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2012.12.02
北関東 足利詣で:リベンジ(両毛線 輪行)

走行距離;
 37Km ;走行時間 2時間と少し・・

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm F2.4 〜 72mm F4.4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

本日の自転車
 FELT F−85


 さいたま新都心では例年通り、けやき広場のイルミネーションが始まった。

 12月に入るとLEDの眩しい明かりにも慣れてきて、すっかりも違和感がなくなる。クリスマスツリーでもあるプラザ2の大きなツリーには今年も願いを書いた星型の短冊が付けられていて、華やいだ雰囲気を出している。もう、年の瀬まではあっという間に過ぎてしまうことだろう。

 さて、そうした師走の入り口。今回の行程は前回と同様のコースで、目的地までは同じように輪行して移動する予定だ。

さいたま新都心 けやき広場 さいたま新都心 プラザ2

さいたま新都心では先日から恒例のイルミネーションが始まった。クリスマスも、もうじきだ。
  (iPhoneにて撮影)

 実家のある前橋南部をスタートして大胡方面へ向かってローカル線の「上毛(じょうもう)電鉄」に乗ろうとして、迂回しつつも結局は「岩宿(いわじゅく)」まで走ってしまったのが前回のこと。そこにある旧石器時代の遺跡である「岩宿遺跡出土の切通し」を見学したりで、寄り道した結果、目的の蕎麦店の営業時間に外れてしまったのだった。

 そこで今回は前橋南部からもほど近い伊勢崎駅へ直行することにした。

 伊勢崎駅からは両毛(りょうもう)線と私鉄の東武線が利用できる。その伊勢崎駅から列車に乗ってJR両毛線で足利へ急ぐ、というのが今回の指向だ。そうすれば今度は昼の短い営業時間内に到着できて、昼食時間帯に間に合うに違いない。

 今度こそ、そこで香り高い新蕎麦と美味しい鴨肉が乗ったコクのあるつけ汁の風味を愉しもう。間に合わなかった店に行き味わえなかったあの味を愉しみたい、いうなればリベンジ、もう一度挑みましょうという意図である。
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<蕎麦(そば) と 饂飩(うどん) のこと>

 蕎麦は前橋周辺では栽培している様子が無くて、そのためか、名物というわけではない。だからというか、故郷前橋ではうどんも蕎麦も均等に食べる。

 前橋あたりでは、蕎麦や饂飩は親戚などが集まった際の振る舞い食だ。「ハレ」の食事なので、そうした行事がある際にはよく自宅で「手打ち」をしたものだ。だから手打蕎麦や手打饂飩は、いわゆる「家庭の味」でもあった。

 そうした麺類を振舞う場合、誂えるそのつけ汁に特色があったように思う。

武本庵


脱サラして店を開いたという「武本庵」。
(前橋市 文京町4丁目)


仕事が丁寧だし、味も素晴らしい。

辺りの老舗に引けを取ってはいない、
気持ちの入ったお気に入りの店だ。
武本庵 寒椿
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 蕎麦の場合には薬味として刻んだ長ネギや紫蘇の葉、あるいは柚子の刻んだものなどを入れる程度だったように思う。

 その葱は九条ねぎ(ワケギ)のような状態ではなく白い部分が多い、太いしっかりとしたものを使う。とはいっても下仁田ネギほどの太いものではなく、深谷葱ほどのもの。

 その一方、うどんの場合にはつゆの中に予め幾種類かの具が入っていることが多かった。夏の冷たいつけ汁の場合は別だが、それ以外の時期では長ネギや椎茸は必ず入っていたように思う。

 それに柚子も。

 アタリガネで摩り下ろした状態を薬味としたり、小さく刻んだ状態が香り付けとして汁に入れてあったり、秋口以降の実の成った時期から春先までの間は、必ずその香りが入っていたものだ。

蕎麦屋で一杯 きんぴらのお通し

図らずも、突き出しは丁寧に味付けされたきんぴら。
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 それにそうした場合、我が家ではうどんと一緒に「きんぴら」を盛った小鉢や大振りの皿を供することが多かった。

 にんじんとごぼうで炒って造る、普通に見かける何の工夫もないきんぴらだ。それを各人がお好みの分量をとって、自分の椀の汁に漬け込む。そうやってうどんと一緒に食べるのだった。それはいわばトッピングというようなもので、漬けずにそのまま食べても良いものだが、皆一様につゆの中にとっぷりと入れて食べていた記憶がある。

 しかもその「きんぴら」は一時(一編に)に入れるのではなく、麺を椀に入れる都度、同じタイミングできんぴらを取って、それを混ぜるのだった。だから最初からつゆに入って供されていたのでは駄目だし、いっぺんに大量を取って入れてしまっては皆に笑われる。

野菜天麩羅(しその葉) 野菜天麩羅(かぼちゃ)
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 後入れとして加える具だが、「きんぴら」ではなく「ほうれん草のお浸し」や「菜の花のお浸し」という場合も多かった。

 ほかにも、わらびやたらの芽といった「季節を告げる山菜の天麩羅」であったり、葱や春菊などの自宅で栽培した「野菜の掻き揚げ」であったり、そうしたものを供して濃い目のつゆに漬けて食べるのだ。

 かけうどんや蕩じたものではなく、ざるやもりといった状態の、うどんのこうした食べ方は前橋を中心とした北関東地方の特色だろうと思うのだが、どうだろう。

野菜天麩羅(舞茸) 武本庵の野菜天麩羅。


蕎麦前の日本酒の摘みに注文したもの。

舞茸の天麩羅が絶品だったので、
ご主人にそのお礼を言ったら、
赤城の生産農家から直接入手している
という事だった。

どうりで新鮮で美味しかったはずだ。

ご主人からは
「味の判る人に食べてもらえて有難い」
と逆にお礼を言われてしまった。
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<煮込みうどん (お切り込み)のこと>

 蕎麦では出来ない相談だが、うどんでは「煮込み」という方法も良く採った。こちらは「ハレ」の食事ではなく「ウチ」の食事になるものだ。だからこれを来客など、よその人に振舞う事はない。

 釜揚げであったり、ざるであったり、それらのうどんでも良いが、秋から冬の肌寒い日などには煮込みうどんがよく登場した。我が家では、今日は寒いなと思って帰宅した際などは予めの決まりごとでもあるかのように、熱々に煮込まれたそれが良く食卓に出て来たものだ。

武本庵のせいろ 武本庵のせいろ。

これは大盛り。
(つゆは辛めの江戸味)
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 「ほうとう」というのは山梨の名物。

 それはまるで「煮込み」とは別物だが、ほぼ同じ状態のものを思い浮かべていただけばよいだろう。一方の「煮込みうどん(お切り込み)」の場合は麺がまず違っていて、平打ちの状態の麺を用いる場合は少ないようだ。

 自前で手打ちをした麺を入れる場合には、その製法にはコツがある。塩を抜いて、太い麺として仕上げ、煮込んでも崩れたり溶けたりしずらい状態にして食べる。とはいっても伊賀越しを使って黒い色の着いた味噌煮込み(名古屋駅などで食べられるもの)うどんとは少し違う。我らが「煮込み」では、あそこまで麺を硬くは仕上げない。

武本庵のせいろ

武本庵の器は、陶芸作家が手焼きで作っているもの。
友人Hも御用達であり、赤城の中腹に窯がある。


この店では出される器も楽しみの一つだ。
武本庵のせいろ
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 前橋を含めてそこより北方の町では「お切り込み」と呼んだり、あるいはまた「おっきりこみ」といったりするが、それらも同じものになる。長野に近い場所や埼玉の一部になると、同じものを「煮ぼうとう」と呼ぶ場合もあるようだ。

 山梨の「ほうとう」と違う点があって、かぼちゃはそこには絶対入らない。具として入っているのは主に甘みのない野菜であり、長ネギと椎茸は欠かせない。

 まあ、葱は煮込むと実に甘くなるのだが、これはざく切りや斜め切りの状態で根の白い部分も葉の青い部分も同様に、必ず汁の中に入れる。それに、たまには大根や人参なども入ったかもしれない。でも我が家では蕪や牛蒡などは入れてはいなかった様に思う。

善光寺(長野の蕎麦処) 善光寺(長野)は蕎麦処でも有名だ。

長野市は、善光寺の門前町として発展した街だ。

門前には宿坊が立ち並び、
目抜き通りの商店街には幾つかの老舗蕎麦屋さんが立ち並ぶ。

PENTAX OPTIO 4S 2006.05撮影
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<けんちん汁 や すいとん との違い>

 「けんちん汁」が似たような感じの汁ものだが、そこに入っている山芋やジャガイモや蒟蒻は、「お切り込み」には入らないといってよいだろう。鶏肉が入っていたかどうかは残念ながら覚えていない。

 汁の味としては醤油仕立ての場合もあるし味噌仕立ての場合もある。しかし、前橋あたりでは醤油味のものが多いのではなかろうか。今も冬場の肌寒い日になると、家々でそれを食べているのかどうか。

善光寺の門前通り 善光寺の門前通り

善光寺の門前に連なる商店街
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 同じような、汁のなかにうどんではなく練った小麦粉の粒をいれた「すいとん」もあり、これも子供の頃は時々食べた記憶がある。

 「水団(すいとん)」であればご承知の方の多いだろうが、あの調理の状態で中に入った具の主体がうどんに変わったもの、というのが「煮込み」であり「お切り込み」というものと思えば判りやすかろう。

 貧相な料理のように思われるが、「煮込みうどん(お切り込み)」の原型は、古い昔に新田氏の一族(清和源氏の宗家)が都(鎌倉ではなく平安時代の京都)から持ち帰った宮廷料理が伝わって上州の地に定着したもの、という説もある。

 いずれにしても郷土を代表する料理のひとつといえよう。

国宝、松本城

国宝、松本城。
(松本 NIKON COOLPIX 2005.10撮影)
松本の街で食べる蕎麦も有名なものだ。

市は、日本アルプスの山並みへと続く拠点だが、近くでは蕎麦粉も取れるし、水が美味しい。


武将として名高い小笠原貞慶(おがさわら さだのぶ;信濃国守護職)が支城として深志(ふかし)の地に築城した。

その後の戦国時代は武田の居城ともなったが小笠原氏が奪還し松本城に名を変えた。
勇将の名を馳せた石川和正(いしかわ かずまさ)が秀吉の命により入城し、現在の天守などの大改修を行った。この居城は豊臣方の主要拠点であり、関東(徳川)に備えた前衛でもあった。


城内では例年、そば祭りが開催される。
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 私の高校時代の同級生には前橋を代表する有名な老舗うどん店(田毎庵:たごとあん)の息子さんがいたので、総じてうどんを食べる機会のほうが多かったが、小・中学生の頃の私は俄然、蕎麦派だった。

 田毎庵は支店として幾店かの暖簾分けをし、数軒の繁盛する店があったが、友人の家はその本店。前橋の市街地の中心にあって、うどんが実に美味しい店だった。さらに「カレーうどん」が店自慢の一品で、高校生の空腹を満たすには打ってつけでもあった。

 中学生になるまで私が住んでいたのは天川(あまがわ)という町で、古い歴史を持っていた。そこは小学の高学年になったときに「文京町(ぶんきょうちょう)」という実にくだらない町名に変わってしまったが、町内には何軒かの蕎麦屋さんがあった。

松本城の大手門 全国蕎麦祭り

松本で開催された全国蕎麦祭り
  NIKON COOLPIX 2005.10撮影

 結城(ゆうき)屋という店と立花(たちばな)屋という店で、他にもあったのだろうが、私は立花屋に良く通っていた。

 その店の近く、いわば裏手といっても良い場所に住んでいたからだ。そうした有利な環境のせいもあって、地の利を充分に生かして、私は蕎麦好きな少年として過ごしていたのだった。

 一時期、ラーメンやうどんのほうが魅力的で遠ざかってはいたが、やはり大人になると蕎麦のほうに戻ってきた。今では無類の蕎麦好きをすっかり取り戻したといえよう。
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秩父の蕎麦屋(武蔵野) 秩父の蕎麦屋(武蔵屋)

秩父  RICOH GR 2006.10撮影
ハイキング帰りに寄った武蔵野屋さんの美味しい蕎麦

 前橋市内では、赤城山への登り口に数軒の蕎麦屋が軒を連ねてそれぞれの店で嗜好を凝らしてはいるが、蕎麦の旨い店は少ないといえよう。

 だから蕎麦を食べるためによく長野まで遠征をしたものだ。しかしその際はドライブを兼ねてもいるので、観光もでき、車でのアクセスも楽な場所が中心になった。小諸や佐久や上田といった群馬からも程近い都市に新蕎麦の季節になるとよく遠征したものだ。

 長野市の善光寺界隈の蕎麦は有名なのだが、都会であるせいかいったいに値が張る。だから長野市界隈の蕎麦処、善光寺や信州中野や小布施などにある店は、どちらかといえば敬遠したものだ。
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善天さんの蕎麦(与野) 地元 与野(さいたま市)にある 「善天」さんの蕎麦。

この店も、更科蕎麦。
(結構な細打ちである。)


さいたま  RICOH GR-D 2006.11撮影

 善光寺の奥にある「戸隠(とがくし)」は全国的に有名な蕎麦処だ。

 捨てがたい味の蕎麦が味わえる稀有の場所だろう。あの喉越しは他では味わえない独特のものだ。

 しかし、如何せん前橋からは距離がある。さらにその先の松本も蕎麦の美味しい土地柄だが、やはり随分と遠い。さいたまから考えると、さらに遠い場所になる。

 大分遠くはあるのだが、その土地へも何度か、蕎麦を食べる事を主な目的にして出掛けたことがある。車であったり、列車であったり。丁度、2005年の10月の事になるが、新蕎麦の時期に泊り掛けで行った事がある。

 国宝の松本城を会場にして「全国蕎麦まつり」が開催されていたためだ。
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善天さんの天麩羅蕎麦 善天さんの鴨せいろ

善天さんの逸品 鴨せいろ。

 戸隠(とがくし)は長野市内からちょっとした峠道を登った先にあり、松本はそこから更に諏訪湖をぐるりと回ったり、そうしないと行き着けないので前橋やさいたまからの移動距離を考えると大分遠方の土地になる。

 でも、その遠さのためにそこへ行く際には宿泊での旅行を兼ねられる。まさに旅行という状態での楽しみ。美味しい蕎麦を求めて、時にそうした場所まで足を伸ばすことがあったのだ。

 長野の町々は遠い蕎麦処だが、前橋からもほど近い場所に、実は蕎麦のメッカとも呼べる場所がある。前橋からもそれほど遠いというものでなく、だから、さいたまからも程ほどの距離感にあるとっておきの場所という事になる。

 蕎麦好き憧れの土地であり、静かで落ち着きを秘めた佇まいを見せる。のんびりとした雰囲気が溢れる北関東の地方都市、それが「足利(あしかが)の街」なのだった。
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<足利学校>

 足利は室町幕府を起した源氏の嫡流、「足利尊氏(あしかが たかうじ)」の足利氏宗家の本拠地。「嫡流」と書いたが、本来は清和源氏の宗家は太田の新田の庄に拠点を置いた新田(にった)家であり、足利家ではない。

 平安期から続く武家貴族の一族なので、その本拠は古くから開けていた。その中心にあったのが足利館であるが、今はそこに建造物はなく基礎や石組みなどの遺構さえも残っていずに、その場所だけが示されている。しかし館があった一帯は完全に手厚く保護されている。

 足利氏族の菩提寺である「鑁阿(ばんな)寺」は館の跡にある寺院なのだが、その大きな寺の建物が今も残されていて、堀に囲まれた一帯は広大な公園として市民に広く開放されているのだった。

輪行で移動 輪行で移動

輪行で移動  (JR両毛線の車窓から;小俣あたり)

 寺の敷地は掘に囲まれている。その内側に土塁や築地塀に守られて、講堂や鐘楼や塔が立ち並んでいる。

 その一帯には樹木が植えられていて、大きな門を潜れば誰もが散策が出来る。そしてその横には最古の大学として有名な「足利学校」などの歴史的な遺構が保存されている。

 鑁阿(ばんな)寺に並んで建っているのが足利学校。しかし、こちらの見学には幾ばくかの入館料が必要になっている。
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 さて、ここにある足利学校に入学したのは並外れて優秀な一握りの僧侶達だ。

 「学僧(がくそう)」と呼ばれる秀才達なのだが、彼らはそこでの修練のあと(卒業という制度があったのかは不明だが)は全国で引く手あまたといった状況だったという。そうした内容は小和田哲男著の「軍師・参謀―戦国時代の演出者たち―」という中公新書などで詳細に書かれている。面白い新書本なので、是非、ご参照頂きたい。

 「軍師(ぐんし)」というのは武将の補佐役であり、名を成した人達においては同時に一人の武将である場合が多かった。けれどそれは軍師のうちのごく一部の人に限られていて、どちらを主体としたかといえば、実戦というよりも軍事参謀の職を持った人を指している。

 軍師が直接行う戦いとしては、調略を行い交渉を行った訳だが、指揮支援はともかく戦闘行為(あるいは直接の戦闘指揮)そのものを行ったような例はむしろ少ないだろう。

足利の市街を行く JR両毛線で伊勢崎駅から足利駅まで輪行で進む。



駅からは、市街地を抜けて名草方面(山側)を目指す。

市内全域ではなかろうが、市街中心部では自転車用の通行帯が路面にマーキングされている。

コースを塞いで駐車している無法な車もなく、走りやすい。
同じ北関東といっても前橋や伊勢崎などの市街地での走り難さから比較すると、これはもう雲泥の差といえよう。


運動公園(トラックのある陸上競技場)を過ぎた少し先の住宅街に目的の店、八蔵がある。
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足利の市街を行く 足利の市街を行く

<軍師(ぐんし) について>

 「軍師(ぐんし)」といって思い浮かぶのは、例えば、甲斐武田家の名軍師と呼ばれた「山本勘介(やまもと かんすけ)」のような例が有名で、彼あたりの人物がまず人名録の筆頭に挙がるのではなかろうか。

 勘介は稀に見る名参謀としての能力を秘めていたため登用され、次第に頭角を現して信玄に重用された。

 諸国を経巡った一介の浪人から側近並みとして取り立てられ、遂には小諸の城主にまで登った逸材だ。地域の城を預かった城代ではなく、領国として小諸周辺を直接統治したのだから、武田家の譜代並みに扱われた逸材だったという事になる。

 小諸城は武田氏による信州攻略の一大拠点であり前衛であったが、今の城郭として整備したのは小諸藩の祖となった「仙石秀久(せんごく ひでひさ)」である。豊臣秀吉の股肱の武将だが、太閤の命により、天正18年(1590)に入城した。その際の領国は5万石であった。(統治した領域は、武田時代と変わらない広さであろうと思われる。)
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足利の市街を行く

 山本勘介はその冷徹な頭脳でもって幾多の戦略を立てて、武田の騎馬軍団を常に勝利に導いたし、計略をもって勢力の伸張に大きな役割を果たした。その根源は流浪時代に磨いた多くの見聞と、それを基礎として発想する軍師としての高い作戦立案能力にあったのだろう。

 しかし川中島での上杉謙信との戦いにおいて実戦部隊を率いて迂回戦を陣頭指揮した際には、その作戦立案や指揮支援での有能さとは裏腹に大失敗を演じている。

 武将としての実技では能力が発揮できなかったようで、彼はやはり生粋の軍師だったようだ。あくまでも作戦立案者であり、お屋形様(武田晴信:たけだ はるのぶ 勘介在命の当時は出家前であり、法体となって後の信玄:しんげんを名乗ってはいない)を支える補佐役だったのだろうと思う。
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 同じく名軍師といわれ、木下藤吉郎(きのした とうきちろう;改名前の秀吉)の覇権の下地を築いた「竹中半兵衛(たけなか はんべい)」や、豊臣の天下統一の立役者(半兵衛亡きあとの羽柴時代や豊臣時代を担う)となった「黒田勘兵衛(くろだ かんべい;出家・隠居して後に如水と名乗る)」などの例もある。

 二人は直接の戦闘行為でも無類の活躍を残しているが、彼らは勘介とは異なって、生まれた時からの武将であった。

 生粋の武士であり、それぞれの出自である一家・一族を担う棟梁の血筋であった。その有能さを秀吉が愛して傍に置き、軍師として扱ったもの。だからここで言う足利学校を出身としたような「職能人としての軍師」達とは、少し毛色が違うといえよう。

 黒田勘兵衛などは、毛利攻めの最中に起こった本能寺の変を受けて、それをもらさずに毛利勢と講和を早急に結び中国大返しをおこなって明智勢を殲滅すべしと献策するなど、その冴えは凄まじい。

 息子の黒田長政も父譲りの明晰な頭脳を持って活躍した。徳川方の影の軍師として暗躍し、関が原の決戦で豊臣方の武断派の武将を悉く徳川側へ引き入れた立役者だ。福島正則(ふくしま まさのり)や加藤清正(かとう きよまさ)、加藤嘉明(かとう よしあきら)、浅野長政(あさの ながまさ)や藤堂高虎(とうどう たかとら)といった豊臣主力の秀吉子飼いの勇猛な武将達。彼らが挙って徳川方に味方したのは、すべて長政の説得による工作が功を奏したためだ。勿論、勘兵衛が長政の後ろで工作を指図・支援し、さらには秀吉正室のおねの働きがあったことは言うまでも無い。

 もし、勘兵衛や息子の長政による調略工作が失敗し、早くから意を通じていた藤堂高虎のみが味方していたら、関が原で徳川方の東軍勢は一蹴されていたに違いない。

 家康の周辺の実戦部隊はすべて徳川家とは同位の大名からなる豊臣方の武将達の軍団であり、徳川譜代衆から構成される精鋭部隊であった第二軍団の徳川秀忠(とくがわ ひでただ)勢は中仙道を進軍して決戦に挑み、真田勢の策略に翻弄されて上田の地で足止めされ、遂に天下分け目の決戦に遅参するという前代未聞の大事故に遭遇していたのだから。

セルフ撮影 足利の市街を行く

足利の織姫神社の横手の遊歩道。

錦秋と呼ぶのがまさに相応しい様子。
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 作戦の立案と実施やさらには様々な助言など、仕えた主家の長で「お屋形様」と呼ばれた主将を支える事に専念し、そうした補佐を主任務として仕える役割を持ち、そこに責任を負ったのが軍師だった。作戦の計画化と実行の責任者という強い立場を持って、当主に直属した、並び立つものが無い能力者である。

 そして彼らは、外交を含めた交渉力といった政治的な能力も併せ持っていたし、それだけではなく教育の成果として身に着けた故事や緒家の来歴などを諳んじてもいた。

 彼らの持つ、敵対する土地や相手に関する知識も一流であった。

 諜報能力に長けた軍団(組:くみ や 衆:しゅう)を持っていればよいが、すべての武将がそれを賄えるものではない。間者(かんじゃ)や諜者(ちょうじゃ)といった能力者は、いわば世間一般から外れた異能者だ。そうした諜報活動の専門集団の登場(忍者:にんじゃ)は、室町末期まで待たなければならない。

信濃武田家の名軍師、山本勘介(やまもと かんすけ)の甲冑 信濃武田家の名軍師、山本勘介(やまもと かんすけ)の甲冑。


鎧が置かれていたのは、銀座である。
ふるさと物産館といった感じの長野県産品の販売所。

 だから、諜報能力が培え得ない状態にあって、そうした他家の内容を知識として習得していただけでも重要な武将としての有能な力として認められたことだろう。

 しかも彼ら軍師は、地域毎の気候や風土や人気(じんき;その土地の人々の気質)はもちろんの事、気象学などの天文知識や卦(け;風水のひとつ)を見る術なども体得していた。

 中国という当時の先進国から得た科学的な体系だった知識(世界的な次元での先端知識)を身に着けていた彼らにとっては世渡りにおいては怖いものが無いはずで、中世の古い世を生きる事などは、何らの苦も無いことであったに違いない。
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 足利学校は「日本最古の学校」と呼ばれているが、単なる教育機関ではなくそうした戦国武将が必要とした能力者を育成したところ。<軍師を養成した専門施設>だった。

 当時の「知識人」はというと、その主体を担っていたのは僧侶達(老師や国師といった高僧や五山の長達)であった。江戸時代に下ると地域に根付いた寺院の和尚達も、もちろん寺子屋といった教育機関が開けるほどの一般的な知識を積み上げていたが、古い時代の僧侶といえば法事の執行者ではなく、その立ち位置が今とは大分違っていた。

 僧侶そのものの修行(教義、宗教哲学)に加えて、さらに「学僧(がくそう)」という状態であれば、それは専門的な研究までも行った知的エリート達であったのだ。

 彼らは公式文書としての漢文(中国語での筆記)は勿論自由に読み書きできたし、中国の思想的な内容(哲学)に関してもひととおり納めていた。医学や物理といったものまでも仏教伝来の頃以来ずっと連綿と積み上げて学んでいたはずだ。それがため、奈良や平安の昔においては、隋や唐といった先進国へ、日本にはない知識や文化を吸収するために彼らが盛んに派遣されていったわけだ。

鑁阿(ばんな)寺 西の門 鑁阿(ばんな)寺 境内

周囲を囲んだ堀を越えて、寺域に入る。
今回の輪行の相棒、寒さに震える友人Hを写しておこう。
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 そのように知識の習得や研究などの極めて学問的な高等教育的な内容は、宗教各派の本山に集められた僧達で行われたのだった。

 さらに時代が下って、貴族(奈良、平安)から武士(鎌倉、室町)の世に変わると、かれらを取り巻く周辺の事情も変わったに違いない。哲学や宗教知識といった浮世ばなれした内容ではなく、「実学」本位の習得知識を求める新しい支配者層(武士)からの強い要請があったに違いないだろう。

 「実学」という言葉を、仏教の教義や思想的な真理などとは離れたもの、という意味で私は書いている。公式文書の作成や交渉、天測による気象予測、故事や事例の把握、などといった内容を指している。そしてそれらの知識はさらに、戦略や戦術といったものにまで広がっていたものと思われる。

鑁阿(ばんな)寺 二重の塔を望む 鑁阿(ばんな)寺 大銀杏
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 寺院の中で基礎を積み上げてたエリートから、さらに選抜された限られた有能者が改めて足利学校で学んだのだった。

 いわば防衛大学(昔でいえば海軍兵学校や陸軍大学校)のような指揮官に必須となる実戦・実務的な教育がなされ、当然ながらそれを補佐する能力が専門的に育成されていた訳だ。その学校の発祥に関しては諸説あるが、室町時代の永享11年(1439年)に、時の関東管領であった「上杉憲実(うえすぎ のりざね)」が創建した、というのが正当なものらしい。

鑁阿(ばんな)寺 二重の塔を望む まるで、古都といった表現でも通用してしまうような
落ち着いた雰囲気が漂う。

樹齢の高い樹木が豊富なためだろうか・・・。
鑁阿(ばんな)寺 二重の塔を望む
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 足利学校に代表されるような歴史溢れる静かな街といえるその足利だが、蕎麦通の間でつとに有名な街でもあった。

 実はそのまちは、全国でもまれに見るような、まさに<本拠>とも呼べるような蕎麦の都といえた。

 市内を散策すれば、誰もがそれを理解することだろうと思う。規模の小さな地方都市でしかないのに、その随所に歴史を刻んだ雰囲気の良い街には83店もの蕎麦屋さんが軒を連ねているのだ。

 そもそもの数の多さは勿論驚きに値するものなのだが、それらが継続して営業をしているところが、さらに眼を見張るではないか。JRの駅前などは古くからの商店街でアーケード通りといっても良い場所なのだが、その目抜き通りに沿って並んだ店舗でさえ、シャッターが降ろされた店が幾軒もあるのだ。

 けれども、そうした状況にあっても、それだけの数で点在する蕎麦店はそれぞれに存続しているという。

 これは何故だろう、と思った。

 きっと何かの理由があるに違いなかろう、と思うのだ。他の町にある蕎麦屋さんとの違い、あるいは町全体の蕎麦への向き合い方の違いでもあろうか。こうした事を考えると、ちょっと興味が尽きないではないか。

染まる鑁阿(ばんな)寺の境内 まさに錦秋という表現がぴったり。


歩きながら耳を澄ませば、
足元からは葉音と共に柔らかな感触が伝わってくる。

「そうだ、京都 行こう。」のキャッチフレーズが
「♪私のお気に入り」の軽やかなJAZZの旋律に乗せて、今にも流れてきそうな感じがする。
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<蕎麦屋の暖簾(のれん)>

 さて、話は変わって、蕎麦そのものの事。

 江戸蕎麦の流れ(歴史)は大きく3つの系統に分けられているのは皆さんもご存知の事と思う。それは蕎麦切り発祥の話と関わりを持っていたり、手打ちの手法を極めた名人の出自であったり、といった事によるもの。それが発端となり受け継がれて、弛みない伝統の流れとなったものだ。

 「正統な系譜」が大切にされて、連綿とその伝統ある流れが職人の確かな手業として脈々と受け継がれ、今もなお各所に散らばって続いているのだった。


 私達が目にする「暖簾(のれん)」に示される屋号の名乗りは、その店の来歴といえよう。

 それは明確な出自の証明として、示されたものだからだ。ご存知のとおり、蕎麦屋はフランチャイズのチェーン店とは訳が違っている。一流どころの「屋号」を名乗るには、それなりのしきたりの踏襲が必要だ。

 流派といい、歴史といっても良い店の流れがあり、それが大切に受け継がれて、いつしか秘伝の味となった。3つの系譜を遡っていくと、そうして脈々として引き継がれた大切なものがあったのだ。

八蔵の店内の様子 八蔵 お通しの品

私のお気に入り。

名草方面へ向かう山並みが始まるすぐ手前にある蕎麦店、
「八蔵」さんの様子。
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八蔵 冷奴 冷奴も美味しいに違いないと考えて注文した。

昼時だし、少し自転車で走った後なので、
豆腐の引き締まった冷たさが心地よかった。

 伝えられたその<技>や間違いのない<つゆの味>を継承できるだけの高い技術の証が、引き継いで名乗る屋号に現れている。

 それは他者に恥じない修行を積んだという立派な証でもある。その伝統ある屋号を掲げた「暖簾」や軒先を飾る「看板」には、店主となった職人の深い想いが込められている。そしてまたそれらは象徴であるだけでなく、職人の心構えを戒める戒律の様な、日々守るべき規範を示しているものだろう。暖簾や看板は物にしか過ぎないが、そうした精神面を律する大切な役割を背負っているものといえよう。

 さて、蕎麦屋の系譜を示す伝統ある屋号を継承するには、職人としての弛まむ研鑽が必要なのは言うまでも無い。

 そうした修行の日々があって初めて、同じ名前の暖簾を掲げることが出来る。今の効率第一の世から考えれば古いようだが、江戸の昔から引き継がれた確かな職人技の世界がそこには巌として存在している。

 だからその店の客となる私達は、同じ味が提供されるという事を、その暖簾や看板に書かれた屋号から見極めることが出来る。いつでも安心してその暖簾を潜って席に着き、そこで落ち着いた気持ちに立ち返って、好みの注文が出来るわけだ。
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八蔵 鴨の付け汁 八蔵 せいろ

<江戸蕎麦の系譜 砂場>

 そうやって継承されて来た大切な屋号は、そこで蕎麦を打っている職人が一級の腕を持つ証でもあるし、公に示された保証書であり、いわば剣術の免許と同じく「流派の印可状」でもある。だから、蕎麦の世界において、暖簾選びは極めて大切なものといえる。

 さて、私達が親しんでいる蕎麦の形態は<お江戸>を発祥とするように思われがちだが、実はそうではない。

 蕎麦切り発祥の地は大阪で、そこにあったのが「砂場(すなば)」と呼ばれた店だ。その発祥は気の遠くなるようなはるか昔、1584年の創業といわれている。江戸に進出してさらに人気を博した店だ。


 その当時の江戸では蕎麦よりも「うどん」のほうが多く食されていたそうだ。

 しかし江戸庶民は関西から進出した砂場が広め始めた蕎麦を熱愛した。さらに町人文化の発展に支えられ、いつしか江戸が蕎麦の本場となって行ったのだった。

 江戸は幕府が置かれて急速に都市化していったが、当時の世界最大の都市であった。その八百八町の「ご府内」は今で言えば特別区のようなものだが、その所在は「武蔵(むさし)国」だ。

 その範囲は埼玉県と東京都の一部であるが、武蔵や上州といえば古くからの小麦粉の一大産地であった。その辺りは「手打ちうどん」の歴史が古い土地柄なのだった。
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見事な紅葉 紅葉が葉色を美しく染め上げている。
その様子は書くだけ野暮で、言うまでもなくとても素晴らしいものだ。


もうこれが色彩の限界だ、というほどに濃く染めている。


見とれていても、飽きるという事が無い。

<江戸蕎麦の系譜 更科>

 信州は蕎麦の産地で、そこで採れる精製度の高い粉を更科粉と呼んだ。

 その産地を示す粉の名(要は、他と差別化されたブランドということだったのだろう)を冠した麻布の店が発祥の「更科(さらしな)」の流れがある。これも歴史が古くて、1789年の創業と伝わっている。

 浜松町から増上寺へ向かっていった芝大門の通りに面した店、暖簾分けされた「更科 布屋本店」は、私の好きな店のひとつだ。

 寛政三年(1791年)から220年に渡って、この店の味わいは守られ、今に受け継がれている。店主は代々受け継がれて来て現在はその七代目、これがために一子相伝の味とも呼ばれている。

 濃厚な甘口のつけ汁で食べる「生粉打ち蕎麦(蕎麦粉100%)」などは本当に美味しい蕎麦だと思う。厳選した国産のそば粉を利用して丹精こめて手打ちされ、吟味した本枯れ鰹節・醤油・味醂・砂糖から伝統の味のつけ汁が作られる。
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<江戸蕎麦の系譜 藪>

 そして、神田や浅草にある「藪(やぶ)」の流れがある。

 更科より古い1735年に創業されたという文献が残っている。こちらの屋号は蕎麦好きで知らない人は居ないだろうと思われるほどで、どの店も老舗ばかりだ。

 神田、並木、池之端、浜町、などの店が古くからの伝統を守っているが、暖簾分けされた各店で構成する「藪睦会(やぶむつみかい)」には44の店が名を連ねる。

 これらの系譜が江戸三大蕎麦と呼ばれている。
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染まる鑁阿(ばんな)寺 二重の塔

<足利の蕎麦>

 さらには、先の江戸三大蕎麦とは別の流れがある。

 「長寿(ちょうじゅ)庵」の蕎麦店の系譜だ。長寿庵は1702年の創業といわれている老舗である。藪や更科や砂場は全国的にも有名な店の流れだが、暖簾分けして出店された店舗数は極く少ないものだ。

 視点を替えて古い歴史を持っていて実際に暖簾分けされた店舗数が多い店の流れは、というと、この長寿庵の系譜などが浮かんでくる。


 さて、足利だが、この街には「一茶(いっさ)庵」という老舗がある。

 大正時代に新宿で店を始めた「片倉康雄(かたくら やすお)」が、戦後間もない昭和29年(1954年)に足利へ引き移って定着し、そこで商売を始めたものだ。やがて片倉はその地を地盤にした蕎麦打ち名人と呼ばれる様になって、多くの弟子や後達を育成していく。

 「名人」の呼び名が高かった彼の技を学ぶために、多くの職人が北関東の小さな町へと集まったのだ。世に「足利詣で」と呼ばれ、多くの弟子がそこから巣立ち、一茶庵の流れが広く受け継がれたのだった。

 足利は地方の小都市であり決して交通の便が良いという訳ではないが、JR両毛線と東武線(私鉄の営業路線距離は日本一の長さ)の2本の経路が利用できる。織物を東京に運ぶために桐生や伊勢崎と共に古くから鉄路が引かれた街なのだった。

 北関東という厳しい風土にも拘らず街は古くから産業で栄え、巧みな織物のために私鉄の恩恵に浴する事が出来たようだ。東京(浅草)との往来の利便性は高く、そうした状況は桐生や伊勢崎などとも同じである。鉄路に恵まれない北関東の県庁所在地である前橋などといった地方都市よりはよほど便利な土地柄だったようだ。
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鑁阿(ばんな)寺 寒椿 鑁阿(ばんな)寺 講堂

 ここは源氏の一族で有名な足利氏にちなんだ歴史の街である。どうも室町幕府初代将軍の足利尊氏(あしかが たかうじ)はずっと鎌倉の足利館を拠点(幕府樹立後は京都に本拠を移動)としたため、一度もこの本貫地(足利の里)を踏んだ事がなかったようだ。歴史的な街でもあるが、先にも書いたように近代化の波に乗った街でもあったのだ。

 そのせいかどうか、同じ栃木県内の小山や宇都宮といった場所の人達から比べると、足利の人はよほどさっぱりとした気風を持っている。その事を、私は若い日の経験で味わっているのだった。

 卒業して始めに就職した会社は桐生(きりゅう;西陣織で全国的に有名な街。足利の隣の群馬県西部の地方都市である)にあって、全国の都市ガス会社を相手にシステム開発と受託計算での運用を行っていた。私は関西方面の都市ガス会社の主担当だったが、勿論関東一円の小さな都市ガス会社(主に埼玉、群馬、栃木)の面倒も見ていた。

 そのなかでこのあたりの北関東と言えば、佐野、足利、栃木、小山、そして鹿沼など栃木県内の都市ガス会社の料金調定システムを担当していて、よくそれらの会社を回ったものだ。

 仕事上での付き合いの中身は、システム説明や新規の提案や様々な折衝などであった。中身の濃いシステム上の質問も何度も受けて、その都度、電話口で長い時間に渡って説明を行った。それでは足りずに相手先へ車で出掛けて、直に担当者とひざを交えて説明を行うことも多かった。

 毎日の業務の大半はそうした説明などの教育的なサポートで費やされるので、勢い開発作業は残業でこなす事になる。そこには苦労もあり、その分、味わった喜びも多かったが、何よりも人との触れ合いが大切だという事を学んだように思う。その10年ほどの経験で、そうした北関東(特に栃木県南部の)地域の人達の気質が良く判っったのだった。
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鑁阿(ばんな)寺 講堂 鑁阿(ばんな)寺 講堂

 寒さも厳しい「南東北」とも呼べる気候にも拘らず、どちらかといえば大らかな気質があるのは、発達した鉄路での交通網の恩恵や、産業の発展やそれによる頻繁な東京との往来など、そうした背景から醸造されていったのではなかろうか。

 勿論、片倉名人の存在があるからこそなのだろうが、職人達がこの地に集った理由は他にもあるように思われる。街の利便性と人の気持ちのよさ、あるいは落ち着いた佇まいやそこに流れる空気感といった街の雰囲気など、さらには水の豊かさや蕎麦粉の産出など、が大きく働いていると思う。

 街で暮らす人々のキャパシティが高く、豊かな自然があってはじめて、足利の街は手打ち蕎麦の道場と呼んでも良い場所となったように思われてならない。

 このためかどうか、お膝元の足利市内には83軒もの蕎麦店がある。街のアーケードはすっかり活気をなくしてしまってはいるが、蕎麦屋さん達は伝統の技を競い、その趣向にしのぎを削っている。
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鑁阿(ばんな)寺 鑁阿(ばんな)寺

 館林のうどん、佐野のラーメン、桐生の焼きそば、ちょっと毛色が違うが伊勢崎のもんじゃ、(太田などはスパゲティ屋さんが多い)などの例を見ても判るが、この両毛線や東武線に連なる北関東の一列に並んだ特色ある街の住民達は、無類の麺類(小麦粉)好きなのだ。だから、店の数が多くても需要が尽きることが無い。

 蕎麦は言うまでもなく主原料はソバの実を引いたそば粉であるが、小麦とも関係がある。「ニ八(にはち)」であればその2割りが小麦粉だし、「外ニ(そとに)」であれば2割増した小麦粉が加えられる。

 それにどちらも、蕎麦もうどんも「麺類」とすれば同じ括りになるではないか。
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鑁阿(ばんな)寺 鑁阿(ばんな)寺

 さて、足利には83軒の蕎麦屋さんがあるが、その中の有志10軒で結束されているのが、「足利手打ち蕎麦切り会」という集まりだ。

 数ある店のなかでの、生え抜きといってよい名店といえよう。その集い以外にも、「これは」という店が多い。

 蕎麦好きにとっては堪らない街といえ、現に先日、目標を達せずにたまたま入った店の「弁慶」さんは大変素晴らしかった。心温まるもてなしに感激したが、なによりつゆの味も良かったし、大根の細切りを添えた蕎麦は絶品といえた。

 嬉しい出会いであり、新たな発見だったといえよう。
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足利の街 渡良瀬橋

 前回は道に迷って到達できなかった店の「八蔵(はちぞう)」さんは、新発見した店「弁慶(べんけい)」さんからも程近い。

 市街地からちょっと離れた場所にある店で、閑静な住宅街のなかにあって目立たないが「足利手打ち蕎麦切り会」の一員だ。

 秋口の新蕎麦、一番乗りは先の「弁慶」さんで達成したが、しかし冬場の名物を味わなければ気がすまないような感じがしていた。この時期お勧めの蕎麦、数枚の鴨の焙り肉が乗った、甘みのあるつけ汁をせいろ蕎麦で食べる「つけ鴨そば」だ。

 あの店の鄙びた雰囲気の、飾り気の無い様子が懐かしく思えて、前回のリベンジでもあるので、再挑戦することにしたのだった。

 そして今度は、駅から程近い老舗の「第一立花」さんあたりを皮切りに、その界隈にある老舗を「はしご」しようとも考えていた。

渡良瀬橋の夕日 森高千里さんが歌詞に書いた「渡良瀬(わたらせ)橋」の夕日。
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