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2012.05.27 「箕郷、箕輪城址へ」
長野業正の娘、その嫁ぎ先の12家は、小幡家(小幡城主「信貞(のぶさだ)」、国峯城主「景貞(かげさだ)」の2家)をはじめとして、広く上野(こうずけ)の半分に及ぶ。
山名城主の「木部定朝(きべ さだとも)、和田城主の「和田業繁(わだ のりしげ)」、倉賀野城主の「金井秀景(かない ひでかげ;後に倉賀野に改姓)」、厩橋城主の「長野方業(ながの まさなり;同族)」などが婚家(国人領主)の主だったところだ。
小説や映画で評判になった「のぼうの城」の成田家も三女の嫁ぎ先で、長野氏の配下に数えられた家であった。
後に剣聖として名を馳せる「上泉信綱(かみいずみ のぶつな;新陰流開祖の上泉伊勢守)」は婚姻関係は無かったが、長野氏の配下に属して槍の名手として武田撃退戦で奮戦した武勲の多い誉ある武人だった。
決戦の後に、信玄に許されて諸国を行脚する。
信綱の「信」の文字は、その際に武田信玄から武勲を称えて贈られた「偏諱(いみな)」である。
そして信綱が柳生の庄へ逗留して新陰流を伝授するのは、長野氏滅亡に端を発した諸国行脚のなかでの出来事だった。
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「箕輪(みのわ)」城は、高崎の北方、
榛名山の南側山稜に開けた箕郷(みさと)に築城されたもの。
箕郷を本拠として君臨した大勢力、西上野を代表する豪族の「長野」氏の居城だ。
祖先が、かの「在原業平(ありわら なりひら)」とされる一族で、室町後期には関東管領「山内上杉(やまのうち うえすぎ)」家に属していた。
白井城主の長尾氏と婚姻関係を結ぶなど、家の娘達を上野各地の領主である有力諸豪族へ嫁がせて、縁戚関係による強い地盤を築いていた。
峰筋や谷などの「地形の利」を巧みに利用した懸崖に建つ城で、その城域は極めて広大な結構を持っていた。
武田信玄の猛攻を幾度も跳ね返して、甲斐武田勢による上野国への怒涛の侵攻を一手に食い止めていた難攻不落の城であった。
当主の「長野業正(ながの なりまさ)」を合力する与力衆として、多くの上野や武蔵の武士が集っている。上野国人衆を糾合して2万余の大軍を編成して信玄の侵攻を食い止める1557年(弘治3年)の戦いでは敗軍の殿(しんがり)を勤めて防戦し、勇名を馳せた。
娘の嫁ぎ先は12家に及び、婚姻関係で結んだ多く武将を配下として侵略を阻止した。婚姻による血縁化という絆によって、硬く同盟関係や揺ぎ無い盟約を結んだのだった。
そのように国人衆を統合して6度にも渡って信玄の精鋭による猛攻を食い止めた城だが、しかし遂には落城してしまった。
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