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2012.11.18
吾妻(あがつま);岩櫃(いわびつ)城址を訪ねる
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アクセス;
JR吾妻線 「群馬原町(はらまち)」駅 より
コース;
岩櫃城址 登山道入り口までは自転車、入り口より徒歩にて岩櫃山(802m)
登山道からの所要はおよそ40分ほどだろうか。
カメラ;
RICOH CAPLIO GX−100 24mm−72mmF2.4
(画像添付時に約30%程度に圧縮)
今年の紅葉は例年よりも遅いようで、しかも足が長いのだという。
たとえば群馬あたりを例にとると、山間部でも低い山などではまだ散らずに随分と残っているようなのだ。本当は赤城(あかぎ)の荒山(あらやま)などに登りたいところなのだが、「どうせなら、もう少し味わいの深い場所へいってみようか」と思い立った。
そこは今年の夏、思い立って自転車で目指したのだが、その日の暑さと帰り道の距離の長さを思って途中で断念した場所だった。
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群馬原町駅(吾妻線)前で輪行の自転車を組み上げる、
友人S。(本日の相棒)
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ところで、今回。
あの日の様子は後述しているのだが、そのような前回の轍を踏まぬようにちょっと行程を工夫してみた。
前橋から目的地へは自転車で直接向かわずに、その移動を列車に頼ろうという内容だ。JR吾妻線を使った輪行(りんこう)で、すぐ手前の駅まで行って、そこから30分ほどを漕いでいって「岩櫃(いわびつ)城址」を目指すという手立てだ。
以前、前橋駅からJR両毛線で新前橋駅へ向かい、そこからJR吾妻線へ乗り換えて中之条へ、という輪行(のんびり 行こうよ 2012.04.29 「中之条から四万(しま)温泉へ」)を行った。それと同じルート、同じ時間の列車を使うが、降りる駅は中之条より先の「群馬原町(はらまち)」駅になる。前橋駅を9時30分に出発し、現地到着は11時少し前になる予定だ。そこから少し走って城址(城は山頂部に構築されていた)へ向かう。ちょうど、昼少し過ぎに山頂に着くのではなかろうか、といったところだろう。
今回は輪行によることで移動時間を短縮する。その分、自由な時間を多くとれるので存分に里山の紅葉を愉しめるというものだ。喧騒から外れて山に入り、少しだけ「のんびり」しようという目論見なのだった。
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原町駅で輪行してきた自転車を組み上げて、城址を目指して進むことにした。
JR吾妻(あがつま)線はローカル線で、休日とはいえ利用者はとても少ない。中之条はは四万(しま)温泉や沢渡(さわたり)温泉への入り口で、吾妻地方の中心都市となる。その駅を過ぎれば車両に残っている人もひどく疎らな状態になる。停車する度にさらに人数が減っていくが、高原キャベツで有名な嬬恋(つまごい)にある終点の「大前(おおまえ)」駅まで待つまでもなく、全国的に有名な草津温泉への入り口になる「長野原(ながのはら)草津温泉口」駅で大抵の乗客は車両を後にする。
さて、中之条の次の駅になる「群馬原町(はらまち)」駅は首都圏のJRの駅などと比べると山間にある本当に小さな駅舎なのだが、丁寧に管理がされているらしく清掃が行き届いていて、どこも清潔に保たれていて非常に好感が持てた。
原町駅前は広場になっていて旅館の送迎車などが並んでいた。どうやらここにも温泉旅館があるらしい。幾人かの観光客が降りて、そうした宿の送迎車がいなくなると、山間の駅の静けさがまた戻ってきた。
そこにあった観光案内の大きな掲示図で目的とする場所を確認して、まずは渓流(吾妻渓谷)に沿って蛇行する吾妻街道へ出ることにした。この駅まではほぼ街道と並行して流れてきていた吾妻川が、ここから先の上流域では路線から少し離れた位置を流れるのだった。
ところで、その昔、「原町」は随分と通過した街だ。吾妻方面のスキー場であるパルコール嬬恋やバラギ高原それに初めてスキーを滑った鹿沢(かざわ)ハイランドなど、またそれより手前の長野原から北に登る草津スキー場など、まさに吾妻街道を使うスキー場へのアクセスにはここを通過しないわけには行かなかったからだ。それに混みあう国道18号(高崎からの中仙道ですね)を避けて浅間方面や万座温泉、またはもっと先の菅平(すがだいら)などにあるスキー場へ向かう場合のルートとしても、幾たびもこの道を往き来した。
でも、そうした数知れないスキー行の際に、この街へ寄り道したのはただの2回にか過ぎないのだった。しかもそれは「岩櫃温泉」という城の天守を模した日帰り温泉施設の利用のためだった。だから、実際には中之条へのバイパスは勿論、古くからの商店街がある駅前通りなどは何度も通ってはいるのに、いつでも素通りするだけの状態だったのだ。
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自転車を組み立てて準備をし、駅前の掲示板をもう一度、しっかりと確認した。
そうして私たちは群馬原町駅を後にして、いよいよ期待のこもった城址へ向かうことにした。
すると駅構内といってもよかろう場所に、運動会などでも見かける大きなテントが幾張りか設営されているのが目に留まった。何かのイベントなのかもしれないが、「特にそうした掲示は駅舎にはなかったな」と思いつつ傍へ行って見た。ひょっとすると、駅前を活気付けるための朝市の催し、言ってみれば「町興し」のようなものなのかもしれない、と思ったりしながら。
近くへ行ってみると、それは思いのほか賑やかな様子だった。一番手前のテントでは色の着いた綿菓子なども作られていて、父親に連れられた小さな子供がそれをねだっている。その次のテントにはすでに幾人かの先客がいて、とりとめもなく様々な物品を確認している。せんべい、瀬戸物?。えっ、野菜?、それとも台所用品の小物?、一体何を買うつもりなんだろう。
何かを盛んに物色しているのだが、目的の探している物が何かまでは様子を観察しても良く判らない。実は、何かを買うあてがあるわけではなく、目的など少しもないのかもしれない。さしずめ、おばあちゃん達のウインドウショッピングといったところか。
なんだか面白そうな様子ので、自転車を降りて、私達もそのテントを覗いてみることにした。
テントには会議机がいくつも置かれていて、その上に本当に様々な物が並んでいた。そこには懐かしい群馬名物の「登利平(とりへい)」の弁当なども置かれていたが、その横には赤飯や団子や饅頭などが地物と思われる新鮮な野菜と一緒に並んでいる。豆や粉など地元のものなどと一緒に、さらに食材や缶詰など色々なものがところ狭しと並べられていた。
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そういえば、実家では物日(ものび;「晴れ」の日)のたびに赤飯が炊かれていたな、と遠い昔の事を思い出した。さすがに日の丸の旗などは飾った事(私が小学生の低学年になるくらいまでの間は、各家の玄関先に国旗が飾られることも珍しくはなかった)はないが、節句や祝日などに小豆を煮るところから始める母の赤飯が良く作られたのだった。
実家で一人過ごしていた母は、高血圧だったがいたって元気な人だった。父が末期の食道癌でなくなってからもう13年、その間何事もなく気丈に一人で暮らしていた。
それが秋口のある日、にわかに様子がおかしくなった。あれっと最初に異変に気がついたのは、近所に住む本家の当主だった。私とは従兄弟の間柄で、中学生の頃に寄宿していた私とは言って見れば兄弟のような関係だった。ある日突然、「食べるものが何もない」といいながら切羽詰った顔つきで、普段はあまり立ち寄らないのに同じ日に二度もやってきたのだという。
そのあとしばらくの間を置いて、遠い親戚筋に当る隣家から「随分おかしなことを言うのだけれど」と話があった。かなり夜も更けてから「ハンコを買ってきてほしい」と言ってきたのだというのだ。
聴けば、母は「そんなこと言った覚えはない」と言うしで、言動の辻褄が合わず、私は途方にくれはじめた。
財布がないといって電話で訴えられ、それを探しに前橋へ車を飛ばしたことが何度か重なって、次第に不安が増してきた。やがて多いときには30分に一度の割合で携帯が鳴るようになって、私は母をいよいよ受診させることにした。するとMRI検査や問診などの結果、アルツハイマー性の認知症を発症している、とのことだった。しかも中度の症状であり、かなり進行した状態だという。その日以来、2年間少しの間、私は様々に母の介護を行った。
2週間ごとの通院とその後の半年以上に渡る入院。その間の各種手続や多くの手配や依頼、申し入れなど、どれも未体験で骨の折れる多くの事柄を重ねた。奔走の甲斐があって、入院前後には支援センターなどの手当ても仰げた。「要支援」の申請と認定を受けてて2日おきには対面で母の様子を確認する体制を敷く事が出来た。
そこから食料品の買出しや様子見などの必要もあって頻繁に帰省していたのだが、しかし遂には自立しての生活が困難という結論になった。
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そこでとうとう私は裁判所で「保護者」の認定を受けて、なかなか納得しない母を老人施設に入所させる事にしたのだった。その施設で安寧に一年と少しを過ごしてもらったのだが、もうじき春が来るという日に施設の担当者から連絡があった。月に最低2度、施設に見舞いに行っていたが、その際は期末に近いの2月で実に忙しく、正月の訪問からちょっと間が開いてしまったのだった。
どうも食事が進まないと言うことで施設の介護担当者が病院へ連れて行ってくれたのだった。その時は胸水が溜まっているとのことで処置をし、酸素吸入の手配や発生器のレンタル措置などを行ったのだった。
一旦は施設に戻ったが、検査の結果は残念なことに末期の肺がんを発症しており、さらに精密検査によって転移も進んでいた事が明らかになって、施設を出て入院することになった。そして僅か一月少しの闘病の後、とうとう母は今年の4月に亡くなってしまったのだった。
だから今となっては昔馴染んだ手作りの赤飯や自慢だった洋風料理の数々などの、母の手作りの品はもう食べることが出来ない。
テントに並んで売られていた赤飯をみていたら、そういえばもう随分、赤飯を食べていなかったことに気がついた。本当は、このあたりの手打ち蕎麦を食べようと今回の山行を楽しみにしていたのだが、私はその赤飯を山の中で食べることにした。
母の味を偲んだ、という訳ではないのだが・・。
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城址への入り口を求めて、駅前通りから街道に出て走ったがその入り口の掲示は大分先まで走ったところで現れた。もう次の駅の「郷原(ごうはら)駅」のすぐ手前という場所まで来て、街道からの交差路の脇に案内板が立っていた。
街道脇に示された案内板のある分岐道からその集落へ入り、城へ向かうための入り口を改めて探してみた。街道から一旦線路を渡って郷原の集落内に入り、そこを抜けた丘陵の先に入り口を示す札があった。
緩やかな斜面に広がる田のあぜ道を走って、その田んぼが尽きるあたりまで行くと小さな看板が出ていた。「岩櫃登山口」と書いてあった。田の畦道は狭いとはいえトラクターが通れるほどの幅を持ち、コンクリートで舗装がされていた。アスファルトではないので完全な農道であり、補修などは集落での管理に置かれているのだろう。
その畦の先に見える細い道はまったくの杣(そま)道で、林業以外には使わないだろうといった雰囲気のものだった。
道の入り口の数メートル先から深い森が広がっていて、その暗い森の中を細い道が奥へと続いていく。 薄暗く、道幅は1mあるかどうかといった具合に狭いもので、しかも登山口と書いてあるのに入り口から先は下り道になっている。 |
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不動沢に沿って山道を登った先にある平沢の集落の近くは里山だ。
残念ながら、そこからしばらくの間は杉の植林帯が続く。
その先の日当たりのいい開けた斜面では、栗林が広がっていた。
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そこに広がる斜面を眺めてみる。さほど古くない時代のことだったろう、山間に丁寧に開墾されたと思われる稲田が段丘状に数枚か重なっている。その先に険しく切立った岩峰が見える。そこが目的の場所なのだが、今進もうとしている山への入り口はそこ(山頂)へ至るための巻き道であろうか。
しかし、道は森の中を一旦下がってからまた登りに変わり、そうして迂回しながら次第に山へと近づいていく。そして遂には屹立する岩場の真下に出てしまう。場合によるとそういう道であって、自転車の私達にとっては敬遠すべきコースなのかもしれないという気がした。
それを考えて、私達は一旦その場所から撤退することにした。
そしてロスタイムにはなってしまうのだが、改めて駅方面へと道を戻って山への入り口を探すことにした。街道から駅前の市街地へと向かう分岐点まで戻り、その少し先で無事に岩峰への入り口を見つけた。山筋から渓流が流れていて、その川筋の道が山へと向かう登山道であった。先ほどの暗く細い林道とは違って、トラックも通れるほどの道幅がある、よく舗装された路だった。
もうすっかり色あせてしまってその時の記憶が定かではないのだが、かつて10年以上も前の夏のある日に城跡へ自動車で訪れたことがあった。その際に通ったのが、どうやら今目にしている道だったようだ。
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美しい渓流が横を流れている。この沢筋を「不動沢」と呼ぶらしい。この渓谷を遡って坂道を進んでいけば、目指す岩櫃山へ向かえるということらしい。
さて坂道だが、登り始めはまだそれほどきついという状態ではなかった。前橋で先ごろ行われた「赤城(あかぎ)山ヒルクライム・レース」参加のためのトレーニングが功を奏しているようだ。まだ、その時に培ったコンディションが活きていて、坂道が少しもキツクないといった状態。
斜面に分け入るように曲がった道をひたすら登っていく。ただし渓流を横目で見ながら進めることが救いである。しかし登っていく道は次第に高みへと向かい、その斜度をどんどん増していく。
斜度がどれほどなのか、標識がないので皆目わからない。そして遂に登る道が立ち始め、「これは随分きついぞ」という状態になってきた。リゾート施設への分岐地点を過ぎると道は一段と角度を増して来た。しかも次第に広かった道幅も細くなってきた。
この道に入ってから、20分ほども漕いだろうか。いや、もった長い時間かもしれないが、山への入り口はまだ少し先のようだ。
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南に開けた日当たりの良い斜面。
ちょっとした棚地に休憩用のベンチが置かれていた。
あんまり気持が良いので、ちょっとここで一休み。
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渓谷に沿って坂道を登るのだが、私の後ろには本日の相棒の友人Sがいる。彼の手前、気合を抜く訳には行かない。(いや、競うつもりはないのだが・・。)なので、気持ちを引き締めてひと踏ん張りして登り続けるが、そろそろバテはじめてきた。
記憶の中身とすると、自動車でのアクセスだったためかこれほどの斜度ではなかったような気がしていたが、これは思いのほか大変なアプローチだ。彼の荒くなりつつある息遣いを後ろに聞きながら懸命に踏ん張っていたら、ふと遥かな記憶が蘇ってきた。まるで、昨日の事のように中学生の頃に彼と行った観音山(高崎)の坂道でのことが浮かんできたのだった。
あの時も私達二人はふと誘い合って、今日と同じように自転車に乗っていた。息を切らせながらお互いに買ってもらって間もない大切なロード自転車(彼のはミヤタで、わたのはナショナル製。いずれも中学生にはちょっと大きい27インチというサイズ)を漕ぎ続けていたのだった。目の前に迫ってくる坂道を次々に頑張って登っていたのだが、思えばそれはもう35年以上も昔の出来事だった。
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< 岩櫃城址 >
さて、岩櫃城址(いわびつ)だが、険峻な崖をもって吾妻街道を見下ろす場所にあり、この地の先で街道が分かれる要害の地に位置している。
西へ進めば吾妻の奥へ、また菅平や上田方面へ向かって道は続いていく。また草津を抜けて渋峠を越えれば志賀高原であり、湯田中に降りれば小布施や川中島方面へ戻ることも出来るし、北に進めば中野で、飯山を越えれば妙高・高田と抜けて越後へ出る北国街道だ。
一方で東(関東平野側)に向かって直進すれば渋川方面へ向かうのだった。渋川からの道筋を北上して沼田へ向かえばさらに福島や新潟へと通じているのだし、前橋方面へ南下すれば広がる関東平野の各地に通じるというものだ。
また同じく中之条(東)側へ進んだすこし先のあたりで分岐した道を南下すれば、榛名(はるな)山の北西の裾野を巻いてやがて高崎や安中へ至る事ができる。主要道として整備された中仙道へ出ることが出来るのだ。
まさしく吾妻地方の要害といえる土地である。その堅牢な守りとして、この城は豪族の吾妻氏によって築かれたのだった。
しかしその後、室町時代の末期、戦国の武将として北信濃に君臨する前の「真田昌幸(さなだ まさゆき)」が武田勝頼の代に信州先方衆に任命されて、この城と深い関わりを持つことになる。
真田三代といわれる場合の家祖である幸隆(ゆきたか)は信玄の時代、武田方の主要な武将の一人だった。信玄の命により上州への進出を担うのだが、岩櫃城の堅い守りに阻まれて攻略は失敗してしまう。その子も信玄の下にあって重用され、長男は父の幸隆と共に「武田二十四将」の一人に数えられるまでになる。しかし信玄の没後、真田家は重用されていた彼の父と兄2人を「長篠の合戦」で同時に失ってしまう。三男だった昌幸が家督をついで持ち前の巧みな戦略によって生き残り、豊臣の時代になると上田(長野)や沼田(群馬)に定着して戦国大名の一人として勢力を張ることになる。
ところで真田三代とは幸隆・昌幸・幸村と続いた血脈をいう。幸村(ゆきむら)は通称で本名は信繁(のぶしげ)といい、次男であるが常に父の昌幸と共にあった。長男は信之(のぶゆき)であり、幸村にまさる知将といえたが目だった武功はないので世間の認知度は低い。沼田城を本拠とし上田城主となるがその後転封となって松代藩の藩祖となる。その際の石高は沼田領を含む13万石。その家は幕末まで大名として松代を統治した。沼田領はその子孫に受け継がれ正式な藩となる。藩主は信之の子の信直、そしてその子の信利と三代に渡って真田家が続くが、両国橋の工事での不手際や5倍の石高を基準とした過酷な年貢の徴収に端を発して起こった農民の強訴などから改易となって真田家は沼田の地を後にする。
真田の上州攻略の拠点「名胡桃(なくるみ)城」があった月夜野の地の出身、杉本茂左衛門が綱吉の治世に強訴して沼田の領民・農民の窮状が明らかとなって断罪されたのだった。この茂左衛門は直訴を咎められ妻子と共に磔刑になっている。当時の法で強訴や直訴、一揆の首謀などは死罪となったのだった。それにしても「一揆」という武力蜂起と「強訴」(訴訟手段のひとつではないか)は別だと思うが、徳川の体制を支える身分制度を保つには刑罰を徹底するほかはなかったのだろう。しかし領民は彼を称えて千日堂を建立したという話があるので、救われる。県人に広く浸透している「上毛カルタ」では「て」として彼の偉業が詠まれている。「天下の義人 茂左衛門 (て んかのぎじん もざえもん)」。
さて、昌幸の父である幸隆が岩櫃城の攻略を挑んだのは2回。しかしいずれも結束の固い武士団に撃退されて攻略ならず、両度ともにあえなく失敗に終わっている。この城が難攻不落の堅城と呼ばれた所以である。
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植林は杉ばかりで、暗い様子なのだが、ここは適度に手入れがされている。
樹林から木漏れ日が漏れる。
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真田昌幸は戦略家として名高いが、関が原の合戦前に徳川家が大軍を持って上田を攻めた際に2度に渡り攻防戦(市街戦)を行い、見事これを打ち破っている。
昌幸は本貫地の真田の庄(松代を見下ろす山間部)や主要拠点の上田といった北信濃から打って出て、信州全領域の制圧ではなく上州への進出を盛んに企てる。そうした積極策が徳川との衝突の原因となったのだった。
上州への進出の際、拠点となった砦の跡が月夜野(つきよの;越後街道を押さえる要衝の地)にある名胡桃城(なくるみ)と、吾妻街道の要衝であるこの「岩櫃(いわびつ)城」なのであった。
そうした地にある城の攻略は軍事的な要衝を押さえるという意味もあったのだろうが、それだけではなく、戦に強く結束の固い武士団を配下に置くという意味合いも強かったろうと思う。世に吾妻武士と呼ばれて地元に根を張る豪族が威勢を誇った土地であり、城(砦)が築かれた岩櫃山などは吾妻の武士団を支えた山岳修験道の聖地であった。
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< 岩櫃(いわびつ)山へ >
沢筋に沿って車道(自転車にとってはきわめてキツい坂道)を登ってくると、やがて奥まった場所にある平沢の集落へと出る。盆地のようにひっそりとある集落の手前に城跡へと続く登山道の入り口がはじまるのだ。
天狗丸と岩櫃本城の縄張りに囲まれて、守られたように集落が山上に展開しているのだった。
道を登った場所には駐車場があり、そこにはトイレもあって充分に整備されている。その駐車場の先に山への入り口があるのだった。そして入り口の脇にはプレハブの小屋があって、そこが観光案内所のような役割になっている。城の縄張りを示した地図が用意されていたり、水道や休憩のためのテーブルセットが置かれていたりする。
また、サービスの一環なのか、ストックが何本か置かれてもいる。それに小さなパックになった種(スイカズラと書かれていた)も。
入り口の先は杉の植林帯であり、細い道は極めて暗く、しかも湿っている。そんな陰気な状態で山上へと向かっていく。しかし、少し登った先で暗かった杉林は不意に終わって、にわかに視界が開ける。緩やかな明るい斜面が唐突に始まるのだが、そこは集落の入会地でもあるのか、綺麗に整備された栗林になっている。
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栗林を巻いてその南脇を進むとやがてまた斜度を増した登り道になるが、しかしそこからの道筋は登り始めた場所ほど暗い状態ではない。
途中で、少し棚状に開けた場所になった。そこは南に向かった斜面であり、平坦な場所に木製のベンチが設えられていた。南側には眼下に渓谷や街道を望むことができる少し見晴らしが利く場所なので、城の遺構の一部でもあるのだろう。
駅前で買ってきた缶コーヒーをここで開けて、ちょっと休憩することにした。南向きで日差しが温かく、しかも実はベンチの横には美しく紅葉する樹木があったためだ。
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休憩したベンチの先(本丸側)は急な土手のように土が盛られていた。というよりこの場所が一段下がった状態で、平坦に削られたということかもしれない。すこし狭いが防御用の郭であったものと思われるからだ。
ここと上部を隔てる土壁は、多分、土塁として構築されたものだろうと思う。
そこを登り越えるために、階段状に丸太が組まれ、登山客や城跡の訪問者のために快適に整備されていた。
丸太の一段は適度な高さであり、斜面を歩くよりずっと楽が出来る。難点としては靴によっては滑りやすいということだろうか。特に今日の私のように、自転車のレーシングシューズだとちょっと辛いものがある。急なので、丸太で止められた段の幅が狭くて、靴底を丸太の上に着かざるを得ない状態だったのだ。
しかし、それもほんの僅かの間で、そこを登るとまた植林があり、やがて二の丸址に出た。
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先ほどの場所と二の丸の間には土塁がいくつか残っていて、在りし日の城の様子を思い浮かばせていた。
二の丸址は少し小高い状態になっている。そこは木立ちが周りを取り囲んでいて、静かな雰囲気に満ちた場所だった。北側や東側の展望が開けていて、遠く町並みが見渡せた。小野子(おのこ)山が少し先にあって、中之条の町が周りを山並みに取り囲まれるようにして白く固まっていた。
一段回りより高く盛られて台場状になった二の丸址から下がってきて、奥に向かって歩くと、その先に平坦な場所が広がっていた。そこがこの城の本丸郭だった。
城の存在を示す大きな石碑や案内碑、それに休憩のための大振りな東屋が立てられている。ちなみにこの城址は史跡には違いないが、山城なので土塁があるのみ。勿論、石垣などはない。御殿の礎石や井戸なども見当たらないので、城の具合を想像するのはすこし難しい。野戦陣地といったら判りやすいだろうが、そんな感じの場所だ。
さて、それでは城の本丸跡に陣取って、ゆっくりと昼食を採るとしよう。
昼は、駅前で買って持ち込んだ「赤飯」。地元のおばちゃんが丹精込めて作ったと思われる美味しそうなもの。それに、横に並んでいたイカのおつまみ缶も買ってあるし、持ち込んだワインが120mlほど。さあ、ちょっとしたランチタイムの始まりだ。
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南の斜面を望む。 |
本丸跡の石碑の横には東屋が設えてあるが、先客もあるし、どんどんと人が集まってくるので、落ち着きがない。
その山頂のすぐ前の部分がちょっとした鞍部になっている。北側は急斜面だが、南側は少し広い台地状に地均しがされているのだ。御殿があった場所の直ぐ下で、そこは武者寄せでもあったのかもしれない。
その場所には、素晴らしい色で輝く紅葉の樹木が二本、並んでいた。その横手に場所を見つけて、陽だまりの下に私達は陣取った。下は落ち葉のジュータンになっていて気持がいい。
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食事しながら
見上げた青い空
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著名な日本庭園(六義園や後楽園などといった大名庭園)や公園(北の丸公園や東御苑や浜離宮など)など、下界の庭園でみる紅葉は素晴らしいが、山上のこの地で巡り逢えたまたとない出会いに感謝の念が絶えない。
落ち葉は盛んに頭上から降ってきていたが、まだまだ厚く積もる前なので、それがクッションとなった登山道を味わうことは出来なかった。でも、そこまで望むのは贅沢な期待というものだろう。でも、この陽だまりではそうした落ち葉が楽しめたし、勿論、鮮やかな紅葉も愉しめたのだ。
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こうしてあまり期待をしていなかったところで味わえた、深い喜びがあったのだから。日頃の行いが報われたといったところだろうか。
圧巻は、ひっそりとだが華麗な色で自らを飾っている美しい楓に出会えたことだ。その様子は、たまった疲れを心地よく和らげてくれたし、また、ささくれた心を癒してももらえたのだった。
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どこまでも、青く澄んだ空が広がる。
山は、やはりいい。
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< 前回の過ち >
私の勘違いで、吾妻(あがつま)の基点となる中之条(なかのじょう)の手前の小野上(おのかみ)を少し過ぎたあたりに目的地があると思っていたためだ。そう考えてペース配分をして前橋から走ってきたのだ。
だが、その儚く消えた計画は随分昔の記憶を元にしたものだった。であるから、すこぶる当てにならないものだった。
記憶のズレがひどくある。そのためコース半ばで取りやめとなってしまった。それは極めてあやふやなもので、中止したのはいたって当然の帰結であった。
前橋の六供(ろっく)のあたりから利根川CR(サイクリングロード)に入り、そのまま渋川を過ぎて鯉沢の交差点の先から「白井(しろい)宿」(自転車散歩 のんびり 行こうよ: 20120520:渋川 白井(しろい)宿(歴史探訪) )を抜けて吾妻(あがつま)街道へ入った。そして、後はずっと渓谷に沿って進んでいった。
そうして意外に良いペースで走ってきて、昼少し過ぎになったため、昼食を兼ねた休憩を小野上(おのがみ)の「道の駅」でとったのだった。
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多くの登山客が稜線を伝っていく。
昼を過ぎた頃、
静かだった山上が俄かに騒がしくなった。
大人数で構成された年金族グループ。
その、騒がしといったらもう・・。
安い居酒屋でコンパしてる
年若い学生じゃあるまいし。
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小野上にあった道の駅はログハウス風の建物で、土地の農産物直売やお土産ものが並んでいた。白井宿での手作り弁当の経験で気をよくしているので、この直売所でも地元の方が作った幕の内弁当と豆腐を買って、併設された小さな公園へ向かった。勿論、道の駅には食堂もあって、そこできちんとした食事が出来るが、暑いとはいえ空は折角の快晴である。公園の木陰に陣取ってのんびりしようではないか、と思ったのだ。
そこでおいしいお弁当の食事を終えて、その満足でゆったりとした気分に浸っていた。
なんとなく気になって携帯で地図を確認したが、目的地の岩櫃城址が見当たらない。ちょうど公園の入り口に大きな観光地図があったので、それで確認してみた。あれっと思い、軽い眩暈がしはじめた。周辺にはその目的地がなく、地図で示された現在地のずっと先のほう、ほぼ掲示範囲の左端といった場所にそれがあった。ここからあと25km以上ありそうではないか・・・。
15時位までには行き着けそうだが、「どうしよう」という迷いのほうが強かった。この日の道連れの友人Hの顔をふと覗いてみると、ちょっとイラっとしている風が読み取れる。オレ、まだ初心者なんですけど、といった訴えかけが眉の辺りに浮かんでいる。
そうした訳で、その日私達は目的地へ向かうのを断念して、小野上を後にして戻ったのだった。
だから、今回はその際に果たせなかった宿願の、言ってみればリベンジのようなものになる。
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鮮やかに染まる
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< 前回の過ち の恩恵 ;(金井宿のある) 「三国街道」について >
でも、その帰路では、榛名(はるな)山の北側を巻いて通っている通称「日陰の道」で戻り、途中で古い宿場町の「金井宿」の様子を楽しんだので、結果としてさほどひどい物ではなかった。
関所跡や本陣跡、それから佐渡送りの行列がこの地で宿泊する場合の、罪人(「佐渡送り」は遠島の刑罰で死罪の次に重い)を収容するための地下牢の遺構などがある。
「金井宿」は古い宿場で、新潟へ抜ける「三国街道(みくにかいどう)」にある。その街道は関東と越後を結ぶ動脈で、参勤交代の大名も行列するし、佐渡金山からの御用金を運ぶ要路という役割も持っている。越後と江戸を結ぶ「三国街道」は、列島の主要な動脈だった五街道に次ぐ格式の道だ。
「中仙道(なかせんどう)」の拠点である高崎から分かれて、金古・渋川・金井・下牧と過ぎて進んで、さらに先の猿ヶ京から上越国境の険しい山脈に入る。そこから険しい峠を越えて越後の湯沢へと続く。「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」という名文の書き出しで名高い川端康成の小説「雪国」で語られた<国境の地>が、この三国峠である。
湯沢からの北上を続けてさらに越後路を進んで列島を縦断するように進めば、やがて路は長岡に出る。そしてもうそこからは眼前に日本海が広がっている。
さて、街道は長岡からさらに先へと続く。豊臣五大老の一人、名将の「上杉景勝(うえすぎ かげかつ)」を支えた高禄の武将、直江兼継の領地であったとして有名な与板へと続き、そして遂には佐渡ヶ島の寺泊へと至るのだった。33宿の長い道筋である。
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紅葉(もみじ)ではなく、楓だと思うが、
どうだろうか。
どちらにしても素晴らしい。
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< 前回の過ち による恩恵 ; 「金井宿」について >
さて、「金井(かない)宿」は幕府開設から間もない1643年に宿場として開かれた。
そこから街道筋の重要な宿場として発展を遂げた町だ。街の中心は未だに街道筋であるが、旅籠や本陣や脇本陣などの宿場として賑わっていた頃の様子はなくなっていて、今では静かな町並みだけが残っている。でもそこには街道を挟んで家並みが並んでいて、宿場町だった佇まいを色濃く残している。
宿場として栄えた当時は、大名行列で利用される本陣や脇本陣をはじめとして6軒の旅籠があったといい、それを中心にして200軒ほどの民家が軒を連ねたのだということだ。
今に残る町並みには不思議な印象が漂っている。観光化された訳でもないし、宿場町だった頃の建物は何も保存されていないのだが、そこには宿場町の雰囲気が確かにある。言い換えれば独特の「空気感」とでも行ったらよいだろうか、そうした形には表れないが明確なものを、この町並みが良く残しているからなのかもしれない。
そして吾妻川が削った河岸段丘上に吾妻街道と川を挟んだ反対側に、山側に沿うように三国街道が走っている。その道を中心にして宿場があり、街は川側へ向かって広がっているのだ。
<2013.01.10 追記 ;全国初: 古墳時代の甲冑姿が遺跡から発掘される>
先日、友人Hと電話で話している際のこと、「知ってる?この前行った金井宿、遺跡から鎧が出土したんだって」とのニュースの紹介があった。
調べてみると、話は歴史好きの私を担いだわけではなく、本当の出来事。およそ、以下のような内容だった。
出土した場所は「金井東裏遺跡」。改めてWebで検索してみると、公益財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団のHPが見つかった。同ページの記載記事にによれば、「国道353号金井バイパス(上信自動車道)の建設に伴い、平成24年9月から当事業団が発掘調査を行っています。」との事で、現在も遺跡の発掘作業は継続している。そしてさらに「このたびの発掘調査により、古墳時代後期(約1,500年前)に噴火した榛名山二ッ岳火山灰層の下から、甲(よろい)を着装した人骨が発見されました。全国的に見ても初めてという極めて貴重な発見」と報告されている。
驚きましたね、実に。
古墳時代といえば、先の土師(はじ)神社の主人公(のんびり 行こうよ 2012.10.21 藤岡 土師(はじ)神社の流鏑馬」)、「野見宿禰(のみのくすね)」が埴輪を開発して古墳に埋葬し始めた頃ではないのだろうか。その古墳時代の後期の発見、大映映画でお馴染みの特撮時代劇「大魔神」に出てくるような、埴輪で出土する武士像そのものの甲冑姿が発掘されたのだという。
埴輪などの意匠を込めた造詣の出土ではなく、実物としての人骨に纏われた甲冑の遺物が初めて出土したのだというところが、いかにも素晴らしい。何せ、全国初の出土。
県としては予算を何とか捻出して、早い段階で資料館などを作って、是非、広く一般公開していただきたいものだと、切に願っている。 |
< 前回の過ち による恩恵 ; 「杢ヶ橋(もくがばし)」の関所跡について >
崖を降りた先には三国街道を固めるために幕府の命で設けられた関所の跡が残っている。
1631年に開かれたという「杢ヶ橋(もくがばし)関所」というものだ。目付役1人、与力2名、それに定番3名がそこに詰めていたという。受け持ちには、近隣の安中(あんなか)藩が当り、その後高崎(たかさき)藩が幕末まで勤め、一時期だけだったようだが前橋藩もあたったということだ。近隣諸藩の総掛かりというわけではなく、一定期間での切り替えであった。交代制でも良かったのでは、と思えるがそういう事ではなかったらしい。
定員の武家身分の役人だけでなくさらに足軽身分の門番や改め役や手附(てつけ、手代)などの使用人も別にいたろうから、結構な人数が固めていたことになる。あまり有名とはいえないこの関所だけれど、思いもよらないほどの定員といえよう。
なお、「定番」役は勤番(藩士の短期間の駐在)ではなく地元の役人がその任にあたった。長谷川家、田中家、砥柄家の3家が代々世襲した。
関屋と役宅、それに門番小屋があったというから規模としては大きなものだったようだ。今は定番役の世襲である田中家があり、定番役宅が県指定の史跡として当時の場所に残っている。また、長谷川家には記録としての文書多数が残されて、今に伝わっている。
関所の先は吾妻川であるが、橋はない。関所を設ける前には川を渡るための橋があって、それが地名の「杢ヶ橋」の元となったのだろうが、要衝なので川渡しを行っていたという。「南牧渡し場(なんもくのわたし)」がそれだ。川が増水すれば大井川のように数日に渡って川止めとなる。金井宿はそうした旅人を賄うためもあって、規模からすれば多くの旅籠があったのだろう。
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山頂の本丸跡の直ぐ下は、台地のように均されている。
その台地状の場所に、
華麗に色づいたひときわ目を引く樹木があった。
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< 「三国街道」の宿駅 与板と上杉家について >
ところで、越後「与板」といえば、思い起こすのは智将として高名な武将であった「直江兼継(なおえ かねつぐ)」のことだ。
直江家の本拠地が「与板(よいた)」であり、兼継は樋口家の嫡男であったが、景勝の命で当主の死後その城主家の婿養子に入って、与板城を治める直江家を継ぐ。
下克上の戦国大名「長尾景虎(ながお かげとら)」が若年にも拘らず越後の地を統一する。軍事の天才といっても良いだろうが、その勇名を頼った上杉(山之内上杉)家の関東管領の職とその家名を継ぐ。上杉家は平安、鎌倉、室町と続く名家であるが、戦国末期には見るかげなく没落してしまい、北条家の台頭によって関東を追われたのだった。
英雄であった謙信が越後の統一を果たし、正式な守護代、そして国主となってその地を領して後、景勝の代になると秀吉の命で会津120万石への加増移封となる。栄転ではあるが、この措置は東北への押し込め策でもあったのだろう。景勝の幕営にあって兼継はその信頼が厚く、出羽米沢を中心として30万石を領する勢力を誇っていたのだ。
上杉家は西の石田三成の挙兵に呼応した局地戦を展開するが、南下策は採らず、結局のところ江戸には攻め入らなかった。そうした戦略の不徹底が災いし、豊臣方は関が原で敗北する結果となる。直接の戦闘で敗れた訳ではないが、それを期に会津の地を追われて、出羽米沢(米沢藩)30万石への減封となる。
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さて、城跡の山頂部からは絶景の眺望が広がっている。しかし、樹木が多いので、残念ながら頂上部一点から周囲360度をぐるりと見回しても、すべての方向に展望が開けているわけではない。
斜面が始まる突端のほうへ移動して見渡せば、眼下の谷側には渓流に沿って遠く続く吾妻街道を見る。そこからさらに移動して二の丸の木立ちを縫ってさらに北側を望むと、水上や新潟へ向かって連綿と続く山稜の広大な景色が広がってるのだった。
岩櫃山の山頂は本丸跡の西側にあるので、本丸跡から細い稜線をとおってすすみ、さらに山中を西に進む。稜線は本丸からまっすぐ西に伸びているので、まるで、「武者走り」のような感じがする。
いずれにしても細い登山道の様相だ。道の北側は急激に切れ込んだ深い斜面になっている。樹木が多いのでそれほどの不安がないのが、幸いだ。これで、樹木が切取られて杉ばかりが植林いたら、斜面が崩落していた事だろう。
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本丸跡から西にある岩櫃山頂への稜線。
北側の斜面には樹木が茂っているが、
かなりの斜度。
広葉樹がそのまま残されているのが良い。
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この鞍部からさらに稜線伝いに歩くていくと、802mの標高だというこの山のピークが見えてくる。
先ほどの本丸跡が、平沢集落から山を登りつめた場所なのだが、一段下がった先に、また盛り上がりがある。樹木に覆われた先に、岩に覆われた頂上が見えている。
この盛り上がりの頂上、大きな岩の塊が覗いている部分が岩櫃山だ。丸木を寝かせて階段状にした整備された登山道が、本丸址から伸びる稜線から続く。
ここまで来たのだ。折角なので、そのピークのほうへ行ってみることにした。
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林野庁による掲示板。
これが、岩櫃山。
標高は802m。
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ピークへ向かうには、
積もった沢山の
落ち葉を踏みしめて、
もうひと登りする。
傾斜は急だが、
「登る」といっても、
大した事はない。
先ほどの武者走り状の水平に伸びた稜線部から、30mほど高い場所になるだろうか。
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やがて本丸跡から水平に伸びてきた狭い稜線上の登山道は、少し広い斜面に変わる。
しかし、斜面の向こうの南側では大きな岩が覗いていて、スパッとその先が切取られている。北斜面も鋭い斜度なのだが、南斜面はさらに凄まじいことになっている。
岩峰といっても良いほどの岩場になっている断崖がそこから落ち込んで、遥か下の街道筋から屹立しているのだ。
先の登り始める時のことだ。街道筋で悩んだ上り口から見上げた崖の頂上が、今立っているこの場所、ということだろう。それを考えると、足がすくんで来た。私は残念ながら高所恐怖症なので、あまり突端まで歩いていく気が起こらなくなってきた。
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南の断崖。
吾妻街道まで、
垂直に切立っている。
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しかし、突端部に立たなければその様は判らない。
ピークはまだこの先(西側)なので、もう少し先へ進もうか。
ここは険しい崖の頂上といっても良いような場所なのだが、そうとは俄かに信じられないような静かな佇まいだ。くだらない杉の木がないのが幸いして、温かく日差しが注いでいるためだろう。
あたりは鬱蒼と樹木が茂る美しい広葉樹林となっていて、そこには色とりどりの落ち葉がたくさん散り積もっているのだった。
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この先はまさに文字通りの断崖絶壁になっている。
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そして、その地面にはすでに一杯の落ち葉があるのだが、空を見上げると、まだ紅葉した葉がたくさん残った木々の姿があった。
鮮やかに色付いた葉が、競い合うように午後の陽光を浴びて盛んに輝いている。このあたりの空気感がなんとも言えず、清々しいのは、やはり山であるからなのだが、これが下界の紅葉だったらまた少し違っているのだろうと思う。
たとえば同じような標高の高尾山であったとすると、どうだろうか。ここでは下界の音はほとんど聞こえてはこない。小仏や相模湖のほうから聞こえてくる喧騒(それは主に車なのだが)がないので、ここでの感じ方は少し違うものになっている。自然にみちた世界という部分は共通だろうが、やはり都会の中での残された自然とは、一段、別物なのかもしれない。
それにしても今日の空は秋空と呼んでも良いほどの、理屈抜きに気持ちの良い晴れ模様である。
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林野庁が掲示する案内板の向こう側。
本丸の西にある岩櫃山山頂へ登る道から
北斜面側を覗く。
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この日の天気はほぼ快晴で、多くのハイカーがこの山を歩いていた。
その多くが年金世代で、しかもグループのメンバーは大人数。どの集団も10人を遥かに越えるような状態だった。そうした人達は一応登山ウェアに固めているが、すれ違っても挨拶もせず、登り優先のルールなどもお構いない。狭いコースを時には外れて登山道の脇に平気で踏み入っている。しかも、酒盛りでもしているかのような大声を上げながら、次々に歩いてくるのだった。
彼らを見ると、まったく、と思ってしまう。
そして、こうした年金族の傍若無人な様子に出会うたびに、こんな人たちのために年金を毎月拠出して支えているという事が本当に残念に思えてくるのだ。そして遂には、虚しい制度そのものが腹立たしくなってくるのだった。
勿論、6名程度のグループではきちんとした人達がいるのだが、今日はそうしたグループは極めて少数派。思えば今日に限ったことではなく、低山ハイクで10名を越える年金世代のグループに出会って、その人達がまともだったためしがないのだ。
いったいあのオヤジやオバサン達は、どういった心境で山を歩いているのだろう。
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山位同定用の案内などは整備されていない。
山頂は360度の眺望を持っているが、
周囲に展開している山の名前は、まるで判らない。
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<街道筋に置かれた「関所」について>
さて、以下はちょっと横道にそれた雑談となりますので、しばしのあいだ、お許しを。
先ほどは、渋川の「金井宿(かないじゅく)」の話を書いた。
その金井宿から「三国(みくに)街道」を進むには今眼下に見える吾妻川の下流の部分を渡らなければならない。「下牧の渡し」である。川は街道筋の関門だが、そこに至るにはもうひとつ障害があって、人工の関門がある。「杢ヶ橋(もくがばし)の関所」だ。
先に、眼下に見える「吾妻街道(あがつまかいどう)」に触れた。街道をここから西に進めば信州へ至る。浅間を抜けて軽井沢や小諸へ。そしてまた少し先を巻いていけば菅平や上田へ向かえる。また榛名の手前へ向かえば、つまりここから東へ進んで高崎に出れば、そこはもう中仙道(なかせんどう)だ。
だから言ってみれば、この「吾妻街道」は中仙道の脇往還といっても良いかもしれない。なぜなら、中仙道を高崎まで進んできて、さきの三国街道の「杢ヶ橋」の関所も通らず、また本来の中仙道(なかせんどう)の「碓氷」の関所を通らずに済む方法がある。高崎から榛名の西側の麓に沿って道をとって吾妻に抜ければ、そのままこの街道筋に出るので、遠回りにはなるが小諸や上田方面へと出られるのだ。
上州から信州に抜ける街道筋とすると、「下仁田(しもにた)」から妙義(みょうぎ)山方面へ進んで「内山(うちやま)峠」を通って鯉料理で有名な「佐久(さく)」へ出るのと、中仙道を安中から進んで碓氷峠を通って軽井沢へ出る道とがある。
「碓氷(うすい)の関所」は、日本橋から始まる大動脈のひとつ、中仙道の重要な拠点であった。中仙道は古道なので、かなり古い時代(899年頃)から関所があった。江戸開府後、幕府は同じような場所に新たに大きな関所を設けたのだ。
さて、江戸時代。中仙道が整備されて、峠に入る手前の地に改めて大きな関所が設けられたのは「入り鉄砲と出女」を取り締まるためだ。東海道に置かれた箱根の関所(のんびり 行こうよ 2009.09.27 「箱根の初秋を楽しむ」)と同様、江戸への武器や部隊の流入と人質とした大名家の妻女が江戸を脱出するのを防ぐための検問施設であった。(太古にこの地にあった関所は、盗賊などの取り締まりのためだったようだ。)
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この「碓氷関」を守っていたのは、安中藩であった。関所には番頭2名、平番3名、同心5名、中間4名、箱番4名、女改め1名が詰めていたという大規模なものだ。
さて、戦国の末期である1590年、秀吉の命により家康が江戸城へ入る。
小田原の陣の戦後処理(武功に褒章するとしたが、箱根以東へ押し込めた状態)としての意味を持つ関東入りである。この後、家康は全精力を新しい領地の整備や法治に傾ける事になる。そうして小田原北条家が納めていた関八州の統治が入れ替わる結果となる。最近封切られた話題の映画の「のぼうの城」などにもあるように、北条方の勢力が関東の各地から一掃されて、多くの徳川家を支えた武将が領主を与えられ、幕府を支える大名として入国するのだ。
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前方(南側)には、
吾妻渓谷を挟んだ向こう側に連綿と続く山並みが見える。
左手は榛名山。
見えているのはその裏側に当るのだろう。
右手に見えるのは菅平の山並みや浅間方面へ並んだ山々だろう。
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この時期、徳川の重鎮として多くの戦を支えた「井伊直政(いい なおまさ)」は、度重なる武功により箕輪(みのわ)城を与えられる。12万石を誇ったその地を整備して山城から近代的な総郭として榛名の山麓にある城郭に手を入れ、治めはじめる。
しばらく後、直政は箕輪を捨てて本拠を平野部であり交通の要衝でもあった和田に移す。勿論、この地は和田氏が領有して和田城を築き、箕輪城の「長野業政(なりまさ)」と共に武田信玄に対抗していたという歴史を持つ土地だ。
和田に古くからあった城を改修し、地名を「高崎」と改称して、改めてそこに本拠を置いた。そこから高崎藩の歴史が始まる。
周辺を見てみると、当時の総社藩主として「諏訪頼忠(すわ よりただ)」が、前橋藩主としては「酒井重忠(さかい しげただ)」がいて、共に江戸への入り口を固めた。さらに東北方面からの進路(会津の上杉、仙台の伊達、常陸の佐竹など)となる「館林(たてばやし)」の地には、これも家康重鎮のひとりとして名高い「榊原康政(さかきばら やすまさ)」を置き、10万石の領地を治めさせた。
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ちなみに諏訪家は平安時代から続く武家で、その上で、神官の家柄としてはさらに古い由緒を持つ一族だ。諏訪大社の大祝(おおはふり)を世襲するという特異な家柄で、鎌倉御家人としても非常な重きを成した。
武田家も源氏としては皇族を直接の祖とする由緒ある家柄だが、諏訪家もまた、これに並ぶ家中の名家である。
家康に対抗した勢力だったが、家康の信濃平定時(織田信長の「本能寺の変」の動乱で空白地帯となった甲斐と信濃に進出し、この地を簒奪する)に臣従して重臣のひとりに連なったという数奇な大名だ。
なぜなら彼は、宗家を武田信玄に滅ぼされ、血族の勝頼を織田に滅ぼされ、敵とした徳川に組みして大名としての日を送ったからだ。源氏の一族として考えれば、徳川家などより家柄としては数段高いといえよう。由緒が正しく、より源氏の正統に近い。 |
一方、重臣ではあるが、酒井や井伊、そして榊原は古くから国人領主の松平氏を支えてきた一族だ。
いわば徳川家の主力であり、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四名の武将の、比類ない武勲を称えて彼らを「徳川四天王」と呼ぶ。
ところで、四天王の一人の酒井忠次(ただつぐ)と厩橋藩主の酒井重忠(しげただ)は同姓であるが、一族としては別である。
忠次の一族を「左衛門門尉(さえもんのじょう)家」と呼ぶ。出羽の地に領国を与えられて根を張るが、遠い子孫は戊辰戦争で「奥羽越列藩同盟のひとつとして明治新政府軍と戦う。一方の「重忠」の家を「雅楽頭(うたのかみ)家」といい、老中・大老として権勢を誇った。共に松平の一族であり江戸末期、明治初期を通じて宗家を支えた、生粋の譜代大名である。
さて、高崎藩の初代、井伊直政は転封となって、その後、彦根藩を築く。幕末期、「安政の大獄」として浪士を弾圧し、桜田門で倒れた幕府大老の「井伊直弼(いい なおすけ)」の家祖である。
その嫡子である直継(なおつぐ)の弟が宗家をついで彦根藩主となっていくが、嫡男の直雅(なおまさ)は上州の地に留まって安中藩3万石の開祖となる。
(先に書いた碓氷の関所や杢ヶ橋の関所を守って、その維持、運営、管理にあたった藩である。)
さて、そろそろ閑話休題。
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山頂の静かな郭址の窪地に陣取って、ゆっくりと赤飯の食事を愉しんだ。そして、その本丸跡から続く稜線伝いに歩いて、岩櫃山のピーク、802mへも行ってみた。
どちらの場所も、様々に色付いた落ち葉が道を染めて、降り積もっていた。そして見上げると、そこには冬の始まりを思わせる晩秋の晴れて澄んだ空があり、その深い青を背景にして、温かい日を受けて輝く葉の姿があった。
秋の終わりの低山ハイクで、一体他に何を望もうか。
しかも、この地は小豪族とはいえ戦国の雄、真田家の拠点である。歴史好きな私にとっては、またとない場所だ。最近はすっかりハイキングともご無沙汰で、もう完全に私の主催する「低山フラクション」は閉店の状態。もう一年以上も、こうして低山に浸っていなかったのだった。でも、こうして改めて山に来てみると、やはり素晴らしいな、と心から思う。
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晩秋の低山は、じつに魅力に溢れている。
何といっても静かだし、空気も澄んでいるので、落ち着いて雰囲気を楽しむことが出来る。晩秋ならではの深い色を称えて晴れ渡った空の様子など、他の季節ではとても味わえるものではない。
本当の冬が訪れる前のつかの間、山肌は輝きを増す。散り行く前に、ひときわ神々しく多くの葉が色着いて、その静かな山肌を染めるからだ。
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平沢の集落の様子
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城跡に上っていく道脇を流れる「不動沢」
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この時期ならではなのだろうが、そうした雰囲気に存分に浸って日向ぼっこをしながら山が持っている温かな雰囲気を愉しむことができる。
初夏の萌え始める青葉の様子も代えがたいものがあるのだが、厳しい夏の暑さを通った分、秋のほうが一段優しさがあるように感じるのだ。それは、これから散り行く儚さが待つということを、見ている私たちが判っているためなのかも知れない。
例年並みなら、この時期は初冬の雰囲気に満ちているだろう。葉は散り極まって、寒々とした枝をさらす。でも、しばらくはさかんに散って地面を満たし、登山道を埋め尽くした落ち葉を楽しめる。そうした状況の低山ハイクとなっていたのではないだろうか。
しかし、幸運なことに今年は秋が遅い。だから、そうした珍しい気まぐれのお陰で、私たちは存分にまだ散り残った紅葉を楽しめたのだった。
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渓流と渓谷の様子は、
城跡を目指して沢筋を登る際に撮ろうと思ったのだが、行き過ぎてしまって、結果としては
下山時になってしまった。
往路で見とれた陽の位置と
光線がすっかり変わってしまったのが、
残念だ。
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<本日の旨い物 「つむじ」の足湯>
「中之条(なかのじょう)」は吾妻地方の中心都市だ。
町の中心に特徴ある円形の建物がある。ギャラリーと土地の産物直売所が置かれ、さらに中庭を取り巻いて数件の店が開かれている。喫茶やお饅頭やお土産物など、それは様々に工夫を凝らした洒落た店が並ぶ。
「つむじ」という名前の施設だが、前回の「自転車散歩 のんびり 行こうよ: 20120429:中之条から四万温泉(しま おんせん)」で紹介したように、定食屋さんなどもあって実に楽しい場所といえる。
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前回は、ここで心のこもった美味しい定食を食べたのだが、改めて食事を採るほどには空腹ではないので、本日の旨い物は、残念ながら何もない。
だからといっては何だが、旨くはないが心地の良いものを紹介しよう。
気持ちの休まる足湯があって、誰もが自由に浸かる事が出来るのだ。しかも、このお湯は「四万(しま)温泉」の湯を使っている。しかし、源泉からはるばるお湯がひかれているわけではない。距離が長すぎるので、当然それは無理といえよう。
源泉をローリーで運んでボイラーによる加温を行っているに違いない。湯船のお湯は循環していたので、フィルターで汚れなどを除去しているようだ。足湯のコーナー横に薪(間伐財?)が積まれていたが、場合によるとそれを焚いて加温しているのかもしれない。エコといえよう。
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JR吾妻線「中之条駅」の名物。
この季節を飾る風物詩の「吊るし柿」
勝手に取って、
食べても良い、という訳ではない。
勿論・・・。
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