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2012.04.22
赤城 大胡から滝窪、そして嶺公園へ向かう(坂道その3)

走行距離;
 40.3km ;走行時間 2時間45分

カメラ;
 iPhone 4S  (画像添付時に約30%程度に圧縮)

本日の自転車
 FELT F−85


 大胡(おおご)までの走行で、坂道の予備練習はできたように思う。

 少なくとも、緩やかな斜度であれば加速しつつ登ることが出来る様になって来た。これなら、反復練習あるのみ、ということで再度、大胡へ向かった。しかし、今回は大胡から戻るのではなく、そこから道を西にとって山腹を進む予定だ。

 大胡の町を抜けてさらに赤城(あかぎ)山の南斜面を登っていって、「南面道路」の手前(一本下側)の道を走る。そして滝窪へ行って、その地に工房を構える友人Tと昼食を楽しむという内容。

 友人Tお勧めの寛げる雰囲気の良い喫茶店がそこにあるという。まあ、だから今回の目的地は、そのお店。

 滝窪にある「柱時計」さんだ。

大胡駅間のロータリー;本日の相棒 <大胡駅前のロータリー:上毛電鉄>

今日の相棒も、友人H。

気の合う、大切な友達だ。

 前回の大胡までの登りは45分ほどが掛かったように思うが、もうこの坂道にも慣れたようで、今日の登りは快速だった。

 駒形から大胡駅までで30分。まずまずの速度だろう。

 さて、今日の相棒も、いつも付き合ってくれている友人H。口は悪いし、ぶっきら棒だが、それはポーズにしか過ぎない。内面が子供だから、大人っぽく見せようとしているに違いない。いや、そんな風に書くと怒られよう。

 冗談はさておき、彼の内実は繊細なこころと途轍もない温かみを秘めているのだった。そうした思いやりは中学生のころから変わることなく、だから交わる私も、彼の前では素直でいられる。

 あまり調子に乗ると、怒り出して凶暴化するが、普段は実に穏やかな性格だ。

 介護をしていた母が、体調を崩して入院し、改めて検査をしてみたらひどく転移した末期がんが発見された。桜の散るころまでが、と主治医に告げられて呆然とする私を、何時もと変わらず励ましてくれたのが彼を含む友人達だった。

 えっと思うまもなく亡くなってしまってからも、毎夜、私を訪ねてくれたのだった。

 葬祭ホールに泊り込んだ当日から、飲むだろ、っといって四合瓶を片手に現れて、深夜まで付き合ってくれた。ベタッとするわけではなく、何時もの態度で接してくれることが、私にとっては本当に有難かった。そうやって前橋にいる一週間の間、慰め、励まし続けてくれたのだった。日本酒の地酒、これ旨いんだろ、などといって持って来てくれたのは、八海山や地元の酒。赤城山や町田酒造の清瞭など。彼自身は酒を飲まないので印象は薄いはずなのだが、よく私の好みを覚えているのだった。こうしたところが、友人Hの温かさなのだ。
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 藤岡・大胡線を快調に走って、大胡駅前に着いた。

 ここでちょっと小休止。街中を抜けて、これから滝窪へ向かう。そこは赤城の山腹を巻く形で走るのだが、尾根筋を幾つか越えるので、坂の登りと下りがいくつか連続して現れる。

 私達は、大胡の清掃工場の脇道を登っていって、そのまま北に向かって走り総合運動公園へ出た。

 公園のある場所は、大胡側から見ると断崖の先だ。谷を流れる川が尾根を削って、急な台地にしたような印象だ。橋を渡った先に一段低くなった別の尾根筋があって、そこに大きな公園が整備されていた。

 橋を渡って公園を横目で見ながら通り抜けて、そこからいったん坂を下り、また坂を登った。その先はなだらかな登りの傾斜が続いている広い斜面が続く。

 一旦北に道をとって、坂道を一心に登っていくと、やがて滝窪の小学校が見えてきた。

 このあたりの小学生の通学は大変だろうな、と同情してしまうが、本当にあたりは山坂道ばかりだ。台地の上に建っているような小学校の裏手に回りこんで、友人Tに連絡した。

 程なく見慣れた軽自動車が現れた。店まで先導してくれるというので、彼の車について、学校裏の緩やかな坂をまた登った。

ちょっと一服させてくれ! 柱時計さんの店内
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個室側(柱時計さんの店内) メニューはこちら

 田の中の一本道はすぐに終わって、やがて県道に出た。そこをひと登りしたら、坂の上段にその店が現れた。

 「<柱時計>って言う店があるけど、落ち着いていい雰囲気なのだ。コーヒーが美味しいので立ち寄るが、そこのマスターが面白い人で、客が少ないときはいろいろと話してくれる、いい店だ」という話を友人Tがしてくれた。

 通夜の晩、式が終わって線香を守る私を葬祭場に尋ねてくれた時にそんな話をしてくれたのだった。

 仕事の都合で通夜式の後のお清めには間に合わなくて、彼が着いたときにはすでに散会した後だったという。中学生の頃には、よく我が家で夕食を共にしたので私の母には彼なりの思い出があって、ホールに安置された母に一人で焼香をしてくれたのだという。そんな事には気づかずにいて、彼からの留守電が入っていたので連絡をしたのだった。もうお清めも終わって今は一人なのだ、というと夜も更けたというのにタクシーを飛ばしてやってきてくれたのだった。

 山中の喫茶店で、アンティークが置いてあって、JAZZやクラシックが流れている、というその店は、いったいどんな店なのかと私は話を聞いたときから気になっていた。

 友人Tはいまバドミントンをやっていて、滝窪小学校で練習し、そこで午前中はジュニアの指導をしているという。土曜日はその練習日なので、昼過ぎならその店に案内してくれるというのだった。

 せっかくなので、気になるその店に連れて行ってもらうことにしたのだった。
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 店に入ると、私はその雰囲気にすっかり和んでしまった。

 ひどく明るいわけも無く、かといって暗いわけでもない程よい明るさの店内。そこに、巧みに配されたアンティークのいろいろなものが、実用品として置かれている。

 ケヤキの一枚板の大きなテーブル。古い鋳物のダルマストーブ。勿論、柱時計。そして骨董の大皿など。店の奥には古いステレオがあって、プレーヤにLPレコードが回っている。流れているのは、シックなJAZZボーカルでクリス・コナーのスタンダードナンバーのアルバム。

 実に、いいじゃないですか。この雰囲気。

 静かに話すマスターが現れて注文をとる。聞けば店の内装は自分でやったのだという。それもそのはずで、友人の話では、マスターは電装屋さんで経営者。その傍らで、この店を始めたのだという。

 いっぺんで、好きになってしまった店だった。

緩やかな時間の流れ(柱時計さんの店内) 店内は、アンティークが置かれているが、決して民芸調というわけではない。

親しみやすい静かな雰囲気で、
シックな店内では緩やかな時間が流れていた。
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 お店はコーヒーだけでなく、軽食も賄ってくれる。

 ランチセットが休日でも用意されているので、空いたお腹を満たすことも出来るのだ。勿論、セットにはコーヒーがつく。さらには、これはサービスだったのだろうが、コーヒーとは別にコーヒーゼりーも出して頂いた。これがまた、疲れた体に心地いい。

 一時間のうえ、寛いでしまっただろうか。ゆったりとした雰囲気にすっかりのんびりして、リフレッシュできた。

 さて、ここからは、山を下って戻るわけだが、友人Hが「ここまで来たのだから嶺公園へ回っていこう」と言いはじめた。

 前回は大胡の桜、二之宮の桜が満開だったが、今なら嶺の桜が満開だろう。すかさず賛成して、私達は嶺に回って戻ることにした。

 嶺への道が良くわからないので、一旦、大胡グリーンフラワー牧場へ向かうことにした。店に来たときと同様に、友人Tにまた車で先導してもらうことにした。

大胡グリーンフラワー牧場 大胡グリーンフラワー牧場
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 店からの下り道に気を良くしていたら、その終点位置で左に曲がって、細い道に入った。目の前に出現したのはとんでもない勾配の坂道で、しばらくは彼の車について行ったが、とてもではないが追いかけていけない状態。見る間に先導する車との差が開き、登りのスピードはぐんぐん遅くなる。一心にペダルを踏んで登ったが、もう限界で、負荷を減らそうにもギヤが残っていない。

 あきらめて自転車を降りて、20mほどを押して進む。

 気を取り直して自転車に乗り込んでダンシングで登っていったら、道脇に止めた車の中で友人が笑っていた。普段は車だったから何の気なしに通っていた道だったが、そうか、そんなに斜度があったのか、などとのんきな話をしているのだ。すっかり策に嵌められた。

 これから用事のあるという友人Tと坂の途中で別れて、なおもこのキツイ坂を登っていった。

 しばらく登ると、やがて道の右手に桜が見えてきた。さらに登ると、左手にも桜並木が続いている。気がつくと、私と友人Hは桜の回廊の中にいた。

 友人Tが見せた笑顔の意味が、この時になって判った。彼は、この景色を私達に見せたかったのだ。坂道の練習に励んで惨憺たる状態の私達ふたりに、散る桜の花弁をあびて坂を登る高揚感を味あわせたかったに違いない。

 またしても友情の大切さを思い知った。私の、心の中の引き出しにまたひとつ大切なものが仕舞われたのだった。

大胡グリーンフラワー牧場のソフトを食べる 嶺公園の桜

 私達が走っていたのは、大胡グリーンフラワー牧場の横手の道だった。

 右手奥、遠くに見えていた桜並木は牧場の向こう(谷を越えたひと尾根隣り)にある「道の駅」の桜であった。そして道の右手の桜は、牧場の桜並木だった。

 桜を堪能し、坂を登りきった満足感に浸って、牧場で小休止をした。ここのソフトクリームが本当に美味しいのだ。

 そして、気分を入れ替えて、嶺公園へ向かった。公園まではほんのわずかな距離なので、程なく着くことが出来た。園路は桜が満開で、散る花びらで私達を迎えてくれた。道には早くも散ってしまった花弁が薄っすらと積もって、そよぐ風にあおられて、次々に新しい花弁を散らしている。

 夢のような様子に、自転車を止めてしばらく見とれていた。はらはらと散る桜花の美しさに言葉もない思いだ。

 少し前に聞かされた、桜が散る頃、という言葉がふと浮かんだ。来年からは墓参のたびに、この桜を味わえる。そうして月日を重ねれば、きっといつかは悪いことばかりじゃないな、と思える日が来よう。
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 桜を楽しんだので、水生花園へ行ってみることにした。

 前回目にした水芭蕉の様子(のんびり 行こうよ 2012.03.25 「赤城 嶺公園へ登る(前橋)」)が気になったためだ。もう、ずいぶん成長して葉を大きく茂らせているに違いない。

嶺公園の桜 水芭蕉
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水生花園 同じ花か、と思うほどに、大きく葉を成長させていた。

前回はぽつんと咲いていたリュウキンカの株も、
そこかしこにあって、競って花を開いていた。

 さて、この場所では手軽に高山の花が楽しめる。

 まさにそれは高嶺の花なのだが、赤城の中腹とはいえ人里からほど近い場所で水芭蕉が観賞できるのだから、なんという贅沢なことなのだろう。

 しかも周囲は広葉樹が鬱蒼と茂る森なので、木道を静かに歩いていれば、本当に深い山中にいるように錯覚してしまう。

 さて、これからのひと時は存分に山の散策気分に浸ろうではないか。

水芭蕉とリュウキンカ 木道からの眺め
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 尾根側の森にも行ってみた。

 前回は、まだ咲いていなかったカタクリの花が、花弁を開いていた。まだ、反り返るような何時もの見慣れた花の状態ではなかったが・・・。

カタクリの花 カタクリの花
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スミレ ミヤマスミレ?

 森に積もった落ち葉を掻き分けて、スミレが花を咲かせていた。

 この場所にはタチツボスミレが盛んに咲いているが、目にしたのは珍しい白い花の株。菫は実に多様で同定が難しい山野草のひとつだ。図鑑が手元にないと、種類を区別できない。

 ヒゴスミレやエイザンスミレ、ミヤマスミレなどが、白い花を咲かせるが、これはどの種だろうか?
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タチツボスミレ 尾根の様子

 おなじみのタチツボスミレも誇らしげに咲いていた。

 スミレは、紫陽花やコスモスと同様に私の大好きな花なので、目にすると写真に撮らずにはいられなくなってくる。

 花を存分楽しんだので、今度は鳥の鳴き声に耳を傾けながら、もうすこし尾根道を歩いてみよう。樹林のそこここで、鶯が鳴き交わしている。盛んな鳴き声が渡って来て、その姿を見たいと思うが、なかなか目に留めることが出来ない。
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広葉樹の樹林帯  樹林を渡って
 鶯が盛んに啼く

 自然を味わうには、本当は自然の中に入らなければいけない。

 低山にいって、登山道を歩いて、その場所の植生を知る。そして、そこの雰囲気に浸ってみる。そうすることが自然を感じること。

 でも、公園にいても、同じ気持ちは体験できる。この場所などは本当の自然ではなく人手が入ったものだが、都市公園とは違って原生を生かしているし、巧みに仕立てているので、自然の、本来そこにあるものとすっかり調和している。

 樹林の中を歩いていれば、そこで聴く鳥の呼び声は低山歩きで聴くものと同じだし、そこに吹く風はたまらなく心地よいそよぎを持っている。

水芭蕉 リュウキンカ
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水芭蕉を囲む

 尾根筋を歩いて、存分に樹林の雰囲気を味わって戻ると、先の水生花園の下手側に出る。

 今度は水の流れの下手から上に向かって、木道を歩いていく形となる。戻り道でまた、水芭蕉と園脇で咲くリュウキンカが楽しめるのだ。渓流の水源、上手のほうには、松が植えられている。だから少し暗い感じがするが、下手側は広葉樹が多い。

 そのため、明るさが異なる。だから、下手のほうにリュウキンカが多く咲いているのかも知れない。

 明るく照らされた木道をゆっくりと歩く。
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広葉樹林 リュウキンカ

 坂を登って、坂に馴染む。

 「坂道」というものは改めて取り組んでみると本当に奥深い。一心に登らなければ途端に牙を剥いて、そこを進もうとする人をふるいにかける。だから、負けないように、と頑張ってそこを登る。でも、頑張らなくてもいいのかも知れない。

 最善をつくして立ち向かって、そこに取り組んで、それでも力が及ばないという場面はいくらでもある。そうして取り付いて、でも振るい落とされたら、その時は自転車を降りればいいではないか。

 降りたといっても、立ち止まるわけではない。まだ、二本の足が残っているのだから。ペダルではなくその足を今度は踏みしめて、また坂を登っていけばよいのだ。諦めない、打ちのめされてもへこたれない。そうすれば、目の前の道は閉ざされるこなく、どこまでも、遥かな彼方へと続いていくのだから。
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