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2010.01.23
新春の奥多摩山行 ; 御岳山・大岳山を登る

アクセス;
 JR中央線―青梅線 「御嶽(みたけ)」駅 よりバス(ケーブル下バス停下車)  JR新宿駅より「ホリデー快速」にて75分で御嶽駅

コース;
 青梅線 御嶽駅バス停より 「ケーブル下」行き(終点バス停にて下車);乗車時間約15分
    ―休日はバスが大変混雑するが、増発があり2台が一度に発車する。

 終点バス停〜ロープウェイ滝本駅;10分、〜御嶽山駅;6分(徒歩で登る場合は60分)〜武蔵御嶽神社;25分
   〜岩石園・大岳山分岐;35分、、〜芥場峠(あくたば)分岐;30分、〜大岳山山頂;60分、

 復路: 大岳山山頂 〜白倉バス停;120分、〜武蔵五日市(バス乗車);30分

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm−72mmF2.4

 (画像添付時に約30%程度に圧縮)


 ワンゲル部 『恒例 新春ハイク ; 御岳山から大岳山へ』の企画で、新年一番の低山ハイキングへ出掛けた。

 去年3月の手術から、ワンゲル(サークル)山行への参加も見合わせていたし、個人的な低山行も控えていた。だから、今回の新春ハイキングへの参加はおよそ一年振りの山歩き、ということになる。

バス停へ向かう 御岳の登山口
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 JR中央線で奥多摩・青梅方面へ向かい、支線になる青梅線の「御嶽(みたけ)」駅を出発する路線バスへ乗る。

 バス停から急な坂を少し登れば、「御岳山(みたけさん)」への登山口へ到る。そこから山頂の神社へは、登山道を登ってもよいがロープウェイを利用して向かうことが出来る。ロープウェイで行けば、約6分ほどで距離約1km、標高差420m、平均斜度23度ほどの坂道を一気に登る事になる。時間も短縮できるし体力も温存できる。これをロープウェイではなく徒歩で登ると60分ほどの所要時間になるようだ。

 歳を重ねて徐々に体力が低下しつつある私達一行(いや一行全員ではなく、私周辺の数人が、ということだが・・)は、体が鈍った「新春の登山」という事もあって、今回は遠慮なく時短策を図る事にしたのだった。

ロープウェイで時間と高度を稼ぐ 山頂の駅
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 利用してみると、やはりロープウェイはこの上なく楽だった。これ程の恩恵を蒙ってしまうと、山行の度にこうしたアプローチを採る、という取り組み方になりそうだ。どうもこの快適さ・手軽さは癖になってしまいそうな魔力を秘めている。

 山頂には山岳信仰を集めた有名な神社「武蔵 御嶽神社(むさし みたけじんじゃ)」があり、神社前には宿坊が連なっている。また、嬉しいことに参道脇には多くの参拝客を当て込んだ土産店が並んでいる。

 私達、ワンゲル・サークル一行の「忘年登山」の場所として恒例となっている相模の「大山(おおやま)」。「大山詣で」の聖地として江戸期より人の往来が絶えず、豆腐料理をはじめとする精進料理の茶屋が登山道入口に立ち並ぶ地なのだが、今回の「御岳(みたけ)」も大山同様に信仰の山だ。江戸期あるいはさらに以前からの参拝客で賑わいを見せたのかもしれない。

御嶽神社へ

 ロープーウェイを降りると、駅舎の周りが広場になっている。さらにリフトを乗り継いで進むと有名な「レンゲショウマの群生地」へと行ける。

 リフトには乗らずに広場から続く小道を案内板に従って神社へ向かって進んでいけば、やがて山腹に広がる数多くの宿坊が立ち並んだ集落へ出る。
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神社へ向かう 神代けやき

<参道脇の杉木立について>

 由緒ありそうな宿坊を縫って、神社へと続く坂道を20分ほど進むと、道の脇に「神代欅」の巨木が忽然と現れる。

 推定の樹齢は千年で、樹木は8mの太さを誇っている。それにしても千歳というのは気が遠くなるほどの長寿だ、と言えよう。ブナの青年期に至るまでの歳月が100年、と以前聴いた気がする。欅(けやき)もブナ類同様に長寿の種属なのだろう。こうして眼にしている樹木も、想像できないほどの凄まじい年代を経ている。先人が「神代(かみよ)」とも呼びたくなったのも無理は無い。この樹木は「国の天然記念物」に指定されている。

 この壮麗な樹木の種属は「ケヤキ」だが、神社といえば杉の巨木が思い浮かぶ。

 昨今、春先の国民病の一因となっている杉板採取のための植林、ではなく、神社周辺の杉木立は信仰としての意味を持ったものとして植えられている。

 天に幹を真っ直ぐに伸ばす様子から、その樹木は山ノ神へ繋がる信仰の対象として植えられたものであり、また同時に神社の社屋修復などにも利用したのだろう。

 近隣では高尾山でも同じように、山頂の「薬王院」に続く参道脇に世代を経た太く高い杉木立が続いている。高尾はミシュランでの紹介で人気が沸騰し、ますます観光化が進んでいるが、その貴重な植生は特筆に値いする。そして今もなお、山岳信仰(山伏まどの修験道)の道場として信仰を集めている。山腹あるいは山頂の神社への参道脇の杉木立ということでは、新潟の「弥彦神社(やひこ)」もそうだし、群馬の「赤城神社(あかぎ)」や「榛名神社(はるな)」も同じだ。樹齢の長い、太い杉木立が参道脇に続いている。

 山岳にある神社の参道脇に杉の巨木が立ち並んでいるのは、みな同じ理由からだろう。
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地物の山葵 有名な蕎麦屋

 神社へ向かう参道には、何軒かのお土産屋さんに混じって、手打ち蕎麦の店があった。丁度、蕎麦が熱心に打たれている最中で、巧みに麺棒を当てるご主人の手元をガラス越しに目にした。

 打ち上がるまでしばらく見ていたい気がした。見つめていたら食べたくなってしまうに違いなく、後ろ髪を引かれる思いで店前を離れて、神社へと歩をすすめた。

 その横の店では立派な「山葵(わさび)」が店先を飾っていた。一本で二千円近い値段だったが、このあたりの沢筋は清冽だろうから、山葵はさぞや美味しいに違いない。ワンコイン位の値段が付けられていたのなら迷わずに買う所なのだが・・・。あまりに高価で、手も足も出なかった。

 神代ケヤキのあたりから、店をひやかしながら6分ほど歩けば、神社の入口へ至る長い石段の下へたどり着ける。
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参道から鳥居を見上げる

 さて、この山は盛夏、「レンゲショウマ」の花の咲く場所として有名だ。(8月が最盛期らしい。)

 樹林でスポットライトのような淡い光をひっそりと受けて、レンゲショウマが静かに咲く様子が撮りたくて、いつもその時期になると心が騒いだ。何年か前からずっと訪れようと考えていたけれど「さいたま新都心」からここまで訪れようとすると、その距離に二の足を踏んでしまって、いまひとつ踏ん切りがつかなかったというのが正直なところだ。

 花を目当ての人出がかなりあって、その時期に静かな花の様子を撮るのは難しかろうとの思いもあって、一層の躊躇があった。

 実際に来て見れば、心配したほど新都心からのアクセスは大変ではなかった。そうした訳で、今年こそは長年の宿願を果たすべく、夏になったら花の写真を撮りに来ようではないか、と思ったのだった。

神社へ参詣する 石段を登る
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石段を登る 武蔵御嶽神社

<御岳神社 :「武蔵御嶽神社(むさし みたけじんじゃ)」について>

 壮麗な神社は「武蔵 御嶽神社(むさし みたけじんじゃ)」という名称が正式な社名で、標高929mの山頂に展開された神社は周辺を見渡す高みであり、山岳信仰の地として周辺地域から熱心な信者を集めていたようだ。

 神社の縁起は紀元前91年から始まるとされている。当初は山頂の祠のような状態だったのだろう。神社の体裁をとったのは736年に「行基(ぎょうき)」が蔵王権現を勧請したときから始まるようだ。行基は大仏建立をはじめ、超人的な行動力を持って多くの足跡を各地に残している。百済王家の末裔とされる大僧正(朝廷から送られる仏教界最高位の官位)だが、彼が全土を踏破して作成した地図や橋や治水事業・灌漑事業や温泉開湯など多くの業績は、今も各地の石杖となっている。

 しかし、唐破風の屋根を備えた朱塗りの拝殿の奥にある現在の本殿は、1877年(明治10年)に造営されたものだ。その横に「常磐堅磐社(ときわかきわ しゃ)」の社殿がある。こちらこそが室町時代の1511年(永正:えいしょう 8年)以前に造営された旧本殿なのだった。

 この時代は戦国大名の「北条早雲(ほうじょう そううん)」が相模で検地を実施した年だ。小田原を拠点化し、今川家の被官から「国持大名」へ勢力を拡大した頃のことだ。


 参道の階段には、多くの石碑が立ち並ぶ。地域の名前が書かれた「xx講」の参拝を示す石盤だ。多くの講を示す名盤が参道脇に建ち並んでいる。拾い読みしていくと各地の名前があるが、遠く埼玉北方の地域名を示すものなども目にすることが出来る。

 神社の横手には宝物殿がある。こちらは木造ではなく最近建てられたもののようだが、「畠山 重忠(はたけやま しげただ)」の武者鎧などが飾られているようだ。


 畠山重忠は、「源 頼朝(みなもと の よりとも)」を支えた代表的な武将(鎌倉御家人)で、埼玉の「武蔵嵐山(むさしらんざん)」には居館跡(2010.07.19 「武蔵嵐山にカブトを追う」)があり、埼玉には多くの伝説や縁の神社仏閣が残されている。ここら辺りでは人気が高い英雄だったといえよう。年始でいつも硬貨を洗っている与野公園(与野本町)内の銭洗い弁天にも、重忠が鎌倉へ馳せ向かう途上に刀剣を湧水で洗い活躍の契機としたという伝説が伝わっている。

拝殿横の宝物館 拝殿

< 「講(こう)」 という組織について >

 「講(こう)]はいわば山岳信仰としての緩やかな結社だ。農村部などでは戦前まで続居たらしいが、GHQによって解散させられたため、今では残っていない。

 「講」は山行のための費用を積み立てる組織で、資金がまとまると行中(組織のメンバー)の人々は待ち望んだ旅に出た。

 「詣で」という宗教行事は、消費生活が出来るようになった江戸中期頃に盛んになる。お伊勢参り、大山詣、江ノ島詣、善光寺参りなどが代表格だろう。そうした土地へと多くの人が「組」を作って旅に出た。特に「お伊勢参り」などは社会現象といってもよいものではないだろうか。

 「お伊勢参り」は江戸期を通じて「詣で」の代表格として盛んに行われたが、さらに数十年に一度それが爆発的な様相を呈したらしい。遷宮の行われる60年周期でその熱狂があって、まるで国中が沸き立つように、多くの人が伊勢を目指したという。なにせ数百万人規模の移動が行われたらしいのだ。

 講を作って代表者を送り込むのが一般的だが、爆発期では奉公人などが(裏店の住民ではなく住み込みの就労者)準備も許可も無く、茣蓙を手にし柄杓を後ろ腰に指して、突如として旅立つ「抜け参り」という風習もしばらく続いた。「お伊勢参り」だけは移動に不自由だった江戸時代にあっても公に移動が認められたという。幾度かは規制されたらしいが、そうした理由からだろうか。

 「お伊勢参り」は、莫大な費用が掛かるので多くの庶民にとっては生涯一度の大旅行だったわけだが、そのほかはもっと頻繁に行えたようだ。「江ノ島詣」などは江戸近郊だから、市中からなら数泊で往復できただろう。

 大山詣や富士講などの山岳行は特殊技能が必要だから専門家の指導が必要になる。しかも修験に通じる修行の要素もあるから、なおさらだ。

 こうした庶民の組織をまとめるのが「先達(せんだつ)」や「御師(おし、おんし)」と呼ばれた人々だ。彼らは行事のプロモータであり、旅や信仰の指導者、さらには布教者でもあった。修験者だったり、目的地である神社仏閣の神職や僧侶だったりするわけだが、いずれにしても専門家集団だ。

 だから、自分の基盤を示す意味合いもあってか、「xx講」の石版を多く建てる事になる。由緒ある古い神社などでは逆に、土地の人々に講の活動を示すためか、「xx参拝記念」の銘文が彫られた石灯篭などが寄贈されている。
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拝殿 御岳山頂から一望する

 ロープウェイの山頂駅から参道を歩いて神社まで、所要時間は30分ほどだろうか。

 意外に距離があって少し疲れたため、神社でしばらく休む事にした。

 拝殿や本殿など、かなり古そうな建物もあって、こうした山中へ資材を運び上げた昔の人の苦労を思った。どの山頂にある神社を訪れても、いつも同じ感想を抱くのだが、重機など無かった時代を思えば実に大変な作業であったに違いない。

本殿
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唐破風を持った祈願所 神社横からは険しい道が続く

 神社の脇から登山道が始まるが、社殿自体が山頂にあるため、一旦、山を降って、山腹を巻きながら歩く事になる。

 そのため、登ってきた分と同じ位の距離(高度差100mほど)を、急角度の斜面にジグザグ状に置かれた木組みの階段で降りていく。斜面に直にそのまま階段が作れず箱根登山鉄道のように斜面上から何度も往復して切り返す形状になっている。下りだからよいが、ここを登れといわれると多分へたり込んでしまうに違いない。

 また、降りた高度分と同じくらいを改めて登り返すことのなるのだと思うと、少しもったいない気がしてしまう。
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見晴台 芥場峠へ

 そうした神社脇からの木組みを降りきると、山腹を走る登山道「大岳山(おおたけやま)」方面への縦走路に出る。

 神社から歩いて、「奥の院」と「大岳山(おおたけやま)」方面へ向かう分岐路まで、10分ほどで出会う事になる。その分岐を「大岳山」方面へ進むのだが、このコースは結果として少し降って最後に大きく登りかえす事になる。ロックガーデンへ降りるとさらにその度合いが強くなるので、今回は中間路を進む事にする。

 何事も中庸を旨とせよ、という訳だ。

 やがて「芥場峠(あくばとうげ)」の尾根筋へ向かう小さな分岐に出るが、そこに建てられた道標を読むと実はこの道、いつも出会う<関東ふれあいの道>の一部だった。

 千葉の海士有木(あまありき)鋸山(のこぎりやま)、埼玉の吾野(あがの)奥多摩の高水三山、神奈川の三浦海岸など、首都圏をめぐる広大な遊歩道の一部として続いている。

* 関東ふれあいの道(埼玉県)へのリンク
* 関東ふれあいの道(東京都)へのリンク
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天狗の腰掛杉 枯れた沢筋

 分岐から先に続く道は杉の植林のための林道と思われ、ある程度の広さがある。杉の木立に阻まれてあたりの景色は見えないが、歩くには楽な道になっている。

 分岐を過ぎてしばらくは広い道なのだが、やがて少しずつ道が狭くなっていく。緩やかな登り道になる頃から、一層狭い道になってくる。足元を見ると、深い谷が続いている。

 足元のすぐ前から見透かす谷は底が見えず、目の回りそうな深さがあって、落ちたら大変なことになるだろう。大きな岩を回ったりしながら、注意して進む事になる。

狭い岩場を歩く 足元は急な谷
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斜面をトラバースする 狭い岩場に向かう

 30分ほどで、「岩石園」へ戻るコースとそのまま進んで「大岳山」へ向かうコースとの分岐、に出る。

 ここを過ぎて、さらに40分ほどを登ると「芥場峠(あくばとうげ)」の道標のある尾根筋へ出る。ここから「高岩(たかいわ)山」へ向かう分岐になっているが、そこへは向かわずにそのまま進んでいく。

 そこから30分ほど歩くと、コースはやがて険しい岩場になる。崩落寸前の狭い道で、注意して進む事になる。

 岩場にある巨石の壁面には、時に太い鎖が渡してあって、歩く危険を減らしている。大勢の人で鎖場に取り付くと危ない場合もあるが、この日は大分空いていて、ほぼ一人で鎖を持てる状況だった。だから引かれてバランスを崩すことも無く、なんら問題が無い快適な状態が保てた。

 さらに足場が極端に悪い状態の場所には、岩の上や間に鉄製の梯子や階段が掛かっている。足元は悪いがおおむね安心して歩くことができる。

岩場 岩場
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梯子を歩く 霜柱を発見

 「大岳山」山頂へ向かう道脇で、霜柱を見つけた。

 「シモバシラ」は地面から白く立ち上がる山野草だが、これは本当の霜だった。指との比較で写真を撮ったのだが、親指を上回る太さの柱だった。

 標高はたいしたことはないが、北向きの斜面では風を受けるし日が当たらないので、気温が極端に冷え込むのだろう。

 ここから山頂までのアプローチは30分ほどの急な登攀になる。三点確保しつつ岩の間を工夫して登っていくのだが、わずかの間で100mほどの高度差を一気に登る形になる。最後は息が上がるが、「もうだめだ、休憩したい!」と思う直後に、視界の開けた山頂へ出る。

大岳山の山頂へ ここから急登が始まる
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山頂で寛ぐ 展望を写す

 「大岳山(1267m)」の山頂は展望がよく、南の斜面のずっと先に丹沢や大菩薩嶺方面の山並みが見渡せる。具合がよければ富士山も遠望できるらしい。

 御岳山の山頂が929mなので標高差は約340mになる。御嶽神社のある山頂からは一旦降るので、実際には400m余りを登ることになるようだ。最後の急登さえ覚悟を決めれば、さほど大変ではないだろうが、コースマップでは「中級」に指定されている。御岳山だけでなくこの山(大岳山)まで来るには家族連れでは厳しかろう。

 山頂はちょっとした広場状になってはいるがさほど広いわけではないので、天気がよい場合は手狭になろう。私達は一段下がった場所の林間に陣取ることが出来たが、大人数のグループと行き合わせたら、これほどゆったりとは出来なかっただろう。

 山頂は高度もあるし、風が通るので気温が低く、充分な防寒着を用意していないと冬場はつらい状態になるだろう。

 この日は晴天に恵まれ、そのお陰もあって気分よく食事をすることが出来た。急登の疲れもあっていつもよりのんびりと食事をしたが、今回は台湾茶(烏龍茶としては「青茶」の部類に属す)を用意していたので、食後のひと時もすっきりとした味わいを堪能して、充分に寛ぐことが出来た。

食事の様子 台湾茶を愉しむ
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山頂からの眺め

 山頂での眺望を存分に楽しんだので、そろそろ下山する事にした。

 往路を戻らずに「馬頭刈山(まずかりやま)」方面へ向かって降る事にしているので、登ってきた南斜面ではなく北斜面を降り始めた。当初は「鋸山(のこぎりやま)」経由で3時間ほどの長い下り坂をJR「奥多摩」駅へと抜けるコースをとる予定だった。

 登り道も急登だったが、北面側の降り道も同様にかなりの高度差を一気に降りる事になった。岩の間を時に這うように三点確保で降りなければ危険な場所があったり、20分ほどは割と大変な状態が続いた。しかし、登りと違って岩を見つめるのではなくて遠くに連なる尾根筋を眺められるので、大変ではあっても気分は登りの時とは大分違っているといえよう。

岩の斜面

険しい岩場を抜ける (メンバー撮影)
馬頭刈山(まずかりやま)への分岐
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 思っていたよりも降りのペースが遅く、奥多摩駅へ抜ける当初の下山コースを進んでしまっては時間が足りない可能性が出てきた。日が落ちてしまうだろうし、駅へ戻るバスに乗れないという状況も想定されてきた。

 北向きの斜面を降りて「鋸山(のこぎりやま)」へ出るつもりだったが、このペースから考えると完全に困難であろう。気温も落ちてきたし、北へ向かうので日暮れの時間も早かろうということで、大岳山を巻く迂回コースをとって南面へ進み、そのまま南面を降って「白倉バス停」方面へ向かう事にした。

 しかし、この決断はいつに無い正解(ワンゲルの行事では大抵は悪い方に転ぶ)で、先ほどまでのコースとは打って変わって、南斜面には光が溢れていて実に暖かく、登山道には落ち葉が豊富で、冬場の低山としてはなんともいえない完全な状態だった。

 コースを南に変えただけで、実に気持ちのよい山行が楽しめた。

 歩く度に、厚く積もった落ち葉がクッションとなり疲れを和らげてくれるし、踏みしめる落ち葉からは柔らかな音がして気持ち良く歩くことが出来る道だった。なにより南に向かうので明るいし、風が少なくて下山路としてはこの上なく良い状況なのだった。

天保年間の石碑 山葵だろうか
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 下山途中で、登山道脇にお堂があったのでお参りし、そこで小休止をとる事にした。

 「奥の院」と呼ばれる場所だろうと思うが、はっきりしない。そこからさらに道を下る。大岳山の山頂からは1時間30分ほどを歩いただろうか。やがて立派な石組みの鳥居が現れて、脇に石碑が置かれた場所に出た。ここが先ほどのお堂への参道入口なのだろう。碑をみると側面に銘文が彫られていて、そこには「天保(てんぽう)」という元号が書かれていた。

 天保といえば1830年代、大阪町奉行所の与力「大塩平八郎(おおしお へいはちろう」による乱が起きた頃だ。町奉行所与力といえば幕府の民生担当の行政官僚で、生粋の権力側の人間であった。時代は混乱の極みにあったといえよう。

 さらに暫くすると東北諸藩を中心とした「天保の大飢饉」が起こり、老中首座の「水野忠邦(みずの ただくに)」が倹約令を主体とした改革に乗り出す事になる。一揆や打ち壊しなどの事件が相次ぎ、政情が不安定となって幕府の屋台骨が大きく揺らいだ年だ。

 「一揆」は通常、帰農した武家や開拓地主である郷士層が中心となってその土地での新興勢力である配領武士層(新たな支配者として移封された大名など)と争うものだが、この時に発生したものは「百姓一揆」であり、従来と違って農民層がその中心となった。一方、「打ち壊し」は都市暴動であり、不満を抱える都市住民など武士階層や町人階層以外が中心で引き起こされた。

 幕府瓦解の頂点となる「明治維新(めいじいしん)」の震源(萌芽)はこの辺りから始まったと私は考えている。

 大きな時代の転換点となる天保の年号が掘り込まれた石碑が建っている。天候不順に端を発した打つ手立ての無い凄まじい飢饉に対して、信仰の証として誓いを立て、死した人たちを供養し、新たな災いを避けようと神に祈願したものであろうか。

白倉の集落 集落

<町人(「商」)と呼ばれた人たち>

 士農工商の「商」階級としての「町人」とは、「町年寄」として町政に参加していた大店の主達を言う。

 彼らは流通を支えた問屋や老舗の店主でいわば商業主(卸商店の経営者、何代にも渡って小売する名店の主)であった。また、彼らだけが都市住民としての地位を持っていた。唯一の納税者(冥加金を納めた)であって、地主だったから多くの土地も私有していた。身分制で認められた「商」の階級、江戸での町人というのは、あくまでも納税していた彼らを指していた。暴動の主体はかれら「町人」階層ではなく、日銭稼ぎの人達たちが起こした騒動だった。

 本来の意味での「町人」は、社会貢献という義務感から自分の所有地に「長屋」を作って多くの住民に提供した。「表店(おもてだな)」と呼ばれる目抜き通りの小売商店街がそれだ。さらに法外な安値段で多くの住居を提供したのが「裏店(うらだな)」で、日銭稼ぎの職人達、落語で登場する熊さん八っさん達がそこで暮らしていた。

 物知りで口やかましいご隠居さんとして登場する長屋の「差配(さはい:家主)」は、裏店の管理人として町人である地主に雇われた用人だ。「大家といえば親も同然」と羽織を着て大見得を切ったりするが、その長屋を所有していた訳ではなく、長屋の一つに住んで普段は町内の木戸口近くの番所に詰めていた。
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白倉バス停前  少しきわどい状態だったが、
 無事に「白倉バス停」へ
 バスの来る時間までに辿り着くことが出来た。


 時間には多少の余裕があって、
 道の向かいにある酒屋さんで地酒のカップ酒と
 地物の刺し身コンニャクを購入することが出来た。

 大岳山の山頂からこの白倉集落に出るまでは約2時間ほどだったろうか。急斜面での降りが20分、そこから巻き道を進み大岳山と御岳山の分岐までが30分、長いくだり道が40分、最後の階段状の降りが15分。

 さらに山際から集落を沢に沿って歩いて、バス停までは15分ほどになる。

 「白倉バス停」から「JR武蔵五日市」駅へ向かう路線バスに乗る。駅へ向かうまでにはかなりの距離がある。乗車時間は30分ほどになり、路線バスを利用するほか移動の手段が無い。

 この運行時刻がきわどく、夕方の4時58分を乗り過ごすと次は最終バスになってしまい、しかもその時間は7時53分という恐ろしい状況となる。乗れなかったら、周囲に何も無い山里で3時間を潰さなくてはならなくなるのだ。五日市へ向かう渓流脇の街道をずっと歩いて温泉がある場所まで行って、そこで時間を潰す以外に手が無くなる。
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<本日の旨い物>


<立川 弁慶(べんけい)で反省する>

 武蔵五日市駅から少し歩いた場所には、以前の山行(高水三山)の帰りに寄った美味しい蕎麦屋さんがある。そこに寄ろうとも考えたが、列車で「立川(たちかわ)」へ向かい、その地で反省会という事になった。

 立川の街で以前見かけて入れずに、ずっと気になっていた店があった。私の提案でその居酒屋(炉辺・焼き鳥)へ行く事になった。以前仕事で立川へ出かけた際、何度見ても客で一杯で入ることが出来なかった店に行くことにしたのだった。私は知らなかったのだが、店には二階席があり、70人ほどが入れるらしく、何組もの集団を賄えるらしい。一階だけ目にしていて、そこも狭くは無いがテーブルやカウンターがいつ見ても楽しそうな客で一杯だったのだ。

 運よく二階席が空いていて、私たちのグループは店に寄る事が出来た。お預けになっていた私の課題も果せる時がやって来たのだった。

 焼き鳥をはじめとした定番品から鍋物や季節の一品など盛りだくさんに様々なメニューがあり、私達はボリュームのある食べ物を楽しめた。

白子 牡蠣酢
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 白子や牡蠣酢などの季節もので乾杯し、6人編成分を賄う分量の焼き鳥やフライ物など、順当に注文した。

 牛モツ鍋や、それが美味しかったので比較材料として単品の「モツ煮」も注文してみた。他にもサラダや数品を注文し、気分が良くなってはしゃいだ話が出来るほどのお酒(生ビールのジョッキや焼酎のお湯割り、サワーなど)も存分に飲んだ。

牛モツ鍋 焼き鳥

焼き鳥
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 精算して驚いたのだが、一人二千円ほどでしかなかった。

 正確に計算してはいないが、店が会計を間違えたのではと思ったほどだ。リーズナブルこの上なく、仲間と共に喜んだのだった。

 今は不況で居酒屋なども価格競争が激しく、以前は考えられなかったような値段で楽しめる状況になっている。

 仲間の言うには「センベロ」、それは「千円でベロベロ」ということを表していて、低価で強かに酔っ払うという意味らしい。時代は最早、そこまでデフレ化が進んでいるらしい。私などは単純に嬉しくなってしまうのだが、果たしてそれが経済として考えた場合にどうなのか、いう危惧も芽生える。まあ、「けいざい」などと大袈裟に構えるほどの消費活動ではないので、よしとするか。

 味もよく、ボリュームもあって、しかも低価格。奥多摩方面での山行の反省会がこの店で多く開かれるということを後で知った。

 立川駅横の通り沿いにある「弁慶(べんけい)」という店だが、私にとっては実に有難いお店なのだった。

モツ煮 特大コロッケ
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