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2013.06.09
甘楽の城下町、「小幡(おばた)」を散策する


アクセス;
 上信(じょうしん)電鉄線、 「上州福島(じょうしゅう ふくしま)」駅 より
  ;「上信電鉄」は西上州を鏑川(かぶらがわ)に沿って走るローカル線。
     高崎駅(発着はゼロ番線) ・下仁田(しもにた)駅間を結ぶ。のどかな路線である。

コース;
 小幡(おばた); 甘楽歴史民族資料館、雄川堰、小幡八幡宮、中小路(武家屋敷街)、楽山園(大名庭園)、 ほか

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm−72mmF2.4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

 丘とも言え、山並みともいえる連なりが、高崎の西南域から先に上信国境まで幾重にも連なっている美しい場所、それが今回の目的地である。その地域には行政区として「甘楽(かんら)」や「富岡(とみおか)」や「下仁田(しもにた)」といった町や市がある。

 さて、今回の歴史散策は、その甘楽(かんら)の文化的中心地である「小幡(おばた)」の街が舞台となっている。西上州に残る、雰囲気の良い城下町を散策しようと思っている。

 なお、この日の現地までの移動は自転車を利用した。自転車を使って走れば、目的地までの往復の行程が劇的に変化するからだ。

 只の移動行為から、その移動自体がひとつのイベントに変わってくる。それは車や列車を使った移動では味わえない、多くの醍醐味に満ちている。徒歩では複数の行政区を跨るような距離をとてもじゃないがカバーできない。しかし、我らが頼もしい助っ人の自転車でなら、充分に可能なことだろう。

 それに、アンテナをしっかりと張っていれば、自転車での走行でしか出会えない多くの「出来事」が待っている。しかし、相手を必要とすることなのでいつでも出会いが待っている、という具合にはいかない。それが、ただひとつの残念なところといえようか。


関連するページ ;
 自転車での往復の様子は別のページで記載している。小幡往復時のあれこれを紹介しているので、是非ご参照ありたい。

  ポタリング のんびり 行こうよ ;  2013.06.09 「城下町 小幡を訪ねる 往路編(甘楽郡)」
  ポタリング のんびり 行こうよ ;  2013.06.09 「山名郷、八幡社を訪ねる 小幡復路編(高崎)」

  散歩 のんびり 行こうよ ;  2013.07.09 「日光例弊使街道 玉村宿を訪ねる(07.21 五料宿を追記)」
  散歩 のんびり 行こうよ ;  2013.07.09 「中仙道の要衝  倉賀野宿を訪ねる」

城下町小幡の散策コース

甘楽町を紹介するリーフレット
 「キラっと かんら 自然と歴史の散歩道」から抜粋。

 ウォーキングのサンプルコースやガイドマップをはじめとして、
 小幡の見所が沢山写真入りで入念に掲載されている。
城下町小幡
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 またこれは今日の「城下町 小幡」を散策するという行程とは直接には関係が無い記載になるが、同時代の城址(遺構)を去年、今年と訪ね歩いている。

 上州にある白井城(しろいじょう)、箕輪城(みのわじょう)、岩櫃城(いわびつじょう)の3箇所の古城で、どれも皆、ページとしてその様子を書いているので、紹介しておこう。

「白井(しろい)」城

掲載ページ;
 2013.04.08 「渋川、白井城址を歩く」
「白井(しろい)」城は渋川の北にある。

白井荘(しろい の しょう)として、平安期から発展していた土地だった。

荘園を立券した実力者がいるはずで、都から郡司として派遣されて、土着したした有力武家貴族やその支配下にあった土豪という場合が多い。


築城の由来は、
室町時代の関東管領「上杉家」の被官として白井を統治した「長尾」氏の居城からはじまる。
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「箕輪(みのわ)」城


掲載ページ;
 2012.05.27 「箕郷、箕輪城址へ」


長野業正の娘、その嫁ぎ先の12家は、小幡家(小幡城主「信貞(のぶさだ)」、国峯城主「景貞(かげさだ)」の2家)をはじめとして、広く上野(こうずけ)の半分に及ぶ。

山名城主の「木部定朝(きべ さだとも)、和田城主の「和田業繁(わだ のりしげ)」、倉賀野城主の「金井秀景(かない ひでかげ;後に倉賀野に改姓)」、厩橋城主の「長野方業(ながの まさなり;同族)」などが婚家(国人領主)の主だったところだ。
小説や映画で評判になった「のぼうの城」の成田家も三女の嫁ぎ先で、長野氏の配下に数えられた家であった。


後に剣聖として名を馳せる「上泉信綱(かみいずみ のぶつな;新陰流開祖の上泉伊勢守)」は婚姻関係は無かったが、長野氏の配下に属して槍の名手として武田撃退戦で奮戦した武勲の多い誉ある武人だった。

決戦の後に、信玄に許されて諸国を行脚する。
信綱の「信」の文字は、その際に武田信玄から武勲を称えて贈られた「偏諱(いみな)」である。

そして信綱が柳生の庄へ逗留して新陰流を伝授するのは、長野氏滅亡に端を発した諸国行脚のなかでの出来事だった。
「箕輪(みのわ)」城は、高崎の北方、
榛名山の南側山稜に開けた箕郷(みさと)に築城されたもの。

箕郷を本拠として君臨した大勢力、西上野を代表する豪族の「長野」氏の居城だ。

祖先が、かの「在原業平(ありわら なりひら)」とされる一族で、室町後期には関東管領「山内上杉(やまのうち うえすぎ)」家に属していた。

白井城主の長尾氏と婚姻関係を結ぶなど、家の娘達を上野各地の領主である有力諸豪族へ嫁がせて、縁戚関係による強い地盤を築いていた。
峰筋や谷などの「地形の利」を巧みに利用した懸崖に建つ城で、その城域は極めて広大な結構を持っていた。


武田信玄の猛攻を幾度も跳ね返して、甲斐武田勢による上野国への怒涛の侵攻を一手に食い止めていた難攻不落の城であった。

当主の「長野業正(ながの なりまさ)」を合力する与力衆として、多くの上野や武蔵の武士が集っている。上野国人衆を糾合して2万余の大軍を編成して信玄の侵攻を食い止める1557年(弘治3年)の戦いでは敗軍の殿(しんがり)を勤めて防戦し、勇名を馳せた。


娘の嫁ぎ先は12家に及び、婚姻関係で結んだ多く武将を配下として侵略を阻止した。婚姻による血縁化という絆によって、硬く同盟関係や揺ぎ無い盟約を結んだのだった。

そのように国人衆を統合して6度にも渡って信玄の精鋭による猛攻を食い止めた城だが、しかし遂には落城してしまった。

 紹介した城はどれも皆、上野国(こうずけのくに)の「戦国の世」を彩った名城といえよう。

 しかしそれらの栄華も、今では縄張りを示す構造物の石垣や土塁や堀割(堀に水は張られず 空堀状態)などが残るだけの、単なる遺構である。まさに必衰の跡を残しているのみだ。

 戦国の初期に建てられた城の特色、後の世に盛んになる城塞のように天守を聳え立てた権力の象徴としての城郭ではなく、あくまでも実戦向けの砦として機能したものだった。あくまでも戦いの場としてのもの。侵攻の拠点であり、決戦の際の最後の守りを固める場所であった。
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岩櫃城


掲載ページ;
 2012.11.18 「吾妻、岩櫃山」
「岩櫃(いわびつ)」城は吾妻(あがつま)街道を見下ろす山頂にある。

街道からは断崖絶壁の逞しい岩肌だけが見えるが、山の中腹域から上部をすべて城の構成として複数の峯を取り込んでいる。


元は吾妻に勢力を張った豪族の居城であったが、信玄亡き後の「真田昌幸(さなだ まさゆき)」は独自の路線化のひとつとして、計略をもって城を奪取し、上野北部域への進出拠点とした。

信濃から上野への街道筋にあり、吾妻や利根・沼田など上野北部域への攻略の手をさらに伸ばすための侵攻の拠点。そのために北信の梟雄、真田氏が難攻不落の城として整備したものだ。

 戦国の初期に建てられた城の特色は、後の城塞とは大きく異なっていた。

 天守を持ち、幾重もの郭で総構えを構成した平城のように、権力の象徴として威勢を示したりはしなかった。更にそれは、御殿を構えて、政治・経済のための中心となる政務を執り行うためのものでもなかった。戦国初期に各地に構築された城は、すべて戦いの拠点を意図して造られた物。あくまでも実戦向けの砦として機能したものだった。

 ここで紹介した三つの古城では、構築された門、櫓、蔵、詰め所はもちろん、館や御殿などの建造物や庭園などの一切は残っていない。それに、これらの城は戦国初期の山城(白井のみは断崖城)として登場したものなので、まだ石垣なども築かれていなかった。

 どうか、今回の城下町探訪のページと合わせて、是非ご参照のほどを・・・。

 ;2012.05.27 「箕郷の巨城 箕輪(みのわ)城へ (歴史探訪)」 (ポタリング)
 ;2012.11.18 「吾妻(あがつま)、岩櫃(いわびつ)山」     (ハイキング・低山散歩)
 ;2013.04.08 「市場町の宿場跡 白井(しろい)城址を歩く」   (ハイキング・低山散歩)
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西上州の山並み 実家から見た西上州の山並み。

右手から
「浅間(あさま)山」
「妙義(みょうぎ)山」
「荒船(あらふね)山」
と続く。


中仙道の難所、
碓氷(うすい)峠を擁く浅間は上信国境。

台座のような山容の荒船山も「内山(うちやま)峠」を越えれば、信濃の佐久である。

<城下町小幡の周辺 ― 「富岡街道」「下仁田街道」をゆく)>

 今回の目的地の「甘楽(かんら)」へのアクセスは、一般道路を利用するのであれば、国道「254号」線を使う事になる。

 国道上の藤岡から富岡までの道筋は「富岡(とみおか)街道」と呼ばれている古くからの往還が基になって整備された道だ。

 「吉井(よしい)」、「甘楽」、「富岡」、そしてさらに「下仁田(しもにた)」と続く道だ。下仁田から「佐久(さく)」まで続く道が「下仁田街道」、別名「姫街道」とも呼ばれて続いていく。

 下仁田を越えてからは峠越えの険路で、急な山道を越えることになる。国道は更に先の北信へと続いて、下仁田を縫って上信国境の山稜を登り始めた道は、荒船山(あらふねやま)へと抜けていく。荒船山を登って「神津(こうず)牧場」や「内山牧場」のある<内山(うちやま)峠>を越えれば、そこはもう関八州(関東)の圏外、信州の「佐久(さく)」である。

 そして道はさらに続き、上田に出ると諏訪湖を巻いて南下して、最終的には中信地方にある「松本」へと至って終わることになる。

小幡へ向かう(新屋地区)より南を望む 小幡へ向かう 天引(あまびき)地区
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<富岡(とみおか)のこと  世界文化遺産;富岡製糸場(産業遺産)>

 「甘楽(かんら)」の西横には「富岡(とみおか)」の街がある。市域は碓氷峠の手前の「下仁田(しもにた)」までの間に展開し、「安中(あんなか)」などと同様に、長野へ続く山塊の際(きわ)に当る場所である。


 明治初頭、維新政府が欧米列強に追いつくべく国家政策の主幹事業として推進した製糸工場の建設は、むしろ、スローガンとして掲げられた「富国強兵」策と表現したほうがより鮮明だろう。その基本政策に基づいて興された国策産業の舞台となったのが、この土地であった。

 その「殖産興業政策」の一手として構築された大規模な国営の近代化された製糸工場が富岡に現存している。

 後に払い下げられて民間化され、実は1987年(昭和62年)までの間は、たゆまず操業を継続していたのだという。


 よく引き合いに出す「上毛カルタ」では「に」。「日本で最初の富岡製糸(にほんでさいしょの とみおかせいし)」というのが、この建造遺跡の偉業を謳ったものだ。

 ここは「伊勢崎(いせさき)」の養蚕農家などの関連文化財と共に、<世界遺産>化すべく活動がされている。歴史的遺構として周辺の文化財を含めて「産業遺産」として登録申請中だ。

 それが実現すれば、ツール・ド・フランスの自転車レースの基点のひとつ、20日余りに渡って開催されるレース中盤でその日のスタート地点として登場する世界遺産のひとつ「アルク・エ・スナンの王立製塩所」と同じく、世界的に有名な場所になる。

蚕(かいこ)の生態

いつも和裁の手内職をしていた伯母が、ある日の事、「繭玉をどうするか知っているか」と私に聴いてきた。

白く美しい姿で紡ぎ出だされた繭玉から、巧い具合に絹糸を一本取り出して、それを撚って糸にする作業を実地して見せてくれたことがあった。
(初めは、えっそれ煮るの?と驚いたものだが・・)


この地方を代表する産業だったのが<養蚕(ようさん)業>。

「甘楽町歴史民族資料館」には、その養蚕で使われた器具を初め、工夫、改良された飼育具が並んでいる。
養蚕農家の生業を含めた事物も多く集めてあって、広く養蚕についての解説展示がされている。
(生活用具とは、例えば養蚕の神様を描いた掛け軸や藍の彩色がされた贅沢な便器など)


私の実家の本家(父の産まれた家)は大きな養蚕農家だった。

私が小学生の頃まではまだ蚕(かいこ)の飼育をしていたので、展示された一連のものなどは一度は目にしていて、すべて実地に知っていた。

明治生まれの祖母は飼育していた蚕を「おこさま」と愛情込めて呼んでいたものだ。
孫の私達は「おかいこ」と丁寧語の接頭詞である「お」を付けただけだったが・・・。

まだ小学生だった当時、
蚕(かいこ)を気味悪がる私に、この益虫の効用を学ばせてくれたのが伯母だった。

その伯母も今では百歳に近いが、頭も体も今もなお、かくしゃくとしている。

得意だった和裁はもう出来ないが、まだまだ現役だ。
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 伊勢崎(いせさき)に現存する養蚕農家の屋敷は、現当主がお住まいの家だ。

 田島家は、養蚕業のあり方を研究してその飼育法を基に県内や埼玉北部の庄屋クラスの農家へ養蚕業を広めた家だった。

 一帯には養蚕農家が何軒もあって、家の入り口には解説改が書かれた案内板が建っているが、この一帯を代表して遺産として申請されるのが、蚕を卸売りする事業も行っていた「田島弥平(たじま やへい)」宅である。

 富岡に残る「国営製糸場」とは随分離れた場所にあるが、関連文化財として「富岡製糸場」と共に「荒船風穴」や「高山社跡」が一連の関連施設・遺構として保護され、産業文化財として申請される。


 富岡は今回の目的地のひとつにもしていたのだが出来ず仕舞いだった。家からの出発が遅くなって甘楽への到着時刻が遅くなてしまったからだ。小幡での散策を優先したために時間が足りず、富岡まで足を伸ばす事は出来なかった。

 小幡への入り口の「上州福島(じょうしゅう ふくしま)」駅から南進せずに西にそのまま国道を行けば、8キロほど離れた場所が富岡になる。だから充分ポタリングとして訪ねる行程に含める事が可能な場所であり、移動距離なのだが、今日の時間割では行き着けてもゆっくりと見学するまでの余裕が無い。だから残念ではあったが、今回は訪問を諦める事にした。


 だから結局、富岡の写真は撮れていない。その代わり、関連遺構として建造物が申請されている伊勢崎南部(利根川の右岸)にある「田島弥平(たじま やへい)」宅の様子を紹介しておこうと思う。去年(2012年)の7月に「島村の渡し(今も続けられている利根川の渡船場)」 (のんびり 行こうよ 2012.06.17 「伊勢崎 島村の渡し」)と供に、そこを訪ねた際に撮ったものだ。

田島弥平宅

2012.07.15 撮影
田島弥平宅の庭
2012.07.15 撮影

こちらは「富岡製糸場」とはまるで別の伊勢崎市「島村」にある。
島村の集落は、利根川の右岸、本庄内にある伊勢崎市の飛び地である。

産業遺産として申請している関連遺構の養蚕農家「田島弥平」宅。
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<維新政府のすすめた近代化>

 明治政府は、江戸幕府の採っていた「鎖国政策」を改めて、正式に国策としての「開国」を決定した。

 江戸期に実施され続けていた鎖国当時、海外に向けて開かれていたのは長崎の出島のみであった。豊臣秀吉が推し進めた堺や博多などでの南蛮交易を閉じて、それに変わって、260年に渡って出島の地を舞台に公の交易を行った。

 その後の江戸幕府は朝鮮(李氏王朝)と琉球のみ国交を結んでいたが、貿易としては中国(明朝、清朝)とオランダとも交易交関係を結んでいて、盛んな取引を行っていた。「日蘭貿易」が対外貿易の中心と思われがちだが、それよりも中国交易のほうが遥かに取引量や回数が多いものだった。

 幕政末期の黒船の来航による「日米和親条約」締結によって、江戸幕府は下田と函館の2港をやむなく開港するに到った。続いて一方的な通商条約の改正を交渉しつつ、さらに横浜と長崎、ついで新潟や神戸と順次開港していたのだった。

 この一時的な開港措置と一部の港のみの開放という制限部分を改めて、完全な開国状態を国是として決定したのが、1869年(明治2年)のことだった。


 維新政府は急速に国家基盤を構築して一刻も早く列強に準ずる地位を獲得する必要を感じて、「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」を唱えて矢継ぎ早の政策を施行していった。

 幕府解体・政府樹立後の1871年(明治4年)「廃藩置県」によって群立していた「藩の自主統治権」を剥奪し、替わりに3府302県の行政区を置いた。自治として政令は出せても、藩時代のように独自の法令の発布や裁判の執行などは出来ず、司法・立法権は中央政府のみが保持した。

 勿論、藩札の発行や関所の開設・運営などの藩政を執行する事も出来なくなった。明治4年末には藩を母体とした群立する県をさらに整理・統合して3府72県にし、完全な中央集権国家を構築した。

 法制(憲法、民法、刑法)の施行、議会の設置、産業振興と鉄路の開発、国家基盤となる政府関連施設の建造、逓信(郵便や通信)の確立、軍隊の創設と拡充、学制の整備充実など、およそ考えうる振興策のすべてを同時に行った。

 そのための予算は無尽蔵に必要であり、貿易による外貨の獲得は領土の拡張と並んで、政府内では常に重要な政治課題となっていた。

田島弥平宅 2012.07.15 撮影


産業遺産として申請している
関連遺構の養蚕農家「田島弥平」宅。



母屋二階の
養蚕用の出入り口(写真の中央部)が珍しい。
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<近代的な国営製糸場を建設した理由>

 江戸幕府が港を開いた当時以来の国家最大の輸出産品であったのが、家内制手工業の生産品である良質な「生糸(きいと)」だった。

 貿易相手に「MAEBASHI」と産地名でと呼ばれた品質の高い生糸(絹糸)は特に尊ばれ、高値で取引が行われた。前橋で生産された絹糸である。

 良く引き合いに出す「上毛カルタ」では、「け」。「け)県都 前橋、絹のまち(けんと まえばし きぬのまち)」という内容だ。また上毛カルタにはさらに「ま」もあって、こちらは「繭と生糸は日本一(まゆ と きいと は にほんいち)」というもの。明治期の県単位の繭の生産量は長野に次いで2位で昭和29年以降は一位。現在でも繭と生糸(絹糸)の生産量は全国一位で、群馬県産品の生糸はその6割を、繭は4割を占めている。


 しかし開国の決定による輸出量の増大によって、品質低下が発生してしまう。だから一時的に下がった評判を盛り返し、輸出産品の花形 ―外貨獲得の主要品― としての付加価値を早急に取り戻す必要があった。

 「富岡製糸場」は1872年(明治15年)に明治政府によって建造された「模範器械製糸場」で、フランス人技師を招聘して、彼の指導の下に国家の模範工場として操業されたもの。つまり、当時の日本の根幹を為す国策の具現化として創出されたものだった。

 先進技術を集めて製作された洋式の繰糸器械を備えた模範工場として建設するだけでなく、その設備を運営して、生産を成功させなければならない宿命を負っていた。。工場の立地条件がまず検討されて、それに相応しい複数の候補地を充分に調査した上で、場所の選定が慎重になされたのだった。そして養蚕業の盛んな「富岡」の地に生産拠点を建設する事が決定された。

 まず、工場建設の主要な建材となる「煉瓦(レンガ)」を焼くことから始められ、広大な国家工場として大規模な幾つもの建屋が造営された。余談だが、この工場の建屋を構成する「レンガ」はフランス人技師の指導の下に小幡の瓦職人の手によって焼かれたものだ。そして壁を構成するレンガ同士の接着には、漆喰(しっくい)が用いられた。(使われているのはコンクリート材のセメントではない。)

 そこでの主要な目的は2つあった。「品質改善や生産向上を図るため」がひとつ目、さらに、「技術指導者を育成するため」がふたつ目の目的だった。

田島弥平宅

2012.07.15 撮影 (田島弥平 宅にて 伊勢崎市 島村)
今回のポタリングで時間が許せば、
小幡の先にある富岡(8キロほど西側)まで足を伸ばそうと考えていた。

しかし、出発の時間が遅くて、今回はそこまでの時間的な余裕が無くて見学を断念した。


いつかまた、機会をみつけて行ってみたいと思っている。

是非、産業遺産として認定される前に、
「製糸場」を含めて富岡の関連遺産とされている一連のものを訪ねてみたい。
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<明治政府が採った「富国強兵」策という近代化  脱亜入欧(だつあにゅうおう)と呼ばれた取り組み>

 富岡製糸場の構築にみる政策、そうした取り組みの手法は、明治政府の元勲や有能な官僚達の優れた美徳が表れたところだろう。

 「モノ」や「コト」という事象に対して、必ず「ヒト」という担い手を手当しているところが今の政治・経済など処分やにおける諸施策と明確に違っていて、実に素晴らしい限りではないか。


 明治政府は「維新」の初期段階から、短期間で近代化を推進するための手法を考案した。西洋文明化の礎を築く、素晴らしい手法を展開させたのだった。なぜ、東洋という文化的な基盤を捨ててまで西欧文明諸国の一員(「帝国主義」を採っていた列強諸国の仲間)に入ろうとしていたのかは不明だが、しかし、世界史的にも極めて優れた効率の良い取り組み方だったと私は思う。

 知識や学問、そして先進技術を導入するためには、多分野に渡って、政府は信じられないほどの高給で有能な技師や学者や研究者を海外から招聘した。支払う報酬やその貴族並みに優遇された特別待遇に、政府首脳が躊躇うことは無かった。

 世界水準で計っても非常に優秀だった彼らを講師・教師として、国内一流のエリート達をその下につけて熱心に学ばせた。彼らはその期待に見事に答えて、時代の最先端の西洋知識を貪欲に吸収していった。

 政府の採った手法は、はまず手始めとして次代の教育者や技術の担い手となる有能な国内人材を育成したのだった。そして今度は、その教育・育成された人間達が体系化された育成機関を構築し、さらに後代を育成しつつ普及・波及させ、文明知識を列島に隈なく伝播させていくという手法を、様々な場面でとったのだった。

 東京大学の設立や士官学校(陸軍大学校や海軍兵学校)や各地の師範学校の構築などは、こうした手法が端的に現れた格好の事例のひとつだろう。

 研究や教育や医療分野や軍幹部の育成といった分野だけではない。鉄道や造船技術や製鉄技術の導入などでも、「院」が作られて研究・開発・検証が運営と同時に行われた。例えば大型の軍艦はイギリスのビッカーズ社に重ねて発注され、技術者を招聘して後に国産化に漕ぎ付けたし、時代は1901年(明治34年)と下るが、北九州に10年に及ぶ建設期間の末に操業を開始した「八幡製鐵所」などもドイツの会社に設計・開発を依頼し、同国の技術者を高給で招聘して建設したものであった。

 そのように多くの近代化事業で同じ手法が採られたし、富岡製糸場の構築なども同様の発想に基づいて施策されたものだった。

富岡製糸場 富岡製糸場
<富岡製糸場>

世界遺産(産業遺産)としての価値の解説部分と富岡製糸場の外観

「群馬県」の世界産業遺産申請キャンペーン用パンフレット
  <富岡製糸場と絹産業遺産群> より抜粋。
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<下仁田(しもにた)のこと>

 今回は足を伸ばさないが、甘楽(かんら)そして富岡(とみおか)の先の同じ街道筋(国道「254号」線を構成する往還)には「下仁田」の街がある。一応、紹介をしておこう。

 下仁田は妙義(みょうぎ)山や荒船(あらふね)山を扼する上信国境の町で、山域の麓に広がっている行政区だ。街の西部を進んでいってすぐに現れる「内山峠(うちやまとうげ)」を抜ければ長野に到る地域にある。


 特産品として「下仁田葱(ねぎ)」や「下仁田蒟蒻(こんにゃく)」の栽培が盛んに行われている。

 コンニャクは勿論、「コンニャク畑」の加工品を作る企業などによって全国的にも有名になっている。また、根の白い部分が太くて長いという特徴ある形状を持った葱は、冬場の鍋料理や鴨せいろの蕎麦には欠かせない逸品なので、ご存知の方も多かろう。

 下仁田ネギは、軸の白い部分に言い知れない程の豊かな甘みを持っているのが特徴だ。青い葉先も食べるが、その真価は茎(軸)の白い部分に込められていよう。料亭向けなどで県外に出荷される高級品であり、実のところは地元でも県内でも、残念ながら一般消費者向けの流通量は多くない。

国峯城方面を望む これは下仁田ではないが、小幡の丘陵地帯に広がる蒟蒻畑の様子だ。

見渡す限り、見事に苗が植えられている。

<下仁田ネギの思い出>

 亡くなった私の父が特に好物にしていたもので、私の家ではこの葱は親しみ深いものがある。15年以上も前の事、父が健在だった頃には例年飽くことなく下仁田葱の苗を仕入れて、丹精して自家栽培していたものだ。我が家での冬の食卓を飾る主役食材のひとつと言えよう。

 牛糞の堆肥を入れて、さくを切って(畝を作って)苗を植えつける。その際の「テンガ」の扱い様などは見事なもので、魔法のように畝が作られていく様が不思議であった。よく傍で見物したものだ。「さすがに農家の三男坊。農作業は随分やらされたんだね」などど軽口を叩いて茶化したが、その幼少期の苦労で身についた手業のお陰で、私達は収穫の糧の美味しさにありつけていたのだった。

 作番頭や小作を置く裕福な農家であっても、長男以外の男児は労働力の担い手にしか過ぎない。長男に比べて、その扱われようはまるで考えられないほどのものだったという。まして父の処では、その長男が長きに渡って継続されていた日中戦争に出征して不在だった。その穴を埋めさせられたのだ、とあるとき父は語った事があった。だから、父は農業を嫌って鉄骨屋という家業を興して、それに着いたのだろう。

 「下仁田ネギ」は鍋料理だけではなく、素材を活かした素朴な食べ方も出来るものだ。葱だけを焙リ焼きにしても、卵や肉と一緒に炒めてもよい。実に守備範囲の広い、何をしても一様に美味しく食べられる食材であろう。高級品なので値段は張るが、一度食べると納得も出来よう。11月に収穫されて市場に登場するが、この一度の収穫時期だけしか流通はしない。だから、深谷葱(ふかやネギ)や他県産の長ネギのように年中お目にかかれるという訳ではなかった。幸いにも我が家では父が熱心に栽培していたので、秋口から冬場を通して味わうことが出来たのだった。

 食べられる、特に素朴な「焙り焼き」などでは素材の良さが存分に活きて来る。その太い軸の葱をかじると、口中に何ともいえない甘みが広がって、つけた醤油とも良くあった。

 私はその焙り焼きが好きだったが、父は葱を主役とした炒め物(卵とじの中間を狙ったような仕上げ具合)を好んでいた。自分で作るのに、自分で食べる前に「食べろ、食べろ」と盛んに私達に勧めてばかりいた。父は自分でその甘みの深いネギを食べたいから額に汗して栽培していた訳だが、出来上がった葱の多くは姪や甥に配ってしまったり、私達家族に料理して勧めたりして、自分での消費は到って少ないものだった。
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小幡の歴史、観光案内 小幡の中心部

<歴史の街 小幡(おばた) 石器時代から古墳時代>

 甘楽では、佐久間、下小塚、三ツ俣の各地区で縄文遺跡が発見されて「磨製石器」や「石鏃(せきぞく)」、「石棒(せきぼう)」などが出土し、発掘・調査がされていた。さらに上小船(かみおふね)地区からは約1万年前に遡る旧石器時代後期を示す「槍先型尖頭器(やりさきがたせんどうき)」が出土している。

 石器時代やその後の、長く続く縄文時代にはすでにもう、この土地を舞台にしたヒトの暮らしがあったのだ。

 今の生活感覚からすれば山間の僻遠の地としか思えないが、狩猟採集の生活を支えて余りある豊かな自然が満ち溢れていて、寒ささえ凌げば、その暮らしは随分と豊かなものだったように思われる。

 弥生時代のものとしては、同じく下小塚、三ツ俣から、「壺」や「甕(かめ)」や「坏(つき)」や「鉢」、「器台(きだい)」や「高坏(たかつき)」や「皿」などの多くの土器が出土している。両地区は重層した時代に渡る遺跡だが、環濠集落などの遺構を示す発見までには到っていない。

 西大山遺跡は古墳であり、「埴輪(はにわ)」や「馬具(ばぐ)」が出土していて、古代の一時期、ここに大きな勢力が存在していた事を示している。
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<歴史の街 小幡(おばた) 古代律令国家の中で>

 JA新屋(にいや)支所の辺りになるのだが、「条里(じょうり)遺跡」が鏑川(かぶらがわ)に近い、町の北部で発掘されている。

 「条里(じょうり)」は都同様に碁盤の目状に区画整理された都市の事を示す用語である。同じく「条里制」は古代律令国家での国家規模での財政基礎づくりのために施行された制度を指すものだ。

 この取り決めでは、各辺が約109m(一町)で区割りされ、それぞれに道路や灌漑水路を整えたものとして耕地が規格化され、朝廷によって管理された。条里区画形状に土地を整備して、全国規模で開発を推進したのであったが、条里を端的に示す遺構の発掘は全国的にも数が少なく、現存例(発掘調査例)はまれなものである。

 「条里遺構」の発見は、飛鳥(あすか)時代や奈良時代には早くもこの地に朝廷の管理(制御)下に置かれた地方都市が建設され、国家による収税農地が形成されていた事を示している。

 山際とまでは行かないが、内山峠を越えて長野に到る手前の土地なので、交易などが盛んにあったとは考えにくい。しかし水量豊富な鏑川があり、豊かな水利と土壌に恵まれていたので、集落を築きやすかっただろう。

 「甘楽(かんら)」は、古代律令制に置いては東山道7国(近江、美濃、信濃、上毛野、下毛野、陸奥、出羽)中の「上毛野国(かみつけのくに;蝦夷に対する前線なので国司は天皇の一族が勤めるという「親王任国」)」にあり、701年の大宝律令では上毛13郡のひとつにあがっていた。

 10年後には幾郷かが分離して多胡(たご)郡となるが、甘楽郡はその後も統合はされなかった。

小幡の消防栓 (小幡)雄川堰を歩く
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<歴史の街 小幡(おばた) 郡(甘楽、多胡)の創設と大和朝廷の前衛>

 711年(和銅4年;平城京に遷都した直後)に行われた「多胡郡」の建郡の記念碑が吉井の地に今も残っている。有名な「多胡碑(たごひ ;国宝に相当する「国特別史跡」に指定された石碑)」がそれである。

 太政官(だじょうかん;政府首脳 朝廷を支えた高級貴族によって構成された政治府)が出した郡の設置命令を石碑の文面として刻んでいる。刻まれた文や文字は漢字のみから成る漢文である。なお、政府の公式文書は様式があって、その後の長きに渡って、ずっと漢文が用いられていた。

 当時の朝廷の統治力の及ぶ、列島最北の地として建設されたのが吉井の多胡であった。それ以北は、朝廷の勢力領域ではなく蝦夷(えみし)と呼んだ在地勢力の納める土地で、土着の豪族の勢力基盤であった。

 その広大で豊かな土地には、それぞれの部族が生活を営んでいて、それぞれの民を統べる強大な権力を持った首長がいた。群馬の前橋南部域に残る多くの巨大古墳は、そうした勢力が優勢だったことを示している。彼らは大和朝廷の侵略に対するために、時に大きく連合してこれと戦った。

 そのまつろわぬ民との間では、様々な交易は行ったし、流通や通行はあったことだろう。しかし、そこは朝廷の権威が及ばない領域で、統治することはおろか、収税対象とする事(租庸調の強制)などは勿論出来ない地域だった。

 甘楽郡などからの移住者とともに「新羅(しらぎ)」からの帰化人がその新たに建郡された土地に移住し、朝廷からは「吉井連(よしいむらじ)」として姓(かばね)を下賜されている。

 なお、「多胡碑」同様の遺構は那須国造碑(下野国;栃木県大田原)と多賀城碑(陸奥;宮城県多賀城)に残っていて、日本三古碑とされている。下毛は上毛の支配後の前衛となった土地であり、多賀城は後の平安期まで続く大和政権の東征の前衛拠点であった。前線基地として律令の令外官である将軍(鎮守府将軍や征夷大将軍)が任命されて赴任し、常設の軍隊がその地に駐屯していた。


 菅野英機(日本民俗経済学会理事長)氏の多胡碑に関連する研究によれば、新羅からの渡来人は、百済や高句麗からの人々と同様に多彩な先端技術を持っていたという。優勢な武器とするための「製鉄技術」も彼らの得意とするものだったし、軍馬の生産・飼育もそのひとつだった。さらに甘楽のその後に繋がる重要な産業技術についても同様の事が言えた。生糸などの養蚕・製糸技術や瓦などを製造する窯業の技術も彼らの先端技術によってもたらされたものだった。

 そうしてみると、明治政府の施策による藤岡製糸場の建設から遥かに遡る1200年も前に、古代王朝であった大和朝廷の施策によって列島最初の近代化事業が甘楽の地で為されていたのだった。

 半島からの最先端技術が移植されて、鉄や馬、生糸や織物、瓦などの生産が活発に行われた。この新しい技術導入による革新によって大きく国家基盤が発展し、朝廷はその支配範囲を下野や陸奥や奥羽の地にまで広げ得たのだろう。


 そういえば、渡良瀬川の一帯、桐生(きりゅう)の辺りは古墳時代の古代国家における最前線ともいえる地域で、図らずも製鉄の一大拠点であった。今考えれば、後の世になっても発揮される甘楽や吉井の発展の礎がこうした帰化人の積極的な入植策にあったのだ。

(小幡)雄川堰

雄川から取水して町屋を潤して流れる雄川堰。
これは上水(飲料水)ではなく、生活用水である。
雄川堰をゆく

妻屋根の養蚕農家や町屋は資料館の処から北に向かって少しの間続くのだが、その先の酒屋さんを過ぎたあたりではもうご覧のとおり、すっかり今風の街並みになってしまう。

この少し先に小幡八幡への参道入り口があった。
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<歴史の街 小幡(おばた) 後世へ繋がる産業と文化の礎>

 さらに時代が下って、平安時代の延喜式には、上野国(かみつけのくに)の御牧(9箇所設置されていた)のひとつである「新屋(にいや)の牧」 が置かれたとの記述がある。軍事行動力の礎として貴重だった軍馬の生産と育成が国家管理の下に、この地で継続的に行われていた訳だ。

 となれば、そうして飼育した軍馬を中央へと送るための街道が整備され、往還には「駅」が置かれていたに違いない。都や、平安期であれば更に奥州制圧のための国家最前線の陸奥の「多賀城(たがじょう)」などへ続く道のりである。

 調べてみたら、701年の大宝律令では「甘楽郡(かんら の こおり)」が上野国の13郡のひとつとして記載されていた。となれば、中央政府の「大和朝廷」による統治基盤の政庁である「郡衙(ぐんか)」がこの地のどこかに建設されていたはずだ。条里の遺構が発見された新屋(にいや)がその地なのかも知れない。

 甘楽の地は、確かに古代律令における主要な都市として発展していたものだった。


 先に触れた新たに開発設置された多胡(たご)郡と同様に、それ以前の早い時期に、新羅系の渡来人では無く滅亡してしまった高麗人(こまびと)系の渡来人がうち立てた郡だという説もある。「新屋の牧」が整備され、馬の生産が行われていたのも、馬育に対するこうした技術的な背景が関係していたのかもしれない。

 新田(にった)で発見された「東山道(都と列島の東を結ぶ動脈)」の道路面と駅の遺跡(発掘・調査済み)などの事例と違って、古代国家の道路の痕跡を示す遺跡は発見されていない。

 律令国家の大動脈として整備された「東山道」は、駅の間を広い直線の道路で結んでいた。この東山道は上野国の西部では後世の動脈となる中仙道(碓氷峠から安中方面)に沿っていたので、富岡に抜けて北上すれば、直ぐにその主要道路に出ることが出来たのだった。

(小幡)雄川堰 雄川堰の流れ
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<武田二十四将として  「風林火山」の先陣を飾る小幡の赤備え>

 さて、さらに時代が下った平安末期や鎌倉時代、あるいは室町後期の戦国期までの間の歴史的な遺構の主役、気になる中世の城の遺構としてはどうだろう。

 調べてみると、知っていた戦国武将の「小幡」氏が本営として構築した大城郭の「国峯(くにみね)」城だけでなく、他にも幾つかの城址があった。甘楽の地の丘陵地帯には、白倉城、国峯城、庭谷城、天引城などがあったのだ。いずれも分類としては「山城」である。

 今回はその丘陵にある古城跡へは行くことができないので、城址めぐりはまたの機会。これもまた富岡の文化遺産とあわせて、後日のお楽しみということになる。


 小幡の地は、鎌倉時代から戦国時代にかけてこの地に勢力を張った豪族、「小幡氏」の根拠地だったところだ。

 小幡家は武蔵七党系図によると、児玉党の有力な一派である。その出自をもつ一族が埼玉北西部からは山を越えた小幡の地に勢力を張った経緯が不明であるが、小幡氏の一族はこの地に定着して、大きな権勢を誇った。そして、更に全国に一族は広がっていく。

 鎌倉御家人(地頭)として統治した小幡一族の繁栄を基にして、一帯も栄えていたのだろう。

 小幡氏は後に本拠を国峯城へと移すが、その城は山城部・丘城部・平城部が東西2km、南北2.5kmに及ぶ広範囲に展開する大城郭だった。城の構築としての高低差が何と244mに及ぶと言う壮大なものだ。

小幡の赤備え

戦国期の武将、この地を領有していた「小幡氏の赤備え」。
信玄の先鋒を勤めた勇猛な武将が主で、小幡一族のものだ。

戦場で一際目立つ「赤備え(あかぞなえ)」は
武勲の高さと潔い覚悟を表すもの。

主家の許諾無く身勝手な着用は許されないもので、武人としての誉れ高い装いであった。
武者行列の告知
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武者だけでない行列 <桜祭り>

武将や側衆、姫御寮人や腰元、などに扮して
盛大に行われる祭りの様子。


資料館での戦利品。観光課作成の「まち歩きマップ」も写真と地図があって大いに役立つ。
それとは別の
「キラッと かんら 自然と歴史の散歩道」のリーフレットでこの武者行列が案内され、祭りの様子を写した写真が掲載されていた。


リーフレットには<名水流れる織田宗家ゆかりの城下町 小幡。 自然と伝統がとけあう町>と、その帯に書かれている。

「名水」とは、南北に流れる雄川や、
そこから城下に引き回した小堰や大堰と呼ばれる「雄川堰」を指して言うのだろう。

清流であり、季節には蛍が飛び交う美しい流れだ。

<戦国の武将 小幡氏の光と影 (攻防と滅亡)>

 小幡氏は箕輪の長野氏の配下に入り、上州の防衛を行うが、主家が信玄の猛攻によって壊滅する。その後の小幡家は武田方の勇猛な武将として活躍する。小豪族は圧倒的に優勢な勢力に追従するほかに<家>を保つ方法が無かったのだ。

 武田氏滅亡後は織田信長配下の「滝川一益(たきがわ かずます;織田家 関東管領 )」に従った。一益を「関東管領」と書いたが、織田家は幕府を開いていないし、足利幕府の執権にも就任していないので、正確には管領職ではなくて「関東取次役」である。しかし、その権限は管領職と同様の大権であり非常に強大であった。一益は、甲斐で宿敵の武田勝頼を撃破し、そのまま信濃を席捲し、さらに上野へ進出し、ついで上野の北条勢力を一掃してこれも席捲したのだった。この功績により上野国と信濃国のうちの2郡(佐久郡、小県郡)を領地として信長から拝領し関東を統括したのだった。

 「本能寺の変」による織田家滅亡による国人衆の離反(国人衆の一人で家老となっていた者の裏切りが発生する)や北条氏の巻き返しにあって「神流川の合戦」に破れ、居城の箕輪城へ撤退した滝川一益は、居城であった厩橋城や沼田城などと供に上野国の放棄を決意し信濃の佐久へと撤退する。(与力となった多くの国人衆は北条勢と交戦する積極性を欠いただけで、敗戦後も一益の支持には従っていて、佐久への退去までの間の人質を出している。)

 「変」以後は、そこに進出して来た小田原北条氏の勢力下に入り、北条方の武将として従ったが、秀吉による大攻勢であった「小田原攻め」の際に、国峯城も落城する。

 小幡氏の本営である国峯城落城の折、主家防衛(北条家)のために小田原城に詰めていた当主の「小幡信貞(おばた のぶさだ)」は、小田原落城に伴って亡命した。このときに頼った知己の真田家の当主が「真田昌幸(さなだ まさゆき)」であった。長男と次男の二人を長篠で失って、三男だった昌幸が真田宗家を継いでいたのであった。


 甘楽(かんら)の領地を対北条方の主力だった徳川家康に渡して、小幡氏の一族は信濃の上田(うえだ)や後に上野の沼田(ぬまた)を拠点とし吾妻(岩櫃城;いわびつじょう)や利根(名胡桃城;なくるみじょう)にも勢力を張った真田氏を頼って信州の地へと去るのだった。

 真田一族も武田氏にあっては勇猛果敢さで名を馳せた小幡家の同僚。同じく信玄の騎馬軍団の先鋒を勤めた家だ。

 信玄在世時の当主であった「真田幸隆(ゆきたか)」と長男の「信綱(のぶつな)」は天下一といわれた武田騎馬隊を構成する武田二十四将に描かれている。その勇猛を謳われた長男と次男の二人は、織田信長と徳川の連合軍との激戦、「長篠の合戦」で、有名な三段討ちの犠牲となって果てる。

 武田騎馬軍団を代表する誉れ高い侍大将も足軽の放つ鉄砲に打ち勝つ事は出来なかったのだ。組み討つことなく倒れた武将としての無念は凄まじいものがあったろう。

 小幡家も当主と長男の2将が、有名な軸に描かれている。真田と小幡が供に並んで「武田二十四将」に2人ずつで描かれているのは、彼ら先方衆の勇猛果敢さと忠誠心の強さを大きく表している。

 何故かと言えば、甘利や板垣や飯富など宿老を初めとし、土屋、内藤、馬場、小山田、高坂、原などといった侍大将達が武田の勇猛を代表する武者だが、それらとは扱われ方が違っているからだ。なぜなら、彼ら多くの武将達は皆、その家の当主だけが描かれているに過ぎないのだった。
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雄川堰横の町屋の様子

小幡の中心ともいえる「雄川堰」の横のゆったりとした歩道。
画面の左に相互通行の1車線道路があるので、こちらは車が滅多に通らない。
藩主、織田宗家の来歴を解説する案内板

<織田宗家の領地として  歴代の小幡藩主の変遷>

 1590年(天正18年)から1601年(慶長6年)までの11年間は、小幡領2万石として「奥平信昌(おくだいら のぶまさ)」が領主となった。上野国の「奥平」郷(吉井周辺)を本貫地とする武将で、 ―関が原の合戦での功績からだろう、徳川家康の娘婿となった― 戦後の1602年(慶長7年)に10万石に加増を受けて小幡から「美濃 加納」へと転封する。

 奥平氏以後の初期の小幡領の統治者は目まぐるしく交代する。1602年の奥平氏による小幡領転封から後の織田氏による藩主時代を迎えるまでの14年間で4名の領主が立ち替わって、小幡藩領2万石の領地を納めている。

 家康の征夷大将軍の就任から徳川幕府が正式に開かれ、それ以降は「幕藩体制」が採られて全国が整備されていく。大名家は幕府により任命される事になるが、恩賞による加増として国替えとなる場合もあるし、その逆の減俸や改易もあった。こうした政策によって統治体制の基盤が整うのは、三代将軍の家光の治世に入ってからである。

 特に2代将軍の秀忠の治世は幕府基盤が強固に打ち立てられた時期であった。「武家諸法度」だけでなく、「禁中ならびに公家諸法度」などの発布によって体系的な法整備がなされる中で、数多くの基盤強化策が採られた。家康による駿府引退後の大御所政治によって江戸との二元政治が行われたが、1616年(元和2年)の家康の死去によって江戸への一元化が為された。

 家康死後の大名統制策は峻烈を極め、外様大名24家(中心は豊臣恩顧の子飼い大名達の取り潰し)、一門及び譜代大名もその例外ではなく15家に及ぶ多くの大名が断絶された。織田家・豊臣家の勢力基盤であった近畿地方を一門や譜代衆で固めるという政治的な配慮での異動も多く行われた。


 小幡藩においては、二元政治(江戸、駿河)が採られていた最中に当る時期に頻繁な交代が行われたわけで、戦乱時の活躍による恩賞としての転封が必要な状況だったのだろう。2万石という手ごろな石高もあって、藩主の頻繁な交代が為されたのではないだろうか。これでは、小幡の領民も落ち着いて暮らすくことは出来なかったに違いない。

 やがて戦国の世が終結して、織田信雄(信長の次男;のぶかつ)が1615年(元和元年)に大阪夏の陣での恩賞として徳川家から上州小幡2万石を与えられて、福島(上州福島駅の周辺)に陣屋を設ける。その後、織田宗家が藩主となって8代152年に渡って小幡藩領を統治することになる。


 明治維新までの期間に統治が継続していないのは、小幡に領地を得た152年後に織田宗家が滅んだわけではなく、出羽国内に高畠2万石を与えられ移封していったためだった。改易(取り潰し)を受けたのではなく、江戸から僻遠の地へ追いやられた形で、この名誉ある家(織田宗家)も遂に近畿地方へ戻る事無くさらに他国へと国替えしていくのである。
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小幡陣屋(御殿)の様子 小幡藩の御殿の様子


図の左中央にある「番所」と「中門」が再現されていて、庭園が再現された「楽山園」への入場口になっている。
また、「拾九間(じゅうきゅうけん;幅 約34m)長屋」や「土塁」が庭園と供に再生されている。

<織田宗家の領地として  上野(こうずけ)国「国主」の待遇>

 織田家統治時代の藩主、3代「信昌(のぶまさ)」は1629年(寛永6年)に福島人やから正式に小幡への藩邸移転を決め、検地を行った。

 その際だったのかさらに前代に遡るのか、現在の楽山園の地に新たな陣屋を構築し、地割・御用水割・水道見立てなどを行ったと伝承されている。記録によれば、1642年(寛永19年)に多くの普請を完了して、正式に小幡陣屋(藩邸)に移転したのだという。戦国武将の小幡氏の重臣であった熊井戸氏の邸宅跡だった場所で、西に雄川への20mの断崖を持ち、豊かな水源が確保できる要害の地であったため、藩邸建設地として定められたのだと言う。

 こうした小幡移転による整備工事は13年の歳月を必要とした大事業だった。小幡城下の町割りや治水工事は、大規模な都市建設に他ならなかった。歴史民族資料館の敷地に城の大手門が置かれて、それを境界として町屋と武家地が分けられた。傾斜を上る北側には武家屋敷を配置し、降っていく南側へは町屋を置いた。雄川堰を南北にとおして、これを潤したが、北の堰の界隈は、平入りの町屋と妻入りの養蚕農家の建物が立ち並んで風情があったという。今も雄川堰の横手、お休み処「信濃屋」の界隈には、養蚕農家が立ち並んだ景観が愉しめる。

 信昌は江戸幕府にあって奏者番や若年寄の要職を勤めた実力者となる。

 その功績により1850年(嘉永3年)に格式高い「国主格」を拝命し、2万石にしか過ぎない領地を遥かに越える高い権勢と格式を手にする。

 上野国には厩橋(うまやばし;前橋 17万石)や高崎(8万3千石)、さらに館林(6万石)、沼田(3万5千石)、安中(3万石)、伊勢崎(2万石)、七日市(1万石)、吉井(矢田藩とも言う;2万石)などの諸藩があったが、小幡藩(2万石)はそれらの各藩の上位に位置する一国の領主の地位と名誉を受けた。上野国の国主としての格式を持つの家とされたのだった。



 しかし、2万石の実入りしかない織田家が国主並みの体面を保つための費用は実に莫大だったはずで、その名誉に浴するための出費は随分と藩財政を圧迫した事だろう。

 してみると、こうした特別な計らいも、名家である織田家に対する儀礼的な意味合いだけでなく、幕府中枢の首脳達による高度に装われた疲弊政策のひとつであったのかもしれない。上野国は関八州と外部の境界地域である。それは、いわば江戸の防衛線である事を意味していた。そのため、置かれていたのは「譜代」ばかり。代が進んで、後に松平家などの「親藩」が配置され始めるが、幕府創世期はそういった状況にあった。

 しかも上野国その藩主家の顔ぶれは層々たるもので、井伊家(高崎、安中)や榊原家(館林)や酒井家(厩橋、伊勢崎)を筆頭として、本多家(白井)、堀田家(吉井)、牧野家、(大胡)など松平家時代からの譜代衆、みな徳川の重鎮の家であった。

 七日市藩の前田家(前田利家の5男「利孝:としたか」が初代藩主で以後明治まで存続する)と沼田藩の真田家位のもの。前田家も特殊な家だが、沼田藩主となった真田にも深い事情があった。古くから徳川に敵対した「真田昌幸(さなだ まさゆき ;武田信玄の訓育をうけた名将)」と息子の「信繁(のぶしげ ;幸村の通り名のほうで有名)」であったが、「信之(のぶゆき)」は長男であり二人とは独自の路線をとった。

 袂を「関が原」の合戦から別った信之は、家康の養女となった本多忠勝(徳川四天王の一人で重鎮)の娘婿であり、徳川に忠誠を誓い臣下となった家だった。秀忠の中仙道軍(徳川主力)に属して関が原を目指して親兄弟と上田で戦い、その後の大阪の冬の陣、夏の陣では弟と対峙し息子達を大将とする軍で信繁率いる真田軍と激闘した。後に松代に転封し長男に分封して沼田藩主の座を譲る。


 前田、真田のお二人の名門出身の殿様が辛うじて外様の藩主家だったくらいで、他領はみな、今見たような状態だった。
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御殿の再現模型 楽山園にある小幡陣屋の御殿再現模型

<松平家の領地として  もうひとつの藩主家>

 その後の小幡は、明治維新間まの間ずっと松平領となって「松平(まつだいら)」氏の統治下に置かれる。小幡藩を納めた領主家としては織田宗家が八代に渡る長さだったわけだが、この松平家は織田家の統治時代に匹敵する4代の長きに渡って統治する。

 松平家による小幡藩は1767年(明和4年)に小幡2万石に松平家が封じられたことから始まる。この松平家は、(戦国武将の小幡家の次に統治を行った)初代藩主であった「奥平(おくだいら)」家(上野国吉井が本貫地の家康娘婿の家)とは血縁のある家で、親藩である。

 松平家小幡藩の初代藩主となる「松平忠恒(ただつね)」は陸奥(桑折藩2万石)の3代目の当主であった。

 唐津藩主だった松平乗春の五男の「忠暁(ただあき)」が桑折藩主だった「松平忠尚(ただなお)」の養子となり、桑折藩2代目を継ぐ。その次男として生まれたのが桑折藩2万石の3代目藩主となった「忠恒(ただつね)」、その人だった。

 幕府では奏者番を勤めて上野国「篠塚(しのづか)藩」に移封となって、その後は寺社奉行という要職を兼務する。

 そこでさらに活躍して、同じ上野国にある「下里見(しもさとみ)藩」2万石へ転封となって、今度はさらに重い職責を持った「若年寄(わかどしより)」を勤める。若年寄は幕臣である旗本・御家人の支配と、奉行職などの長官職を掌握した職制で、幕政の中心をなす要職だ。

 八代将軍「吉宗(よしむね)」の死後の処理での手際や家重(いえしえ)や家基(いえもと)治世における活躍を評価された「松平忠恒(ただつね)」が、さらに転封となって小幡藩主の座に着くのであった。
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保存されている「松井家」住宅

保存家屋、
「松井家」住宅。(庄屋クラスの自営農家の居宅)
蛍が飛び交うらしい

<街に残るもの その1 「松井家住宅」>

 「小幡」の三叉路を雄川堰と直交する道を西に進んで降りていくと、坂の途中に道の駅「甘楽」が現れる。

 城下町小幡のメインストリートである雄川堰横の桜並木を歩いても良いが、堰ではなく雄川の本流に沿って、美しく続く遊歩道が整備されている。再生された大名庭園である「楽山園8らくざんえん)」の裏手から川岸に沿って歩いてくると、この道の駅の横手に出る。そのために道の駅は、地元の方の散歩での休憩スポットにもなっているようだ。

 そして、道の駅の物産販売所の裏にある保存家屋の住宅は一際目を引こう。江戸時代に名主を務めた「松井家」の屋敷が保存されている。

 江戸中期のこの地方の典型的な農家のつくりで、家の内部、土間となっている東南の角に厩がある。古い状態だった頃の私の実家の本家の建屋にあまりに外見が似ていたので内部を想像してみたら、その部屋のつくりといい、建具の設えといい、間取りまでもがまったく同じであった。

 これにはさすがに少し驚いたが、そういえば、行田のさきたま古墳群の歴史博物館脇にある保存家屋もほぼ同じつくりだった。
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雄川堰は桜並木でもある 雄川堰の静かな流れの脇は、
桜並木でもある。

車道はこの写真に表されたの紫陽花の植栽の右手であり、画面左の広い道路はいわば遊歩道のような状態になっている。


自転車でその中央を気持ちよく走行していたら、前方を県外ナンバーの真っ赤なポルシェが走ってきて、肝を潰した。


地元の生活者なら兎も角、
少しは考えれば良いのに、と思ったが・・・。

<街に残るもの その2 「雄川堰」>

 町の西部域を南北に縦貫する雄川から取水された「雄川堰(おがわぜき)」が、町の中を流れている。メインストリートは、この堰に沿っていて、今も石垣で積まれた用水路には豊かな水が流れている。

 この用水は、主要な家臣(家老や奉行職などの重臣)の武家屋敷を流れて各家に用いられて、さらに藩士の屋敷が立ち並ぶ武家地へと引き回されて生活に使われ、なおも流れてその下流を占める町屋の一帯を潤して、その後はずっと下流域の水田を満たして収穫に貢献した。

 織田宗家の移封によってこの仕組みが整備された。

 大規模な土木工事によって城下一帯のための生活用水の主要流路となる雄川堰が掘削されて、雄川から取水されて流れ行くように開発され、さらに下流域を含めて広範に整備されたものだ。

 ところで、町屋に入ってからの堰の流れは桜並木になっている。そこでは例年賑やかに、「さくら祭り」と共に「武者行列」が行われる。
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武家屋敷街の「中小路」入り口


「中小路(なかこうじ)」は
藩主が通った幅14mの広い路。

「大手門(総門)」は現「歴史民族資料館」の敷地の場所に設置されていたが、勘定奉行屋敷を鍵の手に回りこんで、さらにその隣にあった大奥の屋敷地から真っ直ぐに伸びて御殿の入り口の「中門」まで、現「楽山園」の入口まで続いている。

<街に残るもの その3 「小幡陣屋周辺の武家屋敷の佇まい」>

 雄川の脇には小幡藩の御殿跡がある。つまり、小幡の街はその雰囲気を今に伝える由緒ある「城下町」であった。

 藩屋敷にあった庭園である「楽山園(らくざんえん)」は織田宗家が藩主の代に回廊式の大名庭園として作られたもの。その喪われてしまった往時の姿が、現在は優美に復元がされている。しかし藩政時代からの歴史があるわけではなく、庭園が整備されて開園したのは平成24年になってからとの事だ。

 楽山園の横、その陣屋跡に到る道筋は小幡藩の重臣達が住まっていた区画であり、そこには往時のものが今に残っている。歴史的な見所ある建物である、小幡藩勘定奉行を勤めた「高橋家」の武家屋敷や「松浦家」など重臣の屋敷地だ。

 高橋家は解放されているので、一般者の出入りは自由になっている。雄川の流れを引き込んで池や山水を作った見事な庭や、母屋や白壁の長屋門などが残っている。

 また藩成立当時からの古い歴史を刻んだ石積み(石垣)が「中小路(なかこうじ)」に残されている。通りは普通の道路でもあるので、自由に見学できる状態だ。

 空気感が他の場所と違うのは、辺り一帯が綺麗に清掃されているからでもあるが、やはり秘められた歴史の磐石の重みによるところが多かろう。歴史を重ねると、モノの質量はその歴史の分だけの重みを増すようだ。

 落ち着いた佇まいの「武家屋敷通り」であり、優雅な雰囲気に溢れた実に結構な場所であった。
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「中小路」の勘定奉行役宅

権威の象徴としての幅広い路を、大手の中(御殿の外郭部分)に通すのだった。
この大手門の内側に残る道は充分以上に広い幅を持っているが、本来ならばさらに広い「小幡大路」を建設したかったのかもしれない。

(「大路(おうじ)」とは、鎌倉の若宮大路のような象徴的な意味を持つ道である。幅24m以上の路を指す。)
織田家としては、その昔に誇っていた権勢を示すために桂離宮の築庭を模しただけではなかろう。

この山間の隠れ里のような城下を、正しく都並みの整った街区として、京都や鎌倉の古都の様に美しく整理された別天地としたかったのではないか、と思う。武家の棟梁として君臨したはずの織田宗家の歴代当主が住まう土地 ―聖なる領地― に相応しい場所としてそこを建設したかったのかも知れない。

<織田信雄(おだ のぶかつ)という武将>

 初代の小幡藩主として奥平氏の後、幾人かの目まぐるしく変わった藩主の後に転封されたのが、織田宗家の後裔である「織田信雄(おだ のぶかつ)」だった。

 織田信長の次男である信雄は、信長の在世中は武門の名家である「北畠家(きたばたけ;公家大名であり村上源氏の一族)」の養子となっていた。養子となって数年の後、伊勢国の統治の実権を得るため、守護であった養父を暗殺し、北畠の家ごとそっくりを簒奪したのだった。まさに戦国の世を示す「下克上」の典型と言えよう。

 伊勢を根拠地として信長の「天下布武」の一翼を担ったが、無断で侵攻した伊賀攻めで失敗するなど、長男の「信忠(のぶただ)」よりも数段能力が低く、三男の「信孝(のぶたか)」よりも劣っていると周囲の武将からは認識されていた。

 和田竜さんの時代小説「忍び国」が実に楽しい。織田信雄が養父である「北畠具教(きたばたけ とものり;名門 北畠家第9代目の当主 ;北畠家は「和漢の学」を家伝として天皇へ仕えた家)」を暗殺する場面から話が起こり、信雄が伊賀攻めを催すところが小説内での大きな役割を担う。伊賀忍者の生き方が主題ではあるが、臣下の術に操られる危うい主君として信雄がまさにイメージそのままで登場している。

 著者の和田さんは、このページの最初に紹介した「箕輪城(みのわじょう)」を守った「長野業正(ながの のりまさ)」の娘婿でもあった成田氏を主題に据えた時代小説、舞台は長野家が滅亡して、さらに武田信玄や上杉謙信などの英雄がすでに亡くなって小田原北条家が関東を席捲した時期、豊臣氏の天下掌握の総仕上げの一戦となった「小田原攻め」に置かれている。天下の威を持つ秀吉側近の奉行衆(石田三成、増田長盛、大谷吉継の関東勢征圧派遣軍の三武将)と対戦して忍城を守る成田氏の在り方(戦国武将の生き様)を活き活きと描いた「のぼうの城」の著者である。


 日本近世史の歴史上の大事件である「本能寺の変」で父である信長と兄の信忠を同時に失ったが、信雄はこの惨劇に際して「またとない好機を得た」と喜んだという。まさに骨肉相食む戦国の世ならではの話だし、信雄の近視的な状況把握の不適格性や政治家としての能力の限界を端的に表したエピソードであろう。

 信長を失った事で、硬直した「中世」 ―組織や機構や発想、あるいは滓の様な既得権など― の打破が頓挫するし、経済的にも信長が推進した重商主義への流れが滞る。

 多くの事跡は後に台頭した秀吉によって引き継がれるが、「楽市楽座」の運用による商業の活性化や、「機動軍団」の創設による武家の領地・土地からの開放と武士層の改革、さらに貿易や港湾事業などの流通・物流の掌握による経済基盤の構築など、様々な事象が多岐にわたって停滞する結果となる。


 信雄は、父が推進したこうした諸般に渡った事業の発展が、謀反の勃発によって一瞬で失われてしまったのだという事実、「革命児・信長」の喪失が意味した「国家規模での損失」という、事の重要性には思いが及ばない。その偉業の中断を「無念」と思うどころか、我が世の春のみを願うような、それ程に凡庸の将器であった。

 そうした意味では、先進的な発想を持った信長の後継者として真に相応しかったのは、織田宗家の後裔ではなかった。己ひとりの努力と培った実力とで権力の座を勝ち取った秀吉その人こそが、英雄信長の後継足るに相応しい器を備えた人物だったのだ。歴史が持つ大きな力(うねり)はアクシデントには見舞われたが、その時代を担うに相応しい、間違いない人選を行っていたのだった。
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「中小路」の勘定奉行役宅「高橋家」

小幡藩 勘定奉行役宅 「高橋家」。

現当主がお住まいだが、
一般に開放されていて、心字池や庭園など自由に見学ができる。

(雄川から取水して邸内に流れを取り入れている。)
藩主、松平家の大奥

松平家が藩主として小幡を領有した折の「大奥」跡。

黒船来航の際には、江戸城の奥女中達が何を逃れるために、ここに避難してきたという。


「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)
 わずか4杯で夜も眠れず」

と謡われた4隻の軍艦来航時の混乱と驚嘆が手に取るように判る逸話だ。

 長男の「信忠(のぶただ)」は信長程ではなかったが、それでも父の後継に足る将器を備えつつあった人物だ。父が本能寺で明智勢1万3千の明智勢(織田家第一等の機動軍団)によって謀反された1582年(天正10年)の「変」勃発の際に、同じく落命している。

 本能寺とは離れた妙覚寺に宿泊していて父信長の救援に向かおうとしたが、織田家きっての行政官僚だった京都所司代「村井貞勝(むらい さだかつ)」に諌められ、二条御所に立て籠もった。「誠仁(さねひと)親王」を脱出させた後自刃し、貞勝も自分の二人の息子と供に明智勢に討ち取られている。

 余談だが、貞勝の娘の「はる」は佐々成政の正妻。また同じく行政官僚で武将だった「前田玄以(まえだ げんい)」にも娘を嫁がせている。

 玄以は信長に見出されて重用され、信忠付きの側近として仕えていた武人だ。「本能寺の変」の際、信忠の命令で信忠の息子の「三法師(さんぽうし)」を連れて脱出して難を逃れて存命し、その後は秀吉の奉行衆(京都所司代職)として活躍する人だ。
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小幡陣屋(藩御殿)への御成り道 「中小路(なかこうじ)」の様子。

藩主が通った幅14mの路だが、写真の左側は中学校の建物。

正面奥が小幡藩の御殿である。

<織田信雄(おだ のぶかつ)の画策と人物の評価>

 それを期にして、信雄は織田家の実権を主中にすべく様々に画策するが、ことごとく失敗する。

 明智を討ち滅ぼして主家の仇をはらした殊勲者の豊臣秀吉が、前田玄以によって妙覚寺から脱出していた嫡孫の「三法師」を織田家の後継として強力に推したためだ。

 その後、秀吉の台頭に危機感を募らせた織田家宿老の「柴田勝家(しばた かついえ)」は同じ権力者の「滝川一益(たきがわ かずます)」や信長の三男の「神戸信孝(かんべ のぶたか;信雄同様に名家である神戸氏の養子となっていた)」と同盟して対抗する。

 そして遂に秀吉の挑発に乗って戦端を開くが、「賤ヶ岳(しずがたけ)」の決戦で敗れ、領地の「北の庄」に追い詰められて妻となった信長の妹「お市」の方と供に自刃する。優勢な対抗勢力を失って孤立した一益と信孝は、この勝家滅亡で秀吉への降伏・恭順を余儀なくされるのだった。


 利害の一致によって秀吉と手を結んだ「織田信雄(おだ のぶかつ)」は、対立していた宿縁の敵(それは弟でもある「信孝(のぶたか)」だったが)を岐阜に攻めて、遂に自刃に追いやることに成功する。

 しかしその後、秀吉との対立が顕在化していって、今度は父の稀有の同盟者だった徳川家康と手を結んで、「小牧長久手の役(こまき・ながくて のえき)」で秀吉の連合軍と戦う。家康はこの戦いで秀吉を打ち破って勝利するが、しかし信雄はその後、同盟者の家康を差し置いて一方的に秀吉と講和を結んでしまう。

 信雄のその後は、秀吉の側衆の地位を得て、「豊臣(とよとみ)」の姓を下賜された秀吉の臣下として日々を送ることになる。
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現存する「中小路」の石垣

小幡藩の当主となって、
奥平氏の後(さらに、数名の藩主の人事交代の後)にこの地を統治したのが、織田信長の次男。

織田宗家の息子の中で、実に巧みに世渡りして生き残った「織田信雄(おだ のぶかつ)」であった。
織田家はその謀反の勃発でNO1とその後継者を同時に失い、
さらに側近のエリートである信長と信忠の供廻衆のすべて失ったのだった。


信長は家督を継ぐ以前から、馬廻役の中からこれはと思う才気を選抜して親衛隊の一員とした。

彼らを育成するため、「黒母衣(くろほろ)」衆や「赤母衣(あかほろ)」衆という特務家臣として任命し、昼夜を問わず側近くで仕える武者としたのだった。

母衣衆に選抜されるのは非常な名誉で、彼ら覇選び抜かれた側近中の側近衆であるし、親衛となる旗本衆なのだが、「使番」を主要な役務とした俊優達だった。

(本能寺の変の際には、信長と運命を供にしたのは「小姓衆」であった。純然とした母衣衆ではなく、その予備軍とも呼べる存在であった。)


彼ら本能寺で倒れた側近達が生きてあれば、その後、多くが奉行や大名となっていたであろう。織田家の「切り札」的な腹心達だが、彼らの自己犠牲による奮戦もむなしく、圧倒的な明智の勢力を前に全滅していた。

たとえば、彼らのうちで幾人かが存命であれば、主家の没落を食い止める力も振ったに違いない。その後の織田家の命運もまた、今私達が知っている内容とは違っていたかもしれないと、私は考えている。

 さて、信雄だが、本能寺の変が勃発した際(変の発生後)に、父が構築した一大城下町である安土に進出しそこを固めた。迅速な軍事行動であったが、その後の対処がいけなかった。

 城やそこに蓄えられた財貨などをすべてそのまま返却して撤退した「明智光秀(あけち みつひで)」の娘婿であった左馬助こと、「明智光春(あけち みつはる)」の英断もあって信雄は難なく無傷で城を手中にした。

 しかし、人に暗愚と言われた持ちまいの手腕を発揮して、城に火を放ち、世界最大級の城郭として信長が工夫を凝らし、命を受けた選び抜かれた匠たちが心血を注いで建設した「安土城」を、いともあっけなく灰燼に帰してしまったという。たとえば長編の時代小説「火天の城」を読むと、この城の構築がいかに多くの困難を伴っていたかが判って、興味深い。

 これは本能寺近くに教会の土地を貰って寺院を作って信長から重用されていた宣教師、「ルイス・フロイス」が本国への公式報告書として記述した報告内容の文章が、話の大本(元)になっている。しかし、実は諸説があって、本当に火を放ったのが誰なのかは、いまだに明らかにされていない。
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甘楽町歴史民族資料館 歴史民族資料館。

その古いレンガの様子、
風雪に耐えた味があって秀逸なもの。

<街に残るもの その4 「歴史民族資料館」>

 小幡の街のシンボルともいえる建物が中心部に残っている。

 「歴史民族博物館」がそれで、1926年築のレンガ倉庫だ。製糸工場を運営した甘楽社小幡組の工場が保存され、博物館として転用されている。

 資料館の学芸員(博物館職員)さんが説明してくださったのだが、「富岡製糸場」を建造する際のレンガは、製糸場と同様にフランスの技術者のの指導の下に製作されたものだと言う。その技術を学んで、あれだけの堅牢なレンガを焼いたのが、小幡の瓦職人達だったと言う。

 だからこのレンガ倉庫の建物に利用されたレンガも、富岡と同様の素性を持っているのだった。そういえば、レンガは漢字で「煉瓦」と書く。思い合わせてみれば、まさにそれは<瓦>なのだった。

 長い風雪に耐え、地震にもびくともしない優秀さを誇る逸品だ。

 富岡製糸場の建屋が今も無事なのは、フランス人技師の確かな技術を吸収してしっかりと自分の<技>に昇華した職人の精進が支えたものだった。

城下町の案内版 雄川堰の桜並木に据えられている観光案内版。

「さいたま」あたりにこれがあったら、心無い人間の手によってすかさず例の妙な文字によるペイントの洗礼を受けてしまうだろう。


実に写真も鮮明で判り易くて、来訪者は大変に助かってしまう逸品だ。
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小幡八幡宮 小幡八幡宮

小幡八幡の参道と奥の鳥居
鳥居の先は拝殿へ続く急な階段の参道だ。いかにも神域への入り口、まさに結界という雰囲気に溢れている。

<街に残るもの その5 「小幡八幡」>

 小幡八幡は三代藩主、「織田信昌(おだ のぶまさ)」が創建した神社だ。

 源氏の守り神である「八幡」様を勧進した理由が不明だが、古い社殿が拝殿の奥に屋根付きで保護されている。

小幡八幡宮(拝殿) 拝殿へと到る参道
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小幡八幡宮(拝殿への石段)

急な石段が付けられた参道。
小幡八幡宮(拝殿)

 参拝した際には知らなかったが、拝殿の天井には格子状になっていて、そこに濃絵(だみえ)が描かれているという。

 特に入り口を睨む龍の図は複数の格子を外して広く描かれたもので、見事な筆である。楽山園で小幡の歴史を解説したビデオが上演されるが、それで、拝殿内部の様子が映されていて、そのことを知った。多分、無理だったろうが、拝殿の格子から中を覗いて観ておけばよかった。参拝の際には思いもしなかった事だ。

 拝殿の天井には格子は、中央に大枠(1.4m×1.4m)があり、その周りを取り巻いて90個の小枠(46×46cm)がある。1700年代の江戸中期に狩野派の筆によって描かれたものだという。

 描いた絵師(画人)の雅号は「探雲 たんうん」といい、江戸に出て狩野派の門下で研鑽を積んだ、「佐藤守照(さとう もりてる)」という富岡の画人だという。

小幡八幡宮(神楽殿) こちらは拝殿の横にある建物。

神楽殿だろうか。
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小幡八幡宮(本殿) 小幡八幡の本殿

実に見事な彫刻が施されている。

 拝殿の奥の本殿は、屋根にすっぽりと覆われて、手厚く保護されていた。

 木枠の間からフレーミングしてシャッターを切ったが、その彫刻が実に見事な内容。なんとか、それが明瞭に見えるような保護の仕方はないのだろうか。


 小幡陣屋の鬼門(東北の方角からの邪気)封じとして、1645年(正保2年)に小幡領内の高田村(現 妙義町:みょうぎまち)より御神体を本殿ともに移し、この八幡山の愛称で呼ばれる丘陵の中腹に祀)られたものという。
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中小路の石垣 武家屋敷地区の
石積みの様子

<街に残るもの その6 「藩創設期からの石垣」>

 武家屋敷地として残っている一廓にあるのが、この石積みだ。

 大名庭園として再生された「楽山園」へ向かう道筋だが、庭園は小幡藩の陣屋跡、つまり藩邸としての御殿があった場所である。藩主のための御成り道でもあり、上級武士がその御殿へ向かう道でもある。

 この「石積み」が実は織田宗家による藩創生当時の古いものだという。

 織田家の生き残りであった初代藩主の信雄(のぶかつ)であれば、織田家が軍事面でも使っていた穴太衆(あのう)を利用出来たのかもしれない。穴太積みと呼ばれる独自の方法を編み出した一族であり、石工としての腕は日本一であった。彼らの石積みの技術に支えられて、中世の山城から脱皮した総構えの大城郭を構築できたのだった。
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中小路の石垣 武家屋敷地区の
石積みの様子

 当時の城は掘割と高く設えられた土塁によって防御されていたが、その土塁に変わって、信長は見上げるほどに高く石を積んだ。

 そうした「石垣」の登場によって、城下町を伴った平地の中心に城を築き上げることができたのだった。織田家と供に成長したその家臣達の内の有力武将は穴太(あのう)衆を動員して各地に平城を構築したのだった。

 その石積みの技が、信雄が拝領したこの地の整備でも発揮されたものなのだろう。御殿を取り巻く石積み御殿の建造物の解体と供に失われてしまったが。雄川からの取水口や雄川堰の岸壁、武家屋敷街区の石積みなどは400年の風雪に耐えて、今も崩れることなく美しい均整を保っている。
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楽山園 楽山園の休息所

大手門を入った奥、番士の詰め所を模した「お休み所」

<街に残るもの その7 「大名庭園 楽山園(県内唯一の大名庭園)」>

 小幡藩御殿の場所が美しく整備されている。初代藩主が愛した庭園が再生され、楽山園として市民に親しまれている。

 入場は有料になるのだが、回遊式の広大な庭園があり、池の周りを静かな気持ちで歩く事が出来る。落ち着いた庭園なので、堪らない気分が味わえる。大名気分とまでは行かないが、池を眺めながらの散策は悪い気分のものではない。

 池の周囲に置かれた石の様子は、都内にある伝統ある大名庭園のような巨石や奇岩という訳には行かないが、それでも時代感に浸る雰囲気は味わえる。


 御殿は明治維新の際に払い下げられて、その建屋はすっかり解体されてしまったのだそうだ。しかし、その跡の畑地が発掘調査されて、往時の遺構(織田統治時代の江戸初期のもの)が現れて来た。そこにあった大名庭園を、往時の姿のように復元したのが「楽山園」だという。

 織田藩主時代の小幡陣屋は御殿として整備拡張されて、桂離宮の庭を真似たという広い池を持つ庭園も造営された。しかし、それらの往時の建造物や織田宗家の威厳を残すものは、今はひとつも無い。

 池を取り巻いた回遊式の庭園は現在の世に蘇り、「楽山園」として再生されたが、門や厩、詰め番所や政務をおこなった書院など、藩の御殿を構成した多くの建造物は、その場所と間取りを示す案内板だけが園内に示されている。
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楽山園(再現された門)
大手門を内側から見る。

柱は檜、板戸は杉を使った大戸。
定番通りの再現がされた門だった。
楽山園(御殿跡)

 池は江戸初期の1615年に建造されたと推定されている、宮家の別荘であった「桂離宮」を模したものだという。

 離宮の設計は、<観月>のために巧みに計算されつくしたもので、それがNHKスペシャルの「ハイ・ビジョン特集」で特集された番組は圧巻だった。

 大分昔の放映だったと思うが、その幻のように美しい映像を、今でも鮮明に覚えている。

 庭は世界的に有名な建物と供に、皇族が月の出と入りまでの変化を愉しむためだけの舞台装置なのだという。あまりにも貴族的に過ぎる贅沢、なんとも気の遠くなような豪奢な為し様であった。

 もともと京都郊外の桂の地は、皇族を初めとする貴族達の別荘地であった。(後の文化の担い手となった、江戸期に豪商達が競って数寄をこらして別荘を建てた「根岸の里(鶯谷の周辺域)」のように、そこは風光明媚な鄙びた静けさに満ちた場所だったに違いない。)
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楽山園の池(全景) どうなのだろう。

世界的にみて、こうした「風流」の事例はとくいのものなのか、どうか。

他の民族の想いの中に、果たしてこうした精神的なものがあるのだろうか・・・。

 京の都の郊外、「桂(かつら)」の地に離宮を建設したのは「智仁親王(ともひと)」である。この皇子は「正親町(おおぎまち)天皇」の孫で、「後陽成(ごよぜい)天皇」の弟という高貴な方。

 絶大な権力を手中に収めた豊臣秀吉の養子となったが、「八条宮家(桂宮家)」を創設した。何故かと言えば、後に秀吉に嫡男が誕生したためである。(豊臣秀次の一族といい、桂宮といい、秀吉の変節には実にイイ迷惑を蒙ったものだ。)

 この秀吉と桂宮との関係を見れば、織田信雄が桂離宮を見知っていた可能性は大いにある。

 信雄は秀吉との敵対後は次第にその勢力を失って行き、最終的には「関白(かんぱく)、太閤(たいこう;関白職経験者の引退後の敬称)」として位を極めた秀吉の伽衆の一人として側に侍ることに成るからだ。場合によれば、離宮建設の指揮を採るための奉行役に就任して築庭に携わっていた可能性もある。豊臣政権が瓦解していなければ、こうした資料も残っていようにと惜しまれるばかりだ。
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邸内から大手門方向を見る 御殿の間取り

 しかし改めて思ってみれば、日本の庭園はどれもみな、花鳥風月の様々を愛でて、移り行く季節の変化を愉しむ為のものであった。

 要するにそこは憩いの場や癒しの場所ではなく、目的はむしろ別の処におかれたのかも知れない。庭園の発生がそもそも鎌倉期に浄土の有様を模して作られた「浄土庭園」を基礎として、その後の禅的な洗練を経て「枯山水」に発展するもの。竜安寺の「石庭」など、室町期の東山文化に代表されるものだ。

 枯山水の庭園の多くは、臨済宗の寺などでの禅的な思想性を具象化したものだったのだから、そうした方向性はどの庭も皆、当たり前に保持しているのかもしれない。

 だから、寺域内や室町将軍家別荘といった中世(鎌倉、室町)の浄土庭園や枯山水の庭園から時代が下って、華美ではないが勇壮なものと発展する近世(豊織時代、江戸時代)の、大きな池を伴った回遊式の庭園も、同じ発祥時のDNAを宿しているのだろう。

 いま、私達が大名庭園に佇むとき、その池の畔で感じるのは「豪華なお庭ですね」という単純な感想だけではなく、何かを語り掛けられているような気分ではなかろうか、と思う。
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楽山園(池と回廊) 遠景がが良いので、
一際庭が引き立つ。

 それが大名庭園ではなくて、さらに古い歴史を持った寺院の枯山水の庭であれば、対峙した際の感覚や生まれてくる感想も更に違ってくる。もう少し鋭利な緊迫感を伴って、何事かを突き詰められたような感じが湧き始めるように思えるのだ。

 日本庭園とは勿論、寛ぎや憩いや癒しを求めて訪れ、庭に接して、その中に浸って過ごす事で、求めたそれがもたらされる場であるが、それだけではなかった。

 滅んでいくものが逞しく再生していく様子に接して、そこから何ものかを感じ取れる様な、高い精神性を養うための場所でもあったのだ。
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楽山園 楽山園の庭園内東屋

 ところで、都内で私が行ったことがある大名庭園は、それ程多いわけではない。

 駒込にある「六義園(りくぎえん)」は、幕政の中枢をになった実力者の邸宅跡。「柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)」が五代将軍「綱吉(つなよし)」側用人時代に拝領した屋敷地にあった庭園だ。ここは、学生時代に住んでいたアパートからも近いし、親しみもあったので、今も良く訪ねている。

 また、白山にある水戸家の庭園である「後楽園(こうらくえん)」。ここも広く開放的で素晴らしい庭の風情が味わえる。港区芝浦の恩賜公園や東御苑や浜離宮など、徳川宗家所縁の庭も広大で、ゆったりとした気分が味わえる。

 それに大名庭園を払い下げられた紀伊国屋文左衛門が保持していた清澄庭園。ここも広い池に特色があって、素晴らしい庭だ。

 こうした多くの庭園に共通した部分は、回遊式に設えられた池を取り巻く散策の小径。玉砂利が敷かれて、歩くだけでのんびりとした贅沢な気分が味わえる。
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開けた眺望 360度の開放感が味わえる草庵の様子。

まさに絶景といえよう。

是非、
紅葉の時期に再訪したいものだ。

 この庭園には見処が多いが、その白眉は築山の頂上にある草庵風の建物だろうか。その座敷が入園客へのお休み処として開放されている。

 四面を和障子に囲まれた座敷で、そこに上がってゆったりと時を忘れて寛ぐことができる。

 障子が開け放たれているので、360度の素晴らしい展望が広がり、そこに揚がった人は畳みに座した状態のままでその風景が存分に味わえる。

 今は周りの木々が夏に向かって勢いを増している時期。緑萌える季節なので鮮やかさが一層に眩しいが、これが秋だったら辺りの様子は果たしてどうな具合になってしまうのだろう、と思った。

 遠景は錦秋に染まる丘陵が視界を満たしている。庭園内の樹木も色着いているはずだ。池の傍の松などは茶色く染まるだけで鮮やかさは無いが、もみじや楓などは盛んに紅葉しているはずだ。その紅色が広がる様は、山行で目にする山の景色とはまた一味違っているだろう。

 畳みの上に揚がって開け放たれた障子から目に入る丘と庭を眺めながら、それを思った。

 今を愉しみつつ、さらに訪れるだろうほんの少し先の季節に想いを馳せたのだった。時を忘れて、いや時を先取りして「のんびり」するとはこういう事なのだな、と感じ入ったひと時だった。

 綺麗に保たれた部屋を、実に爽快な風が通り抜け、吹きすぎていった。
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丘の頂にある和室のお休み処。

草庵風の座敷から庭を見下ろす。
築山の頂から見晴るかす

 いま、私達が味わえる「大名庭園」の多くの庭は、江戸藩邸にあったものだと思う。

 東京の地代は果てしない価格なので、そのままの敷地と言うわけにはとても行かない。そのため、景観を失わない程度に範囲を狭めて保存されたものだ。

 だから、築庭された際に持っていた借景となるような背景を失ってしまっている。

 しかし、この再生された庭園である楽山園ではそうではない。そこがまったく都内の大名庭園とは異なる部分だろう。写真を観ればもうその大きな違いにお気付きの事だろう。ご覧のとおりの状態で、庭の外周を本物の丘陵が取り巻いている。
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中小路で咲くホタルブクロ 「ホタルブクロ」の花が美しく石積みに咲いていた。

良く目にする園芸種の白い花弁ではなく、自然にあるヤマホタルブクロと同様の淡い紫色が良い。

 先に紹介した都内の大名庭園だけでなく、旅行先でも、庭園があればなるべくそこを愉しむようにしている。城好きでもあるが、実は庭好きでもあるのだった。(さらには、古民家や豪農の家や武家の館跡など、家屋敷を眺めるのも大好きだ。)

 京都のお寺の庭はどこも皆筆舌には尽くせないが、金沢の「兼六園(けんろくえん)」、箱根芦ノ湖脇の「恩賜公園」、それに神奈川の金沢八景にある広大な庭園の「称名寺庭園」なども素晴らしい。称名寺の庭園は大名庭園よりも歴史が古く、鎌倉中期に幕府執権の「北条実時(ほうじょう さねとき)」が六浦荘金沢の居館内に建てた阿弥陀堂が起源で、実時の孫の「金沢貞顕(かなざわ さがかね)」が平泉の毛越寺を真似て造営したものだ。

 そうした旅先の庭園は、やはりこの楽山園のように背景に広がりがあって、素晴らしい味わいがある。

 庭園は極め付きの人造物。極めて緻密な計算によって成り立っている大規模な自然のイミテーションだ。しかし、その人造を取り巻く背景が本物の自然であった場合、やはり、そこには大きな安らぎがもたらされる。

 この楽山園の周りが、まさにその好例であろう。甘楽の自然が雄大に取り巻いて庭園の様子と密接に繋がっていて違和感がない。この池の傍に立って庭園を眺め渡した時、またとない美しい背景が目に入る。

 まさに殿様と同じ感覚体験が味わえる。
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絶品豆腐の店「豆忠」さん 入ってよかった「豆忠」さん

藍染の暖簾が実に良い感じ。店の心意気を示して余りある。

この暖簾と幟を観ただけで、店に吸い寄せられてしまった。

<本日の旨い物  「豆忠」さんの豆腐>

 雄川堰の脇に連なる桜並木の歩道を北に向かって降っていって、この店に出会った。昼を食べるために「道の駅」を探していたのだが、その「路の駅 甘楽」へ向かうためのT字路を通り過ぎてしまったのだ。

 桜並木が尽きる場所まで来て、界隈に食べ物屋さんがまるで無いことが判って、「歴史民族資料館」の建つ南側方向へ戻ろうとした時だった。ふと視線を泳がせたその先に「とうふ」の味わい溢れる文字が書かれた幟が立っていた。

 黒い板壁と白い漆喰で仕上げられた民家の様子なのだが、気になったので、幟の正面のところまで行ってみた。すると、やはり商店のようで、入り口に藍染の暖簾が掛かっている。これは、いい店に出会ったのかもしれないぞ、となんだか胸騒ぎめいた予感があって、思い切って店に入ってみることにした。
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豆忠さんの店内

店のレジカウンター。
豆腐の基になる大豆が綺麗に磨かれて、涼しそうな笊に入れた状態でオブジェとして飾られていた。
豆忠さんの店内

カウンター横の保冷ケースには、豆腐が数種類と豆乳やガンモドキなどの加工品が並んでいた。

ガンモドキは精進料理の一品で、肉を模した「モドキもの」の代表格。「江戸料理」でも良く使われる。

 ゆったりと落ち着いた雰囲気が溢れる店内。中央に置かれたケヤキの一枚板のテーブルといい、奥のコーナーといい、実にいい雰囲気だ。

 どこも皆清潔で、掃除も隅まで行き届いていて、店には塵の気配さえない。高い屋根がもたらす開放感と詰めたい空気感が店に流れていて、思わず、店内を隅々まで見回してしまった。


 応対に出た笑顔が優しい女将さんに尋ねてみたら、やはり古民家を改築して店舗にしたのだという。豆腐屋さんとして小売をするだけでなく、喫茶店のように豆乳やデザート状のものなどで、店内で寛いでユックリと出来るらしい。

 これが民芸調の濃い店になってしまうと、途端に嫌味な世界に陥るものだが、この店内はまるでギャラリーのような渋い落ち着きがあるし、何より調度や在り様に確かな気品が感じられる。

 モノとして選ばれた飾り棚や衝立なども、何気なく置かれているが良く観察してみると実に趣味が良いし、そこに置かれた調度品のバランスが、実に良いのだ。店に足を踏み入れた途端に、一遍にこの店が好きになってしまった。

 オーナーの趣味の確かさが伝わってくる店内の様子なのだが、こうした指向(方向性)であれば、手作りの豆腐や豆乳を始めとする製品など、店で扱われているものが不味かろうはずが無い。もう私などは、味わえる豆腐の確かさを思っただけで、その好物を食べる喜びの期待に胸が膨らんできて、すっかり愉しくなってしまった。
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豆忠さんの店内

まるで趣味の良い手工製品が飾られるギャラリーのような店内の様子。

壁面脇に置かれた飾り棚には、藍染の袋物、小粋な携帯ケース、ざっくりとした織物のコースターなどが感じよく丁寧に並べられている。

それらは飾りモノの役割も担っているのだろうが、小売されているモノで、小さな値札が付けられていた。小粋なそれらを見ていたら、どれも欲しくなってしまって困った。
豆忠さんの店内

 「ここで買った豆腐を、店内で食べることもできるのですか」と訪ねてみた。だめなら、そのまま豆腐だけを買って外で食べるつもりで聞いてみたのだが、快い返答が頂けた。「ええ勿論、大丈夫です」と優しい笑顔で答えてくれたのだった。

 私は頗るつきの豆腐好きであり、実はほぼ毎日といって良いほど「豆腐」を食べている。主にお醤油と鰹節を掛けるだけだが、これが良いつまみになる。春の終わりから夏過ぎまで、栽培している紫蘇の葉をちょっと積んで来て添えると、これがまた絶品なのだった。

 私に劣らず、友人Hも豆腐が好きな男だ。自転車がらみの企画で帰省する際、主に行動の前日の晩に遊びに来て色々と話をして寛ぎのひと時を過ごすのだが、そうした場合、実家にやってくる前に必ず自分の分の豆腐までを買いこんで、それを差し入れてくれる。

 私は木綿漉しを、そして友人Hは絹漉しを、ともに一丁づつお願いし、店の入り口横のボックス状になったテーブルに席をとって待つ事にした。
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ふくよかな絹漉し豆腐

絹漉し豆腐は友人Hの御用達の品。
堪らない味わいの木綿豆腐

どちらも好きだが、豆腐としてのコクは木綿のほうが強いのでは、と思っている。
だから私は、木綿漉しを食べる機会のほうが多い。

 一旦、奥に入った女将さんが、じきに、お皿に豆腐を盛って運んできた。

 お醤油と塩も一緒に供されて、好みに応じて使い分けられる状態だった。浦和の駅横の商店街、古くからのアーケード通りに豆腐専門店が出来たので、たまに用事があって浦和に行った際はそこで豆腐を買って帰る。

 オヤジが豆腐を一丁だけ買って帰る姿は珍しいのかも知れず、初めの頃、店員さんに「うちの豆腐は是非一度、塩を振って食べてみてください」と勧められた。刺身の種類によっては醤油を用いるのではなく塩で食べることがあるが、あれと同じだ。


 豆腐も原料の大豆の質が良くて、作る際の水加減がよければ、塩をつけるとなんともいえないコクが出るようだ。それで、出先で豆腐屋さんがあると必ず買ってしまうのだが、塩でも美味しい豆腐にはそう出会えるものではない。

 絹漉し豆腐を友人Hに分けてもらった。なんだかほのかな甘みが感じられて、今まで食べた中では最高の味わいだった。私が頼んだ方の木綿越しだが、こちらも絶品といえた。口に入れた途端に大豆の香りが広がって、しかもそれが厚くなく、丁度良い感じなのだ。イメージした木綿豆腐の在り様とは違って、大分「水気」の多い状態の仕上げだった。

 それはまるで絹漉し豆腐のような滑らかさを持ったものだったので、初めの一口目で驚いたのだが、食べ進む内にこの水加減こそがご主人によって工夫された創意。幾度もの失敗を繰り返したのかも知れない。その結果で獲得された「計算された」ものなのだろう、と気が付いた。大豆の香りを生かすための大きな工夫に違いない。


 8等分に切られた大きさも丁度良く、随分ゆったりと愉しみながら食べ進めた。最後の2切れはいつもどおりのお醤油で愉しむ事にしたが、改めて言うまでも無く、これもやはり美味だった。掛けたお醤油とも、実に良く調和したものだった。
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美味しい豆乳 「豆乳」がこれほど美味しいものだったとは・・・。

この店で、何度目かの新鮮な驚きを、また味わった。

 充分に堪能して、多分私たちは喜びに満ちたりた、まさに満面の笑顔で食べていたに違いない。

 シェアして互いのお皿の違いを愉しみながら、その美味しさに溢れる程よく冷やされた豆腐を深く味わっていた。食べ終わる頃に、「これをどうぞ」と運んできたものがテーブルに置かれた。それは、綺麗な陶器製のカップに注がれた「豆乳」だった。

 これがまた、普段飲む豆乳とは本質的に違ったものだった。実に喉越しが良くて、癖というもの一切無い。滋味が溢れる「自然体」そのものなのだ。きっと材料にしている大豆が素晴らしいものだからに違いない。友人Hと供にこれには改めて驚いてしまった。

 半分ほども飲んだ頃に、今度はウーロン茶の可愛らしい茶碗と一緒に小皿が運ばれてきた。尋ねてみるとそれは「おぼろ豆腐」であって、良く冷やして小皿に盛りつけ、そこに「きな粉」と「黒蜜」を掛けたもの、という事だった。

 杏仁豆腐ではない、正統派の豆腐を用いたスイーツなど、もちろん今までに食べたことが無かった。この年に成ると大抵のものは食べた系系があるのだが、初めて食す経験を前に、私はときめきに似た気持ちに浸ったのだった。
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良く冷やされた「朧豆腐(おぼろどうふ)」。

「黒蜜」と「きな粉」で、一級のデザートへと仕上げられた創意溢れる逸品だった。

素性が水菓子ではないから、これはデザートではなくスイーツと呼ぶべきだろうか・・。
絶品、おぼろ豆腐のスイーツ

 どんな味なのだろうと思って口に運んだら、これが始めての体験であるはずなのに、不思議な事だが何だかひどく懐かしい味のような気分になった。

 黒蜜の強めの甘さときな粉の素朴な甘さが巧い具合に交じり合って、そこにおぼろ豆腐の食感が重なる。大豆の味わいが後味になって口に広がって、これもまた驚き深い品物だった。


 最初に供された豆腐の味に喜ぶ私達の姿を見て、お店の側としても張りが出たのだろう。作り手側にしても、どうせ提供するのならそうありたいと考えているはずだ。

 私でも容易に想像できるほどの深いこだわりをもって、丹精込めて作っている豆腐である。原料や製法や工夫など、中身の違いが判る客に提供したほうが嬉しいに違いない。私達は食通ではないが、豆腐に関しては何といっても多くの場数を踏んでいる。こうしたことを考えれば、豆腐好きの少しうるさい客の部類に分類されるはずだった。


 気が付くと厨房と言うか作業場というか、店の奥に入っていたご主人がレジのカウンターの横に立っていた。私達の様子を温かい視線で見ていたようで、彼に気付いた私達のお礼の言葉に、明るい会釈で答えてくれたのだった。

 素晴らしい味を創り上げた腕前と、その創意に感服し、更に心のこもった店のサービスに感謝して、改めて味の感想とお礼を述べつつ印象深い店を後にしたのだった。

関連するページ ;
 自転車での往復の様子は別のページで記載している。小幡への往復時のあれこれ、を紹介しているので是非ご参照ありたい。

  ポタリング のんびり 行こうよ ;  2013.06.09 「城下町 小幡を訪ねる 往路編(甘楽郡)」
  ポタリング のんびり 行こうよ ;  2013.06.09 「山名郷、八幡社を訪ねる 小幡復路編(高崎)」

散歩 のんびり 行こうよ ;  2013.07.09 「日光例弊使街道 玉村宿を訪ねる(07.21 五料宿を追記)」
散歩 のんびり 行こうよ ;  2013.07.09 「中仙道の要衝  倉賀野宿を訪ねる」
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