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オーディオ : オーディオという趣味について
音楽配信について

<音楽配信 について>  2009.07.20

 オーディオ・ボードを搭載した「音楽再生専用」と銘打ったパソコンだが、これが思いのほかに良い音が出て、実に快適だ。

 接続しているアンプ内臓のスピーカとの相性が良いためか、同時期に購入したCDレシーバ(CR−D2)(「デジタル・アンプを物色する」)でのCD再生よりも明快な音が響く気がしている。

 パソコンに搭載されたボードからの出力はRCAジャックでのアナログ出力信号で、それをスピーカーに搭載された内臓アンプで増幅している。繋いでいるスピーカは、アナログだけでなくデジタル信号での入力も可能となる、DA変換(デジタル信号からアナログ信号へ)回路があるので、パソコンのポート側の光出力(デジタル信号)を受けて、スピーカー側の変換回路でアナログ信号に変えることも可能だ。

 ただ、パソコン搭載のオーディオ・ボードは、デジタル信号を緻密にアナログ変換する回路設計そのものが売り物(「HDオーディオという潮流」)なので、ボードの回路設計やパーツ構成のほうが、スピーカー内臓の回路より数段優れている様に思う。

 「パソコンからの音楽再生」として、今採っている接続方法では、アナログ変換後の信号の増幅をスピーカー内臓の余裕のあるトランスで行なっている。このパワードスピーカは通常のパソコン用アンプ内臓スピーカよりも数段、音に神経を使った製品だから、増幅回路も電源回路も一味違った設計になっている。

 デジタル信号で記録された音楽ソース>変換回路>アナログ信号への置き換え>信号の伝達>増幅回路>スピーカによる出力 という処理シーケンスになる。ただし、増幅回路の部分であるトランスそのものはアンプ内臓スピーカの類のなかではこの製品に搭載されたパーツは良い物であっても、生粋の音響製品としてのポジションを持つレシーバのパーツの方がスピーカ内臓のものより数倍大型で性能が良い。それでもレシーバで聴くCDよりパソコンおよびそれに繋いだアンプ内臓スピーカでの再生のほうが良い音に聴こえる。(同じ再生シーケンスのはずだが、回路同士の相性と全体のバランスがレシーバのそれよりも、パソコンとアンプ内臓スピーカでの接続方法のほうがよいのだと思う。)


 様々な配信サイトがネット上には存在していてYouTUBEのようなものもあるが、たとえば、オンキョーのWEBサイトからはCDのデジタルコーデッドよりも高スペックのサンプリング周波数で記録されたデジタル音源がダウンロードできるのをご存知だろうか。その高密度のサンプリング・レートに私の選択したパソコン搭載のボード及び再生ソフトは対応しているので、CD以上の音質を手に入れることが出来る。(一曲が200円ほどで、いろいろなジャンルがある。)

 レーベルを網羅しているわけではないが、気に入ったアーティストのものがあれば存分に素晴らしい高音質が堪能できる。これがまた、スペックから言えば当然なのだが、CDにも増して実に良い音なのだ。

<配信データへの制限(ライセンス規範)>

 ネット上で配信した音楽はデジタルのデータなので劣化するという事が一切ない。オンキョーの配信サイトを例に取ると以下のような特色があり、この方針が一般的な<規範>のようだ。

 配信データはダウンロード後も当然ライセンス制限がされている。例えばCDへの焼付けが禁止されて出来ないものや、たとえ出来ても2回までとか、ポータブルオーディオ機器(iPodなど)への転送は3回まで、といった具合だ。ダウンロードしたパソコンでの再生は、当然ながら無制限に許諾されている。

 また、ハードディスクが障害を起こした場合に備えてだろうと思うが、無制限に再ダウンロードが出来る。

 この状態(音楽を有料でダウンロードして購入する、という新しいスタイル)、これはもうライフスタイルの問題であろう。各人が、メディアの存在しない状態での価値をどう考えるか、に関わってくるのだと思う。

 実際、いくらCD(コンパクト・ディスク)といったところで、そのコンパクトさには限界がある。また、再生の際にはプレイヤー機器へのメディアの挿入という昔ながらの「儀式」も必要だ。それらのことを考えれば、こうした配信システムは実に潔い。今までのスタイルから比較すればずっとすっきりしているではないか。

 やってみた当初こそなんだか覚束ない感じが拭えなかったが、そうした漠然とした不安は、行為への「慣れ」の問題だろう。
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<音楽を所有する ということ>

 パッケージが無く内実だけがある、ということ。

 例えばそれは何かの教養講座や趣味教室を受講するようなものだ。「データ」だけが「獲得した価値」として別の形(経験や知識や感動)で蓄積される。

 つきつめれば、そういった形態のサービスへと時代が変質しつつあるのだと思う。

 私達の世代は、有形の、具象化された物こそが豊かさであった。そこでの価値判断や豊かさを測る尺度は、常に「質量」を伴っていた。流行の衣服、新しい家電製品、車、家、などなど。そこで織り成されるライフスタイルとしての(精神的な)豊かさが問題ではなく、物質的な量や質、あるいはそれらを所有するという行為、にこそ価値を見出していた。

 しかし、どうなのだろう。

 身近な部分で革命はひそかに進んでいる。音楽配信、オンデマンドのテレビ番組、携帯で読む小説、ネット上で受け取る膨大なデータ。今となっては残念ながら百科事典など、購入する人はまずいまい。新聞などもそうだろう。私達を取り巻くメディアの在りようは加速して変貌している。

 住環境は、精神面は勿論、肉体的な快適さや安息を求めるものだが、やがてそれさえも変わっていくのではないだろうか。例えば台湾でみた規格化され均質化した住宅群(表通りに面して立ち並んでいた同一規格を持つ6・8階ほどのアパート群)とそこでの食生活(朝食や夕食の多くを裏通りなどにある屋台店や近所で定期契約を結んでの外食で済ませているようだった)のように・・・。

 物ではなくそれが持つ情報そのものが、質量ではなく経験やそこで生まれる感動が、あるいはさらに代替することで獲得される時間的な余裕が、それこそが大きな意味と価値を持ち始めているように思える。そうした変革の最中に私達は入りつつあるのではないだろうか。そしてその変化をいちはやく理解し、享受し始めている先達がいる。

 もう、そろそろ私達は、一昔も前の古い習性や志向(それは間違いなく有形の物からの束縛だが)、から離れるべきなのだろう。相手も充分な質量を持っているから、お互い同士その質量で引き合ってしまうのだ。物に「思い入れ」という形而上の重さが加わる程に、なかなか私達はその引力圏内に捕らえてしまい、簡単には放してもらえない。

 当然私ごとき未熟な者に、そうした度胸が備わっているはずも無い。いったん手中にしたものはなるべくなら放したくは無い、と考えて踏ん張ってしまう。そうした弱さゆえに、いや、だからこそ、思い切って質量を伴った所有する物から、一度思い切って離れてみる必要があろうかと考えるのだ。

 そして、そうする事こそが、「新たな自由を手に入れる」という事なのかも知れない。

 (・・・いや、やはり私にそれは出来まい。)
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