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2012.03.25
赤城 嶺(みね)公園へ登る(坂道その1)

走行距離;
 35km ;走行時間 2時間45分

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm F2.4 〜 72mm F4.4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

本日の自転車
 FELT F−85



 先日までは肌寒い日もあったが、ここ数日の陽気を考えるともうすっかり冬は過ぎ去ったようだ。

 さいたま辺りだと大分日差しも温かくなって、田の畦では早春の花の代表格、ホトケノザとオオイヌノフグリが咲いている。だが、故郷の前橋ではいまだに時折、空っ風が吹いている。厳しかった冬の忘れ物、といったところだろうか。

 だから、とうに冬は過ぎたはずなのに、身に着けるのがレーシングジャージだけでは肌寒く感じる。

 数時間の行動には、フルフィンガーのグローブと防風仕様のジャケットがまだまだ必要なようだ。やはり、春先と言っても前橋の底冷えする気候は手厳しく、走る先々で冷たい風の洗礼が待ち構えている。特に、ヘルメットの下の耳が寒さで痛くなるのが、この年になると堪らなくつらい。

 そうやって準備をして風の中に漕ぎ出せば、はるかな昔、風に向かって走っていた中学生や高校生の頃を思い出す。

桃の木川より赤城山を望む <桃の木川CR>


駒形から赤城山を望む
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 前橋市は、市域が南北に長くて、南は利根川に掛かる「福島橋」から北は赤城山(あかぎやま)の中腹までに至る。しかも、近年、北方の「富士見村」と合併したため、実のところ今ではその山頂までが市域に広がっている。

 合併前の北端が赤城山の中腹にある「畜産試験場」の辺りだ。

 そこから大胡(おおご)方面へ伸びる県道を「赤城南面道路」と呼ぶ。道路からは赤城の連峰のひとつで特徴のある山様の鍋割(なべわり)が、もう直ぐそこといった位置に見えている。そこで見る山の様子は前橋南部の実家から見る長く裾野をひいた赤城山とは大分違った印象をもっている。

 市街地から畜産試験場までは、まるっきりの直登路で、若宮町交差点から長いその坂道が始まる。「赤城県道」と呼ばれるその道は、実は「赤城ヒルクライム」のコースに選定されている。去年9月からその山岳登攀レースは始まって、初回の人気をそのまま維持して、今年も大分人気が高いようだ。

 畜産試験場は、その赤城県道が南面道路と交差する場所にある。

 左に曲がれば尾根を下っていってやがては渋川へ、右に行けば広大な裾野が広がる南斜面を巻いて行って、登り降りを繰り返してやがて大間々(おおまま)や桐生(きりゅう)方面へと抜ける。途中、赤城神社への登り口の三夜沢(みやさわ)を真っ直ぐに降れば、大胡へ、さらにその先の伊勢崎の市街地中心部へ降る事ができる。

 試験場前の交差点を右に曲がって、アップダウンを繰り返して大きく2回のカーブを曲がると、道は少し落ち着いて平坦になる。尾根筋の上の広い裾野を横切って、道がそのままの高度(標高)を維持して進むからだ。そして、数キロを行くと、やがて大胡のグリーンフラワー牧場が見えてくる。大きな風車が目印の、広場が清々しい山間の公園である。

長い裾野をひく赤城山 笂井(うつぼい)周辺
(2011.09.24撮影)

遠方は
赤城(あかぎ)山



「裾野は長し 赤城山」
(上毛カルタ より)
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 グリーンフラワー牧場の少し手前、一キロ程も畜産試験場側へ戻ったあたりに目立たない交差点がある。

 気が付かずに通り過ぎてしまう事も多いのだが、大きなハム(アマチュア無線)のアンテナが立っている民家が目印ともいえるその交差点の信号機に下げられた地名の表示は「嶺(みね)町」。

 この交差点が嶺公園(2010.11.22;「嶺公園の紅葉 (前橋:赤城山麓)」)への入り口だ。

 前橋から赤城の中腹にある「嶺(みね)公園」へ向かう場合には、いくつかのルートを選ぶ事ができる。

 今書いた、赤城県道を真っ直ぐに登っていって、そこから右に向かうというコース。これだと走るのはずっと県道上だ。国領(こくりょう)や端気(はけ)町などに出発地点が近ければ、このコースを選ぶだろう。

 一時期よりも少なくなったとはいえ赤城県道はまだまだ交通量が多くて、自転車で走る身にとってはちょっとひやっとすることが多い。だから、若宮町(国領や端気方面)からの登りを避けて、芳賀(はが)町から登るルートもある。片貝や三俣方面から芳賀に向かって登っていき、芳賀団地を抜けて嶺町に行くというコースだ。

 さらに、その東から登るコースもある。天川大島(あまがわ おおしま)から木瀬(きせ)へ向かい、桂萱(かいがや)、江木(えぎ)町へと登り、尾根を巻いて進んで小坂子(こざかし)へ抜け、嶺に向かうというもの。

 もう充分だろうが、もっと東のコースもある。前橋南部や東部からなら、小島田(こじまた)や笂井(うつぼい)から大胡(おおご)方面へ登っていって、大胡から滝窪(たきくぼ)、そして嶺へと抜けるというコースだ。

桃の木川CRをいく 赤城が秀麗な姿を見せる
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 家家から車で嶺に向かう場合には、朝倉、文京町(天川)、片貝、芳賀、嶺というコースを取る。このコースだと通る道がほぼ直線のため、最短距離で登っていける。ゆっくり走る車で向かって約30分ほどの道のりとなろうか。

 赤城の裾野がいかに広いか、という事に気付いていただけただろうか。そして赤城の斜面は古くから開発されて、中腹までは生活に密着した特色のある多くの町が山腹に開かれている。

 前橋の東部や南部からに絞ってもこれだけの登りが選べるのだから、やはり赤城山のスケールは群を抜いたもの、といっても過言ではあるまい。

FELT F85 CORRATEC DOLOMITI
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 実は今回の走行。

 自転車を始めた友の<山道デビュー>の日。坂道への初挑戦ということなのだった。

 だから、コースは桂萱(かいがや)、江木(えぎ)町を抜けていくものを選んだ。これだと他のコースに比べて走行距離が少し長くなるが、赤城山へのアプローチとしては比較的になだらかな斜度の道が続く。

 なにより、赤城県道などと比べれば車の通りが圧倒的に少ない。神経を使わずに乗る事ができるという安心と車からの安全さが売物のお勧めコースだ、と思う。

 芳賀や畜産試験場の登り道では、始めてまだ日の浅い彼にとっては余りにキツかろう、と考えたのだった。

 しかし、そうした心配がまったくの杞憂に過ぎないということを、実は直ぐに思い知る事になるのだった。

 学生時代には柔道に励んで、今もフィットネスジムへ通っているという彼の体力の本質を、私はまるで把握していなかったようだ。トルク系の筋肉質な体とは薄々感じてはいたのだが、膨らんだお腹のボリュームにすっかり惑わされていた。見かけよりも、数段上の運動能力と反射神経を秘めているなど、誰が想像できただろうか。

 すこぶるつきの瞬発力を秘めた筋肉質な足に物を言わせて、グングンと登り続ける様子に、私は少しあっけにとられる思いだった。それは少しヤッカミでもあった。

 こうして登れるようになるまでに、「いったいどれほどの修練が必要だと思っているんだ、この初心者は」と。

小坂子での小休止 激坂を登る
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 私よりも、大分苦しいに違いないが、登り上げていく私の後にしっかりと付いてくる。

 いやいや、たいしたもんじゃないか、とすっかり感心してしまった。小坂子(こざかし)までは、本当によく登りのペースを落とさずに走れたもの、と思う。私にすれば彼の手前もあって気が抜け無かったのだが、実のところはもう一杯一杯であって、足に乳酸がたまり始めている状態だった。

 このコースなら他から比べて柔らかな坂道を走れる、といっても、そこはやはり赤城山への登り口なのだった。さすがに上毛三山の代表格。徐々に坂道が厳しさを見せ始めてきていた。

 この先からは、また急激に坂がキツクなる。走り始めてそろそろ一時間、見えてきたベンチの置かれた酒屋さんで最初の休憩をしようか。 ここらへんで、ちょっと一服しようではないか。

 大分体温が上がってきて、走り始めの寒さがまるでなくなってきた。天気も快晴になってきて、これなら坂道の降りで震えずに済みそうだ。

ゴルフ練習場横の坂

 さすがにこの標高まで登ると、清々しい山の空気が溢れてくる。休憩していても、爽快さがお互いの顔に浮かんできてしまって愉しさを隠せない。

 いや、こう書くと地元の人、小坂子(こざかし)や滝窪(たきくぼ)の辺りに住んでいる人に叱られるかもしれない。特にそこに工房を構えた友人Tなどからは、そんな風に言うと批難されるに違い無い。

 でも、前橋南部に暮らしていた私などにとっては、宮城(みやぎ:千本桜で有名)から上はもう完全な山。粕川(かすかわ)や新里(にいさと)や大胡(おおご)など山腹を走る上毛電鉄によって結ばれる裾野より少し上部に展開する町々についても、その辺りはもうすっかり山中なのだと思っていた。冒険のサイクリングに新里や大胡に出掛けた小学生の頃からの感覚では・・・。
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 「小坂子(こざかし)」の地名標識が出ている交差点を右に曲がって、いよいよ尾根道を登り始める。

 今まで走っていた道というのは「前橋・今井」線で、伊勢崎の北に位置する赤堀(あかぼり)から、大室(おおむろ)、荒子(あらこ)を通りながら山裾を通り抜けて、そこから桂萱(かいがや)地区へ入り、上泉(かみいずみ)へ出るといもの。私達は、この道に荒子の先の江木(えぎ)の辺りから入ったという形だ。

 そこをそのまま進めば、鎌倉(かまくら)、上沖(かみおき)、そして国領(こくりょう)、敷島へ至る。前橋の市街地を大きく北に迂回するというコースだ。

 途中の上泉から北に登れば、先の大回りコースの一本上(前橋の市街地から見ると更に外周)の道に出て、更に大回りのコース取りになる。江木(えぎ)、荻窪(おぎくぼ)、小坂子、嶺、と進んで、やがて赤城県道との交差点、時沢(ときざわ)で、赤城の大鳥居の脇へ出ることになる。

 私達は結局、上泉の交差点を進んで少し行ったところから、北に登って江木(亀泉)へと出たのだった。

激坂をさらに登る

 小坂子(こざかし)から嶺公園までの登りの距離はそう長いものではない。登って登って、の努力が功を奏してもう残すところ、極く僅かな坂道のみとなった。

 ひと漕ぎごとに山が近くなってくる。路面に落とした視線を上げると、眼前には大きく迫った鍋割(なべわり:赤城の連峰のひとつ)の山容が迫力を見せるのだった。

 ひと漕ぎ、と簡単に書いたが、このひと漕ぎが本当にひどく消耗する。

 斜度は一層キツくなって、ともすると自転車から降りたくなってくる。小坂子への登りでも一箇所、牛舎(牧場?)脇から少し先の辺りだったと思うが、本当に厳しいところがあった。あまりにも急傾斜だったため、登る際、自転車を道幅でS字状に蛇行させない事には進めなかったのだ。

 S字での蛇行は坂をそのまま真っ直ぐな状態で登るのに比べ、蛇行する分だけ一時的には斜度が下がる。折り返しの範囲は狭いが、真っ直ぐな道を九十九折れの道に変えて登ると言う訳だ。
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 信号を曲がった先の尾根道の登りを終えたら、ゴルフ練習場の横手を抜ける長めの坂が現れた。車でここに来るときには、ギヤを一段落とす場所だ。この坂道が「まったく!」と唸りたくなるほど、キツかった。漕いではいるが車体が止まる寸前のような低速になってくる。結局必死になって踏ん張って、やがて登る事が出来て事なきを得たのだが、本当に辛い内容だった。

 久しぶりの本格的な山坂に圧倒されて、私の足はもうへこたれる寸前の状態だ。潜んでいた課題が見えてきた。

 これでは赤城ヒルクライムの夢は、絵空事にしか過ぎない。体全体を改めて最初から鍛え直さなくては駄目なようだ。

嶺公園の水生花園入り口

 ようやく、そのゴルフ練習場の坂を乗り越えて進む事ができた。更に斜度の緩い坂が続くが、距離は長いものではない。そうやって踏ん張って登って、とうとう保育所の脇に無事に出る事ができた。

 ここから公園入口への道までは、始めて出現する降り坂なのだが直ぐに公園前の道に出る。と、そこからまた登りが始まる。

 最後の登りを楽に攻めようと、下り坂の部分で加速して、その勢いを借りて右にカーブして登り始めた。カーブミラーを注視して、車が来ない事を充分に確認しながらT字路に入らないと危険なので、この選択がいつも通用する訳ではない。

 しかもここは塀が邪魔をして、交差点に入るまでは坂道を降ってくる車が見えないというブラインド・コーナー。だから、コース上、この場所だけは本当に細心の注意が要る。
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 嶺公園は赤城の冷気のためか、かなりの高山や保護された低山でないと目に出来ないような植生を簡単に見ることが出来る。

 赤城の山頂に「覚満淵(かくまんぶち)」(2009.05.03 「高層湿原と山麓の沢(赤城 覚満淵)」)と呼ぶ高層湿原がある。その場所では、湿原の脇の渓流に水芭蕉が咲くのを見ることが出来る。そこに咲く様子と同じ、気品ある水芭蕉が、嶺公園の水生花園にも植えられている。

 自生のものが元となっての花園なのかどうか。山の尾根筋の谷の部分をうまく使って、そこに流れる渓流を舞台に、素晴しい量の水芭蕉が花を開くのだ。毎年、ゴールデンウィークの前が花のピーク。だから4月中旬辺りから下旬がボリュームがあって最盛期だけれど、この時期にも咲いているという様子を目にする事ができた。

水生花園の水芭蕉 木道を歩く


ゴールデンウィークには、この地面が見えないまで、水芭蕉が成長して、大きな葉が茂る。それはもう別世界に変わってしまう。

丁度、見頃となるのは、4月中旬辺りだろうか。
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 水芭蕉の清楚な白い花の横で、金色に輝く小さな花も楽しめる。

 私の大好きな、エゾリュウキンカの花だ。水芭蕉が開花する前であれば、この花園ではザゼンソウを目にする事もできる。花期が短いので、咲いたなと思ったら、2週間ほどで姿を消してしまう。いや、その花が咲くような早い時期に訪れていないので、本当の咲き始めの時期(開花期)を知らないためかもしれない。

 ザゼンソウは水芭蕉とは同時に咲かないので一緒に咲く様子を目にする事は出来ないが、リュウキンカはこうして一緒に咲いてくれるので、本当にあり難い。このフォトジェニックな花が単独で咲いている様子も良いものだが、水芭蕉と一緒と言う事が大切だ。白く清楚な水芭蕉の脇にあることで、その鮮やかな花弁の輝きが一際増すように思える。

水芭蕉 水芭蕉
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 水生花園の美の競演を楽しんだので、今度は尾根筋を回ってみる事にした。

 ここでは、カタクリの花や多種のスミレ、イカリソウなどの山野草が咲く。尾根を覆う広葉樹林が素晴しくて、山歩きの楽しみを味わえるし、花好きな人にとっては応えられない場所だろう。

 ところで、今は林床に多くの株を見かけるのだが、私が最初に訪れたときにはカタクリの花は咲いていなかったように思う。どこに行ってもカタクリは人気が高くて、近年になって植えられたのではと思うのだ。いや、やはり時期がずれていて気が付かなかっただけなのか、どうか。

リュウキンカ
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つぼんでいるカタクリ

朝日の登り初めと共に、徐々に花弁を開いていって、
最後は花びらを反り返らせてしまうのが、カタクリの花。

この日差しと時間にも関わらず、
またつぼんでいるのはこの株が未開花だということだろうか?
カタクリ

 さて、今回、同行した友人Hとは中学一年からの付き合いだ。

 中学生の多感だった3年間を同じクラスで過ごした。遊びも良く一緒だったし、恋の話も一心にした。勉強も図書館などに行ってよく一緒にやった。そういえば、3年生の頃の土曜日の午後と日曜日の半日の塾(英数学館)は、HとTの3人で一緒に行ったのだった。

 だから、行った高校も同じ。でも、高校ではHとは同じクラスになる事はなかった。私が群を抜いて優秀だったからだ。いや、それは悪い冗談。彼は理系で、私は文系コースだったためだ。
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 家にもよく行き来ををしたので、お互いの親のことも良く知っていた。

 仮に友人の名前が”ABCD”だったとして、私の母はABクンと呼んでいたが、父などはどうした訳かABとの呼び捨てであった。ついに母に注意をされて、ある時点から仕方なく「ABくん」と呼ぶようになったが、まるで、自分の友人にでも接するような態度だったのだ。

 当時、H同様に仲の良かった友人は複数いて、その彼らとは今も付き合っている。前に書いた、友人Sやまだ書いていないが友人Tなどだ。深く考えた事はなかったが、いま思えば、彼らは皆、中学・高校と同じ学校だった。

カタクリ 尾根筋の森を散策

 友人Tなどは小学校3年生からの同級生なので、付き合いと言う意味ではちょっと別格だろうか。何度家で一緒に食事をしたか判らない。当然、私も彼の家で度々ご馳走になったし、よく泊まりにいって語り明かしたものだった。

 友人Sとは、自転車仲間でもあったので、度々二人してツーリングに出掛けた。

 高崎の観音山へ登ったのは3年生の春先の事だ。その後、初夏だったと思うが榛名山へ登り、伊香保温泉にある私の親戚宅へ遊びに行った。伊香保の町民が入れる共同浴場があって、その広い湯船に浸かって伊香保までの登りでの疲れを癒したものだった。ご馳走してもらったカツ丼で2人ともすっかり元気を取り戻して、伊香保の町から渋川への長い下り坂を無事に降りる事が出来た。

 そうした自転車行のことを、私はいい気になってのホームルームのスピーチで話していたら、聞いていた恩師は見る間に血相を変え始めた。受験生の担任としては、聞き捨てならないと思われたようで、個別指導となったのだった。

 友人Sと二人で、即座に職員室へ呼ばれて、強烈なお目玉を食ったのだった。
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坂を降る

登るだけ登ったので、後は降るだけ。

安全速度で、下りましょう。
サイクリングロードを戻る

 当時の私達はお互いにとって、友でありライバルであったのだろう。

 多感な年頃の大切な友人で、それぞれが かけがえの無い存在であったはずだ。

 皆が、またとない奇跡で密接に繋がった仲間なのだ。そして、遠い時代に始まったその奇跡の力は今も失われていない。

 だから、今でも私達の心は強く繋がっていられる。いや、年を重ねた今の方が、むしろ大切に思う心、その想いは一層強いものに変わっているに違いない。
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 ようはそうした大切な仲間なのだが、仕事師(鉄骨屋)であった父などからすれば、仲間と言うものがどれ程大切なものか身にしみて判っていたのだろう。だから、私の友人に対しての接し方もいつも格別のものだった。

 何時友人が来ても、まるで自分の友が来たような挨拶振りなのだ。最初は面食らったに違いない友人達も直ぐに慣れてくれて、結局それで何の障害も無かったが、当時の私は父の余りの馴れ馴れしさに気恥ずかしい思いを感じずにはいられなかった。

 親の気持ちや心意気といったものは、後になって父と二人、一緒に飲んだ酒の席で聞いた。中学時代から10年以上も経って、その時になって始めて知ったのだった。

 そんな父との中学生の頃の交わりの記憶は、遥かに数十年が過ぎ去るうちにも失われずに、彼の記憶にしっかりと根付いてくれていたようだ。先ほど休憩した酒屋さんの自動販売機で酒を買ってくれていた。激坂の激しい錘となる事も苦にせず、父の墓前に供えてくれようとの志からだ。

サイクリングロードを戻る セルフ

 嶺に来たのは、自転車で赤城クラスの坂に登る訓練の一環であり、一方で咲いているかもしれない水芭蕉を観察するためだった。でも、その公園の外周部こは我が家の墓所でもあって、それを知っている彼はお参りを提案してくれたのだった。

 私の中では勿論の事だが、彼の心の片隅にも我が父の面影が未だに残っているらしい。何とあり難いことなのだろう。

 墓石をみていたら、それが大きかった父の背中のように感じられてきた。懐かしい笑顔の父本人を前にしたような思いがして来たのだった。

 線香を手向けてくれている彼の姿が、不意に滲んで来た。流れる煙に咽たわけでもあるまいが、ふと気が付いたら私のほほには温かな涙が伝わっていたのだった。
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