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オーディオ : FMラジオとの出会い
オーディオに目覚める

<オーディオに目覚める>

 女友達の同級生の従兄弟がオーディオマニアで、遊びに行った時に『FMレコパル』の十何冊を気前よく呉れた。

 私が、その兄さんに弟子入りしたためだ。今調べてみると、FMレコパルの創刊は74年なので、創刊号からの一年分だったのだろう。FM放送の番組ガイドとオーディオ、音楽の豊富な情報誌だった。保存して置けばよかったが今では手元に無い。だから記憶だけになってしまうが、「くろがねヒロシ」さん他が書いていた有名な音楽家−ベートーベンやサティ、ビートルズ、ジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトン−を題材にした漫画が連載されていた。

 その人は友達の家のすぐ横にある別棟のアパートに住んで居て、最初に訪れた時には友達も一緒だった。二回目からは友達を抜きにして、勝手に遊びにいったものだ。お兄さんの部屋には、オープン・リールや8トラックのテープデッキ、多素子のアンテナを建てたFMチューナー、単体のアンプなど、少年を夢中にさせる機械がいっぱいに置かれていた。聞く話も面白く、よく遊びに行ったものだ。映画音楽のLPレコードを聞かせてもらったり、時間によっては果てしない遠くから運ばれる短波放送を聞かせてもらったり、また、それらの海外放送局(オーストラリアやバチカン、イギリスなど)から送られた日本語放送の受信証明証「ベリ・カード」を見せてもらったり、その部屋は世界に繋がる窓であった。

 大分可愛がって貰ったが、幼馴染の同級生に好きな男子が出来て、しばらくするとなんだか遊びに行くのが憚られて次第に疎遠になってしまった。保育園と小学校の低学年の頃は異性という意識はなくて毎日のように遊んでいたのだが、さすがに中学3年ともなると何度も遊びに行くのも何だし、変に遠慮をしてしまったのだ。

 フィーダー線の簡易アンテナを繋げば、コンポでない我が家のステレオでも音の良いFM放送が聴ける。その話をしながら兄さんがくれたのが、T字型のコードだった。飛ぶように家へ帰って、ステレオの背面を見ると、そこには接続用の二個のネジがあった。早速繋ぐと、ステレオからはAMラジオとはまったく違った、恐ろしくクリアーな音が聴こえてきた。

 それ程ノイズの無いクリアーな受信が僅かコードを足しただけで出来るのだ。これなら、レコードなんて買わなくても良いではないか、というのがそのときの正直な感想だ。

 また、一枚、新しい世界のドアが開かれたのだった。

 そうして新たに獲得した『FM放送』を楽しんでいるうちに、背面のフィーダー線の接続端子の横には、さらに見たことの無いコネクタージャックがあることに気がついた。そこには<DIN>と書かれていた。

 前橋の市街地(17号沿いにあった前三デパートの前にあって、店名は残念だが忘れてしまった)にある一番大きな電気店のオーディオコーナーへ出掛けて、いつもパンフレットだけを貰っていた店員さんに質問してみた。そして、それが、ケーブル接続の規格の一つであることが判ったのだ。

 小さな語学練習用のカセットテープレコーダをスピーカーの前におき、息を詰めて録音する必要は無かったのだ。ケーブルで繋げば話し声や物音などの雑音が混じる事無く、FMから流れるままの明瞭さで音楽が録音できる。

 まさに、目からウロコの体験だった。
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<FMを聴く>

 私にとっての『ラジオの時間』は、実に多彩な世界だった。

 当時のFM放送は、AM放送とは一線を画す様な洗練された大人の雰囲気に溢れていた。そこには品のよさがあり「おしゃれさ」というか、悪く言えば「都会的なよそよそしさ」、スノッブといったものがあった。直ぐ傍のスピーカーから、投書者や悩める電話の主だけを対象にして、たった一人のリスナーのために語りかけるAMのパーソナリティとは全く異なるアプローチでその世界は構成されていた。

 音楽番組では、曲に言葉を重ねる野暮さはなく、途中で挟まれるコマーシャルも番組の雰囲気を大切にしていて、いずれもがウィットに富んでいた。


 中学3年生の頃、狭い我が家を出て祖母の家でしばらく暮らしたことがある。高校受験に専念するためだった。

 祖母の家は古い大きな農家だったが、その奥の一間が私に与えられた。江戸間の八畳で、夏は涼しくて助かったが冬場はかなり冷え込んだ。朝は母屋を出て長屋門のところにある水道へ洗顔に行かねばならず、当時の私からすればかなり修行的な生活だった。風呂は母屋の中の、土間を挟んだ東側にある作番頭用の小部屋や厩や農機具置き場だった場所にあったから、そこで洗顔できたはずなのだが、何故、外で歯磨きをしていたのだろう。今にして思えば不思議な気がする。

 「勉強に専念するため」が祖母の家で生活する目的だったので、当然、そこにはステレオや音楽は無かったし、テレビは夕方に再放送されていた伯父の好きだった水戸黄門を茶の間で見るだけになってしまった。夜中、皆が寝静まってから起き出して「ウィークエンダー」「ソウル・トレイン」「ロックフォードの事件メモ」などをこっそりと見ていた。

 そうした私を思ってか、やさしい伯父がソニーの高感度ラジオを使わせてくれた。そのラジオで、深夜、イヤホンを挿して音楽番組を良く聴いたものだった。

<エアー・チェック>

 AIWAの水平型カセットデッキ AD−5310を高校受験の合格の祝いとして買ってもらい、禁欲生活の反動もあって音楽番組を手当たり次第に録音する毎日が訪れた。AIWAのデッキは、カセットをセットするためのパネルがコンソール状の水平面にあり、そこにスライド式のボリュームツマミなどを装備したモデルで、随分と恰好が良かった。

 高校1年生の秋に家を新築し、早速フィーダー線から本格的な八素子のFMアンテナを屋根に建てた。八木アンテナか日本アンテナか、はたまたDXアンテナだったかはもう忘れてしまったが、それは優に畳2枚分ほどもある巨大なものだった。高利得が得られて、遠く「FM横浜」やアンテナの向きを変えて「FM水戸」や「FM長野」などの関東周辺のNHKのローカル局が入った。今と違って民報局は「FM東京」しか無かった素朴な時代の事だ。

 高校2年生になると、音楽を聴くステレオも、自分専用のヤマハのコンポに変わった。こうして音楽に囲まれた生活はさらに深いものになっていった。

 日曜の早朝から高崎まで行ってゴルフ場でキャディのアルバイトを始めていたので、土曜の晩は遅くまで起きていると辛かったが、生憎と土曜の晩に好きな番組が多かった。中学のときの同級生が勧めてくれたキャディのバイトは当時の高校生のバイト料としては途轍もなく高額だったので、そのお金でオーディオ用のタイマーやLPレコード、録音用のカセットテープ(これが結構高価だった)、流行の洋服など、沢山のものを買った。

 ゴルフ場があったのは、高崎の山向こう(安中側)になる。家は前橋の南部にあったので、前橋からと言っても近い部類なのだが、それでも片道で15km以上の遠い距離だったと思う。早朝から自転車を漕いでいって、ゴルフ場の直前に山道となってそこを息を切らせながら登らなければ仕事にならない。そして最初農地に使えたのはは手押しカートだ(学生のアルバイトはここから修行して昇格していくのがルールだった)。後でゴルフのルールやマナーなどの試験に通って電動カートに昇格になったが、手押しカートでのキャディは体力的には辛かった。ゴルフバックを4個積んで、コースをガイドする。私が通っていたゴルフ場は72ホールの大きなもので、山岳コースの36ホールが受け持ちであった。8時30分から9時スタートで16時か16時30分上がり、1.5ラウンド(27ホール)が平均量だった。

 たまに電話で土曜日にも来て欲しいと連絡が入ったりする。そんな週は土曜・日曜と連続になる。一日のアルバイト料が8000円、夏季、雨期、重量加算などが付くと一万円を越える時もある。70年代半ばといえば今から数十年も前なので、この金額は大きかった。ひどく疲れたが、帰りの高崎の街での買い物と、スパゲッティやピザを寄り道して食べたりしたので、意外に月曜日には回復して平気だった。高校生の頃の私はすごく健康であり、今からは想像できないような体力が溢れていたのだ。しかし、それは、バトミントン部で陸上部以上に走り込んだり、夜は近所の小学校の体育館を会場とした市民サークルで週2回、さらに群馬大学のバトミントン部の夜間練習にも参加したりで、放課後の部活だけでなくその後の夜まで鍛えていたから出来た荒行だろう。

 ただし、続けていたのは1年生の夏の終わりから、2年生の夏までの間だけだった。それ以降は、休日をフルに潰してのバイトなどは出来ない状況だった。
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 夜のNHK−FMでは、油井正一さんのJAZZ番組やクロスオーバー・イレブン、唯一の民放であるFM東京では「ほんじゃま、アディオス」で終わる高木麻早さんの番組、ライブが楽しみだったブラバス(資生堂の男性化粧品ブランド)提供の「渡辺貞夫・マイ・ディア・ライフ」、城達也さんのナレーションが大好きでまだ見ぬ遠い世界への憧れを掻き立てられた「ジェット・ストリーム」などを欠かさずに聴いていた。

 その後の生活の一部となって溶け込んで、長い付き合いになった素晴らしい番組が、当時のFM放送にはいっぱいだった。

 ヤマハのコンポでは、フォークも良く聴いたが、映画音楽やPOPSを中心に楽しんでいた。

 ジャニス・イアンの「17歳の頃」からの一連のLPや、ヘレン・レディ、カーリー・サイモンなどの女性ボーカルが私の対象の主だったミュージシャンだったが、ハートやクイーン、イーグルスなどグループも良く聴いた。レッドツェッペリンやキング・クリムゾン、日本ではクリエイションなどは友人から借りて聴いた。しかし、LPを買うほどではなかったので、ロックが好き、というわけではなかったようだ。

 FMでは、ポップスベストxxというようなリクエスト番組が流れていた。ビルボードのランキングだったり、独自のリクエストランキングだったり、さまざまだ。土曜日はそうした番組があるので、エア・チェックの日で、当時の私は、流れる曲をむさぼるようにカセットに録音していたのだった。

JAZZとの出会い  へ続く
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