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2013.07.09
「中仙道の要衝 倉賀野(くらがの)」 を訪ねる

アクセス;
 JR高崎線 倉賀野駅より倉賀野へ


ポタリングのコース;
 西善(にしぜん;前橋市南部)より354号線にて玉村(たまむら)、倉賀野(くらがの)
  :走行距離(往復)  36km
  :走行時間      約2時間


カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm−72mmF2.4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

関連ページ;

 のんびり 行こうよ: 「2013.07.09: 「日光例弊使街道、玉村宿を訪ねる」

 のんびり 行こうよ: 「2013.06.09: 「山名郷、八幡社を訪ねる 小幡復路編(高崎)」


 先日、甘楽(かんら)にある古い城下町の「小幡(おばた)」(散歩 のんびり 行こうよ: 2013.06.09:「甘楽の城下町 小幡(おばた)を散策する」)で街歩きを楽しんだ。

 その往路で、「玉村(たまむら)」と「倉賀野(くらがの)」を通り過ぎた。

 玉村は「日光例弊使街道(にっこうれいへいしかいどう)」の2番目の宿場町であり、倉賀野はその第一番目の宿場町だ。そして倉賀野は「中仙道(なかせんどう)」の街道筋にあって、日本橋から第12番目の宿場町でもあった。なお、「玉村」は中仙道の宿場ではないが、すぐ横にある「新町(しんまち)」が中仙道の正式な宿場町として新たに作られた町であった。

 先日は、長い行程の走り初めという事もあり、軽快に走る余りにどちらの街も素通りしてしまった。玉村は勿論、そのまま中仙道にあって繁栄著しい宿駅であった倉賀野の街も、そのまま通り過ぎてしまったのだった。


 そこで今回は、その通り過ぎた玉村と倉賀野の二つの宿場町を、改めて訪ねてみることにした。

福島橋(前橋側から玉村方面を見る) 福島橋(ふくじまばし)

前橋の最南端。
ここが「玉村(たまむら)」との境界になる。


玉村を過ぎて、
日光例弊使街道をそのまま西へと進んでいく。


岩鼻を過ぎれば、
やがて「倉賀野宿」に出る。
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倉賀野宿の下町に残る追分

中仙道、倉賀野宿の下町(しもまち)に残る追分。

「閻魔堂(えんまどう)」があり、
街道の分岐を示す道標、それに常夜灯が設えられている。
常夜灯

 中仙道の脇街道である「江戸道(児玉街道)」と倉賀野の宿場下手にある「追分」(以前「分去りの辻」と書いてしまったが、それは間違いであった)で道筋が分かれる。

 京都から向かい来た場合、倉賀野の宿場内では中仙道と江戸道は互いに重なっている。しかし、その道筋から分岐して川岸の岩鼻方面へ向かい、さらに玉村へと続く道筋は中仙道から離れていく。その後の上野国内では五料・柴・境・木崎・太田へと連なって下野国に入り、それから先は八木・梁田などの足利内の宿場を経て鹿沼へと北上していくのが、日光例弊使街道だ。

例弊使街道と中仙道との「追分」には古い閻魔堂があって、この地点が街道の分岐点である事を示す常夜灯が置かれている。

 中仙道を京都から進んできた旅人が、ここで、目的地に応じて道を転ずるのであった。道標が灯篭のまえにあり、「これより 右 江戸道、左 日光道」と記されている。これらの街道は現在の国道でいうと、「254号」線が江戸道であり、「354号」線が日光道という具合になる。

 しかしここで分岐する江戸道は、完全に「中仙道」とは一致していく訳ではない。街道は新町辺りで俄かにずれていくからだ。

 ちなみに中仙道は国道「17号」線である。今設定されている254号線は17号線の一段南に続き、県内域ではほぼそれに平行している。

道標 倉賀野宿 下町の町屋の様子

倉賀野の宿場は上・仲・下の町からなる。

これは下町(しもまち)に残る町屋の様子。
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倉賀野宿 下町の町屋の様子 倉賀野宿 下町の町屋の様子

<倉賀野(くらがの)のまち>

 「倉賀野」は江戸時代の列島における大動脈といえる「中仙道(なかせんどう)」の宿場町、江戸の基点、日本橋からは第12番目の宿駅になる。また、先の玉村宿がある「日光例弊使街道」の起点でもあった。

 中仙道を挟んで、多くの旅籠や宿屋などの町屋が連なる大きな宿場だった。

 町を貫く街道に沿って上町、仲町、それに下町と街並みが続く。その呼称と町の位置関係は、倉賀野が古い昔に作られた宿場町だから、ということによる。方位の中心軸は江戸ではなく、あくまでも「京都」ということなのだ。だから、この宿場の「上」の呼称は京都側を指し、「下」は江戸側を表している。

 私が住む与野(よの;現 さいたま市中央区)も古くから栄えた中仙道の大きな宿場町だったので、街道筋の脇を固める街並みは倉賀野と同じ並びの呼称になっている。

倉賀野宿 仲町の町屋の様子

倉賀野宿の仲町(なかまち)辺りの様子。
倉賀野宿 仲町の町屋の様子
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倉賀野宿 倉賀野宿の様子が判る案内図。

<倉賀野(くらがの)のまち  古墳時代から平安期まで>

 江戸時代には宿場町として栄えたわけだが、倉賀野の歴史はひどく古く、古墳時代にまで遡る事ができる。倉賀野古墳群と呼ばれる古墳が数基、この地に残っている。

 浅間山(せんげんやま)古墳や大山古墳 、大鶴巻古墳、小鶴巻古墳、安楽寺古墳などがそれである。

 浅間山古墳は全長173mで、県内第二位の規模を誇る墳墓だ。ちなみに第一位は、実家からも程近い広瀬にある「二子山古墳」である。

 1935年(昭和10年)の県下一斉調査によると、倉賀野町には総計で207基の古墳が確認されたと言う。大古墳群が建ち並んだ地帯だったのだ。


 朝廷の東征によって五畿七道が整備され、その東山道の大国として上毛国(かみつけのくに)が設定されて13郡が置かれる。

 西部域の碓氷(うすい)、片岡(かたおか)、甘楽(かんら)、南部の緑野(みどの)、那波(なは)、中央域の群馬(くるま)、北部域の吾妻(あがつま)、利根(とね)、東部域の勢多(せた)、佐位(さい)、新田(にふた)、山田(やまだ)、邑楽(おはらき)の郡である。

 東征(朝廷による統治範囲の拡張;同化・征服・開拓)の歴史は西から始まって、甘楽や群馬(くるま)などの郡が順次出来て郡衙(ぐんが;中央が地方を統べるための官庁)が設置された。さらに戦略的な多胡郡が設置されて次第に東へと勢力を広げていって、大国である「上毛国」として大和政権に順化していく訳だ。そして上毛国は陸奥や奥羽など東北諸域への、朝廷による東征の一大拠点として発展していく。
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浅間山古墳 古墳時代の太古からこの地が発展していた様子が伺える。

この古墳は「浅間山古墳」で、
上町(かみまち)の南側、烏川の手前にある。

古墳の墳丘全長は173m、
県内2位の規模のものだ。

 東征以前の人民の流入経路は判然としないが、もともと上毛国は新羅系の豪族が支配し、高度の文化を築いて発展した土地柄だった。

 大和化以前には、この地に勢力を張った強大な複数の豪族が居て、その勢力の証として巨大古墳を南部域を中心とした一帯に数多く残していた。

 たとえば、前橋南部域の広瀬川流域、川筋にほぼ平行するように連なる県下最大級の古墳群があった。天川・朝倉・山王などの154基に及ぶ大古墳群(現存は10数基)だ。そして前橋東方の赤堀(あかぼり)や大室(おおむろ)周辺にも、同じように建ち並んだ大規模な古墳群があり、今もその姿が残っている。

 そしてここ倉賀野の古墳群など、朝廷の勢力が及ぶ遥か以前より高崎や前橋の南部域などでは、絶大な勢力を誇る大首長がかつて存在していたのだった。

 だから後世、そこに暮らす多くの民は統制が取り易く、朝廷としては比較的に統治し易かった土地であったに違いない。土着の有力豪族を特定の地位につけて、その影響力を利用して間接的に統治したのではないか、と考えている。そのようにして既存からの強大な勢力をうまい具合に取り込んで統治範囲を拡げていったに違いない。もし大和朝廷がそうしなかったならば、歴史に見るような短時間の時間軸で、そう簡単には統治地域を文化的にも先進地域であった東国へと広げる事が出来なかったに違いないからだ。
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倉賀野神社

倉賀野周辺の七か村の総鎮守。
倉賀野神社 稲荷社

「倉賀野神社(くらがのじんじゃ)」は
元の名を「飯玉神社(いいだまじんじゃ)」と呼ばれた古社である。

祭神は「大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)」。
大国主命(おおくにぬし の みこと)であった。

 その後、平安期になると、この地には「宮原荘(みやはら の しょう)」と呼ばれた荘園が成立する。

 今の倉賀野には、周辺7箇村の総鎮守「倉賀野神社」が中仙道の南、上町と仲町の間あたりにある。1853年(江戸時代)に建立された本殿や豪奢な彫刻が美しい拝殿があって、拝殿の大屋根が素晴らしい威容を誇っている。

 医薬と縁結びの神として地元の深い信仰を集めている、ということだ。


 この神社は、江戸時代までは「飯玉神社(いいだま じんじゃ)」と呼ばれており、社伝として「飯玉縁起」が残されている。

 807年(大同2年 ;平安時代初期)に神社が創建された由来を巻物に書き記したもので、神社の宝物として保管されている。拝殿には大きな額に「飯玉神社」と書かれたものが、「倉賀野神社」の社号と供に掛かっている。
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倉賀野神社 稲荷社 倉賀野神社 稲荷社

いかにも霊験あらたかなお稲荷さまが鎮座する。

稲荷社を守る狐も、どことなく威厳に満ちて睨んでいるようだ。

 社伝として伝わっている公式の文書として「飯玉縁起」があるのだが、これは龍神の説話であり、少し興味をそそられた。

 境内に足を踏み入れてつぶさに観察すると、本殿や拝殿の建築が素晴らしい。特に本殿の屋根下の木組みが素晴らしいし、また、言うまでもなく拝殿上部の彫刻にも目が吸い寄せられる。

 宿場が陸運はもとより、盛んだった水運でも繁栄していたからこそ、こうした華麗で重厚な彫刻を施した拝殿が建立できたに違いない。その富の蓄積は、農本主義の江戸期にあっては周辺を圧していたと思われ、凄まじい財力を誇った事だろう。

 幕末期に後世に残るような豪商がこのあたりから出現してこないのが、むしろ不思議なくらいだ。やはり、浅間の天明期の大噴火による水運の衰退がその要因となっているものなのだろうか。

 総鎮守として祀られているが、裏手には合祀された多くの神社のお宮様が並んでいる。

 「なるほど、ここは宿場町に違いない」とさずがに納得したのは、「稲荷社」だけが別建てとなって残っていることだった。他の神々はアパートのように押し込められてひとつの棟割長屋のような建屋へ収められていて、神輿蔵のほうがむしろ立派なほどなのだ。みな、そうした窮屈な思いをしいるのに、稲荷社だけは清々しく独立している。
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倉賀野神社 神輿 倉賀野神社 本殿

本殿の建立は比較的に新しい。

神社の縁起は極めて古く日本書紀の時代に遡るのだが、
本殿は1853年(嘉永6年)の再建ということである。

<城下町としての倉賀野  鎌倉時代(源氏政権期から南北朝まで)>

 中世,鎌倉街道の上道 ― 碓氷、八幡、倉賀野、児玉、菅谷、府中、村岡、鎌倉 ― の要衝のひとつだった倉賀野の地は、その宿場としての原型が出来上がったという。

 後の江戸五街道のひとつ、「中仙道(なかせんどう)」での宿場の設置は、だから鎌倉期にはすでにその準備が整っていた事になる。

 1177年からの平安時代末期の治承年間に、武蔵児玉党の支流である「秩父高俊(ちちぶ たかとし)」が倉賀野の地に館を構え、倉賀野氏を称したのが一族の始まりだ。

 1190年(建久元年)に「源頼朝(みなもと よりとも)」が上洛したとき、「倉賀野三郎(くらがの さぶろう)」が随行したという。鎌倉幕府の成立は、1192年ではなく、近年は1185年に置かれているので、直ぐ南の山名郷を拠点とした新田支族の「山名(やまな)」氏と同様に幕府成立期の頼朝の勢力を支えて、幕府樹立時の初期から御家人として認証された武将のうちの一人であった訳だ。

 「武蔵児玉党(むさしこだまとう)」の流れを汲む一族の一人だった三郎は1196年(建久6年)にも頼朝の上洛を護衛している。早い段階で認定された御家人であるから、後の鎌倉時代を通じて幕府内では重きを置いた事だろう。

 だから倉賀野氏の一族は、倉賀野の地を統治した由緒ある領主であった。土地に密接に関わっていた氏族であるだけでなく、鎌倉幕府から任命された正式な領主身分を持った正統な武士というわけだ。この地の「地頭」職を長く務めた坂東武者の一族という事になる。

倉賀野神社 拝殿

拝殿の柱や、軒下の彫刻が素晴らしい。
特に正面だけの彫刻ではなく、こうして四囲を華麗な彫刻で満たしているところが珍しい。
江戸中期の
実に壮大な町人文化、
庶民の高い芸術性の在り方を見る思いがする。
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倉賀野神社 拝殿 拝殿の大きな額

「飯玉神社」と「倉賀野神社」の
ふたつの社号が供に掛かっている。

 頼朝の上洛に度々に渡って供奉しているところを見ると、武芸に秀でた側近に近い優れた武者だった事が伺える。

 三郎の実名は不詳なのだが、系図に「倉賀野三郎」の注があるのは「秩父高俊(ちちぶ たかとし)」であるので、鎌倉御家人としてこの地の名を苗字として土着して、その後長きに渡って領主として君臨した一族の家祖は「倉賀野高俊(くらがの たかとし)」であったに違いない。

 その後、倉賀野氏の一族が歴代に渡ってここで統治を行い、大きな勢力を保ち続けたのだった。

 鎌倉幕府が「新田義貞(にった よしさだ)」により倒幕されて滅亡し、南北朝時代になると、「倉賀野光行(くらがの みつゆき)」が館を改修して東西800m南北400mを城域とした倉賀野城を築き、以後、倉賀野氏は同城を本拠として室町時代を生き抜いていく。

<神田>

五穀豊穣、疫病退散を願って奉納が行われる。
宮司はもとより氏子総代の旦那衆も威儀を正して紋付袴の正装で儀式に臨むはずだ。

この境内の神田においても、奉納の意味を込めて「田楽舞い」をしつつ植える田植え儀式があるのだろうか。



田植えが済んで伸びつつある稲の様子から察すると、神事としての田植えが大切な儀式として執り行われているのだろう。
神田
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拝殿の様子

拝殿に施された彫刻の素晴らしさは、先に書いたとおりだ。

この拝殿を覆う大屋根の様子も実に素晴らしい。

唐破風が大袈裟ではなくて、質実剛健さに溢れている。
重厚そのものであり、実にイイ感じだと思うが、どうだろう。
参道

<城下町としての倉賀野  南北朝から室町末期(戦国期)まで>

 室町末期の戦国時代、城主「倉賀野行政(くらがの ゆきまさ)」が、関東管領であった「上杉憲政(うえすぎ のりまさ)」に仕える。

 1546年(天文15年)の川越夜戦で行政は討ち死にしてしまう。そうした劣勢もあって遂に上杉憲政は関東を支えきれず、ご存知のとおり越後の「長尾景虎(ながお かげとら;後の上杉謙信)」を頼って関東を落ち延び、室町幕府から長きに渡って一族に信任されていた管領職と自らの氏(うじ;苗字)を長尾氏へ譲るのだった。

 その後、倉賀野城は「倉賀野尚行(なおゆき)」が城主となり、越後長尾(上杉)氏の配下となって、信濃からの侵略を繰り返す武田家の攻撃をかわし、小田原を拠点として関東を席捲しさらに北関東への侵攻を始める北条家の攻略を防いで奮闘する。しかしやがては劣勢となって、1565年(永禄8年)に落城して武田方の属城となってしまう。これにより尚行は城を放棄して越後へと逃れていく。

 ここで、倉賀野氏の宗家は滅亡はしないものの本貫地を離れて、その後を送ることになる。越後への転出以降は武将としての資質から重宝がられて幾つかの主家を持つ身となって、一族は存続していく事になる。
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手水 鳥居を潜って稲荷社のほうからお参りしてしまったので、いわゆる「逆打ち」の状態になってしまった。

結局、最後に手水になってしまったので、そのまま参道を行って先ほどとは別の鳥居を潜って外に出た。


改めて、正面の鳥居を潜って、手水で手と口をすすいで、拝殿へ向かった。

手間が多くなってしまったが、やはり正面から対する方が気持が引き締まるようだ。

 1570年(元亀元年)、武田氏に従っていた「金井秀景(かない ひでかげ)」が城主となり、以降は姓を改めて「倉賀野秀景(くらがの ひでかげ)」と名乗って、倉賀野城を主軸に据えてこの地の統治を行う。

 金井氏であった頃に、西上野(にしこうずけ;古代にあっては上毛―かみつけ―と呼ばれた国であったが、中世以降は上野―こうずけ―と呼称が変わる)の大勢力、「長野業政(ながの なりまさ)」の娘を妻として、縁戚関係を結んで武田方の攻略を防衛していた国人領主の一人であった訳だが、長野家の滅亡によって小幡氏などと同様に武田方の配下に入ったのだろう。

 長野業政には12人の娘が居て、それぞれが国人領主の下に嫁いでいた。かれら西上野の武士達は硬い盟約を結んでいた。だから、金井秀景も武田方ではなく長野氏存命時は長尾勢の優勢な勢力を持った武将だったはずである。
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倉賀野城址

倉賀野城址は、
児童公園の「雁(かりがね)公園」になっていた。
倉賀野城址

 1582年(天正10年)に武田氏が織田家の軍勢(滝川勢が主戦力として侵攻した)によって滅亡すると、秀景は信濃を席捲し、引き続いて上野国に進出してきた織田家の武将「滝川一益(たきがわ かずます ;織田家関東管領)」の配下となって、織田家に従った。

 しかし、程なく「本能寺の変」が勃発し、国人の離反や北条方の攻勢にさらされて窮地に陥り、優勢を誇って上州一帯を支配した滝川勢ではあったが、「神流川の合戦」で北条勢に破れてしまう。


 かくして上野の国を放棄して信濃(佐久郡)へ退いた滝川氏に代わって、小田原の「北条氏直(ほうじょう うじなお)」が上野への進出を果たす。そこで倉賀野秀景(ひでかげ)は再度変転して、新しい支配者となった強大な勢力の北条家に仕えることになる。

 しかし、そうして金井氏の一族(改姓して倉賀野氏となった訳だが)を存亡の危機から救い、幾多の危機を乗り越えては来たのだが、遂に1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めを受けて、小田原城にて倉賀野秀景は討ち死にしてしまうのだった。
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河岸段丘上に城があった事が良く判る


賑やかな倉賀野(くらがの)の中仙道筋の「仲町」からは南下する道が分岐する。
それはやがて「山名(やまな)」郷へと達する細い街道だ。

仲町から山名方面へ向かって進んで出会う烏川の岸辺が、
この「倉賀野城址」であり、そして「倉賀野河岸」の跡である。

烏川(からすがわ)」を渡ることにる。

烏川(からすがわ)は
流路延長61.8Kmに及ぶ流路を持つ。

実に大きな河川である。
倉賀野城址

 北条家を支えた多くの領主は、主家存亡の戦いを支えるために聖地 小田原へと遠征軍を送っていた。

 天下の軍勢を大城郭で迎え撃つためだが、同時に領主達の居城においても、広く進出する豊臣方へは交戦の姿勢を崩さなかった。

 たとえば、西城州の雄将と謳われた小幡氏も当主の軍勢は小田原へ遠征し、その居城である小幡城が攻撃されて落城するし、鉢形城や忍城や館林城など北条方の城の多くも同じ状況であった。北条三代といわれ関東に君臨した大勢力も遂には秀吉軍に圧倒されて、後北条家の当主 氏直(うじなお)は、小田原落城後は所領を剥奪されて高野山へと蟄居したはずだ。
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倉賀野八幡宮(井戸八幡)

「倉賀野河岸(くらがのがし)」の跡に向かう途中には、
この倉賀野八幡宮がある。
倉賀野八幡宮(井戸八幡)

地元では井戸八幡と呼ばれ、ここは河岸段丘の際であり、
倉賀野城の外郭があった場所だ。

 小田原攻めに際しては、「前田利家(まえだ としいえ)」と「上杉景勝(うえすぎ かげかつ)」の豊臣家の大老を勤める二人の武将による攻撃で倉賀野城は落城し、戦国まで生き残ってきた名城もとうとう廃城となる。

 烏川の左岸、河岸段丘上に展開する断崖城であり、そこは実戦のための城だった。そうした城の性格のためもあって戦乱が途絶えた後には、最早不要なものとなったのだろう。
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倉賀野八幡宮(井戸八幡) 拝殿と本殿

神社の拝殿横の崖から南を見ると、
烏川の川面が煌いていた。
倉賀野八幡宮から見る烏川

 その昔、関東管領「上杉憲景(うえすぎ のりかげ)」を支えて川越夜戦で戦死した倉賀野三河守行政が、生前に扇谷上杉(おおぎがやつ うえすぎ)家の本拠であった鎌倉にあった鶴ヶ岡八幡をここに勧請したという社が倉賀野城址に程近い場所に残っている。

 近くの住人から井戸八幡宮と呼ばれて親しまれているが、この「八幡宮」には井戸があって、城の水利を賄っていたと言う。

 八幡社の境内は、河岸段丘に広がる城の外郭の地であった。


 倉賀野の城址はいまでは住宅街となっていて、僅かに岸の崖上の一部が公園として整備されている。そこに城址を示す碑が建っているが、残念な事に往時の城の威勢や広い縄張りを示すような遺構は何も残っていない。
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牛街道(河岸への道)

この坂道は、倉賀野河岸へと続いている。地元の方の談では「牛街道」と呼ばれたのだと言う。

倉賀野河岸がこの坂の下にあって、そこで荷揚げされた荷物を牛の背に載せて運んだということだった。

この道は街道筋の仲町と上町の中ほどを入った場所だが、そのまま下ると、倉賀野八幡宮の横に出る。


曲がりくねった道なのだが、さらに下ると河岸である。

急な坂とならぬように、敢えて道を曲げたに違いない。

<宿場町としての倉賀野  江戸時代>

 江戸時代の昔、「烏川(からすがわ)」の岸辺にある「倉賀野(くらがの)」のまちは、中仙道や木曽街道上の大きく栄えた宿場町、江戸を基点にして第12番目の宿場であった。

 そして、そこは陸路での宿場だけではなく、水運の拠点としても繁栄していた土地だった。この地は宿場町であると同時に、利根川流域(上野から武蔵と江戸とを結ぶ大動脈)の最上流にある大きな「河岸(かし)」でもあった。

 小田原の後北条家を征圧した恩賞として、時の権力者の「豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)」から関八州の地を与えられた「徳川家康(とくがわ いえやす)」の江戸入府によって、江戸は都市として開発されて整備が進み、やがて未曾有の大都市に発展する。

 そうなると江戸を中心に据えた周辺地区も大いに栄え、関八州の経済圏が確立したのだった。

 それに伴って、さらにその圏外の信州や越後を結ぶルートが重きを増し始めていった。そのため、外縁の土地と江戸圏を結ぶ集積と拡散の拠点となる場所 ―交通と交易・物流の結節点となる土地― が大いに繁栄したのだった。

 倉賀野からなら、烏川は勿論、鏑川(かぶらがわ)、碓氷川(うすいがわ)、神流川(かんながわ)など西上州の川筋も使えたはずだ。
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倉賀野河岸の入り口。

中仙道に面したの仲町(なかまち)から山名(やまな)郷に向かう分岐を南に下ると、川の手前の路地に道祖神が置かれていた。

この西側には、少し離れて先に巡って来た八幡宮がある。

道祖神の横を下ると、そこが河岸の跡である。
河岸入り口の道祖神

 宿場としての倉賀野の発展振りを記録にある数字から見てみよう。

 1852年(嘉永5年)の宿場の様子だが、家数330軒、人口2113人と言う内容。宿場の施設としては、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋は32軒という数字があって、随分大きな宿駅だった事が伺える。

 江戸時代の人の移動は今程自由では無く、例えば江戸の借家人(いわゆる熊さん八さん達、日雇取りで暮らした長屋の住民達)であっても「手ぶら」というわけには行かずに、しかるべき許可や多くの手続が必要だった。大家(家主)町役などの公人が「旅人の身分を保証した証文」や道中のための「通行手形」を携帯しなければならなかったのだ。

 物流の拠点としての数字は、問屋場(物流ターミナル業)3軒、馬数77疋、宿役は50人50疋、伝馬屋敷(荷役・配送業)144軒に上っている。

 まさに陸路においても物流拠点だったわけだ。船上げした積荷をここから先の信濃や越後、あるいは上野国の各地へ運ぶ際には陸路に切り替える必要があり、倉賀野の宿駅としての輸送力を利用したためである。
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倉賀野河岸 倉賀野河岸として往時を偲ぶことはできない。

ご覧のように、それを示す碑とベンチが置かれた広場があるだけだ。

何かしら、浮世絵でも掲示すればよいものを、と思う。

<倉賀野河岸(くらがの かし)のこと ― 江戸の経済を支えた川運の拠点>

 江戸を中心に据えた経済圏の拡大と繁栄、そしてそれが更に波及して周辺地域をも発展させていった。

 関八州はひとつの大きな経済域と変化して、文化的にも同質のものとして均質化していった。交流が盛んになって時代と供に物流量が増したため、陸路輸送の整備と発展は勿論、倉賀野までの利根川流域もつとに水運が発達した。その流路の終点ともいえる倉賀野のまちは江戸との物資輸送の一大拠点になっていった。

 利根川自体は倉賀野の手前で流路を変えて、烏川との合流域より上流は前橋や渋川の流れとなり、水深も浅くなるし流速も早くなるので、船便は利用出来なくなる。しかし倉賀野から上州の西部域への諸物資の運搬は、水量豊かな烏川の流路が利用できたのだった。
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倉賀野河岸

河岸が存在した事を示す碑が僅かに建っている。
倉賀野河岸の下流

 各地の物産を江戸の地へ、江戸で生産された多くの日常品(江戸の手工業生産物である日用生活用品)を各地へ、という定期の船便がこの河岸を発着し、盛んに往来した。

 江戸は世界最大の消費地だったので、関東圏だけでなく全国からの物資・産物が多くの「廻船」で盛んに運ばれた。

 例えば、日本酒などは「下り物」と称されて伏見や灘の銘酒が好まれて定期的に運ばれたし、生活に必須の塩も赤穂(あこう)産の室の高い製塩が瀬戸内海・大阪からの船便でもたらされた。

 こうした全国の産物が江戸に集まり消費され、勿論、関東圏にも広く流通したのだった。
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倉賀野河岸の上流 河岸から上流域を見る。

陸揚げされた積荷は、
越後や信濃に向けて牛の背に乗せられて陸運されたという。

<倉賀野河岸(くらがの かし)のこと ― 川運の衰退>

 烏川を辿れば、倉賀野より上流の山名、馬庭、吉井、甘楽、などまで遡行できる。流れは上流域も穏やかなので、廻船による運搬も盛んに行われていたことだろう。


 そんな多くの物資を輸送する中で、「米」の輸送もこの「倉賀野河岸」を基点に多く行われていた。

 直轄領から収められる年貢米や各藩の御用米などであるが、米は農本主義を採っていた江戸幕府を支える財政基盤であり、最重要とされた物資だった。その大切な米を迅速に江戸へ運搬する大型船の往復も非常に盛んであった。

 米を含めて今見てきたような経済規模の拡大(近代的な流通網の発展)という背景もあって、倉賀野の町は地方を代表する物流の集積・拡散拠点として大きく繁栄したのだった。
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榛名山の西麓を源流として流れる長大な河川が「烏川(からすがわ)」だ。

その流路は実に長大だ。

「碓氷川(うすいがわ)」
「鏑川(かぶらがわ)」
そして
「神流川(かんながわ)」と共に、
西毛地区を潤して流れ渡っている。


それらの豊かな流れは、
やがて下流の玉村の地で、
江戸へと続く大河「利根川(とねがわ)」へと合流する。
烏川の下流域(倉賀野の南)

 ところがこの動脈ともいえた川筋が未曾有の災害に見舞われることになる。

 浅間山の「天明の大噴火」による降灰の堆積や噴火時の土砂流入によって、烏川の水深が浅くなってしまったのだ。さらに吾妻川への土砂流入によって濁流となった水が渋川で利根川へ合流し、土砂や岩石その他の者を下流域へと押し流していった。前橋(新堀:にいぼり 地区)や玉村(五料;ごりょう)やさらに下流域でも、そのために川岸が決壊して洪水が発生し多くの被害をもたらした。

 大規模な火山噴火のため水深が浅くなってしまい、その川筋を大型船が通行できなくなったが、川底の掘削事業なども資金が無くて実施できない。やがて、盛隆を極めた倉賀野の川運(河岸の繁栄)も、次第に陰りを見せていったのだった。
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烏川に合流する川 烏川に合流する川の様子。

この流れの左手側が倉賀野方面になる。

 倉賀野を後にして烏川に沿って、下流域へと進んでみた。

 川の流れはゆったりしていて、小kに船を浮かべて流れのままに下流へ降っていったら、さぞや気持がよかろうと、出来ない想像をめぐらしてみた。

 現代の中仙道は、この合流点のすぐ上にある、長い橋が烏川に掛かっていたが、それを渡ってみずにそのまま東へ走ってきたのだった。やがて玉村へと到るのだが、ここにはもうひとつの宿場があった。「岩鼻(いわはな)」の町だ。明治の廃藩置県で岩鼻県ができ、その県庁が置かれた場所だ。

 いずれ、その岩鼻へも訪れてみよと考えている。ランドマークとしては「群馬の森」の横になる。

烏川に合流する川 岩鼻の手前の合流点

まだ、利根川との合流は先(下流)になる。
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<本日の出会い>

 倉賀野神社に参拝して、そこからの路地を東へ向けて走っていたら、このお店があった。

 野菜や惣菜、缶詰や日用品などを扱っているようだ。

 店先に牛乳ケースがあって、そこに飲み物が入れられていたので、そのまま買ってみた。自動販売機がおかれていたか、どうか、少し記憶があいまいだ。

 お金を払い終わって、河岸の場所を店のご主人へお尋ねした。すると、倉賀野神社へ行ったのなら、この店のすぐ裏に城の跡があるし、この先の坂を降ると八幡様もある。そして、その先が河岸になるはずだ、と丁寧に教えてくださった。

 倉賀野は、蔵が建ち並んだ町にちなんだ名前、それが今ではどんどん壊して行って幾つも残っていない、という事をお話された。「蔵」の「倉」とは思いもしていなかったので、このお話には随分感心した。

 店の斜め先方向、街道(中仙道)に面して大きなスーパーがあるが、そこは昔、造り酒屋さんが持っていた蔵が建ち並んでいたところなのだと言う。今では郊外型のスーパーと広い駐車場なのだが、往時の蔵が建ち並んでいた様子はさぞや壮観だったことだろう。今残っていれば、川越や秩父のように、もてはやされたかも知れない。


 神社の脇には大層大きな兵器工場があったという話しや、出身が板鼻(下仁田の先、碓氷峠の麓)で、こちらに出てきてから40年以上になるがまだまだ新参者なのだ、という話、など随分とおしゃべりを楽しんだ。

 店の前の道が東へ突き当たった場所からはじまる坂道が「牛街道」と呼ばれて、陸揚げされた荷物を背に付けた牛や荷車を曳いた牛が行きかったのだと言う。そんな地元の古老の方から仕入れたであろう、楽しい話までお聞きすることが出来た。

 昭和10年生まれの素朴な方との楽しい出会いだった。

掛川商店 店に入ると、そこには<昭和>が広がっていた。


たしか、子供の頃の近所に新しく出来たスーパーは
こんな感じだったと思う。

その店の名前は「xxストアー」といったが、
それは前橋中心地の清王寺(せいおうじ)だったからだろう。
小ジャレていたのだと思う。

いま思えば「xx商店」のほうがずっと馴染める。

この「掛川商店」さんも同じ位の時期の出店ではなかろうか。

「のんびり 行こうよ」の 関連するページ;

< 「2013.07.09 : 日光例弊使街道、玉村宿を訪ねる」 >

< 「2013.06.09 : 山名郷、八幡社を訪ねる 小幡復路編(高崎)」 >
< 「2013.06.09 : 甘楽の城下町 小幡(おばた)を散策する」 >
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