌詞に歌われた「渡良瀬橋」だ。

 そうした中でいろいろと確認して、再認識した曲が「渡良瀬橋」だった。

 当時も、この曲は歌詞がしっくりと来て、作詞した際の心に共感が沸いていた。作詞が森高千里さん自身によるものと知ったのは、ずっと後になってからだったが・・・。

 歌詞に登場する舞台の数々も、客先として定期的に訪問していた都市ガス会社のあった町なので、渡良瀬川や足利の街の様子を良く知っている私としては深い馴染みがあったのだ。

 当時も名曲と感じた曲だが、四半世紀振りに新しい気持ちで改めて聴いてみたこの曲は本当にイイ曲だった。長距離恋愛などという言葉が現れる前の時代、週末の新幹線に揺られて「牧瀬里穂(まきせ りほ)」さんが深夜のホームに立っていたJRの印象深いコマーシャルは、この曲よりも後だったのでは無いだろうか。

 川岸の石碑で歌詞を詠みながら横の支柱にあるボタンを押すと、車や列車の走る音や川筋を伝ってくるせせらぎや河川敷で遊ぶ人達の声など、街の喧騒に混じって彼女の歌が流れてくる。

 誰でもが一時、切なくなるような温かい心に触れられる。渡良瀬川の川岸に立ってその景色を眺め、そして幸せな気分に浸ることが出来る、そんな素敵な場所だった。
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「鑁阿(ばんな)寺」へ続く舗道 「鑁阿(ばんな)寺」へ続く舗道

<鑁阿(ばんな)寺>

 足利の駅まで行ってから市街地の「グランド通り」を北に向かって走るのが蕎麦屋さんへの順当なコースなのだが、そこに行く前にほんの少し廻り道(ちょっと寄り道)をする事にした。

 「鑁阿(ばんな)寺」への舗道の雰囲気が良かったが、最近数回訪れていながらまるで敷地にある「足利学校(あしかががっこう)」を撮っていなかったのだ。

 足利の地は室町幕府を起した源氏の支族、「足利尊氏(あしかが たかうじ)」の足利氏宗家の本拠地。平安期から続く武家貴族の一族なので、その本拠は古くから開けていた。その中心にあったのが足利館であるが、今はそこに建造物はなく基礎や石組みなどの遺構さえも残っていずに、その場所だけが示されている。しかし館があった一帯は手厚く保護されている。

 足利氏族の菩提寺である「鑁阿(ばんな)寺」は館の跡にある寺院なのだが、その大きな寺の建物が今も残されていて、堀に囲まれた一帯は広大な公園として市民に広く開放されているのだった。
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足利学校の堀 「鑁阿(ばんな)寺」の堀からみる足利学校

<足利学校>

 学校の生徒は「学僧(がくそう)」と呼ばれる秀才達だ。彼らは学校での修練のあとは全国で引く手あまたといった状況だったという。そうした内容は小和田哲男著の「軍師・参謀―戦国時代の演出者たち―」という中公新書などで詳細に書かれている。

 足利学校は「日本最古の学校」と呼ばれているが、単なる教育機関ではなくそうした戦国武将が必要とした能力者を育成したところ。<軍師を養成した専門施設>だった。「軍師(ぐんし)」というのは武将の補佐役であり、現在でいえば作戦立案を行い、指揮官に助言する高級参謀である。調略を行い交渉を行った訳だが、指揮支援を撮ることは無い。

 当時の「知識人」を担っていたのは僧侶達(老師や国師といった高僧や五山の長達)であった。江戸時代に下ると地域に根付いた寺院の和尚達は、檀家をもってもっぱら葬儀の専門職と変質していくが、古い時代の僧侶といえば法事の執行者ではなく、むしろ学者層を担う存在だった。

 僧侶そのものの修行(宗派の教義、宗教哲学)に加えて、さらに「学僧(がくそう)」という状態であれば、それは専門的な研究までも行った知的エリート達であったのだ。

 彼らは公式文書としての漢文(中国語での筆記)は勿論自由に読み書きできたし、中国の思想的な内容(哲学)に関してもひととおり納めていた。医学や物理といったものまでも仏教伝来の頃以来ずっと連綿と積み上げて学んでいた。

 奈良や平安の昔においては、隋や唐といった先進国へ、日本にはない知識や文化を吸収するために彼ら学僧が盛んに派遣されていったのだった。
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足利学校への門(鑁阿寺;ばんなじ) 足利学校の堀

 鑁阿寺は紅葉の中で訪れて多くの写真に収めたが、「足利学校」は少しも撮っていなかった。

 最古の総合大学として名高い足利学校は、軍師の養成校でもあった。鎌倉時代から室町になると、この寺らからは多くの学僧が全国各地へ巣立っていった。ここで修業をするのではなく、すでに学僧としての一連の修業を終えた後に、身に着けた知識の再度の体系化とそれらの総仕上げをするために、この地で改めて学び、奥義を収めたのだった。

 内部も公開されているが、今日はその景色を写真に収めるだけで充分だろう。再訪の際には是非、中を見学しようと思っている。
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この急な階段を226段、懸命に登らないと社殿への参詣は出来ない。

拝殿は境内の水準より更に一段高く置かれるが、まず、境内まで続く参道まで行き着くには少しばかりの修練がいる。


例えばの話、
この神社では「お百度」を踏む、という事など無かったろう。

鳥居から拝殿までの参道を歩くのは、ヒルクライム好きの私でさえ積極的に登りたくは無い。
一往復はおろか、山頂への片道だけでも相当にキツイものだった。
頂上へと向かう参道

<織姫神社へお参りする>

 鑁阿寺を後にして私達は昼を食べに蕎麦屋さんへ向かった。それは、以前見つけた「弁慶」さんだ。そこで去年の秋口に食べた「大根蕎麦」の爽やかな味わいが忘れられずにもう一度楽しもうと考えたのだった。

 しかし、結局そこで私は「大根そば」ではなくセット・メニューを注文したのだった。蕎麦屋さんのソースかつは、かつ屋さんの者とはまた違った味わいがある。うどん屋さんのカレーうどんの味が絶品であり、同じ趣をカレー専門店では出せないのと似ている。さらに「かつ丼」までいくと、これはもう蕎麦屋さんのものでなければ食べられないが、そうした状況と似ているかもしれない。蕎麦屋さんで「ソースかつ」を食べたのはこれが初めてだったのだが、ご飯の一粒まで残らず食べてしまった。それは実に、何とも表現しようのない美味しさだった。

 蕎麦屋「弁慶」さんでのセット・メニューで大きく満足したので、今回の足利行での目的の半分はすでに達成したのであるが、残った課題がまだあった。気になっていた「織姫神社(おりひめじんじゃ)」へのお参りだ。駅前の商店街である「通り三丁目」の交差点の先、織姫神社前の交差点から仰ぎ見るばかりだった山頂の神社に、今日はお参りしてみようと考えていたのであった。

 「織姫神社(おりひめじんじゃ)」は、文字通り織物の神様として、地域周辺の信仰を広く集めている。

 山頂(丘の頂上部)にある境内までは、入り口から始まって226段続く急な石段を登ることになる。でも、ご安心。急峻な石段ではなく別のハイキング・コースが山頂まで続いていて、それを歩けば石段を登らずに境内まで行くことができるのだ。普通の登山道のようなハイキング・コースでもあるが、石段の入り口にはそのルートの方が石段を登るよりも楽だと書かれている。しかし、石段を登る方が山頂までの距離が少なくて済むだろうから、その判断には悩んでしまうことだろう。
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頂上へと向かう参道 頂上へと向かう参道

 石段の段数は先に書いたとおり、入り口から境内までで226段。

 階段は途中で踊り場のような場所が幾つか設定されていて、少し広いそのエリアで一息入れることが出来る。それに、登る参拝者を励ますためにだろうか、随所に境内までの残り段数を示す標(しるべ)が建っている。例えばそれは「境内まで、あと75段」とかいった具合であって、事務的に残数を宣告するだけで励ましの言葉の一遍も書かれていない寂しいものだ。

 楽しみなのは、登ってきて途中の踊り場まで来れば、そこには狭い階段と違って一息入れるだけのちょっとしたスペースがあるので、登ってきた背面が振り返られるということになる。いままでこの急な斜面を、一体どの程度まで登ってきたのかが実感できるのは嬉しいものだ。
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頂上へと向かう参道 ここで、参道の半ば

 ところで、奥武蔵や奥多摩の山稜を歩く低山ハイキングなどは、多くは杉の植林帯の中を登る事になる。

 だから一心に頑張って登っても、周囲が見渡せない状況では、多くは自分の登った「高さ」を認識することが出来ない。展望の開けた山並みが人気があるのは、その雄大な景色や見晴るかす眺望もさることながら、登りの最中での確認行為にも関係していよう。

 誰だって山頂(目的の到達点)まであとどれほど苦行が残っているのかという事だけでなく、これまでに払ってきた努力の成果を途中で確認したいものだろう。そして、そうやって自分自身を励ましたいに決まっている。

 それに比べれば、この石段は努力を払って得られた報酬量が判り易い。自分の稼ぎ高(文字通りの「高さ」;標高)が、パソコンで表示される進捗インジケータのように極めて明快になっている。段上から振り返って確認して目の当たりにする景色や、麓や階段の下側を見た際の驚きなどが、登り進む人達の大きな励みになってくるのではなかろうか。
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境内入り口下にある蕎遊庵

「おりひめ茶屋 蕎遊庵(きょうゆうあん)」は石段の上部にある。


味のある店では石臼手挽きの美味しい手打ち蕎麦が食べられるという。
境内入り口下にある蕎遊庵

 境内の入り口の少し下には「おりひめ茶屋」があって、江戸風の美味しい蕎麦が食べられるようだ。

 その店を調べたら、そこは歴とした蕎麦屋さんで「蕎遊庵(きょうゆうあん)」という屋号だった。かの「一茶庵(いっさあん)」を足利の地で開いた蕎麦打ち名人、「片倉康雄(かたくら やすお)」氏の最後の弟子で根本さんという方がこの店を開いたのだという。同店で振舞われる蕎麦は、食べるだけでなく自分で打つ事も出来るようだ。店では定期的に蕎麦教室も開いていて、手打ちの技を手軽に教われるらしい。

 この店で石臼手挽き蕎麦を食べて、さらに山頂の蕎麦を楽しむというのも、いいかも知れない。共にきちんとした手打ちの技を持つ蕎麦で、それを堪能しての食べ比べが出来るし・・・。しかし、年配の方が織姫神社へ参詣する場合には、この石段を登るのは確かにキツかろう。そうした事もあってか、山頂の神社の直ぐ裏までは車道がある。車を使えば楽に頂上まで登ることが出来るのだ。そうして一旦境内に入ってしまえば、この蕎麦屋さんなどはほんの少し石段を降りれば良いだけになる。

 まあ、今の私としては、麓から一段づつ丁寧に石段を登ってきた上で、この店の蕎麦を食べたいものだ、と思う。でも今の私がそう思えるのは、言うまでもなく健康であるからだろう。
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境内から見た拝殿 拝殿の様子
昭和12年建造のもの。

有難い歴史感もなく、建っている拝殿。


昭和初期の、しかも戦前であれば腕の良い宮大工はいくらでも居ただろうに。
それはただの建造物に過ぎない味気ない鉄筋コンクリート製のものだ。


昭和恐慌が始まる前だろうか?

拝殿のデザインは宇治の「平等院鳳凰堂」を模したという。

 石段を登りつめた先に境内があって、そこからさらにもう一段登った場所に拝殿がある。

 平等院鳳凰堂をモデルとした拝殿は、春日大社のような大社造りを思わせ、朱色の柱が目に眩しい。本殿はこの裏にあるのだろうが、それを確認する事はできなかった。

 江戸中期の1705年(宝永2年)に住民により創建され、麓の通4丁目の八雲神社の境内に祀られていた。当時は江戸町民文化の開花時期であり、当時から地域の重要な産業であった織物物産の発展を願う素朴な祠だったのだろうと思う。

 奈良時代初期の713年(和銅6年)の文献に「足利織物」が登場すると言う。文献上に残る最古の記録と伝えられている。すでに奈良時代の初期には、大和政権によって東山道が開発され上野国(こうずけのくに)から下野国(しもつけのくに)にまで政治統制の勢力が広がっている。そうした太古の昔、前衛地域(上野や下野)への半島帰化人系の工人達の入植によって、今に続く産業の礎が築かれたのだろう。


 足利の織物産業の伝統は古いが、機の神を祀る神社の創建はずっと下った近世の江戸期。そして山頂部の神社の創建はさらに新しくて明治初頭にしか過ぎなかった。

 なお、八雲神社内に祀られていた江戸期からの古社は1879年(明治12年)に織姫山に遷座されるが、残念ながら翌年には焼失してしまう。今眼にしている社殿(拝殿)は、昭和12年の鉄筋コンクリート製。木造ではなく極めて新しい考えで社殿が建てられたわけだ。
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社務所の様子 社務所の秀麗な唐破風

社務所の秀麗な唐破風

 境内の社務所は常時開設しているようで、多くのお札やお守りが売られていた。

 参拝を明か朱印帳もあって、お参りで随所を訪れる人には嬉しかろう。その社務所から拝殿へ向かうには、さらに一段、上に登る必要が在る。

 鉄筋コンンクリート製の拝殿などよりも、むしろ古風な趣がある社務所の方が私などには数段魅力的で、惹かれるものに思える。唐破風(からはふ;入り口の屋根として突き出した部分)の様子が見事というしかなく、只の社務所にして済ませてしまうのが実に惜しい気持ちになってくる。

 そういえば、武蔵五日市にあった御岳山(みたけさん)の山頂にも古社があって、その社務所がやはり素晴らしかった。御岳山神社はその地を代表するような信仰の山で、修験道の道場でもあった。この織姫神社はどうだったのだろう。

 神社から、遊歩道のハイキングコースに入って、拝殿の裏手の斜面を登って行くと、阿不利神社(あふりじんじゃ)が祀られていた。

 阿不利神社は相模の大山が有名で、彼の地の神社(山頂の奥社)は雨乞いの神様でもあった。明治以前の山頂は、この阿不利神社だけであったように思われる。しかし、日本の神様達はどなたも懐が広く鷹揚なので、機神様も同居されていたのかもしれない。
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神楽殿 厄祓いの打ち木

 拝殿の横には、厄払いの打ち木が置かれていた。これを木槌で叩いて大きな音を出し、溜まった邪気を払うのだという。

 勿論、最近のツイテなさからすれば、私はその木を叩かずにはいられなかった。

 織姫神社の裏手に廻ると、丘を取り巻く遊歩道がある。山頂の一帯は織姫公園として手当てされていて、そこを基点として周囲を取り巻くハイキング・コースとして整備されている。

 神社から、急な石段の麓を見る。登ってきた参道だが、勿論、急なので麓のあたりは木々に覆われて良く判らない。その代わり、目の前にはパノラマが広がる。
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境内からの眺め 境内からの眺め。


山名八幡社で見たのと同様、ここでも源氏の旗印の吹流しが風になびいている。


さすがに、室町幕府の開幕者、足利一族の発祥の地だけの事はある。

 足利駅周辺の街並みは勿論、渡良瀬川の流れ行く様子も手に取るように直ぐそこに横たわる。その先の小高い丘の向こう側は太田(おおた)の街だろう。更にそこから遠方までがずっと視界の中に納まってくる。

 そうした眼下の風景も愉しんだし、もちろん肝心な参詣ももう終えたので、山頂へとさらに歩いて見ることにした。

 境内の脇に廻って進んでいって、遊歩道にはいる。山中の登山道のような通路だが充分に整備がされているので歩き辛いということは無く、暫く折れながら高度を上げて歩く進むとやがて辺りが開けて舗装道路にでた。山頂のレストランへと続く道に出たのだった。

 山頂は広い高台になっているが、そこに柵で仕切られた一郭があって、さらに小高く土が盛られていた。何だろうと思って近づくと、案内板が掲示されていてそれが古墳であることが判った。

山頂からの眺め。 山頂からの眺め
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地形図模型 周辺地形の再現模型

 山頂は、実は「機神山山頂古墳(はたがみやま さんちょうこふん)」と呼ばれる古代の墳墓であった。平地ではなくこうした丘陵の山頂部に作られた古墳というのが珍しい。全国的な事例が他のあるの緒だろうか。

 そして更に上部になる山頂には展示スペースを持ったロビーがある4階建てのビルが建っている。

 これはそのロビーにある渡良瀬川とそれを取り巻く自然の模型だ。川の左岸に突き出した尾根の突端に織姫神社の掲示が在る。
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これは、下山道としての
正式なハイキング・ルート。
正式な下山道

 十年以上前に初めてこの山頂に車を使って来た時には、たしか、山頂のレストランでは限定の手打ち蕎麦(十割蕎麦)が食べられたはずだが、他にも喫茶室が設けられていた記憶があった。それを目当てにして一休みしようと、私達は山頂へ向かった。

 今も両方の店が当時より少し小奇麗になって営業していたが、16時がオーダー・ストップであるということで早くも営業が終わるところだった。仕方が無いので、自動販売機で缶コーヒーを買って、山頂からの景色を楽しみながら涼風に吹かれる場所に陣取って休憩する事にした。
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思わぬところで「藪漕ぎ」をする

丘からの出口を振り返る。

織姫神社からの帰路という、思わぬシチュエーションで「藪漕ぎ」をする羽目に陥る。

私の下山時のミス・コースがその発端だった。
老舗の和菓子屋さん

織姫神社前交差点の角にある老舗の和菓子屋「舟定(ふなさだ)」さん。
芋羊羹が有名な店だ。

友人H氏が、芋羊羹と最中を購入。稀有の甘党の彼の談では、この店の羊羹は実に美味しいものだと言う。

 山頂で一休みして、いよいよこの雄大な展望ともお別れして、丘を降りる訳だが、相棒の友人Hは同じ道を引き返すのを好まない。

 車用の通行路を下りるという手もあるが、それでは、この織姫神社のある機神山の横手に出てしまうだろう。登り口からは大分離れる事になろう。そうした事もあってどうしようかとルートを考えていたら、丁度、お誂え向きに下山用に利用できるハイキング・コースが頂上の駐車場脇から続いていた。

 そのルートでの眺望の有無が判らなかったが、この丘はさして高度がある訳でもなく深いわけでもない。道に迷う不安もまるで無いので、私達はそのコースを降りる事にした。暫く細くくねる登山路(ハイキング・コース)を降ると、ルートは尾根筋に沿って更にかなり巻いて降り進むようだった。

 見れば樹木は杉の植林で、足元には明瞭な杣道(そまみち)が着いていた。林業など山作業で利用する40cmほどの道である。「道」と表現するよりも、それはむしろ「踏み跡」といった方がイメージし易かろう。

 作業の痕跡の無い山道で踏み跡を辿ってしまうと大変な事故になる。踏み跡の多くは迷った人達の痕跡だからだ。だから下山時に沢筋へ降ることと並んで絶対にしてはならない禁則であった。しかし、ここは人の手が入って植林(間伐)作業をした痕跡があり、100mを越えるかどうかといった甘い高度なので楽しそうなその杣道を降りることにした。

 最後の50m程は藪漕ぎに似た状態になってしまい、辿り出たのは墓地の裏手だった。何のことは無い、道は着いていたのだが、どのように考えてみてもコース・ミスを私が犯したという事になろう。
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渡良瀬川の夕陽 渡良瀬川の夕陽

<渡良瀬川(わたらせがわ)に沈む夕陽>

 渡良瀬川に掛かる渡良瀬橋の向こうに沈む夕陽の様子が素晴らしい。

 私達多くの人が一様にそう思うのは、「渡良瀬橋」の優れた歌詞を知っているからに違いない。

 川筋の遥か彼方の山陰に、次第に夕陽が沈んでいく。最初はゆるりとしたものだったが、やがてどんどん陽が落ちていってしまった。写真を撮り始めてから10秒単位でまるで様子が移り変わって行くので、なかなか巧く夕焼けの様子が撮影できない。

 この3枚はそうして写した中のもので、それぞれがおよそ10秒間隔ほどだろうか。都合20数枚を撮影したが満足のいくものは少なかった。優秀な機種とはいえ、やはりコンパクトカメラのオート撮影では、こうした被写体を追うにはなかなかに難しいようだ。無限遠のピントでセットし、露出具合を見て、マニュアルで撮影するしかないようだ。

渡良瀬川の夕陽 夕焼けに染まる
「渡良瀬橋」
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<本日の残念  ハシゴの蕎麦を食べ損なう 「一茶庵(いっさあん)」>

 名人として名高く、蕎麦打ち職人「片倉康雄(かたくら やすお)」名人の技を慕って志のある多くの職人達が日参し、「足利詣で」の言葉が生まれたという伝統の名店が「一茶庵」。

 蕎麦屋のハシゴで、織姫神社から降りてきた後に消防署裏手の店に行ったが、すでに「本日の蕎麦はすべて終わりました。」の看板が出ていて、店の入り口は閉じられていた。昼の早い時間で無いと、食べることは難しいようだ。

 「暖簾にかまけているだけで、大した事は無い」との批判も聞く事のある伝説の名店だが、店に入って食べてみた上で無いと、噂話や評判の真偽の程は判らない。是非、確認したかったのだが、残念なことである。

名店、一茶庵 「片倉康雄(かたくら やすお)」氏は伝説的な蕎麦打ちの名人だ。

新宿で繁盛していた店を畳んで、足利の地で商売を始めた。

その技を慕って多くの職人が弟子に入り、地方都市に過ぎない足利の街へと日参したという。


蕎麦打ち名人の店「一茶庵(いっさあん)」はその弟子や係留の多さから、砂場(すなば)、藪(やぶ)、更級(さらしな)の三大蕎麦の流れのように、「一茶庵」系と呼ばれるひとつの広がりを見せている。
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弁慶さんの家族向けメニュー ソースかつ丼のセット(足利、弁慶さん)

「ソースかつ丼」のセット。
ソースかつ丼ともり蕎麦、それに小鉢に盛られた大根の酢の物が供される。

<本日の旨いもの1  蕎麦をハシゴする 弁慶の「もり蕎麦」と「ソースかつ丼」>

 弁慶さんにランチ時間中に行けばセット・メニューが注文できる。

 蕎麦だけでなく、各種の丼ものを合わせてお願いできるのだ。しかもランチ向けの低価格で。このソースかつ丼ともり蕎麦のセットも、そうしたランチのおすすめメニューのひとつだった。

 価格は何と1180円。これだけのボリュームと味である。満足に思わない客はまずいないだろう。

 それに、この店の女将さんの接客態度が良くて、いつも気分良く食事が出来て、しかもゆったりとした温かい気分に浸って店を出ることが出来る。なんとも心の行き届いた店なのだった。

 実は私達が去年の秋に来たことを覚えていたようで、今度は2本持っていって下さい、とお子様客用の「ペコちゃんキャンディー」を下さった。客冥利に尽きるというか、実に有難いことである。
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ソースかつ丼のセット(足利、弁慶さん)

 駅前から伸びる「グランド通り」を北へと向かって進みグランドで突き当たりになるが、それを右折して体育館前の交差点を今度は左折して北上を続ける。

 やがて内田橋西の交差点が現れるので、そこで左折した50mほど先に、目的の蕎麦屋「弁慶」さんがある。

 以前はたまたまこの店を見つけて大喜びした訳だが、今回は昼食にあぶれた広沢からここに来店することを目標にしてきたのだった。到着したのは15時少し過ぎなので、今回はなんとか昼の営業には間に合ったようだ。

 昼の営業時間帯にはセットメニューがあるが、眺めていたらソースかつ丼が書かれているのを発見した。しかももり蕎麦とのセットで僅かに1180円という低価格の嬉しい設定がされている。広沢のかつ屋さんは何を隠そうソースかつが実に美味しい店だったので、本当はその店を見つけて懐かしいソースかつを食べたいと思っていたのだ。


 実家では母の手料理のオハコのひとつだった。どうも、ソースかつ丼やソースかつ重は、前橋や桐生での名物のようで、他所では余り見かけない。私は大間々あたりがそのはづ発祥なのではと考えている。しかし、山梨にもソースかつはあるようで、油断がならない。

 正統派はヒレカツを使うようだが、私は厚めのロースかつを一口サイズにして仕立てたものが好きだ。

 ソースを甘辛く味付けして、揚げたてのカツをそれに浸して味をつける。時にキャベツの千切りがご飯の間に敷かれた店もあるが、その仕様も許されよう。カツの脇を取り囲んで千切りキャベツが置かれた状態がプレーンなものだろうか。様子としては名古屋の「みそカツ」と似ているが、それとは根本的に違っていて、前橋や桐生のものではソースに味噌は入れない。

 本当は、弁慶さんでさっぱりとした逸品の大根蕎麦を食べようと考えていたのだが、それが記されたメニューを見てしまってはもういけなかった。
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ソースかつ丼のセット(足利、弁慶さん) ソースかつ丼のセット(足利、弁慶さん)

 「ソースかつ」でまずイメージされるのは、メンチのような丸い揚げ姿だろう。

 だから、最初にこの店のかつの在り様を見て、少し驚いてしまった。しかし、ソースの具合は間違いなくソースかつはこうあるべきという、まさに思い描いた通りの味だった。

 桐生の広沢で目当てにしていたかつ屋さんを見つけられず、探し出すその少し前から、要するに阿左美(あざみ)の踏み切りを越えたあたりから、もうすっかり受け入れ準備を始めていて、まったくのところ私の中ではソースかつ体制を整えていたのだ。だから、もし、弁慶さんの出すソースかつがイメージとずれていたら、大分がっかりとしたことだろう。

 形は前橋や桐生仕様の円形ではなかったが、ジューシーな厚手のかつの揚げ具合も、衣に沁みた甘辛いソースの味も、そしてご飯の表層に沁みたソースのコクも、充分に形状の欠点を補った美味しいものだった。
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弁慶さんのメニュー 大根そば(足利、弁慶さん)

 こちらは友人Hが注文した「大根そば」。

 大根が醸し出す歯ざわりや食感が素晴らしい。

 千切りのように薄く切られた瑞々しい大根が蕎麦に混ぜられている。おろし大根が添えられていたり、刻んだ大根が蕎麦の上に盛られている、という「蕎麦+大根」という訳ではない。蕎麦と大根が同じ太さで仕立てられて共にあるので、大根がそこにある違和感がまるで無い。

 おろした大根も大好きなのだが、この涼味や爽やかさはまた堪らないものがある。

<本日の旨いもの1  蕎麦をハシゴする 弁慶さんの「大根蕎麦」>

 最初にこの店を見つけた時に気になって注文したのが、「大根そば」。そのときは大根が丁度走りといえる秋の終わりであった。

 今の時期にも大根は収穫されるが、本来は冬の野菜。だから、あの時の感動を伴った食感は無いものと私は考えた。しかし、友人Hは敢えて正攻法で、迷う事無く、いや実際には迷った揚句だったのだが、ストレートに「大根そば」で攻めてきた。さすが、と言えよう。

 その注文で私は思ったのだが、やはり途中で何かを食べさせてあげれば良かったかも知れない。多分、長時間のライドでの疲れとのどの渇きで食欲がわかないのに違いない。小休止が2回、しかもいずれも5分程度で3時間近くを走らせたのは気の毒だったかも知れないと、反省の思いで一杯だ。
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第一立花さん 第一立花さんのメニュー

<本日の旨いもの2  蕎麦をハシゴする 第一立花さんの「もり蕎麦」>

 織姫神社に参詣し、ちょっとした山歩きを楽しんで、渡良瀬川の岸辺に降りて川面の景色と、沈み行く夕陽を堪能した。

 これでもう充分に愉しんだので、もう帰ってしまっても良いところなのだが、まだ遅い時間ではない。そこで足利にいることでもあるし、一茶庵は取り逃がしてしまったけれど、折角なのでもう一軒の行き付けの蕎麦屋さんへ行ってみることにした。

 何回かお邪魔している、駅前に続く通り沿いにある「第一立花」さんである。
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もりそば(足利、第一立花さん)

 私の方は普通のもり蕎麦。
ネギトロ丼ともりそばのセット(足利、第一立花さん)

 友人H、期待の一品。ネギトロ丼ともりそばのセット。

 この店は昔ながらの生粋の蕎麦屋であって、この店の細打ちの繊細な蕎麦とどちらかといえば濃厚な感じの香りのある出汁の、その双方が私は気に入っているというわけだ。私は普通の「もり蕎麦」を友人Hは「ネギトロ丼のセット」を注文した。これが実にリーズナブルで昼ではなく夕方時には良いメニューだった。


 今日は、午前中から日中の日差しの強い時間を走って少し疲れたようだ。いつにも増して九・一で打たれた蕎麦が旨い。ニ段盛りになっているので、下の段の蕎麦は上を食べ終わるまでは乾燥しないでおけるのが有難い。のんびりと手繰って蕎麦の喉越しを楽しむことにしよう。今日は冷たい蕎麦が、ことに心地よい。
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