ハイキング・低山歩き のインデックスページへもどる ハイキング・低山歩き の ページ      Top Pageへ移動Top Pageへ移動       このページを閉じる 閉じる

2013.04.08
渋川 白井(しろい)城址を訪ねる (歴史探訪)

アクセス;
 JR上越線、吾妻線 「渋川(しぶかわ)」駅 より

コース;
 白井城址 入り口は、白井宿の街道筋に案内版あり

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm−72mmF2.4

 2012.05.20  ポタリング時  カメラ;iPhone 4S              自転車 FELT F−85
 2013.04.08  ポタリング時  カメラ;Ricoh CAPLIO GX100    自転車 Ridley TEMPO RACE
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

<関連ページ>

 ポタリング のんびり 行こうよ: 20120520 「渋川 白井(しろい)宿(歴史探訪)」
 写真  のんびり 行こうよ;2013.07.07 「紫陽花が咲く(白井、渋川)」


 春、たけなわ。

 今年の桜は去年と違って大分開花が早かった。連年よりも一週間以上も早い開花であり、その分、満開となる日の訪れも予想を上回わるものといえよう。

 桜花の持つ優美さは格別のもので、春、開花から始まって日を追うごとにたけなわとなっていって、やがてそよ風に吹かれて散って行く。その移り行く様を眺めるのが大好きだ。

 残念ながら染井吉野などは花弁も薄く、花そのものが弱いので折角満開となっても風雨に打たれて直ぐに散ってしまったりすることも多い。昨夜までは見事な様子で愉しませてくれていたのに、一夜明けると葉色だけが妙に目立つ黒い樹に変わり果てていた、と言ったことになる年も多い。

 どうも今年の桜もそうした状態のようで、咲き始めが早かったせいでもあるが、満開近い花期の天気の様子(どうやら低気圧の到来のようだ)も、どうも怪しい状況になりそうだ。そこで、咲く花を求めて少し北へと向かってみた。

 北と言っても標高にして数百メートル高まった程度の場所であり、他県まで遠征したと言うことではないので、あしからず。

吉岡から見た榛名山 吉岡から見た
榛名山(はるなさん)
ページTopへ移動
吉岡から見た子持山(こもちやま)

吉岡から見た子持山(こもちやま)
小野子山と子持山

小野子山(画面向かって左)と子持山(右)

 故郷「前橋」の北方、ここから県北の山岳地帯がそろそろ始まるという渋川市には、古くからの街道が通っている。

 前橋は赤城の麓の街なのだが、渋川は榛名の麓の街であるといえよう。

 しかし、渋川は赤城の裾野と接してもいる。関東平野は市の入口で終わり、市域の大部分は山々へと続く傾斜地となっているという土地柄で、東方に赤城(あかぎ)山、西方に榛名(はるな)山を控え、市域はまるで扇状地のように広がっている。

 だから、関東へ向かって他国から入るための入り口になっている。信州から続く吾妻街道、越後へ抜ける三国街道、日光や会津方面へ抜けるための福島街道。それらが、この地に集まって来て関東から遠方へと通り抜けていくのだった。交通路の要衝といえよう。


 それらの交通路を<観光>という視点で表現したほうがより判り易いかもしれない。

 例えばその繋がりを温泉で表現すれば、次のようになる。

 草津温泉へ抜ける吾妻(あがつま)街道への入口でもあり、奥利根の水上(みなかみ)温泉や三国(みくに)山脈手前の猿ヶ京(さるがきょう)温泉への出発点となる場所、さらに沼田を抜けて日光を経由し、鬼怒川や塩原温泉、その先の福島会津地方へと向かう道でもあった。

 今度は山並みの連なりでそれを言い換えてみようか。

 渋川の市街から北部へ展開する山並みを見渡すと、眼前左手に榛名山が立ちはだかって、その後ろに子持(こもち)山や小野子(おのこ)山が真近に続き、その左奥に残雪を残した谷川岳や奥利根、さらに三国山脈へと山並みが重なる。眼を右手に移せば、赤城山が迫ってきて、小野子山の右奥には武尊(ほたか)山や日光白根山が連なる。
ページTopへ移動


利根川越しに見る赤城山
利根川越しに見る赤城山

 くどくなって来たが、折角なので、渋川の位置や特性というものを、今度は川の流れにおいて表現してみようか。

 谷川岳の麓、温泉で有名な水上(みなかみ)の深部の奥利根地方を源流域として「利根川(とねがわ)」がその山並みを縫って流れてくる。関東平野を流れる間にぐんぐんと川幅を広げて行って、やがては太平洋へと注ぎ込む大河だ。平野を横切る流路は長大で、日本を代表する有数の河川であるため、この川は「坂東太郎(ばんどうたろう)」の異名を持っている程だ。

 その大河の流れがまだ急峻なうちに真っ直ぐに南に向かって流れてきて、渋川の街を南北に切って流れていく。市の北辺では、信州に接した山岳地帯の吾妻地方を、同じように縫って流れ来る吾妻川(あがつまがわ)が流れ込み、利根川は一気に川幅を増すといった具合だ。

 関東平野への集束の地、逆に関八州の側からみれば、そこは遥か南に開けた鎌倉にとっての「前衛」の地に当たるのであった。
ページTopへ移動
利根川越しに見る
赤城山
利根川越しに見る赤城山

 以前、ポタリングとして訪れた場所なので、すでにそのページでも紹介済みであるが、今回散策した場所は、古い宿場町の風情を今に伝える「白井(しろい)宿」。

 ここは渋川市から子持山(こもちやま)へ向かって少し登りはじめる場所になる。その場所は関東平野の内側と言っても良い境界で、まだ山稜が始まるわけではない。「利根(とね)川」と「吾妻(あがつま)川」に囲まれた三角に展開する地区であり、いわば両方の河川で出来上がった河岸段丘ということになる。極く緩やかな丘陵に広がる開けた地区という事だ。

 その土地は伊香保温泉への上り口ともいえるし、吾妻や草津方面へと向かう、あるいは奥利根(水上温泉)や三国山脈(猿ヶ京温泉)へ向かう街道筋の分岐点ともいえる。

 関東平野全域に視点を移せば、その場所は信州や福島や新潟などへの出発の地といえ、古くから宿場が置かれていた。この宿場の手前までで広大な関東平野が尽きるといった、山との狭間となる土地柄だ。

 関東平野の集束の際にある交通の要衝地といえる土地、そこは関八州からみれば「前衛」の地に当たっていた。

城址への入り口 2012.05.20 撮影

城跡への入り口

意外な規模の遺構が残る。
ページTopへ移動
<白井(しろい)宿>

 渋川の地は、前橋からみると広大な関東平野の尽きた北方に当たるが、真田氏ゆかりの地として有名な「沼田(ぬまた)」からみるとその前衛といえる。沼田は言うまでもなく戦国ドラマの大きな舞台となった地だが、そこは新潟、長野、栃木や福島と群馬を結ぶ要衝の地であった。

 関東平野の入口を抑える渋川もまた、奥に沼田を控えているとはいえそれらの土地と関八州との結節点である。沼田に等しく、鎌倉時代をはじめ、戦国期を通じて要衝の地であった。

 渋川市の北辺、利根川と吾妻川が合流する段丘上に奥深く展開されているのが、「白井(しろい)」宿。そこは古くからの街道の街であった。

 渋川は、いま書いたように、私の実家の有る前橋からみると平野の尽きた、北方の都市に当たる。関東平野とは逆の、信州(吾妻方面)や越後(上越方面)や福島(日光、会津方面)から見れば、そこは関東平野の入口を抑える土地と言うことだ。

 古い昔くから、関八州とそれを取り巻く北方の土地との大切な結節点であった。だから、この場所は奥に控える「沼田(ぬまた)」に等しく、鎌倉時代をはじめ、戦国期を通じて要衝の地であったに違いない。

 そして、渋川市の北辺、利根川と吾妻川が合流する段丘上に奥深く展開されているのが、その要衝を守る「白井(しろい)城」なのだった。

白井城の遺構 白井城の遺構
ページTopへ移動
<白井城 跡 戦国の夢>

 白井宿を見守るように、更に河岸段丘の頂に建っていたのが白井城。室町時代から江戸時代初期にこの地を統治していた中心であり、<崖端城>に分類される中世の城である。

 今では、土塁や堀、郭の跡のみが残っている遺構であるが、そこには当時のこの城の規模の大きさが色濃く残されている。

 室町時代から江戸初期と言えば戦国期ということになるが、この城の歴史はもう少し古く、鎌倉時代の1258年(康元元年)から始まるのだという。

 上野国の守護であった上杉氏(春日山を拠点とした「謙信」の氏では無い、上杉本家)の家臣で、長尾氏(上野国の守護代)がこの地、「白井荘(しらい の しょう)」を与えられた事から、長尾氏が支配し、整備を始めたという。

 そもそも私は、前橋の厩橋(うまやばし)城や沼田の沼田城、月夜野の名胡桃(なくるみ)城、松井田城や箕輪城などは知っていても、この地に戦国期の城があった事自体を知らずに過ごしていた。

 迂闊きわまりないことだが、2012.05.20になって初めて、町を通り過ぎるだけでなく改めてじっくりと訪れてみて<戦国の城>の存在を知ったのだった。自転車散歩 のんびり 行こうよ:「2012.05.20 渋川 白井(しろい)宿(歴史探訪)」でその様子を紹介している。

椿と桜


白井宿と接する白井城の外縁となる「帯郭」
白井宿と接する「帯郭」
ページTopへ移動
 鎌倉時代の上杉氏統治の初期の頃は、この城の規模はもっと小さくて、吾妻(あがつま)川の河岸段丘を利用した「武家館」然とした様子であったのだろう。

 それは、吾妻川の河岸段丘を利用した武家館然とした様子であったのだろうと思われる。

 ちょうど、埼玉の「武蔵嵐山(むさしらんざん)」に残る鎌倉御家人の英雄、「畠山重忠(はたけやま しげただ)」の居館として嵐山渓谷の河岸段丘上に遺構が残る「菅谷館(すがややかた)」のような状態であったに違いない。中世の武家屋敷の規模であり、宗家の館を中心にして門前や四囲を一族や忠臣の屋敷が取り囲んだ状態だったのでは、と考えている。た

 ここ、白井にあった館も菅谷館と同じように、一路鎌倉へと続く街道を眼下に納め、その脇に展開されたことと思う。

「帯郭」の桜 帯郭の土塁に咲くニリンソウ

帯郭の土塁に咲くニリンソウ
ページTopへ移動
 「崖端城」と書くと、皆さんは「山城」に近い印象を持つだろう。

 ところが、ここの遺構をみればそうした古いタイプの構造とは一線を画したものだという事に、誰もが気付くに違いない。

 崖端城について、簡単に解説しておこう。それは、主に河岸段丘を利用して、その崖上に構築された城の形式(形態)である。

 埼玉の西北部、荒川の上流(源流域は更に奥の秩父方面である)域ともいえる断崖上にある城である寄居の「鉢形(はちがた)城」や長野の信濃川の畔のやはり崖状に重層的に展開している「小諸(こもろ)城」の様子、などを思い浮かべると良いだろう。

間伐財のチップが敷かれる

2012.05.20 撮影

城跡へ向かう道は、ハイキングコースのように整備がされている
城域を取り巻く郭の土塁上に付けられたその道は、いわば城の「武者走り」である。間伐財のチップが敷かれた。
帯郭の土塁上に祭られるお地蔵様

2012.05.20 撮影
ページTopへ移動
 白井城はしかしそれらの城とは少し違いが有る。城が行き詰った崖上に砦として存在しているだけでなく、その周囲に町屋が並んでいた。

 明らかに近代的な性格をもった城であるといえよう。郭が城を幾重にも取り囲み、そこに家臣や住民が暮らすという城下町が形成されていたのだった。

 城下町の歴史は信長の岐阜や秀吉の長浜から始まるが、遥かに規模は小さいのだが、ここにもそれらと共通するような都市(「市」を定期的に開くような町屋の存在があった)が開けていたようだ。

 吾妻川の断崖を背にして本丸と馬場が崖の奥に控え、大手門の外に二の丸、三の丸をはじめとする幾つもの郭が段丘上に重なる構造が見事に残っている。

帯郭の土塁上に咲くスミレ(タチツボスミレ) 帯郭の土塁
ページTopへ移動
 一方で城地の東方、利根川の河岸段丘に展開したともいえる宿場町の辺りでは、三の丸郭の北に連なる北郭や金毘羅郭、さらに本丸と堀を挟んで南に展開する南郭や新郭といった構造に重なっている。

 宿場町の様子のみが色濃く残っているが、白井宿の起こりはそもそもが城下町(城の外曲輪)から変質したものといえよう。

 今に残された宿場と往時の城域の構築を重ねてみると、広がっていた城の曲輪がそこを囲い込む。だから、白井宿などはみな、城内の土地(北郭や金比羅郭、新郭)となるのだった。

 武家屋敷や軍事拠点ともなる寺社、さらに町屋を含みこんだ<総構えの平城>の特性を持っていた事が見て取れる。総構えの平城が登場するのは、ずっと時代が下った室町時代の末期、戦国時代と呼ばれた治世である。北条家の小田原城や秀吉の大阪城の構築からが総構えの城の代表的なものであった。

帯郭の土塁 三日月堀

帯郭から三日月堀へ
ページTopへ移動
 長尾氏時代に城として構築され、その後整備されていった城の結構が、「白井城跡」として現存しており、その広大な構築が今に痕跡を留めている。

 吾妻川の断崖を背にして本丸と馬場が崖の奥に控え、そこに大手門がある。今ではすっかりと風化して、その礎石とも言うべき石組みだけとなってしまっているので、残念ながら門の跡からは往時の壮大さを想像することはできない。

 建物の礎石を初め構築物を示すような結構は遺跡として今に残されていないが、その外に二の丸、三の丸をはじめとする幾つもの郭が段丘上に重なる土塁や掘割などの構造が見事に残っている。

三日月堀 三日月堀を抜ける

三日月堀を抜ける
ページTopへ移動
帯郭の土塁から三日月堀へ


2012.05.20 撮影

本丸手前の「三日月堀(水堀)」
三日月堀(水堀)

2012.05.20 撮影

 堀と土塁や石垣だけとなってしまったが、今に残る遺構の姿に繋がる城は、永享年間(1429年〜1441年)、「長尾景仲(ながお かげなか)」によって築城されたもの、と伝わっている。

 長尾家は当時の「関東管領(かんとうかんれい;室町幕府の関東当地機関)」である上杉氏の庇護を受け、この地は関八州を納める山内上杉(やまのうち うえすぎ)家の重要拠点であったということだ。

 この枢要の地に建っていた実践的な戦国の城も、戦乱の時代の終焉とともに<軍事と政治の地>というその役目を終えた。

 やがて江戸期の安定の時を向かえ、太平の世を下支えする<経済の拠点>へと変化して、町の性質を徐々に変えていったのだろう。

 上杉氏の統治から始まって、江戸期に入っての「一国一城令」による城廃却、そして旗本領として存続した郷の来歴などの詳しい内容は、去年のポタリング行の際に書いているので、ここでは触れずない。


 その初期の統治者である長尾氏についてのみ解説しておこう。

三日月堀のムラサキケマン

三日月堀の「ムラサキケマン」
三日月堀のムラサキケマン
ページTopへ移動
大手門から二の丸を望む 大手門から二の丸を望む

大手門から二の丸を望む (後方は小野子山)

<長尾氏の居城として>

 堀と土塁や石垣の残りだけとなってしまったが、今に残る遺構の姿に繋がる城は、室町時代の中期となる永享年間(1429年〜1441年)、「長尾景仲(ながお かげなか)」によって築城されたと伝わっている。

 長尾家は当時の室町幕府「関東管領(かんとうかんれい)」である上杉氏の庇護を受け、この地は関八州を納める山内上杉(やまのうち うえすぎ)家の重要拠点であったということだ。

 関東管領は、鎌倉を本拠とした室町幕府の関東での統治機関であり、国衙や軍衙などの律令制の行政機関が無くなった後の最高行政府だ。

 各国には守護が置かれたが、最高行政府としては京都や近畿など、中部までは幕府が直接に統治し、その他の地域は関東管領同様にブロック化されて「探題」が設置されて統治された。


 本丸に建つ案内版の記述によれば、「太田道灌(おおた どうかん)」の指導により城の縄張りが為されたと案内されている。改めて築城名人の道灌の技と言われてみれば、なるほど確かにこの時代にあっては先駆け的な構築の内容を持っていることに気が付く。

 当初の規模は三の丸郭程度でそれ程のものではなかったのだと思うが、室町の中期以降、軍事のみでなく政治・経済的な拠点としての意味合いを強めていって、次第に懐深い城が整備されていったのではないだろうか。

本丸跡


2012.05.20 撮影
本丸跡、大手門あたり

2012.05.20 撮影  本丸跡、大手門あたり。
ページTopへ移動
本丸跡、大手門あたり 大手門から二の丸を望む

大手門から二の丸、三の丸、北郭、金比羅郭を望む

 この「長尾家(氏族としては「白井・総社長尾氏」と呼ぶ)」を支えていた主家、関東管領の上杉氏は次第に没落して、ご存じのように越後の長尾氏を頼って上州から越後へと落ちのびる。

 その後、上杉氏(関東管領職と氏を継承)となった越後の長尾氏においても「御館の乱」が起こって関東は混迷を増すことになる。


 英雄、「上杉謙信(うえすぎ けんしん)」亡きあとに、養子であった景虎(かげとら)が、景勝(かげかつ)に敗れるためだ。

 越後の国人を従えた上杉景勝(実父は「長尾政景(ながお まさかげ)」)と小田原 北条が支えた上杉景虎(実父は「北条氏康(ほうじょう うじやす)」)の間で繰り広げられた戦いは、越後の勢力が勝利する。


 この騒乱によって上州側の勢力が上杉家(旧長尾家)から一掃されてしまい、白井に定着して勢力を張っていた長尾家は、その後ろ盾を失う結果となる。

 このため、戦国期の動乱と言うこともあるが、城も長尾氏から上杉氏、武田氏、北条氏、そして織田氏と、支配者を目まぐるしく変えていく。時代が下って徳川の世となった後、この地には2万石規模の藩が置かれた。

南郭

本丸横の「南郭」
南郭
ページTopへ移動
南郭の枝垂れ桜 南郭の枝垂れ桜。

 江戸を防衛するための徳川家の戦略思想の実現の一環として松平家時代からの譜代衆の実力大名がこの地を納めることになった。

  「本多康重(ほんだ やすしげ)」や「井伊直孝(いい なおたか)」、「西尾忠永(にしお ただなが)」など、5名の大名が順次、白井藩を統治する藩主となったのだった。

 だが、いずれも加増転封となり、やがて1623年(元和9年)に白井は廃藩となり、その後は旗本領として分割されたという。


 「元和(げんな)」年間というのは徳川家がその礎を磐石なものとして再構築した時代。元年に「大阪夏の陣」が起こって秀吉以来の栄華を誇った豊臣家が滅亡し、元和9年には徳川家光が三代将軍職を継いだという、激動の時代である。

南郭の枝垂れ桜 南郭の枝垂れ桜
ページTopへ移動
南郭の枝垂れ桜 南郭の枝垂れ桜

 元和(げんな)年間を境に戦国期の動乱は終息し、明治まで長く続く太平の世が到来した、と言っても過言ではない。

 後世の、その後の歴史変化を知っている私達から見ると、その激動の時代は<戦国期と近世との画期>なのだった。


 だから実践的な戦国の城であった「白井城」も、その時代の終焉とともに軍事と政治の中心拠点という役目を終えた。そして城下町という武家の領地としてその後栄えていくのではなく、時代を経るにしたがってその性格を次第に変化させていったのだった。

 やがて太平の世を下支えする<経済の拠点>へと変化して、町は徐々に変わったのだった。

本丸 本丸

本丸から見る「吾妻川」 (後方は榛名山)
ページTopへ移動
<旗本領として>

 江戸時代の初期には「藩」が置かれ、大名が統治をしたが、その後、藩は廃止されて「旗本領」として分割される事になった。

 旗本領に生まれ変わってからは、統治の拠点としてこの地には「陣屋」が置かれたのだろうが、藩時代とは統治の内実はまったく違っていたと思う。

 言うまでもなく旗本は江戸幕府のとった統治制度である「幕藩体制(江戸幕府が中央政権となり、各藩が独立性の高い自治を行なう統合体制)」を支える大名ではない。徳川家に直属する誇り高い家臣団がそれである。

 旗本は幕府直轄の内々の家臣達であって、徳川宗家の私兵といえる。江戸幕府は実質は連合政権であり、運営の多くは合議制(複数の決定権者がいた)であったが、主体である将軍は徳川家による世襲。

 その将軍に臣従した大名達(公の領主であり極端に言えば同盟者という事になる外様大名と、臣下の内の実力者である親藩の大名とが区別された)と徳川家臣団としての旗本は同列として扱われたものだった。

 彼らは、一国の主である大名と同様な権威と、大名に負けない矜持を持っていた。藩領という直接の支配地を持たない彼らは、後に大久保彦左衛門を筆頭として大名との間で盛んに争いを始める。

本丸 本丸には、案内板が有る。

城の郭の様子を示す図と
城の来歴や経緯などが記されている。
ページTopへ移動
 旗本は徳川の直臣なので参勤交代や賦役が無い。

 役職には付くが、そこでは当然役料が支給される。ところが大名に課せられた天下普請や朝廷への接待役などの莫大な出費の負担が、彼らに課せられる事はなく、だから公事に対する出費が皆無なのだった。

 このため、旗本家では実入りに対する支出が抑えられた。すべての事に莫大な経費が掛かる大名と比べて、石高は万石に及ばないので大名の足元に及ばないが、彼らの内実はかなり良かったようだ。そもそも、配下、臣下として抱えなければならない武士の人数があまりにも違っていた。


 旗本においては、独自の軍団の育成や保持、家臣と成る武士団は不要である。家宰と数人の武士のみで事が足り、いわゆる「番方(はんかた; 武人、武官)」は家の子・郎党を含めても数人から多くても十数人程度で済んだのだった。勿論、陣屋の管理・運営を行うために派遣された代官や家の宰領・経理維持をする家宰、公務の補佐など「役方(やくかた; 事務官、文官)」も数人で済んだであろう。

 しかし、<藩>のように封建領主の主家・家臣という体制を維持するため必要はなかった。領土の統治義務や幕府からの軍役や天下普請に代表される土木作業などの賦役など、いわば公務を果たすための数百名単位での武士団を賄う必要は無かったのだ。

 旗本の役務、幕府における公務がなければ「寄合席」や「小普請組」に置かれた。彼らは「無役」であるから、当然ながら役料は入らないが、家代々の「俸禄(固有の領地や扶持米)」はしっかりとあてがわれ続けた。

 公務に着いていれば、別途「組下」といわれる御家人層から与力や同心が旗本の配下に組み込まれる。多くの場合、組下の御家人は世襲でその職についている官吏であって、専門職化された組織(さらにその下位組織として「手付け」や「足軽」達が付属した)となっていた。そうして、それぞれの個人ではなく組織ぐるみで旗本にあてがわれたのだった。

 彼らは旗本の忠実な部下となって仕えたが、旗本家に世襲で仕える個人的な家来という訳ではない。だから、旗本が役務を外れれば、彼ら配下の組は解散となるか、次の役に着いた者の組下に組み入れられて、新たな上司としてまったく別の人に仕えることに成る。なお、組下の御家人への手当ては役料として幕府から別途支給されるので、旗本個人での撫育や代々に渡っての育成は不要であった。

本丸 本丸 南面の「笹郭」
ページTopへ移動
<藩領と旗本領での治世の違い>

 藩領よりも「天領(徳川家の直轄領)」だった郷の租税負担は数倍軽く、天領だった土地は武士以外の人たち ―村を支えた庄屋クラスの自営百姓達― も豊かであった。

 そうした天領では統治・管理者として「代官」が置かれて、彼らが統治(司法、警察、行政、収税)に当った。徳川宗家や旗本・御家人に給付する米を税として集積したが、多くても「四公六民」、通常は「三公七民」程度であったという。大名領は費えも多いのでこうしたわけにはいかず、江戸初期では「七公三民」という過酷な土地さえあったという。

 特に、関東外縁の諸藩、江戸の衛星都市のように置かれた「親藩」の多くがそうした状況であった。幕府を支える前衛的な意味もあったために、領国の石高(藩の税収の基になる収穫量)に比べて過大な家臣団を保持していた。

 高崎藩などで年貢取りたての割合が極端に高かったのは、そうした理由による。勿論、「下馬将軍」と異名をとった幕府大老の領地、酒井家が統治したお隣の厩橋(前橋)藩なども、10万石と石高が高いが、その石高を上回る多くの藩士を抱えていたのは同様の事であった。

本丸 ヒメオドリコソウ

ヒメオドリコソウ
ページTopへ移動
 藩であった土地には今に残る豪農の家や、豊かな家並みは見られない。

 けれど、天領や旗本領だった土地では、大きな家や豊かな町並みが今も多く残っている。

 このことについては司馬遼太郎さんの「街道をゆく」や「この国のかたち」などのエッセイで、詳細に語られている。そうした租税を始めとした統治状態の違いが、今に残る形に表れるのだと言う。

 さらに、そした穏やかさや豊かさは当然ながら代々引き継がれ、遥かな後世へと伝わっていくものになる。その土地の気候風土とあいまって、国人気質やお国柄といった、独特の気質として人のあり方を形成していくのだと言う。それを読んで、実に納得がいったのだった。

新郭

「新郭」から臨む榛名山
新郭への土塁
ページTopへ移動
ホトケノザ

ホトケノザ
オオイヌノフグリ

オオイヌノフグリ

 江戸時代においては、江戸庶民中の納税者だった町屋の人の生活や農層での庄屋や名主層、いわゆる「士農工商」の階級で分類された町民と農民の暮らしは豊かであったと思う。

 しかし、町民として分類されない納税しない市民、彼らの多くは江戸を支えた多様な職人達であり、日雇い的な日銭を稼いで暮らしていた長屋の住民達に代表される人達だ。

 町屋の旦那衆(納税者)ではなく、ただの町方衆だったので、江戸に暮らして白米を食べてはいたが租税の負担は皆無だったのだ。だから日々の暮らし向きはそれなりに厳しかっただろうが、稼いだお金は衣服住への宛がいや場合によっては芝居見物や花見遊山といった娯楽などまで、すべて自前の消費に当てることが出来た。

ナズナ ナズナ
ページTopへ移動
黒澤明 監督の晩年の作品で、「夢」というオムニバスの映画があった。

どの短編も味わいが深く、いずれも印象的な内容だ。

そのなかの一遍で、<桃の花>を題材にしたものがあった。

桃の節句の「雛飾り」が、実際の壇状の丘陵地に現れるというもの。
壇に飾られたような花は一時の栄華を誇り華麗に咲くのだが、やがて切られて株だけになってしまう。


ここで咲いていたのは、満開の枝垂れ桜だった。

満開の桜を見詰めながら、あまりにも美しく幻のように咲いている様子に見惚れていた。

今が盛りと咲いていたのは映画の中で現れる桃の花ではないのだが、ときにそよ風に淡く散る桜の様子に、その映画の一つのシーンをまざまざと思い出していたのだった。


夢幻のように咲く、枝垂れ桜

 都市での生活ではなく農村での事を見てみれば、少し様子が違っていた事に気が付く。

 庄屋や名主は勿論それ以外の村役の人達、つまり農村の主だった家の主達だが、彼らの上流層は自営農者なのでやはり豊かであったはずだ。しかし、その一方で農村を構成していた多くの村民、自営農以外の小作農の人達や自営といってもほんの数枚の田畑しか持っていなかった者の生活は困窮を極めたに違いない。

 勿論、彼らに現金収入はないので昼の労働だけでは足りず、夜は魚油を燃やして機を織り、あるいは明かりさえも手当てできない家では、暖を採るための囲炉裏の傍で縄や竹を編んで細工物を拵えたはずだ。
ページTopへ移動
白井宿

 囲炉裏は生活の中心、暖房であると同時に、家族が気兼ねなく集う場所であったろう。

 大きな農家では礼儀は厳格で、当主である長男とその家族の食事、次の間となる板の間に兄弟、土間に作番頭や下男や女中衆などが食事の場を取る。しかし、そうした食事の跡の団欒などは、囲炉裏の間で寛いだ。暖房だけでなく、照明としても使ったし、調理もした。庄屋や名主まで大きな農家でない場合などは、そこを囲んで、食事もそこで採ったことだろう。

 行灯(あんどん)などの燃油を必要とするものは、名主以外の農村の家では滅多に使えなかったはずだし、ましてや高価な蝋燭などはハレの日(モノ日や祝い事)でも無ければ灯さなかった。

 だから、そうした階層では、長男以外の家の者は城下に奉公(小者や中間としての武家奉公、手代を目指しての商家奉公)に出たり、目に見えた収奪が感じ取れない江戸の街での暮らしを目指したのだった。

白井宿
ページTopへ移動
白井宿 白井宿の街道(鎌倉街道)には水路が通っている。

その脇には八重桜が植えられている。

 旗本、御家人は土地(領土)に縛られない徳川家専属の軍団構成員だ。

 多くの人数がいたので役務に就けた者はその一部に過ぎない。役料を手に出来た者ならは兎も角、江戸に暮らす多くの武士達は固定化された家伝来の俸禄だけで生活しなければならなかった。しかも将軍への拝謁が許された旗本にしても、その状況は御家人同様であって、有職の者の方が極端に少なかったはずだ。

 しかも、「殿様」の敬称をもって呼ばれた旗本の層は非常に厚く、高禄から微禄の士まで様々であった。米を支給される禄米採りよりも、土地を直接納める旗本の方が圧倒的に少ない。

 氏姓の本貫地や先祖伝来の出生の地や姓の起こりの地はあるだろうが、彼らは直接の領地を持たず俸禄と役料の支給(米として配給されてそれを札差して現金に換える)を受ける都市住民であるのが一般的だ。領地を持っていれば自営者という事になり、独立農場主、領主という性格を帯びてくるが、それはごく一部の旗本に限られる。

八重桜の様子

白井宿を縦に割る鎌倉街道。

水路脇の八重桜が咲いた様子。
草津街道

2013.04.20 撮影
ページTopへ移動
町屋の様子 白井宿の様子

 勿論、何らかの大きな功績によって一家での領地が増えて、やがて万石を越えれば旗本ではなく「大名」に列するという事になる。

 しかし、千石以上の単位であれば、「大身旗本」であって、幕府内の枢要な役務を代々担っていくことになる。しかしそれでもあくまでも旗本であって大名格とはならないから、「奉行」や「側用人」どまりであった。

 大名が就任する役務である若年寄や老中や大老などの政治上の中心となる職務に就くことはなかった。

 大きな政治的な発言権や施政権は持っていなかった訳だが、しかし、実務的には極めて大きな力を振るう事が出来た。例えば、奉行職などは「定め書き」で細かく規定された職務であったが、行政的な運営手腕を発揮するような権限の移譲は彼らを統括する若年寄から受けていたはずだ。
ページTopへ移動
 大目付け以外の各種の目付け職、あるいは勘定奉行や町奉行や遠国奉行などの行政的な役務などは、実に魅力に溢れるものではないか。

 そう見れば、幕府中枢を動かすという望みを持たなければ、有意の職への就任を目指せる旗本身分は充分過ぎる特権層であったろう。そして、そうした特異な階級が領主である旗本領となれば、そこに生活する人々の豊かさは想像に余りある。

草津街道

白井宿を縦に割る鎌倉街道

そこの「中の町」からはご覧の「草津街道」が分岐する。
北郭や金比羅郭の横を抜けて、小高い丘へと登って行く。
草津街道
ページTopへ移動
街道に面した町屋の様子 街道筋に面した
町屋の様子

 こうした統治の緩やかさ ― いったいに、旗本領は潤いがあり、生活は穏やかであったという ― が町の発展に与えた影響は少なくなく、大いに関係があったろうと思われる。

 港湾都市(新潟、長崎、大阪を代表とする物流拠点の港町)以外の全国各地では、米が中心の経済活動が江戸期を通じて広く行なわれていた。そうした農業生産が中心に据えられた封建的な社会にあって、この白井は少し違った趣を持っていたように思われる。

 先に紹介したように幾つかの街道筋なので、江戸期に入ると宿場町として発展していったのだが、それにも増してこの土地は辺りとは違った特異な性格を持っていた。
ページTopへ移動
白井宿 白井宿

<「市場町」として栄える>

 この白井は「市場町」という珍しい性格を持っていて、周辺の流通での拠点といえる町だった。

 だから江戸期の主流である農本主義でなく重商主義的な町であったのだ。関八州の中心、江戸のご府内はいわば特別区。多くの武士が暮らす街であり、農家は在にならなけば登場せず、武家屋敷と町屋が続く、一大消費地であった。そこは政治の中心地でもあったが、千代田城(江戸城)を取り巻いて開発された特別な町だったから、消費経済ともいえる流通が発達した世界一の人口集中を誇る商都であった。

 しかし、その近世的な経済が発達したご府内を一歩外に出れば、街道筋にある宿場や藩がある城下町の中心地以外は農業地が果てしなく続く土地が溢れる。

 「藩領」は独立した統治国なので、法令も貨幣も独自のものを持っていた。例えば、「藩札」という独自の経済基盤を持っていたので難しい点もあるが、流通経済や消費経済という発展までは到っておらず、その規模は小さなものに過ぎない。まだ米が中心に世界が動いていた封建の世の只中にいた。

 そうした江戸府以外の社会情勢にあって、この白井は飛びぬけた特色を持つ。町の中心の街道の両側に様々な多くの店が並ぶ、今で言えば「アーケード街」が構成されていたのだった。白井宿は大きな市の開催で町を保っていた土地だった。
ページTopへ移動
道の駅

白井宿の詰まった場所にある「道の駅」。
地場の様々な物産が売られている。
市場町だった様子が、その繁盛する道の駅の様子に重なってくる。

 まだまだ物々交換もあったのだろうが、商品や産物が流通するのに至便な貨幣経済(手形や為替、現金での取引)が確立していたのではないだろうか。

 町には定期的に市が立って、周辺の土地やかなりの遠方から多くの人と物を集めたと言う。それは衰えることがなかった流通の拠点。集積と拡散の地である「市場町(いちば まち)」として江戸期を通じて栄えたという。

 元々、白井宿は「信州街道」や「三国街道」の宿場町である。信州街道は別名を「草津(くさつ)道」とも言う。


 織豊時代(室町末期)に遡る話になる。古代に成立した大和朝廷が東征のための大動脈として整備した「東山道」の重要な拠点が信濃国の上田であった。その地は単なる宿駅ではなく、越後路や上州路そして佐久街道など諸街道の分岐点としての要衝の地であった。そのように古くから拓けた上田に進出し、1583年(天正11年)に城下町として整備したのが戦国の雄である真田氏だった。築城時の当主は英雄「武田信玄(たけだ しんげん)」にその才気を愛され、武田家の侵略の前衛である信州先方衆として活躍した「真田昌幸(さなだ まさゆき)」。  昌幸は徳川家康との2度の合戦において、共に完全な勝利を収めた事によって天下に勇名を馳せることになる謀将である。北信濃の小県郡を本拠としてから吾妻一帯に勢力を伸ばしていた。

 上田築城時にはすでに信玄は没しており、北信濃に割拠していた村上氏を追い落として一族の地盤を固め、独自の勢力を築き上げていた。主家であった武田家滅亡後は一応は上杉家を後援としたが、天下を掌握して間もない豊臣秀吉にもいち早く通じていた。  武田勝頼へ出仕していた昌幸の長男「信之」は勝頼の息子の信勝と共に元服するが、信之の名の一文字は信勝から贈られた偏諱である。武田滅亡時には昌幸の兄達(幸隆の息子、長男と次男;昌幸は三男)は戦死してしまうが、信之は上田へと無事に帰還する。後に沼田城にあって徳川家の重鎮であった「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」の娘を妻(家康の養女となって輿入れする)とし、終生、徳川の配下となった。一方、真田幸村(さなだ ゆきむら)という通り名で有名な弟の「信繁」は当初は上杉家にあって景勝の薫陶を受け、後に天下を掌握して間もない豊臣秀吉へと差出されて小姓として仕えさせられた。ここで信繁も父譲りの才覚を秀吉に買われて、秀吉股肱の家臣である「大谷吉継(おおたに よしつぐ;刑部少輔)」の娘を妻とする。後に従五位下左衛門佐に叙任され、豊臣の姓を下賜される。昌幸が信繁を上杉・豊臣両家へ仕えさせたのは属将の証としての人質であり、一族が忠誠を誓う印であった。真田家は戦国の小領主であった訳だが、豊臣政権下においては豊臣配下の大名となって信濃小県郡、上野国吾妻郡・利根郡の所領を安堵される。

 ちなみに、徳川政権下においては生き残った長男の信之が上田藩を、後に改易(増封)となって松代藩を納める大名となる。後に取り潰されてしまうのだが、その息子は別家を建てて沼田藩(昌幸時代の信之の居城)を納める。


 真田家の概要が長くなってしまったが、真田家による吾妻や利根地方といった上州の北部域への進出と共に、本拠の上田から発して関東の入り口へと到る吾妻を抜ける道が整備され続けた訳だ。その通路は鳥居峠を越えることになるが、同じく上野へと抜けるための碓氷峠越えの道(中仙道)や内山峠越えの道(下仁田街道)ほどの難路ではないので旅程としては短くて済むし、全体としての道筋も急峻ではない。

 だから吾妻を抜ければ大きな難所といったものが無い、という当時の旅にあっては極めて重要な利点が得られたわけだ。真田郷や中之条を通って吾妻川に沿って東へと伸び、白井に到って南下して渋川へと到る、85kmに及ぶ通行路である。

 北信濃から上野へ、つまり関東への主要な道として上田築城を機に整備されたのが「信州街道」だった。街道は中之条から西側を上州街道(国道「144号」線、「406号」線)、東側を信州街道(国道「145号」線、「353号」線、そして「17号」線)と呼ぶが、中之条からは温泉で有名な「草津(くさつ)」へと分岐するので、その街道は「草津街道」とも呼ばれた。江戸時代には草津周辺への湯治が盛んになり、通行も多かった。


 この街道は人々が盛んに行き交う主要な陸路であり物資輸送の動脈でもあったが、やがて時代が下ると街道に並行する吾妻川(あがつまがわ)が物流の中心になっていく。1854年(江戸時代末期)になると、信濃の木材や越後の米を輸送するため、陸路ではなく吾妻川を利用した川運が盛んになっていくのだ。原町、山田(中之条)、岩井(吾妻町)、北牧(きたもく;三国街道の杢ヶ橋関所の北側)などの各所に河岸が設けられたという。吾妻川は白井の地で利根川へと合流する流れである。
ページTopへ移動
吾妻川に掛かる橋。

これを戻れば、白井宿から渋川へと向かうことになる。



前方に見えるのは、「榛名山」。

 町並みを歩くと、そうした繁栄を偲ばせるに充分な豊かな家並みや規模感のある街並みの様子が、市場町然として今に残っているのだった。

 それは、町の中央を流れる豊かな用水路の印象によるのかもしれない。一面から言えば、市場町はまた「宿場町」でもあるのだろうが、たとえば前橋にある実家に近い「駒形(こまがた)」の街が持っていた様な、宿場町の持つ貧相な様子が無いのだった。


 実家からも程近い古河線沿いにあった「駒形」の街並みも、今では区画整理が進行して、道も拡張されて、往時の姿がすっかり無くなった。だから、今、街道筋の街並みの面影はまるで無く、そこが宿場町であった事を誰も想像できない状態になっている。数年前にはまだ、その様子が色濃く残っていたのであるが・・・。
ページTopへ移動