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2012.11.03
北関東 足利詣で(両毛線 輪行)

走行距離;
 59km ;走行時間 4時間と少し・・

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm F2.4 〜 72mm F4.4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

本日の自転車
 FELT F−85


 今回の行程は、輪行だ。

 実家のある前橋南部をスタートして大胡方面へ向かい、前橋の中心地から桐生(きりゅう)までを結んでいるローカル線の「上毛(じょうもう)電鉄」に乗る。地元ではその社名を省略して「ジョウデン(上電)」と呼んでいるが、それは私鉄会社であり、その唯一の路線が「赤城(あかぎ)山」の裾野に沿って走っている。勿論、路線は単線であり、列車の多くは2両編成といった構成だ。

 終点の新桐生駅(始発は中央前橋駅)からは再び自転車で走り、そこから国道50線に沿って東へ進んで、歴史溢れる「足利(あしかが)」の街へ向かう、というのが輪行のコースだ。

 足利には目的があって、そこで香り高い新蕎麦を愉しもう、というのが今回の目論見だ。

新町駅まで輪行 さいたまから前橋への往き帰りは、JRの列車を利用している。
車でも片道2時間少し。
しかも高速ではなくバイパスを使うのだが、快調に走れるので、その走行は大変という訳ではない。

しかし最近ではそれ(車での移動)を敬遠してしまう。
時に渋滞に遭遇したり、夜道で眼が疲れたり、何かと気を使う。
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 先週あたりは前橋でもコスモスが最盛期。

 写真はさいたま市内を流れる荒川の支流で「鴨川(かもがわ)」というすこし幅の広い河川が郊外を流れるているが、その川岸脇といえる場所。丁度、流れが緩やかに蛇行している場所で、豊かな土壌が堆積したらしく辺りには広い田畑や樹林があり、景色の開けた田園地帯と成っている。

 我が家から荒川CRへ抜ける道の脇になるのだが、川を渡って大きくカーブした先にある畑だ。そこが秋口には一面のコスモス畑に姿を変える。夏は野菜が植えられて栽培されているのだが、それが終わると秋の終わりまでの間、ご欄の状態になる。休耕田ではないが、作付けの合間を利用している。個人ではなく町内会で植えて、世話をしているようだ。

 今回予定しているコースは前橋市内よりも少し赤城山に寄って走る。そこは少し気温が平地寄りも低いから無理かもしれないが、旨くすればこうした秋の花が咲く様子に出会えるかもしれない。

 冬の訪れを前に、過ぎ行く秋が楽しめるかもしれない。

さいたま市 郊外のコスモス畑 さいたま市の鴨川周辺

咲き乱れるコスモスが
過ぎ行く秋を彩る
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<足利(あしかが)のまち>

 さて、「足利(あしかが)」という都市のはなし。

 所在は栃木県の南部になるのだが、桐生(きりゅう)市を流れる「渡良瀬(わたらせ)川」の流れゆく先になる。その昔、多くの学園祭をドラム一個で席巻した人気アイドルの森高千里さんが、珍しくしっとりと歌い人気が高かった曲、その「渡良瀬橋(17枚目のシングル;1993年のヒット曲)」は足利駅の裏手のトラス式の橋が舞台になっている。

 「まちぶせ」や「海を見ていた午後」のように、その曲が巷に流れた際に青春時代を送り、その歌を聴いた世代の間でその後になってもずっと心に刻まれ続けるような曲がある。それらエージ・ソングが普遍性を持っているとは、さらに世代を超えた「エバー・グリーン」として後世まで残る名曲となる場合がある。

 足利工業大学の学園際に招かれたアイドル絶頂期にあった森高千里さんが作詞した「渡良瀬橋」も、そうした心に残る隠れた名曲と呼ぶ人も多い。

 1993年のヒットなので、当時すでに30歳を越えていた私にとっては「イイ曲」のひとつにしか過ぎなかったが、チューリップやオフ・コース、ハイファイセットといった淡い青春の1ページに流れていた曲ではないが、私より一回り下(あるいは更に下)の世代にとっては心に沁みて残っている曲に違いない。

鑁阿(ばんな)寺の堀 鑁阿(ばんな)寺。
足利宗家の霊廟を守る氏族の菩提寺である。

またここは、武家貴族で源氏の嫡流、室町幕府を興した足利氏の居館跡(足利館)でもある。
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 伊勢崎では銘仙(めいせん)、桐生では西陣(にしじん)とった絹織物が盛んで、それは全国的にも有名な物産といえよう。

 北関東の諸都市の近代化は絹を産品とした周辺工業化を抜きには考えられない。前橋、富岡での養蚕や製糸というように南部や南西部では原材料の作成と加工が盛んだった。周辺の農家では蚕(かいこ)の飼育に必須となる桑を熱心に栽培し、蚕を家一杯に保育する規模の大きい養蚕農家が多かった。良質の繭を出荷して原材料の生産を支えたのたが、養蚕と同時にかみさん連中は仕事の合間や食事後になると、持ち込まれた絹糸で高度な技術で盛んに機(はた)も織ったのだった。

 「宵越しの金を持たない」気質は江戸の職人だけでなく、上州の旦那衆の気質でもあった。江戸の職人は天下に誇る名人技ともいえる腕(技術)を備えていたからその腕を頼りに日を送れた訳だが、上州の旦那衆がその日のみの思惑で日を送れたのは、そうした手技(てわざ)のためでは勿論ない。
 
 炊事や洗濯、育児や掃除といった家事だけでなく、野良仕事から始まって、養蚕や機織仕事に至るまでをこなしたおかみさん(おっかあ、かかあ)の働きがあったがためだ。大きな農家の亭主達は、しっかりしていて働き者のおかみさんの存在があるからこそのんきに遊んで暮らせた訳であった。世に言われる「かかあ天下」の所以は、そういったところにある。別に女性上位だとか、特に威張っていた、というわけではない。今で言う「鬼嫁」とはまるで別のものなのだった。

 アメリカでは横浜から出荷された質の高い絹糸のことを「MAEBASHI」と呼んだがこれは前橋が絹糸の撚糸加工の産地であったからだ。そうした良質の絹糸を主材として伊勢崎や桐生のまちでは絹織物といった産品に仕上げ、加工品として広く流通させた。

鑁阿(ばんな)寺

鑁阿(ばんな)寺 の横にある最古の学校、足利学校。
鑁阿(ばんな)寺
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 足利のまちも同様に、織物や染物を中心に近代化を成し遂げたのだった。明治・大正期の主要な産業は織物や染物にあると、軸を繊維産業に据えて見事に発展した街である。

 それらの産業が伝統として今も根付いているのだが、街では古い歴史を持った伝統工芸として大切に守られて、脈々と勤勉な職人の手で受け継がれている。足利は、桐生や太田といった群馬東部の工業都市の直ぐ隣にある、栃木南部の地方都市になる。

 渡良瀬川の滔々とした流れを横にみて、足利氏族の菩提寺である「鑁阿(ばんな)寺」や最古の大学として有名な「足利学校」などの歴史的な遺構が、市街地の中心部にも関わらず広大な領域を占めたままで大切に保存されている。市街地の商店街もとうまい具合に調和して、それらを中心に落ち着いた雰囲気で町並みが広がっている。そうした印象がもたらされるのは、市街地の各所に点在する神社の影響もあるのかもしれない。

 鑁阿(ばんな)寺の敷地は足利宗家の館(やかた)跡でもある。

鑁阿(ばんな)寺 鑁阿(ばんな)寺
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 少し離れて背後に小高い丘を抱えているが、そうした様子は武田氏の本拠である「躑躅が崎の館」に似ている。城や櫓が登場する以前の中古の武家一族(平安の武家貴族)の本拠であるから館造りであり、山城や総構えの様子ではない。足利も武田も同じく源氏の一族であるから、同じ様相を持っているのだろう。

 後ろに控える山(小高い丘)は軍事的な拠点として砦が築かれていたはずだ。館にまで攻め込まれて、一族存亡の危機となった場合の非難場所であり、文字通り最後の砦の役割を持ったものに違いない。

 足利ではその織姫山の麓に「織姫神社」があり、産業振興と縁結びの神様として広く信仰を集めている。

鑁阿(ばんな)寺 公園として美しく整備されている。
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高福寺 高福寺

 さて、例年、10月末の土曜・日曜の両日、「足利そば祭り」が開かれる。

 その主体となるのが「足利手打ち蕎麦切り会」という集まりだ。
 ・そば処 ふじくら
 ・手打そば 八蔵
 ・四季のそば 木曽路
 ・手もみそば いけもり
 ・例弊使そば 荒川屋
 ・一茶庵 本店
 ・九一そば 第一立花
 ・そば処 ながたけ
 ・石臼挽きそば 香福屋
 ・そば会席 田なべ

 といった10店舗の蕎麦店がこれに参加している。

 一方で「足利そば商組合」というグループもあって、こちらの加盟店はずっと多い。足利の街は、仙波・粟野地区という蕎麦の産地を自前で持っている。そうした良質のそば粉の供給と、豊富な水という二つの大切な「源」に恵まれた土地柄が幸いしたのだろう。それに、さっぱりとしているが粘り強く、律儀で研究熱心という職人気質(住民の性質でもあろう)が相まって、蕎麦のまちと呼べる状況になったのではなかろうか。

 そうした数ある名店の中で私が通っているのは、市街地からちょっと離れた場所にある店。閑静な住宅街のなかにあって目立たないが、名前を「八蔵(はちぞう)」という。先の「足利手打ち蕎麦切り会」の一員だ。
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八雲神社 「♪ 渡良瀬(わたらせ)橋」
の歌詞(森高千里 さんご自身による作詞)にも出てくる
<八雲神社>は市内各所に点在する。


歌に出てくる社は緑町に鎮座するの八雲さまだ。


こちらの写真は市街地の中央にある「八雲神社」で、大きな公孫樹(いちょう)の樹が紅葉して美しい。

氷川神社や日枝神社にはケヤキが多いが、
八幡神社や八坂神社でも公孫樹は良く植えられている。

 「国産そば粉を山崎酒造の仕込み水で打つ」という蕎麦は香りが高く、のど越しが良い。つけ汁も私好みの味付けのもの。もう10年以上も前の事になるが、この店を知って最初に訪問したときから、すっかりその虜になってしまった。

 もう直ぐに山並みが始まるような、その際口にあるが、雰囲気の良い和風の造りが印象的な店だ。小上がりといえる小さな座敷席とテーブル席がたたきに並び、奥には大人数で寛げる二間の座敷がある。

 秋も深まった頃の、この店で打たれる新蕎麦の味は絶品だと思う。大根の細切りが乗った「残雪そば」は足利蕎麦の名物でこの店にもあるが、夏に採れるきのこ(ちたけ というもの)を使った蕎麦が良い。葱とこくのあるつけ汁で食べる「ちたけ蕎麦」がこの店の名物。でも秋口のこの時期ならお勧めの蕎麦が他にある。数枚の鴨の焙り肉が乗った、甘みのあるつけ汁と端正なせいろ蕎麦がよくあった「つけ鴨そば」は、本当に美味しいもの。逸品といってよかろう。

 この店を知ってからというもの、もうすっかりこの鄙びた雰囲気の、飾り気の無い店のお世話になっている。

 スキーを止めてしまったので長野に行く折が減ったという事もあるが、この店の存在が佐久や小諸や上田の蕎麦にご無沙汰している理由のひとつだろう。泊りがけで松本に蕎麦を食べに行ったのが2005年の「全国そば祭り」のときだったし、佐久で食べたのでさえもう4年近くも前のこと。思えばもう何年も、北信や東信の蕎麦を食べていないのだった。
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<足利 詣で>

 ところが、その八蔵へも、かれこれもう4年程もご無沙汰してしまっていた。一体何をしていたのか・・・。

 大切な店の存在を忘れたわけではなく、新蕎麦の時期になると濃厚なつけ汁にそつなく馴染んだ鴨の味を懐かしく思い出すのだが、忙しさにすっかりかまけていた。車の運転自体が少し億劫で、その店までの長い距離を走って出掛ける気力が湧いてこないのだ。ならば東武線に乗って行けばすむのだが、それさえも何となく気が引けてしまった。

八雲神社 市街地は両毛線に並行して商店街が並ぶ目抜き通りがある。
駅前の「通一丁目」から始まって西へ「七丁目」まで。


「通四丁目」の織姫神社の横にある八雲神社の参道。歌に出てくる社は緑町であり、ここではない。


<追記>
残念な事に歌詞に出てくる社はこのあと直ぐ、2012年12月6日に全焼して失われてしまった。
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 住んでいるさいたま市の与野公園に近い場所に、実は美味しい更科蕎麦を食べさせてくれる店がある。

 天麩羅が美味しくてその店のお勧めの品なのだが、勿論本分の手打蕎麦も絶品のものだ。細身の蕎麦は直ぐに食べないと味が落ちてしまう。「善天」さんという屋号だが、そこですっかり満足してしまっているためだ。

 それに都内の芝大門の「更科 布屋」や泉岳寺前の「藪」などへは月一ペースで行くし、高尾山や御岳(みたけ)山などのハイキングの折には必ず地元の蕎麦を食べているから、そうした関係もあっても遠征を敬遠していたのかもしれない。

 新蕎麦の季節がやって来て、もう随分、八蔵へ行っていない事に気が付いた。こうして思い立ってしまったからには行かずばなるまい。そこで、この際なので蕎麦好きの友人Hを誘い、輪行で行ってみることにしたのだった。

八雲神社 八雲神社
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<今回の輪行コース>

 さて話は変わって今回の輪行でのコースについて説明しておこう。

 前橋の北方に「大胡(おおご)」という小さな町がある。今回はその町へ向かって走り、そこから列車に乗るというものだった。

 路線の前後には上泉や新里や粕川といった駅が連なり、どの町も赤城山の裾野に張り付くようにしてあるが古くから開けていて、どこも歴史的な背景を持っている。土着して勢力を張った小豪族小さな砦様の城や居館が置かれたの拠点であった。

上泉 前橋の北部にある「上泉(かみいずみ)」地区。

「町おこし」の一環か、このところ見たこともなかった幟が立っている。この幟によって、改めて「上泉伊勢守」の名を知った人も多かろう。

それほどに、地域では大切にされていなかった偉人だ。


萩原朔太郎といいい、新島襄といい、鈴木貫太郎といい、
一体に前橋市民は地元の偉人を粗略に扱っているのではなかろうか。


たとえば、和算の大家として名をはせた「関考和(せき こうわ)」。
技を極めた先人に対する藤岡あたりでの扱いなどを、少しは見習えばよい。
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 少し話が飛ぶが、その大胡や上泉にまつわるものを紹介しよう。

 「柳生新陰流(やぎゅう しんかげりゅう)」は徳川将軍家の御留流(代々の将軍が学ぶ家の剣の流派)なので、乱立した剣術の諸流派の頂点に立った。「柳生宗矩(やぎゅう むねのり)」が将軍家指南役に就いたからだった。

 宗矩は将軍の指南役(剣術師範)としてだけでなく大名となり大目付という役職(幕府再考の監察職)に就任し、ある種の顧問となって政治の世界で辣腕を振るったため、どちらかといえば政治家として有名な人だ。このため、父の宗厳は息子である彼を嫌い、自らが起した新しい剣の流派の正統をその孫に継がせる。以来、柳生新陰流の正統は柳生の里を拠点とした大和の地で、そして尾張藩へ庇護されてそこに息づき、現代まで伝わることになる。

大胡城址 大胡(おおご)城の構えは半山城といった体裁を備えている。

自然の丘陵を旨く利用して、そこに次第に重なるように、何層にも渡る構えの郭を連ねている。

重なる郭を堅牢に誂えている城の構成は、中世ヨーロッパの城とは比較にならない造りといえよう。同じような戦乱にあって、彼らが何故、同じ工夫が出来なかったのか、不思議でならない。城壁が一重であれば、いくら周囲に堀を穿ったところで、突破されれば一気に終焉となってしまう。

次段に構えて重層的に防御するという発想が出ない事が信じられない。軍事的に考えれば自明の事ではないか。


階層を構成するのが石垣ではなく土塁であるのは、まだ「野面積み」の技術が伝承されていないためだ。

安濃(あのう)衆が活躍し、黒鍬(くろくわ)衆として各地をまわり進んだ土木技術を示すのは、ずっと後世になってからの事だ。

 その父で戦国時代の生き残りの大和の豪族、剣の創始者である「石舟斎 柳生宗厳(やぎゅう むねよし)」に、その剣の技を伝授した一人の武人がいた。「上泉伊勢守(かみいずみ いせのかみ)」である。その人の説く剣の教義はそれまでにあったような只の剣術のひとつといった内容ではなかった。そのあり方を「活人剣」と呼び、その理想を目指した「兵法」とみずからの流派を呼んでいたのだ。

 その剣の流れで「法(ほう)」を謳ったのは、それが技や術を越えた「あり方」としてのもの、ということだったのだろう。「法」は仏教用語で、秩序や掟や慣習を表す概念だが、さらに法則や真理を示すものでもある。

 そうした思想的な側面を持った特異な流儀を起したのが、大胡の城主だった地付きの武人。室町末期の武将であった伊勢守で、彼の本姓は「藤原秀綱(ふじわら ひでつな;一説には信綱)」といった。名高い秀郷(ひでさと)を本流とした武術を継承した藤原の一族である。
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 その人が編み出し諸国に広めた流儀が「新陰流(しんかげりゅう)」だったのだ。伊勢守の出自である上泉氏は前橋北方に拠点を張った豪族で、「大胡(おおご)」氏の支族。その当時、上州箕輪(みのわ)に拠点を置き、西上州を統べる大勢力の長野業政(ながの なりまさ)方の武将として活躍していたが、武田信玄の侵攻に主家が屈服したのを機に自らの領地を離れて全国行脚の旅に立つ。上泉氏や大胡氏は足利氏(嫡流)に続く系譜の一族で古くからの源氏の一族(支族)である。生粋の武人であり、源氏の一族として伊勢守も、家の技を伝えていたのだった。

 そして、五畿内随一といわれた中条流の剣術達者の柳生宗厳(むねよし)に剣を教えて、流派正統第二世の印可を授けたのだった。

大胡城址 大胡城址

 さて、前橋の南部から桐生へ向かうには、赤堀(あかぼり)を経由する国道50号線や伊勢崎から「田部井(ためがい)」を経由した桐生街道などを走るのが一般的だ。

 田部井は「ためがい」なのだが、読めないので「たべい」と今では呼ぶらしい。おかしな話だ。新田の庄にまつわる武家一族の名前を由来としているのに、たべいでは、その意味するところがまるで変わってしまう。その 田部井のある新田(にった)の庄は、足利と並んで源氏の嫡流を唱えて南北朝の騒乱で滅んだ「新田義貞(にった よしさだ)」の本拠だ。世良田(せらだ)の東照宮などの歴史的なものがある。源氏の嫡流の流れを汲むと偽った徳川が出自(家系の捏造)とした世良田一族は新田の支族だ。

 そのあたりを走ることで歴史探訪を味わう、という趣向が出来ない事もない。

 でも、どうせ走るなら平地を進むだけでなくトレーニングも兼ねてみたい。そこで、先に書いたような歴史の地でもある上泉や大胡や新里といった山際の土地を走って、桐生へ向かってみようと考えたのだった。

 赤城(あかぎ)を目指して少し登って行って、その広大な裾野を巻いて緩やかに傾斜した坂道を登りつつ、裾野の中腹を横切って走っていく。そのほうが交通量が少なくて安全だし、それに道自体が楽しい景色で囲まれている。直ぐ近くは山から張り出してきた尾根筋なので、木々が紅葉して斜面を染めていく様子も楽しめるのではないか。
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 駒形から笂井(うつぼい)へ向かい大胡の手前まで、まずは坂道を登っていく。

 そこから道を東にとって広がる田畑の中を走ると、。やがて道は斜度を増してくる。丘陵といって良いような緩やかな起伏が荒砥(あらと)地区を越えたそのあたりから始まるのだ。

 大室(おおむろ)、赤堀(あかぼり)の北方に走る「前橋・今井線」を進んでいく。平野の中の丘陵地帯を走っていたはずなのに、いつの間にか、道に上下の坂が現れ始める。新里(にいさと)の坂道になったのだ。

 坂を登り、登った坂を下るということを何度か繰り返すと、やがて道は暗い坂に入る。道の横には細い渓流が流れている。そんな、にわかには信じられないような景色の中を進んでいく。

 国道50号線は前橋から桐生までの間ずっと平坦だが、そこから北を見晴るかすと赤城の手前にいくつかの丘の連なりが見える。道路でもいいし両毛線の車窓からでもよいのだが、そうした小高い丘陵が見て取れる。私達は丁度、その丘のなかに居て、その連なりを縫いながら東へ向かって進んでいるのだった。

 やがていくつか続いたアップダウンが終わって、長い坂を下っていくと、やっと道が少し平坦に変わった。丁度、阿左美(あざみ)沼の手前のあたりへ出るのだろうと思ったが、その先の広沢への入り口近くに出た様だ。

岩宿遺跡の資料館 ここは、旧石器時代の存在を明らかにし、日本の歴史(東アジア)を塗り替えた遺跡が発見された場所。


桐生(きりゅう)市の
岩宿(いわじゅく)遺跡にある資料館。

 進んでいく道の左手側にはまだ小高い丘が見えている。抜けて出たそこは旧石器時代の遺跡が発見された岩宿(いわじゅく)の手前の場所だった。

 思い起こせば、日本の歴史を塗り替える大発見がされた「岩宿遺跡」には行ったことがなかった。卒業して就職した最初の会社は桐生市の広沢にあって、そこに私は10年ほどの間勤めていた。初めの数ヶ月は別にして、その間はずっと前橋からマイカーで片道30kmほどの道のりを通勤した。

 休日出勤も多かったので、ほぼ毎日と呼んでよいほど、遺跡のある岩宿の前(国道50号線)を通ったのに、寄ってみようと思い立つことはついに無かった。歴史好きの私としては不思議なことだ。

 それは、遺跡発見者の「相沢忠洋(あいざわ ただひろ)」さんの講演を高校の特別授業で聴いていたためかもしれない。大層な姿勢の割には内容が薄くて、心に迫って来るものが少なかったのだ。(友人Hなどは同じ高校なのに、彼の名前はおろか発見にまつわることも特別講演という出来事さえも記憶していなかったほどだ。) あまりにも太古の事なので、さして興味を引かなかったという事もあろう。
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 <岩宿遺跡の発見>は、桐生からの切り通しの道で打製石器が発見されて、縄文時代以前に旧石器時代が日本にもあった事が立証された大事件だ。

 これによって列島の文化史というか人類史が書き換えられた訳である。その発見地の岩宿がこの場所なのだった。公園として整備されて、切り通しがあった場所には記念の博物館が建っている。無料で関東ローム層を切取った地層の断面や発見後の発掘作業の図面や写真などが見学できる。そこには係りの人が居て、希望すれば教材としての短編映画も上映してくれる。敢えて希望しなくても、観る事を強く勧められるのではあるが・・・。

 初めての遺跡の訪問は、休憩も兼ねて寄ったものだった。坂道を抜けて走ってきたので、丁度息を入れたかったからだ。それにいままで何故かいつも素通りしてしまったという、後ろめたさもあった。そこは私の中では、訪れておかなければいけない場所のひとつだった。

岩宿遺跡の資料館 岩宿遺跡の資料館横の遊歩道。

画面の奥に見えるのが、打製石器が出土した有名な岩宿の切り通しだ。

 15分ほどで構成された短編の放映教材で旧石器時代についてを復習したので、資料館の外に出てあたりの切り通しの様子をもう一度確認してみた。

 文化人類学には昔から興味があって、新書レベルでは色々と若い頃に読んでいた。中公新書の「縄文時代」や「騎馬民族国家」、岩波新書の「日本国家の起源」「日本旧石器時代」「巨大古墳の世紀」といった古典はもちろん学生時代から何度も読み返したし、時代は下って社会人になってから読んだ「日本人はどこから来たか」などの新書も興味を引いた。


 なぜ、列島に人々はやってきたのか。その第一波はどうやって、いや、どんな決意をもって東方の地へ流れてきたのか。

 そんな想像も出来ない太古を思って、学生の頃は勿論、就職した後も興味は尽きなかった。そこで新書だけではなく、きちんと体系建てられて構成された専門書、岩波講座の「日本考古学(本巻7、別冊2で構成)」を購入し、そこからさらに同じ岩波講座の「日本通史(本巻21、別冊4で構成)」に手を広げた。

 旧石器時代や劣等での文明の起こりは、そのあまりにも果てしない話のためか、折角体系立てて独学し吸収したはずなのに、中年の今となっては半分以上も彼方に流れていってしまったようだ。


 歴史を偲んで訪れたその施設で、判り易くまとまった映像を再び学んで、改めて新鮮な興味が湧いて来た。

 丘を利用した資料館は斜面の内部が掘削されて出来ていた。そこは入り口から想像できないほどのホールになっていて、映像が放映されるスクリーンがあり、目の前には打製石器が出土した地層そのものの断面があった。関東ローム層だが、そこでは火山の降灰が堆積した時代がひとつの黒い筋となって明瞭に認識できる。地表面に到るまでの堆積が行われるのに費やされた時間の流れや、徒歩しか移動手段がなかった遥かな時代に行われた一族の移動の過酷さなどを思った。その遥かな歴史の流れや計り知れない壮大なスケールに漬かって、あらためて私は途方にくれてきた。

 その記念館の前はちょっとした広場になっている。温かな陽のあたるその場所に出て、少し気持ちを整理したかった。枯れ草の上に腰を降ろして、秋口の爽やかな風に友人と共に吹かれることにした。
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 少し時間を費やしてしまったが、ポタリングとしては有意義な内容だったろう。

 さて、岩宿の遺跡の近くにはJRの駅がある。群馬と栃木を結んで走る両毛(りょうもう)線の岩宿駅だが、そこから列車に乗れば足利へ直通で向かえる。

 輪行は、大胡かその先の新里などの上毛(じょうもう)電鉄の駅から乗って新桐生駅まで向かうつもりで居たが、そのまま列車には乗らずに走って、それらの街を通り抜けてとうとう岩宿まで来てしまった。


 当初、上毛電鉄を使う予定を立てたのには訳があった。

 その私鉄ならば全車両が事前予約や許可申請がまったく不要な、フリー状態で自転車ごと乗車できる「サイクル・トレイン」になっているからだ。どの時間帯であっても、剥き身のままの自転車を、好きな車両へ積載できるのだった。他者への思い遣りや迷惑の回避などは、利用者の側の判断や良識に委ねられているところが、素晴らしい。

 「上電(じょうでん;上毛電鉄)」は2両編成(朝夕のラッシュ時は4両化される)を主体にしたローカル列車で、路線は単線なのだが、自転車に関しては大変な理解を示してくれている。その路線であれば、分解したり袋に収納する必要が一切無い実にご機嫌な世界が提供されているのだ。

 だから自転車で利用する側も良識を持って、たゆまぬ自主性を発揮する。迷惑行為を行えば自らの立場を危うくするという事もあるが、沿線の利用者は心からこの路線を大切にしていて、そうした姿勢があることが成り立っている所以だろう。そうした敬意や思い遣りや謙虚な姿勢などで初めてシステムが維持される訳で、とてもではないが東京などの無法な地域では実現できまい。

混雑する岩宿駅

 しばらくその枯れ草の上で休憩を採り、遺跡の記念館を後にした。

 そして直ぐ目前にある岩宿駅から列車に乗ろうと、多少の興奮を残しながら駅へ向かった。

 すると駅の近くでは随分と賑やかに、多くの人が歩いていた。不思議に思って駅舎までいったら、そこにはもう凄い人数が詰め掛けていた。あたりには何も無いローカル駅である。ホームも広いわけではないし、駅舎だって小さな規模だ。あたかもそれは鉄道模型の「田舎の駅」のセットそのままの様子なのだが、そこに幾人もの人が詰め掛けているのだった。まるで、除夜の鐘が響く初参りの神社の参道のように、まだ幾人もの人が列を成して歩いて来る。

 駅舎で確認したら行事を案内するポスターがそこに張られていて理由がはっきりした。記念列車の走行がこの日に行われるのだった。再生された蒸気機関車が4両ほどの客車を引いて両毛線を走るのだという。
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両毛線で輪行する JR両毛線に乗って足利へ向かう。

駅での喧騒を傍目にして、私達は乗って来た自転車の車輪を外して輪行袋に収納しはじめた。

いつもなら、こうしていると物見高い人達が集まってくるのだが、今日は誰も気に留めず、質問も投げてこない。

お陰様でいつもより収納が捗った。

 丁度、私達が駅に着いた時間が、高崎方面へ向かって登り列車がやがて入線するという時間帯だった。両毛線は始発の高崎から6駅目の駒形を過ぎるとその先の小山駅までの間、単線に変わる。ダイヤによっては駅で退避して、行き交う上下線がすれ違う事になる。この時間もそのダイヤであるため、桐生方面から来た登りの蒸気機関車は早めに就いて10分ほど岩宿駅のホーム上で停車してお披露目をし、その後、前橋方面へ向かって走るのだという。

 駅へ向かっていた人波やホーム上の人混みは、その蒸気機関車の雄姿をひとめ見ようと周辺から集まった人達だった。多くは家族連れだが、三脚を担いだ「撮り鉄」の人達もいて、彼らがホーム上に撮影場所を確保したりしていたので、一層混雑していたのだった。

 この駅から足利へ向かう列車は、その記念列車とは対行する形になる。最初は見物帰りの乗客で混雑するかと想像したがそうしたことも無く、私達は無事に車両で思い通りの席を確保することが出来た。そうして響く汽笛の音も楽しみ、列車の雄姿も目に留めて、無事に列車で目的地の足利に向ったのだった。

 桐生を過ぎてからの沿線の山並みは紅葉が進んでいて、青空にその色が美しく映えていた。
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 目的にしていた八蔵は、街中から少し外れた場所にある。確か、競技場の大きなトラックがある公園を通り越して山側へ向かう街道の横手、しかし住宅地の中といった場所に店があったはずだが、少し迷ってしまった。

 前橋を出たのは10時を少し回っていて、岩宿で寄り道をしたので結局、足利駅に着いたのは14時少し前になっていた。

蕎麦処 弁慶さんの店先 蕎麦処 弁慶さんの店先

足利市江川町2丁目

 充分な時間があったのだが、しかし店が見つけられない。迷って探すうちに15時を回ってしまった。結局、店が見つかったのが15時30分で、夕方までの休憩時間でお休みの状態。店には辿り着いたのだが、無常にも「準備中」の札が入り口に下げられている。

 迷わずに行きつけていたらと残念に思ったが、仕方が無い。駅まで戻れば第一立花や一茶庵などの有名店があるし、他にも沢山の店があるので何の心配も無いだろう。

 しかし空腹でもあり、もう直ぐに昼を食べたかった。ただ、気持ちはもうすっかり蕎麦向きの体(受け入れの整った臨戦態勢)になっているので、中華(餃子やラーメン)や定食類などの他のものでは受け付けない。ましてや牛丼やハンバーガーなどはもってのほかだ。
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そば処 弁慶

 手打ちの香ばしい香りのする新蕎麦が直ぐにでも、無性に食べたかった。体がそれを要求している、といった多少の焦りを伴ったある種の感じが湧いている。

 そこで、携帯で検索し、周辺の地図を表示して、この近くでめぼしい蕎麦店を探してみた。

 無事に数軒、この周辺で見つかった。一キロほど走って着いてみると、しかしその店も同じように締まっていた。そこで向かったのは次の候補、これはどこの駅前や町内にもあるような店の様子。出前主体の普通の蕎麦屋さんのような店構えなので、ちょっと敬遠したほうが良い気がしてスルーし、次の候補を当った。そして3軒目に見出したのが、「弁慶(べんけい)」という名のちょっと大きな店舗の蕎麦屋さんだった。
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そば処 弁慶 蕎麦に混じって白く見えているのは、大根の細切り。

 店は広くて、大きなカウンターがあった。

 それは寿司屋さんか割烹といった雰囲気で、和風居酒屋や炉辺焼きの店といってもよさそうな様子。

 少し面食らって、どうかなと心配に思ったが、女将さんに進められて窓際の大きな座敷に席を取った。

 メニューを開くと、お酒や御摘み品などは書かれていない状態。しかも、セットメニューや定食が一面にあって、これはどうもと少し心配になってきた。カツ丼や親子丼とそばが組みになってランチの低価格で提供されてもいる。美味しそうな天丼や天麩羅などもある。

 店の造りから想像すると、どうやらボリューム系の店屋物(てんやもの;どんぶりご飯)が売り物なのだろうか・・・。
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 この店にも、足利名物の蕎麦があった。もりそばの上に大根の細切りが添えられたもの。

 辛味として、大根おろしの状態でつゆに入れるそばは見かけることがある。田舎仕立てなどと呼ばれる「変わり蕎麦」の場合、なめこがそれに入って一緒に出てくるような場合がある。朱塗りの浅手の椀に入っているような、会席料理に付いて出されるようなあれだ。

 しかし、この店のものを含めて、足利でだされるのは、細切りの大根。それが蕎麦の上に重ねて載っていたり、この店の場合は更に細長い状態で蕎麦の間に混ざっている。

 どうやら、この工夫が味わったことのない新鮮な舌触りや、爽やかな喉越しを決めているようだ。驚きと共に、この店の事を心に刻んだのは言うまでもない。

そば処 弁慶 今日の相棒も、友人H。

職業柄、気難しい点もあるが、
休日は陽気になってくれる大切なお友達だ。


幼馴染みだけあって、共通の趣味も多い。

<豆腐好き><蕎麦好き>という美点も彼との共通項。
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 会計を済ませて、大変美味しかった事を伝えた。そして改めてお礼を言って店を出たら、優しい笑顔で女将さんが外まで追いかけてきた。

 これを、といって手にしたものを私達に手渡してくれた。これから前橋まで帰るのなら飴でも楽しんで、といって懐かしいスティックに付いた飴を頂いた。確かこれは不二家のぺコちゃんキャンディーといったのではあるまいか。数十年振りで再会した懐かしいもの。

 疲れたので列車に乗るので心配は要りませんよ、と私達も負けない笑顔で答えて、その気の利いた店を後にしたのだった。こういう出会い(人との温かい触れ合い)があるから、ポタリングは止められない。

足利駅 さあ、帰りは駒形駅まで列車で戻ろう。
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