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2009.12.19
江戸の情緒を味わう(隅田川を走る)

走行距離;
 62km ;走行時間 4時間50分

        往路;JR武蔵野線 「西浦和」駅に集合
            「荒川サイクリングロード」(緊急時用河川敷道路)にて
                西浦和 > 戸田 > 赤羽 > 西新井 > 千住 > 町屋
            隅田川に沿って都心部へ
                町屋 > 三ノ輪 > 根岸・谷中 > 根津・池之端 > 大手町 > 飯田橋

        復路;飯田橋 > 水道橋 > 巣鴨 > 板橋 > 戸田 > 浦和 > さいたま新都心

        (私の場合、さいたま新都心から西浦和間の9km。自走の往復分18kmを加算した総行程は80kmだった)


カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24−72mm F2.5−4,4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)


 前回の企画(2009.11.28 「荒川を極める(河口を目指して)」)では、荒川サイクリングロードを快適に走った。

 往年のお正月映画、「男はつらいよ」シリーズの主人公「フーテンの寅さん」の故郷となる「葛飾柴又(かつしかしばまた)」)」や、やはり下町風情が溢れる「金町(かなまち)」といった、昭和レトロな雰囲気(2006.08.15 「せみの抜け殻〜はっぱのフレディ (葛飾、柴又 ぶらり散歩のサイドストーリー)」)を色濃く残した街を楽しんだ。

 そこには古い時代の面影がそこかしこに残っていて、どことなく懐かしさがにじむ風景に出会うことが出来た。

 お団子が入れられた店先の木枠のショーケースなど、幼少期や少年時代を過ごした昭和30年代から40年代では、確かにああいったものが店頭に置かれていたものだった。冷たい感じがするアルミやステンレス製の立派で頑丈なものが店先を飾るようになるのは、もっとすっと後の事だ。

 擬似的なタイムスリップ感を存分に味わえたのだが、それに気を良くして、さらに「下町の味わいが残る場所を尋ねよう」と企画したのが、今回のポタリング行「江戸の情緒を味わう」の趣旨になっている。


 「都内を走る」ということに関しては、今までの専用のサイクリングロードでの走行や田園風景が広がる場所での走行から比べると、走ること自体には快適性は望めまいと思っている。その理由としては、なんと言っても圧倒的な交通量で満たされる車道を、肩身を狭くして走行する必要が不可欠となるためだ。

 そうした、<走りの質>という面では「都市の走行」は大きな欠点を持っているのだが、半面でまた都市の走行ならではの楽しみもある。

 それは、東京の町並みの特質を考えるとき、JR線や地下鉄での移動より自転車での移動のほうが、数段、移動する醍醐味そのものを楽しめる、とい点を持っている。少し走るとすぐに別の街に入って、瞬く間に風景がめまぐるしく変化する。数ブロックを走るだけで辺りの雰囲気が一変する。そのように、わずかな走行時間で変化に富んだ沢山の街並みを味わえるのは、やはり都会が舞台であるからだろう。

出発(西浦和駅から道満へ)

今回の参加メンバーは、ワンゲル3名(内1名は私)、飛び入り参加1名の計4名、ロード2台 マウンテン2台という編成。
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<予定コースの概要 −荒川サイクリングロードから隅田川へ>

 さて、今回の起点は、もうおなじみとなったJR武蔵野線の「西浦和」駅だ。新都心からも程近く(9kmほどの距離)、多摩方面のメンバーの参加も楽で、走りこむコースへの起点として絶好の位置にあるからだ。

 駅から荒川に向かって行って、戸田市にある「道満(どうまん)グリーンパーク」の浦和側の入り口手前に出る。前回と同様に下流へ向かって左岸を進む。「左岸」という表現や、この「サイクリングロードの実態」に関しては前回の記述をご参照願いたい。

 約66ヘクタールの広大なレクリエーションゾーンとなる川口市の荒川河川敷に広がる公園施設で、河口(東京湾)から35kmほどに位置する。その「道満グリンパーク」、「彩湖(さいこ)」を通る道を通り抜けていく。

 荒川河川敷内の「緊急時避難路(サイクリングロードと呼んでいる下流域の専用道路の実態)」をそのまま南下し、「赤羽岩淵(あかばね いわぶち)」の手前で左岸から右岸へ渡り、そのまましばらく走る。ここまでのコースは前回の道のりと同じだ。

 やがて頭上に「扇大橋(おおぎ おおはし)」が現れるが、そこで荒川岸を走ってきたコースから離れる。

 「岩淵水門」で荒川と別れた川筋は東京の下町地区を蛇行して流れ、浅草の先で東京湾へと注ぎ込む。「隅田川(すみだがわ:大川)」と名乗る川になるのだ。

 隅田川は大きな外見上の特徴がある。都内中心部を流れる多くの河川と同様に掘割状の広い水路なのだ。川岸には傾斜した土手があるわけではなく、川は周囲の街並と垂直の壁によって隔てられている。川岸が土手ではなく垂直のコンクリート壁によって護岸されているのだが、この垂直の壁がある事によって上流へ向かう逆流ができて舟での遡上が楽になるらしい。トラックや鉄道以前の役割としては、物流の動脈としての都市運河だった背景がある。最近はすっかり見かけなくなったが、30年ほど前、私がまだ大学生の頃の神田川でも、だるま船が何艘も行き交っていた(しかも頻繁に)記憶がある。

 こうした運河としての都市河川の特色から、墨田の川筋にも岸辺が無い。川岸の土手がないから、河川敷や土手を通れる道もない事になる。隅田川で岸辺と呼べる雰囲気の場所として思い浮かぶのは、僅かに浅草の「吾妻(あずま)橋」周辺くらいだろうか。あの辺りは公園のようになっているし、その横は護岸された斜面状のコンクリートの土手がある。

 だから川に沿って進むといっても、川を横手に見つつ、川と往きつ離れつして、街中をほぼ並走して下流へと向かうことになる。


 都内に残る唯一の路面電車、「都電荒川線」にやがて出会うが、そうなればもう「町屋(まちや)」(2007.10.08;町屋、都電荒川線)で、第一の目的地の「三ノ輪(みのわ)」はすぐそこだ。昭和の雰囲気が一杯に残っている長いアーケードで食べ歩きを楽しもうと思っている。

 そこから次の目的地の「谷中(やなか)」(2006.05.06 「谷中散歩 夕焼けだんだん」)の街へと向かう。隅田川に沿って行けば、「浅草(あさくさ)」(2006.07.02 「浅草、ぶらり散歩」)を目指して進むかたちになり、上野経由で谷中に戻るということになる。ほぼ川沿いに行ってもいいし、そうはせずにそのまま浅草とは逆側の「根岸(ねぎし)」へ抜けてもよいだろう。いずれにしても、三ノ輪から谷中までは、自転車での移動であればさほどの距離ではない。

 これが電車で、となるとちょっと面倒な道のりになる。何回か別の路線に乗り継ぐ必要があるからだ。たとえばJRでなら常磐線から山手線へ乗り継ぐ事になるし、荒川線ではさらに面倒な乗り継ぎ経路になるだろう。

 谷中での目的は江戸千代紙の「いせ辰」での買い物で、それと商店街でのコロッケ、「笑吉(しょうきち)」の指人形の見物、などを楽しむ予定だ。

 そこから「根津(ねづ)」(2008.08.30;谷根千 散歩 (根津・千駄木))を抜けて南下し、今度は「大手町(おおてまち)」へ向かう。歴史探訪としてビルの谷間にある「将門塚(まさかど づか)」へ詣でるためだ。

 そこから内堀沿いに皇居を周回し、「飯田橋(いいだばし)」へ向かう。そこで食事をして解散、というのが今回の大まかな計画だ。

 復路は飯田橋からの輪行か、「水道橋(すいどうばし)」へ出て白山通りに沿って走り、「千石(せんごく)」「巣鴨(すがも)」へ向かうか、のいずれかを考えている。

 おばあちゃんの銀座といわれる「巣鴨地蔵通り」を抜けて板橋に出て、そこから「中仙道(なかせんどう:国道17号)」を戻るといった自走が可能で、途中で輪行に切り替えることも可能だが、状況に応じて臨機応変に判断しようと思っている。疲労の度合いや残った気力のいかんによって、いずれの選択も出来るように、一応の逃げ道を確保している。

出発後の快走(奥に見えるのが道満)
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出発後の快走

道満(どうまん)で彩湖(さいこ)に掛かる橋を渡って左岸へ行かなかったら、
じきに道はこんな状態に。
やがて、行き止まりになって、結局自転車を担いで土手を登る事に・・・。

彩湖から荒川右岸を進むのは厳しそうだ。
(路面に敷かれているのは厚い鉄板。夏場は地獄だろう)
鉄の道は続く

<荒川下流域へ、災害時緊急通路を走る>

 さて、前置きはこの程度にして、今回の実走。

 「荒川サイクリングロード」(2007.07.16 「夏の入り口(荒川沿いに上尾まで)」)は総延長でいえば、首都圏最大級のものだろう。

 「熊谷(くまがや:埼玉の中央部)」の「武蔵丘陵森林公園」から浦和の「秋ヶ瀬公園」」(2008.03.09 「秋ヶ瀬への自転車散歩」)まで続く長い道を引き継いで、あたかもその延長で河口(東京湾の葛西臨海地区)まで延びるのが、今回走る「災害時緊急通路」だ。これも含めれば総延長90kmであり、素晴らしいスケールのロングコースになる。

 河口に向かって、あるいは上流を目指して、この道を多くの自転車が行き交う。埼玉で言えば、ロードバイクの目抜き通りといったコースだ。

戸田ボート(競艇場)付近 戸田の漕艇場へ向かうスロープ
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漕艇場、前回のアクシデント発生地点 いまだに、路面に打ち付けた腰骨が痛む。

写真は、前回のアクシデント発生現場だ。

ただ、幸いな事にその後、
同じような「立ちゴケ」はしていない。

 「戸田(とだ)」は川の街で、古くは「戸田の渡し」で中仙道の蕨(わらび)(2007.09.17 「中仙道 蕨(わらび)宿」)と川口とを結んでいた事や、荒川だけでなく笹目川や菖蒲川などの大きな川も、笹目川の支流の文蔵川やさらにその支流の上戸田川などの小さな川も市域を流れている事、などに関しては、前回に触れたとおりだ。


 戸田の漕艇場。今回は熱心に練習する多くのボートが走っていた。

 前回の企画時、「立ちごけ」という実に痛い目、クリートのボルトが無くなってぐらついてペダルから固定された足が開放できなくなるというアクシデント、に見舞われた場所だ。
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「尾久(おく)」の辺りの土手 鐘ヶ淵方面へ

 戸田の漕艇場から、その先の橋を渡って「浮間舟渡(うきまふなと)」へ出るが、今回は赤羽市街へ行く必要は無いので、そのまま右岸の河川敷を走る。前回はクリート金具の調達が必要で、丁度昼だったので1番街アーケード(ここの一番は算用数字)の「とんぼ」(2009.03.28 「赤羽 1番街アーケード」)で食事をしたのだった。

 すこし先にある「岩淵水門」を過ぎて「桜堤緑地」で今回最初の休憩を取る事にした。

 この水門は「隅田(すみだ)川」との分岐になっている。「新河岸川(しんがしがわ)」と呼んでいた川が隅田川とその名前を変える。時代劇で「大川」と呼ばれる有名な川で、その始まりの場所だ。

 山から流れ下る川ではないので、この場所を「隅田川の源流域」とは言わないだろうが、この場所が大きな都市河川の「みなもと」となっている。
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<荒川を離れて東京下町へ、隅田川に沿って走る>

 ここから隅田川に沿わず、もう少し荒川沿いを進んで、もうじき「小菅(こすげ)」に入るといった辺りで荒川を離れて隅田川を目指したほうが効率がよい。

 今回のチェックポイントは「扇大橋(おうぎ おおはし)」だ。この場所から隅田川方面へと進路を変えることにする。

戸田の桜並木の土手

 北区が終わって足立区になるが、扇大橋を過ぎてマンションの一群が途切れるとそこは墨田区で「西新井」や「千住(せんじゅ)」になる。前回は橋を渡らずに右岸をそのまま進んだが、今回は橋を渡って下町の街並みへと入っていく。


 道満から広大な彩湖を越えて、ここまでの道のりは実に順調で、土手からの川筋の景色も美しく、快走することが出来た。前回は川筋には美しく紅葉した桜並木が続いたが、美しかった葉はもう落ちつくしていた。

隅田川沿い、荒川三丁目付近 町屋に出現したウォーターフロントの呆然とする

 隅田川に沿って進んできたわけだが、住居表示はいつのまにか「町屋(まちや)」に変わっている。

 確かに我々は町屋に居るらしいのだが、川沿いに真新しい高層マンションが幾棟か建っていた。川岸を包むおよそ町屋のイメージではない風景の出現に、少し面食らってしまった。

 橋を渡ってから隅田川沿いに進んで来た訳だが、いかんせん、川は微妙に蛇行している。

 下流の都市部では上流域での降雨での増水による思わぬ河川の氾濫を抑える必要がある。そのために川筋を蛇行させることで流速を抑えるための工夫なのだろう。その蛇行を追いかけるのだが、川沿いの道が途切れたり、住宅街に入って行き止まりになったり、で、実は少し迷ってしまった。

 このため、途中で「川に沿って進む」という方針を変更することにした。

 「都電 荒川線」を目指していって、線路に出たらそれに沿って進むことにしたのだ。そうすれば、自動的に荒川線の終点となる「三ノ輪橋(みのわばし)」に行き着けるはずだからだ。これなら、いくら道迷いの多い我々でも迷いようがないはずだ。

 「都電荒川線」の路面電車の軌道を改めて目指す事にした。

 「軌道」と書いたが、「荒川車庫」から「三ノ輪橋」の辺りでは、この電車は道路から分離された専用の線路を走る。電車が路面を走る様子を楽しもうとする場合は、王子の「飛鳥山(あすかやま)」のカーブや「大塚(おおつか)」などの場所へ行く必要がある。

 線路を探しながら町の中を進んでいると、古いレンガ積みの長い塀が現れた。

 吉村昭(よしむら あきら)の小説「関東大震災」で読んだ震災の際の下町の悲惨な被災地の「陸軍被服廠跡」だろうか。火災旋風が巻き起こって非難した住民約4万人を焼き尽くした場所は周囲を長大なレンガ塀で囲まれた場所ではなかったか。(・・・後で調べると私の記憶違いで、その場所はここではなく墨田区の横網町だった。)
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荒川を進む

 あるいは昭和初年あたりの工場跡地だろうか。現れた古いレンガの色を楽しみながら、しばらく続く塀に沿って進んだ。

 すると、やがて大きな施設が現れて、確認したらその建物は「荒川総合スポーツセンター」だった。このセンターは幼少期の「北島康介(平泳ぎの金メダリスト)」を育てたプールとして有名だが、さらに以前はプロ野球場「東京スタジアム(東京球場)」の跡地だった場所だ。下町に本拠を置く球団(ロッテ:当時のロッテは映画会社の大映が運営していた)のスタジアムがあったという。

 世代を超えた人気マンガ、「こちら亀有公園前派出所」の作者、秋本治さんが書いた集英社新書「両さんと歩く下町(「こち亀」の扉絵で綴る東京情景)」で<光の球場>というエピソードの紹介として読んだ覚えがある。僅かに15年で廃止されてしまった非常に短命な球場がこの場所にあったという。

 その新書は、連載された漫画の口絵を元にそのエピソードが綴られたものだが、下町の情景への想いがよく伝わってくるし、当時の下町の様子を身近に知ることの出来る民俗史的な資料としての性格を持っている。申し訳ない話だが、「こち亀」はただのドタバタギャグだと思っていて、コミックを読んだことがなかった。テレビのアニメもそうで、まともに見たことがなかったのだが、この新書を読んでから認識が改まり、コミックへの興味が始めて沸いた。コミックを知らない、またはコミックそのものに興味がない場合でも、新書は充分に楽しめる内容になっている。下町散歩のテキストとしても、実にお勧めの本だと思う。

 「三ノ輪(みのわ)」には長いアーケード街がある。「ジョイフル三ノ輪」がそれだ。

 以前、(2007.10.08 「町屋、都電荒川線」)で紹介したが、美味しい惣菜屋が一杯の活気ある商店街だ。特に私にとって嬉しいのは、餃子屋と焼き鳥屋が何軒かあるので、食べ比べが出来て街歩きの楽しさが倍増する点だ。

 今回はここで焼き鳥とハムカツパンを食べて、「荒川遊園地前」か「町屋」のびっくりするような値段で楽しめるもんじゃ焼きを食べるつもりだった。しかし、丁度、アーケードに着いたのが昼だったので予定を変更する事にした。もんじゃではなくて、アーケードの中央にある「砂場(すなば)」の蕎麦を食べることにしたのだ。
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<蕎麦発祥の店 大阪「砂場」の系譜を尋ねる>

 「砂場」は大阪城築城時の砂置き場近くで商売を始めたところから屋号のように呼ばれたそば屋「和泉屋」がその発祥だという。

 蕎麦切りと呼ばれる今の蕎麦の原型をつくったのが天正12年創業のこの店で、後に江戸に移り「砂場」の系譜になったという。

 天正年間(てんしょう)といえば、九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された少年4名を中心にした使節団である「天正の少年使節」が、遥かに続く波頭を乗り越えて地球の裏側のローマへ渡った年代だ。大航海の末に教皇への謁見を果した年代(謁見したのは天正10年:1582年)として記憶する元号ではないか。

 気の遠くなるような歴史の古さだが、その後、江戸の庶民の味覚として蕎麦は盛隆をきわめて、「藪(やぶ)」「更級(さらしな)」の三大暖簾となっていき、さらに多くの分流を産む。三ノ輪のアーケード街にあるこの店は、その砂場の「総本店」なのだった。

 文化10年(西暦1813年)の文献に登場する、「糀町(今で言う麹町)七丁目砂場藤吉」の店が、麹町から移転して南千住のこの店へ移ったという。この店から分店した「本石町砂場(室町砂場)」と「琴平町砂場(虎ノ門砂場)」を産む。両方の店のほうが数倍、老舗然としているのが皮肉である。この店は「巴町砂場」から続く江戸の老舗で、東京を代表とする店だ。(光文社新書「蕎麦屋の系譜」 岩崎信也著 の労作を原本として引用)

 麹町から江戸の四宿のひとつである「千住」へ移ったのは、奥州街道(奥の細道)、日光街道(いまも東武日光線は浅草を基点としてこの地を通る)、水戸街道が通り、関東と東北地方の出入り口となっている土地だ。鉄道施行後はその位置を上野へ譲っているが、千住の地は長く旅の基点であった。砂場11代目の紋次郎が南千住(三ノ輪橋)の地へ店を移したのは大正元年のことだ。

ジョイフル三ノ輪をぶらつく 名物の手焼きせんべいを愉しむ

 さて、「三ノ輪」で蕎麦を楽しんだが、量の少なさを補うために総菜屋さんの多いアーケード街で食べ歩きした。アーケードにある「オオムラパン」で、名物のコロッケパンをパクついたのだった。


 三ノ輪から浅草(浅草寺に詣でるつもりだったが・・)へは進まずに、直接、谷中へ向かう事にした。夕暮れ前に皇居を回ろうと考えたためだ。常磐線に沿って進んで「西日暮里(にっぽり)」へ向かえば、谷中の街へ着ける。だから、アーケードを抜けて三ノ輪橋の荒川線終着駅へ向かった。この駅前には有名な手焼きのせんべい屋さんがあるので、ちょっと寄り道をして、せんべいを買って寄り道を楽しんだ。
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徳川慶喜公 霊廟 谷中霊園前の老舗 花重(はなしげ)

 「谷中(やなか)」へは何度も訪れているのだが、いずれも電車を利用していて、今回のように自力で向かった、といったことがない。三ノ輪橋からは日暮里駅を目指したが、途中で「鶯谷(うぐいすだに)」の駅前に出て「根岸(ねぎし)」の町並みを通って谷中霊園へでた。

 大好きな時代小説家の池波正太郎(いけなみ しょうたろう)の本では、根岸は風光明媚な江戸の別荘地で、大店の風雅な寮や、武家の別邸などがあった土地として紹介されている。

 また、根岸を舞台にした小説としては、敬服している北原亜以子(きたはら あいこ)さんの時代小説「慶次郎縁側日記」がある。定町廻り同心だった主人公が結婚直前の愛娘の自害という悲劇を超えて隠居し、なじみの酒問屋の大店が所有する根岸の寮番となり、そこでの多くの出会いを描いた物語だ。罪を憎んで人を憎まず、という生き方を基調にして「仏の慶次郎」と呼ばれていた主人公が、一人娘の自害の原因となった事件をきっかけとして復讐の鬼と化す。罪を犯した人を憎まずには居られない憎しみとの葛藤は、文庫化された最初の巻で乗り越えられる。そこからの物語が味わい深い。

 寮番とは別荘の管理者なのだが実態は「あご足つき」で、大店側では主人公に受けた古い恩に報いるような意味合いもあって、老後の人生を経済的に支援してくれる。要はブルジョワジーの庇護下に置かれるといった趣となるのだが、主人公はそんな境遇を卑下することがない。亡き娘の婚約者だった与力の三男を養子に迎えて(ここにも少なからず曲折があった)、同心の家を譲って自分は根岸の寮番となって八丁堀を出てしまう。

 町方の同心とはいえ、代々続いた家柄は食すに困らない。そもそも幕府の御家人は無役(「寄り合い席」といった)が多く、皆一様に生活は貧しいのだ。柴田 練三郎の時代小説「御家人 残九朗」にあるように、家柄はよくても食うに困り内職(片手技)を余儀なくされる。そんな状態が普通なのだった。

 役就きの立派な武家(町方は経験が必要な専門職なので多くは世襲)であるから、親戚や係累によって家を継がせるのが順当であったろうと思う。そんな家をあっさりと他人に譲ってしまう思い切りを見せる。その様子が実に泰然としていて、身の処し方が鮮やかだ。まさに自由闊達に、飄々と過ごす様子は憧れを伴う。そこから、主人公は豊富な経験を活かしていくつもの出会いと共に事件を解決していく。いや事件というより、迷った方向に向かいつつある人の生き方を、正すのではなく、そっと力添えする、といった趣だろうか。

 その主要な舞台が根岸の里で、愛読者にとっては馴染みが深い場所なのだ。そんな小説の中での風雅な様子は、今となってはまるで見る影もない。しかし、私などは「根岸」という地番表示を見るだけで、なんだか心ときめくものがある。
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古い歴史の御茶屋

 根岸から谷中へ向かうにはJRの線路を渡る必要がある。線路上に掛かる陸橋を自転車を担いで渡ると、橋の高さのままになって土地が現れる。そこからは切り立った大地になって地盤が変わるのだ。

 谷中の墓地の辺りは台地(高台)状で、そのために坂が多いのだ。いやむしろ根岸辺りが谷、まさに「鶯谷(うぐいすだに)」なのだ、といえようか。

 渡った陸橋の先は広い墓地になる。多くの著名人が眠る「谷中霊園」の裏手へ出るのだ。

 墓地前の老舗、「花重(はなしげ)」の前を通って、霊園の中を進む。歴史探訪としては、この墓地前には寛永寺があるし、墓地内には江戸幕府最後の将軍で「大政奉還(たいせいほうかん)」という離れ業をやってのけた「徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)」公の霊廟がある。この将軍は水戸家の出身であるため、本来は尊王思想を持っていたものだと思う。末期症状を呈し始めた終末の幕府を担う役割から妙な役回りとなってしまったわけだが、恭順して駿河に蟄居するさまなどから考えると、本来は朝廷のシンパといってもよいのではなかろうか。

 霊廟は仏式の塔ではなく、墳墓を模した形状になっている。仏式ではなく、神式といったところだろうか。死してなお、朝廷への忠誠を誓ったものか、どうか。
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江戸千代紙の「いせ辰」 いせ辰での買い物

 谷中(2006..05..06 「夕焼けだんだん)、(2008.03.15 「江戸の情緒}) での目的は、歴史探訪や街歩きを楽しむ事もあるが、実はちょっとした買い物がしたかった。

 なじみの江戸千代紙の老舗、「いせ辰」でいつものハンカチを買うためだ。バンダナと同じくらいの大きさで、江戸染物の味わいがある洒落た染めがされている。別の店でも「いせ辰」のものは扱っているが、やはり、ここのほうが種類も多いし、値段も安い。

 いつも愛用しているハンカチは、気に入っているせいか消耗が激しくて、結局半年毎位で新しく買うことになる。どこかに忘れたりもするので、いつも2枚づつ買っている。今回もいつもの柄を2枚仕入れた。江戸小紋の楽しいものだ。
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池之端あたりを行く 「鎌倉橋」

 谷中銀座の商店街や夜店通りを後にして小川だった路地を走り、「根津(ねづ)」(2008.08.30 「谷根千 散歩」)へ回って、そこから次の目的地の大手町へ向かう。

 根津の「芋甚(いもじん)」で寄り道して、名物の「最中アイス」を食べて糖分を補給する。店の前の路地で、アイスを食べながらコースを相談した。協議の末、「本郷通り」を走って御茶ノ水経由で大手町を目指すのではなく、「不忍(しのばず)通り」に沿って秋葉原の脇を抜けて神田を通るコースを行くことにした。ようは湯島・御茶ノ水の高台(駿河台)に出ずに平地を進もうというわけだ。

 上野の不忍池の横、地番では「池之端」を走る。途中で上野公園に入って池を眺め、そこからさらに南へ進んで「湯島」「神田淡路町」「内神田」とビル街を走る。

 内神田では「鎌倉橋」を渡って大手町に入るが、この橋には、第二次大戦中の米軍機による機銃掃射の弾痕が残っている。

内神田から大手町へ

メンバー撮影。  先導は私。
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将門塚(まさかど づか)

<大手町  将門の首塚(まさかど の くびづか)>

 大手町の一角に周囲と空気を隔てた異空間とも言うべき場所がある。

 武家の台頭の流れを作ったとされる武将「平 将門(たいら の まさかど)」を祭った場所だ。

 平安中期、「承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん:西暦935年から940年)」の主役、相馬氏を本貫(本拠)とする平家一門の武将相馬小次郎こと平の将門が、下野国や上野国(栃木や群馬)の国府を占領し、自らを新皇と称して関東諸国の国司を任命した。さらに武蔵、相模(埼玉、東京、神奈川)なども従えて、関東全域を手中にする。要は朝廷の支配下ではなく、関東を独立した王国としたのであった。関東を支配下において国司を中央から任命派遣していた朝廷からすれば、許しがたい反乱を起こしたという事になる。

 朝廷に反抗して関東に勢力を確立した反逆の徒として「藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)」らの追討軍を受け、残念なことに僅かに2ヶ月ほどで滅ぶ結果となる。

 平安京へ送られて都大路で晒された首が夜空に舞い上がって飛んでいって、力尽きて落下した場所が、この首塚だという。

 この地では、その際に雷鳴が轟き、すさまじい変異が起こったという。茨城の本拠まで飛べばよいものをなぜ江戸の地に落ちたのかは、謎だ。首が落下したとされるこの地には強い心霊が根付き、移転しようとすると災い(祟り)がもたらせる為、都心の一等地にもかかわらずそのままになっている。移転に関しての祟りは多くの逸話として残されている。

 確かにこの場所に詣でると、そのあたりだけが別の空間で、要は空気が周囲と異なっている。首筋から高頭部の辺りがさざめくような感じが付きまとう。

 将門はその後、江戸の地を守る守護神として崇められる。このあたりは、心霊社会の平安時代の代表的祟り神、「菅原道真(すがわら みちざね)」と似ている。彼もまた、すさまじい霊力で京の人々を恐怖に陥れたが、後に天神様としてこの上なく崇められる。将門もまた、江戸の総鎮守「神田明神」の守護神として江戸市民の信仰を集める存在となるのだった。
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皇居(日比谷付近)

<江戸城  辰巳櫓と桜田門 をみて江戸時代を思う>

 大手町から皇居へ出て、内堀沿いに進んでいく。

 すぐに日比谷公園になり、皇居側へ向かえば、江戸城の遺構である「辰巳櫓(たつみ やぐら)」が掘りに浮かぶ。

 その前の広場を歩いて進むとやがて有名な二重橋になる。橋の見物はどちらでもよかったが、大老「井伊直弼(いい なおすけ)」が雪の降る朝に討たれ、一挙に幕府崩壊(幕末、明治維新)への幕開けの舞台となった「桜田門(さくらだもん)」を潜りたくて、自転車を押して進んでいった。


 幕末という動乱の時代への興味は尽きないが、中央集権とはいえ、江戸時代の徳川2代目以降の幕府政権は言わば地方有力者=大名による合議制に近い運用がされた政府だ。 幕府は、勿論開設者である徳川家の世襲による「将軍」が頂点に立ち側近とで展開した独裁政治もあったが、根本は首脳としての大老、老中、若年寄による合議制で運用された。彼らは封建領主である「大名」という特殊な階級だが、「大名(だいみょう)」は封建的な絶対権威をもった領主で、土地の所有者であり産業資本の集約者でもあったし、領国では藩主という立場にあって自治の主体でもあった。ただ、多分に決裁権を持った名誉職であり、独裁に走れば隠居させられたし、領国運営としての主体は幕府同様に藩丁にあった。

 地方を治めた独自政府としての「藩(はん)」の実質は家老職を中心にした合議によって運営された。そして、幕府や藩で実際の運営を支えたのが、実力本位の任命制だった各種の奉行や頭取職(専門職の長官)達だ。江戸時代の300年近くの間、すでに合議による政治機構があり、それを下支えする優秀な官僚の存在があったわけだ。そして奉行の下に置かれた与力やその下位の同心など、明治の基礎を支える機構が古くから成り立っていた。

 目の覚めるような地方自治と、その連合によって運営されていた江戸時代を終焉させ、さらに封建制から市民参加の国民社会を「維新」は開いた。しかし有力国持ち大名の大藩(長州、薩摩、土佐)出身者、しかも藩主軸である上士(家老や奉行など役持ち)ではなく、多くは中士・下士(官僚を支えた実務者)を中心に構成された明治政府は自治を否定して「廃藩置県」を行い、「五箇条の御誓文」を発布して天皇を絶対的中心とした中央集権国家を作り上げた。広く議会制という機構を取らなかったら、あの熱狂的な政治変動は何だったのか、と思わざるを得ない。
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江戸城 辰巳櫓(たつみやぐら) 桜田門へ

 二重橋の前の広い砂利敷きの広場は見物客で賑やかで、私たちはその脇を歩いていたが、寄ってきた警官に「自転車を持ち込む事は出来ず、それは注意書きされていたはずだ」と厳重な注意を受けた。不意をうたれて、最初、何を言っているか判らなかったが、自転車を押して歩くことも出来ないものらしい。

 私たちは確かに掲示板を読み、「自転車不可」の表示を自転車による走行は駄目、と解釈したのだった。まさか押して歩く事も駄目だとは思わなかった。掲示されていた字が読めないのか、といった勢いの警察官の高圧的な物言いに腹が立ったが、仕方がない。なにせ、ここは象徴とはいえ天皇おわします宮殿の入り口なのだった。


 「桜田門」のある場所は、先ほど警官に自転車は禁止といわれた広場の直ぐ横で、砂利の変わりにこちらはアスファルトで舗装されている。その間には何があるわけではなく、本当に直ぐ真横なのだが、こちらは走行さえもがOKだ。

 このため、私達は自転車に乗って桜田門を潜り抜け、「千鳥ヶ淵(ちどりがふち)」へと向かった。

 皇居は天下普請の江戸城なので、巨大な堀がある。その内堀に沿って片側数車線の幹線道が走り、堀の横に歩道がある。この歩道が、ランナー達の聖地、なのだった。皇居周回といえば、かの市民ランナー出身のアスリート「谷川真理(たにがわ まり)」さんが有名だ。年配となっても走り続けるスレンダーな彼女は素敵だが、カンボジアの地雷除去の支援を訴えた大会の主宰など、敬服する活動が最近は目立つ。

桜田門 皇居、内堀
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<江戸城の搦め手門  半蔵門(はんぞうもん)>

 「桜田門」から永田町の国会議事堂を横手に見ながら坂を上っていくと、そこは「半蔵門(はんぞうもん)」で、堀の横に細い公園がある。そこでちょっと休憩だ。この門は戦災〔第二次大戦)で消失し、現在の門は和田倉(わだくら)門の高麗門を移築したものだという。

 「半蔵門」は、伊賀忍者として名高い「服部半蔵(はっとり はんぞう)」の名前を採っている。信長の招きを受けて堺(随一の貿易都市)を遊行中だった徳川家康が本能寺の変から逃れて、かろうじて江戸へ向かうのだが、その際に明智光秀からの追捕を逃れて伊賀の山中を抜ける。その先導が伊賀の地の土豪であった服部一門を中心にした伊賀や甲賀の地侍達だった。その際に従った侍達は後に召抱えられて伊賀組・甲賀組の同心となって徳川家に仕える事になる。

 半蔵は伊賀忍者の総帥のように思われ勝ちだが、父の代からの三河衆で、姉川の合戦や高天神城での戦い、三方が原での戦いなどで武功を揚げ、奉行衆として鬼半蔵と呼ばれたれっきとした旗本だ。「伊賀の加太(かぶと)越え」での勲功や小田原の陣での従軍などによって、遠州に8000石を領した。あと2000石加算されれば大名という事になる。大久保一門と並ぶ幕府旗本としての最高位といえよう。

 家康の江戸入府に従ってしたがって江戸の地へ移り、麹町御門に屋敷を拝領する。

 「服部正成(はっとり まさなり)」は伊賀組の棟梁で通称を「半蔵」といったが、江戸の服部家の当主は代々この名を名乗りとしていた。その彼らが組屋敷を構えた場所の門なので、次第に「麹町門」ではなく半蔵門の名が今に残ったわけだ。

 正成は半蔵の名が持つイメージに反しているが、忍者では無かった。三河宇土城での夜戦では忍者を従えて活躍したらしいが、槍の名手とうたわれた歴戦の勇者で十六門といわれた武将の一人だ。「槍の半蔵」といわれた武者であり、忍者だったわけではない。

 配下には与力30騎が付属する物頭で、与力以下に同心200名を従えた部隊としての様相を持っていた。お先手槍組などの先鋒部隊よりも規模が大きい。服部家が拝領した屋敷や彼らの組屋敷で固められた半蔵門は、大手門の反対にあり、直接、甲州街道に続いている。江戸での危急時に将軍及び一門を親藩譜代の地(後に直轄領)である甲州へ逃がすための役割を担っていたという。
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半蔵門、イギリス大使館前 イギリス大使館前

皇居の半蔵濠横の紅葉。

 「半蔵門(はんぞうもん)」の先にはイギリス大使館があり、ここは桜の並木が美しい。

 大使館の前の半蔵濠の脇に大きなモミジの紅葉が残っていた。そこから千鳥ヶ淵に沿って道を登ると、「旧近衛師団司令部(本部庁舎)」の古い建物が現れる。

旧近衛師団本部
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<近衛師団>

 「近衛師団(このえ しだん)」は「皇宮警察」とは別なのだが、旧陸軍の特別な軍団だ。

 国の中枢機能を守護する役割を担っていた。だから天皇や皇族、皇居の守衛も当然担っている。

 古くは薩摩藩兵を中心とした長州、土佐の各藩兵を主軸とする政府直属の「御親兵(ごしんぺい)」がその前進だ。明治政府による国民軍の創設により徴兵制がとられたが、地方出身者を徴兵(民兵)により集めた他の師団とは異なって、全国からの選抜兵(藩士や郷士なので旧武士階級:職業軍人)で充当されていて、当時は近衛に選抜される事が非常な名誉とされた。

 通常の国軍とは兵装が異なって、その軍帽には赤い帯が巻かれていたという。

 作家、司馬遼太郎(しば りょうたろう)の随筆「この国のかたち」によると、明治の元勲の西郷隆盛(さいごう たかもり)の下野の際には、多くの薩摩藩兵出身者が明治新政府の態度に憤慨し、部隊を放棄し、その際に皇居の堀に投げ込んだ彼らの軍帽により、一面が紅く染まったという。その多くは西郷を追って熊本に降り、「田原坂(たばるざか)の激戦」で自分のいた近衛師団兵と戦った。

 長州藩出身の元勲、「山県有朋(やまがた ありとも)」によって近衛兵は近衛師団として陸軍大臣の直轄下に置かれ、西郷はそれを引き継いで元帥となっていた。平時には首都・皇居の守護が主要な任務だが、日清・日露、日中戦争、第二次大戦などの戦時では各地の戦線に投入され激戦を展開した。

 師団本部の向こう側は手漕ぎのボートが浮かぶ千鳥ヶ淵だが、その堀に沿った桜並木の遊歩道を挟んだ向こう側は、戦没者を追悼する「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」がある。靖国神社とは違った意味で戦没者を追悼している国民的な慰霊施設だ。平日などはバスによる参拝者が多く訪れている。

近衛師団司令部 跡
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 私は、今年の夏、一ヶ月ほど仕事で「半蔵門」界隈に詰めていたが、そのときの昼休みにスケッチしたのが、この絵だ。

 イギリス大使館の桜並木を強い日差しを避けながらいつも散歩していたのだが、ある時、ふと「千鳥ヶ淵(ちどりがふち)」に沿って土の土手(城壁の石垣の上)を歩いてみた。しばらく行くと、忽然とレンガ色の瀟洒な建物が現れたのだ。見るとそれは工芸博物館で、敷地に入ると「旧近衛師団の司令部」とプレートが出ていた。

 翌日、思わずスケッチブックを持ってきて、昼休みを二日かかって描いた。昼の弁当を買って城壁の土手で食べ、スケッチをした。食事と歩く時間で昼休みの半分は失なわれてしまう。一日では彩色できなかったので、翌日、色を塗った。

 また、その翌日には、イギリス大使館の向かい側にある半蔵門をスケッチした。

 先ほど、二重橋前での話を書いたが、ここでも門前の広場の外、ゲート脇でスケッチをしていると、いつのまにか守護していた警察官が歩み寄ってきていて、さりげない不審尋問をはじめた。その人はそつなく、「絵を描いているんですね、きょうはお仕事でおいでですか?」と尋ねて来て、「絵を拝見してもいいでしょうか」と描いている絵を確認してきた。

 半蔵門は、通常、天皇家や皇族の日常的な皇居への出入りをしている特別な門で、警備の厳重なのは仕方が無い。不審尋問されたのだと後で気が付き、改めて調べてみてこの門の性質が判ってみると、なるほど、そういうわけかと納得したのだった。

半蔵門
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北の丸、武道館 田安門

 師団司令部の裏からは、「北の丸公園」が続いている。そのまま公園へ自転車を乗り入れることが出来る。

 北の丸公園の土手から掘外へ抜けようと思ったが、堀のために九段側へ渡れない。そのため、公園内を走って、武道館の入り口から「北の丸」を抜けることにした。日本武道館の前はたいそう賑やかで、誰かのコンサートが開かれるようだった。

 妙に派手なお兄さんたちが多いなと思った。白いスーツをビシっと決めた、どこららやって来たのだろうと心配になるいでたちのひとが幾人かいる。別に同一のグループではないがそんな集団が行く組も闊歩しているので、不振に思っていたら、「矢沢永吉」さんのコンサートだった。私の世代にとってはYAZAWAはロック界を代表するスターだったが、まだまだ、すごい人気なのだ・・・。
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靖国神社

 武道館の人ごみを逃れて、「田安(たやす)門」から皇居を出る。

 出た先は「九段の坂」上で、すぐ道の向こう側はなにかと問題の多い「靖国神社(やすくに じんじゃ)」だ。時の宮司により抜き打ちで合祀されたA級戦犯の人達の問題が一向に片付かず、いまだにわだかまりを残している施設だ。(A級戦犯として裁かれたから、「悪者」という短絡的なことを行っているのではないので、誤解のなきように願う。)


<靖国神社>

 どこの国にも、戦没者の慰霊は当然の事として行っている。「靖国神社」は明治以降、戦争・内戦において政府・朝廷側で戦歿した軍人らを祀る特別な神社で、明治維新で亡くなった軍人を祭るシンボルとして明治天皇によって建立された。別に古い歴史があるわけではなく、政府に尽くせば死してなお神としてその功績を称えられるという、当初より多分に<政治>を意識した機関だった。

 明治以降の国事・国難 ─戊辰の役、佐賀の乱、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変(日中戦争)、第二次世界大戦─ での戦死者・殉職者、246万6000余名、靖国では彼らは神なので「柱」というが、それらの多くの人々が祭られている。

 確かに、国難に際して活躍し犠牲となった人達の鎮魂をうたっているが、国際審判で判定されたA級戦犯を祭ったことで問題は複雑化してしまった。第二次大戦で侵略された側からすれば、なぜその侵略指導者を崇めるのか、という事になるからだ。

 こうなると、もう言い訳が立たない。戦犯は国際法上で「裁判」として争い、複数の判事の判決により決した犯罪者というのが法学上の解釈で、ここでの判決は曲げる余地が無い権威を持っている。当然、戦勝者による裁判だから公平であるはずが無いのだが、裁判である以上、負けた側は従わねばならないのが「法治」ということだ。

 納得がいかない部分が残るのは当然だが、であれば、国のとる正攻法は国際社会に対する戦犯者の名誉回復の運動なり、新たな裁判なりを起こして「戦争行為の是非」を問い直すべき、なのだ。

 それをせずに、いつの間にやら「神」として称えはじめ、「神となった以上は分祀など出来るはずもない」などという愚にも付かない宗教談義に結論を下せない。そればかりか、そうした事態を認識した上で、政府の最高権力者(国軍の最高指揮者)が率先して慰霊に詣でる。

 「自衛隊は防衛組織で軍隊では無い、だから我々は軍事力を保持していない」としていまだに詭弁を労し続けているが、先制攻撃用の兵器を持たないだけで、なお強大な軍事力を保持している専門職業集団が自衛隊だ。どんなに贔屓目に考えても、圧倒的な装備をもって日夜訓練され組織された「軍隊」そのものだ。国際的な見地からすれば、あるいは常識的にはと言ってもよい、国が保持・維持・強化している軍事力が自衛隊という組織なのだ。
 私は、「自衛隊」の存在を否定はしない。軍事的な侵略行為という過去を精算した上で、一刻も早く歪んだ状況を排除し、組織としての正統的な必要性を、国民共通の認識とすべきだろう。

 
 侵略を受けて凄惨な被害を蒙ったアジアの諸国からすれば、靖国への公人の参拝は別の意味を持つ。靖国への参拝が問題なのではなく、戦犯に対する参拝行為が問題なのだ。当事者側からの議論の余地があろうが何であろうが、国際的に承認された裁判による結論として断罪された犯罪者が存在している事実がある。その戦争犯罪人としての首謀者・指導者への崇拝行為は目に余るものだろう。「侵略を正当化し、過去の過ちを省みない」とつけ込まれても仕方があるまい。侵略という過ちを犯したのは統帥権を振りかざして独走した陸軍参謀本部の仕業だが、現代の政府首脳までもが彼らと同じ位置に自らを貶める必要は、何もあるまいと思うのだ。
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水道橋、後楽園 飯田橋の「健保」の施設で食事を楽しんで、帰路に着くことにした。

飯田橋から水道橋の「後楽園」へ出た。



後楽園遊園地の大きな遊具が夜空に浮かぶ。

江戸情緒の溢れる町並みも多く楽しめるが、
市街地の中心に遊園地があったりもする。
浅草や後楽園などの繁華街などが好例だろう。

これもまた、東京の一面といえようか。

 靖国神社から坂を登れば、飯田橋の手前の富士見(ここも台地状)になる。この場所には、「健保」のアスレチック施設があり、レストランが併設されていて美味しい食事が楽しめる。

 そこで飲んで食べてして、満足感一杯で帰路につくことにした。

 当初、<輪行>の準備もしたが、折角なので行ける所まで自走してみる事にした。飯田橋から水道橋へ出て、そこから「白山(はくさん)通り:」を行く。そうすれば文京区の千石を抜けて巣鴨に入り、そのまま板橋まで快適に走れる。

 夜の道は車のライトで車道への車の出入りがわかるので、こちらにとっては都合がよい。逆に自分の存在をドライバーへ認識させなければ危険なので、ライトは多めに利用する。

 ハンドル上の白色点滅ポジション灯、後輪シートステー上の赤色点滅ポジション灯(私の場合はストップランプとしてブレーキと連動)、それからメインの強力ビームライトだ。ペダル部には反射プレートが付いているが、足首と腕にも反射ベルトを巻く。これだけの用心をしてもなお認識されなければ、それは運が悪いのだといえよう。もちろん、信号での停車はどんな場合でも停止線の最前部へ行って停まって、左折車からの巻き込みを防ぐし、歩道ではなく左側の車道を走って、自衛するのは当然だ。

 巣鴨の「地蔵どおり」を抜けて板橋へ出た。すると、もう「中仙道(なかせんどう)」で、このコース取りなら「さいたま新都心」へもさほど遠くなくたどり着くことが出来る。

 飯田橋から途中、休憩を入れて、なお2時間を切る速さで帰宅することが出来た。
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<< 本日の旨い物 >>

さて、今回の「旨い物」を紹介しよう。


<旨い物1; 三ノ輪 「砂場(すなば) 総本店」の もり蕎麦>

 初めに見たときは、失礼ながら「総本店」というのは何かの間違いではないか、と思った。建屋の様子は、少年の頃、家の直ぐ裏にあったそば屋の「立花屋(たちばなや)」とまるで同じような造りなのだ。ようは、どこにでもあるありふれた「町のそば屋さん」そのものの姿なのだ。

 「大もり」をお願いしたが、手繰るのが難しいほど長く誂えられた、更科風の柔らかいのど越しの蕎麦だった。私はもう少し固めのほうが好みなのだが、つゆが昔風で、それに良くあって美味しかった。量が少ないのは江戸前の老舗の蕎麦として仕方がない。そもそもが伝統的に蕎麦は趣味食で、主食として腹一杯に食べるものではなかった来意。今の私達からすると随分少量であったが、味は無論、文句無い状態だ。

 今までは表の様子がどうもしっくりこなかったため、実は今回初めて中に入ったことになる。私ごときが意見を言えた素性ではないのだが、ただひとつ日とる難点を言えば、店内が雑然としている事についてだろう。神田の藪のような老舗独特のすっきりした感じが少しもない。ごちゃごちゃと余分なものが置かれているので、馴染むのに時間が掛かる。店の従業員もまったくのバイトの兄ちゃん風(普段着のままだった)だ。接客態度などは丁寧なのだから、そういった辺りに気を回してもう少し全体の雰囲気を考えるとか何とかすれば、印象も大分変わるのだが・・・。

「砂場」のもり蕎麦 「砂場」のもり蕎麦
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オオムラのコロッケパン お気に入りの総菜屋の焼鳥(とりふじ)

<旨い物2; 三ノ輪 「オオムラパン」の コロッケパン>

 「オオムラパン」では焼きそばパンやコロッケパンが有名なのだが、私は「ハムかつパン」のファンだ。丁度一個残っていたのをタッチの差で先客に変われてしまい、残念ながらコロッケパンとなってしまった。小学校の給食のパンはコッペパンで、「アジアパン」という名前のパン屋さんが届けていた。当時は昔だったので、「アジャーパ(ン)(最後のンはほとんど発音しない)」などと呼び交わしてはじゃいだが、ようは、あのコッペパンを数倍美味しくした状態と思って頂けば良いだろう。


<旨い物3; 三ノ輪 「とりふじ」の 焼き鳥>

 アーケード街にはいくつかの総菜屋さんがあるが、この店は魚介類から焼き鳥と種類が豊富。特に「牡蠣串」が名物なのだが、もちろん、各種の焼き鳥も美味しい。はじめから「塩」というところが通っぽくてよい。アーケードを訪れると、必ず食べてしまう。
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谷中 肉のサトーのコロッケ こちらは、もうすっかりおなじみの「谷中メンチ」。

私はメンチが油がきついので、コロッケを食べる。

店のおばさんが熱心に「食べて美味しいのはメンチ」
と、まくし立てる。


先ほどから「コロッケを下さい」と言っているのに・・・。


写真はメンバー撮影。

<旨い物4; 谷中 「肉のサトー」のコロッケ>

 これは好みにも由るので、なんとも言えないが、私が好きなのはコロッケの方だ。メンチは少し油がきつい。店では熱心にメンチを勧めるので仲間はその勢いに押されて、メンチを食べた。案の定、油が残って大変な様子だった。


<旨い物5; 根津 「芋甚(いもじん)」の最中アイス>

 アイスを「最中(もなか)」に入れるという事を考えたのがこの店。今はチョコがバニラを包んだ大きな最中アイスがスーパーやコンビにで売っている。あのスタイル発祥の地がこの店だ。その発想の素晴らしさに敬意をこめて、アイスを頂く。申し訳ないが、写真を撮るのも忘れて食べてしまった。(以前の谷中散歩のページでの写真を参照願いたい)
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健保の中華

<旨い物6; 健保の食事>

 小さな旅の空の下、で紹介している我が家の旅ではいつもお世話になっている健保組合の保養所(2009.09.27 「箱根 秋を楽しむ」)なのだが、施設は別に都内にもあって、ここ飯田橋ではトレーニングジムと温水プール、それからレストランが設けられている。ジムやプールは利用料(一回500円)を払えば時間制限は無く利用が出来る。そこにはセントラルスポーツのインストラクター達が常駐していて各種のレッスンが行われ、フリー・エントリーで自由に参加が出来る。30分単位に様々なメニューがあるのだが、これらはすべて無料になっている。

 そこに併設されたレストランは中華のコース料理が楽しめる個室が幾つか用意されているが、それらは予約が必要だ。その他にラウンジでの飛び込みの食事も出来る。予約が出来ないので、満席の場合は並んで待つことになる。ラウンジでの食事はコースではなく、任意に注文する形式になっている。メニューを広げると料理の種類は多彩で、前菜、点心、サラダ、から始まって、主菜(炒め物、煮物、麺類、ご飯ものなど)、スープ、デザートなど、ひと通り注文すると実に美味しい中華料理のフルコースが楽しめる。料理は大皿で運ばれるが、少な目のニ人前といった程の分量だろうか。勿論、ソフトドリンクや生ビールやお酒も注文できる。

 ホテル並みのサービス、味わいでいて、値段は信じられないようなもの。私のようなお金の少ない組合員にとっては実に有難い場所だ。

 最初、食べるのに夢中になってしまって写真を撮るのを忘れてしまい画像が無いが、およそ料理だけで10品ほどを色々と頼んだろうか。さらに飲み物を幾杯か・・・。

 満足するまで食べて飲んで、それでも会計は僅かに一人1500円ほどだった。
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