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2012.12.07
与野 さいたま新都心を散歩する

カメラ;
 RICOH GR−DV 28mm F1.9
 iPhone 4S(「ケヤキ広場」でのあんこうフェアの様子)  (画像添付時に約30%程度に圧縮)


 確か、11月の最終週だったと思うが、さいたま新都心の「けやき広場」をはじめとして駅コンコースや各施設など、その時期になると例年のように壮麗にイルミネーションが飾られる。

 「さいたま新都心」の駅開きはおよそ10年ほど前だったと思うが、その駅へのアプローチが立派な施設として開放されていて、2階の人工地盤上のケヤキの樹林やウッドデッキの「プラザ1」など、多くの広場が設えられている。そのケヤキの樹林にLEDの光が燈ったのは確か駅開きから2年ほど経ってからの事だったろうか。

 最初の年、枝を飾っていたのは青色のイルミネーションのみだった様に思うが、青色LEDが評判になって直ぐにさらに開発が進んだようで、様々な色が着いた。今では複数の色を発するLEDで紅葉した葉の落ちた後のケヤキの木々美しく飾られる。

プラザ1のツリー プラザ2(ウッドデッキの広場)のクリスマスツリー

ツリー
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 さいたま新都心駅に併設される形で、新都心の様々な施設がある。

 目玉はなんと言っても一番目立つし知名度も高い「さいたまスーパーアリーナ」で、ここでは多くのイベントが開かれる。そして数ある催し物のなかでも、人気グループのコンサート時などは周囲全体がすごい混雑になる。

 たとえばEXILEなんて辺り一杯に人が溢れ出していて凄まじかったし、ソロもミュージシャンとしては浜崎あゆみやさだまさしの時も本当にすごい集客だった。

 先日もなんだか入り口から人が溢れ出していて、何だと思って確認してみたらミスターチルドレンのコンサートだった。それにK−1やワールドカップのバスケットやバレーなどといったスポーツイベントや公式大会など、あるいは宗教の大会といったものまで、実に多くのイベントが開かれている。

プラザ1横の広場 プラザ1横の広場

 そしてそのスーパーアリーナからは道路を跨いだデッキで施設が繋がり、そのままデッキは先まで伸びて駅のコンコースとなるのだが駅寄りの場所にもいくつかの施設がある。

 人口の地盤を構築してその上に樹林を作った「ケヤキ広場」などだ。

 ここでも多くのイベントが開かれる。たとえば食の祭典のような屋台市や世界のビールを集めたビアガーデン、ちょっとしたコンサートなど、季節感が一杯の催しが企画されるのだ。
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ケヤキ広場のイベント

先日のイベント、茨城の旨い物市

アンコウフェアでの吊るし切りの様子
ケヤキ広場のイベント

 先日も、「がんばれ東北」の一環だろうか、茨城の物産展として屋台が広場のケヤキの間にいくつものテントを広げて賑わっていた。

 茨城は関東地方であって東北ではないので「がんばれ東北」とは無縁のイベントだったのだろうが、まあ南東北と呼んでもよかろうと思う。

 茨城各地の都市が減ってしまった観光客を集めるために参加している様で、「あんこうの吊るし切り」の実演などが呼び物としてあった。B級グルメのコロッケやメンチ、焼き鳥や焼きそば、その他いろいろと茨城名物の美味しいものが楽しめたのだった。

 そのケヤキ広場の下は広い空間になっていて、いくつかのレストランや喫茶店などが入っている。そこにはレンタルビデオ店もあって、便利なので私は良く利用している。

 そうした店が並んだ中央は、2階と同様に広場になっている。上に挙げた写真のように土が盛られて丘になっていて、そこが多くの植物で綺麗に飾られている。
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プラザ1横の広場 ケヤキ広場のイベント


寒空に思わず顔が綻ぶ、あんこう鍋

先着での人数制限があって大分行列したが、
なんと一杯300円の大サービス!

私は思わず一杯目をあっという間に平らげてしまい、
再度、行列に並んでお代わりを買ったのだった。
(この写真は2杯目のもの)

 そうした屋内の施設も良いのだが、ケヤキ広場で行われるイベントはどれも開放的で魅力に富んでいる。しかしイベントがないときでも、私はここの静かな雰囲気が大好きだ。

 ケヤキの樹木は大きな胴回りを持っていて高い位置に多くの枝を張り出している。その枝に驚くほど多くの葉をつけるので、初夏の時期などは新緑が本当に眩しいものである。そして、葉の間を縫ってそこに吹く風も心地よい。そうして降り注ぐ強い日差しを和らげて日陰を作り、私達を和ませてくれた後、いよいよ秋に入って木々は彩りを増す事になる。

 その葉が紅葉し始めるのは意外に遅い時期なのだが、そうして色着いて、あたりに一際目立って秋の趣を添える様子も都会とは思えない美しいものだ。
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ケヤキ広場 さいたま新都心の
「けやき広場」から

 「ケヤキ広場」のデッキをそのまま奥(さいたま新都心駅とは逆方向)のほうへと進んでいくと、中仙道(新国道:何本か走る17号のひとつ)を跨いで北与野駅に繋がる。

 さいたま新都心駅はJRの京浜東北線とそして高崎線それに宇都宮線の停車駅で、北与野駅はJR埼京線のみの駅である。ちなみに湘南新宿ライナーはさいたま新都心を通過してしまう。
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 北与野駅へ繋がっているデッキの下を見ると、国道の脇に小さな公園がある。

 北与野で一番古株の元祖高級マンションといえる「与野ハウス」の脇にある公園だ。この公園はマンションの付帯施設といっていいだろう。

 そのためか、この公園は小さいながらも手入れが良く行き届いている。多くの樹木が植えられていて、駅前の中心部とも言って良い煩雑な街中にあって、落ち着きのある趣きを醸し出している。それが好きで、たまにこの公園の様子を偵察に来てしまうのだった。

ケヤキ広場、紅葉する欅 「けやき広場」の様子

 晩秋の時期になると、公園の奥まったところに植えられた木々が色づく。

 奥の樹林の林床には彼岸花も植えられて、秋のお彼岸近くになると壮麗な姿を愉しませてくれる。桜の咲く時期も良いものだし、その跡の藤棚の様子も美しい。それに今のような紅葉の時期も実に良い。

 要するに、季節それぞれの多彩な表情を愉しませてもらえる場所なのだ。こうした丁寧な手入れの様に出会うと、改めて本当にありがたい事だと感じ入ってしまう。
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 新都心駅の「けやき広場」でその紅葉を味わって、そのままデッキを歩いてくるとこの公園の木々が視野に入る。アーケードのように片側に屋根の置いたデッキを歩いてきて、その木々が見える脇の階段で路面に下りれば、そこがもう、この小さな公園への入り口なのだ。

 池に散った葉の様子を愉しみ、木々の色着きの様を味わって、また歩き始める。

上落合、北与野駅前の小さな公園 公園の空

見上げる空が心なしか深く感じる。

秋の空は、本当に清々しいものだ。
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 今年は大名庭園でも訪れて、そこで紅葉の写真を撮ろうかなどと考えていた。

 駒込の六義園(りくぎえん)は「柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)」の屋敷跡の庭園で、池を囲んだ回廊式の日本庭園で名高い。幕府の要職、お側御用取次ぎとして並びなき権勢を振るった実力者だけあって、その庭園の様子は素晴らしい。

 この時期は忠臣蔵(ちゅうしんぐら;江戸歌舞伎の人気の演目)が長編ドラマや映画化されて良くテレビ放送される。物語の舞台は、朝廷からの使者をもてなす儀式の最中に大きな事件として発生する。

 そしてその物語の契機となった処置こそが大きな軸となって後の騒乱へと進行するのだが、5代将軍綱吉(つなよし)の治世に江戸城中で刃傷に及んだ浅野内匠頭(播磨赤穂藩;はりま あこうはん)に即日切腹の裁断を下したのが、他ならぬ柳沢出羽守であった。

 だから、犬公方と呼ばれた綱吉のお側御用人だった彼のことを知らぬ人はいないだろう。綱吉が将軍宣下を受ける前は館林(たてばやし)宰相と呼ばれ館林藩25万石の領主であったが、四代将軍の養子となって将軍職を継ぐ。館林藩士であった柳沢は綱吉に従って江戸城に入るが、そこで彼を抜擢して佐貫(上総)藩主とし1万2千石の大名に取り立てる。その後、加増を加えられて川越藩(武州)7万2千石を拝領し、老中格となる。

 儒者の「新井白石(あらい はくせき)」の登用で、並びなかった権力を次第に失って家督を譲って隠居し政治の第一線から退き、庭園に情熱を注ぐことになる。

 彼の出自は武田家の一門としての家柄であり、源氏の一族であった。けれど城持ちなどではなく、一介の藩士である。が、自らの才能で世に出て、遂には甲府藩15万石(駿河にも領地があった)の領主となるのだった。

 さらに彼の長男や4男・5男の3家が大名となり、その家々は藩主家として代を重ねる。いずれも明治維新まで滅びずに、藩として存続するのだ。

上落合、北与野駅前の小さな公園 公園に散る葉の様子
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<忠臣蔵 に思う>

 「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」の物語では、喧嘩両成敗の基本原則を破ったことへの警鐘、幕府ご政道の誤りを正すための義挙といった内容が、本所松坂町の吉良(きら)邸へ討ち入った「大石内蔵助(おおいし くらのすけ:赤穂藩 国家老)」の目的であったとして良く語られる。

 しかし、過去の事例を見ると、こと江戸城中での刃傷においては確固とした方針があり、その前例があるのだ。

 それは、仕掛けた側が必ず、その是非を問われずに切腹(お家は断絶)あるいは改易となっていて、斬られた側(被害者と呼ぶべきか)は「お構いなし」というもの。<両成敗>ではなく刀を抜いた側のみが処分されるというのが定法(ルール)だった。

 <喧嘩両成敗>は、乱暴な中世の法原則なのだが、どうも大岡政談での「三方一両損」あたりと通じるような、極めて感覚的な要素が強いものに思える。確かに両方を罰する「傷み分け」の処置には竹を割ったような明確さがあり、事の是非を問わない問答無用さは係争ではない騒擾行為自体の抑止力となるだろう。せっかちだった江戸庶民の間の道徳律としては受け入れられやすかろう。しかも今なお、その感覚は納得されるものとして私達のなかでしっかりと生きている。誰しもの共有する体験として、子供の頃に両親や親戚あるいは先生などから、その言葉を引いて諭されたことがあると思うのだ。

 だから事件から310年(事件発生は元禄14年3月14日;西暦でいえば1701年4月21日、「討ち入り」は翌年の12月14日で西暦で言えば1703年1月30日)も過ぎたというのに、今なお幕府の性急な処断に対して世間の風当たりは強く、非難の声が続くが、しかし浅野に対する処分は定法どおりの処断が揺ぎ無く下されたものであった。江戸城中を舞台にして9件の刃傷事件が発生しているのだが、その処置(内匠守の切腹と家の断絶)は江戸期を通じて一貫していて、あながち権力者の驕りや柳沢の独断専行とは言えないものなのだった。

 それに、私は浅野家の家老職にあった「大石内蔵助(おおいし くらのすけ)」の目論見はもっと別のところにあったと思っている。

 吉良に何らの処分が下されない事を不服としたのではなく、(処断は法令なのでよしとして受け入れるが)事件の発生理由を聞き取らずにいた事が問題なのだ、というアピールからだろう。幕府の対応姿勢の不充分さを追及したためなのでは、と考えている。

 吉良家は高家筆頭の家柄で、上杉家と並んで式典などを司る役務を持っていた。徳川将軍職がない場合の継承者として徳川家ご一門衆として「御三家(ごさんけ)」が用意されていた。尾張(家康9男)家、紀州家(10男)、水戸家(11男)を家祖として幕末まで続く。室町時代、足利幕府によって創設された継承の制度であり、徳川御三家の前例が足利将軍宗家に対する吉良家と今川家の存在であった。

 吉良家は今川家と並んだ室町幕府のご一門衆(吉良家のほうが今川家より上位の継承権を持つ)であり、その本姓は「源(みなもと ;清和源氏の一族)」だ。朝廷からの賜位(たとえば上野介の官位は「従四位上 左近衛権少将」)も高い。家の格式からすれば外様の一大名にしか過ぎない浅野家(官位は「従五位下 内匠頭」)など、及ぶべくもない家柄と格式を持っていたのだ。

 とはいえ旗本(徳川家の直臣なので大名と同列)の吉良家と外様とはいえ大名の浅野家とは大きな知行の差がある。俸禄を支給されていただけでなく直接の知行地を持っていた旗本とはいえ、世間相場からすれば吉良の方が位が低いのではという感覚もあるが、厳然とした階級制度が染透った幕府からすれば城中での序列はずっと上位であった。しかも浅野家は芸州浅野家を本家とする傍流、豊臣政権で五奉行筆頭だった「浅野長政(あさの ながまさ;秀吉の妻、ねねの姻戚者)」をその祖とする家柄。長政の3男から三代後の当主が内匠頭であるから、徳川にとっては前政権の一族の残党という立場にあった。

 しかも長政は石田三成への確執から関が原の合戦で徳川方に味方(長男の「浅野幸長(あさの よしなが)」は福島正則らとともに徳川家の先鋒を担う)したとはいえ、豊臣家の台頭を強力に支え政権を立脚させたた立役者だ。赤穂浅野家は蜂須賀(はちすか)家や伊達(だて)家など実力を持った外様大名との縁戚関係もあったが、豊臣と深く結びついたその末裔なのであった。そうした様々な事柄などを考えてみれば、そもそも幕府が両者を同列に扱うはずがなかったのだ。

上落合、北与野駅前の小さな公園 木の枝を彩る様子も素晴らしいのだが、散り積もる紅葉が美しい。

 私の敬愛する歴史小説作家の「池宮彰一郎(いけみや しょういちろう)」さんが独特の歴史感で多くの秀作を書いている。

 藤沢周平さんや北原亜似子さん、池波正太郎さんといった時代小説家の作品群はどれもみな好きなのだが、司馬遼太郎さんや池宮彰一郎さんが書く歴史小説もまた大好きだ。

 ロマンチストの司馬さんの歴史感とはまた一味違っていて、歴史通念に対する独自の視点が随所に溢れている。池宮さんの「本能寺」や「島津奔る」それに「天下騒乱」などの秀作は、今までの通り一遍の薄い背景の記述とは違って、深い歴史の解釈がある。その独自の解釈に知的な興奮を誘われてしまうのだ。

 充分過ぎるほどの読み応えがあるそうした諸作品と共に、歴史を揺るがすこの討ち入り事件に関しても独自の視点を投げかけている。
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<忠臣蔵 から江戸期を考える>

 なにせ、ご府内での武家の部隊構成による組織的な戦闘行為は、江戸期を通じてこの時しか発生していない。

 ずっと後世の幕末期になって、「ええじゃないか」の打ち毀し事件が町で頻発する。だけれども、それは町民が主体の騒擾であって、武家の組織立った関わりはないものだ。あえて武家による闘争と言えば、思い出すものが辛うじて他にもふたつあった。しかしどちらも、幕府の政治的な権威が失墜した動乱の幕末期に発生したものだ。

 だから、どれも皆、普通の状態のときに発生したのではなく、安定した徳川政権の治世の「世紀末」といっていい時代の出来事である。

 ひとつ目の事件は、3月3日、江戸城に登城する幕府の首脳が、その途中を襲われたもの。

 幕末に黒船で来航したアメリカとの間で結ばれた通商条約締結がそもそもの発端となっている。条約の締結は、国家間のものなので政権を担っている幕府が責任を持つわけだが、調印などは国家元首としての天皇家の決裁事項だった。それを仰いで承諾を得て、その後に広く武家の総意を集め衆議に掛けて決裁する必要があったのだ。しかし、締結自体を急いで独断で執り行ったのは、時の大老職にあった彦根藩主の「井伊直弼(いい なおすけ)」の痛恨のミスといえよう。登城する大老の行列を十数名(確か18名ほど)から成る水戸藩の脱藩浪士(攘夷運動を進めた過激派藩士)が襲ったのだ。大老暗殺事件の「桜田門外の変」である。これは井伊が朝廷との軋轢(幕府ではなく水戸藩に詔勅が下された事件)を解消し、さらに幕府の権威を取り戻すために行った水戸藩主への圧迫、さらにそこから派生的に進展してしまった「安政の大獄」が、事の発端になっている。

梢の間から、初冬の青い空を仰ぎ見る。 上落合、北与野駅前の小さな公園

 その大事件から幕末の動乱が始まり、維新の動きは加速していくのだった。

 そしてとうとう、維新の推進母体と成った天皇親政を掲げる新政府とそれに対抗する幕府勢力は京都を中心に各地で戦闘(鳥羽伏見の戦い など)を広げ、次第に関東へ迫ってくる。

 幕府の終末、すでに大政奉還して将軍は蟄居してしまっているので、幕府の最高府自体は瓦解してしまっているのだが、旧勢力の主戦派はフランスの支援を受けて徹底抗戦を目論んで抵抗線を張った。「戊辰戦争(ぼしん)」である。幕府の政治上ではなく軍事組織上の権威者(幕府軍の軍事責任者である「軍事総裁」職)である「勝海舟(かつ かいしゅう)」と「西郷隆盛(さいごう たかもり)」との間で講和が結ばれて江戸城は無血開城し、江戸は戦災から免れた。そしてその時を持って、遂に徳川の勢力も政府の傘下へと入ったのだった。

 しかし、徹底抗戦を唱える「小栗上野介(勘定奉行;おぐり こうずけのすけ)」や海軍副総裁職にあった「榎本武陽(えのもと たけあき)」は、海舟の路線と対立する。御家人達を中心とした武断派は江戸城の開城に逆らって決起し、上野へ立て籠もって政府軍への抵抗を始め、最終的には装備の差で殲滅されてしまう。槍や刀、先祖伝来の鎧などでは政府の持つ大砲や新式銃などの火器には対抗できなかったのだ。

 そうした集団による戦闘行為が辛うじて闘争と呼べるものかもしれない。暗殺は戦いではなく一方的な行為なので別格となろうが、幕臣有志で構成された「彰義隊(しょうぎたい)」の戦いまでの数百年に渡って、命を張った戦いは起こっていないのだ。武家としてあれだけの人数が常時、武装していたというのに・・。
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<ふたたび 忠臣蔵 を考えてみる>

 「忠臣蔵」の出来事は集団による仇討ちと呼んでしまえば何となく至極もっともな行為のように思える。私などは、侍として正当な行動ではないかと賞賛すらしてしまうほどだ。

 だが、「討ち入り」という事象の発生は幕府が開府して以来の、未曾有の大事件である。なんといっても世界最大の大都市であったにも関わらず当時の江戸の治安(数百年に渡って維持された治安状況)は他には例がないほどだった。殺人や凶悪な事件などの発生は、今の感覚からすれば日常的に発生しただろうと思ってしまうが、都市に流入して増加し続けた人口からすれば信じられない程のものだ。そうしたものはテレビで流れる時代劇での出来事でしかなく、凶悪極まりない殺人事件などは滅多なことでは発生しなかったのだから。

 池宮さんはそれを題材にした幾つかの連作を書いている。「四十七人の刺客」、もうこの表題が凄いと思う。私は最初に、この「刺客」という表現にひどく違和感があった。しかし、小説を読んでみると、そう表現した作者の意図がひしと伝わってきた。それに「四十七人目の浪士」「最後の忠臣蔵」「その日の吉良上野介」などといったもの。そうした諸作品で一貫しているのは、首謀者の大石元家老の側(誓紙血判した同士の一統)には、吉良の評判を貶めて清廉潔白な浅野というイメージを広く世間に流布し、失われるであろう主君の名誉を守る、という明確な意図があったというのだ。

上落合、北与野駅前の小さな公園 散り積もる落ち葉

 なにせ浅野の殿様は幼少期に大名家を継いで、根っからの御殿育ちの世間知らず。実像は極めて短気な性格を持っていて、浪費家でもあり、奥に籠もって政治にも興味を示さない人だったという。その姿は私達が共通認識として持っている、物語で登場する清廉潔白な人物像とはかけ離れているものだ。昼から美麗な女子を傍近くに侍らせて酒色にふけっている、という公式な調査報告が今に残っている。隠し目付けのような役割の隠密が各地の大名の性向を綿密に調査し、幕府老中に宛てて送った文書にそれが記されているのだった。 

 省みれば、自らの短慮で「千代田の城中で刀を抜かず」の定法(抜いただけで死罪、というのが当時の法規として定められていた)を破り、しかも朝廷への接待担当という幕府政権にとってはこの上ない重要な役務を途中で放棄するような不始末。

 だから事件のままに放っておいては、主君は天下の大罪人のままであり、武士にあるまじき未練の士と謗られる事になる。家を潰して多くの家臣を路頭に迷わせた愚かな主君という汚名を後世まで着てしまう。

 それを防ぐには、主君は類まれな苦労人で家臣思い、思慮深く、自らの寝食を切り詰めての節約も率先して行って、政治向きにも明るく塩田開発を率先して領国の富国に勤める、という名君像を作らなければならない。そうしたイメージ戦略が功を奏したのだ。一方で賄賂好きで悋気激しく、嫌味な吝嗇漢として吉良を位置づける。小説ではそうした情報戦を大石が資金を市中に撒いて展開した、と語られる。名君として不動の位置に未来永劫に渡って主君を定着させ、併せて幕府の処断に対して波紋を投げる。そのための総仕上げの仕儀が、が血判誓紙を取り交わして鉄の結束を誇った家臣有志による討ち入りの実行だった、と語られるのだ。「四十七人の刺客」などで書かれた大石の緻密な策略という内容、案外、これが歴史上の本当の姿かもしれない。
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 さて、このあたりで閑話休題。話を散歩の事に戻そう。


 類まれな権勢を誇ったお側御用人の柳沢吉保の邸宅、それは今に残る「六義園(りくぎえん)」は当時の規模では勿論なかろうが、御殿跡などは無く日本庭園だけとなっているが駒込に広大な敷地を残している。

 しかも周囲を鬱蒼とした樹林で囲んで、まるで都会とは思えないほどの見事な庭園である。この庭園は紅葉の時期になるとライトアップなどもされるので、訪れる客はあとを絶たない。

 この人気スポットに、紅葉の時期になるといつも写真を撮りに出かけようと考えるのだが、なんだか一度も写真に撮れずにいる。それ以外の時期には何度か庭園に行っているのだが、結局、縁が薄いに違いない。

上落合、北与野駅前の小さな公園 上落合、北与野駅前の小さな公園

 結局そうやって忙しければ忙しいなりに、そして暇であっても暇なりの理由で、何時も庭園を訪れる事無く過ごしてしまっている。

 これは一体、どういう理由からなのか、自分自身でも良く判らない。毎年、こうした判らなさを繰り返してしまうのは一体何故なのだろうか、本当に・・・。そして、手近い場所で、それなりに満足してしまうのだ、いつも。


 結局、ものぐさなのだろうな、と反省を込めて自分を再評価してしまう。

 しかも、どうも思うに年を重ねる毎に、この「めんどくさいな・・」の気持が強くなっているような気がしている。億劫さと言い換えても良い。あるいは何とはない気後れとでも呼べばよいかも知れない。さて、この少し憂鬱な妙な感じを、なんと言えば適切なのだろうか。
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