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2010.03.13
荒川から行田へ(古代史の町を走る)

走行距離;
 78km ;走行時間 4時間40分

        往路;JR武蔵野線 「西浦和」駅に集合
            「荒川サイクリングロード」にて
                浦和・与野・大宮 > 上尾 > 桶川 > 北本 > 鴻巣 > 行田

        復路; 行田 > 北鴻巣 (高崎線)


カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24−72mm F2.5−4,4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)


 前回の企画(2010.02.06 「多摩川CR(サイクリングロード)」)では、荒川から離れて多摩川サイクリングロードから「青梅(おうめ)」の街へ行って懐かしき昭和レトロの世界を楽しんだ。

 そんな企画から今回は一気に時代を遡り、古代史の舞台を訪れる。

 「荒川CR(サイクリングロード)」から「県央ふれあいんぐロード(自転車専用道路)」を中心に、桶川・北本・鴻巣と走り、「行田(ぎょうだ)」を目指すという内容だ。少し距離があるが、帰りはJR高崎線の沿線を戻るので、途中からの輪行を想定している。

出発(西浦和前のロータリー)  出発のJR「西浦和」駅前ロータリーにて。
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 さて、今回の起点はいつもおなじみの「西浦和」駅。ここはJR武蔵野線の駅で、荒川CRへ抜けるには最短距離の場所になる。

 ここから終点の行田までは、およそ60Kmといったところだろうか。

荒川CR(入間川と荒川の合流地点)

入間川と荒川の合流地点の手前なので、河川敷は実に広大だ。このため、ここに架かる「上江橋」も実に長い。

<予定コースの概要 − 荒川サイクリングロードから行田の街へ>

 西浦和から「道満(どうまん)」脇へ出て、「秋が瀬(あきがせ)」沿いに荒川土手を進む。

 そのまま浦和、与野、大宮と「荒川CR」を走る。この日は晴天に恵まれて、CR上では多くの自転車が行き交っていた。

 河川敷に広がる運動公園を抜け、大宮から川越に向かう国道16号線の橋「上江橋」を渡り、入間川との分岐地点から改めて河川敷に降りる。

 長く続く橋の中ほどにスロープがあって、入間川の脇へと降りることができる。上尾のあたりで入間川は荒川と分かれて川越方面へと曲がっていくので、私たちはそちらへは向かわずに荒川河川敷の土手に沿って直進する形となる。

 CRは「桶川(おけがわ)」からさらに直進していく。コースは桶川から「北本(きたもと)」へと続き、そのまま「吉見(よしみ)」へ向かい、さらに最後は武蔵丘陵へと続いていく。

 今回の私たちは吉見とは逆方向に道をとって、「鴻巣(こうのす)」を抜けて「行田(ぎょうだ)」のまちを目指す。要するに川沿いに進むわけだが、ほぼ中山道に沿って関東平野を北上していくことになる。僅かに登り勾配なのだが、斜度は無いに等しい。むしろ北西から吹き込んでくる季節風が進行方向からの強い向かい風で、それがコース上の強敵といえよう。

 鴻巣からは「さきたま緑道」という遊歩道が行田郊外に広がる古墳群まで続く。緑道は新幹線の高架下や川沿いに続き、その道幅は意外に広い。サイクリングロードから国道を横切るまでが車通りがある程度で、緑道に入ってしまえば、そこは歩行者と自転車の専用道路なのでゆったりとしていて、車を心配する必要がなく安全な走行ができる。
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荒川CR

<コースの実走>

 「上江橋(かみえばし)」の中ほどから、荒川と入間川の岸沿いの土手道へ降りる。

 その場所は荒川と「入間(いるま)川」が合流する地点で、中洲状になった土地を挟んで、大きな流れが二筋続いている。

 CRは荒川よりもむしろ入間川の左岸側の土手上に続く。ここは、自転車専用の通りだが、次の橋からは一般車両が土手道にどんどん入ってくる。進行方向右が荒川に架かる「開平橋」で、左が入間川に架かる「入間大橋」と2本の大きな橋が架かっている。

 2本の橋として命名されて入るが、車道を走っている限りは一本の長大な橋が続くとしか思えない。

 上江橋から入間大橋の手前までは、土手を染めて菜の花が盛んに咲いていた。黄色い絨毯とも思える色の帯がずっと繋がっている。上江橋から入間大橋までの間は、河川敷のゴルフ場やモトクロス場などが両側に広がる。ここには車が入ってこないので、春先の河川敷の風景を楽しみながらゆったりと走ることができる。

 橋を抜けると、大型のダンプが行き交い始める。この土手道は県道339号だ。国道122号線で藤岡や寄居(秩父)方面から走って来た場合に川越の市街地の混雑を避けて大宮方面へ向かうための抜け道になっている。だから、河川敷とはいえ道幅を塞ぐような大型のダンプカー(砂利トラや配送車)が容赦なく盛んに走る。

 入間大橋を超えて「川田谷(かわたや)」への道に入るまでの道は、コース最大の危険地帯だ。短い距離だが行き交う車にはだいぶ神経を使う。
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荒川CR 上尾付近 橋の下を抜けて近道する

 次にコース上に現れる大きな橋は、桶川と川越への県道を結ぶ「太郎右衛門橋」だ。少し前の、桶川ポタリング(2009.11.07 「秋の武蔵野を走る」)の際に、桶川から夕闇迫る川越に向かう際に走った長い橋だ。

 橋の手前には、民間飛行場の「ホンダエアポート」がある。

 ちょうど、後続する仲間を待っていて遠いエンジン音が聞こえて来た。真上を見上げたら、小さな点が天空から降って来た。その小さな点のいくつかがパッと花開いた。スカイダイビングでのパラシュートがちょうど頭上で開いたのだった。

 「ホンダエアポート」は飛行場なのだが、ここは旧軍の滑走路があった場所だ。飛行学校があり、熊谷の陸軍飛行学校の分校「桶川分校」として活動した跡地だ。橋を桶川へ向かって渡ると、そのすぐ袂に学校の旧舎が残っている。常時開放されていて自由に見学することができる。
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スカイダイビング! 陸軍「熊谷飛行学校 桶川分校」跡

 「第二次世界大戦」期、関東各地に散在していた陸軍の飛行隊は次第に整理・統合されていった。「熊谷飛行学校」として活動し飛行訓練を行っていた「桶川分校」もそのひとつであった。

 大戦末期、飛行訓練学校としての性格を一変させて、この分校は特攻隊員養成のための訓練基地となる。

 陸軍特攻隊の航空基地としては鹿児島南端の「知覧(ちらん)」が有名だが、ここで訓練を受けて知覧に行き、特攻隊員として戦死した軍人は12名に上るという。

古い小学校校舎のような建物 桶川飛行学校 跡
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 飛行学校跡からは「太郎右衛門(たろえもん)橋」を渡って荒川CRへ戻らずに、そのまま荒川左岸を北本に向かって北上することにする。

 荒川の左岸には、細いサイクリングロードが上尾から続いている。「県央ふれあいんぐロード」がそれで、上尾、桶川、北本へと荒川左岸のすぐ脇に、細いコースが続く。

北本(きたもと)付近 県央ふれあいんぐロードの案内版

<北本・鴻巣方面へ 荒川CRを進む>

 桶川から北本へは「県央ふれあいんぐロード」の細いコースを進むが、時刻は昼を過ぎていてそろそろ食事を考えなければいけない。

 川沿いの道は時たま吹く向かい風を無視すれば概ねは快適だ。だけど、道沿いには休憩する場所も目ぼしい店も現れない。やっと「北本自然公園」(2007.05.02 「武蔵野の里山(北本自然観察公園)」)を過ぎてしばらく行って「高尾の森」の辺りで傾斜地に広がる公園が現れた。休憩も考えたが、それなら食事をしながらのほうがいい。

 思いのほかペースが遅くて、随分と時間が掛かっている。休憩と食事を別にしていたら、行田へ着くのが夕方近くになってしまう。コース脇に停車して後続の仲間の自転車が追いつくのを待ってそう心配しながら、土手先を見やると「とんかつ」の看板が目に付いた。たまらずに食事の提案をして、土手を登って目に付いた看板の店へ向かった。
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 コースの確認
メンバー撮影
中仙道

<中仙道を越えて 「行田(ぎょうだ)」へと進む>

 ボリューム満点の「とんかつ」を平らげて、コースへ戻る。

 ゆっくりと食事をしたので心もゆったりし、少し落ち着きが出た。向かい風の中を走り続けた疲れもどうやらとれたようだ。

 ここからは「鴻巣(こうのす)」の街へ向かって川筋を離れて、国道17号を横切って「行田」へ向かう。ここからは、先にコース概要の紹介で書いた「さきたま緑道」が行田市街を迂回して、郊外に広がる広大な古墳群へと続く。

さきたま緑道(鴻巣から行田へ) さきたま緑道
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さあ、古墳へ メンバー撮影

 「さきたま緑道」が尽きると、遠くに小高い丘が見えてくる。

 緑道から直角に並木道が繋がって、その先に古墳群を有した広大な公園が現れる。

 この「さきたま古墳群(2007.07.22 「さきたま古墳群と古代蓮(行田)」)」へは何度か来ているが、こちら側からのアプローチは初めてなので、何だが新鮮だ。

移築、保存された旧家 見えてきた前方後円墳
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<さきたま古墳群>

 8基の前方後円墳と1基の円墳から構成されている。丸墓山、二子山、稲荷山、将軍山、愛宕山、鉄砲山、奥の山、中の山、瓦塚だ。この9個の巨大古墳のうち、丸墓山古墳だけが<円墳>だ。5世紀後半から7世紀初めまでに作られたという。「さきたま古墳群」について調べてみると、今では見ることができないのだが、巨大古墳の周囲には35基ほどの陪臣クラスの小規模な古墳が散在していたという。周辺を圧倒する一大墓所だったようだ。

 この地の「さきたま村」の地名は、「埼玉県」の県名発祥の地だという。「さきたま」の地名がついたのは最近のことなのだろうが、この場所を境界として、太古の昔、古代史を彩るさまざまな出来事があったのだろう。

 このあたりに巨大な古墳が群を成すのは、統一国家の樹立をすすめる大和朝廷と、それにまつろわぬ蝦夷(えみし)の地域のせめぎ合いの地であったからだろう。すぐ先の群馬県の東南部は、製鉄の技術をもった部族の集落が数多くあった。周辺は一大技術基地の様相を呈し、製鉄のための溶鉱炉を示す遺跡が残っている。高度に発達した文化先進地だったが、そこから画期的に生産性を高める鉄製の農機具や、圧倒的な勝利をもたらす鉄製の武具を前進地帯へ供給したのだろう。

 群馬の南部、たとえば私の故郷である前橋南部、実家周辺にもいくつかの前方後円墳が直列に埼玉方向へ向かって続く。「広瀬古墳群」と呼ばれるそれは、広瀬川(ひろせ)や木瀬川(きせ)に沿っている。

 そうした群馬南部から、しばらくの間は目ぼしい古墳がないのだが、それが忽然とこの地に雄大な姿を現す。

将軍塚古墳
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 この地の古墳は多様で、前方後円墳だけでなく円墳も混在しているのが、特徴的だ。

 まるで、周辺にあったタイプの異なる古墳を、この地に移設したような感じだが、これはいったいどうした訳だろう。少し不思議に思う。

 古墳は関東平野のほぼ中央といった場所にあるので、登ってあたりを見晴るかすと、広大な景色が広がる。

 北方を見れば、遠く群馬の赤城山(あかぎ)や栃木の日光連山が見えるし、その横手に見えるのは茨城の筑波山だろう。北西を見ればさらに遠くに子持山や榛名山、ずっと回れば西上州や秩父の山々が見える。そして南面は果てしもなく広大な平野が地平線へと続く。

円墳の上部へ この古墳のさらに横にも、頂部へ登れる古墳がある。

その「丸墓山」古墳は、豊臣秀吉の小田原攻めの際に腹心の冶武少輔(じぶしょうゆう:は官位)「石田三成(いしだ みつなり)」が北条方の「忍(おし)城」を攻める際、 本陣とした場所だ。

三成は秀吉の薫陶を受け、その才により並外れた寵愛を受けた。
だが根本が行政官僚なので、戦は実に下手だった。
「高松城の水攻め」を真似て忍城を水攻めとしたが失敗に終わる。

古墳の横から城を囲む長い堤防を造り上げた。
今に残る「治部堤」がそれだ。
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<本日の旨い物>

さて、ポタリングでの恒例、今回の「旨い物」を紹介しよう。

おろしとんかつ ロース

<旨い物1; 「北本 (究極のとんかつ) かつ膳」>

 荒川河川敷に続く「県央ふれあいんぐロード」を走り、北本自然公園の脇を過ぎた先に大きな橋がある。「日本一の長い橋」と看板が出ているその袂に「究極のとんかつ」と看板を建てた店があった。

 店内にはいると、折悪しく法事のお清めをする団体が広間の座敷にあって、大変な混雑だった。続き間座敷の大広間の横に調理場があり、その横に普通の振りの客が入るカウンターや座敷席があった。その座敷も混んでいたが、丁度私たちが座れるほどのテーブルが空いていた。運よく6人が陣取る事ができて、美味しい「とんかつ」を堪能できた。

 前にどこかで触れたが、我が家では幼少のころより「とんかつ」は物日のご馳走だった。その記憶が染み付いていて、今でもカツは大好物だ。

 この日、食べたのはもちろん「ロースかつ」。定食でサラダや香の物がついていた。さくっとした衣もいいし、もちろんロースの味も良かった。値段もちょっと考えられない低価格。いいこと尽くめで、美味しいカツが愉しめた。
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お勧めのもつ煮 湯豆腐

<旨い物2; 鴻巣駅前 「?」の 蕎麦>

 鴻巣の駅前には、みごとな桜が咲いていた。

 「河津(かわづ)桜」だ。熱海の先、河津を発祥とする早咲きの桜が植えられていて、見事に満開だった。

 大宮などは東京都と開花時期は変わらないが、まだ一月ほど先、四月初旬になるはずだ。桜の木の下にベンチがあって、ここで休憩というのも悪くはなかったが、駅前で店を探す事にした。

 残念なことに店の名前を忘れてしまった。

 夜は半ばスナックの様相となる店内は、小奇麗で寛げる。湯豆腐と「特製モツ煮」その他いろいろと注文した。もつ煮の汁が残ったが、仲間がご飯のセットを注文しそれにかけて食べていた。ご飯のセットには充分すぎるお新香と味噌汁が付き、それに掛けた汁が染みて実に美味しそうだ。今後は私も実践してみようと思った。

 最後は「手打ちそば」でしめたが、つゆがしっかりとしていてそばに良く合っていた。

お勧めのもつ煮 手打ち蕎麦
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