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2013.07.09
「日光例弊使街道の宿駅 玉村(たまむら)」 を訪ねる
  (07.21 「五料 ごりょう」のことを追記した)

アクセス;
 JR高崎線 新町(しんまち)駅より玉村へ


ポタリングのコース;
 西善(にしぜん;前橋市南部)より354号線にて玉村(たまむら)
  :走行距離(往復)  18km
  :走行時間      約1時間


カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm−72mmF2.4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

関連ページ;

 のんびり 行こうよ: 「2013.07.09: 「中仙道の要衝、倉賀野宿を訪ねる」

 のんびり 行こうよ: 「2013.06.09: 「山名郷、八幡社を訪ねる 小幡復路編(高崎)」


 先日、甘楽(かんら)にある古い城下町の「小幡(おばた)」(散歩 のんびり 行こうよ: 2013.06.09:「甘楽の城下町 小幡(おばた)を散策する」)で街歩きを楽しんだ。

 小幡への自転車行の往路では、「玉村(たまむら)」と「倉賀野(くらがの)」を通り過ぎた。

 玉村は京都から日光へと続く「日光例弊使街道(にっこうれいへいしかいどう)」の宿場。御所のある京都から倉賀野までの道筋は中仙道と一致していて、倉賀野から正式に例弊使街道が始まって下野(しもつけ)の今市へと到る。玉村はその2番目の宿場町であり、街道筋に現れる最初の宿場町だ。

 倉賀野は東国交通の要衝の地であり、「中仙道(なかせんどう)」の街道筋でもあって、中仙道でいえば日本橋から第12番目の宿場町であった。

 なお、「玉村」は中仙道の宿場ではない。何故なら江戸の初期に金沢の前田家の手によって新道が開発され、すぐ横にある「新町(しんまち)」が中仙道の正式な宿場町として新たに作られた町であったからだ。この「新町宿」の開発によって街道筋は玉村から外れる事になる。金沢の前田家には、開幕当初はかなりの気遣いをしていた事が伺える。新たに開発された新町宿はその後、江戸幕府の瓦解まで中仙道の本街道の宿場として栄えるのであった。


 先日は、小幡へ向かう長い行程の走り初めの時間帯という事もあり、軽快に走る余りにどちらの街も素通りしてしまった。玉村は勿論、そのまま中仙道にあって繁栄著しい宿駅であった倉賀野の街も、そのまま通り過ぎてしまったのだった。


 そこで今回は、その通り過ぎた玉村と倉賀野の二つの宿場町を、改めてゆっくと訪ねてみることにした。

福島橋(前橋側から玉村方面を見る) 福島橋(ふくじまばし)

前橋の最南端。
ここが「玉村(たまむら)」との境界になる。
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セルフ撮影 「福島橋(ふくじまばし)」から見る、利根川の様子。

前橋から本庄へ向かって、
右岸には「利根川CR(サイクリング・ロード)」が続いている。


この福島橋を過ぎた先の南側(下流側)は河原が大変に広くて、
サイクリングロードから川までは随分と距離がある。

CRは市内域では、川面からの涼風を受けて涼しく走れる道だが、
さらに南にある「五料橋(ごりょうばし)」までの間では、
川面を流れ渡る涼やかな利根の風を感じる事は出来ない。

<玉村(たまむら)のまち  夏の日の思い出>

 玉村は前橋の南方、前橋から見れば利根川で隔てらていて、その広い川を渡った先にある。

 我が実家からは随分と近い場所にあって、そのまま真っ直ぐに南へ3・4キロ程向かって進んでいくと、やがて力丸(りきまる)の工業団地を抜けて、「利根川(とねがわ)」の川縁へと出る。広い瀬となって緩やかに流れる利根川に掛けられた「福島橋(ふくじまばし)」を渡ると、もうその先の降り立った地が玉村である。

 だから、西善町にある実家からは直ぐに行き着く事ができる隣町であって、夏の日に打ち上げられる花火が南側の窓からそのままに見える程の近さにある町だ。

 「西善(にしぜん)」は前橋へ編入される以前は「佐波郡上陽村(さわぐん じょうようむら)」と言い、玉村と同じ「郡内」であった。だからという事は無いが、どちらが近いかといえば、前橋の市街地よりもむしろ玉村の方が近い距離なのかもしれない。
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玉村の花火 西善からの眺め 玉村の花火

西善からの眺め。
実家から「高崎駒方バイパス」を越えた田園の中から望む花火。

畦は5mほどの農道だが、多くの車が路肩に寄せて花火を見物している。


この花火は、
2013年7月15日のもの。

 前橋の大会で打ち上げられる花火(8月のお盆の最中、利根川に掛かる阪東(ばんどう)橋の脇の河川敷から1万3千発が打揚げられる)は、玉村の花火とほぼ同じ位の大きさに見える。

 距離としては、どちらも実家から8キロ位の位置になるのだろうか、いや、前橋で打ち上げられる玉の号数の方が大きいはずなので、距離としては少し前橋が遠い、という事になるかも知れない。

 日暮れてから暫くすると、ズシンと響く音が幾たびか続いて、大きな花火が打ち上げられているのだと気が付く。

 その小気味良い音の正体が判ると、窓を開けて外を見て、音の響いてくる方角を確認する。最初は南西方向、その後、南東、そして最後に北西。それぞれの方向は玉村、伊勢崎・境、前橋の花火が見える方角だ。

 響いてくる音とはタイミングがズレて、水平線の少し上にキラメキが見える。

 単弾の三号玉や五号玉が打ち上げられているに違いない。暫く音が途切れるが、木立ちの際が盛んに明るくなっているのは、丁度スターマインが揚がっているのだろう。
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玉村の花火 西善からの眺め 玉村の花火

西善からの眺め。

最初は3号玉や5号玉が順次打ち上げられて、次第にスターマインや大玉の連打になった。この写真は、大会の中盤あたりで上げられたもの。

この花火は、2013年7月15日に開催されたもの。

玉村大会の開始時間は他の大会より少し遅い。20時から上げはじめて21時に終了する。
「玉村の花火大会」は群馬で最初に行われる(一番早く開催される)ことで有名だ。

河川敷ではなく田園が打ち上げ場所であるため、360度、どの方向からも楽しめる事が特色となっていて愛好者が多い。

 二階の窓から暫くその様子に見とれていると、晩酌を楽しんでいたはずの父親が庭先から道路へ出たのが判る。父も響く音が気になったらしく、打ち上がる花火の姿を見たかったに違いない。

 それは何でもない出来事であり普段の生活のヒトコマに過ぎないものなのだが、何故だか今でもその際の印象が強く、その晩の雰囲気までもが思い出されてくる。夏の宵の蒸し暑さや、その夜の肌に張り付くような重い空気感までもが心に残っている。私が高校生の頃の夏の夜の話であった。


 菊花や紫陽花を模したような、夏の夜空を鮮やかに彩って打ち上げられる大輪の花。前橋も玉村も、伊勢崎や境といったどちらのものも、我が実家からは見る事が出来たのだった。

 キラキラと輝きながら大きく広がって、その円周が一際明るく輝く様子や、全体が素晴らしい明るさでときめいて、やがて儚く消えていってしまう様子など、お馴染みの大玉の花火の姿が存分に楽しめたのだった。

 高校生の頃は、伊勢崎の南にある堺町(さかいまち)や玉村の花火が見え始めると、虹を追う子供のように、もっと近くからそれを見ようとして自転車を漕ぎ出したものだ。
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煉瓦造りの倉庫が残る 玉村の街道筋(日光例弊使街道)には、
古い町並みがほんの僅かにだか、
まだ今もこうして残っている。

こうした煉瓦造りの倉庫の他に、
街道に面して幾つかの蔵も残っている。

<玉村町のこと>

 前橋の直ぐ南の埼玉県と境を接した領域、県南端の行政区であって、北を「利根川(とねがわ)」で、南を「烏川(からすがわ)」で区切られた町が玉村だ。

 1889年(明治22年)の市制町村制施行により、那波(なわ)郡玉村町、その後の1896年(明治29年)には玉村町と芝根村と上陽村が合併し、「佐波郡(さわぐん)」となる。1957年(昭和32年)に「玉村町(たまむらまち)」となって行政が独立するまで郡を構成するひとつの村として存続する。

 1896年に玉村と合併したこの「上陽村(じょうようむら)」が、実家のある西善町の前身となる地域だ。1889年(明治22年)に那波郡藤川村、樋越村、飯塚村、中内村、上福島村、山王村、西善村、東善養寺村などが合併して、「那波郡上陽村(なわぐんじょうようむら)」となったものだ。その後、玉村と同様に佐波郡から離れて、1960年(昭和35年)、西善、山王、中内、東善の4地区が前橋市へ編入される。

 そうした合併は丁度、私が生まれた年の出来事だった。

 祖母は随分と長い間、市街地へ行く際には「前橋へ出掛ける」といっていた。本家の建っていたあたりは昔は前橋ではなく、佐波郡上陽村だったのだ、と祖母の物語を聴いた記憶がある。その思い出自体が大規模団地である「広瀬団地」が開発される前、本家の裏に円墳が残っていた頃のことだ。そのときは、前橋に編入されたのはもっと前の、戦前の出来事だと思っていた。

 今回、改めて玉村町や上陽村の来歴を調べてみて、西善の地域が前橋市へ編入されたのがごく近い出来事だと知った。僅かに私の生まれ年に過ぎない事だったのだ。今にして思えば、もし編入されなければ広瀬・山王地区の大規模な団地開発は行われる事は無かったろう。そうなれば未開発の状態なので団地中央を貫く16m道路は存在せず、団地も建てられなかったことになる。さらに広瀬川の河岸段丘は手付かずに残ることになる。もしそうであったなら、一帯にあった200基を越える数の大小の古墳もそのまま残っていたかもしれない。
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街道筋の町屋(日光例弊使街道)

懐かしい感じが溢れる町屋の様子。

ここは穀屋さんでもあろうが、
どちらかといえば小間物屋さんらしい。
(今で世で言えば、町のコンビニエンス・ストア)

塩や油、歯磨き粉からタワシ・箒の類まで、
生活に必要な品物なら何でも揃ったに違いない。
街道筋の町屋(日光例弊使街道)

こうした切妻屋根の町屋が、
少し前までの街道筋に軒を連ねていたのでは、と思う。

ここも一軒だけ残ってしまったようだ。
閉じられた雨戸の様子では、
今では「商い」はしていないようだ。

<玉村の歴史  古墳時代から律令期初頭>

 玉村の歴史を遡ると、遥か律令制以前の豪族の支配時代に行き着くことになる。

 6世紀の遺構である大きな古墳群が玉村の地にはあって、ここが大和朝廷による律令制の制定以前、強大な権力によってすでに精密に統治されていた事を示していた。その古墳からは、日本最大級の「馬形埴輪」が出土するなどしている。

 軍馬は当時の日本にとっては極めて貴重な財産であり、族長の権威を示したり、武威や権力の象徴的なものだった。

 列島には野生馬がいたわけではないが、原産種となって今も残る数種の「日本馬」がいる。日向などの九州地区や甲斐や飛騨などの中部地区、三春などの東北などに日本原種となる馬が今も細く存続しているのだ。こうした馬(道産子のような小型種)は5世紀頃、古い時代に入ってきて土着した種なのだろうと私は考えている。


 古代においての馬は、一般に手当ての出来るものではなく半島からの技術(高句麗系の帰化人の高度な技術に頼ったはずだ)を持って飼育や生産を行っていた。後に「御牧(みまき)」が上毛野国(かみつけのくに)各地に作られて、朝廷によって国家管理のもとで生育が行われるほどの、馬は貴重なものだった。「上野国(かみつけのくに => こうずけのくに)」と呼ばれるようになってからの平安時代の記録書、「延喜式」によれば9箇所の御牧が設営されていたという。

 律令制で設置された「勅使牧」は甲斐、武蔵、上野、信濃の4カ国。当初は馬の飼育は太政官組織である「兵部省」が管轄したが、後に分離して独立的な組織となった。
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街道筋の町屋(日光例弊使街道)

杉玉が飾られているところを見ると、
この家はどうも酒屋(小売)であったらしいが・・・。
街道筋の町屋(日光例弊使街道)

 上野国の御牧は太政官組織から半独立状態にあった「右馬寮」が管理した。(2013.04.12;太平記の舞台を散策する1 新田(太田)にて律令制の組織を解説している。) そして御牧の監督官としては、中央から「牧監(もくげん)」と呼ばれる役人が任命されて赴任していた。

 その朝廷(大権を持つ中央政府)によるコントロールのもとで上野国の牧からは毎年50疋の駿馬が献上されていたという。これらの馬は平安京周辺に馬寮によって運営されていた「飼養牧(しようまき)」で一旦はプールされ、必要に応じて役人達によって利用された。信濃などではこの牧監が土着して武士化した例が多く、「望月(もちづき)」氏や「滋野(しげの、うんの)」氏などは領主層となった好例だ。滋野氏からは「真田(さなだ)」氏が派生するが、一族は巧みに時代を生き抜いて、後に幕末まで存続する大名までに成長したのであった。

 さて、そうした御牧設置以前の古い時代にあって、継続(計画、管理された)された馬の生産と保育があった事を示す「馬形埴輪」の出土は、古代東国の文化的な特色を色濃く示しているものと言えよう。このあたりの土地は古墳時代からすでに武家発生の温床となるような「弓馬の土地柄」だった訳だ。

 埴輪の出土が如実に示すのは、墳墓に埋葬された主の権威や統治背景ではなかろうか。この地に勢力を張った豪族の首長達は、非常に優勢な軍事力を持っていたという証に他ならない。(なお、玉村では100基を越える古墳が発見されている。)
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玉村八幡宮(大鳥居)

東西に続く「日光例弊使街道」に面した場所から、参道が続く。

「玉村八幡宮」の鳥居。
この神社の祭神は「誉田別命(ほんだわけのみこと;第15代応神天皇)」

この町の往時(江戸初期)の繁栄の様を偲べる大きな神社であった。
この神社「玉村八幡宮」の縁起は極めて古く、建立したのは源氏の長者である。
源氏一族だけではなく、さらに多くの武家勢力を糾合して武家の棟梁となり、東国政権である鎌倉幕府を打ち立てた「源頼朝(みなもと の よりとも)」と伝わっている。


平安期の荘園としては、
この地には「玉村御厨(たまむら みくりや)」と「宮原荘(みやはら の しょう)」があったのだという。

そして、玉村の周囲にはいくつかの荘園が開発されていた。

すぐ横の高崎西部域には
「八幡荘(やはた の しょう)」があったし、
福島橋を渡った先の前橋側、西善や東善の辺りは「善養寺荘(ぜんようじ の しょう)」があった。

いずれも、平安の初期から都との往来(信濃経由が主要な通行路)が盛んにあって、古くから発達した土地であった。

<玉村の歴史  中世 律令制度の下にあって>

 律令制度下にあっては、「東山道(ひがしのやまのみち;とうざんどう)」が都から東国へ向かって列島の動脈として伸びていたが、この道は朝廷による統治範囲を広げるための東征路(軍用道路)であった。その東山道が玉村を通過し、新田へと延びていた。上福島の「砂町遺跡」や樋越の「中之坊遺跡」からは道路跡(道幅11mの直線道路)が確認されている。

 当時の玉村は、上野国 那波郡(かみつけ の くに  なわ の こおり)」であり、左味郷(さみごう)と鞘田郷(さやたごう)からなっていた。「郡衙(ぐんか; 中央が設置した政庁)」がこの地にあったと推定されている。その政庁では「郡司(こおりのつかさ)」として地域の有力豪族が任命されて、統治に当っていたはずだ。その郡衙の跡と考えられているのが、平成3年に発掘が行われた「一万田遺跡(上福島)」だ。そこからは、公的施設の存在を示すような有力な出土品(墨書土器 ;ぼくしょどき)が発掘されている。


 さらに後世。ここは伊勢神宮の神領を示す「玉村御厨(たまむら みくりや)」が置かれていた事でも有名だ。

 平安末期の1163年にこの荘園を開発した領主が、この地にあった豪族の「玉村(たまむら)」氏であった。系図などが調べられずに、荘園を立券した人物の正式な名前(氏姓、来歴)が判らないのが残念だ。しかし同時期に成立した「新田庄(にった の しょう)」と同様の開発・立券の道筋を辿ったものらしい。1108年(天仁元年)の浅間山の「天仁大噴火」による荒蕪地化を契機にして、古閑地(こかんち)からの開墾によって私領となり、荘園として立券されたものだという。まさに八幡や新田と同じ経緯といえるようだ。


 鎌倉時代のこの地は、上野国守護の安達氏の重要な拠点となって栄える。

 稲作の豊穣な農地でもあり、利根川水運の拠点として考えても、また陸路交通の要衝という事もあって、軍事・経済的な重要性が強かったのだろうと思う。

 4世に渡った守護職の安達氏を支えたのが、家臣であった玉村氏であった。御厨の下司職に引き続いて鎌倉幕府の「地頭」として玉村の一帯を支配したという。

 源家三代の政権時はもとより、北条執権時代に入っても、玉村氏の一族は幕府の御家人として重きを為す。「蒙古襲来絵図」などに玉村太郎と呼ばれた氏の後裔が有能な武将として、異人の侵攻を食い止める必死の戦いに活躍する様が描かれている。

 「いざ、鎌倉」となった際は、一路「鎌倉街道 上道(倉賀野から山名を抜けて寄居へ向かい武蔵府中へと南下する道)」と呼ばれる道筋を伝って武家の聖地「鎌倉」の防衛に馳せ参じたのだろう。あるいは、江戸期に整備された例弊使街道の古道(東山道)を抜けて新田の地へ向かい、そこで南へ転じて東山道の武蔵道を進んだのかもしれない。
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玉村八幡宮(由緒あふれる山門 「隋神門」)

実に立派な山門の「随神門(ずいしんもん)」を潜って、境内へと進む。

山門には衣冠束帯の武将像が左右に2対、安置されていた。
玉村八幡宮(狛犬)

<玉村 の歴史  近世 戦国期の騒乱>

 玉村氏の一族はその後も、この玉村に勢力を張って統治を続ける。

 比企(ひき)氏、安達(あだち;足立)氏が統治し、その後北条得宗家が守護を務めた鎌倉時代を過ぎて、やがて室町期に入ると国司(守護)や守護代は変転するが、領主としての玉村氏は強力であったらしい。戦乱にも関わらず、氏族は巧みに生き抜いて存続していったのだろう。

 しかし、ついにこの地も、戦国の波に飲まれて大きく揺れることになる。

 例えば、角淵(つのふち)にあった八幡宮は度々の戦火によって荒廃し、戦いの終わる都度、時の統治者によって修復が行われるが、それは室町期だけでも数度に渡るし、最終的には荒廃著しい状態となっている。こうしたことから、遂に玉村氏の領有も衰退していって、支配地(本貫地)に建つ古社の保全・改修などの存続作業さえも賄えない状態になってしまったのだろう。

 没落したのか、滅亡したのか、室町期後期になると、玉村氏の活躍を記した文書や手紙・日記などの私記録に到るまで、歴史の上では彼らの名がまったく登場しなくなる。歴史の舞台から静かに。しかし忽然と居なくなってしまうのだった。
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玉村八幡宮(境内)

「人形神社」と「(かえる)神社」と書かれていた。
玉村八幡宮(人形神社、かえる神社)

「猿田彦神社(さるたひこ)」と「淡島神社(あわしま)」に関係したもの。

<玉村の歴史  泰平の江戸期 ― 安定の始まり  ;「日光例弊使街道」の宿駅として>

 玉村や倉賀野へ向かうには国道「254号」線を利用する。前橋の東隣になる伊勢崎(いせさき)方面からなら、利根川に平行した国道「354号」線を使う事になるだろうか。


 国道「254号」線は番号が3桁と大きく振られた国道にしては、随分と長い距離に渡る道路であって、東京の本郷(春日通り)ともいい、板橋の仲宿(中仙道)ともいうが、そこを基点として終点の信州「松本」までの間に続く、地方都市を結ぶ関東甲信域の主要な幹線道路のひとつといえよう。

 古くから「川越街道」−「児玉街道」−「富岡街道」−「姫街道(下仁田:しもにた)」−「松本街道」と呼ばれて多くの人々に往来された道であり、江戸五街道のひとつ「中仙道(なかせんどう)」の脇往還でもあった。


 一方の国道「354号」線は、古くは「日光例弊使街道(にっこう れいへいし かいどう)」として整備された道だ。倉賀野を基点として、玉村、五料、境、木崎(新田)、大田と抜けて下野へ入り、八木、梁田と足利内を北上して、さらに鹿沼から今市へと続く街道である。

 京都から倉賀野までの通常の旅における順路は、大路である中仙道を直行して来るか、脇往還の松本・下仁田の両街道を通り、富岡街道を抜けて来るかになる。

 例弊使は京都を4月1日に出発して中仙道を進んで、15日間で日光へ到ったという。中仙道の「碓氷峠(うすいとうげ)」をこえた麓の「坂本(さかもと)」宿と、この「玉村宿」が、例弊使が宿泊した宿場だったと言う事だ。

 なお、玉村はさらに、「三国街道(みくにかいどう: 中仙道を分岐して越後へと向かう街道)」の脇往還である「佐渡奉行(さどぶぎょう)街道」が交差する地でもあった。いわば、古くからの交通の要衝といえよう。本陣や50軒に及ぶ旅籠、それに利根川水運や陸路での拠点として問屋場なども設置されて賑わったという。

 例弊使街道は、後に「道中奉行(どうちゅうぶうぎょう)」の支配となって、五街道に準じた扱いの大動脈となる。
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玉村八幡(御神木) 玉村八幡(力石)

「力石(ちからいし)」は重さ180キロに及ぶ。

この石を持ち上げた力自慢が江戸時代に実在したらしい。
願い事を念じながら撫でると、ご利益があるという。
「心願成就・成績向上のお力添えをいただける」と言う事だ。

<「日光例弊使(にっこう れいへいし)」とは>

 「日光例弊使街道(にっこう れいへいし かいどう)」という往還は、古い往還ではなく近世に整備された道筋だ。

 1646年(正保3年)から始まった「例弊使」のために整備された交通路であった訳だが、倉賀野から太田、足利を経由する道なので、古代律令制の動脈「東山道(ひがしのやまのみち;とうざんどう)」とほぼ一致していて、その古道(列島を縦断する大路)を利用した往還といえようか。

 倉賀野を街道の基点とし、そこから日光の今市までの間、21宿を繋いで旅の所作を整えた全長140kmに及ぶ街道筋だ。


 なお、「例弊使(れいへいし)」とは、朝廷が公式に使わす日光拝礼(家康廟への参拝)のための使者であり、先の1646年(正保3年)から正式な精度として始まり、毎年使者が4月15日の日光到着を目指して1日に都から下向し15日間を費やしたものだった。そしてそれは、1867年(慶応3年)までの221年間に渡って一度も滞る事なく継続される。

 勅使の一行は50名に及ぶ大人数だったが、当然これを助ける人足や荷役を負う人達が別に用意されていて、宿駅の間を繋いだのだった。中仙道の坂本宿に泊まり、そこを発って一日で玉村に至って宿泊し、そこから街道を進んで天明宿、鹿沼宿、今市宿と、4泊5日の日程で旅を重ねた。21宿中のいま書いていない宿場は、休息をとる程度でそのまま通過した。

 お公家さまと言えば「おじゃる丸」のような雅な言葉を使って優雅に暮らしていて、どことなくひ弱なイメージが色濃いが、それは大きな間違い。さすがに江戸時代の人々であり、今の私達に比べてのでかなりの健脚ということになるようだ。

 これ程の大人数で15日間に及ぶ旅程を組んで遠路を旅してはいるが、彼らの役務は人数の規模に比する様な大げさなものではない。朝廷から使わされた神に祈りを捧げる「金の弊(ぬさ)」を日光に祀られた家康廟へ奉納するというだけの役務を担って旅をしていたのだった。


 朝廷の権威のしるしでもあり、徳川家の威光を沿道の人たちに示すための示威行為であったが、実に大きな無駄と言えよう。221年間では延べ11050名の使節(荷役を負った人達はこの人数に入らない)が金幣の奉納のためだけに往来した事になる。東海道を廻った巡検使のように4・5名程度の人数でも充分であったろう。
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玉村八幡 拝殿

江戸期に入ると厩橋城主の酒井氏一族(老中や大老となった家で、17万石の領主)に神社が崇敬され、大きく保護された。
1638年(寛永15年)時の老中、雅楽守(うたのかみ)「酒井忠清(さかい ただきよ)」によって社殿が改修されたのだった。
1667(寛文7年)には同じく酒井忠清によって社殿の改修が為され、その後も1684年(貞亭元年)に、「酒井忠明(さかい ただあき)」によっても改修が加えられる。

酒井家の播磨国姫路に移封後は、神社に対しての領主による改修は行われなかった。


だからそれ以降は、7郷12村が協議の上で「修理講」を興す。幕府からの朱印地の収入と供にして住民の手によって神社を維持していく。

<「日光例弊使」の実態>

 勅使(日光例弊使 ;にっこう れいへいし)の内実は下級の公家にしか過ぎない貴族の者であったが、朝廷の名代として都から下向するため、その格式は大変に高いものだった。

 江戸時代の身分制は「士農工商」で成立していたが、「公家(くげ」衆はこの範疇を超越した存在。まさに文字通りの「貴族」階級だ。

 奈良、平安朝からの特権階級であり、室町期以降には多くの荘園を剥奪された。そうして収入を絶たれた多くの公家衆は、有力な武家に娘を嫁がせてその支援を受けたり、位階を朝廷へ奏上してこれを斡旋したり、といった方法で世を渡っていた。

 剥落の道を辿り続けているとはいえ、律令制度上の身分(階位)は江戸期にあっても有効に働いていたのだった。このため、武家社会が法制として敷いた身分制度を遥かに超越して存在する事ができた。力や金といった現世的なものは持てない状況に陥ってしまっていたが、階位の制だけは朝廷による選任であった。

 国主の任命や軍の派遣など「治世への口出し」はすべて塞がれた朝廷だったが、階位の任命は公家の揮える大きな権限として機能し続けたので、そこに貴族のよすががあった。また、対外に対しては中国以外には国交を完全に閉じていた江戸幕府であったが、外交の権限、対外関係において国の代表として決裁できるのは朝廷のみであった。(日本国の代表者は天皇のみ、という原則。)

 五摂家などの公卿と呼ばれた高位の公家衆は既存の権益を保っていたが、中流の貴族は上に書いたように自らの出自そのものを商売の種にするなど、実に厳しい状況だったようだ。

 この状況であったから、さらに、下級の貴族となるとこれは大変な様相であったに違いない。「例弊使」として任命された公家達も、まるで強請りや集りのように傍若無人であって、随分と金に汚い振舞いをしたものらしい。「強請り(ゆすり)」は「揺すり」であり、例弊使が日光への道中で取った態度に由来して付けられた言葉だ、という説があるほどだ。

 221年間にも渡って、一度も途絶える事無く継続された50名の大人数からなるこの勅使の下向は、何も日光に祭られた徳川家康や三代将軍の家光が偉大であり、朝廷がそれを敬っていたからではなかった。下級の公家にとっては、またとない多くの収入をもたらす行事、励みとなる美味しい制度だったのだ。鎌倉以来、政治を担った武家方が持っていた清廉潔白さや高貴さ、統治者として人の上に立つ者の矜持などの欠片も、そこからは何も見出せない。
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玉村八幡 拝殿への入り口

環濠屋敷を偲ばせる堀。 丁度、境内の神域を分けている。
玉村八幡 神楽殿

神楽殿

 「玉村(たまむら)」は中仙道の宿駅ではないので、当然の事ながら街道筋(現、国道「17号」線)からは少し外れた場所になる。しかし本街道では無いが脇往還に準じる「街道」の宿場であった。街道筋の公的重要性という意味では非常に重い位置づけを担っていたのが、日光例弊使街道である。

 そして玉村は、京都(朝廷)からの勅使である「例弊使」が日光の家康廟への参拝へと向かう「日光例弊使街道」にあり、倉賀野(くらがの)の下町から始まる街道筋の最初(第2番目)の宿場として繁栄したのだった。

 玉村宿の全長は約2,610m、道幅は約5m、上之町、中之町、下之町からなる。50軒ほどの旅籠屋と本陣(6丁目木島家)、例弊使など大通行のときに置かれた臨時の本陣(4丁目井田家など)、それに宿場の上下2ヶ所の問屋場があった。大いに繁栄した宿場町だったが、1868年(慶応4年)の大火によってすべて焼失してしまい、今に残ってはいない。

 宿場では、例弊使への便宜を図るために充分な人馬を用意して輸送及び移動の便を図ると供に、本陣並みの格式を持つ勅使宿泊のための宿(館)を提供したという。

 玉村宿は、例弊使街道には上野国内に宿駅が他に6箇所―倉賀野、玉村、五料、柴(古くは「斯波」であったのだろう;現 伊勢崎)、境、木崎、太田― あるが、例弊使の一行が宿泊をしたのは、この地(玉村宿)だけであった。


 例弊使街道は江戸を経由せずに直接京都から日光まで到達できる道筋で、例弊使としては面倒な幕府への挨拶をせずに済んだため多用された道筋だった。公家としての高い威厳を保ったまま道中が出来て、大変に重宝した街道だったという。

 しかし、帰路は敢えて江戸に立ち寄って、そこで盛大な供応を受けた後に、東海道を使って京都へ戻るのが、慣例だったという。要するに、朝廷からの重要な使者ではあるが、その内実は、普段は行動を制限されていてこの機会に目一杯羽を伸ばそうとする行為、ただの「お公家さんの物見遊山の旅」であったという訳だ。

 なお、幕府による供応と書いたが、忠臣蔵で有名な播州赤穂藩主の浅野内匠守が勤めたのは、幕府派遣の高家による年賀使の答礼として、年初に下向して来た勅使に対する接待役なので、この(家康廟へ向かう勅使)例弊使の接待ということではない。

 しかし、例弊使への接待も凄まじいものだったらしく、贅を尽くした饗応はもとより多くの進物も贈られたという。進物を運ぶ荷役は当然ながら街道筋の諸藩が、及び天領であれば幕府が、公費にて負担した。
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玉村八幡 拝殿 豪奢な、拝殿の様子。

<玉村八幡宮(たまむら はちまんぐう)>

 玉村八幡宮は鎌倉初期に遡る創建で、古社といえよう。その縁起は以下のとおりだ。

 1195年(建久6年 鎌倉時代の初期)に「源頼朝(みなもと よりとも)」が上野奉行「安達藤九郎盛長(あだち もりなが)」に命じて、鎌倉の「鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)」から分霊を勧請して創建した「八幡神社(角渕八幡宮;つのふちはちまんぐう)」が元宮だという。つまり、創建当時は今とは別の地に建てられた訳だ。

 鶴岡八幡宮は単なる神社であった訳ではない。幕府による国家鎮護を願った社で、源氏一族の精神的支柱でもあり、鎌倉政権の政治と祭祀の神聖なシンボルでもあった。放生会(ほうじょうえ)―流鏑馬(やぶさめ)の儀式―を初めとして後の礼式・典礼の元となるような多くの儀式がそこで行われた。

 幕府を支える枢要の地には、その祭神を勧進して多くの八幡社が建立された。源氏武士の拠点 ―たとえば鎌倉街道が通るような中世武士の居館があった土地― には、だから必ず、大きな社を伴った八幡神社が残っている。

 さて、当地。「角渕(つのふち)」の八幡神社には本社、塔、鐘楼、山門、鳥居などが建てられたが、1411年(応永18年 ;室町時代)に鎌倉公方「足利満兼(あしかが みつかね)」が大破していた堂舎、僧坊を再興し、さらに1507年(永正4年 ;室町後期 この66年後に幕府は終焉する)には鎌倉公方「上杉憲景(上杉のりかげ)」方の有力武将だった白井城(しろい)城主「長尾左衛門尉憲景(ながお のりかげ;左衛門尉 は官位名)」が戦火で消失したものを再建した。( のんびり 行こうよ: 2012.05.20 「渋川 白井(しろい)宿(歴史探訪)」 )

 彼ら以外にも関東管領「畠山満家(はたけやま みついえ)」など、時々の統治者によって度々補修、再建されたのだった。


 その後、徳川家康の関東入府によって神社は大きく再建される。1605年(慶長10年)には、関東郡代の「伊奈備前守忠次(いな ただつぐ)」が、玉村の新田開発の任にあたってその成就を祈願し、成功の暁には新宮を建立すると約束した。1610年(慶長15年)には前橋の総社から「天狗岩用水(てんぐいわようすい)」を延長する「代官堀(滝川用水とも称される)」を開削して開田するという一大事業が無事竣工し、角渕の八幡神社の本殿を現在地に移築したのだという。

 その後、三代将軍の家光の治世に朱印地30石を賜って、幕府の保護下に置かれる。

 なお、移築された「角渕八幡宮」であるが、今も角渕に八幡宮の拝殿や本殿が残っている。しかし、その規模は玉村八幡宮よりも大分小さいものだ。上新田に移築した後も、養蚕・蚕種業が盛んだった角渕の住民の手で厚く守られた社殿である。本殿は江戸時代の後期に再建(建立)されたものだ。

玉村八幡 拝殿正面の様子 拝殿を見上げる。
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玉村八幡 拝殿脇の吊るし玉 玉村八幡 拝殿脇の吊るし玉

この神社では、拝殿脇に絵馬掛けが無かった。

絵馬を掛ける代わりに、榊の木には木の玉が吊るされていた。

これを「願い玉」と呼ぶのだという。

 この移転された八幡神社の敷地は、もとは中世武士の館の跡であり、中世武士館を特色付ける掘割に囲まれていたのだと言う。

 「環濠屋敷(かんごうやしき)」と呼ぶ居館のあり方だ。

 玉村では斎田、飯塚、藤川等の地区に屋敷跡残っている。それらの屋敷跡は発掘、調査が行われて、館の来歴がほぼ明確になっている。しかし、肝心のここ、玉村八幡社にあった館の主については、何ら伝承が無い。残念極まりないが、江戸初期に神社を移設したのだから、もうその当時は村の入会地のようになっていたのだろう。

 また環濠屋敷が集まったものを「環濠屋敷群」というが、それは堀が連結した状態で幾棟かの館が連結している状態を指すものだ。一族の子孫が主家の館の四囲を取り囲んで分家したのだろう。前橋南部、高崎東部、伊勢崎などにそうした館群の分布がある。

 例えば、新田荘には平安期に作られた新田館や支族の館などがあり、200m四方の土地を取り囲んで掘割がある。荘園領主となって各地に割拠した中世の武家館、今にその様相を色濃く留めて保存されている。

 この八幡社の敷地も、玉村氏の一族が暮らした拠点であったのだろう。その後没落して、その支族自体が室町期の戦乱で喪失し、館もいつしか失われてしまったのだろう。広さや街道を扼する重要な位置から考えて、玉村氏の有力支族の館が建っていた土地であったに違いない。


 この神社の祭神は「誉田別命(ほんだわけのみこと;第15代応神天皇)」と「気長足比売命(おきながたらしひめのみこと;神功皇后 応神天皇の母)」、それに「比盗_(ひめのがみ)」の三柱。

玉村八幡

この本殿は、1507年(永正4年)の建立。

角渕(つのぶち)に神社があった際に再建されたもので、
その後、1610年(慶長15年)に現在地へ移築されたと伝わる。

なお本殿の造りは「三間社流造(さんげんしゃながれづくり)」と呼ばれるもの(山名八幡社の本殿などと同じ格式)で、国の重要文化財に指定されている。


石燈篭は、1652年(承応元年)に上茂木の分限者が奉納したもの。燈篭の高さは195cmで地域で最大のものという。
玉村八幡
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「例弊使街道 追分」の閻魔堂

中仙道、倉賀野宿の下町(しもまち)に残る追分。


「閻魔堂(えんまどう)」があり、
街道の分岐を示す道標、それに常夜灯が設えられている。
「例弊使街道との追分」の常夜灯

<日光例弊使街道の周辺のこと>

 私は例弊使の道中の前に、この道筋や宿場としての玉村が江戸初期よりもさらに古い時代から発展していたのでは、と考えている。

 何故なら、玉村の手前の倉賀野は中仙道と富岡街道の分岐点だし、その要衝から玉村の街を経て東毛地区の柴(斯波)、境、木崎、太田、さらに足利へと続く長い道のりは「東山道」であり、まさに朝廷の東征路として太古から整備が盛んに行われた動脈上の拠点だったからだ。

 さらに、烏川と利根川の二つの大河の間の地である玉村は、都から東国へ来たりて後、越後へと向かう街道の分岐点でもあった。まさに交通の要衝と言えよう。
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「例弊使街道との追分」の道標 街道の分岐点を示す、「追分」の常夜灯。

道標が灯篭のまえにあり、
「これより 右 江戸道、左 日光道」 と記されている。
現在の国道でいうと、「254号」線と「354号」線の分岐になる。

倉賀野へ向かう道は「中仙道」だが、
これは今は国道「17号」線に引き継がれている。

 ところで、街道筋の宿場である「八木宿(やぎじゅく)」は民謡で有名な「八木節(やぎぶし)」縁の地だという。八木節は、下野の足利(栃木)、上野の桐生(きりゅう)や太田(おおた)で生まれた歌だ。

 夏の東毛地区では、「八木節祭り(やぎぶし まつり)」が盛大に行われる。跳ね子のように皆が一心に踊る様は、「ねぶた祭り」など東北の賑やかな夏祭りを思わせる。

 しかし、八木節の発祥には諸説があって、1914年頃の八木宿から歌が始まるという説や、同じ例弊使街道の木崎(きざき)宿が発端とする説、さらに江戸末期に流行した口説節が起源とする説などがある。

 木崎宿が発祥とすれば太田や桐生や伊勢崎などでこの歌が盛んなのも頷ける。

 赤城山麓に篭った任侠の雄、「国定忠治(くにさだ ちゅうじ)」を歌った八木節は例弊使街道を伝わって県南部で盛んになり、勇ましい囃子方と唸る地歌で物語られる、群馬民謡を代表する祭り歌となったのだろう。忠治は「名月赤城山」などの浪曲(語り歌)や芝居で有名な侠客だ。関八州見回り役(正式名は「関東取締出役」)に指名手配されて追われる身だが、ただの無宿人(渡世人)だったわけではなく、国定村の中農層「長岡」家の総領であった。
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五料橋から見る赤城山 玉村の東端、
五料(ごりょう)宿。

五料橋を南側(利根川の右岸下流)から望む。


橋の彼方に赤城(あかぎ)山が見える。

<2013.07.21 追記  五料宿と関所>

 さて、玉村は街道の要衝。日光例弊使街道の渡し場の宿でもあり、また先に書いたとおり越後へと向かう街道の分岐点でもあった。しかしそれだけではない。緩やかに流れる大河に挟まれた土地であるから、川運の物流拠点でもあったろう。

 また、増水や強風などの気象条件によって渡河待ちをするためには、そこに宿泊しなければならないような事も多かったに違いない。東海道の大井川の渡しと同様に「五料(ごりょう)」には渡しがあった。そうした事からも、玉村(玉村宿、五料宿のふたつの宿場町)がひとつの旅の拠点であったろう、と考えるからだ。

 中仙道の脇街道である「江戸道(富岡街道)」と倉賀野の宿場下手にある「下町の追分」で道が分かれて、この玉村を通る「日光例弊使街道」となる。

 倉賀野では中仙道と江戸道が重なっているが、その道筋から分岐して岩鼻方面へ向かい玉村へと続く。その後の上野国内では五料、柴(古くは「斯波」であったろう)、境、木崎(新田)、太田へと連なり、下野国に入ってからは八木、梁田などの足利内の宿場を経て鹿沼へと北上していくが、これは日光例弊使街道の整備以前は、まさに東山道の道筋そのものなのだった。
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五料関所への入り口

五料関所への入り口
古い民家が残っている。
これは養蚕農家の造りだが、さらに並んで、町屋が数軒残っていて宿場の雰囲気を留めている。

五料関所への入り口

五料(ごりょう)宿のこと

 玉村のもうひとつの宿場町が「五料(ごりょう)」だ。

 利根川の右岸にあって、川を渡れば伊勢崎、少し下れば埼玉の本庄という場所になる。利根川に掛かる橋で言えば、最初に登場した「福島橋」の下流が「玉村大橋」、そのもうひとつ下流が「五料橋」となるが、橋は玉村大橋よりも長く大きい。

 橋の袂には宿場であった時の街並みの雰囲気が若干ではあるが残っている。国道354号線(旧 例弊使街道)を玉村宿方面から東進してくると、橋へと向かう道と宿場へ入る道に分岐する。その交差点が「五料」の交差点だ。

 宿場へ向かうといっても、交差点以前からすでに宿場内なのだろうが、古い町屋は交差点の手前には残っていない。そのためか、分岐から先にある集落に入っていく事が、あたかも時間の門を潜って古い時代へとタイムスリップするかのような気分になる。

 利根川の河川敷となる川岸の土手までのほんの200mほどになるが、そこには古い町屋や養蚕農家の造りが残っているのだった。
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五料 常楽寺

五料宿への入り口、日光例弊使街道脇にある「常楽寺」
五料 常楽寺

 玉村町のホームページ「玉村町の歴史・文化財」によれば、1573年から92年の天正年間には倉賀野との間に伝馬の制度が敷かれていたという。(それ以前からあったのだろうが、明確な記録が天正期なのだろう。)宿場を中心とした町だが、渡し場もあり、さらに3箇所の河岸があって船運でも栄えていた。

 五料は倉賀野のような大きな河岸ではなかったが、「五料河岸」「新河岸」「川井河岸」と呼ばれた3つの河岸があり、川運のための船付き場があった。

 新河岸は沼田藩の津出し(積み出し)河岸であり、川井河岸は三国街道からの荷物や安中米や信州米を扱っていた河岸で、最上流の五料河岸は筏(いかだ)河岸として木材の輸送が盛んであったという。

五料 常楽寺
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五料 船問屋「高橋清兵衛」屋敷跡  船問屋 「高橋清兵衛(たかはし せいべい)」の屋敷跡


五料宿への入り口、
日光例弊使街道脇にある「常楽寺」から真っ直ぐ南へ下ると、
集落の入り口あたりに船問屋の広大な屋敷跡が残っている。


船問屋 「高橋清兵衛(たかはし せいべい)」の屋

 日光例弊使街道の、五料宿(集落)への入り口には、大きな屋敷跡が残っている。

 川岸までにはまだ大分距離があるいちなのだが、ここには長い石積みが残っている。およそ120mから130m四方といった規模だろうか。

 後に調べると「船問屋 高橋清兵衛(たかはし せいべい)」の屋敷跡であった。かなりの長さに渡って石垣が完全な形で残っていて、敷地も中世の領主並みの、結構な広さになる。

 船運が栄えた頃にはさぞかし賑わったのだろう。

船問屋 「高橋清兵衛(たかはし せいべい)」の屋 船問屋 「高橋清兵衛(たかはし せいべい)」の屋
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五料関所跡 五料関所跡の礎石

<五料関所跡>

「五料(ごりょう)」は利根川の渡しを控えた宿場であるが、
ここには関所が設けられていた。

江戸へ運ばれる物資の検閲など、川運を見張るためである。

 そうやって、古い町並みに入って進むと、やがて川岸へと出ることになる。

 進行していくと川岸の手前で、道は右に曲がって細くなる。その細い道が集落の中心へと向かっていくための道路である。その曲がり角の丁度逆、左手側に更に細い路地がみえる。その路地の中ほどに進んだ場所が、「五料の関所跡」だ。

 五料は日光例弊使街道の宿場であるが、背後に利根川を控えており、川には渡し場が設けられていた。「五料の渡船場」は幕府が定めた利根川流域16ヶ所の「定船場」の一つであり、渡船の経営は対岸の柴宿との共同経営で行われた。なお、船は五料宿から3艘出されたという。

 ここでは川筋を下る荷船の改めをしていたらしい。関所は街道を往き来する旅人の人別改めよりも、むしろ積荷を検閲するための施設だったのではなかろうか。
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五料関所跡 <五料関所跡から五料宿への入り口にある道標>

「五料(ごりょう)」宿は利根川の渡しを控えた宿場である。

 五料の関所跡に建てられた案内板に記された内容を抜粋しておこう。

 関所は1601年(慶長六年)、厩橋(うまやばし;前橋)藩主が、「平岩親吉(ひらいわ ちかよし)」から「酒井忠重(さかい ただしげ)」に移った際に設けたもので、後の1616年(元和2年)に幕府公認となる。

 五料の関所は利根川の船の監視を担っていたが、特に登り舟(下流の江戸へ向かう運搬船)に禁制品(鉄砲、鉛、焔硝、硫黄)が積載されていないかを改めていた。


 ところで、県内の関所は数箇所あって「碓氷の関(安中)」が一番有名だが、ここ五料宿(玉村)と、さらに金井宿(渋川;三国街道)にも置かれていた。金井宿の関所は江戸初期の1620年(元和6年)に設営された「杢ヶ橋番所」で、吾妻川の渡し場にあって番士だった後裔の方の家屋地として今に残っている。

 だが残念な事に五料の関所は「礎石」だけしか残されていない。(供に残っていると書かれた井戸は見つけられなかった。)


 五料の関では旅人に関しては「通行手形」を以って通し、明け六つ(午前6時)に開門し、暮六つ(午後6時)に閉門したという。

 なお、関所には、目付1人、番士2人、足軽6人、中間2人がいた。これは目付1人、与力2人、定番3人が勤番した金井宿にある「杢ヶ橋関所(1643年に関所に昇格)」と同じ規模である。全国53の関所中、上野国には14の関所があったが、この関所は碓氷や箱根などと同様に「入り鉄砲と出女」を監視してこれを取り締まり、江戸の治安と幕府体制を維持するための重要な責務を負っていた。
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飯玉神社

正一位 飯玉大明神社
玉村八幡や倉賀野神社と同じ、飯玉神社である。
玉村カルタ

 集落へと向かう細い道(曲がりくねっている)を進んでいくと、その先に神社の入り口があった。

 道に面して鳥居があるが、面白いことに鳥居から続く参道の先に拝殿が無い。参道は90度、境内で曲がっていて、鳥居からはその左手に拝殿があった。集落内の道筋ではなく利根川の流れに平行して建っていることになる。川岸に建つ多くの神社を見ると、どれも皆、川筋に並んで拝殿・本殿があることが多い。拝殿が下流側、その背後の本殿が上流側に並ぶ。いずれも間口は下流に向かって開いている状態だ。

 古くは、鳥居が置かれた参道は今の位置ではなく、しっかりと拝殿の直上にあったのだろう。区画整理などで入り口が変わったのではなかろうか。
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五料関所跡 水神祭りの船を準備中

撮影日は、2013.07.19。

 この神社は「飯玉神社(いいだま じんじゃ)」で、格式は正一位。神社の創建は1468年(応仁2年)、領主の那波氏によって堀口(現伊勢崎市)の飯玉神社の分霊を勧進したのが縁起、との事である。

 この拝殿は1800年代の改修であったが、2006年に焼失したため、翌年再建された。本殿に比べて妙に新しいのはそのためだ。

 例弊使街道は江戸の初期に整備された街道であるが、その宿場となる遥か140年も前の室町時代に神社が建立されたと言うことだ。世界最大の消費都市である江戸はまだ存在していないので水運は無いが、すでにその時点から街道的な人の往来があって、「渡し場」として栄えていたということだ。

 少し驚いてしまったのだが、これには理由があった。本家となる飯玉神社は那波の堀口(伊勢崎)にあって上野国及び武蔵野国の飯玉神社の総本社で那波郡の総鎮守、こちらはその末社なのだ。同じような縁起と思われるが、周辺の飯倉、飯塚、小泉にも飯玉神社がある。

 この五料の飯玉神社は川筋に近く、しかもこの集落が渡し場を伴った宿場や河岸であった背景からか、特別な祭りが執り行われる。「水神祭り」がそれだ。

 私が神社へ行った日は、まだ準備中であって、作業用のテントが張られていた竹組みと藁とで作った船はもう完成していて、その姿を確認することが出来た。

 この船を数人の氏子が担いで五料の内を練り歩き、人々の無病息災や水難除けを願うのだ。
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五料の渡し 水神祭り 五料の渡し 水神祭り

 16時30分頃から担ぎが始まって、2時間程を練り歩き、18時過ぎに渡し場跡近くの川岸へ降りて、この7メートル余りもある船を利根川へと流すのだという。

 私の実家は五料から遠いわけではないが、この祭りの事をこの時までまるで知らなかった。しかし、華やかな祭りは有名であるらしく、NHKや新聞社などの取材も訪れると言うことだった。丁度、祭りの当日に再度神社を訪れて、それらのことを知ったのだった。

 船の横で作業を進めていた地元の方と話をして、本社の飯玉神社から宮司が来て、すでに詔を挙げて、御祓いが済んでいるということだった。その話の中で、いくつかの取材班がもう訪れたと言うことや、埼玉の郷土史研究のグループが撮影に来るという事、祭りの時間の目安などを教えて頂いたのだった。

 18時過ぎに利根川に流す様子が見たかったが、都合が悪くてここをもう一度訪ねることは難しかろう。それで、利根川へ流す前の美しい船を写真に収めたのだった。
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 さて、都から降って来る例弊使の一行だが、玉村宿で一泊してここ「五料の渡し」によって利根川を渡って、その先の境、木崎、太田へと向かって行程を進めていく。

 先に書いたように一行の人数は多くて、参議格の公卿が任ぜられ、その随員は50〜60名に及んだ。勅使や随員に従っている小者(従者や小者)などを含めると、行列の人数は更に多かったのだろうと思う。また、道中での着替えや携行品など、行列の人員が携える荷物を運搬する必要がある。荷役の人夫は通過する道中の各宿駅が受け持って、宿場間を賄って順次引き継いだはずだ。だからこの荷駄隊の人数は「一行」とは言えないかもしれないが、彼らを含めればさらに行列の構成は大人数となる。

 そうした人数のため、渡し船での渡河は一度では乗り切れず、全員が一緒という訳にはいかなかったのではなかろうか。複数の船が連なって川へと漕ぎ出したのか、それとも一艘で何回も川面を往復したものか、そんな事を竹枠と藁で作られた船を見ながら考えた。

 渡し場での安全、水運の安全と繁栄、さらには利根川の起す多くの水難を除ける。夏場に起こる増水や台風時期に起こる川の大規模な氾濫を収めるための祈祷といった意味もあったのだろう。

五料の渡し 水神祭り 五料の渡し 水神祭り
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 平安後期の天仁(1108年)や江戸中期の天明(1783年:天明3年)に起こった浅間山大噴火。土石流などの流入により利根川は増水し、玉村内でも特にここ、五料などは大きな被害を追った歴史があった。

 天明の大噴火の際には、五料(沼之上村)民家246戸中30戸余りが流失、170戸が埋没し、田畑の90%以上が焼砂に埋まった、という。噴火による火山灰の降灰や天候の不順によって飢饉が発生したが、噴火による土砂の影響での洪水は、また別の次元での大災害であった。川岸に建つ関所の建屋もその屋根の部分までが、激しく流れ出た泥流にすっかり埋まってしまったという。

 水害は家屋だけではなく、河岸にも及んでいた。新河岸では火山岩の堆積によって川底が浅くなって大型船の通行が出来なくなり、河岸の船問屋は協力して「川浚(さら)い」や税金の免除を幕府や前橋藩に願い出て復興に努めたが復旧は困難を極めて、河岸の移転を余儀なくされた。烏川の流路が変わってしまったため、下流域にあった川井河岸は大きく機能を後退させてしまい、盛隆を取り戻す事はできなかった。


 この水神様を称え祭ったお祭りの裏には、水害で亡くなった人達の供養という意味も込めてられているに違いない。

五料の渡し 水神祭り 五料 飯玉神社

2007年に焼失から再建された拝殿から本殿奥、御神体を拝む。
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Ridley ICARUS 別名 「白い疾風」

< 本日の相棒  Ridley ICARUS>

フレームを購入して、コンポーネントを選択して組み上げた車体。

カンパニョーロ社の11速用のセット「ATENA」で組んでいる。

別名を「白い疾風(はやて)」と呼んでいる。
軽量である。
生粋のレーシングフレームなので、実に軽快に走る。

最高グレードの
プロ用レーシングフレーム「Excalibur エクスカリバー」の仕様をそのまま踏襲している。
ただし、私のICARUS(イカルス)は7005アルミのトリプル・バテッド仕様だ。

カーボンではないので、難しい部分もあるが、素早いレスポンスがあって、しかも快適に走ってくれる。

「のんびり 行こうよ」の 関連するページ;

< 「2013.07.09 : 中仙道の要衝 倉賀野(くらがの)」 を訪ねる >

< 「2013.06.09 : 山名郷、八幡社を訪ねる 小幡復路編(高崎)」 >
< 「2013.06.09 : 甘楽の城下町 小幡(おばた)を散策する」 >
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