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2008.06.15
喜多院に咲く紫陽花

アクセス;
 JR川越線―川越駅


カメラ;
 PENTAX K10D

レンズ;
 PENTAX FA50mm F1.7
 PENTAX FA50mm F2.8 マクロ
 PENTAX FA135mm F2.8


三脚;
  K10D:カメラの手ぶれ補正

 (画像添付時に約70%程度に圧縮)


 梅雨の合間の晴れ間となったので、越生(おごせ)の「あじさい街道」(2007.07.06 「あじさい街道(越生)」)へ行こうと、出かけてみた。北与野からJR埼京線で川越まで行って、そこから東武線へ乗り換える、という行程だ。

 途中の川越(2007.05.03 「荒川ポタリング(川越)」)では、列車を乗り換えるだけでなく途中下車する。寄り道してクレアモールにある古本屋へいって本を探すのと、食事を済ませてしまおう、という計画だ。越生駅から「あじさい街道」の入り口になる「麦原バス停」までの路線バスが、11時を過ぎるとそこから2時間近く無かった記憶があるからだ。

喜多院のツツジ
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 JR川越駅に着き、そこからクレアモール(2007.08.14 「菓子屋横丁(川越)」)へ行く前に、「イシイ・スポーツ」が目に付いた。山道具を物色にちょっと寄ってみた。こういう寄り道が「街歩き」の楽しいところだ。

 モールにある古本屋さんへ行って、子供が欲しがっていた「NARUTO 秘伝 烈闘絵巻」を探した。与野の店には無くて、期待していた川越だったが、一軒目では見つからず二件目で無事に見つけることができた。

 その後、食事をしたが、実は子供にご馳走になってしまった。

 それは「父の日」の企画であり、子供からのプレゼントらしい。出掛けるときに「きっと今日は嬉しくなっちゃうよ」といっていたのはこの事だった。そんな訳で、随分のんびりしてしまい、結局、越生へ行くのはやめて川越で紫陽花を楽しむ(2008.06.15 「川越で満腹になる」)ことにした。

 考えてみれば、「越生の紫陽花」の旬はもう少し後になるだろうと、言い訳を思いついて納得したためもあるが、他にも理由がある。

 食事のボリュームが多かったが、折角のはじめての<奢り>を父親から残す訳には行かないので無理にでも完食した。実に満足して幸福感に満ちているのだが、こんな満腹の状態でさらに遠くへ行く、ということが、実は面倒になってしまった。

喜多院の紫陽花 木漏れ日を浴びて
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池脇の紫陽花

 「喜多院(きたいん)」は大きな寺院で、開山はなんと830年。

 大変古くからの歴史を持っている。仏教伝来から、僅かに300年。山こそ無いが、発展した都からすれば原野に等しかったであろう武蔵野の地に平安初期に建立された天台宗の「無量寿寺(北院、中院、南院)」がその起こりだ。

 寺域を広げたのはこの寺院に「天海(てんかい)僧正」がいた、江戸幕府開府期らしい。五百羅漢の石像や、江戸城から移築した「春日の局の間」がある客殿(書院)が有名だ。徳川三代将軍の時代に現存する山門を除くすべての建物を大火で消失し、再建には江戸城紅葉山の別殿を移築した。喜多院に「家光誕生の間」や「春日の局の間」があるのは、そのためだ。(彼らがここで生活をした訳ではない。生活後の建造物をそっくりリサイクルしただけだ。)

 川越の伽藍が焼失したための移築が、今度は江戸城の焼失から、これらの文化財を救った。もし移築していなければ、それらの建物は現存してはいないのだ。また、戊辰戦争での焼失を免れたのは、川越が親藩(しかも江戸を守るための前衛)であった事を考えれば、まことに幸運であった。

ヤマアジサイ
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変わった模様の葉 堀の横の小道

 大火の後に施したものかどうか、研究不足ではっきりとは判らないが、寺の周りには城を思わせる深い堀が巡っている。

 「喜多院」とそのまま敷地が続いている「東照宮」の外側に、ぐるりと空堀(深さは3m程だろうか)が一周している。堀から寺へのすぐ内側の部分は深い林になっていて、外界との隔たりとなっている。宗教的な結界という意味よりも非常時の籠城を考えてのことであろう。

 戦国が終了した江戸時代初期、城や砦は廃却令がでて(一国一城に制限)取り壊す事になった。軍事拠点を失っても領国は防衛しなければならず、渡川地点や街道筋などの重要拠点は抑える必要がある。そのため、いざという時の兵力集結地や前衛となる城砦として様々に利用できる寺社を作った(あるいは移築した)のだ。勿論、大規模な建造物は火事や天災時の住民の避難所ともなる。


 私達は、空堀の中や堀内の林の中にある道を回ってみた。深い森の中の木漏れ日が差し込む小径の写真が上にあるが、これは「東照宮」の横手あたりの部分。
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ヤマアジサイ

 空堀だけでなく、道を挟んだ向い側で挟撃するための砦のように存在する「日枝(ひえ)神社」の小高い丘や、「東照宮(とうしょうぐう)」の丘、「喜多院(きたいん)」内の慈眼堂の丘、など、さらには「喜多院」には大きな池もあって、それらの結構だけを観ると、喜多院を本丸として曲輪(郭;くるわ)を成している。その様子はどう見ても完全な城郭なのだった。

 川越城の付け城という性格が多分に濃かったのではないだろうか。

風にそよぐモミジ 風にそよぐモミジ

空堀を爽やかな風が抜ける。
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苔むす石塔

 城の規模を補うための砦や小さな補助的な城は、「一国一城令」のために皆、破却された。1615年(元和元年)の江戸幕府の政令が出たためだが、戦国の世が冷めやらぬ時期なのにすべての領主が従った、という。

 このため、補助的な出城や砦が無くなった穴を補うために、規模の大きな寺が建てられたり、移築・整備されたりした。橋(渡川地点)の近くや街道筋に、古い大きな寺が今に残るのはそのためだ。

 領主が寺社を保護したのは、地域の民心統括が一番の目的だろうが、それだけではなかろう。寺を中心として、宗教的な結びつきで地域の繋がりを考えると、「藩」という単位の領地よりももっと広域の「国」などが対象となるように思える。しかも加賀の一向宗や雑賀、あるいは天草のキリシタンなど、熱心な信徒の集団の力は決して侮れないものであった。

 だから、「一国一城令」が発令される以前から、戦時拠点として利用するために領主達は積極的に有力な寺を保護した。

 広域に広がって勢力を張り、しかも強く結びついて寺を支えた宗人を取り込むためもあったのだ、と思う。寺領を寄進するだけでなく、布教を保護したり、寺そのものの格式を高めたりして、発展さえも企画したのはそのためだろう。

 こうした目論見で、各地の領主は寺社を保護し、寺領や社域を確保し建物などを寄進し維持し続けたのだ。幕府はこの事に気付いていたはずだが、寺社の破却までは命じなかった。

 そのお陰で、多くの自然が都市の中に残り、今を生きる私達は、その恩恵に預かれるわけだ。

ひっそりと咲く紫陽花
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日影の紫陽花

 喜多院の「本堂」の横には、川越藩主の特別な墓所がある。

 越前松平家から転封となった「松平 朝矩(まつだいら とものり)」からの系譜となる歴代の藩主の墓所だ。慈恵堂(巨大な屋根の本堂)の裏手に荘厳に区画割されているが、いまでは賑やかな寺領の中にあってひっそりと静まっている。

 霊廟の入り口には、大きな宝塔を守護するようにして、少し小さな塔が林立している。その塔には一本に一人の武士の名前が刻まれている。森鴎外の小説、「阿部一族」のように、藩主が没した後に追い腹を切った股肱の腹心達の墓所であろうか。

 このあたりのことも、後で調べてみたいと思う。

廟 菩提樹が満開
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慈眼堂(天海僧正をまつる)

 慈眼堂は、「天海(てんかい)僧正」をまつるためのお堂だ。徳川初期の怪僧として権勢を振るった事が納得されるほどの、規模がある大きなお堂だ。天海僧正については、天王山での戦に破れ秀吉へ天下を譲った「明智光秀(あけち みつひで)」がその人だという伝説もある。老年となる以前の僧正の来歴がはっきりしないために流布した噂だ。こうした想像は、ひょっとするとありそうな話であり、それを思う歴史のロマンとして楽しいものだ。

 堂は小高い丘の上にあり、丁度「東照宮」の丘と同じくらいの高さだろうか。ただしその2つの丘の間には、まるで郭を隔てるような空堀がある。「喜多院」の本堂を本丸と見立てれば、「慈眼堂」はその望楼(物見櫓;ものみやぐら)のようだ。また、少し離れた丘上にある「東照宮」は二の丸、その先の中院、日枝神社などは三の丸に相当する曲輪のようではないか。

モミジが映える 慈眼堂
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淡い色 池の横

 「喜多院」「東照宮」に続いて駅側に少し戻ると「中院」がある。

 「喜多院」は、もとは「北」院であり、ほかに「中院」と「南院」があった事は上に書いたが、その後、「南院」は破却されたが「中院」は本来の場所から200mほど南に移築され、「喜多院」とともに今に残っている。

中院の庭
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中院の庭 中院の庭

 お寺の規模は小さいが、美しい庭があるので覗いてみることにした。紅葉の時期に訪れたことがあり、落ち着いた静かさがあって、良い庭だった記憶がある。

 「喜多院」や「東照宮」と比べると、この「中院」には観光客がほとんどいないし、参拝者相手の売店も無い。そうした、言わば観光化された様子がないため、ひっそりとした雰囲気を味わいながらゆっくりと落ち着いて写真を撮ることができる場所になっている。

中院の庭(木漏れ日の中で)
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 「中院」の墓所も庭も広い訳ではない。お寺の建物も小さいし、どちらかといえば「門跡(もんぜき;高位の僧侶の住居)」の様でもある。その庭は個人宅の贅を尽くした庭園のような、小さくまとまった雰囲気を持っている。

 周りを巧みに木々が囲んでいるので、木漏れ日がまわる。光の移ろいが楽しめる。回遊式の山水庭園にはない楽しみで、光と影を計算し尽くして設計されたものだろう。もちろんこうした事は洋風庭園では味わえない。

中院の庭(木漏れ日の中で)
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八幡宮(拝殿脇) 八幡宮(拝殿脇)

 「中院」から、さらに駅へ戻る。大分戻ったところに「川越 八幡宮」がある。

 この神社には、多くの紫陽花が植えられていて、満開であった。拝殿の前や、商店街(クレアモール)側からの裏参道の脇など、境内中に紫陽花が溢れている。

 どの紫陽花も、色が濃い。

 赤い色のものも、青い色のものも、ほかの場所で咲いていたような淡い色合いのものが無い。私は、もう少し淡い色合いが好きなのだが、なんという種類なのだろう。額紫陽花であっても、花弁の形状が他の花とはすこし違うようだ。

八幡宮(裏参道) 八幡宮(裏参道)
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