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2009.09.23
秋の入り口(見沼田んぼの自転車散歩

走行距離;
 45km;さいたま新都心>与野>浦和>東浦和(さいたま・浦和間は産業道路、往路:見沼代用水東縁 復路は西縁)


カメラ;
 PENTAX K10D

レンズ
 PENTAX FA 20−35mm F4.0 AL
 PENTAX DFA100mm F2.8 MACRO

 (画像添付時に約30%程度に圧縮)


 「見沼(みぬま)田んぼ」に今も残る水路は、多分、当時のものとは大分流路が異なっているものと思うが、大宮台地はその複雑な地形が今もほぼ残っているので大筋は往時(江戸期)を偲べよう。

 「見沼田んぼ」や「見沼代用水」へのアクセスは、普通に考えるとJR武蔵野線の東浦和(ひがしうらわ)駅からの徒歩によるものとなる。いくつかのガイドマップに徒歩による散策コースが記されているが、この地域は広大(周囲42キロ、面積12平方キロ)なのでそれなりの注意が必要だ。

 3月の手術からストップされていて自転車に乗るのは久し振りになるが、今日はこの地域をのんびりと回ってみようと思う。ドクターストップとはいえ、実際に自転車にはまるで乗っていなかった訳ではなく、近場への往復などにはたまに乗ってはいたのだが、「移動」ではなく「乗車」そのものを目的として中距離を乗るのはしばらく振りの事になる。

 そうは言っても今回は、あくまでも「ポタリング」に徹するつもりだ。初秋の田園地帯の雰囲気を「のんびり」と味わおう、というのが今回の趣であり、走り込むつもりは毛頭無い。

(ページの最後にいくつかの注意を記述したので、どうぞ、ご参考に。)

彼岸花

 「見沼田圃(みぬまたんぼ)」は首都圏一の広大な緑地帯だ。この季節、頭を垂れた稲穂が秋の陽を受けて輝き、その畦には彼岸花が列を作って咲いているはずだ。田の周辺だけでなく、水をたたえた水路の脇にも彼岸花が咲きそろっているだろう。人家に近い場所ではコスモスの花も可憐に咲いているかもしれない。

 そんな「小さい秋」のちょっとした光景が現れるのを期待して、のんびりとソロでポタリングをしたのだった。


 水田地帯に入ると、刈られた稲の株が残る田の畦に、ひと群れの彼岸花が咲いているのを見つけた。燃える様な緋色の花は水路の脇にも転々と咲いている。飛び火する花を追うように水路に沿って走っていたら、いつの間にか回りが畑地ばかりになっていた。
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 「見沼田んぼ」は広大な地域で、首都圏有数の田園地帯として紹介されているが、今は水田は少なくて、実際にはその大部分が遊休地や畑地になっている。
 
 では、この地域を流れる川の水量が水田耕作に不足するのかというと、そういう訳ではない。三本の主要な用水が今も水をたたえ、滔々と流れている。その源流は菖蒲町(しょうぶ まち)の北方まで遡った利根川だ。実際に水路を眺めると、流量は稲の耕作には充分に思える。


 「なぜ、水田が少ないのか」と疑問に思ったら、お誂え向きに畑地に案内板が立っていた。

 水田が無いのは「減反政策」のための、政府主導による畑への転地が原因だったようだ。都市近郊の農村部では、ある時期(70年代)にそれこそ競い合うようにして積極的に水田を捨てた歴史がある。

 そんな過去を顧みずに今になって食料自給率が世界各国に比べて格段に低い、などとキャンペーンが張られたりするが、それは当然の帰結だろう。

 遠い昔、生産力の乏しかった先達が非常な労力の末に開いた美田を、受け継ぐべき子孫達が近年になってから捨ててしまっているのだから、それは無理も無い話しだ。

彼岸花 水田の減反、休耕地化、さらには後継者不足による農地の放棄。

こうした風景は何もここだけに限ったことではあるまい。


くまなく日本全土に渡っているのではないだろうか。

そう気づけば「自給率の低さ」というものは、必然の結果だろうと思う。



「見沼田んぼ」は広大な地域でとても全体を見渡すことは出来ないが、上空から眺めれば、意外に荒廃した土地が続いているのかも知れない。

荒れた畑の中の道では面白みが無いので、改めて道を探して、水路に沿って走ることにする。そうすればずっと、点々と咲く彼岸花を楽しめるだろう。
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<今回のコースの概要>

 さて今回の行程を説明しておこう。

 北与野にある我が家からは「さいたま新都心」を越して「産業道路」まで出て、そこから浦和・川口方面へ向かって南下する。

 浦和の駒場スタジアムのあたりで左折し、広い通りを軽快に進む。「新見沼大橋有料道路」(国道463号線の渋滞緩和のためのバイパス)の入り口の手前でまた左折(北上?)し、しばらく大宮側へ戻ってから有料道路とほぼ平行になる通りで右折した。

 車の通りが頻繁なのは、走っている道が岩槻への街道にあたるものだからだが、「北宿」というそのあたりをしばらく走って、芝川(見沼の中央用水)を越えてさらに少し走り、見沼の北東端と思われる水田部分で水路(見沼代用水 東縁)に沿ったのだった。

 そのまま「見沼通船堀」まで行って、帰りは代用水西縁に沿って北上し、さいたま新都心の裏側に戻って来るというものだ。

熊野神社 熊野神社

 さて。

 「見沼代用水 東縁」の水路沿いにしばらく南下して行ったら、こんもりとした木立ちを伴った集落が現れた。その集落までは一面の田園地帯であったが、そこから先は家並みが続いている。境界となる部分には大きなケヤキの木があって、その横手にこんもりと茂る森があり、近づくと高台の上に鳥居が見えた。

 太古、この界隈が複雑な入江だったという名残だろうが、それらがこうした高台と坂道とになっている。そして台地上の入り組んだ突端部には、古い歴史を持つ寺や神社が点在する。


 この地が水田地帯として開発される前の古い時代、多くは一面の沼沢地であった頃にこれらの社が創建されたのだろうと思う。

 古くは氾濫などの水害を鎮める意味をこめて、陸地(台地)の先端部に(だからその「先端」とは岬のような状態であったと思うのだが)、鎌倉・室町の頃には岩槻やその先の「古河(こが:古河公方が居た土地)」の守りとして平地を見下ろす要衝の位置に、江戸期には村落の守り口としての集落入口の地に、盛んに寺社を作ったのではなかろうか。(寺社は砦として利用可能という性格を持つ)

 往時と同じ高台として、「地形」は今もあまり変わらないが、時代によって人の暮らしが変化し、高台の持つ意義(政治性や暮らしとの関わり)が変化したのでは無いだろうか。などと村の鎮守の鳥居の脇に座って、そんなことを考えた。
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彼岸花

 鳥居の脇には、背の低い、細く長い屋根が設えてある。実家の裏手にもあった祭礼の際の幟用の柱を置く長屋である。秋の穫り入れ時期や正月など、今もこの地域の人は大きな幟を立てるのだろう。ということは、この場所が村への「入り口」ということになる。

 鳥居をくぐって直ぐに急な石段が続くのだが、その石段を登って台地上にある「熊野神社」の境内に入ってみた。その頂は太い木々を回りにたたえた周辺一番の高台となっていて、古い社が石段から続く参道の奥に鎮座していた。

 帰り際に石段の上から眺めたら、眼下に広がる「見沼田んぼ」が見渡せた。荒れた場所もあるようだが、大まかには秋の陽を受けて、あたり一帯が金色に輝いてた。
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畑の訳 芝川の流れ

 さて、少し休んだので、花を眺めながらまた走ることにしようと思う。

 地図では、そこから進むと有料道路のゲート(先ほどの道の出口側)がじきに現れる事になっている。ゲートが現れた場所で一旦進路を折れて、「豊田屋酒店」へと向かうことにする。地図上にはフキダシで「店先に大ケヤキがある」と記されている場所だ。

 ゲートから続く道から大きな樹木が望めたので、それを目標に定めて進むことにする。ほどなく樹の下に出るが、確かにそれは酒屋さんの店先だった。

龍の伝説 緑のヘルシーロード
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 丁度、店が開いていたので缶ビールを買って店の方と言葉を交わした。

 みごとなケヤキですね、と言うとそれに返して「これからの時期は落ち葉が大変なんですよ」とのことだった。店先を満たして余りあるほどの落ち葉がある、と言う。

 新都心には「ケヤキ広場」があって夏場は気持ちの良い木陰を作るし、冬には葉の落ちた枝いっぱいにイルミネーションが灯されて夢を育てるが、確かに秋口のけやきの落ち葉はすさまじい量となる。

 通勤時に見ると、広場を覆う落ち葉を毎日ブロアーで集めている。箒ではなく電動のブロアーなので騒音が凄まじいが、それが数日間も続く。

大欅を眺めながら 買い込んだ昼食
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 店先の巨木を下から眺めたら、視界一杯に茂った葉が広がった。

 これだけの樹であれば落ち葉の数は相当なものになるだろうと、降り積もる落ち葉の様子を想像してしまった。

目印は大欅

 道を挟んだ反対側にあるベンチを借りることをお願いし、ケヤキを眺めながらそこで準備した昼食をとることにした。

 食事の品は、途中、北浦和あたりのスーパーで仕入れたもので味気は無いが、用意しておいて良かった。このあたりに店は無いようだ。

 久しぶりの自転車行だが、休んでものを食べたせいか、すこし元気が出てきた。いや、食べ物よりむしろ缶ビールを飲んだからか・・。
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GIANT

見沼田んぼ の歴史>

 通称「見沼田んぼ」といわれる場所は周囲42キロ、面積1260ヘクタールの広大な地域を指す。

 江戸時代、徳川吉宗(とくがわ よしむね)の治世、「享保の改革」の時期(1727年)に新たに開発された田園地帯だ。

 遠く縄文時代にはこのあたりが東京湾の海岸線で、見沼の地区は複雑な入り江であった。その後、湾が後退してこれらが残されて多数の沼が繋がる広大な沼沢地となったという。

 歴史時代となってさらに遥かに時代が下り、江戸時代に入ってからの話となる。1629年なので家康入部から幾らも経っていない時期だが、関東郡代の「伊那(いな)」氏が芝川下流域の田園地帯(浦和の南部や川口など)の灌漑用水を確保するため、長さ約870m(八丁)の堤防「八丁堤(はっちょうづつみ)」を建設し水を溜めた。堤防というよりもむしろダムの堰堤に近いもので、戦のための築城を除くと、時代を代表するような一大土木工事をした訳だ。

 この土手で堰き止められてできた周囲42Kmに及ぶ人口のダムを「見沼溜井(みぬま ためい)」と呼んだが、灌漑した地域は水源が確保されたが、「溜井」となって水没した地域では多くの田が潰れ、周辺では水害も頻発したという。

 それ以前から沼沢地だった一帯に着目して、水没した地域に対しての一大干拓事業が行われた。新田を開発して爆発的に耕作地を増やすためだ。

 紀州藩士「伊沢 弥惣兵衛(いさわ やそべえ)」を勘定吟味役とし、幕府はこの地で大規模な干拓事業を進めたのだった。

 「享保の改革」の中のひとつの事業で、伊奈氏が構築した「八丁堤」を切って広大な水源に堰き止められていた水を放流し、「見沼溜井」が干拓され、変じて広大な水田地帯となった歴史を持つ。

 「見沼田んぼ」は江戸期屈指の農事としての大事業の、今に残る成果だ。
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所々に用意された説明

< 見沼代用水 >

 干拓して出来上がる新田へ供給する新たな水源と、干拓されて失う下流域の水源(広大な沼地から得られた水量に匹敵させなければならない)を確保する必要があるので、その需要量を埋め合わせるため、ずっと北方の「行田(ぎょうだ)」を流れる利根川から約60kmに渡って、この地まで続く農業用水が引かれた。

 これが従来の見沼の代わりとなる用水、「見沼 代用水(みぬま だいようすい)」で、中央に芝川、そこから干拓地の西縁と東縁の台地に沿って二本の新たな水路が掘削されたのだった。
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 東縁の流路脇の「緑のヘルシーロード」に添って下っていくと浦和の施設である「大崎公園」の横を通り抜ける。

 広い公園には芝生の広場や動物公園があり、いつも家族で賑わっているが、連休中という事もあって今日も混雑していた。夏の浜辺のようにレジャーシートで一杯となった芝生広場を横目に見つつ通り過ぎることにする。

 久しぶりの自転車で、走る壮快さを堪能しているが、ペースを落として休みながら走ったり、無理はしないようにした。

 公園から暫く南下してから、ポタリングのコースを変える事にした。このまま用水沿いに下ってしまっては、目的地から離れて川口市のほうへ行ってしまうからだ。

保護地域 遊水地

 途中で右手に折れて、そこに広がる「遊水地」の通路を通る。

 この区画一帯は自然公園になっていて、中央に野鳥保護のために植樹された並木道が通っているが、周囲は水害防止用の遊水地になっている。

 そこを抜けると、じきにJRの武蔵野線が眼前に現れる。そして、その低いガードを潜り抜けると、すぐに通船堀の遺構となる。

 この場所が先ほど書いた伊奈氏が築いた「八丁堤」があった場所で、そこに「通船堀(つうせんぼり)」が作られたわけだ。

武蔵野線を潜る
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通船堀 通船堀

 通船堀とはパナマ運河のような「閘門式」の設備で、遥か1737年(つまり干拓+灌漑工事の10年後)に作られている。

 その地が現在では整備された公園となっている。雰囲気の溢れる遊歩道とともに木製の水門があり、芝川を挟んで「東縁」の一の関・二の関と「西縁」の一の関で、平成6年に復元された。

 実は年に一回(八月下旬)、実際に船を通す実演がここで行われる。

 公園の水場で顔を洗って、しばらく通船堀に沿って歩くことにする。通船堀のことを知ってはいたが、実物を見たのはこれが初めてだ。この水路に水が満ちて船が通る様子を想像して眺めていたら、楽しくなってきた。そこで、休憩を兼ねて東側の水門をスケッチしてみた。

通船堀の水門(東縁 一の関)
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通船堀の水門(東縁 一の関)

 いくつかの水門で区画を区切り、それを閉めて水を満たす。ひとつの区画の水位を上げ、上流側の水門を開放して次のさらに上流部にある水門の区画へ船を流していく。

 この工夫で川の低位置からの遡行が可能となる。発案の妙は素晴らしいが、それを古い時代に実用の仕掛けとしたところがなんとも驚嘆する。まさに時代を超えた天才的なひらめきだと思う。

 その遺構が忠実に保存されている。水門は木製なので、勿論これは再現したものだが、縮尺模型としてではなくこうして実際を眼にできるのは幸いに思える。
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通船堀の水門(東縁 一の関)
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通船堀の水門(東縁 二の関) 木製の橋(芝川に掛かる)

 用意した地図(雑誌「散歩の達人」の別冊、「むかしみち」に掲載)には、そこから木製の橋が残る「桜橋」へとコースが案内されている。

 現地では案内が出ていて、「老朽化のため通行は危険なので閉鎖中」とある。通れはしないが公園からは少し歩くだけなので一応見に行ってみた。橋の上に無粋なパイロンが並べられている。それが無ければ絵になる光景なのだが・・・。
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 私はずっと東側の水路「見沼代用水 東縁」にほぼ沿うかたちで走ってきたが、ここから中央の芝川を挟んで遺構の西側へ行く。

 そこにも同様な水門の仕掛けがあり、ベンチなどもあって、こちらも楽しめる遊歩道が整備されている。

通船堀の竹林 通船堀

 用水沿いの遊歩道と水路を挟んで反対の岸横は深い竹林で、その林の中に遊歩道がある。1mほどの土の細い道で、自転車を降りてそこを押しながら歩いて通ることにした。

 しばらく、林の中を歩くとやがて公園へ出た。「見沼通船堀公園」だ。

 ここからは地域の西側の水路となる「見沼代用水 西縁」に添う形で用水沿いに北上することになる。
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愛車

 撮影しながらだから休憩はしているがだが、思えば午後中からずっと走っている。

 気がつくともう四時に近く、そろそろペースを上げて寄り道せずに新都心へ戻るとしよう。
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 用水沿いは場所によってはバラス道で走りづらいが、桜の樹が並木になって続いている。

 土手は散歩道になっていて、その下に桜並木と今走っている細い舗装道(車一台分ほどの幅で、たまに車が通る)がある。

 土手の脇には彼岸花が植えられていて、まるで飛び火するように点々と咲いている。東縁もそうだったが、こちら側もずっとそんな光景が楽しめる味わいのある道が続く。

見沼代用水西縁 竹林
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氷川公園 愛車、GIANTのESCAPE−R3
実に乗りやすく、コストパフォーマンスの高さには脱帽する。

 この地からはかなり北方にある「大宮公園の第二公園」の奥にある芝川の公園から川沿いに桜が植えられている。その桜並木がどうやらこんなところまでずっと続いているらしい。

 桜の葉の紅葉は早い。来月の中頃には、もう紅く染まった葉が頭上に続く様子が楽しめるだろう。桜が咲き誇る並木の下をのんびりと走る・・・。鬼には笑われるが、私は来年の花の季節が楽しみになってきた。

残照に輝く新都心
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<見沼散策上の注意>

 コースは、駅(「JR東浦和」駅)からも程近い水路に沿って歩くものだ。

 ずっと水路に沿っていれば問題は無いが、水路に直交する状態で途中から田園地帯の奥へと進むと、その奥まった地域ではエスケープが効かない。戻るにも外れるにも延々と田園地帯を歩いて外縁へ向かう必要がある。

 しかも一帯は平地で眺望がきかないために現在地が判りづらく、水路なら現れる橋で位置が判るが、水路から外れると目標が無いので位置を失いやすい。

 徒歩の場合には、水や軽食や携帯電話といった必須装備を準備し、歩きなれた靴や服装などの装備に気を配る必要がある。「散策」というと安易に成りがちだが、ここを縦横に歩くにはハイキングとしての用意が必要だろう。

 自転車によるものであれば、コース内の移動は徒歩から比較すれば数段に楽なものであり、何か具合の悪い事があればすぐに田園から外れて住宅地へ逃げ込むことが出来るだろう。それでも飲料や食料を充分に用意したのは、「見沼田んぼ」のなかには水や自動販売機などが無いからだ。

 勿論、コンビニなども一軒も無いので、要注意。
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<ポタリングの準備>

 対パンク対策としてサドル下に装備している予備のチューブとタイヤパッチ、ポンプや工具などの準備はいつも通りだが、さらに携帯用のボンベで念を入れた。百均などで手に入る携帯用のエアーだ。(ボンベの内容物だが、実際は酸素や窒素ではなくLPGが充填されているようだ。)

 当初、のんびり気分で別のクロスバイク(2007,05,03 「荒川ポタリング(川越)」) (SPALDING;埼玉は越谷に本社がある「マルキン自転車すいーのすいーのすい♪」で有名な「HODAKA」製)で出掛けたが、走り始めて直ぐに後輪がバーストした。

 乗り出して暫く進み、「後輪が異常な振動をするな」と思ったが、そのまま乗り続けて、さらに100m位走ったところで事件は起きた。

 銃声と思えるほどの乾いた爆発音がし、その一瞬で後輪がガタガタになったのだった。見るとタイヤとリムの間から裂けた破片(ゴム・チューブの一部だろうか)が飛び出している。

 随分乗っていなかったので、前後輪ともに空気を入れたが、どうやらチューブが疲弊していてその高圧(フレンチバルブだが、控えめに7キロ程度にしたのだが・・)に耐えられなかったらしい。その為、自転車を押して家に戻って、一連の準備をした。


 サイクルパンツ(レーシングパンツ)に履き替えるためにスネの脱毛、サイクルアンダーやパンツなどに着替えたのは、同じクロスバイクでもGAIANTのほうが高速タイプだし前傾姿勢になるからだ。

 ヘルメットやクッション入りのハーフグローブ、サイクリング専用のシューズなど安全に繋がる装備はどちらに乗っても同じなのだが、ウェアの準備は乗り込む姿勢の違いによる。

 見た目だけは、のんびりではない状態になるが、気分としてはゆったりとポタリングを楽しもう。
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