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2011.02.11
関東稲荷の総本社  王子稲荷に詣でる

アクセス;
 JR京浜東北線 王子駅

カメラ;
 PENTAX K−7

レンズ;
 TAMRON SP17−50mm F2.8 AL
 PENTAX DA70 F2.4 Limited

三脚;
  K−7:カメラの手ぶれ補正にて、三脚は不使用

 (画像添付時に約70%程度に圧縮)


 二十四節気(節句)でいうと、今の季節は「小寒」。雨天決行の連絡をしていたが、それが見事に的中して天候は至って不安定な状態で、雪混じりの冷たい雨が降っている。

 さて、今年の街散歩。新年に企画した「与野七福神巡り」で軽快なスタートを切る事ができた。

 それに気を良くして、同じような企画をしてワンゲル仲間へ通知したのが今回の内容だ。構成(参加)メンバーがワンゲル部員のためか、「山じゃないので雨天でも決行!」。さすがにこうした天気であっても集合してそのまま街歩きに突入する、というところがなんとも頼もしい。

 さて、今回の街歩きの予定コースだが、江戸の佇まいが一部に残る都内北部の「王子(おうじ)界隈」を中心にのんびりと散歩するつもりだ。いってみれば、私の主要なフィールド、要は縄張り内を歩く、というものである。
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<コースの概要>

 ・JR王子駅に集合し、王子稲荷へ向い、お参りをする。
  その後、稲荷社があるのと同じ段丘上にある「庄屋の里」へ行って園内を歩いて武蔵野の気分に浸って愉しむ。

 ・そこから「飛鳥山」へ戻り、そこにある3つの博物館や日本経済の立役者に一人、渋沢栄一の邸宅跡などを散策する。

 ・さらに進んで「古河庭園」へ行って陸奥宗光(伯爵)邸であった館内を見学する。
  陸奥(むつ)は坂本竜馬とも親交が深く、幕末を志士として乗り切り、その後伊藤博文のもとで外務大臣となって、
  不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった明治期を代表する政治家だ。

 ・その後は駒込から遠山金四郎の墓所もある「染井墓地」を抜けて巣鴨を目指す。

 ・最後は巣鴨から板橋へ行って近藤勇の墓(顕彰碑)に詣でてそこで解散する。

 時間にすると4時間程の行程になるだろうか。江戸から幕末に掛けてを思いながら散歩する。しかし歩く途中で「旨いもの」を見かけたら、気ままに休憩を入れる予定だ。

庄屋の里 庄屋の里

 往時、この界隈は江戸市中の郊外に当たっていて、桜の名所の「飛鳥(あすか)山」を従えた風光明媚な土地といえた。繁華街の神田や上野辺りからすれば、別荘地の根岸や鴬谷(うぐいすだに)を越えたさらに先であり、根津や谷中の寺町もさらに越えて行く。ご府内とはいっても、ちょっとした遠出をするという気分がした事だろう。

 当時の様子が錦絵などで鮮やかに今に残っているが、着色の無いただの木版刷りの「江戸名所図絵(風流人向けのガイドブック)」などでも紹介されていて、屈指の庶民的な行楽地であったようだ。

 今でもJR王子駅の裏手には「音無川親水公園」があって、街道筋の喧騒の中に、意外に江戸郊外の雰囲気を濃く残している。

 やがて赤羽の台地がこの辺りから始まるのだが、王子の街も、その北側(山手線の外側)に飛鳥山を初めとした小高い台地を持っている。

 王子稲荷はそうした台地の切り立った斜面の袂にある。背後は、今は幾棟も連なる専門学校になっているが、この辺りは、その昔は鬱蒼と茂る木立ち(段丘樹林帯)だったのだろうと思う。
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庄屋の里 庄屋の里

ワンゲルメンバー撮影(左右とも)

< 庄屋の里 と 王子稲荷 >

 JR王子駅に集合した私達ワンゲル部内の気の合った仲間一行(少数精鋭メンバー)は、そこから間近い稲荷社へ直ぐに向ったのだが、王子稲荷への道を間違えてしまい、気がつくとだいぶ通り越してしまっていた。「目標物や高低が無いから、どうも都会はね・・」というのが、その際の言い訳。そのため、予定を変更し、最初に「庄屋の里」を歩くことした。

 空模様は雪交じりの小雨だったが、それはしっとりと纏いつくように降る雨で、少し鬱陶しい感じはぬぐえないものだった。本格的に冷え込んで、いっそ、雪に変わってくれた方が有難く思えたほどだ。

 さて、目的地の「庄屋の里」だが、この施設は段丘上の斜面を巧みに生かして、奥行き感のあふれる園内を実現している。

 何より、園内を巡る遊歩道から、外界にある建物が見えないというところが良い。 深い木立に囲まれて、ここが都下23区(北区内)とはとても思えない。鬱蒼と茂る幹の太い樹林を持っている。

 また、園路が舗装されていないところも良く、私たちのような者たちにとってはポイントが高い。勿論、公園なので対策はされていて、丘の上下を結ぶ階段などでは安全を確保するための石組みや木組みが施されている。

庄屋の里
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 さて「王子稲荷」。この社は関東の稲荷社の総本山ともいえるものだ。

 大晦日の晩、関東各地の稲荷に散る狐達が提灯を照らして行列する。この社に詣でて来るのだ。

 そうした様子は、歌川(安藤)広重の浮世絵にも描かれていて、参拝する狐たちの物語はしらなくても、幻想的な絵が有名なので、そうした雰囲気のほうが印象に残っているだろう。

 もう今となっては、狐を見ることは埼玉の奥地へ行かないと難しいので、とてもこの地へは来られない。そのままでは由緒ある稲荷が廃れてしまうと心配した当地の商店街が中心となって、「狐の行列」を再現して歩く催しが毎年暮れに行なわれている。

王子稲荷 王子稲荷の崖側の祠

 そこで一時、深い木立ちに囲まれて武蔵野の気分に存分に浸って楽しんだので、気分を改めて王子稲荷へ向かうことにした。

 王子稲荷の入り口は、神社が経営する幼稚園が表になっていて、道路側から神社を見ることができない。そのため、うっかりすると見落として行き過ぎてしまう。

 入り口にある大きな拝殿から、次第に境内を奥へ進んでいくと、いくつかの祠がある。さらに奥へと進んだ突き当りの、崖状になった場所にひときは古い祠が登場する。

 祠にあるのは、デンと据えられた「願い石」だ。これを願を思い浮かべながら持ち上げ、「軽い」と感じたら願いが叶う、というもの。

 こういった趣向はやってみないと気が済まないのがメンバーに一致した傾向なため、それぞれが岩を手にして試してみた。私は、少し軽く感じて持ち上げることができた。これで、今年の私の願が叶う事は間違いない、といえよう。
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王子稲荷脇の和菓子店 店のお品書き

 王子稲荷を後にして、JR京浜東北線の王子駅へと向う。

 感じの良い和菓子屋さんを見つけた。「石鍋 久寿餅店」さん。

 「くずもち」が気になったので店に入ってみた。テーブルが置かれていて、喫茶ができる状態。

 昔で言えば、門前の茶店、参道脇のお休み処、といったところだろうか。いろいろと品書きがあったが、店自慢のお饅頭『「酒まんじゅう」をお願いした。美味しいお茶をサービスして頂いたが、この日の天気を考えれば、なによりのありがたいおもてなしを受けたといえよう。

 店内には、浮世絵が何枚か飾られていて、よく観るとそれらはみな、王子を描いたものだった。印象的な紅い鳥居が描かれたものは、なんとなく目にした記憶があるが、後は初めて見るものだ。名所絵図(江戸百景)だろうか。
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王子稲荷の様子 王子(石神井川)

 浮世絵の題材は、王子の飛鳥山の横を流れる石神井川や、在りし日の王子稲荷を俯瞰したもので、当時の風光明媚さと稲荷社の賑わいが手に取るようだ。

 この店の看板は葛餅だが、広重が描く王子稲荷へ集う狐達の有名な浮世絵を専用の包装紙にした栗蒸しようかん「狐火の街」というものがある。包装紙だけでも欲しくなってしまうが、味の方も一品らしい。

 後日、改めて東京土産として買いに来よう。

酒まんじゅう こちらが本来の店の商品
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王子稲荷社 王子稲荷社
の様子

 「石神井川(しゃくじいがわ)」は今も勢い良く流れるが、JR王子駅の辺りは「音無川親水公園」として美しく整備がされている。

 遊歩道や休憩所などもあって、ちょっとした雰囲気が味わえる。木組みの水車や、猪牙船の実物大の模型なども置かれているので、江戸の川筋の様子などを想像すると愉しくなる。

音無川親水公園 ワンゲルメンバー
撮影
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平澤かまぼこ おでん鍋の様子


ワンゲルメンバー撮影のおでん鍋の様子

< 本日の旨い物 その一 平澤かまぼこ店 (王子)>

 ちょっと休憩を、という事で午前中から営業している店「平澤かまぼこ」へおでんを食べに立ち寄る事にした。

 親水公園の脇、駅の横丁というか、JR線のガード下ではなくホームと道を隔てているのだが、雰囲気は有楽町や新橋辺りのガード下の飲み屋さんと酷似した並びにある、小さな店だ。以前立ち寄った際のご主人の対応が忘れられず、機会があると寄るようにしている。

がんもとさつま揚げ
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お品書き しそ揚げ

 店の間口は一間ほどで、実に狭い。不潔ではないのだが、店内は一寸雑然とした印象を拭えない。

 それはカウンターの上が小ざっぱりとしていないせいかもしれないが、そんな様子が幼少の頃に父に連れられた「上電(じょうでん)横丁」の幾軒かの酒場に似ていて、私などにとってはかえって落ち着いてしまう。

 今はどの店も割烹のように小奇麗になったが、昭和の時代にはこうした雑駁な雰囲気の飲み屋が多かった。
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牛すじ、ちくわ 突き出し

 余談だが、「上電」というのは赤城山の南の麓をのんびり走って前橋と西桐生(にし きりゅう)とを結んでいるローカル線で、正式には「上毛電気鉄道:じょうもうでんきてつどう」。 ラッシュ時は確か2両編成となるが、日中などの多くは1両で前橋の街を走っている。駅はアイランド式で、そうしたホームには改札が無い駅も多く、未だにワンマンだったと思う。

 さて、この店のおでんの具は、自家製のもの。生魚を石臼で挽いて混ぜ物なしで練物にし、揚げ物などはサラダ油で揚げるという。だから、具材だけで食べても充分に美味しいが、それを出汁の効いた大鍋で煮込むのだから、堪らない。しかも、一品から好きなものをお願いできる。
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赤羽の地酒 はんぺん

 どれを頼んでもいいが、お勧めは「しそ巻き」「さつま揚げ」「がんも」それから魚介類ではないが「大根」や「牛すじ」もいい。鮮度も良いのだが何よりその密度、具材の重みが違う。

 おでんのお供には、北区の地酒「丸眞正宗」。生ビールでもいいのだろうが、やはりおでんには日本酒だろう。このお酒が、これがまたいい。実にこの店のおでんに良く合うのだ。

 地酒と書いたが、東京23区内で唯一の蔵元、王子ではないが地元北区、赤羽にある「小山酒造」によるものだ。秩父水系の伏流水を仕込み水に使った蔵元(赤羽 岩淵)だ。
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< 桜の名所 飛鳥山 >

 おでんを食べて(午前中だったが、せっかくなのでお銚子も頼んで)一息ついたが、ここから、北区最大の行楽地である「飛鳥山(あすかやま)」へ寄り道をする。

 学生時代は王子の直ぐ横の「駒込(こまごめ)に住んでいた。山手線内側の本駒込ではなく外側。いかにも下町です、という雰囲気の、本当に雑然とした町だった。

 引越し早々、同じアパートの人達が集まっていた。その後知ったのだが、私の部屋の廊下を隔てた前にある広い物干し台(10畳ほどか)に集まって、時々宴会をするのだった。主婦やオヤジ連が口々にあすかやま、アスカヤマ、といっていたのが不思議だった。

飛鳥山 保存された都電車両

 私が住んだのは戦後直ぐに建った古いアパート(2年間そこに住んで、その後に同じ駒込内でもう少し新しいアパートへ引っ越し、また2年間過ごした)で、土地に密着した夫婦や家族が主体で入っていた。

 12部屋ほどが入った木造の2階建てだったが、学生は私ともう一人だけ。あとは三味線の師匠や左官屋さんの夫婦、建具の職人さん夫婦、小間物屋の店員さんの家族などの職人や勤め人の夫婦や家族連れ。 アパートの住人達は仲が良く、世話好きで面倒見が良かった。

 いかにも下町(棟割り長屋)という感じが溢れていて、ことあるごとに、いや何も無くても晦日(給料日)後などに、皆で集まってはちょっとした持寄りでの宴会をしていたのだ。
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 思えば、ソメイヨシノ発祥の地、「染井」は私の居た駒込の裏手の地域になると後で知った。

 アパートの直ぐ前の「霜降り銀座」の商店街を奥まで進んで、連続した染井銀座やその少し先にいくと染井墓地など庚申塚(巣鴨方面)に向う。街としては皆、地続きなのだ。そうした地域で江戸の昔に開発された桜が染井吉野(ソメイヨシノ)。その樹木が林立する都内有数の場所が、飛鳥山だったのだ。しかも、飛鳥山は江戸時代からずっと続く名高い花見の名所・・・。

 単に「長屋の花見」のノリだけでなく、「地元の花」を愛でるといった意識が駒込辺りの住民にはあったのかも知れない。

ケーブル 折角なので、みんなで乗ってみた。


(ワンゲルメンバー撮影)

 さて、最近になって、王子駅から飛鳥山へ行くのに、斜面を登らずに済む工夫が凝らされた。丘の斜面に小さなモノレールができたのだ。

 スキー場のケーブルカ程の大きさのボックスがレールに乗っていて、静かに丘の斜面を行き来する。定員は詳細を覚えていないが、10名位は余裕なのでは、と思える。運行は自動制御だろうが、丘の上下の乗り場には係員が常駐している。さてさて、東京都の予算は、いったいどれほど余っているのだろうか。
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青淵文庫(せいえんぶんこ) 晩香廬(ばんこうろ)

 飛鳥山(丘)の上には、目的の渋沢栄一の邸宅跡や、今は財団が管理している「晩香廬(ばんこうろ)」というバンガローや「青淵文庫(せいえんぶんこ)」という文書館がある。

 中に入ることは出来ないが、その秀麗な佇まいを目にするだけでも充分な価値がある。昭和や平成の現代建築にはない、ゆったりとした味わいが楽しめる。

青淵文庫(せいえんぶんこ)
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晩香廬(ばんこうろ)

 邸宅跡にある一群の建築物はは一番の見所なのだが、それらだけでなく、頂には3つの博物館が並んでいる。

 街の名を取った日本有数の製紙会社があった関係からか、「紙の博物館」が一番大きく、 「北区飛鳥山博物館」「渋沢資料館」と続く。

 私達は、民俗展示が常設されている「北区飛鳥山博物館」に入ってみた。

 北区域の風土や歴史を紹介する博物館、というのが、この館の趣旨だ。常設展示は、ひとつの象徴展示と14からなるテーマ展示から構成されていて、縄文以前の「大地の形成」から学べる状態。とはいえ、私などからすると、弥生以降にテーマを絞ってしまってもよいのでは、と思える。
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 山全体は幹の太い大きく枝が張り出した見事な桜が林立しているのだが、王子駅川の山の斜面は一変して紫陽花が植樹されている。梅雨入りの頃、駅に面した斜面は美しく咲く花で飾られる。なんとも言えない風情が溢れる。

 その王子駅との間の斜面脇に「さくら新道」と名のついた路地がある。この細く目立たない通りが、実は昭和レトロの香り高い、飲み屋街になっている。

 「ああ、どうしよう。入ってみたいな」という気持ちにさせる何ともいえない佇まいを見せる、魅力的な店が連なっている。何かが起きそうな期待感を湧き上がらせる実に魅惑的なもの、通る人をひきつけて止まない魔力のようなもの、を秘めている様に思えるのだ。

さくら新道の様子 折角だけど、入ってみることが出来ない・・・。


(ワンゲルメンバー撮影)
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 しかし、こうしたxx通りやxx横丁というものに、一度魅入ってしまうと、これはもう抜け出す事が出来ないのではなかろうか。

 かつて父親が若い頃に(だから私がまだ幼少の頃に)通っていた「上電横丁」や「呑龍マーケット(呑龍様脇の飲み屋街)」のように何年も抜けて来ない日々に漬かってしまう気がする。

 事実、私が中学生となる頃まで、父親の頻繁な飲み屋通いは続いていたように覚えている。

渋沢栄一邸宅跡
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< 都電 荒川線で、「町屋」へ向う >

 飛鳥山から新道へ降り、ぐっと我慢してそれを進むと、JR京浜東北線(停車はしないが湘南新宿ライナーも通過する)の高架となるが、なぜか踏切が現れる。そう、都内に唯一残る路面電車の路線がここを走っているのだ。「都電 荒川線」がそれである。

 我が家ではもう充分に馴染み深い路線(のんびり 行こうよ: 20071008:都電荒川線に乗って(町屋))なのだが、都内の西部(調布や府中方面)に住まうメンバー達には珍しかろうと、一日フリー切符(400円)を買って荒川線へ乗り込むことにした。

 三ノ輪橋方面へ向って、「町屋」や「荒川遊園」駅あたりへ行って「もんじゃ焼」を食べようという趣向だ。

都電荒川線 フリー切符 都電荒川線

< 都電荒川線 沿線の「もんじゃ焼き」 >

 折角なので「町屋(まちや)」にある「信八屋」へ向った。

 この店は地元の子供向けの店で、100円もんじゃが数種類、さらに幾種類ものもんじゃ焼きがあるが、いってもせいぜいが2・300円までのもの。このため、少子化で大分少なくなってしまったというが、地元の子供達には人気だという。

 小麦粉をといて、切りイカなどを(ほんの気持ち分)少し混ぜたほどの、素朴な内容のものだった。初めて家族で訪れた時は、住宅街の中なので店が判らず大分迷ってやっとたどり着いた。そんな話をすると、オバサンは店の来歴やら何やらいろいろを、朴訥とした語り口で話してくれた。

 壜ビールは置いてあったが、その他は缶入りの発泡酒が幾本か冷蔵ケースに入っているだけで、その缶も客用ではなく息子さんが帰ってきたときに飲むためのものだ、という事だった。

 前橋で少年の頃(4年生位、1970年頃だったろうか)に通った「ジジ焼き屋」さんが、こういった雰囲気を持っていた。

 勿論、むかし通った店には小奇麗なカウンターなどは無くて、木枠の無骨なテーブルに大きな鉄板が一枚、そんなものが土間に2つ据えられていた。横には壷焼き(つぼやき;石焼芋)の大きな壷やおでんの鍋、さらに並べられた駄菓子やくじの類がぶら下がっている、といった様子だった。

 「ジジ焼き屋」さんではなく、「お好み焼き」屋さんになると「信八屋」さんのような作りになっていた。テーブルがあり、その上にはガス式の鉄板があって、一人客用のカウンター(自分で作るのではなく中で店が焼いてくれる)も用意されたような店。お好み焼き屋さんは、大人用と子供用の2段の異なるメニューがあって、子供用の方は千切りのキャベツや僅かな桜エビなどの気持ちほどの具が入った状態で30円が平均、玉子が入ってもせいぜいが50円程だった。(先のジジ焼き屋さんは10円位だったが。)

 そうした昔の良き雰囲気を数年までは残していた。3年振りくらいの来店になるのだろうか、行ってみた店の前には「ボジョレー入りました」の張り紙。

 私ははじめ何かの見間違いかと思った。 無言になった私を先頭にして、私達はきびすを返して荒川遊園へ向った。
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 気を取り直して、都電荒川線の終点「三ノ輪橋」まで進出し、アケードで焼き鳥など食べて行こうではないか。

 少年の頃の冒険心と、目的地を前にした道草、を思い浮かべて・・・。

 丁度、お誂え向きに荒川線には、珍しいレトロ車両がやってきた。最新の車両なのだが、外見のデザインや社内調度をレトロ調(シックな木目調)に整えたものだ。

大村パン

< 三ノ輪橋のアーケード街「ジョイフル三ノ輪」へ >

 やってきたのは都内有数の長く続くアーケードのある街だ。全長500mの屋根の下に140店舗が集まっている。

 以前、西浦和からのポタリング( のんびり 行こうよ: 20091219:江戸の情緒を味わう )で荒川を下ってきて、赤羽岩淵からは荒川を離れて隅田川に沿って進んだ。それは、昼食としてこの地で蕎麦を食べるのが目的の一つだったからだ。

 三大暖簾と呼ばれる一流、「砂場」発祥の店がアーケード街の中央辺りにあるからだ。都内をポタリングという事で、その後は谷中、寛永寺、それから将門が祭られる将軍塚、皇居を回って北の丸公園から飯田橋へ抜けるというコースだった。その際には、飯田橋で食事をして、その後は自走してさいたままで戻った。
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大村パン ハムカツパン

< 本日の旨い物 その二 大村パン のハムカツ (三ノ輪) >

 「ジョイフル三ノ輪」のアーケードを進んできて、ふとショーケースを覗くと、溢れんばかりのパンが並んでいる。ラッキーな事に「大村パン(創業80年)」で、丁度、新しいパンが焼きあがったところだった。

 なんという幸運な巡り合わせだろう。

 何度か来店しているが、いつも売れてしまってしまっていて、コロッケはたまに残っていたがハムカツは食べる事ができなかったのだ。今回は充分な数が並べられている。私達は早速、ハムカツパンやコロッケパンを購入した。

 昔の給食で出てきたようなコッペパンなのだが、あれから思うと、さらにもう何段か上の舌触りがする。

 それは多分、小麦粉の等級やイースト菌が違うのだろう。さらには、その熟成方法とか、焼き上げの加減とか、さらにそこへ思い入れなんていうものも加わるから、各段に美味しい。この店のパンはいろいろな種類があるが、クリームパンが評判だ。しかし、やはり私は焼きそばパンやコロッケパンが捨てがたい。世代、というものかも知れない。
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日向地鶏 日向地鶏

 こうして、ハムカツパンを食べながら、「荒川三中」駅の方向へ戻り、さらにアーケード内を散歩した。

 いつも買う焼き鳥を外すわけにはいかないので、皆から少し遅れながらも、寄りこんで「なんこつ」と「とり皮」をお願いした。

 アーケードには何軒かの焼き鳥屋さんが現れるが、この店は焼き鳥専門の「鳥善」さんだ。どの店も(三ノ輪橋駅側の大きな総菜屋さんの焼き鳥など)美味しいのだが、こちらは日向地鶏(ひゅうが じどり)を使ったもの。

焼き鳥の鳥善 焼き鳥の鳥善
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日向地鶏 とり皮

 焼き鳥はいつもは塩にするのだが、今回はタレを試してみた。

 この店の鳥皮のタレの味を覚えたかったからだ。1本や2本の注文であっても、億劫がらずに温めてくれる。それは、確かに、温かな焼き鳥の方が美味しいに決まっている。

 さらに言えば、赤羽の馴染みの店のように、お願いしたものをその場で焼いてくれるとさらにうれしいのだが、そうもいくまい。気をまわして加熱してくれる、そうした心遣いをかけてもらえるだけでも充分といえよう。客商売としてどうかと思うが、最近では平気で冷めて硬くなったモノを渡す店も多いのだから。
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 少し遅れて、皆のところに戻り、また、荒川線へ乗り込んだ。

 王子方面へ戻るためだ。

 いや、しかし、本来荒川線へ乗り込んだのは、「もんじゃ焼き」を愉しもうとしたのではなかったか。焼き鳥で満足していたら、本来の目的を忘れるところだった。

 「そうだっ」とハタと気が付いてよかった。いや、恐るべし「老人力」。格闘の日々からこの力と平穏に折り合える安らぎのときは、何時になったら訪れるのだろうか。

 本来の目的を思い出しては、仕方がない。さらに寄り道になるが、改めて都電荒川線へ揺られて、「荒川遊園地前」駅へ向うことにしよう。

お品書き 使い込まれた鉄板

< 「荒川遊園前」のもんじゃ焼き >

 「荒川遊園」は、先のアーケードと同じく昭和の香りが色濃く漂う、これまたレトロな遊園地で有名な場所だ。

 就学前の子供となら、半日はじっくり遊べる。我が家でも、子供の就学前の頃は家人が荒川線に乗せて、よく遊びに来ていた。なにせ、乗り物代などのコストが素晴しいパフォーマンスなのだ。どれほど乗りたがっても財布の事情を思って怯む必要がまったくない。

 この遊園地の前の通りに「もんじゃ焼き」屋さんがある。その名も「こどもの家 きくや」さんといい、子供向けの駄菓子がメインのお店で、本来の「もんじゃ焼き屋」さんといえる。

 小学校前には良くこんな感じの店があった。それに、公営(市営や県営)のプールの近くなどにも・・・。

 質素なテーブルと簡単なスチールの丸椅子がコンクリ打ちの店内に置かれて、木製のショーケースの中にお菓子などが置かれて・・・。ケースの上にはコマやメンコが載っていたり、脇の鉄製のメッシュのラックには様々な「くじ」の類が釣られていたり、と。
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チーズもんじゃ チーズもんじゃを焼く

< 本日の旨い物 その三 「こどもの家 きくや」 のチーズもんじゃ (荒川遊園) >

 夏場はカキ氷なども幟が立って、店の中央にカキ氷を作る鉄製のしっかりとした機械がデンと据えられる。用意された幟や「氷」と染め抜かれた暖簾などをプールの帰りに横目で見ながら、週末には小遣いをねだってイチゴかメロンを頼もう、などと夢想して通り過ぎるのだ。

 この店は、そうした昭和の時代の雰囲気をそのまま伝えている。メニューは400円ほどなので、都電荒川線沿線のもんじゃ焼きとしては、中間の方だろう。まあ、他の店が本来の価格よりぐっと無理を続けているのだが。

 まあ、それ(そうした営業姿勢)を思うと、今ではメッカなどともてはやされる「月島(つきしま)」などは、こと値段でいったら問題外だ。
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チーズもんじゃ 切りイカもんじゃ

 勿論、そもそも地元の子供などお呼びではないのだろうが、あんな値段では子供が自分達で相談して、寄り集まって店に足を運んで楽しむ事などできはしないではないか。

 少年の頃のああした場は、公共というものを理解して身に着ける我らの訓練の場あり、経済事情や家の収入格差といった現実を理解する場で、さらには、ひそかな相談を持ち込む場であったりしたのだ。

 新しい友人との出合をもたらし、別の学区の子供達に対抗心を燃やし、新たな冒険を練った大切な劇場型の<場>だった。それは、大人になるための集合場所であった。

 僅かなお金で粘るのを暖かい目で見守ってくれた店のおばさん達は、その大切さが判っていたのだと思う。

 少年の頃の私達は、相談や提案や交渉の思いを、同じ鉄板を囲んでくちゃくちゃのジジ焼きに溶かし込んだ。おどけたり、馬鹿笑いしたり、一寸友人の目を掠めてズルをしたり、心の底から楽しみながら大きくなって来たのだ。
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もんじゃ完成 もんじゃ焼きを食べる

 もんじゃ焼きを2種類、それに焼きそばを注文した。

 今の私達は、おかげ様にて、もうすっかりいい大人に成長することができた。子供ではないので、欲望は我慢できない。そのため、まだ昼過ぎだが一緒に壜ビールもお願いする事にした。

 そして、同好の士と、一枚の同じ鉄板を囲む。

 互いの幼い頃は知らないけれど、息せき切って山を登り、自転車を濃いでいる仲間だ。その雰囲気には、少年の頃に感じた温かみがある。
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焼きそば作成中 焼きそば作成中

 外は、まだ細かなみぞれ雨が降っているが、それを気にせず愉しむ仲間がいる。

 もんじゃを焼く鉄板の熱だけでなく、私は<仲間>に囲まれる温かさを改めて感じて、本当に愉しくなってきた。ワイワイと、「そうじゃない」とか、「土手を作るんだよ、まず」とか、「まだ、はやい!」とか、口々に独自の手順を展開しながら・・・。
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雪の荒川線 雪の荒川線

 さて、仲間で鉄板を挟んで楽しんだ後は、本来の街歩きのコースへ戻ることにしよう。

 古河庭園へ行くのはこの際やめて、荒川線で「庚申塚(こうしんづか)」まで行って巣鴨へ向かうことにした。夕暮れ時が迫って来たためだ。

 この界隈の話を車中でしていたら、「おばあちゃんの原宿」とはどのようなところか、との議案がメンバーから出たためでもある。王子まで戻ってそこを通り越して、さらにその先の庚申塚」まで行って、私達は路面電車を降りた。

 庚申塚はJRの巣鴨駅と板橋駅の間にあって、荒川線のホーム以外は、何もない場所だ。ここから東西に伸びる線路に直交する道路は、言うなれば「とげぬき地蔵」への裏参道なので、そのまま道を進めば、地蔵尊がまつられる曹洞宗萬頂山高岩寺へたどりつける。

荒川線「レトロ車両」
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< とげぬき地蔵をお参りする >

 「地蔵通り」という商店街が、JR巣鴨駅(山手線)前の白山通りの左から斜めに入って続いている。通りの先は都電荒川線の「庚申塚」駅であり、さらにそのまま真っすぐ行けば、JR板橋駅(埼京線)へ辿り着く。

 とげぬき地蔵は、駅側から入って程近い場所にあるため、庚申塚から向かうと少し長く歩くことになる。しかし、道の両側には食堂やら何やらの店が続くので、飽きることはない。

巣鴨 とげぬき地蔵
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 庚申塚の駅のそばには、高校生のころ、前橋で部活のすきっ腹を抱えて寄り道を繰り返した「ホワイト餃子」の系列店がある。

 前橋の店はこのチェーンの古株だが、ここ巣鴨はちょっとチェーン内では変わった内容を持っている。

 「ホワイト」ではなく「ファイト餃子」。同じように厚い衣で球体に仕上がっているが、シナモンで味を調整している。そうした味付けなどは異端なのだが、チェーンを構成する一店なので、基本は同じ部類の特色ある餃子が振舞われる。

 私は、元祖「ホワイト餃子」の方が好きだけれど、この店も評判で人気が高い。そのため、来店者の多い休日などは早い時間に品切れになって閉店してしまう程だ。

 とげぬき地蔵にお参りし、せっかくなので通りの入り口まで行って最近になってできた店でせんべいを買い込んで、また荒川線へ戻った。

 今度は入谷(いりや)の「鬼子母神(ししぼじん)」へ向う。

巣鴨 とげぬき地蔵 入谷 鬼子母神へ向う
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 庚申塚の駅から、そのまま早稲田行きの電車に乗って「鬼子母神(きしぼじん)」へ。

 ところが、鬼子母神は入り口の門が閉ざされていて、境内に入ることが出来なかった。いや、ロックアウトされていようとは想像していなかったので、一寸驚いた。

 コンクリの柵越しに拝殿を眺め、大銀杏が続区参道だけを楽しんだ形だ。もう日が落ちてしまったので、それも仕方があるまい。

 さて、ここは「恐れ入谷の鬼子母神」などと台詞回しでも有名だが、今の地名で言うと東池袋だ。少し歩けば、すぐにサンシャインシティにたどり着く。

 サンシャイン通りから脇に入って職安の方に向った場所に、行きつけの焼き鳥屋さんがある。串焼きの「風雲」という店だ。

池袋 串焼き 風雲 なんと、休日は焼き鳥が100円均一。

ただし、価格帯の上限があり、250円までのものだったと思います。


でも、値段が講来ると、安心していろいろ頼めて、
幸せな気分に浸れます。
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池袋 串焼き 風雲 池袋 串焼き 風雲

< 本日の旨い物 その四 「串焼き 風雲」 の焼き鳥 (池袋東口) >

 この店の焼き鳥は、本当に美味しいが、他の料理も良い。

 たとえば、写真の手羽先、これなんかも最高ですね。それに煮込みなど。

 お酒を飲んで、美味しい焼き鳥を楽しんで、そして最後は「そぼろ丼」で仕上げができる。

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池袋 串焼き 風雲

 つくね、には玉子の黄身が付いてくる。

 これも焼き鳥とはまた違って美味しい。どの鳥串も皆美味しいのは多分素材が良いのと鮮度が違うのだと思える。さらには、炭火の火加減だろうか。

 店は、2階建てになっていて、一階はカウンターで、2階部分はしきりの付いたテーブル席。だから2階の席があいていればグループで落ち着いて楽しめる。

 さて、すっかり愉しんだ。まるで、食べ歩きだけになってしまったので、最後に池袋から板橋へ向う事にする。埼京線で一駅なので、僅かな時間で行けるが、先の庚申塚からも歩いていける距離である。

池袋 串焼き 風雲 池袋 串焼き 風雲
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 JR板橋駅前には、かの新撰組局長、近藤勇(こんどう いさみ)の顕彰碑がある。

 もう辺りはすっかり夜になってしまったが、それが却って不運な結末となってしまったこの英傑のお参りには雰囲気があっている。

 英傑と書いたが、「新撰組」に関してはその活動に賛否両論があるので、表現が難しいところだ。ただ、幕末期の有名な人、というだけではない何かしらのヒーロー性とでもいおうか、彼が土方らと作り上げた組織というものの機能性(機動性)からかも知れないが、ある種のカリスマ性を感じるのだ。

 装備や戦略という事での機能性ではなく、なぜ鉄のような結束を可能としたのか、という部分。

 隊を抜けることはすなわち死罪、という厳しい掟だけで、あれほどの自己犠牲を省みない活動と結束が保てようか、と思うのだ。勿論、本当に詰め腹を切らされるのだから、脱退や逃亡は出来るはずがないのだが、武士を捨てて帰農してしまえば、情報網は自前の探索隊のものしかないのだから、その追跡は充分にかわせたと思える。

 最近になって、ちくま新書の「新撰組実録」を読んだ。

 司馬遼太郎の「燃えよ剣」を初めとした小説は随分と読んだのだが、改めて活動詳細や思想的な背景を語った組織論を含めた学術的なものは目を通していなかったためだ。

 新撰組の発足時から函館戦争での最終的な幕府勢力の瓦解までを詳細に孝証した労作で、実に様々なことが理解出来た。

 組織内部の権力闘争などもあって隊は曲折するのだが、局長である「近藤 勇(こんどう いさみ)」の立ち位置は一貫していた。武州の豪農でありその頃に培われた徳川家に対する忠誠心を基盤とした、幕府のシンパという立場は一貫して変わる事がない。憧れていただろう本当の武士、将軍直参となることを夢見て活動し、遂には中堅旗本の地位を得るまでになるが、しかしそれは夢半ばで潰えることになる。

 そうした夢の終焉は、近藤や土方が「時代性」という歯車を持ち合わせていなかったからではないだろうか。

 大きくうねって変化していることは政権中枢での会議などにも出席し、幕府への建白書も提出したのだから多分気付いていたのだろうが、いかにも当初の夢の占める位置が大きすぎた。

 隊の結成以来の幹部で大正の世まで生き延びた「永倉 新八(ながくら しんぱち)」などは、近藤と違ってその階級は生粋の武士であり、松前藩士の出身だ。脱藩して浪人格で近藤や土方とともに新撰組を立ち上げ、二番組の長(隊幹部)として辣腕を振るう。

 鳥羽伏見での激戦を終えて江戸に総退却した後、新選組が母体となった幕府正規軍である甲陽鎮撫隊の一員として新政府軍と甲州勝沼で激戦を展開する。しかし装備の劣勢からか、甲府勤番や百人組同心をはじめ各隊の寄せ集めの寄り合い所帯であったためか、むなしく戦い敗れて江戸へ退却し、事実上解散する結果となる。この時の別れが各人の運命を変える結果となる。

 その僅かな後に、流山(ながれやま)で捉えられた近藤は板橋に連行されて斬首され、土方は会津など東北(奥羽列藩同盟)へ転戦し、さらに北海道へ渡り函館の五稜郭で独立政府を志向するのだが、永倉は米沢での配線を機に戦闘を辞めるのだ。

 世情に長けていたという事ではなく、その辺りが生粋の武士の潔さ(身の振り方)なのだと思う。そして維新後、生き残った彼は隊幹部の顕彰につくした。

 この板橋の駅前の一角に建つ大きな石碑も永倉が世話人となって建立したものだ。
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