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2012.08.30
北区 飛鳥山(王子)を散歩する (Sさんの思い出)

カメラ;
 iPhone 4S
 PENTAX K−7
    (画像添付時に約30%程度に圧縮)

レンズ;
 TAMRON SP17−50mm F2.8 AL


 通勤で使うこともあった京浜東北線。その路線脇で大きな火事が起こって各列車が運転見合わせとなり、暫く(5時間)停止したことがあった。その際は火事の勢いが大層強くてJRの架線も3本が焼け、その結果、停車する京浜東北線だけでなくその駅を通過する高崎線や宇都宮線それに湘南新宿ライナーも同時に止まったのだった。

 北区の「王子(おうじ)」駅は馴染みが深く、ホームから目の前に広がる「飛鳥山(あすかやま)」や「音無川(おとなしがわ)親水公園」手前の食堂街、それに「王子稲荷(おうじいなり;関東お稲荷様の総本山)のなど様々な場所(のんびり 行こうよ; 2008.03.15 「江戸の情緒 (谷中、王子)」 )に季節を追いかけて訪れている。

 冬の雪景色、飛鳥山を満たす満開の桜や紫陽花の頃、新緑が眩しく水が心地よい夏の親水公園など、どの場所も皆、季節感に溢れている。

渋沢邸の寒椿

明治期に活躍し日本の多くの株式会社を創設した
功労者、渋沢栄一邸の跡地に咲く寒椿
王子、飛鳥山(あすかやま)の様子

渋沢邸の寒椿
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 そうした街散歩(のんびり 行こうよ; 2008.02.11 「飛鳥山から旧古河庭園 (王子)」)の中で、馴染みになったのが駅前の飲み屋街。

 飛鳥山と線路の間にその小路(店の並び)があって「さくら新道」と呼び、昭和27年(1952年)に建ったものという。そこは戦後の雰囲気を色濃く残した棟割長屋の呑み屋街で、オヤジにすれば実に魅惑的な空間(のんびり 行こうよ; 2011.02.11 「王子稲荷」)だった。

 その小路の店舗の2Fから火災が発生し、消防車約30台やヘリコプターなどが出動して懸命に消火に当ったが活動の甲斐なく、残念なことに2棟計約600平方メートルが全焼してしまった。店舗兼住宅が60年に渡って建っていたという事だったが、そうしたすべてが焼失し、在りし日の様子は見る影もなく失われてしまったのだった。

 それは2012年の1月21日の出来事で、そのあおりで京浜東北線は5時間に渡って不通となったのだった。

さくら新道 王子、
飛鳥山の脇にある
「さくら新道」


2011.02
ワンゲルメンバー撮影
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 ところで、私は大学生の頃に「駒込(こまごめ)」に住んでいた。

 駒込といっても山手線の内側の、お屋敷町の雰囲気が残っている上品な方の街ではない。山手線の外側、染井(そめい)や中里といった昔から鄙びた地区だった町並みのほうである。だからその街は活気にあふれていて、下町そのものといってもいい温かい雰囲気に溢れていた。

 その当時の駒込には下町気質が随分と残っていたように思う。街の商店主や女将さん達の気風もそうだったし、住んでいた人達の生活観もそうだった。向こう三軒両隣は勿論のこと、町の一角のご近所同士といった人達が仲睦まじく、実に良く結束していたのだった。

 その当時、たとえば学生だけが住んでいたアパートなどは、どこもみな昔話でみる漫画家達が寄り添っていた「トキワ荘」そのものの感があって、共同体のような連帯感があった。そうした雰囲気やある種の熱気のようなものは、若い学生だけでなく私が居た終戦直後から建っていたと思われる古いアパートなどにもあった。まるで落語の長屋の住人の世界のような寄り添った暮らしぶりが、日常のひとコマとしてそこにあったのだ。

飛鳥山の梅 飛鳥山

2011.02.11 撮影
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 なにせ、私のすぐ下の住人は三味線と小唄の師匠のおばあさん。だから三味線の音色に乗せた小粋な渋い唄声が良く聞こえてきた。

 ちょっと昔気質の怖い人で、たまに小言のような事も言われたが、そうした注意の多くは私の事を親身になって気に掛けてくれていたからだった。時に小さなお皿に盛った餃子やコロッケなどを持って来て、「これ、食べな」といいながらお裾分けを差し入れてくれたりした。おばあさんが話すのは生粋の江戸弁で、私は「上州のかかあ天下」の出なので慣れていたが、始めはその強い口調に面食らったものだ。いつも威勢の良い、きつめの口調の裏側には温かい優しさが隠されていた。貧乏学生の生活を気遣って、時々は多めに惣菜を買ってくれたようだった。

 私の住んだ古いアパートに入っていた学生は私ともう一人の二人だけで、あとは年配の方や家族といった人達だった。総二階の木造の大きな建屋に16軒ほどの所帯が入っていた。前の部屋の人は左官屋さんの夫婦で、この人は私の隣の部屋も借りていた。奥の人はアパートの入り口にあった木工所の職人さんの夫婦といった具合だった。

 だから、今のように隣は誰?などといったことは皆無。たとえば、下に住む家族の女の子達は何を気に入ったのか度々私の部屋に遊びに来たりした。アパートの大家さんは大通りに面した大きな金物屋(1,2階が店舗で3階が住まいの自前のビルだった)を営んでいたが、遊びに来たのは大家さんが営む店の古くからの店員さん一家の子供達。幼稚園と小学低学年の可愛らしい姉妹で、お姉ちゃんは利発で最近学校であった面白い体験談を紹介してくれたり、妹を連れてきて二人でピンクレデイーを歌いながら上手に踊って見せてくれたりしたのだった。住民の行き来は私の部屋に限ったことではなくて、そうした近所付き合いが盛んだった。

渋沢邸にある「晩香廬(ばんこうろ)」というバンガロー 渋沢邸にある、
「晩香廬(ばんこうろ)」という名の
バンガロー (粋で洒落た命名だ)


 2011.02

 その古いアパートは「霜降り(しもふり)銀座」と呼ぶアーケード街の脇にあったが、そこの住人達は春先になると「飛鳥山(あすかやま)の桜」の話題で賑やかになるのだった。

 そして秋も深まると飛鳥山に変わって山の手線の内側にある「六義園(りくぎえん)」の紅葉に話題が移るのだが、生活の中での風物詩の多くは飛鳥山と一緒に過ごされていた。

 「もう、花は見たかい?」、「いいや、今年はまだでね」などといった銭湯帰りでの旦那衆のやり取りや、連れ立って「次の日曜日に花見に行こう」などといったおかみさん達の洗濯場での相談事が頻繁になってくる。

 アパートには共同の洗面所が2階の奥にあって、そこに各家族の洗濯機が置かれていた。私は、銭湯のコインランドリーで洗濯をしていたが、洗濯物を入れた買い物袋を手にしているところにすれ違ったりすると、「お兄ちゃん、うちの洗濯機使って」などと誰もが声を掛けてくれるのだった。

 洗面所はいわば時代劇で見るおかみさん達が寄り集まって無駄話にいつも興じている長屋の井戸端と同じものだった。時代劇での井戸端会議は洗濯仕事のついでだけでなく、食事の準備や洗いものなどの際にも繰り広げられるものだが、我らが洗面所(洗濯場)でも同じ様子が良く見かれられたのだった。それに2階の廊下から繋がった物干し用の広いベランダ(8畳くらいあったろうか)などでは、下と上のそれぞれの家族がビールやおつまみを持ち寄り、家族総出で集まって賑やかにやっていた。それは頻繁に開かれる夏の夕方を彩る風物詩だったが、部屋へ戻る私を見かけたりするといつも声を掛けてくれた。

 洗濯場(洗面所)や物干し場(ベランダ)といった共有スペースは共にそこに暮らす私達の社交場で、それぞれにとってまたとない大切なものだったのだ。
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 私に世話を焼いてくれた奥の部屋の人は仲睦まじく夫婦で暮らしていた。小太りの奥さんも優しい人だったが、旦那さんの方も本当に親切な人だった。奥さんの方が大きくて、人一倍小柄な旦那さんの横に並んだりすると、絵に描いたようなノミの夫婦がそこに現れるのだった。

 その懐かしい人の名前を、ここでは仮に「Sさん」としておこうか。

 Sさんが暮らしていた部屋は私と同じ間取りだから、6畳の和室に天袋付きの押入れがあって、それに2畳程度のちょっとした台所があるといった具合。

 私の部屋は北側で直ぐ窓の外が女子栄養大の校舎だったので昼でも割と暗い状態だったが、Sさん夫婦の部屋は角部屋で明るかった。住環境としては決して贅沢な暮らしとは呼べないものだが、家具などがところ狭しといった具合に置かれていて、温かい生活感に溢れていた。

焼失したままの「さくら新道」


焼失したままの「さくら新道」。
焼失したままの「さくら新道」

王子駅前に長くあったが、在りし日の昭和の姿は、
もうそこにない。

 今思えば、Sさんの歳は幾つだったのだろう。

 私が入学で上京してその古めかしいアパートに越してきた際に、丁度時を同じくして前の部屋の左官屋さんのところで初めての子供が生まれた。私のお隣さんになる彼ら二組の夫婦は仲が良かった。お互いに同じくらいの様子に見えたのだが、多分30代半ばといったところだろうか。いや、Sさんはガッシリとしていかにも仕事師といった外見の左官屋さんよりもちょっと年上で、40才を少し越した位だったろうか。

 当時はSさんの事を随分と年配の人のように感じていた(パンチパーマの外見のためだったのか)が、それほどに私と年は隔たっていなかったのかも知れない。


 時に、「いくかい」と廊下からSさんの声が掛かる事があった。

 私の部屋は2階の北側にあって、狭い廊下を挟んだ向かいに左官屋さん家族の部屋があった。左官屋さんはそこを南向きの部屋なので居間にしていて、北向きの私の隣部屋を寝室にしていたのだった。その部屋と私の部屋は廊下を挟んで少しずれて向かい合っていた。私の部屋の廊下に面した壁には採光の意味で曇りガラスが嵌められていたが、声に気付いてそちらを見ると窓越しにSさんの小さな影が映っている。それで私を誘ってくれていることが判るのだった。

 そのように、都会暮らしや一人暮らしに不慣れな私を気遣って、Sさんは思い出したように銭湯に誘ってくれるのだった。
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 古アパートのどの部屋にももちろん内湯などはあるはずも無く、どの家の人達も皆一様に銭湯に行ったのだった。

 今では街中で銭湯を眼にすることもめっきり減って、全国至るところでもう全滅に近い状態だろう。けれど、学生時代にはどこの町に行ってもそれはあった。町内には必ずといっても良いほど古くからの銭湯があったのだ。

 私が通った銭湯も住んでいたアパートから程近い場所にあった。せいぜい150mほどしか離れていないといったところだろうか。

さくら新道の焼け跡 焼失したままの「さくら新道」

青い空が、少し悲しい。

 勿論、前橋の町を例にとっても、よほどの郊外でない限りどこの住宅地にも煙突を高く上げた銭湯があった。

 入園前(4歳くらいまでか)には私の一家も近所の大きな銭湯に行っていたのだった。都会とは違って土地が豊富な地方という住宅事情の違いもあってか、高校生になる頃にはあれほどどの町でも見かけた銭湯の多くは、いずれも店じまいをしてしまった。

 だから私は、このアパートへの引越しに際して風呂がないことをいたく心配したのだが、近くに住む叔母は「大丈夫、あの辺の人達はみんな銭湯通いだから」と妙な太鼓判を押すので、かえって不安になったのだった。

 いったい何処まで風呂を求めて行かなければならないのだろう。フォークソングの神田川みたいに、離れた場所までちょっと歩かなければいけないのだろうか、と。

 そういった私の不安をかき消すように、思いのほか近い場所に銭湯があった。住宅街の奥まった場所や、川の傍のちょっと街外れといった場所にある訳ではない。JR駒込駅へと続く、片側に屋根の付いたアーケードに面してという俄かに信じられないような表通りの贅沢な場所にその銭湯が建っていたのだった。

 その道は「本郷通り」の大通りで、アーケードは駅から始まって私が住んでいたあたりを過ぎてもさらに、だいぶ先まで続いていた。だからそのお陰で駅からアパートへ入るための路地のところまでは、雨に当らずに歩けたものだ。勿論、銭湯からの帰りもアーケードを通れるので、風呂から出たら外は俄か雨という状況でも、大したことは無かった。

 そのアーケードに面して銭湯の入り口があった。だから、私が通ったその店は通りに面した一等地に建っていたのだった。並びには和菓子やさんや中古カメラ店、小洒落た喫茶店(当時よくあった洋食屋を兼ねたパーラー)や、ラーメン屋さん、蕎麦屋さんや寿司屋さん、牛丼チェーン店や中華屋さん、それにスーパー(ニチイだったか長崎屋だったか)の小規模店などがアーケードの通りに雑多に並んでいた。人通りも遅い時間まであって、随分と賑わっていた。

 だから、その地の利の良い銭湯への客も多くて、15時から23時45分までの長い時間、営業していた。閉店間際に行ったりすると番台に座った女将に睨まれる、ちょっと怖い風呂屋さんだった。親父さんは陽気な人だったのだが・・。  
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焼失したままの「さくら新道」 飛鳥山が紫陽花でその斜面を一杯に飾る頃、
さくら新道は、人通りが一際多くなる。

そこにある呑み屋さんへ向かうのではなく、
線路際が紫陽花の一番の見どころになるからだ。


写真に撮ろうとすると、線路際の金網があって、
ちょっと苦労する。

飛鳥山の斜面側へ振って撮らなければならないからだ。


そうした際に、横目にみる「さくら新道」の佇まい。
まさにそこには昭和の世界が広がっている。
異次元というか別世界というか、
私達が暮らす日常とは別の空間がそこにあって、
一際ゆっくりとした時間が流れているのだ。



いつかは充分なお金を持って、
ここにある何軒かをはしごして愉しもう、
という密かな願望があった。

今となっては、願望のままで果たしようがなくなってしまった。
一度、思い切ってどこかの店で呑んでおけば良かった・・・。

残念なことだ。

 さて、本来は寛ぎの場であるはずの風呂であり、楽しみな入浴時間のはずだが、私にとってのその風呂屋さんは<道場>といってもいいような社会勉強を兼ねた修行の場でもあった。

 今にして思えば、風呂の営業時間はなんとなく世代で厳しく区分けされていたようで、それは駒込のような下町における侵してはならない不文律であったようだ。そんな事を知る由もない田舎出の私は、ルールとはお構いなしに自分の都合で銭湯へ行った。早い時間は町内の怖いおじいさん達の世界で、そうした時間帯の、要は開店間際の「一番風呂の時間」に私などの若造が入ろうとしただけで、ジロリと睨まれたものだ。

 そうしたきわどい時間だけに限らず、湯温が熱いからといって水道をひねって湯船の温度を下げようものなら、途端に厳しく戒められる。普通の時間帯でも礼儀や作法といったことに関しては、それは厳しい世界が繰り広げられていたのだった。

 遊びに来た友人と一緒に風呂に行ってワイワイとはしゃいで話に興じていると直ぐに注意されたし、洗い場に並んだ見知らぬ人から洗髪のときのシャワーの向きを注意された事もあった。脱衣所へ出る際に充分に体を拭かないと、年配の方からやはり注意を受けた。今思えば当たり前の仕儀なのだが、そうした共同風呂へ入るためのイロハを少しも知らない身にとっては慣れない日々は大変な思いをしたものだった。

 しかし、このときの色々な人達の指導のお陰で、今の私は「風呂の達人」と言っても良いかもしれない。なにせ、手拭が一本あれば、それですべてが事足りてしまうのだ。手拭が無ければ、贔屓にしている「いせ辰」の手拭様の大判ハンカチだけでも大丈夫。体を洗うのも、濡れた体を拭き上げるのも、すべてその小さな一枚で事足りる。大きなバスタオルなど使う必要がないという技をこの時に見習って、確かな技術として備えているのだった。
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 そのアーケード通りに直交して、屋根の無いアーケード街が巣鴨の「庚申塚(こうしんずか)」に向かって続いていた。

 本郷通りの大通りから始まった「霜降(しもふり)銀座」の商店街が長く続いて、一旦店並みが住宅だけになって途絶えるが、その先がまた再び賑やかになる。「染井銀座」の商店街がいつのまにか始まって、その奥に続くのだ。

 多くの様々な店がびっしりと並んでいて、そこはまるでアメヤ横丁の小規模版といった活気に溢れていた。朝から夜まで、何時も客が歩いていて実に賑やかな商店街だ。私が良く利用した古本屋さんやコーヒーの挽き豆屋さんや酒屋さんや肉屋さん、スーパーやハンバーガーショップ、靴屋さんやジーパン屋さんなどのほかにも、それはそれは、実に多種多様な店が軒を連ねていた。

 さて、アパートから銭湯へ行くには、その霜降り銀座の裏通りのような小道を通ることになる。商店街の通りに並行して、小型の2トントラックが辛うじて通れるほどの至って狭い路地が奥へと続いていた。

 でも、アパートが建っている場所までの間には、そんな狭い裏通りの路地に面してさえも何軒かの味のある店があった。銭湯に誘ってくれたSさんとの風呂帰りには、路地沿いにあった北京料理の美味しい中華料理店やおむすび屋さんに寄って楽しんだ。

 Sさんは風呂に誘ってくれるだけでなく、そうして貧乏学生の私に何度も奢ってくれたのだった。

飛鳥山から見下ろす 音無川親水公園
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 広東料理や福建料理などは前橋にも美味しい店があったし、四川料理などは見知っていたけれど、「北京料理」というのは未経験だった。Sさんにその店に連れて行ってもらうまで、私はそのジャンルの中華料理を食べたことが無かったのだ。

 北京料理といっても、その店で出される品は宮廷料理などの贅を尽くしたものではなく、家庭料理といった内容のもの、そして丁寧な調理を売り物にしていた。だから正確には「北京家庭料理の店」といえた。

 そこで出される料理はどれも塩味が基本になったものだった。辛くは無いのでどの料理でも大丈夫だったが、塩味ベースの焼きそばや豆腐料理がことに美味しかった。

 パリッと焼けた熱々の餃子などは、一かじりで肉汁が溢れて来た。なんともいえない味わいがあって、そこの料理はどれもみな美味しいものだった。そして、そんなときには壜ビールも付いてきた。

 「やっぱり、餃子にはコレ(ビール)だよな」などと、Sさんは笑顔で私の分のコップをもらって、気前良く振舞ってくれたのだった。

親水公園の遊歩道

王子駅の前には、石神井川が流れている。

気持ちの良い遊歩道で、
落ち着いて散歩が出来る。
平澤かまぼこ のおでん定食

 お結び屋さんは、なんという名前だったろうか。

 チバヤという喫茶店の裏口がその店の向かいにあった。向かいにあるその喫茶店は広くて大きな店だったが、お結び屋さんのほうはカウンターだけの細長い店舗だった。一列に8人ほどが店に入ると、もう満杯になってしまうといった具合。でも人気が高くて、店内のカウンターにはいつでも客が並んでいた。

 鮭、梅、タラコ、岩のりの4種類ほど、それに高菜の具もあったと思うが、今のコンビニのおにぎりと違ってどれも具が沢山入ったものだった。大振りの美味しいお結びを注文に応じてカウンターの奥にいるご主人が丁寧に握ってくれる。お結びには単品だけではなく「セット」というのもあって、それを注文すると驚くほど美味しい味噌汁が付く。この出汁の良く効いた味噌汁がまた素晴らしかった。

 どれも良く売れるのだが、作り置きはしてなくて、必ず注文する度にご主人自らが心を込めて握ってくれるのだった。そこで出されるお結びは、文字通り「手塩」にかけた逸品だった。
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平澤かまぼこ店のおでん定食


王子駅前、「平澤かまぼこ」店のおでん定食

ごはん、お新香、小鉢2皿、それにメインの「おでん皿」
しめて550円。 お銚子も頼んでコイン2枚ほど。
平澤かまぼこ店のおでん定食

 そしてその店ではお結びも評判だったが、さらに人気のメニューがあった。

 何種類かの具を使ったお茶漬けだ。上に載った三つ葉の香りとおろした山葵(摩り下ろした本わさび)の香りが高くて、あの味は未だに忘れられないものだ。永谷園のお茶漬け位しか知らない小僧にとっては、そのお茶漬けは別世界のものだったからだ。

 刻んで振られた海苔の味もそうだし、お茶の味にも、おろした山葵にも深い愉しさがあった。

 私は最初にSさん(奥の部屋のおじさん)に勧められてたちまち虜になったので、いつもお茶漬けしか頼んだことが無く、ごくまれにお結びを頼む事があるといった具合だったが、その店には焼き魚や煮物などをおかずにした定食などもあった。

 だから、お結び屋さんというより、一膳飯屋というか、定食屋さんと呼ぶべきか、あるいは大衆割烹とでもいったら相応しいだろうか。たしか、お酒もあったように思うが、そこのところになると記憶が定かではない。今の呑み助になった私と違って、当時の私は酒にはさほど関心が無かったのだ。今となっては、そんな無関心などおよそ考えられないことだ。
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 さて、今では「お握り屋」は様々な形態になって、物珍しくも何とも無いものになった。

 お結び、お握り、チェーン店やコンビニなど、それは随分と身近になって、その扱いの間口はとても広いと言えよう。

 でも、私が学生だった時分には、独立した店舗の「お結び屋さん」といったものは見かけなかった。スタンド店はあっても内容はお寿司の持ち帰りやお弁当がほとんどだった。そうした店に「お稲荷さん」は置いてあっても、「お結び」がおかれていることは無かった。専門店といった様相が珍しくもあり、出される品がどれもたまらない美味しさである、という事もあって、その店の味の記憶は今でも鮮明なものだ。

 ところで、その店には、入り口の引き戸のところと店内のカウンターの正面に、大きな貼紙が貼られていた。「ササニシキ」がいかに優れたお米であるか、がその貼紙にとくとくと説かれていたのだ。

 店のご主人は宮城の出身、仙台に近い場所が田舎なのだという。だからなのか、店のご飯ものに使っているのは、宮城直送の県産品のササニシキのみ、という徹底振りだった。

 その店は通っていた銭湯と同じような営業時間だったように思うが、その日の焚いた米が切れると、さっさと暖簾を仕舞ってしまう。定刻まで営業を続ければ商売になるというのに、追加で米を研ぐことは決してしないようだった。

 だから店は、「商いの場」というより、ササニシキの良さを世間に広めるための場といえた。それはご主人の贔屓の筋をアピールするためのもので、言い換えれば、故郷への恩返しの意味を込めたひとつの手立てのように思えるのだった。

平澤かまぼこの店頭

2007.10.08 撮影
「平澤かまぼこ」店は、王子駅の脇にある。

さくら新道のある飛鳥山とは隔たっていて、
途中に駒込から伸びてきた本郷通りの大通りを挟んで、
丁度路地とは反対の位置になる。


飛鳥山とは一段下がった場所になる。
だからこのあたりの駅ホームは高架になっているが、
その下が通りになっていて、いくつかの食堂が並んでいる。

中華、立ち食い蕎麦、焼肉、喫茶店、それにこの店。


店はこの並びの古株で、昼間から賑わっている。

 Sさんは特に親身な方だったが、古アパートに暮らす人達はだれもみな、赤の他人の私を大事に思って本当に良くしてくれた人達だった。

 当時は携帯電話なんてなくて、親が議員や警察のお偉いといった裕福な友人などは黒電話を持っていたが、それはごく一部の例外であって、家電を学生身分で引いている人間など皆無だった。

 まだ、電話事業が「電電公社」で行われていた当時、固定電話の契約には債権の購入が必要だったからだ。確か当時は15万円ほどもしたのではなかったろうか。その債権を引き受けて購入しないことには、電話の名義が登録されず、工事が行われない。

 そうした状況なので、街中には、駅やバス停の横、主要な交差点や煙草屋の前など、いたるところに公衆電話が置かれ、さらに電話を守る電話ボックスが建っていた。

 移動しつつ電話で話すようなことはSFや海外ドラマの中での事としか考えられず、誰もが固定の場所に据えられた電話機から通話した。

 移動電話(自動車電話)は当時もあったのだが、大型の軍用トランシーバーか出力の大きなCB無線機といった形状で、とても使えるものとは思えなかった。当時放送されていた人気TVドラマの「チャーリーズエンジェル」で、チャーリー探偵事務所のエージェントの一人、サブリナが極まれに2シーターのムスタングの中から、管理官といった立場のボスレー宛てに緊急の連絡を取る時に登場するくらい。ドラマ以外でその実物を私は一度しか見ていない。

 家で話せる人なら良いが、部屋に電話が無い若者世代にとっては、そうした街の電話機が数少ない外界への窓だった。主に田舎への連絡やバイト先への連絡といった自発的な連絡は、誰もがそうした公衆電話のお世話になったのだった。勿論、友人への連絡などは出来ようはずがない。(なにせ、下宿や一人住まいをしていた大抵の相手も、例外なく電話を持っていなかったのだから。)

 月末に近い夜など、10円玉をポケットにも詰め込んで、大通りにある電話ボックスへ向かったものだ。田舎への無心のためで、それは切羽詰った連絡だ。街中の電話の前に幾人かの学生と思しき人達の列が出来るといった光景は、月末になると良く眼にする風景だった。
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 そうした状況なので、私はSさんの好意に甘えて、この人の部屋の電話を「呼び出し」で使わせてもらっていた。

 前橋の家族からの緊急連絡に使うためだ。緊急ではなく、単なる様子伺いの打診といったこともあったが、そうしたことも離れて生活する身にとっては大事だった。その電話のあとには、なにかしら元気が沸いてきて、笑顔にもなれたのだから。


 ある日のこと、電話が入っているよとのSさんからの呼び出しがあった。それはアパートで暮らし始めて2年目の春の事で、用事が済んだあとで「XX君も、行ってみるといいよ」とSさんが声を掛けてくれたのだった。

 「そりゃ、すごいよ。なんたって山全部が桜だからね。ここいらじゃ、染井(墓地)の桜も良いけど、やっぱり飛鳥山(あすかやま)が一番だ」と話が続いた。

 どんな様子なのだろうと大分気になって、その時私はとうとう桜見物に出かけてみたのだった。その頃、幾人かの友人が巣鴨や王子に居たので何度か近くまでは行っているのだが、飛鳥山と呼ばれる小高い丘には登ったことが無かったのだった。

平澤蒲鉾の店頭


狭い間口で、カウンターだけの店舗だが、
いつも数人の客がそこに取り付いている。

コップ酒を飲んでいる人が多いが、
たまにビールを飲んでいる親父さんもいる。


2007.10.08 撮影
北区の地酒 銘酒<真澄>
北区の地酒 銘酒<丸眞 正宗>
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 飛鳥山は、江戸を代表するさくらの名所だ。

 当時のそこの桜がソメイヨシノであったのか、それともエドヒガンや山桜だったのか判らないが、今の飛鳥山の桜は皆、ソメイヨシノの樹木だ。その名の「ソメイ」は「染井」であって、駒込の裏の染井がそのさくらの種の発祥の地だ。植木職人が多く住んでいた土地柄である。

 飛鳥山は桜の名所として親しまれているが、「吉宗(よしむね;八代将軍)」の代に享保の改革のひとつとしてこの山の桜が整備(1000本が植樹されたという;現在は650本)されて、江戸庶民の娯楽の場となったという。将軍肝いりという事もあってか、この地は当時、江戸を代表する一大行楽地であった。

 近くにはこれも名所の王子稲荷があって、昔から参拝客が絶えない土地柄だった。どちらも風光明媚な野趣溢れる様子が好まれて、浮世絵にも良く描かれている。

 江戸名所図会や「葛飾北斎(かつしか ほくさい)」の描いた様子、また名所百景(「飛鳥山北の眺望」)における「歌川広重(うたがわ ひろしげ)」の絵などでは、そうした飛鳥山の様々な姿が愉しめる。

平澤かまぼこのおでん (単品注文)
2011.02.11 撮影


ここの常連さんは、
一般人の時間割り
とはまるで無関係。


まだ昼前だが、
皆さん、
もう大分いい調子に
なっている。
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 昭和の時代は、随分と遠くへ行ってしまった。

 駒込にあった、私が過ごした古アパートは平成になってすぐに取り壊されてしまった。戦後直ぐに建ったのであろうから、充分に世間に尽くしたといえるだろが、その後は改めて整地されてマンションになっている。アパートの前にあった木工所も併せて無くなってしまっていた。

 近くに引っ越してからの2年間、私は狭い路地の奥にあった別の銭湯に通うようになって、以前の風呂に行く数は極端に減った。

 でも、新しく移ったアパートから駒込駅へ向かうには、狭い路地が近道で、最初に住んだ懐かしいアパートの前を通ることになる。そうしてその道を通っていると、何度かSさんと顔を合わせる事があった。銭湯が休みのときなど、以前の風呂屋に行った際にもSさんに偶然に行き会ったりした。

 Sさんは何時会っても私の挨拶に笑顔で答えてくれた。そして必ず、「XX君、元気かい?」と明るく声を掛けて励ましてくれたのだった。

飛鳥山の様子

飛鳥山の様子    2011.02.11撮影

頂にある児童公園 (渋沢邸跡の横手)
渋沢記念館の清淵文庫

飛鳥山の頂にある渋沢記念館の清淵文庫 2011.02.11撮影
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