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2013.06.09
山名郷、八幡社を訪ねる 小幡復路編(高崎)

アクセス;
 ・上信(じょうしん)電鉄線、 「上州福島(じょうしゅう ふくしま)」駅 より
  「上信電鉄」は西上州を鏑川(かぶらがわ)に沿って走るローカル線。
   高崎・下仁田(しもにた)間を結ぶ のどかな路線である。

 ・車の場合は国道254号線。(上信自動車道では吉井ICか富岡ICを利用する)


散策のコース;
 小幡(おばた)の城下の様子は関連ページで主に記載している。
  甘楽町歴史民族資料館、楽山園(大名庭園)、小幡八幡宮 ほか

ポタリングのコース;
 西善(にしぜん;前橋市南部)より玉村(たまむら)、倉賀野(くらがの)、山名(やまな)と抜けて
 「鏑川(かぶらがわ)」の川岸に出て、国道254号線の「富岡街道」をメインルートとして走る。
  :走行距離(往復)  71km
  :走行時間      約4時間半


カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm−72mmF2.4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

関連ページ;
 ポタリング のんびり 行こうよ: 2013.06.09 「城下町 「小幡(おばた)を訪ねる ―往路編(甘楽郡)」

 散歩 のんびり 行こうよ: 2013.06.09 「甘楽の城下町 小幡(おばた)を散策する」

 散歩 のんびり 行こうよ: 2013.07.09 「日光例弊使街道 玉村宿を訪ねる(07.21 五料宿を追記)」
 散歩 のんびり 行こうよ: 2013.07.09 「中仙道の要衝  倉賀野宿を訪ねる」


 前橋市の南部にある私の実家から南西方面を望むと、円錐形が美しい「浅間山(あさまやま)」の雄姿がまず目に留まる。そこを基点にして秩父方面までの視界の間を、遠く近くに連なった幾つかの山並みが続いていく。

 鋸の歯を立てたような屹立が連なる「妙義山(みょうぎさん)」は、赤城(あかぎ)山、榛名(はるな)山と並んで「上毛三山(じょうもうさんざん)」と呼ばれて県内で親しまれている山だ。妙義は懐が深い縦走になるため、「山行」の舞台として取り組むには上級の難度を持っている山なのだが、前橋を含めた周辺の小学生が学校行事のハイキングで訪れる初心者向けの変化に富んだ楽しいコースも持っている。そうした事もこの山稜が親しまれている所以だろう。

 その横には山頂をナイフですぱっと切取ったような特徴ある山容を持った「荒船山(あらふねやま)」が連なっている。辺りは<西上州(にしじょうしゅう)の山々>として総称される、特徴の溢れる山域だ。またこの一帯は「妙義荒船国定公園」でもある。


 という事で、今回はその西上州の山間の城下町、小幡(おばた)を訪ねている。

 街中の様子は散歩のページで紹介し、さらに往路から城下町の来歴などをポタリングのページで紹介しているが、これはそこからの復路の紹介になる。主に、「山名郷」がその中心だ。

Ridley TEMPO

<本日の愛車 Ridley TEMPO>

Ridley(リドレー)社は現在、国際プロ・レースに出場する有名チームにも車体を提供しているベルギーの会社だ。

数年前はロシアのプロ・ツアー公認チームの「カチューシャ」へ、
そして同じくヨーロッパのプロ・ツアー公認チームの「サイレンス・ロット」
「ティンコフ」など、多くのチームがこのメーカーの車体を使っていた。
最近は有力な成績を挙げているプロ・チームの「ロット・ベリソル」へ複数のフレーム・モデルが提供されている。

山岳を意図して開発されたHELIUM(ヘリウム)、高速巡航性能を突き詰めたNOAH(ノア)、そして今年から投入されたモデルで石畳などの悪路走覇(クラシック・レース向けの振動吸収性のよいもの)のために開発されたFENIX CLASSIC(フェニックス クラシック)だ。

勿論、去年や今年のジロ・デ・イタリアにおいてやツール・ド・スイスでも活躍を重ねている。

今期のチームは快調で、先のクリテリウム・デュ・ドーフィネでも素晴らしい活躍を見せていた。
(ツール・ド・フランスの前哨戦ともいえる山岳ステージだけを抽出したステージ・レース)


だから6月末から始まるのツール・ド・フランスでも、チームのエース、グライベルの活躍が期待される。
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<行程について  「予習」編 ― 街道筋として走るのは・・・>

 高崎南部に出て倉賀野(くらがの)を過ぎて、そこから先の「山名(やまな)」郷から走るのは、もっぱら「富岡街道」である。その往還を使って吉井を抜けて、目的地の甘楽に到るつもりでいる。


 「烏川(からすがわ)」を渡れば、やがて「山名(やまな)」への方面標識が現れるはずなので、それに従って今度は県道30号線を進んでいく。

 やがて道は国道「254号」線へと「阿久津」辺りで合流するので、そこからは国道に沿って行くことになる。そのままさらに道を西進する。

 頃合を見て今度はまた南へと折れて進めば、やがて目的地の小幡(おばた)へ到る、というのが基本コースになるだろう。


 ところで、国道「254号」線だが、吉井から先の「富岡街道」の道のりには愛称(別称)がある。別名を「西上州やまびこ街道」と呼称される道路なのだった。赤城(あかぎ)山の南麓を横切って東西に続く道路の国道「353号」線は「東国文化歴史街道」、愛称を「あかぎ風ライン」という。どちらもその道の持つ雰囲気がよく言い表されていて、楽しい名前だと思う。


 国道「254号」線は番号が3桁と大きく振られた国道にしては、随分と長い距離に渡る道路である。

 東京の本郷(春日通り)ともいい、板橋の仲宿(中仙道)ともいうが、そこを基点として終点の信州「松本」までの間に続く、地方都市を結ぶ関東甲信域の主要な幹線道路のひとつといえよう。

 古くから「川越街道」−「児玉街道」−「富岡街道」−「姫街道(下仁田:しもにた)」−「松本街道」と呼ばれて多くの人々に往来された道であり、江戸五街道のひとつ「中仙道(なかせんどう)」の脇往還でもあった。

烏川(からすがわ)から山名方面をみる

橋の南西に見える丘、その手前の集落が「山名(やまな)」郷である。

その丘を越えた奥、写真の左端で薄青く霞んで見えている山並みの麓が甘楽(かんら)の地。
そこに目指す「小幡(おばた)」の城下町があるはずだ。
賑やかな
「倉賀野(くらがの)」の街を過ぎてから南下すれば、やがて、
烏川(からすがわ)」を渡ることにる。

烏川(からすがわ)は
流路延長61.8Kmに及ぶ流路を持つ。

実に大きな河川である。

<復路について>

 小幡の街を南北に縦貫する県道46号線は「小幡」交差点を過ぎると県道197号線に変わるが、そのまま南下していって上信越自動車道の高架(東西方向に掛かる)を抜けて甘楽町役場の横を通り国道まで続いていく。

 東西方向を結ぶ国道「254号」線を横切って直ぐのところが「上州福島(じょうしゅう ふくしま)」駅だ。

 ここを走る上信電鉄(じょうしんでんてつ; 高崎・下仁田間を結ぶ単線路)線は「サイクル・トレイン」を実施している。だから私達は輪行に備えてバックを積んで来たが、駅舎で確認するとその列車の運行時間が15時までだった。上毛電鉄(じょうもうでんてつ ; 前橋と桐生を結ぶ単線路)線とは異なり、実施される列車が制限されていたのだった。

 駅へ着いた時刻は17時に近く、すでに対応列車が走り終わった後だった。

 「では、分解して」と思って、福島駅から袋につめて列車に乗ることも考えたが、料金を見ると高崎まで700円近くが掛かることになっていた。随分と割高に感じたので、時間の余裕をもう一度検討して、結局のところ、自走して帰ろうという段取りになった。

 往路は出発から歴史民族博物館までの道のりで2時間30分ほどが掛かったが、復路は2時間は掛かるまいと思われた。それであれば19時台には帰り着けるので、そのまま上信電鉄の線路に沿って走って戻る事にした。

 通路の選択の思惑として、吉井を過ぎた辺りで線路を離れて川沿いに出れば戻るのに一層早かろう、との判断もあった。
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山名を巻いて走る

往路では、「山名八幡宮」が残る「山名(やまな)」郷の東端を走った。

ここは山名一族(新田義重の次男)発祥の聖地で、氏(うじ)の支柱である八幡様の優美な社殿が現存していて、今も地域で崇拝されている。
「山名八幡」宮は、
鎌倉末期から室町時代前半の繁栄の証として全国に散った山名一族の精神的なシンボル。

この界隈では有名な八幡宮である。


歴史的な好奇心も多かったし、建築内容などに関しても様々な興味があった。だから、かねてより是非立ち寄りたいと考えていた場所だ。


往路では山名の中心部を外して通り過ぎたが、復路では八幡様に参拝する事ができた。

<コースの実走(復路) その1 「小幡(おばた)」から「吉井(よしい)」まで>

 上信(じょうしん)電鉄の線路を渡って、線路に平行する「甘楽吉井バイパス」を越線橋で跨ぎ越えて田園地帯に入り、その只中の農道を東へ向かって進んでいった。

 「西吉井」駅の手間で鏑川(かぶらがわ)を目指してみたのだが、思うようなサイクリングロードが無く、右岸(下流に向かって立ち、その右手側)の農道を、強い向かい風に吹かれながらしばらく走った。

 駅を過ぎた辺りで県道171号線(吉井安中線;よしい あんかな せん)に突き当たったので、そのまま県道を北上して鏑川の川筋にもう一度出る事にした。今度は橋を渡って左岸を進んでみる事にしたのだった。しかし左岸も同じで、どこまでもいけるだろうと思った川沿いの道は、あっけなく途中で無くなってしまった。

 そこから東方向に進むうちに、川筋から離れて住宅地の中に入ってしまったりで、思うようには進めなかった。


 結局、川筋を行くのを諦めて県道200号線に出た。思いのほか交通量が少ないので、その走りやすい県道を進んで帰ることにした。
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<コースの実走(復路) その2 「吉井(よしい)」から「山名(やまな)」まで>

 ちょっとした丘を登り越えて、陸上自衛隊の「吉井分屯地」を通り越して、さらに東へ向かった。そこは往路で、山名の東側から振り返って見た丘陵地帯の西域を進む道であった。そして程なく「西山名」駅の手前へ出た。県道を行かずに、今度はそのまま高崎へと向かって伸びている上信電鉄の線路に沿って、その線路脇に続く小道を進む事にした。

 線路に沿って進んで行くと、じきに「山名八幡」入り口の看板が目に留まった。まだ、日暮れには時間があるし、このペースで進めるなら、あと1時間程度で帰宅出来そうだと思われた。

 そこで、大分せわしない気はしたが、ここまで快調に向かい風を縫って走ってきたご褒美としての休憩も兼ねて、気になっていた神社に立ち寄ってみる事にした。

 上で書いた「山名のこと」とそこに掲げた神社の写真は、そのときの様子に関してのものだ。


 小幡の「楽山園」を出たのが17時少し前だったが、ここまでで1時間弱。田の中の遮るもののない状態での向かい風は、時に強く吹き付けてきたし、道が途切れて迂回的なコースを通ることもあったが、意外にいいペースで走って来る事が出来たようだ。

 この日走った地域は、群馬県内では先進地区といえる、太古から開発された発展した地域だった。古代律令制においては、群馬は「上毛野国(かみつけ の くに)」と呼ばれる大国であり、朝廷の前衛であったので、親王任国として東山道の重要な位置を占め、「大国」に区分されていた。(皇子が統べる国だったのだ。)その国内には13の「郡(こおり)」が開発されたことが701年(大宝元年)に発布された「大宝律令(たいほうりつりょう)」に示されている。

 大宝令以降は上毛野国の呼称が「上野国」へと変わる。読みは同じ「かみつけのくに」だ。なお、更に時代が下ると「こうずけのくに」と変化していく。古代の大国「毛野」を上下の2国に分けた事から始まる。

 その13郡の内、「甘楽(かんら)」や「群馬(くるま;現在の前橋・渋川と烏川以東の高崎周辺)」がこの地域に建設されたのだった。そして「多胡(たご;現在の吉井周辺)」が4年後に新たに建設されて、吉井周辺はその中心地だった。

 倉賀野から先の小幡までの走行路域が、この律令下にあった群馬郡、多胡郡、甘楽郡の領域なのだった。群馬郡は「国衙(こくが)」が「総社(そうじゃ;前橋の利根川右岸側の地区)」に置かれていたので中心域ではないが、多胡・甘楽の両郡では、その中心域を走ったという事になる。

 目的地の城下町「小幡」だけでなく、走った道もそこからの景色もみな、まさに<歴史探訪>のひとこまに数えられるものだった。
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<古代律令制における「上野(かみつけ)国」 ― 朝廷の前衛の地>

 古代律令制下にあった列島は、そのすべての地域が大和朝廷の統治範囲に置かれたわけではなかった。大宝律令が発布された701年にあっては、まだ統治勢力の及ぶ領域は上野国、その後に下野国、奥羽、陸奥と北方の列島奥へと広がっていった。

 都から伸びる大動脈ともいえる幹線の「東山道(逃がしのやまの みち ;とうさんどう)」は信濃の上田から佐久を抜けて碓氷峠を通って上野(かみつけ)国の群馬郡(くるま の こおり)に置かれた「国衙(こくが;群馬総社)」へと通じていた。その後、主要幹線は「新田郡(にった の こおり)」へ到って、南下して武蔵国の府中へ向かう補助道であった武蔵路と、北上して下野国の足利へ向かう本線に分岐した。


 飛鳥、奈良から時代を重ねて、朝廷は東山道に沿って次第に勢力圏を北へと延ばしたが、下野(しもつけ)国を勢力下に収めた後、陸奥(むつ)や奥羽(おうう)へと東征の範囲を広げていったのだった。「多賀城(たがじょう; 762年に建郡された事が多賀城碑に記されて残っている)」の建設など前衛の土地として位置づけられて征圧のための軍事拠点である「鎮守府(ちんじゅふ)」が設置されたのだった。

 律令の初期の頃、まだその勢力圏が上野国であった時代に13郡が建てられたが、半島情勢の影響もあってその4年後に朝廷の権勢の及ぶ範囲の前衛として建郡されたのが「多胡郡(たご の こおり:現在の吉井周辺)」であった。それ以前に「甘楽(かんら)」には郡が置かれて、郡衙があった。上野は大宝律令(701年)の記載によれば13郡が設置されたが、甘楽は新田と供にその初期の国を構成した郡のひとつである。なお、甘楽の中心は「新屋(にいや)」周辺、そして多胡の中心は現在の群馬八幡あたりだと私は想定している。

 古代律令制において国を構成する重要な「郡(こおり)」が置かれた場所が、この山名周辺の大きな河川に囲まれた土地なのだった。―「甘楽(かんら)」や「群馬(くるま;現在の前橋・渋川と烏川以東の高崎周辺)」― が置かれて、太古より栄えた先進地域といえよう。
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山名八幡への山門の様子。

仏閣、寺院に「山門」は付き物だが、神社の場合はイメージが薄く、一般的には鳥居だけである事が多い。


例えば日光東照宮の「陽明門」や伏見稲荷の「桜門」、平安神宮の「応天門 (おうてんもん)」などが浮かぶ。

いずれにしても大社級の大きな神社(古社)でしか、お目に掛かったことが無いものだ。
山名八幡の山門

<平安期(律令制末期)における「上野(こうずけ)国」 ― 武家貴族の統べる国>

 やがて、平安時代に時代が下ると統治機構も精密化されて、それに伴って官僚機構も整備された。そのあたりは「新田荘」を探訪したページ ( のんびり 行こうよ 2013,04,12 「太平記の舞台を散策する1   新田荘 (にった の しょう ; 太田市 尾島)」) で律令制下の制度や省庁などの機構や各種の役職の階位や職制などをまとめて記述しているので、ご参照頂ければと思う。

 皇族の末裔であった上流の武家貴族(臣籍へ降下した皇子の興した家)が大きな権勢を持って台頭を始めるのだが、国家戦略上の重要拠点となる地域の国司として任命されるのも、その武家達だった。

 上野国は、朝廷の東征の前衛であった頃はその重要な役割を担うためから、国の統治者として任命されるのは親王であった。だから親王が「守(かみ)」の役務を負ったが、親王であるがため都からは離れられなかった。そこで任地へは赴かずに「遥任(ようにん)」を行う結果となった。

 このため、「守」ではなく、上野国の統治者は「介(すけ)」の階位を持つ次官が統べたのだった。しかし、その介の位であっても権限は極めて大きく、もやは独立国の統治者と呼んでも良いほどに絶大なものであった。

 上野は律令では「大国」に分類されていたが、美濃や飛騨や信濃など他の東山道の国と特に異なっていたのが国衙の軍勢の規模だったろう。国司が独自の権限で国衙の常設軍を統率できたが、前衛の地には特に「鎮守府」が置かれて防衛と征圧に働いていた。

 その軍勢を含めた軍事力は圧倒的な大勢力であった。国司として任命される者が鎮守府の指揮者をも兼任したため、この前衛地では特に軍事的に優勢な統率力や素養を持った実力者が任命された。


 平安初期は藤原氏の任命が多いが、後期になると一変して源氏の一族が相次いで勤める様に変化する。特に義家に代表される河内源氏の家などは世襲的にこの任命を受けるようになっていく。
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山名八幡の「神馬像」 山名八幡に建立されている「神馬像」

<山名(やまな)のこと ― 新田支族「山名」氏発祥の地>

 平安時代の後期、「源 義家(みなもと の よしいえ)」が上野国の国司として赴任したが、彼は勿論、「鎮守府将軍」でもあった。後に陸奥守となり、さらに前線へと赴いて「前九年の役」や「後三年の役」などの軍事行動を通じて、陸奥を征圧し、その地で大きな勢力を築いていた清原氏を倒滅させる。

 その後の経緯はあるが、それは「新田」を訪ねるページで記載しているので、ここでは割愛しよう。そうした経緯で鎮守府将軍を務めた「源 義家」とその息子の「源 義国(よしくに)」の親子が、上野国と下野国に大きな勢力基盤を築いたのだった。やがて義国と「義重(よししげ)」の父子は都を追われて、勢力基盤のあった足利荘へ陰棲する。

 しかし、そこで築いていた勢力基盤の背景を活かして、荒蕪地を開拓して開発領主へと変質していくのだった。足利荘の荘園化を手始めに、義重の代になると、「新田荘(にった の しょう)」とともに開発した荘園「八幡荘(やはた の しょう)」が立券されていったのだった。

 上野国「八幡荘(やわた の しょう)」を構成したひとつが「山名郷」であり、義重(よししげ)は息子(長男とも三男とも伝わる)の「義範(よしのり)」をそこに配して領有させた。

 更に長男の「義人氏(よしとし)」を山名と丘陵を挟んだ北面に位置する「見里(みさと)」郷に配した。見里は古代より御牧(朝廷の直轄する牧場)ガ置かれ、軍馬の生産に長けた土地である。ちなみに義国の息子の義重の弟「義康(よしやす)」であるが、足利荘を相続して別家を起こして「足利」氏の家祖となる。室町幕府を興す「足利尊氏(あしかが たかうじ)」は8代目の後裔だ。


 山名家となって、この地に勢力の基盤を置いた義範は、新田宗家を継いだ義重の三男「義兼(よしかね)」の家とは、その後、重要な場面で別の路線を歩み始める。

 義国の代に分かれた源氏宗家の当主「源 頼朝(よりとも)」の挙兵に山名はいち早く馳せ参じ、鎌倉幕府の樹立後は、その功績を認められて、新田家とは別家としての地位を獲得する。独立した「山名」家として幕府御家人となるのだ。

 その後は山名にあって幕府の御家人として、この地の地頭職となって統治を広げていく。山名氏が山名郷に基盤を据えて勢力を蓄えて行き、その後に発展していく礎は、こうして当主となった義範の判断によって確立されたのだった。
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源氏の吹流し

源氏の吹流しが社前を飾り、微風にたなびく。
山名八幡の参道

<山名(やまな)氏の歩み ― 新田支族から全国に広がった「山名」氏の一族>

 さて、今回のコース途中(往路、復路)で現れる「山名(やまな)」は歴史的な背景をもった郷である。

 山名郷は「新田義重(にった よししげ)」の長男(庶子)の「義範(よしのり)」が上野国南部(新田は古代の幹線道路「東山道」の拠点駅で、ここから北の奥羽・陸奥へ伸びる道と南の武蔵へ向かう道に分岐した)にあった氏の本拠地の「新田荘(にったのしょう)」の地を離れて、そこに本拠を置いて開発した郷である。

 山名義範が祖となって始まった「山名」の家は早くから「源頼朝(みなもと の よりとも)」の平家打倒の挙兵に従ったために、開幕後は宗家の新田家とは別の独立した御家人として認められて、鎌倉幕府の政治機構内でも重きをなした。平安後期に成立し、鎌倉期を通して繁栄していた荘園が町の礎になっている。

 源氏一族の守護神である八幡様を祭った古い神社である「山名八幡」が、上信電鉄の山名駅の目の前にその威容を誇って残っている。

 南北朝の時代に宗家の南朝方の「新田義貞(にった よしさだ)」ではなく新田氏の同族で北朝方に立った「足利尊氏(あしかが たかうじ)」に味方した同時の家の当主であった「山名時氏(ときうじ)」は先見性を持っていた。

 宗家の新田家一族は南北朝の騒乱の犠牲となって滅亡してしまったが、支族ではあっても別家として行動した山名氏はその後に大きく栄え、室町幕府にあっては足利家を支える強大な守護職を世襲する家となった。その勢力は極めて強く、比類なき権勢を誇った。
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山名八幡の重厚な拝殿 拝殿の重厚な様子

<山名(やまな)氏の歩み ― 室町最大の領主 11カ国の「国守」として>

 「山名時氏(やまな ときうじ)」の息子の「師義(もろよし)」の代には、一族の政治的な地位と権勢は比類のないものに成長した。11カ国の守護を勤めるほどの大勢力を誇ったのだ。

 室町時代に設定されていた国は全国で66カ国。つまり全土の六分の一を国主として領有していた、という事になる。

 たとえば後世の豊臣時代の大老を勤めた戦国大名家の領土を見てみると、前田家100万石が領有したのは加賀と能登。徳川家150万石が三河・遠州・駿河・信濃の5カ国であるから、山名氏の大勢力にはとても及ばない。

 最大勢力を誇った際に山陽と山陰の11カ国(安芸、周防、長門、備中半国、備後、伯耆半国、出雲、隠岐、石見など)を領有した毛利家が辛うじて山名の領国規模に並ぶくらいである。しかし、そもそも毛利氏の領土は、山名氏や陶(すえ)氏や大内氏から戦国の騒乱に乗じて下克上によって簒奪したものだった。


 戦国の世の基となった騒乱である幕府管領・細川家との大戦、「応仁の乱(おうにん の らん;1467年))」での西軍の総大将であった「山名宗全(やまな そうぜん:持豊)」は、この山名郷から始まって大勢力を築き上げた一族の末裔である。


 騎乗を待つ馬の銅像(神馬像)が鳥居の脇に置かれている。
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山名八幡の壮麗な本殿 壮麗さに溢れる本殿

<山名(やまな)氏の歩み ― 勢力の拠点>

 山名の一族は鎌倉幕府で優遇され、室町幕府で権勢を誇ったために、活動の拠点は常に幕府と供にあった。だから一族の主力も山名郷ではなく、鎌倉であり、京都であった。

 室町後期となると主要な拠点を陶(すえ)氏や大内氏、それに毛利氏の台頭する前の西国に移している。

 11カ国におよぶ領国の強大な守護であったため、全国に広がって一族は繁栄を極めた。分家から構成される支族も多く、しかもそれらが領主として優勢な権勢を保持していたので、家臣団も広範に渡った大勢力だった。

 主要な統治先への移動が多い武家にあって、珍しいことに一族発祥の地である山名郷は何時の時代にも領有していた。このため、一族発祥の聖地はそのままに温存され続いていたのであった。全国に広がった一家・一族の精神的な支柱としての役割を、この地に鎮座している「山名八幡」が大きく担っていた。
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裏神様、出現 山名八幡の拝殿を仰ぎ見る

<山名(やまな)氏の歩み ― 新田の末裔として>

 余談だが、八幡荘(やはた の しょう)内の山名郷と山を挟んだ北側、榛名山の南麓には、義重の息子であり新田流源氏一族の有力な支族となった、次男の「義俊(よしとし)」が起した「里見(さとみ)」郷がある。

 里見氏は後に拠点を安房国へ移すが、後に上総を統一する戦国大名として発展する。(一族の波乱に富んだ歴史を基に、豊富に脚色・虚構化されて、戯曲化として産み出された「南総里見八犬伝(江戸時代、滝川馬琴によって著された)」が今に伝わっている。)

 新田家の祖である義重の子孫は、長男の「義範(よしのり)」が山名家、次男が里美家、三男の「義兼(よしかね)」が新田宗家、四男の「義季(よしすえ)」が世良田・得川家を継承し、それぞれが定着した土地の名を自らの苗字として家を興した。

 その家から出た子息で勢力を広げた。娘は有力者と婚姻させて縁戚関係を成立させ、息子達はさらに別の場所を本拠とさせるべく配置し、そうしてさらに一族を広く拡散させていった。やがてさらに大きく広がって厚い支族層を創り出し、全国的なスケールでの広がりを見せて一族は繁栄する。

 いずれの息子が起こした家も、あるいはその家からさらに分かれた支族の流れも、家祖「義家(よしいえ)」の末裔達の家は例外なく、武家中の名門と呼ばれて尊ばれた。
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烏川の川岸の誘惑溢れる小径 烏川(からすがわ)をわたる手前で現れた、
魅力一杯の小径。


折角、この道の先までi行ったのだが、そこには思わぬ落とし穴が待っていた。

道はにわかに南へ曲がって、何と走って来た方向へと戻り始めたのだった。

残念ながら、その曲がり角から、北や東への道が無く、別の方向へは進めなかった。

<コースの実走(復路)  その2 「山名(やまな)」から「西善(にしぜん)」まで>

 山名駅の先で線路を渡って、真っ直ぐ東へと進んだ。

 倉賀野(くらがの)へと向かうためで、往路で走った県道171号線(吉井安中線;よしい あんかな せん)へ程なくして出たので、そのまま北上していった。「烏川(からすがわ)」を渡る手前で「近道の誘惑」が頭をもたげて来た。

 ゴルフ場の脇道に入り、そこを通ってみたのだった。しかししばらく進むとその道は川に沿って大きくカーブして南下をしはじめた。走ってきた方向へ戻り始める形になったので、やむなく取って返し、2キロほども走ったそこを橋まで戻って、改めて烏川に掛かる橋を渡った。


 「烏川」を渡ってしまえば、もう自分のテリトリーといっても過言ではない。完全に認識している領域の内側に入るので、今までの緊張はすっかり溶け出していって、気持ちは随分と安心したものに変わってくる。

 往路に通った「下町」から「綿貫町南」交差点までの例弊使街道ではなく、一本南側を並走している県道121号線を通って「岩鼻」交差点へ出た。


 そして日本化薬の工場と「群馬の森」が並ぶ県道13号から改めて例弊使街道へ出て、玉村へと向かった。玉村の町を北上して福島橋を渡って無事に帰宅したのだった。


 山名八幡では20分程のあいだ休憩しつつ社殿を参拝したのだが、家に着いて時計を見ると19時20分程だった。
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<本日の旨い物  道の駅「甘楽」のお弁当>

 友人Hによれば、道の駅で販売されているお弁当が当地「小幡」の名物なのだ、という。

 つい最近、城下町の佇まいに触れたくて小幡を散策するために車で訪れたのだという。その際に路の駅にも立ち寄って、その弁当の存在を知ったのだと言うことだった。

 白井にある<道の駅「子持」>で食べるお弁当も、地元の方によって心が込められた手作り品で随分美味しいものだが、この小幡の<道の駅「甘楽」>もそうなのか、とワクワクしながら道の駅へと向かった。

 昼時に「歴史民族資料館」をゆっくりと見学して随分時間が経ってしまったが、そのあとで美味しい豆腐を食べた。だから大分、満足感の只中にあって、決して空腹状態という訳ではなかった。

 しかし、そうは言っても、もう少し何か食べたい気持ちがあった。自転車で走って来たので、できればエネルギーに変化する「炭水化物系」の食材を採りたいと体が欲していた。

 小幡に着く前からの話題のひとつだった、その名物だというお弁当をすっかり当て込んでいた。しかし道の駅の弁当類の販売は、タイミング悪くもう売り切れ寸前の状態だった。幕の内にしても何にしてもお弁当状態のモノは皆無。辛うじてうどんが2個と赤飯のパックが置かれるのみだった。あとは鳥のから揚げと野菜の天麩羅、それにコロッケなどの惣菜物がパックされて並んでいるばかり・・・。

 売店の横にはレストランもあるが、入り口の壁上に掲示されたメニュー紹介の写真はどれも凄まじいボリュームの定食セットだ。折角の大サービス企画であっても、残念ながら私ではとても完食出来そうも無いものばかりのように思われた。

 そこで結局、私はうどんと野菜の天麩羅の入ったパックを、友人Hは赤飯とコロッケの入ったパックを買って、それをシェアしながら食べることにした。


 ここの饂飩の麺は「稲庭うどん」のように細く仕上げられていて、どこか懐かしい感じが溢れたものだった。でもその細打ちの麺がまた、具の入った汁に良くあっていた。間に合わせの「パック入りうどん」などと馬鹿に出来ない、店で出されても納得がいくような実に美味しい饂飩だった。

「田舎うどん」とパックに貼られたラベルに書かれていた道の駅の饂飩。

これが本当に田舎の風情があって、実によかった。

汁の中には、椎茸と牛蒡の細切りが入れられている。これに長葱が添えられたり、薄口に切られた茗荷が入れば、実家でよく食べていた「我が家のうどん」の出来上がりだ。
もっとも、麺はこのように細いものではなかったが。
道の駅で売られている「田舎うどん」
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 道の駅ではお弁当類の販売と物産やお酒などのお土産物、それに農産物の直売などが売店で行われている。同じ建物内に区切られた区画でレストランがある。客席数は思いのほか多くあって、これなら席に着く順番を待つこともなさそうだ。

 私たちのおなか(体)は、道の駅へ行く前から、もうすかっりお弁当を食べる前提で心積りされていたので、迷う事無くお弁当の方を手に取ったわけだが、食欲が旺盛ならレストランのボリュームはきっと有難いものに違いない。

 定食はどれも、例えば「カツ丼とお蕎麦」「カレーライスと天麩羅うどん」などといった具合に、主食となる品物が必ず2品で組み合わせられていた。どの定食もみなガッツリ系のメニューで構成されていて、惣菜とご飯と味噌汁といった普通の定食の内容ではなかったのだ。ひとつのセットを頼んで、夫婦や親子でそれを分けて食べるといった事も出来そうだから、散歩の際に立ち寄って、ここで食事を済ませてしまう地元の人も多いのかもしれない。

 建物への入り口のところはテラスになっていて、そこに丸太を切ったような長めのベンチが幾つか置かれていた。散歩で川沿いを歩いてここまで来た人や、販売所で買い物をする家族を待つ人達などが、ベンチに幾組かになって、思い思いに腰を降ろして寛いでいた。

道の駅のお惣菜(野菜天麩羅) 思わずひと口、食べてしまって実に失礼な写真なのは、どうぞお許しあれ。
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 そしてテラスの目の前にはサイクル・ラックが2基ほど設えてあった。最近はこうしたレジャー系の施設にやっと設置が見られるようになってきたパイプで組まれたアレである。店内や休憩している場所、あるいはレストランから停めた自転車が見られるという特色がある。

 有難いことで、裏の駐輪場のような状態で停めなければならなかったり、建物から離れた目の届かない場所に置かなければならない場合も多く、駐輪には神経を使ってしまう。この設備が置かれている深い配慮のお陰で、そこに自転車を吊るして、安心して寛ぐことができるのだった。

 出先では、自転車を停めた場所が心配になってしまいおちおち休憩することさえ出来ない、というシチュエーションも多い。だからロード車を乗っていると、本来は味一本で決めたいところをグッと我慢して、停める場所が工夫された店を選んで休憩や食事をするライダーもかなり多いのだった。

 でも、ここでは自転車を離れても注意を払い続ける自分だけでなく、死角になっていないために誰からも注目される結果になる。そうした安心できる場所に自転車を停めることが出来る、有難い工夫がされた設備を備えた先進的な道の駅といえよう。赤城南面の国道「353号」線(通称「あかぎ風ライン」)上にある休憩処、<道の駅「ふじみ」>や<道の駅「グリーンフラワー牧場 大胡」>などには、残念ながらサイクル・ラックは設置されていない。

 小幡に入った際に「歴史民族資料館」で出会った同年輩のサイクリストの男性が先客でここに来ているようで、そのラックに見覚えのある自転車が吊るされていた。「私達はもう資料館は見学し終えたので、これから楽山園へ向かう」と話していたが、するともう彼らは大名庭園を存分に楽しみ終わったらしい。

小幡製麺所のうどん 「田舎うどん」の
味わい深い、
爽やかな細打ち麺。

独特の<腰>があり、
しなやかな麺だ。

喉越しが良く、
汁につけても麺の持つその弾力が失われることが無かった。
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 私たちの自転車も、コルナゴとピナレロの2台の隣に引っ掛けて、売店でお弁当を仕入れることにした。

 そうして休憩する準備をしていたら、目の前のベンチに腰掛けていた初老の女性が話しかけてきた。

 「何のためかと不思議に思っていたら、これはそうやって自転車を停める道具だったのか」という感想だった。それがきっかけでしばらくお話をして楽しんだ。どれほどの距離を走るのか、とかどこから来たのか、という質問。タイヤが細いがそれで大丈夫なのか、という懸念などから話が始まった。

 70年配(70歳少し前か、越えていても前半というところだろうか)の方と思われるが、やはり私達が乗って行動しているような「ロード自転車」は不思議なモノに見えるらしい。まあ、私たちの服装もレーシング・パンツにレーシング・ジャージと道の駅では浮き上がった妙なものだし、ビンディング・シューズをカチカチ言わせて歩いているので、それも目を引いたのかも知れない。


 そのあとは、今日はどこを廻ったのかと尋ねられたりと、色々と話をした。地元の方だったらしく、私の質問への答えに合わせて、小幡のお勧めの場所を説明してくれた。さらに色々と楽しい情報を教えて頂いたりもした。

 このあと行こうとしている「楽山園」が去年できたばかりという話はすでに知っていた事だが、そこから川沿いにここまで続いている素敵な遊歩道の話や、その庭園や雄川の畔で「蛍の鑑賞会」が開かれるのだ、という話は初耳だった。そうして話すうちに、素早く店内に入ってパンフレットを取ってきて私たちにそれを呉れ、この先の桜並木にある「信州屋」というお休み処を使いなさい、という地元の方お勧めの名物スポットを紹介して下さった。


 私が選んだお弁当の「田舎うどん」は、地元の製麺所の手によるもので、この細身の珍しい麺はそこで打った「うどん」なのだという。「ここからも店が見えるが、地元の人も贔屓にしているお勧めの逸品」ということを解説して下さった。「つけ汁」の具合が良かったので気に入ったのだが、どうりで麺も美味しかったわけだ。

 この気さくな方のお陰で、裏話のようなことまで色々と知る事ができたのだった。

 先に寄った豆腐屋の「豆忠」さんは今年開店したばかりの店であり、「あそこの奥さんは気の優しい、とってもいい人なのだ」という地元ならではの嬉しい話も仕入れることが出来た。
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真実を発見する

 楽しみにしていたお弁当の「桃太郎ごはん」は、随分と人気が高いものに違いない。15時近くという時刻の微妙さ加減が影響した面があるのかもしれないが、すでに食べようと体勢を整えていたその「混ぜご飯」は売り切れてしまっていた。

 私はついに、経験のない「甘楽の味」を味わうことが出来ずじまいだった。

 でも、その代わりという事ではなかろうが、「地元の素朴な温かみ」にしっかりと触れることが出来た。それは目当ての品を逃した残念さを補って余りある、本当に嬉しい出来事だった。

 前橋での「うどん」は振舞い料理(自宅向けのうどんはもっぱら「煮込みうどん」)でもあるが、この清々しいベンチで食べたお弁当の事だけでなく、この日の経験そのものが、まさにそうした温かい歓迎の気持ちを表す印象深い出来事だったといえるからだ。


 今日はすでに、資料館前で出会ったサイクリストとの楽しい情報交換(いや凄い「磨崖仏(まがいぶつ;岩壁や岩壁を龕状に彫った内側などに、刻まれた巨大な仏様)」があるんですよ、と愉快に解説してくれた)や豆腐屋さんでの嬉しい振舞いを受けて、すっかり心の芯が温まっていた。

 さらにそれに重ねて、この道の駅でも温かい歓待を味わうことができたのだ。本当に有難いことではないか。

真実を発見する <本日のちょっと残念なヒトコマ>

どうやら、目当てとさだめた名物は、
お弁当の状態では無かったようだ。



甘楽町を紹介するリーフレット
 「キラっと かんら 自然と歴史の散歩道」
  では、小幡の見所が沢山写真入で掲載されている。

先ほど紹介したウォーキングのサンプル・コースなども同じものに掲載されていた判り易いイラストマップや行程図だ。


その一画に「旨いもの」と題したコラム欄があった。

紹介されているのは、「桃太郎ごはんとお切り込みうどん」のセットで、道の駅のガッツリ系のボリューム溢れる定食のひとつ。

これを頼めば、念願の「桃太郎ごはん」が食べられた。しかも、新田をはじめ前橋などの南部、それから吾妻界隈、そして長野に抜ける街道筋などでの名物、うどんの煮込み料理の「お切り込み」にもありつけたのだった。
しかもリーフレットには、一緒に小幡の地酒も写っている・・・。

リサーチ不足、ここに極まるの図であった。
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 さきほど、私たちと話をした小柄な地元の女性は、どうやら散歩の途中に長い休憩を、この道の駅で採っていたものらしい。

 私たちが夢中でうどんを食べている間に、同じ地元の方がやってきて世間話をしはじめた。女性の横には年上に見える男性が腰を下ろしていたのだが、その方がご主人であるらしかった。

 春先に卒中で倒れて入院し、やっと歩ける様に回復して、リハビリを兼ねてこうしているのだという。明るい声と話振りだったが、内容自体は少し深刻なものが耳に入ってきた。聞き耳を立てていたわけではないが、その飾らない会話が入ってきたのだった。私達と女性との会話に加わらなかった男性(ご主人)は、病気の療養をしている最中なのだった。

 「小幡(おばた)」に不慣れな私達が判り易く話題の場所(お休み処の「信濃屋」さん)に行き着けるようにパンフレットを取ってきて下さったり、あるいは私達が知らない色々な情報を提供しても下さったのだった。さらにはお弁当を食べ終わる頃合を見て、わざわざ食堂に入ってお茶を淹れて持って来て下さったし、片付けは自分がするからといった有難い配慮もして下さった。

 しかもそれらの行動はどれも皆、モノのついでという事では無かった。

信州屋さんのパンフレット(公共施設) 信州屋の店先

 道の駅で出会ったご婦人は、優しい心にあふれていた。

 大変な境遇にあるにも関わらず、明るさを失っていないばかりか、他人への配慮さえも忘れず、ある種の余裕をもって吹く風に逆らわずにそよぐ葦や柳のように、しなやかに過ごしていた。まさにそれは自然体そのもの、彼女にはまるで当たりに広がる丘陵地帯のような大らかさがあった。

 たとえば私たちは街に住む親戚の人間で、久し振りに田舎に遊びに来た。だからそのたまにしかやって来ない親戚を出来る限りのおもてなしで楽しませようとするかのような、そうした際に発揮される思い遣りが溢れる配慮があった。まるでそんな親戚を囲むような、ふわりとした温かい振舞いなのだった。父もそうだし、母もそうだったが、健在だったころにはやはり同じような態度でやって来た親戚を接待(歓待)していた事を思い出した。

 私達は、今日出会った人たちとは親戚でもなんでもない、只の通りすがりの存在に過ぎない、というのに・・・。 まだまだ、世間は捨てたもんじゃ無かったのだ。

 当たり前の話だが、全力で人をもてなす「温かい心遣い」が、それに触れる人達に通じないというはずが無かった。

関連するページ;
< ポタリング  のんびり 行こうよ: 2013.06.09 「城下町 小幡(おばた)を訪ねる (往路編 甘楽郡)」 >
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< 散歩 のんびり 行こうよ: 2013.07.09 「日光例弊使街道 玉村宿を訪ねる(07.21 五料宿を追記)」 >
< 散歩 のんびり 行こうよ: 2013.07.09 「中仙道の要衝  倉賀野宿を訪ねる」 >
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