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2011.09.04
氷川神社を巡る

走行距離;
 18km ;走行時間 1時間35分

カメラ;
 RICOH GR−DV 28mm F1.9

本日の自転車
 ESCAPE R3  (GIANT)

 (画像添付時に約30%程度に圧縮)



 新春の与野七福神のお参り(のんびり 行こうよ: <20110108:与野七福神めぐり>)のご利益は早くも消え果てて、どうも今年は悪いことが続く。

 梅雨時の頸椎の痛みは毎年の苦しみなのだが、今回は久しぶりに腸の様子がおかしくて、どうにもならない状態が続いているのだった。

 最初は胸やけや胃の痛みにしばしば襲われ、それが最悪の状態で吐き気を伴ってやってくる。そうした具合なので、何時もの胃炎だろうと思ってサクロンなどの市販の薬で誤魔化して過ごしていた。それがしばらく経つと胃だけではなく、とうとう下腹部の痛みを伴い始め、夜中に何度か痛みに襲われて目が覚める状態にまでなって来た。

ほこすぎ橋

さいたまスーパーアリーナ横の「ほこすぎ橋」

川や水路ではなく、何本も走るJRの線路を越えるための物。

この場所では
ここ数世代の仮面ライダーや戦隊もののヒーローたちが
襲い来る悪役を日夜倒している。
氷川参道の入り口
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 朝の通勤列車でも、急に痛み始めて途中で降りたり、場合によっては家へ引き返したり、という事が何度か起こった。

 いくらなんでもこうなってしまってはお話しにならないので、胃腸科・消化器科の主治医(いつもの頼れる先生)のもとを訪れて相談したのだった。

 胃炎や十二指腸潰瘍、胃潰瘍、などで軒並みお世話になって、数年前にはそうした根源を絶つために「ピロリ菌の撃退」もして頂いたのだった。

 だから先生は私以上に私のお腹については把握されているはずだ。痛みは週に2度程やってきて、痛みが無い時でも○痢が続いていた。その症状はもう2ヶ月ほども継続しており、一向に回復の兆しが訪れない。受診してでた先生の診断は「過敏性腸症候群」というもの。

 xx症候群という病名は、要は原因が不確かだが明確な症状は現れていて、しかもそれが継続する場合に良く使われるものだ。そのため、私は先生にナニが原因でどうすれば緩和、あるいは回復するのかを突っ込んで尋ねてみた。

 症状が継続しているという状態から思われる主要な原因は「過剰なストレスが主なものだろう」ということだった。そのストレスの要因は身体的なものに由来する部分もあるし、精神的な面もあるという。

 処方は腸の働きを活発にするのではなく、制限する方向での整腸薬。それに痛み止め用の頓服と緊急時の○痢止めも出た。

 痛み止めなどは服用すれば15分程で効果が現れるが、それだけに連続での服用はNGで、少なくとも6時間以上は空けないといけない。

見沼田んぼ 芝川支流の見沼西縁水路 芝川支流の
見沼西縁 水路
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 最初の症状が出てから2カ月を過ぎ、週に一度は痛み止めを服用する状態が今も続く。

 勿論、処方された薬はきちんと継続して飲んでいる。が、しかし、一向に体調は改善する気配がない。そうした症状と回復しない苛立ちが新たな引き金となって体力的にひどい状態が続いている。そのため、どんどん気持ちが塞いできて、気持ちのありようも出口のない暗さに包まれてしまう。

 先日は、こうした負荷に堪らなくなって、余暇を楽しもうとして使い慣れたアルコールバーナで失敗してしまった。燃料用の高揮発性のアルコールに引火し、燃料が手にもかかった状態で火が走って、右手の甲に全治3週間のやけどを負ってしまったのだった。

 弱り目に祟り目。 ・・悪いことは、どんどん重なって来る。

芝川の支流(見沼西縁水路) ホテイアオイ

ホテイアオイが浮かぶ見沼代用水 西縁用水脇の水路

 「何か、改善の糸口を」と思った。

 このままこうした負の悪しきスパイラルの中に封殺されてしまっては、さらに悪いことに見舞われるだろう。

 体調が悪いので長時間の歩行が必要な山歩きにも行けないし、少し遠出をするような自転車行も難しい。不調な体に引きずられて、もどかしさが広がって、気持ちのありようも次第に暗くなるばかりだ。

 そして気分が晴れる事は滅多になく、どんどん悪い方向に物事が進んでいく。このままで良いはずがない。何か負の方向を変える切っ掛けを見つけて、籠った気散じをしなければならないのではなかろうか・・・。

 そこで考えついたのが、神仏へのご加護を求めて、改めて氷川神社(2008.11.23 「大宮氷川神社の紅葉」)へお参りするという事だった。日高の高麗(こま)神社が私にとっては一番のご利益がある場所なのだが、今回は住まっている地元を大切にし、すがってみようと考えたのだ。

  大宮にある氷川神社(2007.11.25 「氷川神社をめぐる(北与野、大宮)」)は武蔵一之宮、その霊験はあらたかで、多くの信仰を集め、参拝客は後を絶たない。

 氷川神社は、大宮(大きな「お宮」のある土地)の名称の発祥となった社であるから、勿論、大宮市街地から程近い市内にある。その神社と呼応して、関連する社が浦和にある。こちらは市街ではなく、浦和の郊外であり、「見沼代用水」の西縁水路(芝川の支流)沿いの段丘上にひっそりと佇んでいるものだ。

 「氷川女体神社(ひかわにょたいじんじゃ)」という。大宮の氷川神社はご神体が須佐之男命「スサノオ)の命」であり「男体」格で、こちらはその妻の「奇稲田姫(クシナダヒメ)の命」がご神体なので、女体ということらしい。どちらも実に古い縁起を持っている。

 秋分の日に、この女体神社と大宮氷川神社、それに遥か群馬に鎮座する活火山の浅間山が、日の沈む方向に一直線に並ぶという。遠い昔、氷川女体神社は氾濫を繰り返す芝川や見沼を抑える役割を担って建立されたらしいのだ。
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芝川支流の見沼西縁水路脇の休憩所 水路脇のサイクリングロードに咲く百日紅

 さて、その神社への経路を説明しよう。

 我が家からは、すぐそばの「さいたま新都心」へ向かい、その脇をJRの線路に平行して流れる小さな川へと進む。これが大宮の市民の森から氷川神社の横にある大宮公園の脇を流れて来て、さらに蛇行して見沼田んぼの一帯に流れ降っていく。河川としては見沼田んぼの中央を流れる芝川の支流で、西縁水路と呼ばれるものだ。

 まずは、さいたまスーパーアリーナの脇の「ほこすぎ橋」から幾本も走るJRの線路を越えて、氷川神社の参道入り口へ向かう。

 旧17号(中仙道)から斜めに繋がる参道の入り口を入って行かずに、中仙道と直交する住宅街へ向かう道(カタクラパークの横の道)を進んでいく。住宅街を抜けるとすぐに段丘が終わって崖状になり、坂道の下に川が現れる。同時に視界がぐっと開けるが、そこから広がるのが関東最大級の耕地面積を持つ「見沼田んぼ」の一帯だ。
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 稲田などの田園風景が視野一杯に広がっているが、その一帯の縁取りとなる段丘脇に川は流れている。流れの終焉まで行けば東浦和の「見沼通船堀」に至る。流れに沿って降っていくと鬱蒼と茂る木立ちがあって、そこに大きな公園がある。その樹林帯の正体は神社の杜であり、「氷川女体神社」が祭られているのだ。


 一旦、氷川参道を走って大宮公園まで進んで、さらにその先の「市民の森」まで行ってから、川沿いに戻ってくるという方法もあるが、今回は氷川参道の入り口を起点としてピストンする形を取って、両方の社へお参りすることにした。

 本来は、厄払いの祈祷をお願いするのが筋であろうが、手元不如意という拠所ない理由もある。このため、今回は信心を持ってお参りして、その霊験のご利益に改めておすがりしようと考えている。

 そしてその力で、この妙な状況を乗り切ろうということだ。

氷川女体神社 水路周辺の案内
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 見沼代用水 西縁の用水路沿いは美しく整備がされていて、すぐ脇には細いが舗装道路が通っている。

 川の土手脇にその道路はあり、ほぼ全域が舗装されているが、一部(与野本町から南浦和あたり)の流域はバラス道で、どちらかといえばご近所の方たちの散歩向けのコースになっている。

 「市民の森」からずっと、桜の木が植えられていおり、今の季節は桜の根元に彼岸花が列をなして咲いている。

 季節を問わずに、爽快な道であり、自転車で走る人も多い。一部区間は自動車も通るので注意が必要だが、おおむね安全にのんびり走る事が出来る、気持ちの良い道である。

 「女体神社」は古式蒼然とした佇まいで、本当にひっそりとしている。

氷川女体神社 神社への太鼓橋
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 訪れてみるとはっとするが、社の周りの空気感が辺りとは違っていて、何かしら頼りになる力強さを感じる事が出来る。

 「ふるさとの森」と呼ばれる神社の森の深い木立ちが取り巻いているためだ。この森はクス、シラカシ、モチ、ヒサカキなどによる広葉樹林であって、そうした事も関係しているのかもしれない。

 脇にある「見沼氷川公園」とは大差が無いはずなのに、そこにある空気の重みが明らかに違うことに気付くだろう。

 神社を訪れるとともに川を挟んだ見沼氷川公園は気持ちの良い公園で、神社の境内に劣らない樹木に囲まれている。そちらで寛ぐこともできるし、この公園の中は以外に広いので、辺りを少し歩いても良いかもしれない。

 走ってきた道は川の流路脇なので、そこは、見沼田んぼの縁であり、その横は河岸段丘が続く。神社の鳥居は、その段丘上にある。だから境内は見上げる崖上にあって、その下、今たっている川脇の道から神社は、だから見上げる位置関係にある。

 この見沼田んぼ一帯にある神社(東縁側にもいくつかの神社がある)は、どれも外縁上の崖上にある。古い昔に見沼が大きな沼(干拓前は「見沼溜井」と呼ばれた広大な湖)だった頃は、この段丘の張り出しは全て岬だったのだろう。

氷川女体神社 拝殿
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氷川女体神社 本殿 氷川女体神社

 車でこの神社を訪れる場合には、どこに停めたら良いのだろうか。ちょっと分からない・・・。

 境内には誰もいない事を予想していたが、すでに先約の参拝者が拝殿前にいた。時間もあるし何の制約もないので、その人が祈り終わるのを待って、お参りすることにした。

 社務所が拝殿の脇にあるが、お札やお守りは特にお願いしなかった。だから、今回の私の参拝は、本当に拝殿へのお参りのみという内容だ。

 拝殿は鳥居の正面にあって目立つ建物だが、その後ろに控える本殿の屋根の造りが素晴しい。
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 さて、この神社の起こりは崇神天皇の時代と伝承されているが、これはどうであろうか。

 いくらなんでも飛鳥の巨石の遺構が出来る遥か前、卑弥呼の時代をさらに300年(天皇の世紀が正しいとすれば紀元前3世紀)も遡った紀元前に、関東の武蔵野の地に神社が建立されていた事はまずありない。そんな伝承は俄かには信じがたい。

 その後「延喜式」では、記載があるので、少なくとも900年代初頭には、神社は辺りを圧倒するだけの格式を持っていたという事だろう。

 なお、本殿は、徳川四代将軍の家綱(いえつな)が忍(行田)城主の幕府閣僚「阿部忠秋(あべ ただあき;家光、家綱の2代にわたる幕府老中職)」に命じて造営(再建)させ、1667年に竣工した、と伝えられている。

氷川女体神社 社務所    社務所
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 拝殿や本殿の様子も素晴らしいのだが、その脇にある大きなケヤキの老木の様子がまた何ともいえないものだった。

 銀杏の木の場合には、こうしたコブの状態が良く見られるがケヤキでは余り見たことがない。

 鶴岡八幡宮などでは大銀杏が植えられている。鎌倉幕府の滅亡となる将軍暗殺の舞台であり、いわくのある銀杏の大樹だったが、今は倒れてみる事が出来ないらしい。八幡社と氷川神社の関係は良く知らないが、氷川神社の社紋は「八雲」だ。その氷川神社は、どこも境内はケヤキが主体に植えられている。

大けやき 手を清める
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大宮第二公園脇 大宮公園の桜の森

 来た道を今度は逆に辿って、大宮氷川神社の参道へと戻る事にした。

 氷川参道は旧17号脇、新都心のすぐ横にある鳥居から入って、そのまま直線で約2Km程続く。

 ただし、今回は参道をそのまま進んでもつまらないので、先の西縁の水路に沿ってをそのまま北上していくとこにした。この道、そのまま蛇行する川に沿って進んでいくと、やがては大宮第三公園の入り口脇に出る事になる。

 第三公園の入り口を通り越して少し行くと「梅林」脇の駐車場になるので、そこから水路を渡れば、そこが大宮競輪場の入り口、要は大宮公園に入れるという訳だ。

 競輪場、野球場(ベーブルースが出場した日米親善野球の会場となるなど古い歴史を持っている)、アルティージャのサッカー場(FMラジオの名前を冠した「NACK5スタジアム」)、と進めば、大宮公園の桜の森であり、もう直ぐに氷川神社の脇に出る。
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氷川神社の境内(太鼓橋正面) 氷川神社の境内(八坂神社を模した楼門)

 大宮の氷川神社は、武蔵一之宮で土地を代表する由緒ある社だ。

 その背後は鬱蒼と茂る森であり、その森がそのまま大宮公園となって、神社を取り巻いている。

 参道は最初に書いたように「さいたま新都心駅」の東側の中仙道から斜めに伸びており、約2キロのケヤキを主体とした並木道となっている。大宮公園側から回り込むのではなく参道に続く「たいこ橋」のところまで一旦戻って、正規の参道(楼門正面)から神社の拝殿へ向かう事にした。

 気合いを込めたお参りをしている、という事をアピールするためだ。
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氷川神社の境内(八坂神社を模した楼門) 氷川神社の境内(拝殿の内部)

 氷川神社に関しては、もう何回がこのHPに書いている。何といっても紅葉が美しいためだ。

 やはり、これだけの規模になると初詣は凄まじい混雑となるし、それ以外の日でも参拝客は途絶える事がない。七五三だとか、秋の例祭だとか、それに様々な祈願を願う人達が集まってくる。

 だから、拝殿の周辺は何時訪れても、盛況とはいえない日もあるが人影が絶えることがない。
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氷川神社の境内(拝殿) 氷川神社の境内(拝殿)

 今回は、氷川神社を巡るのが目的なので、本当はご祈祷をお願いすべきなのだろうと思う。

 この日(何もない普通の日)も結構な人数がお祓いを受けていた。厄払いであるか、あるいは何かの願い事か、良くは判らないが拝殿の内部では2列ほどに並べられた椅子に掛けた人々が頭を下げていた。神主さんが専属で祈祷の儀式を執り行っているのだから、その間に外部から拝んでもだめなのだと思うが、待っていても仕方が無いと思われたので、そのまま礼拝する事にした。

 拝殿内で並ぶ人の背中を見ていたら、ふと、神前で額ずくだけで果たして救われるものであろうか、という思いに駆られた。
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氷川神社の境内(舞台) 氷川神社の境内(流し雛?)

 こうなると、もうどこまで行けば大丈夫なのか判らなくなってくる。ただし、拝まれる相手方は万能の神であるから、拝む側が深い信心さえ持って誠意を込めれば、大丈夫なのかもしれない。

 以前、「礼拝する」というのは、「何かを願ったり、依頼するのではない。ひたすらに今のあり様を感謝するだけでなければいけない」と聞いたことがある。今の状態への感謝の心を祈りの主題としなければいけない、とすると、今の私は完全に失格だ。「神に祈る」という根本の姿勢が出来ていないし、そもそも今のあり様自体を何とかしたいと念じているのだから・・・。
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氷川神社の境内(本殿) 氷川神社の境内(本殿)

 氷川神社を調べてみると、女体神社と男体神社だけではなかった。

 もう一社の氷川さまがあるのだった。その三社で一対として構成するので、規模にかかわらずどの社も武蔵一之宮なのだという。

 女体神社は鬱蒼と茂る森があるので、古色蒼然として神秘性が加わって納得が出来るが、こと、規模だけで双方を比較したら、等しく一之宮と呼ぶには少々憚られる気がしてくる。

 さて、父、母ときてさらにもう一社、王子格の氷川神社がある。「中山神社(中氷川神社)」がそれだが、見沼代用水の西縁水路側ではなく、少し別の場所になる。第二産業道路の向こう側であり、見沼の中ほどだ。そうなると当初から関連のあった神社とする事が、果たして妥当なのかどうか、と感じるが、実は、この3社は深い意図的な関係にあるのだった。

 3社を線で結ぶと直線状に等間隔で並んでいる状態。しかも、この中山神社から見ると夏至の日の入りが氷川神社の方向で、冬至の日の出が氷川女体神社の方向なのだという。大きな建造物が無かった太古・近世には、それぞれの社が見晴るかせたに違いない。
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氷川神社の境内(内陣を取り巻く) 氷川神社の境内(拝殿前の池)

 「簸王子社(ひおうじ しゃ;スナノオノミコトとイナダヒメノミコトの子供オオナムチノミコトを祭る)」は、、しかしやはり無沼田んぼの縁にある。だから、これも見沼溜井と呼ばれた干拓前の沼の状態から考えると、沼の水面へ突き出した岬の上にあって、等しくこの地の水にまつわる神として祭った、あるいは水の神を沈める役割を持って建立されたものなのだろう。

 余談だが、これらの神々は皆、出雲の高名な神である。オオナムチノ命は、スサノオとイナダヒメの孫とも子供とも伝わっているが、さらに大国主命(オオクニヌシノミコト)のことでもあるらしい。

 大宮の氷川神社は、出雲から「兄多毛比(エタモヒ)」という人物が武蔵野国の国造(くにのみやつこ;地方の行政長官)に任命され、この地へ一族とともに移住した。その際に出雲国の簸川(ひかわ:肥川、斐伊川)の上流にあった「杵築大社(きずきのおおやしろ)」を勧請したのが神社の始まりとする伝承がある。彼の一族の祖神を祀っていたのが杵築大社(きずきのおおやしろ)だったらしいのだ。その神社は先のオオナムチノ命を祭ったものだという。だから、この説が神社の始まりだとすると、古くはスサノオを祭ってはいなかった、という事になる。

 いま、その神を祭っているのは大宮の氷川神社であるが、そう考えてくると、今となっては一番規模の小さな「中氷川神社(簸王子社)」こそが始めに建立された氷川神社であるのかもしれない。

氷川神社の境内(参道) 氷川神社の境内(額殿)

境内 にある「額殿」
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氷川神社参道 参道脇の団子

 そろそろ夕方に近い時刻なので、参道に出ると向こうからやってくる人はほとんどなく、皆が大宮方面へ戻っていく状態だった。

 自転車で通る場合、このように秩序だって歩行者が同じ方向へ歩いていると、実にありがたくなってくる。こちらにとっては動きが予測できるので、至極あり難いのだ。そう考えると、やはり歩行のルールで進行方向で通りの右側通行を守って歩くという状態だと、進行方向の左を通行する自転車とは完全に分離(移動速度の違う相手を目視して確認・認識できる)できるので、接触事故など起こりようはずがないのだが・・・。

 さいたま市は実に走行する自転車が多いが、スポーツ車(われわれのようなロード車)以外は、軒並み進行方向の右側を走っている。路上に止まる車を避けるためもあろうが、概ね車道を走らずに歩道を走っている。そんなオバサン緒中には、歩行者の背中に向ってベルを鳴らす人までいる。いったいナニを考えているのかまったく理解できない。そうして平然としている様子を見ると、どうかしている、としか考えられないのだが。

参道脇の団子 氷川団子の「のり」を既婚で、参道脇のベンチで食べた。

暫く振り(七福神めぐり以来)だったが、
やはり美味しい。
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参道中間にある二の鳥居

 参道の中間点にある「二の鳥居」は木造としては関東最大級だという。元は明治神宮にあったもので、それをこの地に移築したものというから、規模が大きいのは当然かもしれない。

 この鳥居から大宮の市街地へと向う斜めの通りが延びていく。「大門通り」という町の名前だが、そう考えると大門は、この鳥居を意味するのかもしれない。
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氷川参道 氷川参道入り口の一の鳥居

氷川参道入り口(中仙道脇)にある、一の鳥居

 中氷川神社へは結局行っていないが、イナダヒメにもスサノオにもお参りをした。

 変化のきっかけがつかめたような、そこはかとない満足感が浮かんできた。なんとなく気分がスッキリとしたように思うのだ。病は気から、となれば、度重なる災い(違和感や不調、病や怪我、悪い出来事)も、そうした気の衰退が招いていたのかもしれない。

 少し、開放的な気分もあって、なんだか改善する方向が感じられる。それは単なる期待感だけなのかもしれないが、とにかく動いてみる事で、何がしかの変化を招けたように思えるのだ。

 こうした、心の先導行為は実はとても大切な事なのかもしれない。

「ほこすぎ橋」からみた中仙道と斜めに延びる氷川参道入口 これで、悪しき循環が断ち切れたら良いのだが・・・
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