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2008.08.22
港町の散歩(横須賀)

アクセス;
 横須賀;京急(京浜急行)線・横須賀中央駅

カメラ;
 PENTAX K10D

レンズ;
 PENTAX DA18−55mm F3.5−5.6 AL
 PENTAX A100mm F4 デンタルマクロ


 (画像添付時に約30%程度に圧縮)


 季節は二十四節句でいう「処暑」。暑さもここまで、ということだがまだ幾日かは夏を惜しむような暑い日がある。でも昨今、夜は意外に涼しくて、虫の声が以前より大分高くなっている。

 港町、横須賀(よこすか)は海軍基地の町だ。「観音崎灯台」がある公園(2008.08.22 「観音崎灯台(三浦)」)から最寄り駅の「馬堀海岸」駅でバスを降りずに、そのまま横須賀(よこすか)の街まで乗って、この街へ来た。

 横須賀には海上自衛隊や米第7艦隊のドックやバースがある。駅周辺の繁華街を抜けて海岸の方へ行くと、そこには広大な米軍基地が広がっている。

 私達は当たり前のように受け入れてしまっているが、占領後の米軍による駐留が、そのまま半世紀を越えて続いている。

バスに乗り込んできた園児達 数えたら15名。馬堀海岸の美術館の先の
園地から横須賀の町まで乗っていた。

路線バスを使っての遠足だったらしい。
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トランペッター サックスプレイヤー

 予め、楽器を手にしたジャズプレイヤーが腰を下ろしているベンチが街中にある。何故かよく分からないが、本来市民が座っているべき場所にトランペットやサキソフォンを手にしたプレイヤーが一人づつ座っている。

 そのブロンズ像は等身大の大人であり、ベンチのほぼ1/3を占有している。せっかく置かれたベンチとオブジェだが、面白がる子供達くらいしか座ることがないのではなかろうか。あるいは、ベンチの有効面積を狭くしさらに注目を集めさせる事で、そこで寝入ることを防ごうという目論見なのだろうか。

駅前の楽器のオブジェ ポラードを模している
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街中の花壇 米軍基地前の海軍カレーの名店

 横須賀の町興しの一つに「海軍カレー」というのがある。「海自カレー」としなかったところが、反骨精神溢れる市民意識の高い横須賀の人たちの卓見だと思う。私は、この欺瞞の無い「海軍」という呼び名が気に入っている。

 横須賀の町でもそうらしいが、「海軍カレー」といった場合、不足する栄養を補うために必ずミルクとサラダを添えてセットとして共されるものらしい。

 海上自衛隊の各艦艇で士官と兵が同じメニューの食事をするのは、毎週金曜日に繰り返される「カレー」の日だけらしい。自衛隊は上意下達の軍隊であり階級社会であるから、両者のメニューなど違って当たり前だ。だが、この日だけは学生食堂や社員食堂と同じノリで大盛りカレーを食べる兵士達と、給仕兵が付いて英国風に会食が進められる護衛艦の士官食堂で、同じものをエリートである士官達も食べている。どんなに頑張ってみたってカレーは所詮「どんぶりもの」だ。言葉は悪いが、早い話が「ぶっかけめし」なのではなかろうか。さて、それをどうやってテーブルマナーの席で食べるのだろうか。

 「カレーの日」は「カレー・ライスの日」では無いから、カレーはスープとしてパンで食べるのだろうか。そうした場合の主菜は、いったい何になるのか・・・。

 まあ、そんなくだらない疑問はどちらでもよいが、私としてはやはりカレーを食べるなら、白いご飯にたっぷりと掛けて食べたい。そして出来れば、夕食で残って翌朝食べるアレが良い。野菜など溶けてしまったものにソースやお醤油をすこし掛けて、なんていうのも好きなものだ。

 毎週金曜日に繰り返されるのは、洋上に出た際に曜日の感覚を忘れないための献立の工夫だそうだが、各護衛艦でそれぞれ秘伝のレシピがあるらしい。赤ワインを入れていたり、インスタントコーヒーやコカコーラでコクをだしたり、福神漬けの汁を入れたり、各艦で伝統の味が守られていて数々の工夫が凝らされているらしい。

 そういえば、「福神漬け」自体も日露戦争時の軍隊食のため考案・開発された食材だった。

こちらはずばりの店名「よこすか海軍カレー」 各店が正統派の「海軍カレー」を謳っていて、
横須賀ではいろいろな店で食事が出来るが、
ガイドブックで見る限りどの店も同じようなものではない。

そうすると、一体どこが<正統>なのか、よく判らなくなってくる。

そうしたわけで、横須賀には何回か来ているが未だにどの店も食べたことが無い。

旅行中にあえて食べたい物ではないので、少し微妙だ。



私のような人間のために、レトルト製のお土産が用意されている。

ただしそれは一食500円もする代物だ。
レトルトといえば安価なイメージがあるので、実はこのお土産品も買ったことは無い。

 カレーと軍との間には密接な関係があると思っている。

 「少年の家」などの屋外活動で大鍋で作るカレーも、ご飯は「飯盒(はんごう)」で炊く場合が多い。飯盒というのは軍隊で利用するコッヘルだ。

 ぐらつかずに一度に多くの数が運べるように円形ではなく独特の形状を持っている。腰に着けても安定するあの製品は、正確には「兵式ハンゴー」という名称だ。

 山では荷物になるので私達ワンゲル部員が使うことは無く、私などが山へ持っていくのはもっぱら携帯に便利なスタックできるコッヘルだ。ところが、そうした現場をよそに、演習としての野外セミナー(親子野外教室や青少年xxなど)などを舞台に、未だに集団活動などでハンゴーが登場する。特にカレーが献立とされる場合は、兵式ハンゴーの出番が多い。

 「同じ釜の飯」を食べて一致団結した旧軍同様に、同じ鍋でご飯を食べて結束を深め、さらに集団の一体感を増そう、と言う取り組みなどには持って来いの道具だてらしい。

 これも軍とカレーとの深い関係の一つの表れだろう。 (すみません、ただの「こじつけ」です)
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日本丸のマスト模型 公園へ続く遊歩道にあった、
日本丸のメインマストの模型。

さすが、港町だ。

<「海軍カレー」について>

 少し気になったので、「海軍カレー」について改めて調べてみた。


 高校を卒業する頃に、キーマ・カレーなどのように、タマネギやタンドリー・チキンだけが入った香辛料ベースだけのカレーを食べるようになった。インドの人が経営する営業店舗が前橋に出来たためだ。ナンにつけて食べたり、パサパサしたサフラン・ライスにつけたりで、スープのようなカレーは、それなりに美味しいものだと思う。

 でも、「カレーが食べたい」と思うときに浮かん出くる味は、小麦粉を炒めた、ルーによるトロリとした日本独自のあの味だ。あの日本のカレー、どうして出来たかというと、実は帝国海軍が軍隊食として作り上げたものであった。

 英国海軍のビーフ・シチュー(インドなどに展開する軍は、牛乳が日持ちがしないので、カレーパウダーを入れていたらしい)に範をとって、小麦粉でとろみをつけてご飯に合うように工夫したものらしい。

 日露戦争当時、「日英同盟」により軍事的な同盟国だったイギリスと日本の間では盛んな軍事交流があった。元々、海軍は当時世界最強グループの一員であった英海軍の組織や用兵思想、さらに作法や礼法など、運用のいたる部分のほぼすべてを模範とした。横須賀鎮守府(横須賀におかれ、関東の海軍組織を統括する軍内部の地方政府のような組織;全国五区のひとつ)がこのレシピを正式採用し「海軍割烹術参考書」に掲載して普及に努めた。この公開されたレシピで作ったものが、すなわち「海軍カレー」なのだ。


 <「海軍カレー」の広まり>

 その後、カレー・ライスが日本中にくまなく広まるきっかけとなったのは第二次世界大戦であった。

 大戦は、非戦闘員である一般民衆が巻き込まれ、甚大な被害を受けた<総力戦>というのが大きな特色の、凄惨な戦いだ。

 開戦に至る理由や議論は様々あるが、戦場となったすべての国と国民がその悲惨な経験を余儀なくされた。職業軍人や志願兵ではなく「徴兵」という行政がつくった制度で集められた多くの兵士が参加したが、自分の意思とは無関係に兵士とされた一般市民が職業軍人の指揮下でおびただしく消耗された。

 しかも日本においては、一般市民(当然ながら戦闘員ではない)までもが在郷軍人や軍需工場の監督官など軍人の指揮下に置かれ、避難訓練や防災訓練だけではなく、戦闘訓練まで施された経緯がある。ゲリラ戦などのレジスタンスならまだしも考えられるが、何を血迷ったか「竹やり」などを武器として突入させるという酷さだ。銃や火炎放射機などの近代兵器に対抗できるはずが無いではないか。それは有為な人生の展開を無にし、まったく無駄な死を強要する愚劣極まりない行為だ。

 偉大な作家の「司馬遼太郎(しば りょうたろう)」氏は徴兵されてモンゴルに近い満州の地で戦車隊の指揮者であったが、自らの部隊の装備を「元亀天正(げんき・てんしょう;織田信長のいた「戦国時代」)」のものと書いている。そうした装備への認識は、個人の感想に留まらず指揮官をはじめ部隊全体のものだったと言う。だから、仮想的のソ連との開戦は確実な死を意味していて、その開戦が必然である以上、殉ずる覚悟を決めていたそうだ。

 日本で最も近代化された前衛・精鋭であり、重装備部隊である戦車隊の中ですらそうした認識だった。在郷軍人の多くは実は戦闘知識がなく戦術論などが理解できなかったのだろう。残念なことに「精神論がすべてのよりどころ」という傾向の下士官によって構成されていたのだろうが、自殺を強要するに等しい訓練を本気で実施した指揮官(者)の知性や認識など、その能力や頭の程度を疑わずにはいられない。

 映画「チップス先生、さようなら」はイギリスの富裕層の伝統ある名門寄宿学校を舞台にしたストーリーだ。

 だから、一般の市民の感覚とは少し違う義務感が、映画に登場する学生達の根底にある。市民の先頭に立って難題に立ち向かうという滅私の姿勢だ。彼らの多くは志願して、最初の消耗戦である第一次世界大戦の凄惨な戦場へ行って戦うことを選ぶ。夥しい生徒の名前を先生が読み上げる。軍事色の強い校長の赴任に対して古くからの自由思想の学園の伝統を守り抜こうと、身を呈して戦った教師がチップス先生だ。包囲され、撃破され、その死すら確認できないような戦闘で命を落とした彼の教え子達の名前が読み続けられる。終戦後、その戦死者名簿を朗々と読み上げる裏には、愛する教え子達へレクイエムを捧げるような、教師としての万感の想いが込められていた。

 日本においても、こうした自らの意思で少年兵となった学生たちが多数いたが、まったく別に、徴兵に満たない年齢であっても部隊に準じた状態で組織された学生・生徒達もいたのだ。沖縄など直接の戦闘地域では市民は「銃後の守り」ではなく、前線で活動することを余儀なくされた。

 そうした熱病にかかったような傾斜化を、何故、許してしまったのか。今の私達では到底理解することが出来ない。

 ほぼすべての艦艇が沈められ、陸戦隊であっても多くは玉砕し、消耗されつくした海軍徴兵兵士であるが、幸運にも生き残って復員し得た人々がいる。そうした兵士によって広く一般に広まった海軍時代の食べ物が「海軍カレー」なのであった。


 護衛艦でカレーライスが食べ続けられている事は古くから知っていたが、横須賀の「海軍カレー」は基地の町がそれを逆手にとっての「町興し」のための新たな物だと思っていた。

 最近になって新しく作られた新参ものではなく、「海軍カレー」こそが、われらのカレーの<本家>であった。・・・迂闊であった。

 どの店でも内容は統一されていないが、何のことは無い、日本風に小麦粉を炒めたルーでこってりと作ってあれば、それは「海軍カレー」と呼んでも何の問題もないものなのであった。(横須賀の街では、ミルクやサラダとのセットというのが、その名を冠した名乗りの際のルールらしい)

鮮やかなイラストが壁面を飾る 公園へのプロムナード

 繁華街から外れて海に向かっていくと、綺麗に整備された遊歩道が現れる。その先は広い公園で、日露戦争での「日本海海戦(大規模な砲撃による主力艦隊同士の決戦)」で歴史的な勝利を収めた戦艦<三笠>が記念艦として展示されている。

 記念艦の展示はあるが、公園全体のトーンは「勝利の象徴」ではなく、むしろ尊い平和への新たな誓いを主張している。街の突端から海を臨む美しい海岸に、平和の象徴という位置付けで「三笠公園」が存在している。
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戦艦 三笠 と 司令長官 東郷平八郎の像

 日露戦争で、遠くヨーロッパから回航してきた当時世界一の大艦隊を破ったのは、外国に建造を発注し新造された帝国海軍の巡洋戦艦だ。

 ロシアの「バルチック艦隊」は、この大航海で幾多の苦難に遭遇した。ヨーロッパからスペイン、アフリカ、インドと経由しマレーを通って東洋の狭い海域へとやってきた。赤道を越えての旅のための熱暑との戦い、悪天候、病気、機関の故障や海に落ちるなどの事故、英国漁船への誤射による国際問題の発生。燃料である石炭や、生活必需物資である水や野菜や肉などの食料、それらの補給は実に乏しく、行程中の各地で困難な調達が続いた。

 誤射などは、日本の工作員や戦闘員が乗った魚雷艇が出没しゲリラ的な攻撃を画策している、という情報戦に惑わされ心理的に追い詰められた結果によって起こった事故だ。日本の要請によって同盟国である英国から加えられた政治的な圧力などもある。日本が中立違反を訴えて各国政府へ圧力を加えた、本国政府から指示せざるを得ない状況をたくみに作り出した。これを受けてフランス領となる各地の寄港先は、強力な非協力や排斥を行なったのだった。

 そうした重圧の中で石炭や水を調達し、困難の限りを尽くして遠くアジアへの航海を進めていった。日露戦争のハイライトとなる日本海での艦隊決戦という直接の戦闘以上に凄まじい戦いが、航海途上の世界各地で、油断ならない前哨戦として繰り広げられていたのであった。そうした7ヶ月に及ぶ大航海の果てにシンガポールを過ぎる頃には、艦の機関や装備だけでなく兵員達や士官達の神経も疲弊しきってしまう。その物語は、吉村 昭(よしむら あきら)氏の小説「海の史劇」に詳しい。

 補給と整備、修理により体勢を立て直そうという目論みから回線を避けてウラジオストック軍港へ向けて航進する。日本近海の戦闘想定地域からの離脱と日本艦隊による息詰まる追跡。そして遂に日本海で艦隊同士が遭遇し、雷撃に続く主要な戦闘艦同士の直接砲撃による決戦が行なわれる。その苦難な大回航の果てに待っていたのは、完全な敗北だった・・・。

 かつて、これほどの距離を航海した艦隊があったろうか。大航海時代のスペイン艦隊やイギリスの艦隊がそうであった。でも、ああした地球規模の熱い時代は、事例としては特別な部類だろう。

 また、「吉村 昭」氏の別の作品、「深海の使者」で登場する日本海軍の何隻かの伊号潜水艦(140名乗りなどの超大型艦で大型駆逐艦ほどの巨大さを持つ)が、日本とドイツの間を隠密裏に往復し、連絡任務に当たっている。そうした歴史上に点在する幾つかの例があるが、「バルチック艦隊」の航海距離を思うと、やはりそれは群を抜いている。

三笠の船首部 三笠(碇の大きさ)
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 さて。

 伯父たちは皆、戦場で戦って生き残ってきた。凄惨で生々しい体験談(中国大陸や満州での出来事、玉砕したパラオから生還した体験談)を子供の頃の生活の中で聞いている。だから、他のひとよりも「戦争」のイメージが私の中では身近なものなのかもしれない。

 私が成人する前に亡くなった父方のばあ様(中学生の頃、半年ほど私が寄宿していた)などは、第二次世界大戦(太平洋戦争)のことを「大東亜戦争」と言い続けていた。

 西欧列国の植民地と化したアジアの地域にアジア人自身の手で新たな秩序を樹立し、独立・自治によって民族の尊厳を保とう、というテーゼが染み込んでいた。例えそれが傀儡政権であったとしても、インドやアジアの国々が西欧列強から日本の支援によって独立した意義は想像以上に大きいと思う。

 自らの息子や可愛がっていた馬などを戦地へと送った彼女の中で、先の大戦は一般に言われる「侵略戦争」という位置付けではなかったようなのだ。

 特殊な階級である参謀達が独走し、自分達<軍組織>だけの理屈や膨張願望で事を進め、おおもとの理念を曲げてしまった。当時「お国のため」といって戦争に協力していってしまった一般の市民は、決してすべてが盲目な愚民だったのではない。

 「国体の護持」などというナンセンスな事ではなくではなく、もっと別の「東亜共栄」というアジアの視点に立った世界秩序の樹立、理想を夢に見て、明確な理念を抱いていた。

三笠の主砲 船腹にある福砲

 また、思想的な話になってしまった。


 記念艦の横には「D51」を模した災害用の貯水タンクがあり、その裏側が親水公園になっていた。石組みで作られた水路があって夏場は水遊びが楽しめるという。その先には野外音楽堂などがある芝生の広場になっているが、そこには海に向かって18mの高さのステンレス製の巨大なモニュメントが置かれてあった。音楽堂の近くには、平和への思いを込めた組曲「横須賀」の歌詞碑などがある。

 モニュメントや音楽堂から先は海だ。海の上には、東京湾の無人島「猿島」が浮かんでいてすぐ近くに見える。一般に開放されていて、泳いでも渡れそうな距離だが、勝手な渡航は禁止されているようだ。

 元々は1846年、幕府が黒船来航に備えて台場(砲台)を建設し、明治10年以降は海軍の首都防衛のための要塞島となった。幕末から一般の立ち入りが禁止されていた経緯のため目立った開発や開拓もされず、皮肉なことだがお陰で豊富な自然が残っている。江戸幕府から明治政府、海軍、米軍による接収、その後の返還と経て、戦後になって一般に開放されたが、今は国から横須賀市に譲渡されて、多くの観光客が訪れている。

 この無人島へは船便があり、手軽に渡る事が出来る。三笠のキャットウォーク(写真右下の艦長室;船の後端部)の先にある「三笠桟橋」から頻繁に連絡船(遊覧ボート)が出ている。

三笠の後部艦橋 キャットウォーク
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音楽噴水

 海を望むモニュメントの先には、音楽に合わせて水が踊る噴水池がある。

 1日7回、1回に4曲、約18分間の演奏が行われる。

 丁度演奏の時間に近かったので、30分ほど待って、聞いてみた。交響曲の「モルダウ」やヒット曲の「世界に一つだけの花」などが流れ、それに合わせていくつもの水が吹き上がり、変化をつけて素敵に踊る。夏の夜にはライトアップされ、音と光と水の饗宴となるらしい。

音楽噴水
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噴水の奥は米軍基地 音に合わせて水が踊る

 噴水の奥に見えるのはは、海沿いの広大な地域を占める米軍基地だ。基地内にあるマクドナルドが対岸からも見える。日本マクドナルドではないだろうから、内容などは違うのかもしれない。いちど、覗いてみたい気がする。

 公園の横がヨット用の桟橋になっている。週末の金曜日であったが、軍関係者の親子がシー・カヤックで遊んでいたり、係留されていた美しいヨットが外海へと出て行った。休日にはもっと賑やかなのだろう。


 先日、大統領選挙の街頭インタビューに答えて、「イラクからの撤兵」に関する一般市民の意見が述べられていた。

 なぜ、イラクの場合だけ軍を引き上げなければいけないのか、と言うのが彼の主張だった。日本やドイツや韓国では、未だに基地があって米軍が相当な規模で駐留・展開しているではないか。それがそのとき流されたオバマの撤兵方針の政策意見に反対する共和党支持者(一般の市民)の話だった。

 軍事的な見識に欠けているのではないか、もっと言うとオバマ候補は「防衛問題」に関しては素人なのではないか。そんな候補に国の指導を委ねて良いのだろうか。それがインタビューに答えていた人の意見だった。

 こうした意見が自らの支持層である民主党員の間でも多くを占め始めていて、オバマ陣営は老練なマケイン上院議員に評価を奪われ、次第に支持を失いつつあるらしい。

群れるかもめ 基地内のマック
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カヤックを楽しむ親子(基地内)

 「モルダウ」を聞きながら噴水を眺めていたが、その奥に目を転じれば米軍基地が広いエリアに展開している。横須賀は平和な街だが、間違いなく基地の町だ。

 先日のニュースで「ジョージ・ワシントン」があと数日で横須賀を母港として配備される。前の「キティ・ホーク」(大規模な改装により攻撃型空母から汎用型に艦種を変更している)と同じ大型の原子力空母だ。寄港地や泊地ではなく「母港」だ。だからその周辺の基地(キャンプではなくベース)は自国という認識だ。

 圧倒的な破壊力を持つ空母が即時展開できる体勢にあるという事が、核兵器と同じく、戦争・紛争開始への抑止力となっている。確かに、その存在は戦いの相手にとっては、実際に使うことはあり得ない核兵器よりもより現実的な圧力となるに違いない。

 でもその存在意義は、「防衛力の提供」のためでも、「日本への防衛協力」でもなく、あくまでもアメリカの商業資本の利益、だからそのままアメリカの国益、を守護するための圧力を加える「大きな力」の誇示なのだ。つい安穏と見てしまうが、その圧力は同盟国である日本に対しても向けられている。


 この町に展開する軍の役割は、「イランにおける軍の駐留」とは意味が違う。

 だから、先のアメリカの有識層や一般市民の考えは根本的に間違っている、と言わなければならない。軍の展開の意味自体が逆転している。いや、その逆転した部分こそが、米国の民意なのかもしれない。

 国際社会は「平和や秩序・治安の維持の担い手」として軍を必要とし、そのための展開を容認している。でも米国内ではそんな部分での自国軍の異邦での展開を期待しているのでは無いのかも知れない。米軍の役割の多くは、何よりも自国の権益が優先され、その意味で自国の企業の利益をまず第一に守る。多くの軍事行動がそうした発意のもとで行われてきた。それが結果として間接的に自国民を守る事に繋がると考え、しかも正当な事だと信じているようだ。

 例えば、新たに配備される原子力空母などがいい例だ。テロ国家からの盾ではなく、あくまでもそれは重商主義の<鋭い矛>としてのものだ。

かもめには治外法権は無い?
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ヨットが出港する 親水公園のせせらぎの水路

 さて、軍事同盟や防衛論の是非は、ひとまず収めて、「横須賀(よこすか)」の街だ。


 こうした複雑な政治的・歴史的な背景を持っている街である、という事を念頭に置きたかった。

 昔の横田(よこた)や福生(ふっさ)、立川(たちかわ)などが、やはり特異な雰囲気を持っていた様に、この街も「基地の町」独特の色がある。

 同じく古い歴史を持ち、近代になって発展した港湾都市である横浜や新潟や清水(静岡)などとは、少し違う様に思える。街の起こりの歴史の差であるかも知れないが、歴史の浅深とは違う何かが感じられる。

 普段の生活の中では、統率者や権力者というものを見かけることは出来ないが、広大な基地があり、軍の色が見えていると、それが確かな形での圧力となって感じられる、という事だろうか。

睡蓮
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 少し、脱線して硬い話になってしまったので、柔らか路線を一つ。「横須賀」に来たら必ず寄る楽しい場所を紹介しよう。

 狭い路地に面してスタンドがある。

 客はスタンドの前(だからそこは路地なのだが)で立ち食いをする。残念ながら今時流行の「立ち飲み屋」さんではないので、アルコールも楽しむ場合には、店舗の中で、ということになる。そこにいる客が店員へ注文するわけではなく、兄さん達は黙々と焼いている。焼き上がる都度、前のパレットに各種の焼き鳥が置かれていくのだった。スタンド前に立つ客は好きな種類を好きなだけ自分で取って食べる。

この店の焼き鳥を食べずには帰れない 路地での様子
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焼き鳥のスタンド 焼き鳥オートメーション(2005撮影)

2005撮影(今より10円安かった)

 台に埋まってカップホルダーのようなものがある。ここに自分の場所を決め、食べ終った串を入れていく。全品が同金額なので、精算方法は食べた分の串の束を渡す、とういシステムになっている。金額の計算と串の回収が一度に出来てしまう。

 皆、次は何を食べようかと目を光らせているので、他人の決めた場所に串を入れるようなズルは出来ない。

 赤羽の「1番街(漢字の一ではなく、数字の1)」のアーケードに出る人気スタンドの焼き鳥屋さんも同じ方式を取っている。これが路上で商売をするコツなのかも知れない。

ハツ
若鶏
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 この店で一つ残念なのは、塩味が選べない、というところだ。

 機械仕掛けで「焼き」と「たれ付け」が自動でおこなわれ、そのままぐるりを一回転して焼きあがった串が外れる、完全なオートメーションになっているためだ。赤羽のスタンドのように人手で焼いていれば、どうにでもできるのだが・・・。

豚バラ つくね
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 根無し草の兵士や軍属といった「流れ者」ではなく、ここに根付く市民を治世の軸に据えて、新たな街、平和を標榜する自分達の街を作り出そうというひとつの流れが見えて来る。

 そうした活気が路地に溢れ、意気込みが公園や街中に置かれるモニュメントにあらわている。「緊張感と気安さが適度に同居している」といったら伝わるだろうか。

 魅力的な活気に満ちた街を正確に表す言葉が見つからないが、写真からその雰囲気が伝われば、と思う。

 私は、潮風の香りのするこの街が好きなのだ。