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オーディオ : ALL THAT JAZZ


<JAZZ その1  −エラ・フィッツジェラルド>

 エラ・フィッツジェラルドの長い長いスキャットによる「ワンノート・サンバ」(アントニオカルロス・ジョビン作曲のボサ・ノバの名曲)を聞いたのは、電気屋さんのオーディオコーナーで、中学3年生の頃だった。

 「なに、これっ」と思った。

 こんな歌い方もあるのだな、と思ったのだ。それは、今までの歌の概念をまるで笑うように吹き飛ばされた鮮烈な体験で、同じ感じは、後にルイ・アームストロングの歌を聞くまで味わったことが無いものだった。(彼が歌い上げるチャーミングな名曲、「What a wonderful World」 は スタンダード中の名曲なので、聴かれた方も多いだろう)

 JAZZは、いい。

 先日、両方の曲を改めて聴いてみた。私のような中年親父には、実に心に浸みる、味のあるものと改めて思った。もう、両方とも歌ではない。それぞれが「物語り」になっているではないか。少年の頃にこれらの曲に出会い震えた心は、やはり確かなものだった。それが蘇って、さらに今の私の中に改めて豊かなものが広がった。


 90年にボニー・レイットが「ニック・オブ・タイム」という素敵なアルバムでグラミー賞を受賞した。

 ベース・ギターの名手でロックもカントリーもR&Bも、つまりはアメリカのソウルをセンスよくこなす多彩なおば様。私は彼女の熱心なファンだ。だから、あきれるほど何枚もCDを持っている。

 その彼女がグラミー賞にノミネートされていたので注目してテレビを見ていたら、画面に現れたプレゼンター役がエラ・フィッツッジェラルドだったのだ。即興でナタリー・コール(ナット・キング・コールのお嬢さん)と一緒に見事なスキャットの掛け合いを演じた。わずか2分にも満たないものだったが、それはとてもすばらしい歌だった。

 テレビに映った「エラおばさん」は、以前の三分の一ほどの小さな体格になってしまったし、丸かった顔にも無数の皺が刻まれていた。厚い老眼鏡を掛けて、受賞者の名前が書かれた封筒を上手く開けられず少し手間取りながら読む姿は可愛らしくもあった。

 要するに彼女はすっかり普通のおばあさんになっていたわけだが、現役のナタリーとの掛け合い、リズムの取り方や歌声は鮮やかで、往年のステージを見ているようだった。

 そこで見たのは、充分な艶と円やかさであり、ビンテージもののワインのような、まさに「円熟」の世界がそこにあった。
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<JAZZ その2  −音楽を聴く>

 中学1年生のときに簡単な電子工作をした。Cdsという受光素子を利用して抵抗値を変えて発信が変わる、という仕組みのものだ。日光が当たると抵抗値が変わって鳥の鳴き声の発振が活発になる、「目覚まし鳥」の工作だ。

 前橋の市街地にはパーツ屋さんがあり、ケースや抵抗、ダイオードやトランジスタなどの電子部品が手に入った。友人に半田ごてを借りての帰り道、公園で一休みしていたら、そこにジャズが流れてきたのだ。

 クラリネットの音で、いまから思えばベニー・グットマンのようだった。夏の夕暮れに、妙にしっくり来る音だった。多分、その曲は「ムーンライトセレナーデ」か何かだったと思うが、今では実は判然としない。

 夕暮れの公園で聞いたその曲で、私はいっぺんにJAZZが好きになってしまった。


 高校3年生の時だったと思うが、前橋の老舗JAZZ喫茶「ダウン・ビート」で「ジョン・コルトレーン」や「ケニー・ドリュー」を初めて聞いた。それも鮮烈な印象だった。

 大学生になると、高田馬場の中古LP屋に通って、ジャズの名盤を月に2枚3枚と買った。主には「スイング・ジャーナル」の推薦LP、ゴールド・ディスクの中古盤だ。そのころは後に訪れる「狂乱のバブル景気」が想像できないほどゆったりとした時代で、地代もまだ安く、各地にあったライブハウスも活発にステージを企画していた。

 だから、貧乏学生の身分でも新宿や渋谷や高円寺のライブ・ハウスへ行って生演奏も楽しめ、チャージとしてはワンドリンク付きで3000円から一番高くても5000円ほどだった。

 入学とほぼ同時にアルバイトを始めていたが、高校時代にやったキャディのアルバイトほどの高額ではなく、時給は確か400円程だったように思う。日に一万円近く貰えたキャディとは比較にならない値段であって、だからライブなどは半年に一度位行くのがせいぜいだった。

 渋谷の映画館を会場にした「オールナイト・ジャズ」には毎年(学生から社会人になっての6年間)通った。31日の19時半に開演して元日の明け方、早朝の5時台に引けたと思う。そこには、ピアノの山下洋輔さん、サックスの坂田明(さかた・あきら)さん、ギターの渡辺香津美(わたなべ・かずみ)さん、サックスの清水靖晃(しみず・やすあき)さん、トロンボーンの向井滋春(むかい・しげはる)さん、ボーカルの大野エリさん、などそうそうたる顔ぶれが登場していた。


 そういえば、青かった学生の頃は、自分を高めようと超えるべきハードルとしてのいろいろな目標とする数字(自分へのノルマ)を設定していた。

 週一本のネガ写真の撮影、月に2回の映画、などがそれだ。ネガフィルムやプリントは今ほどは安くなかったので多くは現像のみであり、プリントまで出来るのはほんのたまにのことだった。映画は、当時は500円で3本立てが観られるいわゆる名画座と呼ばれた上映館が各所にあった。私が通っていたのは、設備が綺麗だった五反田の映画館だ。ロード・ショーではなく評判となった少し古い名画が、企画的に3本組まれて一週間くらいで切り替わるシステムだった。たとえば、ペーパー・チェイス・卒業・ほかの「青春映画三本立て」などという具合だ。

 情報誌の「ぴあ」を回し読みしては、さて次は何を観るか、どこに聴きにいくか、とチェックして浮き立つような気分で楽しんだものだ。

 私がいたアパートは6畳の和室と3畳ほどの台所の狭い状態(風呂なし、トイレ・玄関は共同)だったので、ステレオのボリュームはいつも最小近くに絞った状態を余儀なくされていた。そのため、時に大音量の音楽が聞きたくなって、御茶ノ水の「響(ひびき)」に行って、LPのリクエストをしたりした。JAZZZ喫茶で飲むコーヒー代は学生の一食分の値段を軽々と越えていたが、それも苦にならなかった。

 今思えば、そうした世界は夢のような「文化的な生活」だった。


 大学生になってから、それまでの自分の生活を反省して、私はささやかな目標を立てた。先の趣味関連に対する数字もそうだが、どんな本でも良い、「小説」でも「新書(論文)」でも何でも良いので年間100冊、学生の間に400冊を読もう、というのもその目標の一つだ。生協で買ったスチール製の90x180の本棚が2個、一杯になってほぼ自ら設定した目標は達成できた。

 読書と言えば、月に3・4冊程度、映画はケーブルテレビが主でロードショウは年2回ほど、新婦のCDは4ヶ月に1枚買うかどうか、さらにライブやステージにはもう10年も足を運んでいない現状だ。

 人間、「文化」から一度離れれば、実にあっけないものだと思う。
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<JAZZ その3 −渡辺 貞夫さんの番組 (マイ・ディア・ライフ)>

 高校生のころ、欠かさず聴いていた「渡辺貞夫、マイ・ディア・ライフ」は、<ナベサダ>こと渡辺貞夫(わたなべ さだお)さんのライブ(コンサートのライブ録音)を中心に構成された深夜の番組だった。

 丁度「フュージョン」が流行し始めたころで、放送で流されるのも「カルフォルニア・シャワー」といったPOPな曲が多かった。確かにJAZZなのだが、どちらかと言えば明るくて軽めの曲調だ。

 テナー・サックスの宮沢昭(みやざわ・あきら;00年07月逝去)さんやドラムスの富樫雅彦(とがし・まさひこ;07年08月逝去)さん、ピアノの山下洋輔(やました・ようすけ)さんなどから比べると、ずっと親しみ易く、初心者には打ってつけの曲相が多かった。

 小林克也さんが渋くナレーションをする、その番組を何度も聴くうちに、はじめは聞こえなかった音が、だんだん判るようになっていった。私は音符が読めないけれど、散りばめられた音の点が聴こえるようになったのだ。

 後にサックスの巨匠チャーリー・パーカーも青くなるような彼の筆頭名盤といえる「パーカーズ・ムード」を聴いたとき、渡辺貞夫さんの音楽の確かな奥深さが判った。
 
 最初に感じた「軽さ」は、サンバやボサ・ノバ、アフリカン・ミュージックに傾倒していたための、渡辺さんの豊かな音楽性のひとつのバリエーションなのだった。

 後にして思えば、トロンボーンの向井滋春さんやビッグバンドの松岡直也(まつおか・なおや)さんなど、当時流行し始めたフュージョンの旗手達とは少し違う性質のものなのだが、私はしばらく「ナベサダ」の音楽を同じもののように捉えていたのだった。


 ここに揚げたジャズメンの演奏、実に幸運なことに素晴らしいプレーをみな、生演奏で聴いている。たたし、渡辺貞夫さんだけが例外で、本人を見たことはあるが未だに演奏は聴いていない。考えれば残念なことだ。


私のお気に入り へ続きます。
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