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2008.02.11
飛鳥山から旧古河庭園へ(王子、上中里)

アクセス;
 JR京浜東北線―王子駅、上中里駅

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24−72mm F2.4

 PENTAX K10D

レンズ;
 PENTAX DA50−200mm F4−5.6 ED
 PENTAX DA70mm F2.4 Limited


 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

 2月に入って、再びの積雪があった。二十四節句でいうと季節はもう「立春」を過ぎているが、まだまだ春は遠いようだ。

 土曜日は午後から深々と降る雪だったが、はじめに雨模様だったためか、心配するほどは積もらずに日向の雪はすぐに解けたようだ。そんな月曜日、暖かな日差しに誘われて散歩に出た。とはいっても、梅を期待して、徒歩ではなく電車で出かけたのだが・・。

 JR京浜東北線の王子駅は、私たちが行動する際の都電荒川線での起点(2007.10.08 「町屋、都電荒川線」)だ。この駅を降りてすぐに「音無川」沿いに素敵な親水公園があるが、その先には、有名な「王子稲荷」がある。この稲荷は関東の稲荷社の総社であり、非常に大きく古い歴史を持っている。

 王子稲荷に関してはいずれまたご紹介しようと思うが、今回は稲荷とは音無川を挟んだ反対側、駅前に小高い丘として広がる「飛鳥山(あすかやま)」がその目的地だ。

渋沢邸の庭園 渋沢邸の庭園
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 「飛鳥山(あすかやま)」は都内では、花の名所として知られている。桜だけではなく、ツツジや紫陽花なども多く咲き誇り、それらの季節の花がその斜面を彩る小高い丘になっている。

 JR王子駅のホームに立つとその南側に視界一杯に小高い丘が広がる。武蔵野の台地がここから始まるのだ。

 八代将軍、徳川吉宗(とくがわ よしむね)が桜の植栽を命じ、1720年に山桜1270本を植えさせたのが最初で、しばしば鷹狩りを行ったといわれ、江戸の昔から野趣溢れる場所だったという。

 その後1737年にこの地を王子権現に寄進し、江戸の庶民に開放したのが広く親しまれる飛鳥山のはじまりだ。当時は江戸随一の花見の名所として賑わったらしいが、現在も桜の樹木は健在で、依然お花見の名所として650本の桜花が季節には迎えてくれる。

 紫陽花やツツジも斜面に沿って植えられていて、こちらは京浜東北線や湘南新宿ライナーの車窓からも眺められる。通勤時はすさまじい混雑の路線ではあるが、そんな窮屈な車内での季節の小さな楽しみとなっている。

 飛鳥山での梅を期待したのだが、桜や紫陽花やツツジの屈指の名所であっても「梅」は植えられていなかった。よく調べなかった私が悪いが、ちょっと、驚いてしまった。

晩香廬(ばんこうろ)

晩香廬(ばんこうろ)
晩香廬(ばんこうろ)
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 さて、飛鳥山だが、大きな公園の敷地には桜の咲く山道だけでなく、併設して児童公園があり、幾つかの博物館がある。

 王子製紙の関係からか印刷局の関係からかはよく分からないが「紙の博物館」があり、「北区飛鳥山博物館」や「渋沢資料館」がある。飛鳥山の丘の上に建つ碑文(説明板)によると、早くも縄文時代から栄えた土地だったらしい。

 それらの博物館の奥には、戦災でも焼け残った渋沢家ゆかりの建物がある。飛鳥山の隣にあった明治期の大実業家の渋沢栄一の邸宅地をそのまま解放して公園の一部としている。

晩香廬(ばんこうろ)の室内 晩香廬(ばんこうろ)

 「晩香廬(ばんこうろ)」という接待用の瀟洒な建物、青淵文庫(せいえんぶんこ)という書庫兼書斎となっていた重厚な建物がある。

 晩香廬は「バンガロー」の音を採って命名されたという。この建物は、渋沢栄一の喜寿を祝い、長年の厚誼に謝して清水建設から贈られたものだという。

渋沢邸の日本庭園 青淵文庫(せいえんぶんこ)

 「青淵文庫(せいえんぶんこ)」は、渋沢栄一の米寿(80歳)を祝い、男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて竜門社が寄贈したもの。竜門社は門下生の団体である渋沢青淵記念財団竜門社(現 財団法人 渋沢栄一記念財団)であるから、この寄贈は晩香廬(ばんこうろ)の寄贈とは事情が違うものだろう。

 晩香廬(ばんこうろ)を寄贈するなどは、案内版を読んで思わず唸ってしまった。我々とは、そのスケールが違う。


 どちらも、大正期の秀逸な建築だ。

青淵文庫(せいえんぶんこ)

青淵文庫(せいえんぶんこ)
青淵文庫(せいえんぶんこ)
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さくら草 七社神社

七社神社(西ヶ原)

 飛鳥山から、明治通りに沿って上中里方面へ向かうと、途中にこんもりとした土手状の場所に出会う。

 日本橋から二里(約8キロ)の場所であることを示す、「一里塚」が残っている。この本郷通りは、江戸期には「岩槻街道」、「日光御成道(徳川将軍の日光への公式参拝道)」として栄えた往来だ。旧位置に現存する都内唯一の一里塚だということだ。その一里塚(一里塚と二本榎の二対の塚)の横には鳥居があり、奥まった場所に「七社神社」がある。

 王子駅からの距離は1.5Kmほどだろうか。学生時代には駒込に住んでいて地番は「北区西ヶ原」だったが、この神社のことは知らなかった。まるで記憶が無いところからすると、学生時分は、地元の神社などにはあまり興味が無かったらしい。

 折角なので、ちょっと、寄り道してみよう。

七社神社(西ヶ原)  七社神社の額

 西ヶ原の総鎮守で古い歴史があるらしい。

 訪れてみると、複数の神社が集められたものであり、そこには我が家の氏神の「神明」宮もあった。

 樹齢千年以上の杉のご神木があり、古くは「一本杉神明宮」と呼ばれていたらしい、が杉の木は伐採されていて残念ながら今は残っていない。
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旧古河庭園 旧古河庭園

 七社神社から、そのまま本郷通り沿いに進む。

 国立印刷局の大きな工場や「地震の科学館」、「滝野川公園」を通り過ぎ、上中里の駅をさらに進むと、やがて道は三差路になる。田端と駒込への分岐だ。丁度その場所に「旧古河庭園」の広い敷地が現れる。

 旧古河庭園は、このあたりに住んでいたこともあって何度か訪れた記憶があるが、以来4半世紀ほどご無沙汰している。大分記憶があいまいだ。だからまあ、初めて訪れるようなものだ。

 受付で、「梅はあるか、また、咲いているか」を確認して入ってみた。閉園時間は4時30分で、それまでにもう一時間も無い。

旧古河庭園の梅 外務大臣・陸奥宗光の別邸であった。

さすがに西園寺公望や伊藤博文と
親交の深かった明治の元勲だ。


宗光の次男が古河財閥の養子となり
この本邸も古河財閥の所有となった
経緯がある。

重厚な洋館もそうだが、
大正期の庭園が有名だ。


一般に公開されていて
薔薇の季節には非常に混雑する。
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旧古河庭園 旧古河庭園の洋風花壇

  陸奥の時代の洋館は現存しておらず、今、目にする洋館はその後に建てられたものだ。

 洋館と洋風庭園は、同時期のものとして有名な旧岩崎邸庭園洋館、鹿鳴館、ニコライ堂(御茶ノ水)などと同じく英国人ジョサイア コンドル博士の設計だ。

旧古河庭園の梅

 入り口の丘の上の洋館からは、一段下がって西洋庭園がある。洋館前とこの西洋庭園が有名な薔薇園だ。

 さらにそこから階段を降りると、その下のエリアは回遊式の日本庭園となる。「心字池」を中心に枯れ滝、灯篭、大滝、茶室などが配されている。

 受付の人は「日本庭園に梅林がありますよ」といっていたが、どうやら池横の枯れ山水の横がそれらしい。林というには大分少なく、数本の梅が植えられているばかりだった。

旧古河庭園の梅
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旧古河庭園の大灯篭
私の身長ほどもある大きな灯篭
旧古河庭園

 洋館と西洋庭園は英国人ジョサイア コンドル博士の設計によるが、日本庭園の作庭者は、京都の小川治兵衛 氏だ。彼は、ほかに平安神宮神苑、円山公園などを作庭している。

 池を中心とした回遊式なので、ぐるりと回ってみると変化があり面白い。池も光が変わるせいか、位置によって様々な表情を見せる。

藪椿 雪吊り
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雪吊り 夕日に染まる

 梅は期待したほどではないが、夕暮れの日本庭園にひっそりと咲いていて、思いのほか風情があった。

 その風情は、閉園間近で入場者がなくてまるで貸切の状態だったためだろう。贅沢に静かな冬の夕暮れを楽しめたせいもあり、ことのほか暗い背景に浮かぶ梅が素敵に感じられたせいかも知れない。

 ゆっくりと一回り、庭園を楽しんでから、また薔薇園側に戻ってみた。

旧古河庭園の洋館
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西洋庭園から ドアの飾り窓

 日本庭園は一番低い位置にあり、そこからは見上げる格好になるのだが、見上げた洋館は夕日を浴びて美しく建っていた。

 思わず、何枚かシャッターを切ったが、ここに住まった人は毎日こうした風景を楽しんだことだろう。先の渋沢栄一邸といい、この庭園といい、明治の大実業家や元勲ではあり、特別な人々だが、それを差し引いても当時の贅沢のスケールは計り知れない。

 まあ、私のような庶民が、僅かな入場料で粋を凝らした敷地内を自由に散策できるという贅沢が味わえるのも、今という時代のお陰だろう。

洋館の佇まい 室内の様子
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さいたま新都心 旧古河庭園で夕日を
楽しんだせいだろうか。


さほどゆっくりした訳ではないが、
「さいたま新都心」へ戻ると、
もうすっかり日が暮れていた。