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2009.05.10
プリンセス達の饗宴;バラが咲いた

アクセス;
 さいたま市  与野公園(よのこうえん); JR埼京線:与野本町より徒歩

カメラ;
 PENTAX K10D

レンズ;
 PENTAX DA35mm F2.8 LIMITED マクロ
 PENTAX DA70mm F2.4 LIMITED
 VOCTLLENDER ULTRON SL40mm AL F2.0

三脚;
  K10D:カメラの手ぶれ補正にて、三脚は不使用

 (画像添付時に約70%程度に圧縮)


 この時期に咲く薔薇は素晴らしい。秋咲きの薔薇(2008.09.27 「秋晴れの薔薇(与野)」)も捨てがたい魅力があるが、春の薔薇には独特の<華やぎ>がある。これから鬱陶しい梅雨に入る前の、安らぎが溢れている。

 そんな薔薇の花のことが気になって、与野公園へ出掛けてみた。いつもこの時期に訪れる与野公園内にある「ばら園」(2007.05.13 「咲き誇る薔薇(与野公園)」)だ。

与野公園の樹林
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与野公園の樹林 積もった綿毛

 「ばら園」へ行く前に公園内の樹林帯を散歩する。

 何かしら、綿毛のようなものが飛んでいた。飛ぶ、というか頭上から次々に振り降りてくる。その数はまるで満開の桜が散る様子に似て、飽くことなく続いて降ってくる。

 地上を注意すると、降って来た「綿毛」が積もって、所々、白くなっていた。

 長年、木々に親しんでいるが、こんな事は初めての経験だ。与野公園の森は広葉樹の太い木が幾本も植えられて大樹となり、中央部分は度の樹木も大きく枝が張り出して地上を覆っている。状態としては疎林の形で、木に囲まれた明るい広場のようになっている。その外周には学習を兼ねて、名前と簡単な説明が付いたプレートが掛けられて様々な樹が植えられている。

 広場を兼ねたこの中心部の木々は単相で、「クヌギ(カシかも知れない)」の樹が多いようだ。

 そうしてみると、これは「クヌギ」の樹木が放つ花粉なのだろうか。
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プリンセス・ドゥ・モナコ

 春の薔薇は美しい。秋咲きの落ち着いた姿でもいいが、それとは一線が違っている。

 その様子は、華やかさに満ちていて「今、咲きました」と誇らかに宣言しているような雰囲気に包まれた、躍動感とでも表現できるような独特の生命感に溢れている。
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プリンセス・ドゥ・モナコ

 だから、この時期、私は咲いている薔薇のことが気に掛かる。今年はいったいどんな風に咲いているだろうと、期待で心を一杯にて「ばら園」へと足を運ぶのだった。

 元々、薔薇の花は大好きで、私が遥かな昔、中学生時代の美術部の頃に描いた最初の油絵は「バラの花」をモチーフとしたものだった。

 あの折り重なる花弁の様子を描きたかったが、出来上がった絵は「高島屋」の包装紙の中のバラのように平板で、中途半端なものになってしまった。そうしたトラウマが残っているが、依然、薔薇の花が大好きだ。

プリンセス・ミチコ
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 高貴、清廉、というのが私が抱くこの花のイメージだ。必ず数輪で咲いているのに、なぜか真紅の花などを見ると「孤高」という言葉までもが浮かぶ。

 一株の全体がまとまった状態ではなく、一輪だけで完結している美しさが、この気品溢れる花にあるためだろうか。

プリンセス・ミチコ プリンセス・アイコ
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メリナ

 「野ばら」という歌がある。

 だけれども、私は今まで、野生に咲く(つまりは自生した)薔薇の花を見たことがない。その花は、必ず作為されていて、野に咲く姿というものを見たことがないのだ。この世界に、本当に「野ばら」などというものが存在するのだろうか。

 どうなのだろう。もし、山野を歩いていて、山間で目にする「山ツツジ」のように林間に忽然と野生の薔薇の花が咲いているとしたら・・・。あるいは、谷あいの低湿地(しめった環境を好むはずが無いが・・・)に一面に広がって薔薇が咲いているのだとしたら。

 その姿は、花自体の美しさを奪うほど、一種異様なものではないだろうか。

ピエール・ドゥ・ロンサール ピエール・ドゥ・ロンサール
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アンネの日記 アンネの日記

 花壇に溢れて咲く薔薇を順番に観ていくと、その中で「アンネの日記」というおよそ華やかなバラには似合わない名前が付いている株を見つけた。

 プレートには、この品種の来歴が記されていた。ドイツ占領下で過酷な運命を辿った「アンネ・フランク」の記した話は、世界を超えた誰もが知っている。その父オットーに関しては余り知られるところがないが、私はその花の説明を読んで、美しく可憐に優雅に咲くバラの花を見ながら暫くあいだ、物思いにふけったのだった。

 昭和は凄惨な大戦の時代だ。我らが世紀を超えて、このバラが残ることを願って止まない。
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ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ 薄倖の皇太子妃の名前が付いた薔薇

「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」

アメリカ産(1999年)とプレートにある。

97年に亡くなった後、
品種が作られ彼女に捧げられたものか。

 交配を重ねて品種を改良され続け、現在のような大型の花弁を持つ花となったものが、薔薇園という環境下のスケールの中でこそ手頃な大きさのその花が、自然の中で咲いていたとしたら・・・。

 それはやはり周囲の風景とは、そぐわないように思えるのだ。溶け込めずに異様な姿となったバラを目にしてもなお、やはり同じようにそれを私は美しいと感じられるものだろうか、と。

 区画割を整然と行われた「ばら園」という環境、あるいは家庭の小さな庭にあるから、安心して観ていられるのだろう、と思うのだ。

ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ
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 私が見る薔薇は、いつも人手で丁寧に、愛情をこめて丹精されたものだ。

 たとえ、実家の庭に咲くものであっても、やはりほったらかしの状態ではない。肥やりやアブラムシ採りなど、必ず何らかの人手を介した世話を受けているはずだ。

プリンセス・チチブ リオサンバ
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ウィミィ リオサンバ

 薔薇は持ち主の愛情を一身に受けている。その愛情が深いがために、美しく咲くことで答えるのではないだろうか。

 人はそのことが判っているから、美しい薔薇を目にするとそこで費やされた愛情の深さや想い入れが伺えて、更なる喜びが沸いてくるのかもしれない。
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