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オーディオ : FMラジオとの出会い
オーディオへの夜明け

<ステレオがやって来た −コンポーネント以前>

 家にステレオがやってきたのは、小学2年生の頃だったか、あるいはそれより前の事だったか、実は、はっきりとは思い出せない。確かにそれは、カラー・テレビがやって来た時と同様の、我が家にとっての大事件だったのだが・・・。

 ステレオは、シャープ製のサイドボードのような形状の、大型のものだった。「華厳(けごん)」という今からでは考えられないような凄まじいモデル名が付いた木製ボディの大型家具だった。勿論、真空管製であり、暫く鳴らしていると天板など木製なのに辺りが熱くなった。カラーテレビも回路は真空管だった。同じくシャープ製の家具調のもので、やはりすごい名前がついていたように思う。(ちょっと、思い出せないのが残念だ。)

 そのステレオは幅が2m近くあり、両側がスピーカー部になっていた。その中央の観音開きのドアを開けると内部に自動で明かりが点灯する。そこにはレコード用のターンテーブルがあり、その上部にアルミ・パネルのレシーバ部が組み込まれていた。

 銀色に輝くパネルには、ボリュームやトーン・コントロールや入力切替などのいくつものつまみと、少し離れてラジオのチューニング用とボリューム調整用の大型のダイヤルがあった。ダイヤル(チューニング用のつまみ)はゆっくりと回り、適度にトルクがあって、私はそれを操作するのが好きだった。

 母のレコードをかけると、両サイドのスピーカーからは豊かな低音が響いた。ニニ・ロッソがトランペットで「太陽がいっぱい」とか「慕情」とか「ブーベの恋人」とかの映画音楽の名曲を演奏していた。好きだったのでそのLPは良く聴いた。我が家ではLPレコードのことを「大盤(おおばん)」と呼んでいた。

 日曜日の午前中は、私がコーヒーを淹れる係りになっていて、そのときに音楽を良く聴いたものだ。MJBの緑缶から大きなカレー用スプーン(後にきちんとしたメジャーに変わるが)ですくってネル袋の半分までいれる。ちなみに、スプーン一杯分多めに入れるのがコツだ。やかんから熱いお湯をホーローのポットに乗せたネル袋の中のコーヒーへと注ぐ。最初、少し湿らす程度に注いで、一息入れてからあとはゆっくりと注ぐのだ。それが終わると「大盤でも、掛けるか」ということになる。3年生位から小学生の間続いた休日の習慣であった。(中学2年生くらいから次第に「大盤でも・・・」という機会はなくなってしまったように思う。)

 他にニニ・ロッソの「夜明けのトランペット」やプラターズの「オンリーユー」などのドーナツ盤もあり、学校から帰ってくると、勝手に袋から引っ張り出して一人で聴いていた。一緒にレコード・スタンドに入っていた都はるみや森真一などは、どうも好きにはなれずに余り聞いたことがなかった。しかし、不思議なことに美空ひばりさんの「真っ赤な太陽」や「悲しい酒」、青江三奈さんの「伊勢佐木町ブルース」などのドーナツ盤は自分で掛けて良く聴いた覚えがある。

 こうしてソウルフルなバラード路線という嗜好が培われていったのだと思う。

<オーディオへの夜明け>

 ソノ・シートではなく楽曲のレコードを自分の小使いで買うようになるのは、もう少し後、中学生になってからのことだ。

 「ソノ・シート」とは物語のブックレットとセットになったペラペラのシート状のレコードで、音楽ではなく物語りが収録されている。ペギラ来襲の「ウルトラQ」、バルタン星人が登場する「ウルトラマン」、大鴉が暴れる「悪魔君」、ストーリーは忘れてしまったが「カッパの三平」、他にも色々あって、それらはお年玉で買ったものだ。(なぜか長嶋茂雄の引退式の録音のソノシートもあった。)


 同じ頃から、ラジオも良く聴くようになっていった。アンテナを装備していない状態でも良く聞くことができたAM放送だ。前橋では関東のキー局の放送が何局か入ったが、TBSだけが時間帯に関係なくいつでも綺麗に聞けた。

 春・夏・冬の休みの時期や風邪で休んだ時に聞いた大沢悠里さんの「悠々ワイド」や、学校から帰ってスイッチを入れると流れてきた愛川欽也(キンキン)さんの帯番組の「それ行け、歌謡曲」はよく聴いた。投書と共に書かれたリクエスト曲が掛かるが、キンキンの番組では「電話リクエスト」があったように思う。太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」や野口五郎さんの「私鉄沿線」などの歌謡曲や、ヒットしていたポップスなど、特に流される音楽に方向性はなく、盛り沢山であった。

 よくBGMで利用されたラブ・アンリミテット・オーケストラの「愛のテーマ」や、フィフス・ディメンションの「輝く星座」「UP UP AND AWAY」、ロバータ・フラックの名曲「やさしく歌って」などが盛んに流されていた。私が始めて買ったドーナツ盤はラジオで聞いて気に入ったそれらのシングルレコードだ。その後、フィフス・ディメンションからデュエットとなって独立するマリリン・マックーの「星空の二人」は今でも大好きな曲だ。

 ラジオの向こう側には、ちょっと大人の世界が広がっていた。
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<初めての夜なべ>

 中学1年の頃、高校生の兄貴を持つちょっと発展家の友人から「深夜放送って、知っているか?」と言われた。

 当時の私は21時を過ぎればほぼ布団に入り、遅くても22時には寝ていたので、『深夜』など思いもよらないものであった。人目を忍んだ夜中、ラジオからはとても面白い番組が流れるらしいのだ。友人が教えてくれた、イルカの「オールナイト・ニッポン」は、何度目かの必死の試みでやっと聞くことが出来た。(初めの頃は、「オールナイト・ニッポン」の後半部だったので、放送開始は午前3時に開始される。深夜というより「明け方」に近かった。)

 午後から夕方までの番組から夕食後の番組へと、学年が進む毎にラジオを聴く時間帯が移っていった。21時台のTBSでは「ミステリー・ゾーン」という不思議で怖いラジオドラマ(連続ではなく一日一話の完結だったと思う)をやっていて、夢中で聴いた。アメリカの同名のテレビドラマ(後に映画シリーズ化される)とは無関係だが、扱う世界はほぼ同じで、日常の一瞬が崩れて異空間・異次元へ迷い込んでしまうといったストーリー展開が多かった。星信一のショートショートをもっと怖くしたような、阿刀田高や都築道夫の短編小説のような内容だ。

 試験勉強で遅くまで起きているようになった中学2年生の頃だったと思う。大石悟郎さんがパーソナリティをしていたヤマハ提供の「コッキー・ポップ」や、その後の風耕土さんのラジオ・エッセイの遅い帯番組をいつの間にか毎日聞くようになっていた。

 アマチュアの登竜門だったヤマハ・ポップ・コン(ポピュラー・コンテスト)の紹介が主だった「コッキー・ポップ」で中島みゆきさんの歌う「時代」が毎日流れていた頃だ。パーソナリティの語りと共に流れる「ニュー・ミュージック」は楽しい世界だった。中学生になりたての頃、友人に聞かされた「フォークソング」の井上揚水や吉田拓郎、かぐや姫(かぐや姫はどちらかといえば明るい曲が多かった)とは、また違った明るさのようなものが、その流れにはあった。

 中学3年生の頃になると、番組を聴くことはもう生活の大切な一部になっていた。

 週末は思う存分遅くまで起きていられたが、テレビでは「ソウル・トレイン」やトレーラーハウスで暮らす味のある探偵が活躍するドラマの「ロックフォードの事件メモ」が放送されていた。その後のDISCOファッションをリードするJUN(ブランドはJUNとLOPE)が提供していたのが「ソウル・トレイン」で、その後SEIKOが提供していたのが「事件メモ」だ。いや順番は逆だったかも知れない。この番組の流れとそこで流れるセンスのいいコマーシャルが大好きで、私はそれらの熱心なファンであった。スリー・ディグリースが歌うテーマソングが気に入ってレコードを買ったりした。

 毎週欠かさず観ていたソウル・トレインでのダンスやディスコ音楽も良かったが、月に一度ライブで流れる特番コーナーが好きだった。今でも最高の名曲だと思うが、ミニー・リパートンの「LOVING YOU」や、その後もずっと夢中になるジャニス・イアンの「17歳の頃」、ヘレン・レディの「I AM WOMAN」や「デルタの夜明け」などが日本に紹介され放送されたのが、私の記憶にも焼き付いているこの番組でのライブで、だったのだ。

FMラジオとの出会い-オーディオに目覚める へ続く
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