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2008.01.27
♪ 梅めは咲いたか、桜は・・・

アクセス;
 さいたま市中央区;  大宮第二公園 梅林

カメラ;
 PENTAX K10D

レンズ;
 PENTAX DFA100mm F2.8 マクロ
 PENTAX FA43mm F1.9 AL Limited
 PENTAX FA135mm F2.8

 PENTAX M200mm F4.0


三脚;
  K10D:カメラの手ぶれ補正にて、三脚は不使用

 (画像添付時に約70%程度に圧縮)


 あと一週間ほどで二十四節句でいう「立春」となる。

 もうじき暦の上では<寒中>が終わる。春の訪れにはまだ時間が掛かるだろうが、なんだか今日の日差しは暖かく、こころなしか春めいた感じがする。
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蝋梅(ろうばい) 蝋梅

蝋梅(ろうばい)  公園への道脇で咲いていた

 先週出掛けようとして断念した「大宮第二公園」へ行ってみた。窓から差し込む日差しが温かかったので、のんびりと自転車でポタリングして来た。

 いざペダルを漕ぎ始めてみると、耳に当たる風が冷たく、まだまだ大分春には遠いことを体感した。けれど、自転車を降りて歩いてみると、感じていた強い風もそれほど気にならなくなった。

 「三寒四温」とはよく言ったもだと思う。

 昨日は仕事で帰宅が遅くなって身を切るような寒さで堪えたが、その寒さから考えると、今日の日差しは大分暖かいものに変わっている。季節はこうして一歩づつ、春に近付いて行くのだろう。ただし、温かいからとはいえ、油断は大敵だろう。散歩などでの撮影を考えると、まだ少し厚着のままが良い。
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大宮第二公園の梅林
FA135mm F2.8   1/320  f8.0

 「大宮第二公園」には梅林(2007.03.04 「春を告げる」)がある。

 梅林の中に植えられた梅で、咲いていたのは僅かに3本ほどだった。まだまだ、多くの梅が咲き揃うにはあと一週間ほどは掛かりそうだ。

 今日咲いていたのは、寒さに強く早咲きの「八重寒梅」だ。この梅林には他の種類も沢山あるのだが、皆まだ硬い蕾みの状態だった。

 今年も、来る2月の連休には「梅祭り」が開かれるが、あと二週間あれば大丈夫だろうと思う。だから、混まずに見頃となるねらい目は、丁度来週くらいだろうか。
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八重寒紅梅 八重寒紅梅

 さて、古くから「花」、と言えば梅のことを指した。

 遠い昔、年中行事のお花見といえば、それは「梅見」のことだった。

 「余暇として花を愛でる」という文化が根付くのは平安時代(794年-1185年頃)辺りから始まる習俗だろが、当時の花見は中国(奈良時代の隋やその後の唐)や半島から伝わったもので、一部の上流貴族社会の基底に流れた舶来賛美という意味が強い行事だった。唐から伝わった「梅花」(花そのものと、花を愛でて宴を張る行為)が大陸文化を象徴するものだった。

 後にその位置を「桜」に譲ることになるのだが、平安期の貴族社会では、単に「花」と言った場合、それは「梅」の事を指したのだった。そして「春の宴」もやはり梅花が主役の重要な行事だった。和歌の世界でも梅を詠んだものが数多く残っているのは、そうした背景があったからだ。

 「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花  主なしとて 春な忘れぞ」 は、菅原 道真(すがわら みちざね ; 845−903年)が詠んだ有名な句だ。

八重寒紅梅
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八重寒紅梅 FA135mmF2.8 1/500 f4.0

 「菅原 道真(すがわら みちざね)」は、天神さまとして有名だ。各地の「天満宮」や「xx天神」の祭神として祭られている。

 道真は平安時代の学者であり出自は当時の中流貴族だが、母方の家系は<伴氏>で大伴旅人(おおとも の たびと)や大伴家持(やかもち)らの高名な歌人を輩出している流れである。その系譜からであろうか、あるいは出自による教養からなのか、朝廷の学者と言う実務者の地位にある彼が詠んだ和歌は実に見事なものだ。

 道真は父祖からの不労の荘園領主というよりも文章博士(もんじょうはかせ)という政府の実務的な官僚だった訳だが、当時の貴族社会の教養の高さが充分にその和歌から伺える。文章博士は律令制下の式部省機関「大学寮の教授」で、英才がしのぎを削る当代学者の登竜門としての職制だった。道真も、この文章博士の地位から次第に政府内で累進していくことになる。
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八重寒唐梅

 調べてみると「道真」を祖とする菅一族はその後おおいに繁栄し、菅家七流として各地に広がっている。柳生宗厳(やぎゅう むねよし)や前田利家(まえだ としいえ)などの戦国期の武将、大隈重信(おおくま しげのぶ)などが「菅」一族の子孫・末裔らしい。

 宇多天皇に重用され累進を重ね、「遣唐大使」に任ぜられる。その際に、衰退する唐への派遣中止を建言し、最大の国策だった「遣唐使」は道真によってその幕を閉じる。その後、醍醐天皇の治世となっても依然昇進を続けて正三位権大納言に叙任し、右近衛大将・中宮大夫を兼任する。学者というイメージが強いが、こうしてみると大変な政治家であり、国を支える官僚だった。

 ちなみに右近衛大将:「右府」といえば、後の鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとの よりとも:源氏)や室町幕府を開いた足利尊氏(あしかが たかうじ:源氏)、幕府は開かなかったが戦国時代に終止符を打って天下統一を目前とした織田信長(おだ のぶなが:平氏)と同じ最高の官位だ。武家政権の誕生はずっと後、1186年の鎌倉時代の幕開けまで待たねばならないが、行政府として「幕府(独自の政権)」を開ける事のできる官位であり、律令制下の貴族階級として最高位ということだ。

 さらに官位が進んで従二位となった後、彼の運命が一転する。政争に敗れて大宰府へ左遷される事になるからだ。そして、さらに失意の内にその地にて没する運命が訪れる。

 都での栄華を誇った道真がひっそりと葬られた地が、現在の「大宰府 天満宮」の地だ。

八重寒紅梅
FA43mm F1.9 Limited    1/2000   f3.5
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白梅 白梅

 道真の没後、都では超常現象が続く。

 疫病や日照り続きの異常気象などといった不吉な出来事が続発し、人々は「道真の崇り」として恐れ出すのだ。皇子が次々に病死したり、御所(天皇の御殿であり政治の中心)の「清涼殿(せいりょうでん)」への落雷で朝廷要人の多くが死傷したり、道真の死を境として数多くの事件が続発しだすからだ。

 平安時代の京都は、いわゆる「怨霊社会」という特性を持っていた。国家を運営する偉大な政治家であった道真は、死した後、一転して都を襲う最大級の怨霊となり果てたのだった。そして、京の都は多くの崇りに見舞われ続ける事になった。

 この崇りを恐れ、彼の荒ぶる魂を鎮めるため、没後にも関わらず「正一位左大臣」「太政大臣」などの究極の官位がさらに相次いで贈られる。

 だが、それだけでは力強い道真の怨霊を鎮めることができず、人々はさらに彼を崇めることになる。
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白梅 白梅

 清涼殿(せいりょうでん)への落雷は怨霊の仕業とされ、元々崇められていた「雷神」と結びつけて火雷天神として道真を祭る事になるのだった。そして遂に京都の北野の地に道真の魂を祭るための「天満宮」が建立されることになる。

 彼は畏怖の対象としての「怨霊」から一転して、神となり崇められる事になった。さらに「大宰府天満宮(だざいふ てんまんぐう)」が、こうした道真の怒りを鎮めるために墓所に建立され、以後、道真は強い力を持った神として崇拝される続ける事になる。

 太宰府天満宮、北野天満宮、綱敷天満宮(つなしき:神戸)の三大天満宮をはじめとして、大阪天満宮、湯島天神(東京)、亀戸天神(かめいど:東京)、など、各地に本宮並みの天満宮があり、さらには、その数一万社と伝わる「天神さま」として日本各地で祭られている。

 その霊験はあらたかで、今もご利益は健在とされている。ただし、学者としての色彩だけが強調されて、学問・受験の神としての色が濃くなって、今では火雷天神の印象が薄くなっている。

 彼が愛した「梅」が、これらの神社に彩を添える。

追記;
太宰府天満宮、北野天満宮ともう一つを大阪天満宮とし、三大天満宮とする場合もあり、このあたりは諸説あるらしい。いずれ劣らず、由緒ある大きな社殿を持っている立派な神社だ。(残念ながら、私自信は湯島と亀戸しか行ったことが無いのだが・・・。)
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八重寒唐梅

 頂点へ向かう最中に政争に敗れて、栄華を極めた都を後にして遥かな九州の果ての大宰府へと赴かねばならない運命の変転。

 「防人(さきもり)の歌」などで、その地への赴任の悲壮感が多く伝わっていることでも想像ができる。「宰府」は地方の統合行政府のようなものだが、繁栄した都からすれば地の果てとも言える土地だったろう。望郷の念に近い思いと、失った権力への惜別が相当強かったに違いない。

 その想いは強い怨念となり、その強さから国を滅ぼす緒ほどの「怨霊」として災いを起こしても、何ら不思議ではないと周囲からは信じられたのだと思う。こうした当時の人々の対応振りと周囲の思惑から、逆に本人の想いの深さが伺われよう。
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玉光

 「東風(こち)吹かば にほいおこせよ 梅の花   主なしとて 春な忘れぞ」は、都落ちの際に詠んだ句だという。この歌にあるように、彼はこよなく梅を愛していた。没したときに、京の都に残して来た梅が大宰府の屋敷の庭へ一晩で飛んできたという「飛び梅 伝説」が有名だ。

 たとえ主がいなくなったとしても、春の訪れで梅の花は咲く。その摂理は判っていても、可愛がっていた主人が居なくなっても以前どおり見事に咲いて欲しい、と願うのだ。春風が吹いてくれば、都に残した梅の花の香りが遥かに遠く離れた道真のなかで、多くの思い出と共に、そこにあるかのように広がったのだろう。
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ひこうき雲 見沼代用水への調整池

 さて、大宮公園だ。

 梅林がある「大宮第二公園」からは、そのまま氷川参道(ひかわさんどう)側へ戻らずに、「見沼代用水」に沿って広がる「大宮第三公園」へ行ってみた。

 ここは、全体が広い芝生の広場となっていて、その外側に湿原が模されている。見沼の原風景を残すという意味がある「みぬまの池」の湿原は、このあたりでよく見かける葦原となって再生されている。秋の間は見事なススキの茂る原だったが、今はそれもすっかり枯れている。

 昼に近くなって、大分強い風が出てきた。葦やススキが風に煽られてたなびき、日差しを受けて白や金色に輝いていた。

大宮第三公園の芦原
FA135mm F2.8    1/1600 f4
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サクラソウ サクラソウ

 帰り道で小さな路地に入ってみたら、道脇に沢山の「サクラソウ」が栽培されていた。

 花壇ではなく、家の前一杯に鉢が並べられていた。東京の下町の路地裏と同じく、細い道沿いに家々のガーデニングが続いている。アパートでも長屋でもなく、それらはみんな一戸建てなのだが、花々は庭ではなくなぜか道路上に飾られている。


 逆光にサクラソウの花弁が透けて、見事な様子だった。

 浦和には、「秋ヶ瀬(あきがせ;荒川の河川敷)」にサクラソウの自生地が残っている。地域の人たちが早くから保護活動をしていたためだ。今では栽培種ではない天然のサクラソウは、もうそこでしか見られない。

 サクラソウは、丁度今頃が見頃なのかも知れない。

金柑
FA135mm F2.8   1/2500 f3.5
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