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2013.06.09
「城下町 小幡(おばた)」を訪ねる ―往路編(甘楽郡)

アクセス;
 ・上信(じょうしん)電鉄線、 「上州福島(じょうしゅう ふくしま)」駅 より
  「上信電鉄」は西上州を鏑川(かぶらがわ)に沿って走るローカル線。
   高崎・下仁田(しもにた)間を結ぶ のどかな路線である。

 ・車の場合は国道254号線。(上信自動車道では吉井ICか富岡ICを利用する)


散策のコース;
 小幡(おばた)の城下の様子は関連ページで主に記載している。
  甘楽町歴史民族資料館、楽山園(大名庭園)、小幡八幡宮 ほか

ポタリングのコース;
 西善(にしぜん;前橋市南部)より玉村(たまむら)、倉賀野(くらがの)、山名(やまな)と抜けて
 「鏑川(かぶらがわ)」の川岸に出て、国道254号線の「富岡街道」をメインルートとして走る。
  :走行距離(往復)  71km
  :走行時間      約4時間半


カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm−72mmF2.4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

関連ページ;
 ポタリング のんびり 行こうよ: 2013.06.09 「山名郷、八幡社を訪ねる 小幡復路編(高崎)」

 散歩 のんびり 行こうよ: 2013.06.09 「甘楽の城下町 小幡(おばた)を散策する」

 散歩 のんびり 行こうよ: 2013.07.09 「日光例弊使街道 玉村宿を訪ねる(07.21 五料宿を追記)」
 散歩 のんびり 行こうよ: 2013.07.09 「中仙道の要衝  倉賀野宿を訪ねる」



 前橋市の南部にある私の実家から南西方面を望むと、円錐形が美しい「浅間山(あさまやま)」の雄姿がまず目に留まる。そこを基点にして秩父方面までの視界の間を、遠く近くに連なった幾つかの山並みが続いていく。

 鋸の歯を立てたような屹立が連なる「妙義山(みょうぎさん)」は、赤城(あかぎ)山、榛名(はるな)山と並んで「上毛三山(じょうもうさんざん)」と呼ばれて県内で親しまれている山だ。妙義は懐が深い縦走になるため、「山行」の舞台として取り組むには上級の難度を持っている山なのだが、前橋を含めた周辺の小学生が学校行事のハイキングで訪れる初心者向けの変化に富んだ楽しいコースも持っている。そうした事もこの山稜が親しまれている所以だろう。

 その横には山頂をナイフですぱっと切取ったような特徴ある山容を持った「荒船山(あらふねやま)」が連なっている。辺りは<西上州(にしじょうしゅう)の山々>として総称される、特徴の溢れる山域だ。またこの一帯は「妙義荒船国定公園」でもある。

西善から西方を望む:吾妻の山並みと浅間山 実家から西方を望む。


右から榛名(はるな)山の裾野、その横は吾妻の山並み(吾妻耶山 他)。

円錐形に美しく裾野を広げている山は浅間(あさま)山だ。

上信国境となる山である。 (浅間のさらに左手側に妙義山が続く。)
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 公共交通機関による山域へのアクセスを考えると、高崎・下仁田間を走っている「上信(じょうしん)電鉄」を中心に据えたバス路線の利用を主要な移動手段にする、ということになるだろうか。だから、路線領域や運行時間などといった移動の制約が出て、山裾に取り付いてから下山するまでの「山行」自体の行動時間が縛られる結果になる。

 日帰りなどでは行程を立案するのに苦労をする事が多く、私などはその段階で諦めて、またの機会にしようと山行の計画化を断念してしまうのだった。

 しかし、そうしたいくつかの難点を補って余りある独特の魅力を、西上州周辺の山並みは秘めている。

 だから来訪者の多くはリピーターとなるのだろうが、そこは玄人好みの山域、とでも言ったら良いかもしれない独特の落ち着きを持った領域だ。多くの低山愛好者やハイカーにじっくりと親しまれている、静かな山行が愉しめる一帯といえよう。

西善から西方を望む:妙義山と荒船山 実家から西方を望む。

上毛三山のひとつ妙義(みょうぎ)山から更に西上州の山が続く。


平らな特徴ある山頂は
「荒船山(あらふねやま)」だ。

「神津(こうず)牧場」や
「内山牧場」がある。
内山峠で長野に入る。
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雄川堰は桜並木でもある

本日の愛車:友人Hの<CORRATEC DOLOMITI> と
私の<Ridley TEMPO>。

手前が、今日の相棒の友人Hのもの。
ドイツの大手メーカーCORRATEC(コラテック)社のロード車である。

CORRATEC(コラテック)の車体は、8年前にジロ・デ・イタリアでのステージ優勝を幾度も飾った事など、国際ツアー・レースでの優勝実績がある。

国内プロ・チームの「マトリックス(マトリイックス・セグメント)」が
このドイツ・メーカーの車体を実戦で使用している。
私は同じメーカー製の「RT CORONES」というモデルを持っている。

ドイツという国民性の「質実剛健さ」が良く表現されていて、カッチリとした剛性の高さがある。
いかにもアルミ素材らしいフレームが特徴だ。

長距離で有効性を発揮するような、乗りやすい車体だと思う。


両者は同じ方向性のロード・バイクで、アルミの素材種別だけの相違。
ドロミティのほうが6061アルミ、
コロネスが7005アルミを使っている。

なお、溶接部の仕上げが異なるが、フレームデザイン:ジオメトリーはともに同じである。

それに、ヘッド・チューブの下部の口径値が違っている。コロネスの方は1/4インチと上部に比べて下部が大口径化されている。

挙動はほとんど同じ感じのものだが、素材が違うために加速する際の反応に違いが現れる。
それに、ヘッドチューブの構造差異によるハンドリングの感覚が僅かに違っている。
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<目的地の周辺  西毛地区の歴史的な背景>

 丘とも言え、山並みともいえる連なりが、高崎の西南域から先に上信国境まで幾重にも連なっている美しい場所、それが今回の目的地である。その地域には行政区として「甘楽(かんら)」や「富岡(とみおか)」や「下仁田(しもにた)」といった町や市がある。

 さて、今回のポタリングは、その甘楽の文化的中心地にある城下町「小幡(おばた)」が舞台となっている。


 ところで「甘楽(かんら)」は「韓(から)」の音便による発音。律令当初の大和朝廷の統治力は上毛野国(かみつけのくに)までしか及んでいなかった。下毛野とその北方の奥羽と陸奥の両国はまだ、王朝の領土とは別の異域で、蝦夷(えみし)と朝廷から呼ばれた先住豪族の首長が支配する土地であった。

 そこで、この前衛(前線基地)ともいえる土地を強靭化して、東征の範囲を広げる意図を朝廷は持った。そうした古い昔に半島系の帰化人を盛んに入植させた、文明の先端地域が甘楽周辺の土地だったのだ。

 「高麗(こま)」系、そして「百済(くだら)」系と、消滅してしまった半島の王朝の民(上流階級の人々や工人達を始めとする技術者)や王族達が多く列島へと亡命し、朝廷から「姓(かばね)」や領地を授かるなど大いに優遇されて、この地の文化的な礎を築き上げたのだった。

 大帝国として成立した「隋(ずい)」に激しく攻撃された「高句麗(こうくり)」は、その後、隋に変わって出現した「唐(とう)」に征服され滅亡した。

 高麗(こま)とは半島北部域と現中国東北部の一部域を合わせた広大な土地を有した高句麗国の事を呼称した名称で、668年に王朝は滅亡したのだった。いっぽう百済(くだら)は倭国(わこく;当時の日本)と同盟を結んで盛んに交流し、倭国側も軍隊を送るなど良くこれを支援したが、660年にやはり唐に攻められて王朝が滅亡し、その後「新羅(しらぎ)」に吸収されてしまう。

 列島への盛んな半島の王族や民の渡来と帰化人化は、こうした半島情勢を反映したものだった。一方の日本側では莫大な国費を使って、その大帝国から先進文明や中華の文化を吸収しようと多くの留学生を送っていた。奈良の都から送られた「遣随使(けんずいし)」や、後に平安京から選りすぐった学徒が送られた「遣唐使(けんとうし)」の派遣である。

 大宝律令が発布される後の世になっても、新羅(しらぎ)からの帰化人の入植などが行われたが、吉井の「多胡(たご)」にはそれ(建郡)を記念する碑(朝廷による公式文書としての記念碑)が建てられ今に残っている。なお、この時代の公式文書の残存は歴史・文化的に極めて貴重なものである。
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福島橋(前橋。玉村の境界域) 前橋と玉村の境界には利根川(とねがわ)が流れている。

いくつかの橋があるが、これは「福島橋(ふくじまばし)」である。

<行程について  「予習」編 ― 街道筋として走るのは・・・>

 高崎南部に出て倉賀野(くらがの)を過ぎて、そこから先の「山名(やまな)」郷から走るのは、もっぱら「富岡街道」である。その往還を使って吉井を抜けて、目的地の甘楽に到るつもりでいる。


 「烏川(からすがわ)」を渡れば、やがて「山名(やまな)」への方面標識が現れるはずなので、それに従って今度は県道30号線を進んでいく。

 やがて道は国道「254号」線へと「阿久津」辺りで合流するので、そこからは国道に沿って行くことになる。そのままさらに道を西進する。

 頃合を見て今度はまた南へと折れて進めば、やがて目的地の小幡(おばた)へ到る、というのが基本コースになるだろう。


 ところで、国道「254号」線だが、吉井から先の「富岡街道」の道のりには愛称(別称)がある。別名を「西上州やまびこ街道」と呼称される道路なのだった。赤城(あかぎ)山の南麓を横切って東西に続く道路の国道「353号」線は「東国文化歴史街道」、愛称を「あかぎ風ライン」という。どちらもその道の持つ雰囲気がよく言い表されていて、楽しい名前だと思う。


 国道「254号」線は番号が3桁と大きく振られた国道にしては、随分と長い距離に渡る道路である。

 東京の本郷(春日通り)ともいい、板橋の仲宿(中仙道)ともいうが、そこを基点として終点の信州「松本」までの間に続く、地方都市を結ぶ関東甲信域の主要な幹線道路のひとつといえよう。

 古くから「川越街道」−「児玉街道」−「富岡街道」−「姫街道(下仁田:しもにた)」−「松本街道」と呼ばれて多くの人々に往来された道であり、江戸五街道のひとつ「中仙道(なかせんどう)」の脇往還でもあった。

福島橋からみる利根川下流 福島橋からみる
利根川下流域。

同じ玉村には、
伊勢崎と本庄との境界になる場所に「五料大橋(ごりょう)」が掛かっている。

福島橋のひとつ下流になる。

<行程について  「コース概要」編 1 ― 倉賀野(くらがの)までの道>

 さて、今回の目的地は群馬県南西部にある城下町の「小幡(おばた)」(のんびり 行こうよ; 2013.06.09 「城下町 小幡を散策する」 )なので、この行程でもそこを目指すもの。まず、そこまでのコースを紹介しておこう。

 想定したのは、まずは南へ向かい川筋に出て、そこから西へ向かって進むと言う順路。西へ向かった後に南下すると高崎の市街を横断する必要が出るので、それは避けようと考えたのだった。

 前橋南部の出発点から真っ直ぐに南下して福島橋で利根川を渡り、そこから「玉村(たまむら)」に入って「藤岡(ふじおか)」方面を目指す。「新町(しんまち)」や藤岡へ向かうわけではないが、方面としてはそうやって進んでいって「県立近代美術館」の建てられている「群馬の森」の脇を通り抜けてさらに南下していく。

 そして「群馬の森」を過ぎたら、ここで藤岡方面へではなく、「倉賀野(くらがの)」方面に向かって進む。「例弊使街道(れいへいし かいどう)」に出て国道「17号(中仙道)」線を横切り、そのまましばらく南西方向に走っていく訳だ。


 江戸時代の昔、「烏川(からすがわ)」の岸辺にある倉賀野のまちは、中仙道や木曽街道の大きく栄えた宿場町(のんびり 行こうよ; 2013.07.09 「中仙道の要衝 倉賀野宿を訪ねる」 )であった。そして陸路での宿場だけではなく、水運の拠点としても繁栄していた土地だった。この地は宿場町であると同時に、利根川流域(上野と武蔵と江戸の大動脈)の最上流にある大きな「河岸(かし)」でもあった。

 小田原の後北条家を征圧した恩賞として、時の権力者の「豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)」から関八州の地を与えられた「徳川家康(とくがわ いえやす)」の江戸入府によって、江戸は都市として開発されて整備が進み、やがて未曾有の大都市に発展する。そうなると江戸を中心に据えた周辺地区も大いに栄え、関八州の経済圏が確立したのだった。それに伴って、さらにその圏外の信州や越後を結ぶルートが重きを増し始めていった。そのため、外縁の土地と江戸圏を結ぶ集積と拡散の拠点となる場所 ―交通と交易・物流の結節点となる土地― が大いに繁栄したのだった。

 倉賀野からなら、烏川は勿論、鏑川(かぶらがわ)、碓氷川(うすいがわ)、神流川(かんながわ)など西上州の川筋も使えたはずだ。
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烏川(からすがわ)から山名方面をみる

橋の南西に見える丘、その手前の集落が「山名(やまな)」郷である。

その丘を越えた奥、写真の左端で薄青く霞んで見えている山並みの麓が甘楽(かんら)の地。
そこに目指す「小幡(おばた)」の城下町があるはずだ。
賑やかな
「倉賀野(くらがの)」の街を過ぎてから南下すれば、やがて、
烏川(からすがわ)」を渡ることにる。

烏川(からすがわ)は
流路延長61.8Kmに及ぶ流路を持つ。

実に大きな河川である。

<行程について  「コース概要」編 2 ― 「富岡街道」をゆく>

 出来れば「山名(やまな)」郷から先に続く県道30号線から国道「254号」線の<富岡街道>を走る道のりでは、「鏑川(かぶらがわ)」の流路に沿って進みたいと考えていた。

 川の両岸には川筋に沿った道路があるだろうし、川沿いならば場合によってはサイクリング・ロード的な通行路もあるに違いない、と考えたのだ。国道を走るよりも安全だろうし、国道よりも川沿いのほうが雰囲気も数段よいだろう。ましてや、そこには土地柄が偲ばれる古い家並みも残っていようし・・・。

 もし、それがだめでも国道を横手に見て、通行量が少なくて安全な「脇道」を行けば良い、と考えた。だから広域農道でも良いし、吉井(よしい)の集落を通る抜け道を走るのでも構わない。

 富岡(とみおか)方面への入り口のまち、「甘楽(かんら)」までが今回の行動範囲で、そこまで続いている国道横に並ぶ小道もみな、同じく、東西方向を主要な通路として整備されているはず、と思われる。

 「馬庭(まにわ)」からは国道にほぼ寄り沿って鏑川が流れているいるが、途中(吉井あたり)で流路が乱れて大きく蛇行するので、国道と川筋が平行するという事ではない。もし、脇道に入ってから迷ったとしたら国道に出れば良いし、方向を失ったら川筋を目指せば良いわけだから、主要道路を離れて走るといっても目的地への道を誤る心配はまったく無いといえよう。


 そのコースで想定される目的地までの距離は、およそ35キロ程。あるいはそれを越える事もあろうが40キロまでは離れていない、くらいのものだろう。

 そうすると目的地までの所要時間は、休憩を入れても2時間程と想定されてくる。想定の距離が正しくて、思い描いているペースがそのまま保持できるならば、昼少し過ぎには「小幡(おばた)」のまちに着けるという計算になる。
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山名を目指す

県道30号線の周囲は、ご覧のとおりの田園地帯で平坦路が続く。

稲苗の植え付け前の「麦秋」に染まる風景が楽しめる。
群馬南部域周辺の農作においては、麦と稲による「二毛作」が行われるのが特徴だ。

麦の採り入れが終われば、斬り残した根元の部分を焼いて改めて土を耕しなおし、それが済んだら畑地に水を引き入れて畦まで一杯に張っていく。
そして、今度は畑として利用したその同じ場所を、水田として使う。
青々とした稲の苗を植えつけて、丹念に育てていくわけだ。
小高い丘の手前の集落が平安後期に荘園として成立して以来、今に続く田園地帯だ。

源氏の名門、新田氏の支族が本拠地とした「八幡荘の山名(やまな)郷」を、遠くに望んで走る。

 川越街道、児玉街道、富岡街道、姫街道、そして松本街道(佐久−立科−上田−松本を結ぶ)は、同じく国道の「254号」線を構成している古くからの往還だが、残念ながら富岡街道以外の往還は今回の行程の範囲外になる。いつかは、これらの旧街道全域をすべて繋いで、現状の道筋へとトレースした長距離を走ってみたいものだ。

 国道「254号」線を構成している各<往還(旧街道筋)>について調べてみた。折角なので、その内容をここでまとめておこう。

・「川越街道(かわごえかいどう)」;
 中世の有名な武将の「太田道潅(おおた どうかん;関東管領「扇が谷 上杉家」を支えた家老)」が、
 1457年(室町期)に居城の千代田城(江戸城)と川越城を結んで整備したのが街道の始まり、と伝わっている。
 道潅は多彩な才能を持った武将で、詠んだ歌を初めとして、彼の逸話や事跡は数多い。
 関東各地に様々な伝説が残る。

 部分的にあった古道を繋いで、今に引き継ぐ主要な道路としたといい、後に「江戸道」などとも呼ばれて発達する。

 江戸時代に入ると往来はさらに盛んになる。巡検使や役人が主に利用したという。
 そして、もうひとつの特徴は中仙道よりも女性の往来が多かったと言うことだ。
 その訳を想像すると、平行する「中仙道(なかせんどう)」を大名行列が往復していたからだろうと思う。


・「児玉街道(こだまかいどう)」;
 川越から先に伸び、藤岡までを結んでいる往還。ほぼ中仙道と平行して、その南に続いた道である。
 坂戸、東松山から比企丘陵に入り、嵐山(らんざん)、小川、寄居、神川、本庄と続き、藤岡へ到る。
 途中では鎌倉街道の古道とも重なるため、平安後期以降は盛んに往来されたことだろうと思う。

 この街道は、現在の鉄道路線でいうとJR東日本の「八高線」にほぼ重なってくるようだ。
 その路線の高崎駅・川越駅間が、ほぼこの往還に沿っている。路線沿線の風景をイメージすると通路が判り易かろう。

 武蔵国の東松山・寄居方面から利根川の右岸側を北上して上野国に入ると、高崎南部から西向きに道が変わる。
 上州の西部域へと進んでいく道である。

 (ちなみに「中仙道」は、鉄道路線で言えばJR「高崎線」がそれに当り、ほぼ街道筋に沿って続いている。)


・「富岡街道(とみおかかいどう)」;
 藤岡から富岡までの道筋で、「吉井(よしい)」、「甘楽(かんら)」、富岡と続く道だ。
 そして富岡から先の「下仁田(しもにた)」へと至る。
 下仁田から「佐久(さく)」まで続く道は、別名「姫街道」と呼ばれて続いていく。
 そこからは峠越えの険路が待っている。荒船の厳しい山を越えて進まなければならない。



 さて、今回の目的地は「甘楽(かんら)」までだが、上にまとめた様に国道はさらに先へと続いていき、最終的には諏訪湖を巻いて南下し、中信にある「松本」へと至る。

 甘楽から先の道のりは「富岡(とみおか)」、「下仁田(しもにた)」を縫って上信国境の山稜を登り始め、荒船山(あらふねやま)へと抜けていく道。先に書いた「姫街道」がその往還だ。荒船山を登って「神津(こうず)牧場」や「内山牧場」のある<内山(うちやま)峠>を越えれば、そこはもう関東の外(そと)、長野県の「佐久(さく)」である。

 だから国道「254号」線は、南下を自転車で、という選択は容易だが、山越えになる富岡から先の道のりを行く事は、大分苦しいに違いない。

 内山峠は随分と道路として補修され、路面も整備されたが、ひとつ北にある碓氷峠(安中・軽井沢間)を越えるより数段の難路である。自転車でそこを越える試みは、私達が「ラルプ・デュエズ(ツール・ド・フランスの有名な山岳ステージとなる峠道)」に挑んでその歴史ある坂道を登るようなもの。無茶な試みになるに違いなく、相当に難しいものと思われる。
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長野新幹線の高架を潜る

今日の相棒はいつもの友人H(激走中)。
セルフ撮影


さて、今日は、どんな<旨い物>を食べようか・・・。

 さて、コースに関してのあれこれが頭に入ったところで、ここからがそのコースでの「実走」に関してのお話になる。


 走行の経路上では幾つかのポイントとなる場所があるので、そこで分けて、数ブロックとして刻んで解説している。ただし、そのポイントで必ずしも休憩を採ったり、見学したり、探訪した訳ではなく、単に通り過ぎた場所も多い。その場所にちなんだものも、合わせて記載している。名跡や風物、歴史などの事柄だ。つまり、私が興味を引かれたもの、についてという事である。それらはすでに見知っていたことだが、この際なので調べ直して得た詳細内容を載せている、という事になる。

 興味の方向が一致すれば良いが、そうでないとその記述は只のゴタクにしか過ぎないものになる。まあ、そんな際には、読み飛ばして頂けたら、と思っている。


 それでは、これから実走でのレポートをはじめよう。
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福島橋を渡る 福島橋からみた利根川の川面

<コースの実走 その1  「西善(駒形周辺)」から「倉賀野(くらがの)」までの道のり>

 実家のある前橋南部の「西善(にしぜん)」から県道40号線を南下して、利根川に掛かる「福島橋」を渡って「玉村(たまむら)」へ出た。

 麦の穂が色付いて豊かに実をつけていた。前橋南部は大きく開けた田園地帯で、この時期には見渡す限りの麦秋が楽しめる。特にこの辺りの気候風土や、浅間噴火の火山灰土を伴った関東ローム層の土壌体質などにあっているのだろう。

 子供の頃から麦畑が広がっていたが、そこで「麦笛(むぎぶえ)」を作ったり、畑地を駆け回ったり、刈り取って積まれた藁で遊んだりといった色々な思い出がある。私の小学生の頃には天川や朝倉の辺りまでそうした風景だったが、今ではすっかり住宅地に変わってしまった。

 南部域の田園地帯は昔から桑畑(盛んだった「養蚕」で蚕の餌とするため)と水田が広がっていた。桑畑は大分減ってしまったが、麦畑は今も健在で、大麦(ビール麦)が盛んに栽培されている。勿論、刈り入れが済むと根株が残った田を焼いて、水を引き入れてから今度は稲を植える。一転して黄金色の世界が眩しい緑に変わるのだ。その広がる風景は遠景の山とよく溶け合って、じつに壮観といえよう。

 圧倒的なボリュームで畑地に広がる、植えられた大麦のすべてがキレの良い「ビール」に醸造されていくのだ。と、そう思ってこの黄金色の畑地をあらためて見渡せば、なんだかひどく嬉しくなってくるではないか。少し離れた畑の向こう側で、壇れいさんが笑顔を振りまいて大きく手を振っているのでは、と愉快な想像も駆け巡る。そこはまさに、金麦の状態が視界いっぱいに、地平の彼方まで溢れていた。
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福島橋を渡って玉村へ入る 島橋を渡った先の「玉村(たまむら)」への入り口のあたりでの補水休憩をして、その後はハイペースで、実に爽快に走っている。

採った小休止は、要は友人Hの喫煙タイム。


「トレンドに乗り遅れるゾ」と何度も勧めているのだが、
彼の態度はなかなかに頑なだ。

・・・ だから当分の間、
H氏が禁煙活動に踏み切る気配はまったく無い。

 玉村で国道「354号」線へ入ったが、その道の両側には宿場町のように人家が密に並んでいて、古い蔵や商店や神社などが現れた。この通りは町の主要な道路「日光例弊使街道(にっこう れいへいし かいどう)」なので、その交通量は意外に多い。


 歩行者はいないのだが、歩道は段差が多くしかも1m以下と狭いので、エスケープに利用するだけとはいえ走りやすくは無い。安全を考えて車の流れに乗りつつ、車道を軽快に走る必要があった。

 時速を30Km以上に調整して車の流れに乗って街区を抜けて、直交する(南北に走る)関越自動車道の高架下を潜って「群馬の森」へと西へ向かって進んでいった。


 「群馬の森」の界隈は前橋・玉村から藤岡や新町(しんまち)と高崎への分岐点でもあるので、ここも界隈では比較的に車通りの多い場所といえよう。「岩鼻」交差点で、そこを抜けて西へと分岐する県道136号線を選んで、今度はその道を進んだ。

 県道と交差する中仙道(国道「17号」線;4時から10時方向へ繋がる片側2車線道路で交差点は6車線になる)を渡って、「倉賀野(くらがの)」の街の南側へと向かって走っていく。


 2013.07.10 追記;
 少し興味があったので、改めて玉村と倉賀野を訪ねてみた。

 < 散歩 のんびり 行こうよ: 2013.07.09 :「 日光例弊使街道 玉村宿を訪ねる(07.21 五料宿を追記)」 >
 < 散歩 のんびり 行こうよ: 2013.07.09 :「 中仙道の要衝  倉賀野宿を訪ねる」 >
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烏川(からすがわ)から下流域を見る 「烏川(からすがわ)」の下流域の様子。


榛名山の西麓を源流として流れる長大な河川が「烏川(からすがわ)」だ。
その流路は実に長大だ。

「碓氷川(うすいがわ)」
「鏑川(かぶらがわ)」
そして
「神流川(かんながわ)」と共に、
西毛地区を潤して流れ渡っている。


それらの豊かな流れは、
やがて高崎や玉村の地で、江戸へと続く大河「利根川(とねがわ)」へと合流する。
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山名を巻いて走る

「山名八幡宮」が残る「山名(やまな)」郷の東端を走る。

ここは山名一族(新田義重の次男)発祥の聖地で、氏(うじ)の支柱である八幡様の優美な社殿が現存していて、今も地域で崇拝されている。
「山名八幡」宮は、
鎌倉末期から室町時代前半の繁栄の証として全国に散った山名一族の精神的なシンボル。

この界隈では有名な八幡宮である。


歴史的な好奇心も多かったし、建築内容などに関しても様々な興味があった。だから、かねてより是非立ち寄りたいと考えていた場所だ。


往路では山名の中心部を外して通り過ぎたが、復路では八幡様に参拝する事ができた。


なお、神社のあれこれについては、
別のページの復路偏の部分で記述している。

<コースの実走 その2  「倉賀野(くらがの)」から「山名(やまな)」郷までの道>

 倉賀野に入る辺りで人家が密集し始めたが、県道136号線はそれ程の交通量があるわけではなく、多少の注意を必要とはするもののペース良く走り抜けることが出来た。

 あっさりと倉賀野の町を後に見て、さらに倉賀野から県道173号線を走り、そのまま「烏川(からすがわ)」を渡って南下したのだった。長野新幹線の高架を潜って、「山名(やまな)」方面へとハイ・ペースで向かっていった。


 山名の中心に入ってしまうと家並みが密になるが、郷の東側を遠巻きにしていけば、周辺は広い田園地帯が広がっているばかりとなる。雰囲気はとても開放的で、まだまだ道は平坦な状態なので、ここもまた楽に走ることが出来た。交通量も少ないので、安心して安全に走ることが出来たのは嬉しい限りだった。

 「山名東」や「三ツ木」の交差点あたりは郊外で見掛けるニュータウン、大規模な分譲住宅地が現れたりする。

 この辺りであれば土地もかなり安いのではあるまいか。公共交通機関は便利ではないだろうが、住民の足は自家用車での移動が主だろうから、通勤やその他の生活における移動も大した問題にはなるまい。そうした訳で、この鄙びたあたりまで、繁栄する高崎域(高崎の経済圏)のベッド・タウンとして開発されたものなのだろう。

 勿論、そうした山名の東部域に現れる分譲地の辺りが中心なのではなく、県道右手に連なる丘の麓が往時から栄えた「山名(やまな)」郷の中心になるのだろう。画一的な分譲地とは違った温かな家並みの様子が、そこに臨まれる。


 山名は高崎の南西部にあたる場所。そこは高崎の市街から見れば、「観音山(かんのんやま)」から始まる丘陵地帯の南先である。

 「観音山」の名にあるように「山」の文字が付いてはいるが、それは山ではなくて小高い丘陵である。山稜というほどの高度(標高)は持っていないので気軽に尋ねることができる場所だ。中学三年生の頃の丁度今と同じ時期に、友人Sと一緒にサイクリングで訪れた事がある。その坂道を息を切らして、必死に登った覚えがある。巨大で優雅な白衣観音像が山頂にあって、烏川の川筋を静かに見下ろしている高崎の名所である。


 さて、この辺りの高崎の南端域は、そろそろ山坂が現れ始めるという場所なのだった。しかし、そうした丘陵地帯にあっても、山名の周辺域は農地に適した平地が豊かに開けている、広い田園地帯である。そこまでの道のりでは、その途中にゴルフ場が開発された小高い丘が現れる程度に過ぎず、実に快調に走ることが出来た。
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<コースの実走 その3  「山名(やまな)」から「馬庭(まにわ)」までの道のり>

 県道30号線を走ってその先に横たわる「鏑川(かぶらがわ)」を渡り、県道174号線に出会ったところで南下を止めて道を西(174号線方面)に取る。

 道の両脇ではさらに水田地帯が広がるが、右手奥の遠くには幾重かに折り重なった山並みが霞み、走り過ぎて来た右手後方側には丘陵が臨まれる。しかし、この界隈でも道はまだ平坦で、しかも川筋に近いためか景色が良くて、爽快な気分で走ることが出来た。

 後で地図を調べたら、その丘陵(道路の右手後方の鏑川の対岸)には自衛隊の駐屯地があり、さらに丘陵の奥は高校生の頃のひととき(1年生の夏頃から2年生の夏前まで)にアルバイトで通った「高崎サンコー72」のゴルフ場がある場所だった。先に書いたように山名側から見るとその丘陵の反対側の斜面。観音山の横合いから甘楽丘陵を目指して走って、きわどい坂を登りつめてゴルフ場へと到る道。

 高崎を通り過ぎるまでは平地での走行なので、高校生時代の体力から言えば(距離は長いが)何のことはない道のりなのだが、高崎から丘を越えた先の丘陵地帯はあまりに急峻で、登りが苦しい道になる。バイトに通う途中から、貯めたバイト代で原付のバイクを買って、それで通った丘だった。

 改めて地図を見て驚いたことだが、この辺りでは丘ひとつに対して少なくともひとつ以上のゴルフ場があると思ってよいかもしれないほど、多くのゴルフ・コースが丘陵の斜面に乱立していた。


 さて、鏑川を越えた先もまだまだ道は平坦で、だからずっと、メーター上の車速は時速25キロから28キロを示していた。時に風に乗って30キロを越えるほどにもなったが・・・。いずれにしても疲れは無く、サイクリングロードではなく一般道であったが車の走行も少ない場所が多くて、通行があった場所でも巧い具合にその流れにも乗れて、実に爽快な走行が楽しめた。

 実家のある西善(駒形の隣)を出てから、ここまでの経路の所要は1時間少しになるが、随分と快調なペースで走ってきたことになろう。

 山名を過ぎれば目的地までの行程の半分ほどは走った事になるが、この調子であれば目的とする「城下町 小幡(おばた)」までは、あと1時間足らずで行き着くことが出来るだろう。

 あとは鏑川にほぼ沿って続く道を、ひたすら西に向けて進行するだけだ。

 ちょっと失敗して友人H氏の手前、ご愛嬌になってしまった。それは、橋を渡った先で川岸に沿った護岸上の細い道があって、少し迷った後に、「よし 川岸を進もう!」と思ってそこを走ってみたのだ。バラスはやがて消えて舗装路に替わるだろうとも思われたのだが、2キロほどもそのままバラスを踏んで走っても、まだ道はアスファルトには変わらないままだった。バラスも舗装路のひとつには違いないが、細いタイヤで走るのは効率が悪いので、川岸を進むのを諦めて、集落を抜けて県道に出る事にした。

 そして進んだ「三ツ木」を過ぎて、国道「254号」線に合流する「小串」交差点までは、少し小高くなる丘を進んだともいえるが、分類すれば平坦路の内に入るだろう。その先の、「馬庭」の辺りからにわかに崖状の道になったり、少し山間に入ったのかも、と思わせるような僅かにアップ・ダウンする様子に道路が変わってくる。

 走るペースもアップ・ダウンする道に影響されて、一旦は23・25キロ程度に以前からは2段程落ちるスピードとなるが、いずれも緩い坂なので、まだ快走するのに大きな問題は無い。

鏑川(かぶらがわ)から馬庭(まにわ)方面を望む

山名郷を遠巻きにしながら過ぎて、そのまま南下する。

するとやがて、先に渡った烏川と供に西毛地区を代表する大きな河川である「鏑川(かぶらがわ)」の流れに出会うことになる。鏑川は東へ向かって流れてやがて利根川へと合流していく。

さて、このあたりから先の吉井地域は、律令の昔は「多胡郡(たご の こおり)」が素晴らしい先端技術をもった新羅系の帰化人の入植を伴って、大和朝廷の東征策として建郡された場所だ。

711年(和銅4年)の「多胡」建郡を記念する石碑、「多胡碑」が見つかっている。国指定史跡を越える重要な遺構で、国宝級の「国特別史跡」として保護されている。
山名を進行方向の右手に見ながら県道を南に向かって進んでいく。

やがて川筋に出るが、横たわった川を渡らずにそのまま手前を西に進んでも良いし、渡った後に方向を変えても、どちらでも良い。

今回はその「鏑川(かぶらがわ)」を渡って、なお少し南へと向かう。

画面の左手に見えている山並みが「吉井(よしい)」の手前に連なる丘。
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<馬庭(まにわ)のこと ― 必殺の居合い技を秘めた古武道の拠点>

 山名(やまな)の先にある「馬庭(まにわ)」には、有名な<念流>の道場が今も残っている。

 「馬庭念流(まにわ ねんりゅう)」は念流を学んだ「樋口定次(ひぐち さだつぐ ;第17代目の当主)」が1591年(天正19年)に念流8世(流祖は南北朝時代の剣客「相馬義元」)の印可を受けて、馬庭で道場を開いて相伝したことに始まる。定次が研鑽を積んで、確かな古武道の技(剣、薙刀、槍)として確立させたものだ。

 今に伝わる馬庭念流は、その定次を祖として樋口家に相伝され、念流25世となる樋口定仁氏が継いでいる。無敵と称された必殺の居合い術を持った剣の流れが有名だ。樋口定輝(念流17世)の時の北信一刀流の流祖「千葉周作(ちば しゅうさく)」との間で伊香保神社での奉納額の掲揚に端を発する事件が起こった事でも有名だ。無敵を誇る凄まじい業(技)を秘めた剣の流儀は、馬庭の地のみでなく広く関東各地に広まっている。

 念流宗家によるホーム・ページでは、その剣の流れを「技法としては守りを主体とし、敵に勝つより、負けぬほうを重視する」と語っている。

 後手必勝、徹底的な守りを理念とする馬庭念流は、あくまでも自身を守る『自衛の剣』を是とする剣の流派であった。そしてその剣は、「立身出世」とすることや「殺傷の道具」とすることを深く戒めるものだった。

 ホーム・ページの<歴史と系譜>コーナーで紹介されている「門弟には武家もいたが、多くは農民、町民であり、念流は彼らの自衛の剣として民間に普及していった」と語られている言葉にも、流派の在り様が良く現れている。流派の当主はあくまでも在野にあって、弟子達を指導・鞭撻しつつ、自らも一人の兵法家としてその剣の技を磨いていた。そして次代の担い手に、流派の奥義を受け渡し、相伝される後継者もよくこの流れを継いでいった様子が伺える。


 前橋の北方にある「上泉(かみいずみ)」の地が発祥となる「上泉伊勢守信綱(のぶつな)」によって流派が建てられた「新陰流(しんかげ りゅう)」の剣の教えは、やがて柳生(やぎゅう)一族に引き継がれて「剣禅一如の教え」と共に昇華されて後世に伝わることになる。将軍家のお家流として、武家の間で盛隆を極めていく。

 柳生新陰流の流祖となった「柳生宗厳(むねよし)」の子「但馬守 宗矩(むねのり)」は将軍家の剣術指南役にして幕府初代の大目付の大役を務めた人物。徳川家では他の人間がその流派を学ぶことを許しているので、あくまでも「お家流」であって、門外不出を謳う「御留流(おとめ りゅう)」ではなかった。

 上泉伊勢守信綱は「大胡(おおご)」氏の一族(信綱が支族ではなく大胡宗家の当主なのだ、という説がある)で、上野国の上泉(前橋の赤城山稜の東方郊外)を居城としていた室町期の豪族。

 西上州の中心地、「箕輪(みのわ)」城主として大きな勢力を誇った武将の「長野業平(ながの なりひら)」方の有能な武将(小幡氏や小説で有名になった「のぼうの城」の成田氏なども長野家を支えた臣下の武将)として武田信玄と戦った実績を誇っている。主家である長野氏の滅亡の後は本拠を捨てて旅に出たので、本拠地の前橋では剣の教えは残念ながら絶えてしまっている。なお、「信綱」の一字は敵方だった彼を許した武田信玄から送られた偏諱だという。

 上泉伊勢守が産み出した剣の奥義は、前橋には伝承されていない。鹿島や香取など茨城に見るように剣道が盛んな様子は、残念ながら見られないのだった。しかし、同じく上野国に芽生えた「念流」はいまだに当地に盛隆を極めており、流派の祖から代々の道場主へと、剣術(薙刀や槍などの術も含めると、その修業は20数年を要する)の奥義が連綿と伝わっている。

小幡へ向かう入り口(新屋;にいや)地区

「金井」交差点で国道「254号」線を後にして、県道204号線に入る。
小幡へ向かう(新屋地区)より南を望む

新屋(にいや)小学校の横を通り過ぎて上信越自動車道の高架を貫けたら、
道が緩やかに登り始めた。

国道「254号」線から転じて県道に入ってから、南へと向かう道は、徐々に登り坂になっていたようだ。

斜度の変化が余りに穏やかなので、初めはそれに気が付かなかったのだ。
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<コースの実走 その4  「馬庭(まにわ)」から「吉井(よしい)」までの道のり>

 「馬庭(まにわ)」へと進んで、寄居から続いて来てこの地に到った国号「254号」線へと合流したら、今度は国道上を走り、「吉井(よしい)」の町を横切っていく。

 「吉井(よしい)」の中心地の手前までの間は、しばらく高原のような開けた様子になってすぐ横に迫っていた山並み(丘陵)が少し遠のいていく。鏑川の流路の乱れで堆積した土砂によって、この扇状地のような雰囲気の地区は作られたのかもしれない。その辺りでは道が緩やかな登りになるが、まだ従前と同様に、ペース良く走ることが出来る。

 やがて「吉井」駅への交差点を過ぎたあたりの道脇に、市街地然とした街並みが現れて来る。商店が連なる少し賑やかな雰囲気になるが、みな「甘楽吉井バイパス」の方を選んで走っているのか、国道上は極めて車の通行量が少なく、私達は安心して車道上を走行する事ができた。

 勿論、賑やかな様子に変化した辺りの歩道も、随分広く取られている。だから危険回避として車道から一時的に歩道に入っても、快適に走り続ける事が出来た。

 やがて上信電鉄線の「上州福島(じょうしゅう ふくしま)」駅か、あるいはその手前の「上州新屋(じょうしゅう にいや)」駅辺りで西を目指していた進行方向を変えるわけだが、どの辺りまで国道上での西進を続けるかは、この時点でもまだ決めていなかった。

 そうやって走ってきて、上州新屋駅の辺りで「小幡(おばた)」への方面看板が現れたので、その指示に従って国道を左に折れる事にした。今度は南向きに進路をとって進んで、目的地へと向かって行くわけだ。

天引(あまびき)地区

緩やかだが、長い登りの坂道が続く。
小幡郷ゴルフ倶楽部を越えた丘の上

ひときわ厳しい「甘楽カントリークラブ」ゴルフ場横の坂道を登り越えて、それを降って川を越え、再び丘を登る。

その先で、「小幡郷ゴルフ倶楽部」が左手にあるはずの丘陵を越える。

その頂点を過ぎたところから、戦国武将の小幡氏の本営、「国峯(くにみね)城」があったと思しき丘陵方向を望む。

<コースの実走 その5  「吉井(よしい)」から「天引(あまびき)」までの道のり>

 国道「254号」線(別名を「西上州やまびこ街道」という)に現れた「小幡方面」の最初の分岐案内の場所、 ―「金井」交差点のあたりだと思うが― そこで南向きに進路を変えた。

 しかし、この県道204号線を選択するのではなく、もう少し国道上を進んだほうがずっと時間を短縮できたようだ。復路(帰路)はそうしたのだが、往路とは随分と所要時間が異なる結果となった。30分以上もの差が出るほどの違いだった。

 長野でのスキー(菅平高原やシーズン中の志賀高原など)からの帰路、国道の渋滞を避けてこの界隈を走った際の記憶があいまいで、方面案内板に従って西行から直ぐに進行を南方向へと変えてしまったが、この南向きに取って進んだ県道204号は、途中で完全な丘陵地帯へ突入してしまうという、自転車で進む私達(本日の相棒は友人H)にとっては少し厳しい道筋だった。

 渋滞を避けた際の経験というのは、国道「18号」線が混んでいる際には「碓氷(うすい)」峠の一本南にある「内山(うちやま)」峠を使って、佐久から群馬へと回りこんだものだし、そうして走った国道「254号」線自体も渋滞している際はさらに富岡や甘楽や吉井で丘に突入して国道の抜け道に入って混雑を回避した、というものだった。

 しかし幾度も通ったにも拘らず、遥かな昔の話という事もあって、道の記憶も今となっては頗る曖昧なものに変わっていたのだった。「老人力」獲得の代償として、儚い記憶の断片は、遥かな時空の彼方へと飛び去ってしまっていたのだった。

 この道の選択では思いもよらないカウンターを食らってしまったのだが、今までの順調さを打ち消してしまうような、ちょっとした心躍るような難所であった。

 国道から県道を進んで、上信自動車道の高架を潜るまでの間はさほどとは思わなかった緩い登り坂が、高架の先から徐々に辛くなってきた。当初は斜度があるのにそれと気が付かなかったほどに緩やかなものだったが、登り始めている事には気が付かず、心なしか足が重いの理由はてっきり疲れたためなのだ、と思っていた。

 ふと、そこが坂であるという事に気がついて、疲れではなくて重力の負荷が高まったからだ、と認識したのだった。

 そう気が付いてみると、改めて見回してみた周囲の様子も先程までのものとは少し変わっていた。204号線に入った当初は普通の住宅街だったものが、「天引」の集落と思われるそのあたり(坂道と気が付いたあたり)では、すっかり山里の中のような風景に変わってしまっていたのだった。
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丘の上から国峯方面を見る 写真の正面は、
国峯(くにみね)城の方面。

そして左手の山稜は、
埼玉県境の上野(うえの)村へと続く山並みだろう。

<コースの実走 その6  「天引(あまびき)」から「小幡(おばた)」の入り口までの道のり>

 さらに道(県道204号線)は斜度を増していったので、渓流が左手の道下を流れる、大きく右手にカーブした場所でひと休みする事にした。カーブの先には丁度、酒屋さんのような商店があったからだ。

 店は休日は営業していないようで、表の入り口は閉ざされていた。しかし、自動販売機が数台ほど店先に並んでいたので、自転車に装着したゲージにあるすっかり温くなってしまったボトルからではなく、改めて冷たいものが飲める。

 ここに寄って息を入れる事にしたのは他にも理由があって、玉村入り口からここまでをいいペースで走ってきて、ヘビー・スモーカーの友人Hにとっては我慢の限界、そろそろ煙草が吸いたくて仕方ない頃だろうと思ったからだった。余り我慢させて、限界を過ぎるとにわかに攻撃的な状態に変わりだすので、なかなかに油断は出来ない。私はこう見えても適当なタチでは無いし、身勝手でも無い。友人の反応を見ていると、そう理解されていない場合もあるように思えてくるが、細心の注意を払いつつ、微に入り細に渡って色々と配慮をしているのだった。友人Hの様子を見て、まだ同じペースで走れるかどうかという事も、こうして休めば確認できる。

 この店の界隈には数軒の家・屋敷が並び、古くからある集落の様子がよく表れていた。川の対岸にも何軒かの農家と思しき年数を経た民家が建ち並んでいた。自転車を停めた、この辺りは小幡への丘陵が始まる根元にある小規模な集落になっていたのだ。寺領として、往時は栄えていた里なのかも知れない。

 そして、道路の進行方向に向かった右手側の歩道脇や左手側の川岸には、少し手前になる場所からしばらくの距離に渡って桜の木が植樹されていた。川岸側の桜はもうかなり太くなっていたので、昭和の高度成長期の頃にこの辺り一帯の土地が区画整理され、川岸もそれと供に護岸されてこのような様子になったのかも知れない。

 店の入り口前に続く歩道に植えられた桜が並木のようになって日陰を作っていたし、店脇の畑地の土留めのための石積みには綺麗に季節の花が植えられていた。そこには花が美しく咲き揃っていて、穏やかで、休憩にはもってこいの雰囲気を持つ場所だった。自転車を歩道脇に止めて、しばしの間(10分ほどだろうか)休憩を採った。


 そこを出て緩い坂道を走り始めると、目の前に「これはれっきとした峠道ではあるまいか」と思われるほどの急な坂道が忽然と現れた。その急登を要する厳しい坂道を目の当たりにして、言うまでも無くすっかりと面食らってしまい、直ぐにあたりを見回した。坂道を避けるためのエスケープ・ルートを探したのだが、どうやらそこを登る以外には小幡へ進む道が無い様に思われた。

 そして見回すと、丘の右麓にある寺院の入り口が目に付いた。つい先程、休んだばかりだったが、参詣の際の休憩所と思われる「東屋」のような建物に向かって、私の漕ぐ自転車が吸い寄せられて行ってしまったので、仕方なく休憩の続きをする事にした。いや、それは「視線の先行動作」が発揮された瞬間であったが、精神的な先行動作も肉体に先駆けて行われていたに違いない。要は坂道に怖気づいた私は、ここで「日和見」をしたのだった。

 坂は見た目どおりに激しそうな様子で、目的地まであとどれほどの坂を越えて走る必要があるかも判らず、その道程の入り口にしか過ぎないこの時点で「もう消耗してしまいました」では拙かろう、と考えたのだった。

 だから休憩を改めて採って、その後に坂を登り始めてみたが、坂の途中であっさりと自転車を降りて手押しで歩く事に切り替えてしまった。なんといっても今日は<ポタリング>なのだから、軟弱にそういう挙に出たとしてもやぶさかではあるまい。しかし、200mほども歩いてから思い直して、やはりこの坂は自転車で越えることに変えた。

 こうして「甘楽カントリークラブ」ゴルフ場に囲まれた丘を縫って、私達は更に先に向かって進んでいった。
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甘楽町歴史民族資料館 小幡の中心にある
甘楽町歴史民族資料館

<コースの実走 その7  「小幡(おばた)」の入り口から「城下の街並み」までの道のり>

 そうして越えなければいけなくなった幾つかの坂道は、随分と斜度があった。けれど、最初に出現した坂ほどの斜度を持った場所は、幸いな事に他には無かった。

 つまるところ、その一帯には<軽めのヒルクライム・コース>が展開していたのだった。あるいは簡単な「峠越えの道」と言っても良いかもしれないが、道の小刻みなアップ・ダウンが幾度か続いた。


 甘楽カントリークラブの丘陵を越えて、(せっかく登った丘であったが)一旦その丘を降りて平坦地に戻り、南北に流れる川筋を越えた。道はそこで少し右に廻って、そのあと左に大きくカーブしながら続く。真っ直ぐに伸びていない道に従って西へと進んでいった。


 律令制期の道路(東山道など)は直線で敷かれていた。それを受けて鎌倉時代に到っても街道筋は概ね直線であったはずだ。しかし、室町の戦乱が始まる、近世の街道筋はそうではなかった。わざと集落の手前で曲げられていたは、道からの死角を作るためだった。

 戦時にあっては、街道は攻め寄せてくる敵軍の行軍経路となる。だから集落の手前に防御線を張って、敵勢の進入や侵攻を食い止めなければならなかった。曲げた死角に敵を撃退する防衛勢力を伏せておくためだ。敵の目をくらまして不意を衝く作戦を遂行するために、多くの道が集落を前にしてわざと曲げられたのだった。


 この県道204号線は古い時代に設置された小幡への主要な街道が基になっている道路と思われるが、ちょっとした集落の家並みを伴った場所に出たり、田園を抜けたり、川を渡ったりと多くの変化に富んでいた。そうやってアップ・ダウンしつつ蛇行して西へと向かう道を進んで、やがてまた丘を登ることになった。

 やがて「小幡郷ゴルフ倶楽部」のある最後の丘を登り終えると、そこは一転して西に向かって斜面が開けた、実に展望の良い場所になった。


 西南に向かって大きく眺望が開けていた美しい場所で自転車を停めて、そこからの景色を写真に収めた。そして、この丘から沈む夕陽を眺めたら素晴らしいだろう、とその様子を想像してみた。さぞや壮大な夕焼けが堪能できるだろうなと思い、すっかり愉しくなってきた。

 コンニャク畑が道を囲んで、丘陵一面にどこまでも続く。

 視界の中では、遠くの山並みが美しく見えて、そして近くには緑に芽吹いた眩しい丘の連なりがしっかりとした影を伴って見えている。その空には夕焼けは無かったが、丘の先に広がる実に素晴らしい風景が堪能できた。丘の南に見える、連なる山並みは上野村(うえのむら)から続く埼玉県境の奥深い山稜だろう。その西側に、緑の濃い小高い丘陵の連なりが見えるが、その山麓や頂が戦国武将として勇名を馳せた小幡一族が本拠を移した「国峯城(くにみねじょう)」が構築された場所に違いない。


 景色の良かったその丘を後にするのは偲びなかったが、後ろ髪を引かれながら丘を降りた先で、更に川を一本越えて走った。その先はまたしても緩い丘が現れたのだが、そこを登り越えてなおも西へと進み、丘陵を降りる状態で軽快に走っていくと、唐突に街中然とした四つ角に出た。図らずもそこが小幡の中心となる場所であった。


 実家のある前橋南部の西善を出てからここまでの走行距離は、丁度30キロほどになった。「甘楽町歴史民族資料館」(小幡の歴史博物館)がある交差点へと、私達はこうして無事に出たのであった。
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渡ってきたツバメの営巣

甘楽町歴史民族資料館の屋根の梁下の様子。


これも「軒下」とよんでよいものかどうか。

ツバメが渡って来て、可愛らしい巣を作っていた。



巣の中の、旺盛な食欲を示す元気いっぱいの子達に、盛んに餌を採りに飛び立っては、直に戻ってきての繰り返し。自分は何時捕食するのか、とその運動量を心配してしまう。

親鳥は何時までも飽くことなく、熱心に子供達に餌を採り与え続けていた。

田園や森や川筋などの植生が豊かで、餌となる虫も捕らえ易いのだろう。


忙しく飛び立ち、そして直ぐに戻ってくる様子が、微笑ましかったが、それを見つめていたら思い出したことがあった。

映画、リメイクされた「日本沈没」(原作は日本を代表するSF作家、「小松左京」氏による)での話がそれだ。

思い浮かんできたのは、長山藍子さんが演じた主人公「小野寺俊夫」の母親を写す場面でのことだった。

母親が避難を拒んで暮らし続ける、会津にある日本酒の古い蔵元(醸蔵所)でのエピソードは印象深くて、今も良く覚えている。
主人公は地震を回避するための秘策である「プレートへの爆薬投入の役目」を、深海潜水艇を操って無事に果たす。

しかし、作戦の成功と引き換えに機器の残存バッテリーが切れて動力を失う。

潜水艇にとっての動力の喪失は浮力を失う事でもあった。巧みに操った潜水艇と供に、とめどない深海のそこに向かって消えていき、殉死してしまう運命にあった。


前作では、
日本は沈没して地球上から消滅してしまうが、主人公の「小野寺」はなんとか難を逃れる事ができる。
失明して隻眼となり、シベリア鉄道のような長い貨物列車の貨車車上で揺られながら、大陸の荒涼とした大地に沈む夕陽を見つめる、
・・というエンディングであった。シベリアではなく南米だったかも知れないが、その記憶は少し不鮮明だ。


さて、ひとり息子の死後。

地震に怯えて「渡り」を止めて会津地方から去ってしまったツバメ達が、「私は避難せずにこの蔵と供に、自らの命を運命に委ねます」と静かに、しかしきっぱりと語った
「小野寺」の母が一人で暮らす蔵元の旧家の軒先へ帰ってくるのだ。

そして、古巣に戻ってきて巣作りを始めたツバメの姿がアップになる。
場面が切り替わって母親役の長山さんがただじっと見つめるという状態の、物言わぬ静かなシーン。


映画の中では特に印象的なものだった。

<甘楽(かんら)のこと>

 「甘楽」であるが、これは都市ではなく地区全体の呼称である。

 東を「吉井(よしい)」、西を「富岡(とみおか)」に挟まれた土地で、高崎駅「0(ゼロ)番線」に発着する単線の上信電鉄の列車に乗って30分ほどの距離にある。車を利用する場合には、路線に平行して「上信自動車道」と国道「254号」線が走っている。

 中心となる大きな都市(街)があるわけではないが、町への玄関となるのは上信(じょうしん)電鉄の「上州新屋(じょうしゅう にいや)」駅と「上州福島(じょうしゅう ふくしま)」駅になる。

 車で上信越自動車道に乗った場合、甘楽地区でのインターチェンジは無いので、吉井IC(小幡までは約5kmの距離)と富岡IC(約3kmの距離)のどちらかで高速道路を降り、併走する国道254号線か新しく出来た254号線の「甘楽吉井バイパス」を使う必要がある。


 町域は丘陵に囲まれて盆地のようでもあり扇状地のようでもあるが、水利は西東を横切る「鏑川(かぶらがわ)」が町域の北側境界を流れ、西部を南北に縦貫する「雄川(おかわ)」が水量豊富に流れている。このふたつの主要な河川を持っていて、町は豊かな水利に恵まれた美しい様相を持っている。

 南側に少し高い山が幾峰か連なっているので、町域全体が柔らかく南に向かって傾斜している。しかし、高速道路に近い甘楽町役場の辺りは平地であり、国道も通っていて実に賑やかだ。

 小幡の中心地区に入ると車の通行も極端に少なくなって、そのためもあって街路が静かで、実にのどかな雰囲気になる。
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<甘楽(かんら)の里山  丘陵に点在するゴルフ場を思う>

 甘楽の地区は、「鏑川(かぶらがわ)」が流れる北面の町域境界以外の三方を、小高い丘陵や小山に囲まれている。

 そうした丘のいたる場所に数多くのゴルフ場が開発されていて、自然も多く残ってはいるが、バブル期に向かっての里山の崩壊の様相を端的に示している。

 一時期に比べればゴルファーの人口も随分と減少して、これほどまでの数のゴルフ場は、ユーザー(プレイヤー)側も最早必要とはしていないのではと思われる。黙っていればプレーの申し込みが殺到したバラ色の時代はとうに過ぎ去って、ゴルフ場側としては集客に必死で、先細る経営に難渋の度を強めているのではないだろうか。

 皮肉にも人は、自然に接したいために丘陵域や高原に展開したゴルフ場へ行くわけだが、あらためて言うまでも無く、そこは自然の世界ではない。広がっているのはあくまでも人造・人工の風景だ。そこで「自然感」は味わえるが、それらは勿論イミテーションに過ぎない。自然そのものの「畏怖感を伴った醍醐味」を味わうことは、実は到底出来ないのだった。

 例えば、そのゴルフ場を閉鎖したとしても、造成してしまった土地は元の自然状態には容易には戻らない。だから、自然環境の雰囲気を活かしたピクニック広場やキャンプ場に転用するくらいしか、有効利用の方途はなかろう。

 あるいは転用や再利用への道ではなく、次世代では無理としても自然の復元力を信じてさらに先の世代へと伝える為の、大いなる努力を払う方を選択する、という素晴らしい手段も取りうる。

 そうやって改造してしまった「ツケ」はしっかりと払って、いずれの方途を採るにしても、何らかの痛みを伴って精算しなければならないだろう。それが野放図に開発を推し進めた前の世代の後始末、自然への大きなダメージともいえる負の方向にある数々の遺産を引き継ぐ私達の世代での責務だと私は考えている。私達の手で環境の流れを変えて、次世代へ受け渡さなければならない。何故なら私達自身も自然の一部であって、その大切なものを失ってしまっては最早正常には生きていけないからだ。

歴史民族資料館での戦利品 小幡の歴史民俗資料館での戦利品。

「甘楽町の観光案内」や
城下町「小幡」の散策に役立つガイドである「まち歩きマップ」。


そして江戸初期から
明治に到る小幡の領主家(織田宗家と松平家)の家紋スタンプ。


珍しい「藩印」の複製もあった。

 一度、「造成」という名の破壊行為をしてしまっているから完全な再生は無理だろうが、それでもなお「自然(土と言いかえても良い)」には復元する強い力がまだ残っているはずだ。

 植生の復元まで行きつくまでの途方にくれるような長い時間、そこでは再生してくれることを堅く信じる変わらることのない強い忍耐力が必要となる。そしてその長い再生の過程においては、開発の際には必要としなかった大切なものが要求されるはずだ。さらに必要とされてくるのは、他ならぬ「自然への深い愛情」である。

 「木を植えた男」のように、明日の姿を信じて、弛まぬ努力を欠かす事無く、地道に植林作業を継続して行く必要があろう。

 はたして私達の世代に、杉林や松林のような単層林ではない里山の景色、多彩な広葉樹林植帯が持っていた鮮やかな植生を取り戻して次世代に伝えるという、その大事業が成し得るものかどうか。

 一説には「里山」に関しての面白い見解もある。里山は人が管理維持して展開したもので、村の生活圏(田畑や果樹などの農産と栽培を行う領域)と自然界(山稜や渓谷や河川)との境界域だが、多様な植林や植生を維持するための下草の伐採や間伐が必須の行為となる。しかし農村の解体によって、そうした入会地はこの時代となっては維持できない。人手が入って管理される里山の環境は失われてしまっているが、実はゴルフ場の存在によって同等のものがもたらされているのだという。その植樹域には里山を生活圏とした多くの小動物が帰ってきているそうだ。

 そうした効用を見ると、過去の開発もあながち捨てたもんじゃない、と思う部分もある。ゴルフのプレー・フィーの実入りがあるからこそその環境が補助なしで維持出来るわけだ。維持するためには入場料や利用料を取って採算を計らなければいけないので利用用途の選定が難しいが、その施設がゴルフのプレー場である必然性は無い。薄利多売で入場者数を稼ぐ必要が出るので難しいが、自然域での定期的な自然教室や星座観察会をベースにして、収益を上げて維持するためのアクティビティ用の領域も用意するのはどうだろう。ピクニックやキャンプ用に用地の一部を割き、周囲を周回できる遊歩道でのウォーキング・コースの設置や、遊歩道を取り巻く不正地を4mほどベルト帯として確保してシクロクロスのコースを併設してもよいだろう。

 ひとつ前の世代の身勝手で心無い人達によって、躊躇うこともなく貴重な手付かずの自然が追いやられてしまったのは実に悲しい事実に違いなく、効用がある面もあるとはいえ、かねてより残念に思うことのひとつだ。
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小幡のウォーキングコース(サンプルコース)


甘楽町を紹介するリーフレット

「キラっと かんら 自然と歴史の散歩道」では、
ウォーキングのサンプルコースやガイドマップをはじめとして、
小幡の見所が沢山写真入で掲載されている。
城下町 小幡のガイド

 さて、今回のポタリングでは、もし時間が許せば、小幡の先にある富岡(8キロほど西側)まで足を伸ばそう、と考えていた。

 しかし、今回は結局のところ時間が無くなってしまって「富岡製糸場」の見学を断念したのだった。いつかまた、そこへは機会をみつけて行ってみたいと思っている。

 申請が認可されて正式に<世界遺産>として登録されれば、大変な混雑が予想される。是非、産業(文化)遺産として認定される前に、「製糸場」を含めて富岡の関連遺産とされている一連のもの(荒船風穴や高山社跡など)を訪ねてみたい。

小幡の歴史、観光案内 小幡の中心部

のんびり 行こうよ:
「2013.06.09: 甘楽の城下町 小幡(おばた)を散策する」


にて、「城下町 小幡」の散策の様子を書いている。


(そちらも是非、ご照覧あれ。)
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<織田宗家の城下町として>

 1590年(天正18年)から1601年(慶長6年)までの11年間は、小幡領2万石として「奥平信昌(おくだいら のぶまさ)」が領主となった。上野国の「奥平」郷(吉井周辺)を本貫地とする武将だ。関が原の合戦での功績からだろう、徳川家康の娘婿となった生粋の武人といえる人物だ。戦後の1602年(慶長7年)に10万石に加増を受けて小幡から「美濃 加納」へと転封となって小幡を去る。

 奥平氏以後の初期の小幡領の統治者は目まぐるしく交代する。1602年の奥平氏による小幡領転封から後の織田氏による藩主時代を迎えるまでの14年間で4名の領主が立ち替わって、小幡藩領2万石の領地を納めているのだった。

 家康の征夷大将軍の就任から徳川幕府が正式に開かれ、それ以降は「幕藩体制」が採られて全国が整備されていく。

 織田氏の小幡入りまでの期間は丁度、幕藩体制の整備に充てられて全国が動いていた期間に相当する。江戸幕府の創生以降、国司(守や介)や郡司といった律令制上の管理者の任命や鎌倉以降の守護・地頭の補任ではなく、統治の主体は世襲制での「藩体制」に置かれる。

 江戸期を通じて統治権は幕府にあった ― 征夷大将軍は朝廷から「守護職」の代理任命権を委任された ― ので、藩主は朝廷ではなく幕府により任命される事になる。恩賞による加増として国替えとなる場合もあるし、その逆の減封や改易もあった。こうした政策によって徳川の幕藩体制としての統治基盤が整うのは、三代将軍の「家光(いえみつ)」の治世に入ってからである。

 特に2代将軍の秀忠の治世は幕府基盤が強固に打ち立てられた時期であったが、家康死後の大名統制策は峻烈を極め、外様大名24家(中心は豊臣恩顧の子飼い大名達の取り潰し)、徳川家一門及び譜代大名もその例外ではなく15家に及ぶ多くの大名が断絶された。

 やがて戦国の世が終結して、織田信雄(信長の次男;のぶかつ)が1615年(元和元年)に大阪夏の陣での恩賞として徳川家から上州小幡2万石を与えられて、福島(上州福島駅の周辺)に陣屋を設ける。その後、織田宗家が藩主となって、8代152年に長きに渡って小幡藩領を統治することになるのであった。

雄川堰横の町屋の様子 小幡の中心ともいえる「雄川堰」の横
ゆったりとした歩道の様子。

画面の左に相互通行の片側1車線道路があるので、こちらは車が滅多に通らない。
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小幡陣屋(御殿)の様子 小幡藩の御殿の様子

 織田家統治時代の藩主、3代「信昌(のぶまさ)」は1629年(寛永6年)に福島陣屋から正式に小幡への藩邸移転を決め、改めて検地を行った。

 現在の「楽山園」の地に新たな陣屋を構築し、地割・御用水割・水道見立てなどを行ったと伝承されている。記録によれば、1642年(寛永19年)に多くの普請を完了して、正式に小幡陣屋(藩邸)に移転したのだという。

 そこは戦国武将の小幡氏の重臣であった「熊井戸(くまいど)」氏の邸宅跡だった場所で、西に雄川への高低差20mに及ぶ断崖を持ち、しかも豊かな水源が確保できる要害の地であったため、藩邸建設地として定められたのだと言う。

 こうした小幡移転による整備工事は13年の歳月を必要とした大事業だった。小幡城下の町割りや治水工事は、無から産み出す大規模な都市創造(城下町の建設)に他ならなかった。「歴史民族資料館」の敷地に城の大手門が置かれて、それを境界として町屋と武家地が整然と分けられた。

 傾斜を上る南側には武家屋敷を配置し、降っていく北側へは町屋を置いた。雄川の上流で取水してこれを分流させる雄川堰を南北に通して、武家地と町屋の双方を広く潤したが、大手南の堰界隈の景観は、平入りの町屋と妻入りの養蚕農家の建物が立ち並んで、いかにも風情があったという。今も雄川堰の横手、お休み処「信濃屋」の界隈には、養蚕農家が立ち並んだその昔に思いを馳せられる景観が残っていて、散策する人を愉しませてくれている。


 ところで、3代藩主の信昌は江戸幕府にあって「奏者番(そうしゃばん;外交官的な役務)」や「若年寄(わかどしより;幕府首脳)」の要職を勤めた実力者となった。

 その功績により1850年(嘉永3年)に格式高い「国主格」を拝命し、2万石にしか過ぎない領地を遥かに越える高い権勢と格式を手にした。

小幡陣屋(御殿)跡に再生された「楽山園」 小幡藩の御殿の跡地 県内唯一の大名庭園 「楽山園」の様子
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雄川堰(町屋を流れる大堰) 雄川堰(町屋を流れる大堰)


雄川の流れの上流域に取水口が据えられて、水量豊かな川の流れが取り分けられた。その取水口から分けられた流れは雄川堰となって城下を流れ降る。

大堰と小堰があるが、大手門のあった歴史民族資料館の位置から北側の町屋を大堰が真っ直ぐに設えられている。

この用水路は生活用水を採る為のもの。飲料ではなく、野菜を洗ったり、洗濯をしたり、といった生活の諸般で利用されたものだ。洗濯では洗剤などは勿論無く、叩き洗いや揉み出しだったから、その下流でも使いまわす事が出来た。現代の感覚では、最初の1軒目の利用でアウトだろう。
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中小路の石垣
御殿へ続く、武家屋敷地の美しい石積みの様子。
丘の頂にある和室のお休み処から、庭を見下ろす。

楽山園

 旧藩邸にあったとされる庭園を、発掘して再現したのが、県内で唯一の大名庭園である「楽山園(らくさんえん)」で、2012年(平成24年)に開園されたもの。その景観は、庭といい、池といい、遠景の借景との調和といい、どれもみな素晴らしいものがある。

 しかしその白眉ともいえるのは、畑地の発掘により再生された大名庭園「楽山園」の一番奥、築山の頂上にある草庵風の建物だろう。お休み処としてその座敷が入園者へ開放されている。

 四面を和障子に囲まれた座敷で、床の間も違い棚も無いし、飾り障子も無い。何の調度もない只の座敷だから気楽にそこに上がって寛ぐことができる。障子は開け放たれているので、360度の素晴らしい展望が味わえるのだ。

 今は周りの木々が夏に向かって勢いを増していて、緑萌える時期なので鮮やかさが一層に眩しいが、これが秋だったら果たしてどうなってしまうのだろう。

 錦秋に染まる丘陵が視界を満たす。庭園内の木も色着いているはずだ。その紅葉は、山行で目にする様子とはまた一味違っているはずだ。


 畳みの敷かれた座敷に揚がって、開け放たれた障子から目に入る丘と庭を眺めながら、それを思った。今を愉しみつつ、さらに訪れるだろうほんの少し先の季節に思いを馳せたのだった。「のんびり」するとはこういう事なのだな、と感じ入ったひと時だった。

 綺麗に保たれた部屋を、実に爽快な風が通り抜け、吹きすぎていった。
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オマケのひとこま <本日のいい気分
         おまけのヒトコマ>


楽山園の庭園内の丘にある草庵(和風)のお休み処を占拠する友人H。

風が、部屋を抜けて、大分気持が良かったらしい。

充足、あるいは「ご満悦」とは、
こうした状態を指すのだろう・・・。


あるいは、こうして寛ぐ彼に向かって声を掛ける。

ご機嫌のご様子で 何よりですね、
と言ってあげたい気持ちになった。
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絶品豆腐の店「豆忠」さん 店のレジカウンター。

豆腐の基になる大豆が、笊に入って飾られていた。

<本日の旨い物  「豆忠」さんの豆腐(補足)>

 「甘楽町歴史民族資料館」での見学を終えて、雄川堰の脇に連なる桜並木の歩道を北に向かって降っていったら、この店に出会ったのだった。昼を食べるために「道の駅」を探していたのだが、その「道の駅 甘楽」へ向かうためのT字路を通り過ぎてしまったのだ。

 桜並木が尽きる場所まで来て、とうとう界隈に食べ物屋さんがまるで無いことが判って、資料館の建つ南側方向へ戻ろうとした時だった。ふと視線を泳がせたその先に、「とうふ」の味わい溢れる文字が書かれた幟が立っていた。

 黒い板壁と白い漆喰で仕上げられた民家の様子なのだが、ちょっと気になったので、幟の正面のところまで行ってみた。すると、やはり商店のようで、入り口に藍染の暖簾が掛かっている。これは、いい店に出会ったのかもしれないぞ、となんだか胸騒ぎめいた予感があって、思い切って店に入ってみることにした。

入ってよかった「豆忠」さん

 店内に設えられた大きなテーブル。欅(けやき)の一枚板の様だった。
いいよなあ、と語り合う
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豆忠さんの豆腐(塩で頂いている)

 豆腐を塩で頂いている。右の写真は豆乳。
豆乳がまた絶品

 カウンター脇の保冷ケースに冷やされた木綿漉しと絹漉しの豆腐を一丁ずつ買い求め、お願いして店内で食べさせて頂く事にした。

 店は、豆腐は勿論、各種のものが取り揃えられているが、加工品も扱われていた。ガンモドキや豆乳などである。ガンモドキは買わなかったので味に関しては判らないが、他の品はどれも逸品といえる豊かなものだった。

 その様子は、関連する散歩のページ< 散歩 のんびり 行こうよ: 「2013.06.09 : 甘楽の城下町 小幡(おばた)を散策する」 >で紹介している。
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おぼろ豆腐のスイーツがさらに絶品 ふくよかなウーロン茶

 この「小幡」に流れる川は、水量が豊富だ。その水質に味の秘訣があるのだろう。

 川が水量豊かなら、湧水もまた豊富に違いない。井戸にしても水道にしても、ここの水はどれもみな、きっと独特のキレがあって美味しいのだろう。

 豆腐も豆乳も、そして朧豆腐を使って作られたデザートも、実に美味しいものだった。そして、一緒に供されたウーロン茶もまた格別な味。

 ウーロン茶は金宣(きんせん)や凍頂(とうちょう)などの台湾のものではなく、大陸のもの。どうやら鉄観音のようで、爽やかな口当たりだった。冷やしたウーロン茶では珍しい事なのだが、ふくよかな香りが立ち上がっていた。多分これも、小幡の水が掛けた、ちょっとした<魔法>に違いない。

雄川堰 「豆忠」さんの店の前。

「雄川堰」の案内板。
しかし、町屋を流れる雄川堰の水は飲料ではなく生活用水だ。

関連するページ;
< ポタリング のんびり 行こうよ: 2013.06.09 「山名郷、八幡社を訪ねる 小幡復路編(高崎)」 >
< 散歩 のんびり 行こうよ: 2013.06.09 「甘楽の城下町 小幡(おばた)を散策する」 >

< 散歩 のんびり 行こうよ: 2013.07.09 「日光例弊使街道 玉村宿を訪ねる(07.21 五料宿を追記)」 >
< 散歩 のんびり 行こうよ: 2013.07.09 「中仙道の要衝  倉賀野宿を訪ねる」 >
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