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2012.05.20
渋川 白井(しろい)宿を行く(歴史探訪)

走行距離;
 50.3km ;走行時間 2時間40分

カメラ;
 iPhone 4S
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

本日の自転車
 FELT F−85

<関連ページ>

 ハイキング  のんびり 行こうよ;2013.04.08 「渋川、白井城址を歩く」
 写真  のんびり 行こうよ;2013.07.07 「紫陽花が咲く(白井、渋川)」


 故郷「前橋」の北部、ここから県内の山岳地帯がそろそろ始まるという渋川市。

 前橋が赤城の麓の街ならば、渋川は榛名の麓の街といえよう。関東平野は市の入口で終わり、市域の大部分は山々へと続く傾斜地となっているという土地柄だ。

 東方に赤城(あかぎ)山、西方に榛名(はるな)山を控え、、まるで扇状地のように榛名の麓に広がっている。

利根川サイクリングロード 利根川、右岸のサイクリングロードを行く

平成大橋の付近
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 前橋方面からいえば、渋川市は県内の温泉への出発の地といえる。

 この土地は、榛名山麓に展開し石段街で有名な伊香保温泉への入口であり、草津温泉へ抜ける吾妻街道への入口でもあり、奥利根の水上温泉や三国山脈手前の猿ヶ京温泉への出発点となる場所なのだった。

 関東平野の集束の際(関八州からみれば前衛の地に当たる)なのでそれも当然だろう。

利根川サイクリングロード サイクリングロードを行く

前方に見えるのは「前橋グリーンドーム」
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<渋川へ>

 渋川の街で今も催されているかどうかは知らないが、「へそ祭り」という市を挙げての行事が有名だ。

 改めて調べてみた。その祭りは今でも続いているようで、どうやら7月下旬辺りに行なわれるらしい。日本列島の南北の中心地点と唱える同市がいつの頃からか「日本のへそ」というキャッチフレーズを標榜しているためだ。

 前橋の南部から渋川に向かうには、大きく言えば次の3パターンだろうか。

 国道17号を直行して市内を縦貫していくか、あるいは、一旦赤城に登って麓や中腹を巻いて進んでから改めて渋川へ下りる、といった経路がある。さらには、高崎方面へ平地を進んで、総社の辺りから榛名の麓を巻いていくというコースもとれる。

サイクリングロードを行く サイクリングロードを行く

利根川サイクリングロード(吉岡の辺り)
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 今回は、先日の吾妻、中之条からの帰りに走った利根川CRを行くことにする。

 前橋の南部、六供(ろっく)の辺りから利根川へ下りて、右岸に整備されたサイクリングロードを快適に走ろうということだ。「南部大橋」の北にある「平成大橋」を渡って、利根川の対岸へいき、そこから自転車専用の道へ下りる。

 コースの路面は舗装が良くて、適度にアップダウンがあり、すれ違いも充分に出来るし、東屋などを設えた途中の休憩スポットが豊富に用意されている。

 それは、荒川CR程の幅は無いけれど、多摩川や江戸川から比べれば、数倍快適な道といえるものだろう。前橋の南部から利根川の流れをずっと楽しみながら快適に遡上していくと、やがてそのまま渋川へと至る事が出来る。

路面の状態は非常に良い 利根川サイクリングロードは、利根川の右岸の河岸段丘を巧みに利用している。
時には川面に真近にせまるが、大体は岸壁の中ほどの位置を走る。


コースは実によく整備されている。

<お勧めの休憩スポット>

 市街地を抜けて、「平成大橋」辺りから利根川サイクリングロードのコースに入って走る。走り始めて、程ない位置になるが、給水ポイントとして私達が最初に休むのは総社(そうじゃ)のあたりだ。そこで、ボトルの水を飲んで、その日の調子を確認する。

 次は吉岡の運動公園の辺りだろうか。これは、その辺りまでハイペースで走って来て汗が出て、少し疲れるためだ。トイレと洗顔が目的。総社までは平坦な道であり、前工(甲子園の常連高校、前橋工業)のグランド横が若干のアップダウンがあるくらいだ。最初のポイントから先も比較的には平坦なのだが、先ほどの区間よりもアップダウンが増す。

 両ポイントともにちょっとしたスペースと東屋があって、直射日光を避けて休憩ができる。何といってもそこからの景色が良い。

 運動公園のスポットには清潔なトイレと水飲み場がある。ここは、お勧めの場所だ。
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白井宿に到着 白井宿の街道入り口

<白井(しろい)宿>

 渋川の市街から北部へ展開する山並みを見渡すと、子持(こもち)山や小野子(おのこ)山が真近に続き、その奥に残雪を残した谷川岳や奥利根、さらに三国山脈へと山並みが重なる。

 谷川岳の麓の温泉で有名な水上(みなかみ)の深部、奥利根地方を源流域として「利根川(とねがわ)」がその山並みを縫って流れてくる。関東平野を流れる間にぐんぐんと川幅を広げて行って、やがては太平洋へと注ぎ込む。平野を横切る流路は長大で、日本を代表する有数の河川であるため、この川は「坂東太郎(ばんどうたろう)」の異名を持っている。

 その大河の流れは市域ではまだ急峻なのだが、市の北辺で信州に接した山岳地帯の吾妻地方を同じように縫って流れ来る吾妻川(あがつまがわ)が流れ込み、川幅を増す。

 渋川の地は、前橋からみると平野の尽きた北方に当たるが、真田氏ゆかりの地として有名な「沼田(ぬまた)」からみるとその前衛といえる。

 沼田は言うまでもなく戦国ドラマの大きな舞台となった地だが、そこは新潟、長野、栃木や福島と群馬を結ぶ要衝の地であった。

 関東平野の入口を抑える渋川もまた、奥に沼田を控えているとはいえそれらの土地と関八州との結節点である。沼田に等しく、鎌倉時代をはじめ、戦国期を通じて要衝の地であったに違いない。
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白井宿の奥、白井城跡 白井宿(しろいじゅく)は実にコンパクトな町並み

街道の中央に川が流れ、その両脇の岸は雰囲気の溢れる石積みとなっている。


紫陽花や桜が岸に沿って植えられている。

 さて、渋川市の北辺、利根川と吾妻川が合流する段丘上に奥深く展開されているのが、「白井(しろい)城」跡だ。

 だから、本日の目的地である「白井(しろい)宿」は、宿場町ではなく実はれっきとした城下町なのだった。

 そもそも私は、前橋の厩橋(うまやばし)城や沼田の沼田城、月夜野の名胡桃(なくるみ)城、松井田城や箕輪城は知っていても、この地に戦国期の城があった事自体を知らずに過ごしていた。

 迂闊きわまりないことだが、今回、町を通り過ぎるだけでなく改めてじっくりと訪れてみて、はじめて<戦国の城>の存在を知ったのだった。
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 実はこの日まで、街道沿いの古い宿場街としかここを捉えていなかったし、その上、私は地名に関しても思い違いを続けていた。

 この土地を「しらい」と思いこんでいて、正式には「しろい」と呼ぶものという事も、町の中の道路標識を見て初めて知ったのだった。

白井城跡への入り口 城跡への入り口

意外な規模の遺構が残る。
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<白井城跡>

 白井城は、室町時代から江戸時代初期の崖端城だ。

 しかし、この地の歴史はもう少し古い鎌倉時代の康元元年(1258)から始まるのだという。

 上野国の守護であった上杉氏(春日山を拠点とした「謙信」の氏では無い)の家臣で、長尾氏(上野国の守護代)がこの地(白井の庄)を与えられた事から、長尾氏が支配し、整備を始めたという。

間伐財のチップが敷かれる お地蔵様
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 鎌倉時代(上杉氏統治の初期の頃)、城の規模はずっと小さなものであったはずだ。それは、吾妻川の河岸段丘を利用した武家館然とした様子であったのだろうと思われる。

 ちょうど、埼玉の武蔵嵐山(むさしらんざん)に残る鎌倉御家人の英雄、畠山重忠(はたけやま しげただ)の居館として嵐山渓谷の河岸段丘上に遺構が残る菅谷館のようであったに違いない。

 ここの館も菅谷館と同じように、一路鎌倉へと続く街道を眼下に納め、その脇に展開されたことと思う。

掘割と土塁のあと 堀跡を進む
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 「崖城(寄居の鉢形城や長野の小諸城などを思い浮かべると良い)」と書くと山城に近い印象を持つだろう。ところが、ここの遺構をみればそうした古いタイプの構造とは一線を画したものだという事に、誰もが気付くに違いない。

 明らかに近代的な性格をもった城であり、城下町が形成されていたと思われる。

 吾妻川の断崖を背にして本丸と馬場が崖の奥に控え、大手門の外に二の丸、三の丸をはじめとする幾つもの郭が段丘上に重なる構造が見事に残っている。

堀跡 三日月堀(水堀)
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本丸を護る土塁 本丸を護る土塁

 一方で城地の東方、利根川の河岸段丘に展開したともいえる宿場町の辺りは、三の丸郭の北に連なる北郭や金毘羅郭、さらに本丸と堀を挟んで南に展開する南郭や新郭といった構造に重なっている。

 宿場町の様子のみが色濃く残っているが、白井宿の起こりはそもそもが城下町から変質したものといえよう。

 今に残る宿場を囲い込んで広がる城の構築からは、武家屋敷や軍事拠点ともなる寺社、さらに町屋を含みこんだ総構えの平城の特性を持っていた事が見て取れる。
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 堀と土塁や石垣だけとなってしまったが、今に残る遺構の姿に繋がる城は、永享年間(1429〜1441)、長尾景仲(ながお かげなか)によって築城されたと伝わる。

 長尾家は当時の関東管領である上杉氏の庇護を受け、この地は関八州を納める山内上杉(やまのうち うえすぎ)家の重要拠点であったということだ。

奥の郭 本丸横の馬場
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 この枢要の地に建っていた実践的な戦国の城も、戦乱の時代の終焉とともに軍事と政治の地という役目を終えた。

 やがて江戸の安定を向かえ、太平の世を下支えする経済の拠点へと変化して、町の性質を徐々に変えていったのだろう。

城の縄張り 案内版
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本丸跡  本丸跡、大手門あたり

 藩であった土地には今に残る豪農の家並みは見られない。

 けれど、「天領(てんりょう:幕府直轄領)だった土地では、大きな家並みが今も多く残っている。これについては司馬遼太郎さんの「街道をゆく」や「この国のかたち」などのエッセイで詳細に語られている。

 そうした租税を始めとした統治状態の違いが今に残る形に表れるが、さらに、その土地の風土とあいまって、気質(国人気質、お国柄)を形成するのだと言う。
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馬場 この先は絶壁

 「旗本領」であったがための統治の緩やかさ(いったいに、旗本領は潤いがあり、生活は穏やかであったという)が町の発展に与えた影響は少なくなかろうと思われる。

 港湾都市(新潟、長崎、大阪を代表とする物流拠点の港町)以外の全国各地で米が中心の経済活動が江戸期を通じて広く行なわれていたが、この土地は流通の拠点だから農本主義でなく重商主義的であったのだと思う。

 まだまだ物々交換もあったのだろうが、商品や産物が流通するのに至便な貨幣経済(手形や為替、現金での取引)が確立していたのではないだろうか。

本丸を護る土塁 大手横の馬場と思われる郭を取り巻くの土塁の上を歩く。
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ハルジオンが咲く 城の入り口横

 町には定期的に市が立って、周辺の土地やかなりの遠方から多くの人と物を集めたと言う。

 それは衰えることなく、流通の拠点(集積と拡散の地)である「市場町(いちば まち)」として江戸期を通じて栄えたという。

 町並みを歩くと、そうした繁栄を偲ばせるに充分な豊かな家並みや規模感のある街並み(たとえば、実家に近い駒形の様な、宿場町の持つ貧相な様子が無い)の様子が、宿場町然として今に残っているのだった。それは、町の中央を流れる豊かな用水路の印象によるのかもしれない。
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白井宿 白井宿

 白井宿の街並は利根川と吾妻川に挟まれた土地なので、水に関しては何の苦労も無いものと考えてしまうが、どうもそう上手い具合にはいかなかったらしい。

 町の中心は街道筋となる。その通りの中央には豊かな水路が通っている。心地よい木陰を作る桜や、桜並木の根元を彩るように紫陽花などが植えられている。

 その水路に沿って街を散歩すると、水路の脇にはいくつかの大きな井戸が用意されていた事に気が付く。その案内掲示の説明によれば、井戸はどれも深いらしく、遠い昔の事にはなるがこの地では相当に水の苦労をしたらしい。利根川や吾妻川を流れる水が土地に浸透するだけなのかも知れない。城側には水源(池や沼、湧き水)らしいものが見当たらないし、町を分つような大きな川や水路が見当たらない。町の中央を流れるこの用水路しか水源が無いようなのだ。
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白井宿 街路の中心

 この地が火山灰を中心とした堆積でもって構成された土地(榛名山の扇状地)であってみれば、伏流水が流れる粘土層は大分地下の深い場所を通ることになるのだろう。そのため、水量豊かに流れる川筋の交わる土地であっても、その水系の恩恵にはあまり預かれないらしい。

 街中の井戸脇にある説明書きによれば、住民は実に深い場所まで井戸を掘り進めて生活の水を確保したという。

 そうして深く穿ったその井戸からは、勿論放って置いて自然に水が溢れ出てくれるといういわけではない。人が自分の腕力だけで水の入った重い釣瓶(つるべ)を深い井戸から引き上げなければ、井戸はあってもだれもそこの水を汲み上げられないのだ。

 町並みの中心に小川のような流れを通す。水が浸み込まないように水路の土手を石積みで頑強に覆う。そしてその流路を木々で覆って、夏の強い日差しから水の流れを護る。そうした工夫も、貴重な水への必要性からの手当てなのだろう。
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街道筋の町屋 街道筋に面した
町屋の様子


 城下町であった江戸初期の当時の頃からこの水路があったのかどうか、そこまでは水路脇の案内版では触れていない。

 だから、目にした水路が藩時代のものかそれとも市場町となった繁栄当時からの水路なのかどうかは、実のところは判らない。

 村の裏には沢があり、その沢筋を護るための里山があって、村(集落であり、共同体)の入会地(いりあいち)として、皆で何世代もに渡ってそれを守る。城下町などで里山に遠ければ、川筋から水を引いて小川にし、それを家々の間に通し、あるいは街中にも水路を設えて水の流れを皆で共有する。

 そうした工夫や生活が江戸や大阪、名古屋などの大都市以外の土地では古くから営まれてきたはずだ。(江戸などの大都市では浄水、つまり水道が整備されていた。) 水場は大きな、そして大切な生活の場なので占有するという具合にはいかない。そこはあくまでも公共のものだったと思うのだ。
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街路を流れる小川 道筋は鎌倉街道

 この地でも、家々にはそれなりに井戸があったろうが、全ての家(町屋)が独自の財力でそれを深く掘るには難があろう。

 街道筋という街中の目抜き通りに幾つもの深い井戸を堀って、それを何軒かの家での共有として大切に扱って運営する。そうすれば、水源としての井戸を維持する人手も確保できて、水の管理も人(組)の管理も緻密に出来たろうと思うのだ。
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道筋は鎌倉街道 道筋は鎌倉街道

 道を歩くと、その両脇に大きな家が残っている。

 古い城下町に多い、間口が狭く奥行きのある、あの独特な家割りの状態だ。道の脇の家並みは、今ではそれぞれが2軒並び程度のものになっていて、まさに道に面して家へ出入りするほかに手立てが無い。古くは道に面して商売屋として一軒、そしてその奥に母屋がある、と言った具合だったのだろうか。

 市場町としての町並みの雰囲気が残っているが、そうした往時を偲ばせる様な家作自体は、もうほんの一部にしか残っていない。川越の蔵の町を思わせる様な白しっくい壁の蔵作り家並みが並ぶ一画、総二階の連子窓を持つ大きな町屋、それに大谷石(おおやいし;日光近在の大谷で算出される蔵用の石)で作られた頑強な蔵などだ。

 今、目にする多くの家はそうした状態では無いけれど、無粋なブロック塀などは町並みには皆無なので、通りにはなんともいえない落ち着いた味がある。それに気が付けばこの通りにはあの厄介な電柱が立っていない。だから、この通りに立つと清々しく感じられるのかもしれない。いつもの生活の場とは違って、この町並みを歩くと、空がとても広いのだ。
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古い町屋 宿場の様子

 通りに面して家々の前には、古い時代の屋号や何の商いをしていたかの商売内容が書かれた大書きの看板が出ている。

 右上の写真、白壁の長屋門の正面脇に立っている木製の看板がそうした案内板の一枚だ。案内板の作りにまでも細かい神経が払われている。足袋の問屋であったり、荒物や袋物屋であったり、呉服や下駄屋であったり、作り酒屋や醤油屋であったり・・・。

 看板に記された内容を眺めて歩いていて、まるで飽きる事がない。この町並みに<市>が立ち、人々が遠方から集まって来る。人が集えば、それを目当ての屋台なども沢山出たことだろう。

 静かな通りが活気に満ちて賑わう様子を想像しながら、その看板を読みながら、街の奥へと歩いていく。

家並み 街路を流れる小川
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通りの中央、だから町の中心だが、そこに流れる水路 道の駅

 通りの中央、だから町の中心となる場所なのだが、そこに流れる水路の脇には菖蒲や紫陽花が植えられている。

 青葉だけになってしまったが、桜も並木になっている。

 花の咲く時期の景色はどんなだろう。この古い町の雰囲気の中で、微風にそよいで桜色の花弁が散るさまは一体どんな様子になるのだろう・・・。そこに立って、家並みを眺めながら散る花を楽しんで歩いたら、それはまるで幻の中を歩むような心地なのではないだろうか。

 そうした事を想像し始めたら、ゆったりと流れる時に身を委ねて、のんびりと座っていたい気分になってきた。

道の駅
 街の奥までぐんぐん進むと、やがてこの雰囲気溢れる街道は終わりを告げる。そして、国道につながる場所に道の駅が現れる。

 こうした土地柄だから、道の駅もその雰囲気にそぐわないようなものではなく、まるで、公園のような感じを持っている。

 物産館やレストランはいまどきの作りだけれど、その脇に小さな庭園が用意され、水車小屋まで現れるのだった。
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<本日の旨い物 地物野菜 と とり五目>

 町の中央の流れに沿って、その奥まで進むと、櫓が現れる。やがてその先で夢から醒めるように忽然と家並みが終わりを告げる。

 白井宿の出口(沼田側;山側)に着いたのだった。その先で新潟へ続く国道17号に合流するが、その脇に道の駅がある。道の駅なので、物産館があり、そこで沢山の地物野菜が売られている。レストランもあるが、ひどい混雑なのでそこを敬遠して、地物を確保して昼食にする事にした。

道の駅(とり五目ごはん) 道の駅(地物確保)

 手に入れたのは、「孝子屋 とり五目ごはん」。

 孝子さんが作っているのかどうかと思ってラベルを確認したら、製造者は渋川市の佐藤孝子さんと書かれていた。

 この五目御飯が実に絶品で、是非どうぞご賞味あれ、とお勧めしたくなってくる美味しさだった。さらに、ご飯だけでなく、地元の水や地物の大豆で作った豆腐も買い込んでみた。

 豆腐はあえて木綿どうふにしてみたのだが、コクがあってこれもまた美味しいものだった。そしてデザートは朝積みのイチゴ。それから私の大好物、同じく地物のエシャレットを買い込んだ。

道の駅(地物確保)これは外せません 東屋の横には水場があった。

水道を捻ると、蛇口からは「山の水」と呼べるほどの、冷えた水が流れてきた。

ボトルに満たして美味しい水をまず確保して、
買ったイチゴとエシャレットをその水で洗った。

水を張って、イチゴを暫く冷やす事にした。
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利根川(吾妻川との合流) 利根川(吾妻川との合流)

 敷地内にある庭園には菖蒲が植えられて回廊のような遊歩道が付けられている。

 水の流れに沿っているのだが、その水は大きな水車が流したもの。そうした流れや花の池や、それを囲む歩道などで、公園のような休息所を作っている。

 その一画、北側の脇に大きな東屋がある。誰もが座れるように木材の棚状の椅子が取り回されている。そこで風流な庭を眺めながら、私達は買い込んだ食材で昼食を採りつつ、のんびりと休憩する事にした。

利根川(吾妻川との合流) 吉岡で休憩
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 白井で、城と古い市場町の雰囲気を存分に楽しんだ。

 今日の自転車行はのんびり基調のポタリングであり、ここ数回続いた山坂道のトレーニングが目的ではなかった。

 走行自体は平地なので、割とハイペースで飛ばして来たのだが、ここでは随分とゆっくり過ごしたと思う。充分な時間を使って散歩が楽しめた。そこかしこに掲げられた案内板にも几帳面に目を通したが、そのためもあって本日の歴史探訪という目的は達成出来たのではなかろうか。

 さて、復路である。帰りも快調なペースで走れる「利根川サイクリングロード」を進んで行く。快適さが一杯の道を心地よく走って風を感じながら、前橋へと戻ろうではないか。

本日の愛車 本日の相棒

愛車FELT F85
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