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2011.09.24
桃の木川(広瀬川)サイクリングロード(前橋・伊勢崎)で「のんびり」する

走行距離;
 38km ;走行時間 2時間35分

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm F2.4 〜 72mm F4.4

本日の自転車
 GT GTR−4

 (画像添付時に約30%程度に圧縮)


 今回のポタリングは、群馬へ遠征だ。

 舞台は前橋と伊勢崎。いつもの荒川を中心としたさいたま周辺ではなく、わがふるさとの地を緩く走る。

 何故、遠征なのかというと、この日は先頃行なった中学の同窓会のいわば慰労会を開く日で、幹事や世話人としてクラス会を実施した古い友人達が集まるのだった。参集するメンバーの内、私ともう一人以外は皆前橋で暮らしているので、前橋のいつもの店に集合する予定なのだった。

 去年の9月に、ふとしたきっかけで幼馴染の数人が集まった。小・中学校と顔馴染みで、中学時代の数年間に同じ組になった数人が集まったのだ。その後、2ヶ月に一度程の集まりを繰り返して、その輪を広げていって、今ではそれが10名前後の集まりになっている。その集まりが主体になって、先日、さらに規模を広げて正式なクラス会を実施したのだった。

 その会に参集したのは27名。何十年振りの再会であったり、中には35年振りに顔を合わせる人もいて、自画自賛だが一応の成功を収める事が出来た。

駒形(こまがた)からの入り口 駒形周辺;; 前橋

前橋からは北方さえ見れば、赤城(あかぎ)山の優雅な姿が楽しめる。
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 さて、私の実家(のんびり 行こうよ: <20060813:帰省 〜 前橋・赤堀(花スケッチ)>)は、中学時代と違って郊外へ越している。

 前橋の町で言うと、もうじきに伊勢崎市へ入ってしまうという端境いの場所であり、一時期は県下随一といわれた「広瀬団地」というマンモス団地が近くに造成された場所だ。前橋の南部地区という事になる。だから関東平野の内であり、坂らしい坂は無く、まったくの平坦地。あたりは見渡す限りの田園地帯が続いている。

 最近では再開発が進んで密な住宅地となってしまったが、それは大分近年になってからの事で、20年ほど前までは集落の最南端の住宅が我が実家であった。

 家並みは増えて、ショッピングセンターなどの新たな施設も出来たが、大筋は田園地帯なので、ちょっと家並みを外れると一面に田畑が広がる風景となる。

 家からほど近い場所に「駒形(こまがた)」の集落があって、ここから「桃の木川サイクリングロード」へ入ることが出来る。

 余談だが、「駒形」は古くからの宿場町で、駒形茂兵衛(こまがた もへい)の街である。茂兵衛は関取(いや関取ではなく物語では相撲取りを目指した入門前の状態だったか)で「一本刀 土俵入り」という長谷川伸(はせがわ しん :大好きな作家 池波 正太郎さんの師匠に当たる方)の戯曲で名高い。

 「茂兵衛神社」という小さな社が、宿場町の外れの川のほとりにある。だから、茂兵衛さんは、飛びぬけて恵まれた体躯を持った実在の人物であったのだろう。ひっそりとした神社だが、今ではその辺りも開発が進み、すっかり住宅地に囲まれている。


 最近になって、古河線沿いの旧街道脇の宿場然とした家並みが区画整理され、大胡や荒砥方面から来る街道も2車線道路化され、宿場の名残の古い家並みはまったく消失してしまった。少し前までは街道筋の家並みが健在で宿場街の雰囲気が色濃く残っていたのだが、今では古河線沿いの広い梨畑だったところに住宅団地が分譲され、それを挟んで2つのショッピングセンターが開発されて、町は思わぬ賑わいをみせている。

笂井(うつぼい)から赤城を望む; 前橋 笂井(うつぼい)周辺

遠方は
赤城(あかぎ)山



「裾野は長し
  赤城山」

・上毛カルタの「す」
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 その駒形は、広瀬川、桃の木川、という利根川の支流が合流する地域で、昔から良質の水が得られた。そのため、日本酒の酒造も盛んだった。

 今も、古い造り酒屋が3軒、街に残っている。(その内の一軒は高校の同窓生、一軒は最初の会社の後輩の家だ。)

 「広瀬川」は、前橋市の北部、渋川市との境にある坂東橋(利根川)から、利根川からの取水と佐久発電所の放水を取り入れて、利根川と分流して始まる。

 それが田口の変電所(北代田、田口町)のあたりで「桃ノ木川」を分流するが、市内でさらに端気川(はけがわ)、韮川と分かれて、駒形で再び桃ノ木川をあわせ、伊勢崎市内に流れていく。  今は伊勢崎市の行政域へ組み入れられたようだが、太田市の手前の境(さかい)町で最終的に利根川に合流し、流域の全長は約42kmに渡る結構な流れだ。

 一方の「桃ノ木川」は、広瀬川から分かれて広瀬川の2kmほど北側を並行に流れ、流域の全長は短くて約17km程しかない。

 さて「端気川(はけがわ)」だが、この川は三河町で広瀬川と分流して南北に流れていく。三河町から旧高田町(朝日町)、旧天川町(文京町)、朝倉、上川淵、下川淵、と流れ下っていく。私が保育園、小学校、中学校と過ごしたのが、天川町(あまがわ)であり、当時住んでいた家の直ぐ裏手に端気川が流れていた。子供の頃は、端気川の橋の下で捨てられて泣いていたところを拾ってきた、などと親に言われた覚えがある。

 その端気川は、さらに朝倉で宮川へ分岐する。この川は「桃の木川」とほぼ平行して東南方向へ向かって流れるのだが、広瀬団地を過ぎた先の川横に私の実家がある。家の敷地の横に副流路があるが,その横手は直ぐ早い水流が流れる(宮川の)水路になっている。以前大雨の際に、上流と下流のそれぞれの水門の流量調整で失敗したらしく大水が溢れて我が実家が床下浸水したため、消防へ連絡して対応してもらった。その年のうちに水路の横に新しい副流路が設けられたのだった。

 宮川は正確には「宮川用水路」といい、水田地帯が広がる朝倉以南の地域―旧両家(西善町)、八田・公田(山王町)、東善町に豊富な水を供給するための農業用の灌漑用水だ。

笂井(うつぼい)から赤城を望む 本日の自転車

GTR−4

 桃の木川(桃も栽培されてはいるが、梨の方がずっと多い)の流れに沿って今回のサイクリング・ロードは作られている。私が小学生の頃にはもう「桃の木川のサイクリングロード」はあって、自転車少年だった当時、短い区間だが友人とともに何度かそのコースを走った思い出がある。かなり長い歴史を持った道といえよう。(2011年の今から考えれば、私の小学5年生の頃といえば、もう40年以上も昔の事になる。)

 JR駒形駅の横から、川筋(広瀬川、桃の木川の合流地点)へ続く道があるが、このあたりからが目指すサイクリングロードに入るのに一番区切りが良い様に思われる。勿論、川に沿って作られたサイクリングロードなので、川筋にさえ出ればどこからでもコースに入れるのだが・・・。

 私の実家からだと、他に、広瀬団地を突き抜けて大島梨 (古くは「長十郎:ちょうじゅうろう」という品種だったが、今は「20世紀」から、さらに「幸水」や「豊水」へと新しい品種へ生産の主力が代わっている)の産地で有名な「天川大島(あまがわおおしま)」へ向い、さらにその先へ進んでから川筋へ出る、という選択がある。
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 JR駒形駅の横手は、最近いなって「北関東縦断道(藤岡から水戸へ向う新しい高速道路)」の駒形ICが出来ている。

 そのためもあって、周辺の細かった道路が整備され、新しく橋なども架かってちょっと雰囲気が変わり、あたり一帯は見違えるようにきれいに整備された。細い農道までがきれいに広げられたようだが、駅の東側に川筋がある。そこに進んでみると、親切な案内版が現れて目指すサイクリングロードへと入ることが出来た。

 標識では渋川と伊勢崎が別に方向指示されている。これは、川筋に沿って北上するのか、南下していくのか、という事を意味しているのだろうか?。今回は、友人と合流するために走るので、まずはこの川筋を上っていく必要がある。この場所を起点に考えると渋川といえば北東方面であり、友人の家は北西方向にあるのだから、そのまま進んでしまうとまずいことになる気がする。いっそ、一旦は伊勢崎方面へ向かい(南下して)、しばらく進んで市街地が始まる辺りから真っすぐに北上した方が順当かもしれない。

 なにせ、サイクリングコースの冠となっている「桃の木川」は前橋市内しか流れていない川で、駒形から先の伊勢崎では広瀬川となる流れなのだ。「広瀬川」にしても、前橋の北端の利根川からの分岐までがその流れであって、指示板に示された「渋川」では流れていない。とすれば、渋川との案内はおかしいし、渋川まで辿れるのだとしたら名称の「桃の木川CR」ではなく、むしろ「広瀬川CR」と呼ぶべきではなかろうか。

 いずれも大分妙な感じだが、何はともあれ指示案内された「渋川」という方へ向かう必要があるようだ。しかし、渋川は随分遠い位置であり、そこまでがどういう道筋なのか明瞭なイメージを湧き上がらせることが私にはできない。

 さて、このあたり一面は、先に書いたようにまったくの平坦地だ。しかし、前橋は伊勢崎より海抜では20m程標高が高いはずだ。このため、北に向かうということを詳細に考えると、ある程度の坂を登るというかたちになるのだろう。が、しかし、川の上流に向かって走っていても一向にその感覚は沸いてこない。

笂井(うつぼい)から見る榛名(はるな)山 二之宮からの赤城山

 サイクリングロードに入ると思っていたよりも大分道幅は狭く、両脇に夏草が盛んに茂っている状況だった。

 のんびり走るからいいが、ペースを上げてのすれ違いでは路肩の位置や茂った草の下の状況が判らず、ちょっと危険な状態だ。前橋市はこの道路の整備や維持管理にあまり予算を割いていないようだ。

 北方を見やると、晴れた空にくっきりと前橋のシンボルである「赤城(あかぎ)山」が長く裾野を広げている姿が見える。少年の頃は赤城山の見え具合で、その日の天気を予測したものだった。あるいは、鍋割や荒山(連峰の前衛)の山頂の様子で冷たい風が吹くのかどうかを見たりした思い出がある。凍てついて霜が道を覆った初冬の朝は、鍋割を仰ぎ見ると頂が真っ白い雪を被っていたのだった。

 桃の木川の流れは穏やかで、その流れに沿って進むのは気持ちが良い。

 サイクリングコースの路面は場所によってクラックが入っていて決して良い状態とは言えないし、勢力を伸ばしている夏草は出来れば刈って欲しいと思う。だが、群馬県民の荒い運転の車を気にせずに済むのだし、安全に走行するという意味では充分な環境といえようか。
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二之宮 赤城神社

 「桃の木川サイクリングロード」をそのまま行くと、ついには赤城の裾野の近く(赤城県道という登り口:北代田のあたり)まで北上して行くはずだが、今日の友人との合流は、前橋郊外の「二之宮(にのみや)」という場所になる。

 「大胡(おおご)」と「赤堀(あかぼり)」と「前橋」の境界といった地域になる。この辺りの、赤城の南麓に展開する前橋市内の地区を「荒砥(あらと)」と呼ぶのだが、その中心地区のひとつがこれから向かうと「二之宮」という集落だ。

 「二之宮」が一乃宮で無いのは、上野の国の一ノ宮が藤岡の先にある「貫前神社(ぬきさきじんじゃ;この神社も大きな規模で初詣の参拝客など多くの振興を集めている)」であるためで、「赤城神社」は多くの末社(関東に300社とも言われる)を持っているが、残念ながら上野の国の「二ノ宮」に当たる。

 赤城山頂の湖のほとり( 2009.05.03 「赤城大洞(地元では大沼:おおぬま と呼ぶが・・)周辺」)に大きな神社があって、そこが赤城神社の奥社だが、中社は山頂から下がった「三夜沢(みやさわ)」と呼ぶ山の中腹、忠治温泉(ちゅうじ おんせん;忠治は「国定 忠治」)の奥にある。

 その赤城山の山頂・山中と続き、その下社(里社)に当たるのが、裾野の地にある「二ノ宮 赤城神社」という事になる。古くは三夜沢の神社との間で神輿の往来があったという。赤城神社を中心に、それを守る形で集落が形成されたのだろうか。

 そうした訳で、神社を中心とした信仰深いこの土地の呼び名が「二之宮」という名称で今に残った、という事のようだ。
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 二之宮の「赤城神社」は、数多くの文化財が保存されているという。古くからの歴史を秘めているし、土地の人たちの真っ直ぐな信仰を集めている証左なのだと思う。

 友人との待ち合わせにはまだ時間があるので、彼の家を訪れる前に神社へ向かうことにした。以前、神社に関する彼の話は聞いていたが、鳥居までは行く事があっても神社そのものは訪れた事が無かったからだ。


 改めて神社を訪れてみると、その規模は入り口の鳥居からは判断出来ないほどの壮麗さを持ったものだった。

 だから私は少し驚いてしまった。

 田舎といっては失礼だが、草深いこの地がそれほど繁栄した土地柄とは思っていなかったからだ・・・。境内は広く、舞殿を備えているし、宝物庫を伴っている。さらに中心となる拝殿や本殿も大変な構築を備えていたものだった。

二之宮赤城神社 赤城神社の境内
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 入り口の大鳥居を潜ると、すぐに鐘突堂が現れる。戦争時に供出しなかったのだろうか。そこには大きな青銅の鐘が釣られている。

 鳥居に続く、林床に咲き乱れる彼岸花を伴った樹木(杉だったろうか)が茂る参道を抜けると、神橋があり大きな門(三門に当たるのだろう)がある。橋の下に水は流れていないが、神社としての格式(形式)の整えは大宮の氷川神社などと同じ様相だ。

 境内に入ると、正面に大きな拝殿、左手には茅葺のちょっと目を見張る社務所がある。この社務所がまた、趣に溢れている。境内の右手には、舞殿などの構築が並ぶ。

 私は門を潜って自転車を停めて、拝殿の方に進んでみた。

赤城神社 拝殿 赤城神社神社 拝殿
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赤城神社 本殿     本殿

 拝殿で最初に驚いて、そこに掛かっている奉納額をもっと良く見ようと回り込んでみたら、背後に本殿があった。

 こうした作りは神社では一般的で、ごく普通の事なのだが、その本殿は上部に大屋根をもって覆われていて、その中に収納されて保護された状態だった。上部に屋根を持った本殿は小さなものが多いのだが、この神社の本殿は充分な大きさを持っていた。

 こんな郊外にあって、なぜ、これほどの規模を持っているのか。まるで、周辺には大集落があったような壮麗さなのだ。
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赤城神社 本殿 赤城神社 本殿

 さらに、本殿の構築内容を良く見たら、その屋根は桧皮葺とは違った凝った作りの屋根だった。

 細かい板がびっしりと積層されている。いったいどれほどの手数を費やしたのだろう。私には、その手間を想像する事ができない。それに屋根を支える木組みの見事な仕組み。

 こうした構築を目の当たりにした私は、暫く言葉を失って見とれてしまった。
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拝殿と後ろに控える本殿 本殿の後ろには・・

 本殿の裏には、奥社というか、また鳥居があって、それは古い社があった。こちらが、集落の産土神なのであろうか・・・。

 そして、その鳥居を取り巻く、多くの石で彫った社。これらは土地周辺にあって合祀された神々の住まいなのだろうか。

本殿裏
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本殿の裏 宝物庫(校倉造)

 その社の列の横には、道祖神を祭る石碑まで、いくつか並んでいる。

 さらに、見やると校倉造の宝物庫までがあるではないか。ここには多くの貴重な文化財が収納されているに違いない。

 この神社は、地域の一大拠点だったのだろう。遠く戦国時代には、大胡(おおご)、上泉、赤堀などは群雄割拠したそれぞれの勢力がせめぎあった土地だったのだから。

 ここから、直ぐ北に行った場所なのだが、上泉や大胡は剣聖と呼ばれた上泉伊勢守の本拠地(居城)だった土地柄だ。後にこの領地を捨てて、行脚して、神陰流(しんかげりゅう)を全国へ広めていく、その発祥の地に程近い。
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 神社への参拝を終えて、友人宅へ向かった。

 田園地帯の中にある集落(二之宮の本村は神社の周辺のようで、村の構成から言うと彼の家のあたりは新田の地域のようだ)なので家並みの層は薄くて、少し外れるとすぐに周りは一面に広がる田の風景となる。遠くに赤城山が見え、実施にはそうではなかろうが地平の彼方まで続く田が見えるような感じがする。

 中学生の頃に、ほぼ同時にロード車を買ってもらって、私達はよく一緒に自転車で遠乗りに出掛けた。高崎の観音山や榛名の伊香保温泉など、あるいは赤城山へ向かって登って行ったり、と。「高校受験を前にして、その大事な時期にあなたたちはいったいナニをしているのですか」と、今は亡き恩師(当時の担任)に呼び出されて、二人そろって大目玉を食らった。(その後、親が呼び出されて、さらにひどい話になったが)

 そうやって隙を見計らって自転車を乗り回してはいたが、二人は同じ高校へ進学した。そこで、バトミントン部を新たに作ったりと、ようするに少年時代、深い付き合いをした友人なのだった。

二之宮 二之宮から赤城を望む

 お互いに家庭を作り、長男だが実家を離れて暮らしを立てて、今ではそれぞれ立派に家族を守っている。すっかり中年と成り果てたが、共通する趣味もあって、このところ往年の交わりを取り戻しつつある。相談して彼は今日仕事を早めに切り上げる調整をし、私はこうして自転車を走らせている、というわけだ。


 彼の家の近くに来たら、辺りにはいかにも前橋南部の長閑な風景が広がっていた。空気も爽やかで、またとない秋日和が広がっていたのだった。

 そこでは、吹き始めた軽い秋風に稲穂が揺れて、畦には火の粉を散らしたように紅の花を着けた彼岸花が咲いていた。
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 落ち合って、自転車で田を抜けて、街道を走って目的の店へ向かった。何のことは無い、かつ丼と焼きまんじゅうが美味しいと評判の、荒砥地区を代表する食堂があるというのでそこに向かったのだった。

 すでに、この集合までに私は一時間ほど走っていて、しかも朝からの食事はコンビニで仕入れたおにぎりがひとつ、という状態。ハンガーノック寸前で、ペースの速い(車速は32Kmほど)友人にちょっと付いていくのが辛かった。

 「千福(せんぷく)食堂」というその店で、評判の「かつ丼」を食べ、楽しみにしていた「焼きまんじゅう」も食べたので、やっと元気が出てきた。丼は真剣に食べたが、焼きまんじゅうは話しながら食べて、都合お茶を3杯ほどもお代わりして、一時間以上も店にいただろうか。

 改めてそこから伊勢崎に向けて街道筋を20分ほど快調に南下して、華蔵寺(けぞうじ)公園の脇を抜けて、伊勢崎市街へ入り、JRの高架(知らないうちに伊勢崎駅の辺りが整理されて線路が路面から「高架」に変わっていた)を潜って曲輪町(くるわちょう)へ行った。

 そこが今回の第二の目的地だったからだ。JR伊勢崎駅の南に展開する古くからの市街地、曲輪町にある北小学校前に目指す店はある。

時計台(伊勢崎) 伊勢崎の旧織物会館(伊勢崎銘仙)に建つ
時計台

家人がでた北小学校の敷地にある。

今、この学校はコミュニティスクール化されていて、地域の公民館などと学校施設が融合されている。

美しい一画だ。

 家人が子供の頃に通ったのが、その北小学校であった。学校の前には当時から続く「駄菓子屋もんじゃ」の老舗がある。「島田もんじやき店」。マスコミにも取材で取り上げられて近年評判の良心的な店だ。

 家人の話では、当時の「あま」や「あまから」の値段は30円。

 「島田屋」のもんじゃはキャベツの刻みが入っていたが、お金の無いときはその近くの別の店へ行ったという。曲輪町の普通の家の前にトタン掛けで場所を作って、土の上に焼き板が組まれてそこに鉄板が乗せられた店があったのだという。そちらの店の有無は確認しなかったが、当時の値段は10円だったという。ちびちゃんラーメンと呼ばれていたベビースターを砕いて入れるしか手が無い、ただの水溶液が出てくる我らが「じじ焼き」と同様の仕様。おばあちゃんが、縁側に置いた板の前に座って硬貨と引き換えにアルマイトのカップを渡してくれたという。

 覚えている・・・。

 傷だらけになったベコベコの水のみカップのような容器に溶かれたつゆの色。あれは何だったのだろう。少し片栗粉を混ぜたうどん粉を薄くといてソースを入れたもの、というのがほぼ間違いない線だと思うが、「じじ焼き」の店によっては、赤っぽい色が着いていたようにも思う。

 さて、島田屋さんの低価格は今も変わっていない。当時の物価から考えれば数百円になっているというのが妥当なのだろうが、今も120円で楽しめる店なのだ。
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広瀬側(桃の木川) ; 伊勢崎 伊勢崎では広瀬川沿いにサイクリングロードが続く。

北上すると、
オートレース場の脇を抜け、やがて駒形で桃の木川サイクリングロードと合流する。

 随分と、「もんじゃ焼き」と呼ばれる代物を焼いたことが無かったのだが、都電荒川線で町屋( 2007.10.08 「電荒川線に乗って(町屋)」 )へ行って、私は初めて「もんじゃ焼き」を知った。

 それと同じ趣を残すもんじゃが田島屋では楽しめる。先般、(もう半年も前のことだが)荒川遊園前(2011.02.11 「王子界隈を街散歩」 )で、駄菓子のノリのもんじゃを焼いた。その店は、荒川線沿線でも良心的な部類の店で、400円から500円が平均となる。そこから考えると島田屋さんの取り組み様は破格といってよいものだろう。

 一杯が120円という価格であれば、子供達が相談して、あるいは小遣いを持ち寄って皆で120円にして、充分に楽しめよう。

 ヘラで同じもんじゃをつつきながら冒険談や秘密の相談が出来るのだ。公園は犬連れに占領されつつあるし、放課後の学校はロックアウトされる。広場となる空き地などはとうに消え果ている。安全に子供達だけで集っていられる場所は、どんどんなくなっている様に思うのだ。

 何時までも、同じ姿勢で続けていってもらいたいものと、切に願わずにはいられない。

広瀬川(桃の木川サイクリングロード) 実に美しく整備された川の脇のスペース。

夕暮れ時に散歩がしたくなる良い雰囲気に包まれた場所だ。

川面が夕焼けを映している。
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 実は、今回の「千福食堂」。中学生時代からの古い友人Wとのやり取りで、この店を知った。

 あるとき、焼きまんじゅう(後述)の話題になって、「千福(せんぷく)」という前橋郊外にある店の焼き饅頭がイイのだという、話になった。当たれば最高なのだがコンディションが微妙で、出来上がりが安定していないのが欠点なのだという。そして、この店では焼き饅頭も美味しいが、一番のお勧めは「カツ丼」なのだという。

 この話を聞いてしまっては、もういけない。帰省した折には出掛けてみようと考えていた。すると、別の友人から「その店なら我が家の近くだ」という情報が入った。

 その別の友人は、中学生の頃から一緒に自転車を乗り回していた古い付き合いの仲間なのだが、前橋と赤堀町の中間にある「二之宮」という地区へ越して、そこを地盤としていたのだった。(友人Wも、今回ポタリングした友人も、ともに中学時代からの古い仲間だ。)

 当然ながら、ポタリングの目的地としてその店へ行ってみる事にした。

おしながき 上州名物 ソースカツ丼

ソースカツ丼をご存知ない方も多かろうと思う。

前橋、伊勢崎、桐生などでは実にポピュラーなもの。
厚めのとんかつにソースをしみ込ませた物で、実に美味しい。

ちょっと辛目のウースターソースを少し濃くして、
カツの衣にひたひたと浸した、アツアツの状態を想像すればよい。

カツにソースをかけただけでは、この味にはならないので、注意。

< 本日の旨い物 その1 二之宮(前橋 東郊) 千福のカツ丼、焼きまんじゅう >

 千福(せんぷく)食堂は、場所で言うと前橋の東の外れ、今は伊勢崎市に組み込まれた「赤堀町」との境界にある店だ。

 「荒砥(あらと)」地区と呼ぶ場所で、冬場は赤城(あかぎ)山から吹きおろす赤城おろしの直撃を受ける。そんな平坦な田園地帯の中にある店だが、多分この地区では一番大きな店かもしれない。そこを地盤とする友人によれば、地域では有名な店なのだという。

 私たちが注文したのは、「ソースかつ丼」と「かつ丼」、それに「焼きまんじゅう」。
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カツどん

どんぶりから盛り上がってしまっているのは、
別にご飯が多いからではない。
すごいボリューム

 「ソースかつ丼」は名古屋の味噌カツとはまったく違うし、「カツ」にあらかじめソースをかけた、というものでもない。まるで別の食べ物なのだが、群馬の南半分(前橋、伊勢崎、玉村、藤岡、桐生など)以外では見かけたことが無い。、私にとっては実にポピュラーなものだが、埼玉でも、店のメニューで見かけたことは一度も無い。(ましてし東京や神奈川、千葉などでは見た覚えが無い。)

 私が、注文したのは普通の「かつ丼」だが、どちらもすごいボリュームで、ちょっと驚いた。厚いカツは、しかししなやかで、肉自体にもちょっとほのかに甘みがあって、実に美味しいかった。

 前橋の我が家では亡き父の大好物でもあったから、寿司と並ぶ<物日(ハレの日)>のご馳走だった。そうした訳で、私もカツは大好きなのだが、この店の「かつ丼」は評判に違わない逸品だった。
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焼き饅頭 焼き饅頭

 友人Wが語っていた、絶品だという「焼きまんじゅう」もお願いした。

 店に入ったのは14時少し前だというのに、店内が一杯になるほど来客があって、大層混雑していた。そのためか、「かつ丼」を食べ終わってから暫くしても注文しておいた「焼きまんじゅう」が出てこない。確認したら、あれっとの事で、注文のメモ書きを見たらしっかり2本線で消し込まれていた。どうやら店を手伝うおばちゃんの誰かが、忙しさのあまり、焼いてもいないのに完了扱いにしてしまったらしい。

 面白いので、友人Wのコメントを以下に転記しておこう。

  ・・・ただし、当たればです。はずれた場合は、普通以下となります。
  焼き手、店の混み具合、素まんじゅうの熟成状態、オヤジの機嫌、他の客の注文状態、気温、湿度、
  タレに含まれる不純物等々 全ての条件が整うと、とんでもない焼きまんじゅうになります。

  はずれた場合のリスクを考えるとおすすめはしません。
  要するに、ここの店は食堂なので管理ができていないんですよ。
  「焼きまんじゅう」に対する特別な情熱とかがあるわけではないのです。従って、当たり外れがある・・・
                                                古い友人W :談

 店はとんでもなく混んでいて、何人もいるおばちゃん達は、てんてこ舞いしていたが、改めてお願いして焼きあがってきた「焼きまんじゅう」は、実に美味しいものだった。多分、ボリュームのある「かつ丼」で満腹でなければ、もう一串、焼いてもらうところだ。

 幸いにも、「半ばヤケクソで焼いた状態が一番美味しいようだ」といっていた、まさにその状態に遭遇できたようだ。
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焼きまんじゅう

「千福」の焼きまんじゅうとは、ちょっとタレが異なる。
こちらの「たなかや」さんのものは、割合あっさりとしている。
(「あっさり」というのは、粘り気の問題で、水飴の量が少ないのだと思う)

右の写真の状態で、焼き鳥のように焼き上げて、
店秘伝のたれに漬け込む。
焼き饅頭

 前橋で<焼きまんじゅう>といえば、市街地にある創業安政4年の老舗「原嶋屋がやはり有名だろう。県外の人にも知られているようで、来店者が多いので、休日は直ぐに売り切れとなり、16時前に店を閉じてしまう。皆お土産にして買っていくが、家では店の火力が出ないので、若干、焼き上がりの趣は違ってこよう。

 今回の話題の発端は、(10年ぶりほどになるのだが)「焼きまんじゅう」を食べよう、という事になって前橋日赤前の「たなかや」さんへ行ったことによる。その店が、古い友人Wの縄張り内であったためだった。(オレを外して・・・、という事だった)

 千福食堂のタレは濃度が濃くて、昔食べた、家の近所の下山商店の「焼きまんじゅう」の味を思い出させるものがある。

 写真では判りにくいが、このタレは各店の秘伝であって、それぞれに違っている。まんじゅう、といってもふかふかの食パンのような状態のもの(イースト菌発酵のような状態)なので、何軒かをはしごして、食べ比べてみても面白いかもしれない。

焼き饅頭 焼き饅頭(やき まんじゅう)屋さんは、
前橋市内であればいたる所にあった。
まさに各町内に一軒という感じで。

いまでは、何軒もが店を閉めてしまって、
数店舗しか残っていないようだ。

この店は
前橋日赤前の「たなかや」さん。

私が子供の頃から営業している
結構な老舗である。

判らないだろうが、この微妙な焦がしが難しい。

やって見ると判るが家ではこうは焼けない。

・・「焦がし」はひとつの技、なのだろう。実はその店の焼方の腕の見せ所なのだろうと思っている。
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< 本日の旨い物 その2 伊勢崎 島田屋のもんじゃ焼き >

 今、伊勢崎の街が活況だ。

 「ベイシアグループ (カインズホ^ム、ベイシア電気、ベイシア、セーブ・オンなど)」の躍進のためか、オートレース場や南部の再開発が進んでいるためか、実にイキがよくなって町に活気がある。

 町おこしなのだろうが、「伊勢崎もんじゃセット」なるお土産も出現している。

 東武伊勢崎線で浅草に直結していたからか、伊勢崎には昔からもんじゃがある。前橋では、それがもっと貧相になって「じじ焼き」といって具がまったく無い状態で楽しんでいたが、伊勢崎のものは東京下町スタイル(2009.02.03 「もんじゃ焼きをやく」 )の正統派だ。

 今、市内中心部には20店舗以上があるようだが、それらのいくつかは最近の店のようで、だから、調べてみると内容も月島などと変わらない。

もんじゃ焼き「島田もんじやき」店 もんじゃ焼き「島田もんじやき」店

店内には、テレビ取材のポラロイドなどが張られている。

ここのところ、メディアの脚光を浴びているようだ。

 本来、伊勢崎のもんじゃ焼きは子供のための<駄菓子屋もんじゃ>がその発端だ。そんな昔ながらの姿勢(味、値段、雰囲気)を残している店が何軒か頑張っている。家人が通った北小学校前の「島田もんじやき店」は、今も変わらず残っていて、店はたいへんな盛況だ。

 120円(キャベツ入り)の「あま」と「から」、それに「ソース」が主体。月島とは違って、どちらかというと仲町や荒川遊園などの都電荒川線沿線の雰囲気に通じている。要は東京の下町の姿勢を残しているのだった。

 店内には、鉄板が5枚。だから数グループが入るともう店は満員御礼、一杯の状態だ。

 伊勢崎の人達は、家でももんじゃを焼いて楽しむようで、この店ではこれらをお土産に出来て、皆が次々に店に来ては買っていく。実にアットホームな雰囲気なのだ。家人の実家にも、もんじゃへら(ペトペトとやる間の小さな金属のヘラ)があったそうだ。大阪のたこ焼き用のピン串のような話だが、各人用が用意してあるという。
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 「あま」と「あまから」、「から」それに「ソース味」が一杯120円。「おおあま」「おおから」となると160円。

 私は「から」と「ソース味」の2杯をお願いした。「から」はちょっとピッとする辛さがあって、それはカレー粉の味が少し含まれるのだが、中心となる辛さの元が判らない。

もんじゃ焼き 「から」 「から」は、
ちょっとピリッとする。

カレー粉と他に何を遣っているのだろう?。


具は豊富で
切りイカ
キャベツ
あおのり
天かす?


普通以上のもんじゃ焼きなのだが、これで価格は僅かに120円也!

 「<から>っていうのは、ナニが入っているんですか?」と間の抜けた質問をしてしまったが、店の人(家人の話では昔店に居たオバさんの娘さんが継いだのでは、といっていた)には「ちょっと辛いの、ふふふ」と、実に巧みにかわされた。

 完全な失敗、店の秘伝なのだから、それを素人に教えてくれるはずが無い。しまったと思った私は、同行の友人に「前橋じゃ具は無いジジ焼きだからな、ソース掛けて味付けてサ。もんじゃって無いよね」などと語って(どちらかというと、店の人に聞こえるように)、その場を取り繕ったのだった。

 この店の客は、「どれが」や「なにが」などとは誰もが聞かないことに気が付いた。しまった、完全に皆さんは手馴れた常連客なのだ。「から」ふたつ、とか「ソース」と「あまから」とか、無駄口を利かずに静かに注文している・・・。

もんじゃ焼き 「ソース味」 さあ、焼きましょう
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 どんぶり(駅のスタンドそばのどんぶり程の大きさ)にたっぷりと細かく刻んだキャベツが入って、きりイカも添えられていて、結構なボリュームがある。

 最初に来たどんぶり(「から」と「おおから」)を二人して同時進行で鉄板にぶちまけてしまった。やれやれだ。

 溢れるつゆと格闘しているうちに、家人に教えてもらった大切な段取りを思い出した。またまた、しまった、状態だ。最初は具で土手を作って焼かなければいけなかった。そして、それが焼けてきたところで、その土手の中央につゆを流していく、そうした手順ではなかったか・・・。

 ふと、横を見ると、店の人は私と目を合わせないように視線を泳がせている。

 まあ、いい。しばらくすればつゆは蒸発して普通の状態になるはずだ。そんな感じで一杯目は友人の「おおから」と完全な混濁状態。それぞれが同時に鉄板にどんぶりの中身をいっぺんに展開してしまったため、一時は鉄板全体が大きな池となって収集が着かなくなってしまった。結果としては無事に出来上がったが、「から」のプレーンな状態よりも大分辛いもんじゃになってしまった。

 2杯目は、その経験での<学習効果>があった。1杯目の失敗を完全に挽回する大成功を収めた、といって良いだろう。

 いや、家人の話を早く思い出していれば、と少し恥ずかしくなったが、昔の「じじ焼き」の時のようにワイワイと言いながら鉄板の領土争いを繰り広げて、古い付き合いの友人との距離をまた少し縮めることが出来たような気がした。

もんじゃ焼き 「ソース味」 私達がいる間だけでも、
買い物の途中と思しき主婦の方が
5名以上も買いに来た。

土地っ子は、平均10人前とかの単位が、基本となるらしい。持ち帰りで、次々に買って帰って行った。
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