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2012.05.27
箕郷、箕輪(みのわ)城跡 (歴史探訪)

走行距離;
 59km ;走行時間 3時間40分

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm F2.4 〜 72mm F4.4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

本日の自転車
 FELT F−85


 群馬の城跡として、ひときわ名高いのは何処だろうか。

 県内の市域の多くは、その前身が江戸時代の<藩>を母体としている。だから県内(上野国:こうずけのくに)には少なくとも現在の行政市の数だけの藩があり、その数を上回る城塞(藩庁)があった。

利根川サイクリングロード 前橋市を縦断する利根川。

その川岸(右岸)には、利根川CRが続く。

前橋の区域で言えば、
北に接する渋川市から、
南は本庄までの全域に、
整備が行き届いた走りやすいサイクリングロードが
つながっている。

写真は甲子園への出場で知られる前橋工業高校、
野球部の練習グランドの付近。
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 江戸の政権は、その初期に制定された「武家諸法度(ぶけしょはっと)」という法令と、それによる規制で支えられていた。

 しかし、徹底した中央集権ではなく地方分権も大幅に行われていたのは、みなさんもご承知の通だが、幕府が制定した枠組みの中であれば自主存立を許された<藩>という自治政権が全国津々浦々の広域を統治するという、複合統治の体制を成立させていた。

 さて、江戸初期に幕府から「一国一城令」が発せられた。この命令は従来の統治体系を揺るがすような途轍もない内容だったと思うのだが、戦乱が絶えて安定した政権が樹立したことの証といえよう。

 民生的なお触れやお達しではなく、極めて軍事的な直接命令だろう。長い戦国が終焉して新しい時代が幕あけ、領主を含めた皆が平和への希求を強くしたという時代背景があったためだ。

 「もう戦いはまっぴら御免」という為政者に広がる雰囲気も手伝ったが、全国を統一した力ある武家政権の言うことなので、皆これをよく聞き入れたのだと思う。

利根川サイクリングロード 総社(そうじゃ)のあたり
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 そのようにして各地に散らばる多くの城が廃棄され、少なくとも藩(国)内にはその中心となる政庁だけが残された。たとえそれがどのような大藩であっても、藩内には僅かに一つの城のみ、という具合に、全国津々浦々までが変化したのだ。

 城は当然だが、合戦に備えた防備の施設だ。

 だから、領地を敵の侵略から守り抜くためには、点ではなく、線や面で防衛線を構築した。中心の城郭だけでなく、それを支えるための砦や出城が必要だった。そしした理由から領国の中心部だけでなくその周辺の結所(交通の要衝、経済の中心)を守るため、多くの城が構築され、整備されていたのだった。

 領国経営として、そうした城と支城や砦を結んで<面>を構成してきた内容が、その命令によって孤立した<点>になってしまった。僅かに中心地に残る主城だけになってしまうのだから、領主は随分と追い詰められた気持ちに浸ったことだろう。

 「それでは防衛も成り立たないし、領国の統治も難しくなる」と、切に思ったに違いない。

 でも、戦国時代を通じて培われた、長年の戦いの中で得た教訓が死に絶えるはずがない。だから統治のためには城に変わる陣屋を置いただろうし、外部からの防衛のためには、支配範囲の境界上や結所などに規模の大きな寺を構築、あるいはすでにあるそうした寺社を整備していったはずだ。

サイクリングロードから外れて河岸段丘を登る 河岸段丘上にある神社(一本木稲荷社)
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 ところで、群馬は「坂東(ばんどう)」と呼ばれた中での、さらに僻遠の地であるが、関八周の境界の位置になる。そのため、藩の数自体が多かった。

 それに藩として大きく統一される前の、鎌倉御家人となった家の棟梁の領地、いわば律令の時代を含め、さらにそれ以降に武官として派遣されて土着した豪族の拠点も古くから多かったのだ。

 厩橋(うまやばし:前橋)、高崎、沼田、舘林、伊勢崎、安中、松井田などは、そうした部類の行政の庁舎として、いくつもの城が置かれていた土地柄だ。

 たとえば、前橋周辺を例にとって考えると、粕川(かすかわ)や大胡(おおご)などの有名なものだけでなく、さらに多くの城があった。

河岸段丘上にある神社(一本木稲荷社) 合戦の舞台となった城もある。



吾妻の「岩櫃(いわびつ)」や
上越国境に近い月夜野にある「名胡桃(なくるみ)」など、
戦国初期、あるいはそれ以前からの城も数多くある。


先の鎌倉以前に勢力を張った豪族の領地で考えると、
白井(しろい:渋川)や箕輪(みのわ)、
太田(世良田)などの由緒が残った土地もある。

 しかしながら、県内においては藩としての城はことごとく天守も御殿も残ってはいず、今は城跡だけになっている。

 前橋や高崎周辺などは、江戸幕府を支える譜代の有力な所領だったために、戊辰戦争で多くは明治政府軍に対して徹底抗戦をした。だからそれらは戦場となり、前橋を例に取るように、折角残っていた城が焼失してしまった。
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一本木稲荷社 一本木稲荷社

 前橋の地には、利根川の傍に「厩橋(うまやばし)」の城があり、統治の中心となった。しかしながら古くから栄えていたのは、利根川の東側ではなく西側であった。「総社(そうじゃ)」といわれる地域である。

 JRの駅でいえば、群馬総社駅や八木原駅、新前橋駅など、のあたりとなろうか。

 その周辺は、律令時代に遡る古代、上野の国を統べるための国衙(こくが)」が建設され、国分寺などの遺跡などが出土している。さらに古墳時代にまで遡る遺跡が数多い。

 でも、「古墳」という話になると少し微妙で、天川と呼ばれていた文京町、朝倉、広瀬の周辺のほうがむしろ規模の大きなものが数多く、それらは調査を終えて小高い丘の姿を留めて現存している。さらに、前橋東方の大室や赤堀の地区、または前橋北方の時沢地区などに大規模な墳墓や遺跡が分布している。そのように前橋の南東部には、大和朝廷とは別の勢力であった土地の豪族の優勢を示す多くの大規模な古墳が今も残っていて、その大きさを体感することが出来るのだった。

総社から榛東(しんとう)方面へ向かう 総社から東へ、榛名(はるな)の麓を巻いて
箕郷方面へ向かう。
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青梨子地区を走る 前橋の北東部

青梨子を走る

<箕輪城 跡 戦国の夢>

 さて、戦国期。

 織田信長の全国制覇の一環として、関東に進出していた武将、滝川一益(たきがわ かずます)は関東管領(東の統制官)を任命され、厩橋城に本拠を置いた。小田原の北条や越後の上杉を牽制するため、その統括拠点を前橋としたのだった。

 すでに甲斐・信濃で勢力を張っていた武田を撃破していたため、西に寄る必要が無かった。だから上杉と北条の領域を結ぶ直線上新潟と小田原の街道筋を抑える前橋に本拠を置いた。前橋が上野国(こうずけのくに)の中心か、というとそうではなく、先に触れたように利根川を渡ってその西側となろう。榛名山の麓に広がる地域が、古くからの拠点といえよう。

 そうした場所に、今回の「「箕輪(みのわ)城」が存在していた。猛将、長野業政の居城として名高い広大な城である。業政の祖父、長野業尚(ながの なりひさ)によって1512年あるいは1526年に築城されたと伝わっている。
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山麓の雰囲気が広がる 榛名の山麓を巻く

 長野氏の出自には諸説がある。

 「伊勢物語」で有名な在原業平(ありはら なりひら)を祖とする宮廷官人であったようだが、その末裔がこの地に土着し、豪族化したものと伝わっている。
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箕輪(みのわ)城跡 城跡を進む(馬場)

 天皇を祖とする古い家系を誇る家だが、しかしながら鎌倉期にあっては御家人では無かったようだ。

 室町時代、関東管領であった山之内上杉家を支えた有力武将であり、小幡氏や厩橋氏とならんで、西上州に根を張って婚姻関係で一族の結束を高め、強い結束で地域を領有していたという。

箕輪城跡 本丸の跡
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梅雨前の野草 カキオドシが咲く本丸跡

 山之内上杉氏の無策のため、北条氏だけでなくやがて武田氏とも対立してしまうことになる。

 関東に進出し勢力を伸ばす北条方に翻弄され、次第に上杉氏は力を失っていくのだが、そうした武蔵国の攻防の最中にも関わらず、業政の反対を省みずに、武田をも攻撃してしまうのだ。

 結局、ご存知のように管領職にあるにも関わらず上杉家は力を失って越後に逃れ、役職や家を譲って長尾氏を頼るのだが、その後、没落を挽回することは出来なかった。

本丸を護る郭 本丸を護る土塁(掘割)
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堀に残る石垣 堀跡に咲いていたムラサキケマン

 武田による猛攻を数度、一手に引き受けて箕輪城を守る業政は、果敢に戦ってよくこれを撃退する。

 武田信玄は、騎下の有力武将で信州北部を席巻しつつあった真田家を上州先方衆に任命し、盛んに上州への進出を企てる。

 真田が武田家にしたがったのは、幸隆(ゆきたか)の代からだが、その長男と次男はともに武田家にあり有力な武将として活躍していた。後に徳川と対立してその有名を轟かせる真田昌幸(さなだ まさゆき)は、その三男だ。武田家の名家で当時当主が絶えてしまった武藤家を再興させるため、その養子となっていた。信玄に深く気に入られていた事が伺える。

 長男の信綱(のぶつな)と次男の昌輝(まさてる)の二人が長篠(ながしの)の合戦で織田・徳川の連合軍に敗れて討ち死にしてしまうことで、武藤家を出て、改めて真田家の家督を継いで当主となる。(信玄の在世中は小姓であって、活躍するのは勝頼の代になってからだ。)

 真田幸隆と長男の信綱は天下一といわれた武田騎馬隊を構成する武田二十四将に数えられていた。武田の先鋒として常に戦の第一線にたち、多くの戦でその勇名を響かせた。しかし、先鋒であったがために、三段撃ちで名高い織田鉄砲隊の前に力尽き、命を落としたのだった。一説には、箕輪城の城代であったとも伝わっている。

 ついに、戦上手の信玄でさえ、長野の一族を軍門に下すことは出来なかったのだ。

イチリンソウ 城の縄張り
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 長野氏は周囲の有力な武家と婚姻関係を結び、一族として結束を固めていた。

 このため、西上州を代表する一大勢力であって、多くの兵力を結集することが出来たようだ。

 和田、倉賀野、小幡、依田、厩橋、後閑、成田(のぼうの城の成田氏)などで形成した協力な軍団を主力として戦ったという。一説には6度とも言われるが、数度に渡って武田家による上州への進出を防いだのは有名だ。

城の縄張り  城の縄張り

 ところで、武田家による箕輪攻めの主力であったのは真田勢。

 以下はその真田家に関する余談である。

 後の世になるが、図らずも真田家を継いで当主となった三男の昌幸。その子であり沼田城主、後の徳川の治世には松代城主となって明治まで家名を残す長男の真田信幸(のぶゆき)や、大阪の冬・夏の陣で徳川を苦しめた次男の信繁(のぶしげ ;一般には幸村 ゆきむら)へと、その血脈は受け継がれる。

 信繁(幸村)などは大阪城の戦いで、おもう様、圧倒的な戦力を誇る徳川正規軍を翻弄した。

 二代将軍となる徳川秀忠(ひでただ)を総大将として決戦に向かい西上する徳川軍を、その軍略でもって上田城で数日に渡って足止めする。このため、秀忠の勢力は関が原の決戦に参戦することが出来ず、天下の帰趨を左右した。このため、深い恨みを買ったうえに関が原の戦いの責めを負って、父の昌幸とともに高野山へ蟄居させられる。このため、彼は領国(軍団)を持っていなかった。

 正規の訓練された軍団をで持っていてさえ、それをうまく操ってわが手足のように指揮するのは困難なことに違いない。しかも、大阪の陣での真田軍は牢人衆で構成された寄せ集めの戦力であった。夏の陣での徳川方から「真田、日本一の兵(つわもの)」との勇名を得るほどに善戦するが、それは武田の軍略を引き継いで活躍した父の昌幸から受けた薫陶が大きかったのだろう。しかも、信繁は上杉謙信の元に人質として過ごしているし、その後は豊臣秀吉へ人質として出ている。そこで吸収したものも大きかったと思う。

 さて、秀吉の元にあった際の信繁は、秀麗であったためか、たいそう天下人に気に入られたようだ。なぜなら秀吉の側近で豊臣政権の一翼を担う大名であったあった大谷吉継(おおたに よしつぐ)の娘を妻とし、婚姻関係を結んだのだから。
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馬場 この先は深い堀

 長野業政(なりまさ)による守りと統治の拠点が、この地に残っている。

 いまでは、城跡、といっても堀や土塁しかないが、その規模の大きさに驚くほどだ。

 その結構を歩いてみると、なるほど、難攻不落であったことに頷ける。幾重にも重なった郭を破って、本丸に到達するためには、凄まじい犠牲が必要であったことが、容易に想像される。

 ついには、長野氏も力を失って滅亡してしまうが、この城はその後、滝川一益の居城となり、北条氏の滅亡後は徳川四天王の井伊直政(いい なおまさ)が居城とした。

 しかし江戸初期になると、井伊家は拠点を和田(後に高崎と改名)へ移して、そこに築城し、居城としてはこの地を捨てる。

城跡への入り口の横手に広がる菖蒲畑 カキツバタ?

それとも時節柄
菖蒲だろうか?
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榛名(はるな)山を間近に望む 城の入り口を
下った場所。


榛名(はるな)山を
間近に望む。

 以来、江戸期を通じて、この地に城が置かれる事は無かった。結局、城は70年あまりの僅かな歳月で、その幕を閉じるのである。

 城としては、主要な街道も無く交通網から隔絶した、山城としての性格が濃い。

 江戸期の城の多くは、統治の中心として平城、あるいは政庁としての御殿が主流となり、山城は次第に破却されて行く。難攻不落であったこの城も、戦乱が絶えてしまえば、最早、不便この上ないものに変質してしまったのだろう。
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FELT F85 本日の相棒

FELT F85

<江戸幕府の特性>

 江戸時代の政治体制を整理すれば、それは小学校でも習ったとおり武家が確立した「幕府」が朝廷に変わって統治するという政治であり、そうした意味では一種の<信託統治による治世>であったといえよう。

 余談だが、だから時代が下がっていよいよ幕府による国内統治が困難を極めた折に、時の将軍、徳川慶喜(よしのぶ)によって朝廷へ統治権が返納される。大政奉還(たいせいほうかん)がそれだ。

 幕府といえば鎌倉や室町と同じ統治体制だが、時代が下った分さらに仕組みは精密であり、江戸期のそれを特に「幕藩体制」と呼ぶ。およそ、次のような特徴を持っている。

 ご存知のように「幕府」体制と言うのは武家が主体となった統治機構だ。将軍は皇室が任命する職制だが、幕府体制においては源氏の長者による世襲によったため、他家が職制に介入する余地が無かった点に注目したい。そういった意味においては通常は独裁政権であったと解釈しても差し障りは無いだろう。

 このように「幕府政権」は中央で独善的に国家を統括する政治機構といえるのだが、しかし<江戸幕府>の性格は他(鎌倉、室町)の幕府と異なって、ある種の統一連合政権であったといっていいだろう。勿論、幕府における最高職は世襲の将軍職であるが、将軍は飾りに過ぎず、まったくの名誉職であり、内実は幕府という権力体制の象徴に過ぎない。将軍の中の幾人か、たとえば家康・秀忠・家光と続く黎明期の初代から三代目までや傍流(紀州家より宗家へ入る)だが八代将軍についた吉宗など、独自に政策を打ち立てたつわものもいるが、その多くは体制の飾りに終始したようだ。

 さて、幕府には多くの役職があったが、主要な役務は推挙や試験登用によってまかなわれた。下位の行政官吏である同心や与力といった実務職は経験を重要視したためか完全な世襲制であったようだが、奉行(あるいは差配や頭取など)などといった上位職は完全な任命制だ。こうした点に幕府という統治体制を確立した家康や秀忠の先見性が見て取れる。現代の独裁国家に見られるように一族・眷属だけで主要な地位を固め、他者を登用せずに排除した、というわけではなかったのだ。

 どうも幕府政治というと五代将軍、犬公方として有名な徳川綱吉(つなよし)の印象が悪く働いて、独裁政治を専断して行ったのだという感触がある。だが、上位の職制の内で唯一「将軍職」のみが、徳川家による世襲制となっている点にもっと着目すべきだろう。(徳川家と書いたが、徳川宗家に正嫡が無い場合のみ御三家―尾張、紀伊、水戸、および御三卿―田安、一ツ橋、清水、からの選出となったため、天皇家と異なり完全な直系による一家相伝という訳ではない。)

 なお、最高位者が世襲であったその大きな理由は、江戸に樹立した政権が「幕府」という政治体制を採った事によるものだろう。「幕府」とは帝(天皇)から信任された武家による行政府なので、先例の通りに源氏の正統者(氏の長者)が統べる必要があったからだ。

 鎌倉幕府の開祖である源頼朝(みなもと よりとも)の源氏、室町幕府を打ち立てた足利尊氏(あしかが たかうじ)の足利氏などで、みな全国に散らばり広く枝分かれした源氏の一族であり、将軍家として認められた彼らはその正統な嫡流である。幕府を開設できるのは武家の棟梁である源氏である事が必要な条件であった。

 徳川の出自である松平氏は源氏の一族であったことには違いが無かろう。家康は並ぶものなき当代の実力者だが、幕府を開くには世良田(せらだ;足利や新田と並ぶ源氏の一族)氏が始祖であるとして出自を捏造してまでも源氏の嫡流を名乗る必要があった。

 織田信長がなのった平氏を継がずに摂家の養子となって「藤原」氏を名乗り、六摂家目となる豊臣姓を賜って関白職に就いて貴族政治を始めた秀吉のような過ちを繰り返すつもりは家康にはなく、あくまでも武家であることを貫いた。武家が統治する幕府体制をよしとしたのだ。だから、後世の批判を無視して自家の系図を謀ってまでも、天皇から将軍職を任命されるためには源氏の長者(皇子を始祖とする正当な血脈の後裔)である必要があった。
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本日の歴史探訪、

オマケの画像を二つほど


自分撮り
探訪の相棒達(友人SとH)

 列島の北方の某国とは異なって、徳川幕府としては265年の安定した世襲体制が続いたが、我が国の<将軍>さまは独裁君主ではなく、先に触れたように幕府の体制も、言わば(実成熟ながら)立憲的な政治を行うための仕組みであった。

 法令は独善的(議会を持たないので、民衆の審判の場を経ていない)に制定されたが、江戸幕府の政治体制はあくまでも合議機関による相互牽制という統治機構で支えられていた。

 「機関」と書いたのは権限を明確にした職制によって政治が掌握されていた機構であったからだ。しかも、老齢化や病気・死去による離職以外に罷免による意図的な交代が行われた点が特色であろう。そうした機構、大老・老中・若年寄といった最高職位者が意思決定となる「評定(ひょうじょう)」を行った。それぞれの役職が複数人で構成され、そうした彼らによる国政会議(合議)である「寄り合い」が定時で持たれ、さらに彼らの下位に位置する複数人の奉行職がそれぞれの下部行政を掌握した。

 江戸幕府では、そのようにして頂上から底辺へ向かって専門的に分科した広域に渡る繊細な機構によって、精緻な分割統治が行われたのだった。大都市部の行政府としての町奉行(まち ぶぎょう)の設置や特命を受けた優秀な人材が登用された遠国奉行(おんごく ぶぎょう)などがそうした統治機構の先進性を物語る。

 都市行政としては江戸、大阪、伏見、京都、駿府などにそれぞれ「町奉行」が置かれた。たとえば江戸では南と北の奉行所が置かれ、月番の持ち回りで交代し、相互に牽制して治安の維持や裁判の主管を行ったのだった。ただし、奉行の下に置かれた行政官(与力や同心)はごく少数であった。当時、世界最大の人口を誇った江戸を南北25名、都合わずか50名の同心が統治する「小さな政府」だった。

 安上がりな行政機関であれたのには勿論<裏>があるのだが、実際は自治組織的な委託機関が存在したためだった。町年寄(納税者である町人;町名主)や農村であれば庄屋による運営主体があり、隣組のような互助が存在していた。圧倒的な人口を占める町人(階級制で言う町人身分は先の町年寄りの層であり、長屋の住民であった武士でない人達を示すものではない)が住んだ長屋を主体とした町には木戸が設けられて、その脇には番屋が置かれた。そこに差配と呼ばれる責任者(多くは長屋の大家;家主の代理人であり家賃の回収と長屋の維持管理を行った)と書役が常時詰めていた。この仕組みの貢献は実に大きなものだったと思う。

 さらには、そうした市民の民度が極めて高かったのも、統治が安定していた大きな理由だろう。市民の識字率が高く、武家の矜持を手本とした道徳律が隅々まで行き届いていた。幼少者に対しての寺子屋による教育文化が、それらを支えたのだ。

 遠国奉行による統治とは、港湾都市(長崎、下田、浦賀、函館、新潟、堺にそれぞれ専任の奉行が置かれた)の掌握、鉱山経営(佐渡の金山)としての配置、幕府直轄領(山田、日光、奈良など)の把握をそれぞれの奉行職が行った。町奉行と同じように、たとえば新潟奉行なども2名の専任者による統治で、奉行職は世襲ではなく任命による選出であった。

 まだ完全な貨幣経済ではなく農本主義であったが、勘定奉行による経済政策の集中的なコントロールも行われた。勘定奉行の多くは試験による登用であり、特に最優秀な人材が確保されたといわれる。

 公正な寺社奉行による統治や、さらには目付(大目付、徒歩目付、小人目付)による徹底した監察機構など、幕府の組織についての歴史を追ってみればよい。

 そのほかにも、幕府には多くの政治組織、行政組織、経済組織、監察組織としての枠組みがあったが、それらはすべてことごとく複数の責任者による監視と牽制という共同運営方式によって行われたという特色がある。こうした統治体制は、幕府の根本となった徳川家の家風からきているという。

 秀吉も国政統治の機構として五大老、三中老、五奉行制を敷いたが、奉行職や所司代職などの長官職は一人だったようである。

 両者のとった体制を考えると、徳川の合議制という家風が一歩抜きんでていて、後の盤石な幕府体制の基盤となった様に思うのだが、どうだろう。
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