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2011.01.08
与野 七福神めぐり

アクセス;
 さいたま市中央区

カメラ;
 PENTAX K−7

レンズ;
 PENTAX FA43 F1.9 LIMITED
 PENTAX DA35mm F2.8 LIMITED MACRO
 PENTAX DA21mm F3.2 LIMITED

三脚;
  K−7:カメラの手ぶれ補正にて、三脚は不使用

 (画像添付時に約70%程度に圧縮)


 二十四節気でいうと、今の季節は「小寒」。「立春」までが<寒中>なのだが今年は例年ほど寒くない日が続いた。どちらかと言えば穏やかな新年といえよう。


 さて、新しい年が始まった。取り立てて大げさに言うまでも無く、新年を迎えるのは毎年のことで改めて驚くには当らない。それは判った上でのシミジミとした感想なのだが、また一つ、健康の中で歳を越せたということがなにより喜ばしいことだと思う。

 無事に新しい年を越せない、という事だって起こり得る。同級生や幼馴染を見回すと闘病中の仲間もいて、そうした非常事態が我が身に降りかかっても少しも不思議ではない世代の中に今の私達の年齢が入ってきたようなのだ。だから、健康であることや将来仲間入りする高齢化の波についてなど、今年はそんなことを初春から想ったりした。

与野を学ぶ

まずは、民俗博物館で与野のお勉強だ。
与野を学ぶ

 5月に転職(転籍というべきか?)した為もあってか、例年に比べると今回の師走は比較的に落ち着いていたように思う。

 そうは言っても「忙しくはありませんでした」という訳では無論なかった。

 土曜・日曜返上で仕事を続ける、という恐怖の状況が少なくて済んだ、というだけだ。12月といえば、師走。しがない私が息を抜けるはずも無く、休日での仕事は3日間、代休は年が明けてから取得、という状況だった。


 さて、今回の企画は、例年回っているが、「与野 七福神」(2008.01.04 「与野 七福神」)で縁起を担ごうという目論みだ。

 去年末の山行(2010.12.18 「丹沢;ヤビツ峠から塔の岳へ」)での拡張反省会(早い話が2次会ですな)での提案で、「ここはいっそ、みんなで幸福をつかもう」ということになった。提案者は私で、だから勿論、福を呼ぶ地元を巡る企画を発起したのだった。

 ちなみに、かのJR東日本の「駅からハイキング」でも毎年企画(毎年1月初旬・中旬)がされている。与野の旧市街にある七つの神社仏閣の七箇所全部をのんびり歩いて回っても3時間ほどで楽しめるという、手軽な散歩コースになるものだ。
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 去年は7箇所を廻らずに、はしょって近場で中断したままだった。そのことが前半期の超多忙な状態を招いたような気分があり、そこに引っかかりがあった。だから、今年は「七福神」すべてを回る決意をひそかに固めつつあったのだった。

 それには「他力」の働きも必要だし、どうせなら気の置けない仲間と福を分け合った方がいいではないか。いや「分ける」のではなく、皆の幾本もの手で受け止めて「掴み取ろう」という積極性を出そう、というのが今回の企画の趣旨だった。



<コースの概要>

 回るコースは与野本町駅を基点とした時計周り。1時間30分歩いて食事、その後2時間歩く、という行程で、途中に休憩を入れる。

 起点は弘法大師の伝説の地、「二度栗山(にどくりやま)」で、JR埼京線の「与野本町」駅に集合する。

 駅の裏手から霧敷川(鴻沼川)沿いに中央公園方向に歩いて「二度栗山」へ向かい、そこから川を渡って「鈴谷大堂」へ。埼京線の脇の小川に沿って進んでさいたま芸術劇場へ出て、そこから「円福寺」へ。そのまま与野公園へ向って「天祖神社」、向かいに回って「円乗院」を参詣する。

 与野の本町通りの旧街道を歩いて「一山神社」、そのまま与野「氷川神社」へ。途中で「大国(おおくに)神社」や「御岳(みたけ)神社」、与野公園の「銭洗い弁天」、竜神説話の残る「長伝寺」などにも立ち寄ろう、という盛り沢山な内容だ。

 何度か回っている七福神めぐりのなかで、今年は初めて与野本町をスタートにしたコース採りをするわけだが、与野の街で「七福神めぐり」を考えた場合は、やはりその順路であるべきだろう。最後にひなびた「二度栗山」では、すこしキツイと思えるからだ。
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< 二度栗山弘法尊院 弁天 :唯一の女神で、学問・芸術・財運の神 (インド)>

 真言宗の寺で、弘法大師伝説が残る。

 弘法大師が旅の途中にこの地(中里 なかざと)を訪れ、栗を所望して振舞われ、大師は喜び呪文を唱え立ち去った。それ以来、栗が年に二度実を結ぶようになったという伝説が伝わる。「山」と名前が付いているが、周囲を見渡す小高い丘の上にある。

二度栗山 二度栗山
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 石仏が積まれた周りを歩くと、四国の八十八箇所の霊場を巡ったのと同じご利益があると書かれているので、吊るされた鐘を突いて一回りする。

 お参りのご利益だけでなく、そこに巡礼のご利益が加わってしまったら、いったい、どうなってしまうのか。 そんなお手軽で、500円ぽっきりで新茶詰め込み放題!、のような高配当を受け取ってもよいものだろうか。ワンゲルメンバーは回っているが、私は小心者で貧乏性なので少し心配になって、巡礼の先取りは止めておくことにした。

二度栗山

メンバー撮影 「そんなご利益 アリ?」
二度栗山
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<鈴谷大堂 毘沙門: 鎧・兜を身につけた知恵と勇気の守り神で闘いの神 (インド)>

 鈴谷という地区にあるお堂で、小高い土手上にある。今は周りがコンクリート壁で覆われているが、思うに古墳状の丘の上にお堂があったのでは、と考えている。現在は日蓮宗のお寺(お堂)になっている。

 古くは禅宗のお寺だったらしいが、応永の頃(1394〜1428)、時の住持であった周如禅師が日蓮宗へ改宗したと伝えられている。

 入口には由緒ある六地蔵が奉られている。お地蔵様達は1667年造立とのことだ。

 まだまだ、徳川家康が江戸入府後間もない頃だ。中仙道もまだ完全な状態ではなかろうし、この辺りも未開発の状態であったと思う。調べてみるべきなのだが、ことによると中仙道の元となる古道がこの辺りを通っており、与野の宿場手前の街道筋脇にあるお堂(おこもり堂のようなもの)だったのではないだろうか。

鈴谷大堂
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 大堂からは、埼京線の高架を超えて与野本町の住宅地へと進む。そのまま歩いていくと、「本町通り」へ続く道に出る。

 目前に「さいたま芸術劇場」の建物が見えてくる。岩波ホールで上映されるような芸術性の高い映画、様々な演劇、クラシックのコンサートなどで利用される。複合的な劇場設備で、内部に自由に立ち入れる。

 トイレ休みを兼ねて、入り口脇のホール横のベンチで休憩するとしよう。

鈴谷大堂 鈴谷大堂
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< 円福寺  布袋(ほてい) :未来予知ができる福徳の神 (中国)>

 真言宗の寺。真言宗は江戸幕府のころの徳川一門の主要な宗教の浄土宗と密接な教義を持っている。

 平安時代の天台宗と真言宗の関係を見れば、真言宗の開祖の空海の下に天台宗の最澄が弟子入りして唐から持ち帰った密教教義を宗旨のなかに吸収した。そうして開かれた天台宗から発生したのが、日蓮宗や法然が開いた浄土宗なのだった。浄土宗からはさらに親鸞が浄土真宗を開く。教義はまるで別のものに変遷し、念仏唱和や他力本願へと変遷しているが、根元は同じ平安二宗から始まっている。

 この寺は室町時代からの古刹なのだが、江戸初期に本多佐渡守正信(ほんだ まさのぶ;さどのかみ は官職名)が陣屋を構築するため、現在地に移築したものと伝えられる。

円福寺 円福寺
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 お堂の横に、般若心経が刻まれた円形の石がある。

 チベット(あるいはインドだったか)にあるガラガラと回転させて現世でのご利益にすがる、あれと同じだ。

 一回転、クルリと回せば般若心経を一度唱えた事になる、と書かれている。「般若心経」は天台宗でも盛んに唱える。私も法事のたびにルビの振られた経文のプリントを受け取り、それを手にして毎回一族が声を揃えて唱和する。

 私はなんだか「般若心経」が天台宗の専売のように考えていたが、真言宗も同様であるらしい。空海と最澄は同時期の遣唐使学徒なので、同じ教義の分流といえるのかもしれないが、素人の私には、我が天台宗と真言宗(弘法大師 空海)の教えとの違いは判然としない。

 仏教の教えを日本へ持ち帰り、奥義を極めてその育成・布教に勤めた二人は生涯のライバルだった。恵まれた官費留学生として唐へ渡った最澄が後に開いた天台宗と比べると、私費を投じて同じ遣唐使船団で海を渡った無名の僧だった空海の教える「大日経」の密教の方が、在野のバイタリティに溢れていたのかもしれない。

円福寺 円福寺
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 円福寺を出て、西側を見ると少し先に鬱蒼と茂る木立が見える。与野公園の一部をなす樹林だ。

 すぐに次の神社仏閣に向わずに公園で休憩し、その後、昼食を採ることにする。公園での休憩は、何のことは無い、私が用意したワインを皆に配ろうという計画のためだ。こんな埼玉の地まで遠征させてしまっている手前、ささやかなサプライズを用意したというわけだ。

 配ったのはポリプロのボトルに入ったオーストラリアのワインで、ふたの形状に工夫がある。回して外すとボトルキャップだった部分がワイングラスになる仕組みなのだ。

 山行などでの携帯に実に便利で、再利用がいくらでも出来る。同じ銘柄の補充用のワインパック(パウチ)も売られているが、普通の壜で買い求めたものからこれに詰め替えても良いだろう。ワインに限らず、スピリットなどを詰めてもいい。僅かに250mlなので、携帯性は抜群の優れものだ。5本用意したので、集まった4名へ配り、自分も楽しむことができた。

ワインで休憩

メンバー撮影  「公園のベンチで寛ぐ」の図
ワインで休憩
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 チーズをおつまみにしたワインでの休憩は、食前酒という位置づけで、この後、食事を予定している蕎麦屋さんへ向った。

 公園から、首都高の高架が掛かる17号のバイパス(大宮バイパス)を超えた先に、目指す蕎麦の「善天(よしてん)」がある。私お勧めの名店で、何度かHPでも紹介している店だ。天麩羅や鴨が美味しい。

 勿論、汁も蕎麦も好みのもので、文句が無い。

 さあ、このさい日本酒もとって、ゆっくりと食事を楽しもう。

善天 善天
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<本日の旨いもの1 善天(よしてん) の蕎麦>

 蕎麦は、更級の細切り。のど越しがよくて、香りが高い。

 汁はどちらかと言えば、薄い方かもしれない。もう少し江戸仕立ての濃い口でもいいが、私にはこの返しが丁度良いようだ。

 蕎麦は趣味食なので、満腹になるほど食べたり天麩羅を付けたりするのは、実は邪道かもしれない。が、この店の野菜天は私のお気に入りなので、外す訳にはいかない。

善天 天麩羅

 善天で、天麩羅で供される舞茸のサッパりした歯ざわりがいい。いや、それだけでなく、天麩羅全般が実に美味しい店なのだ。季節の野菜が加わって飽きることが無いし、好物の茄子天の味わいも深いのだ。

 群馬の桐生(きりゅう)には、「国際きのこ会館」という森産業(きのこの栽培で有名な地元企業)のホテル・レストランがある。小高い山の頂に展開していて、ちょっと雰囲気があるのだが、そこなどに行くと実に新鮮な舞茸(まいたけ)が味わえる。
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善天

 ところで、今だから舞茸はどこでも食べられるが、ちょっと前は大分珍しい食材だった。

 30年ほどの昔、最初に就職したコンピュータのソフトウェア開発や受託計算を業務とする情報処理会社が桐生にあって、私は仕事で「国際きのこ会館」をよく利用した。

 森に囲まれた料亭のようなレストランで食事だけでも楽しめるが、全国から都市ガス会社の料金調定の担当者を招いての研修を度々企画した。私が担当していた分野が都市ガスの料金算定や窓口受付業務、利用履歴処理や顧客管理や保安管理などを規模に応じて行う総合的なシステム開発・提供・運用だったためだ。

 そのため、宿泊を一手にお願いして共にホテルに泊り込むことも多かった。その際の食事や宴会あるいはホテル内での二次会などでは、会館名物のきのこ料理を必ず味わったものだ。「舞茸」は、その当時はだいぶ物珍しい種別で、森産業の専売に近かったのではなかったろうか。だから、私は、そこで始めてそれを食べた。

 それまで、きのこといえば「しいたけのてんぷら」か「なめこ汁」くらいしか馴染みが無かったし、ほかに思い出すのは冬場の鍋ものに入るエノキダケくらいだろうか。だから、そこで初めて食べた舞茸は鮮烈で、いっぺんで大好きになってしまったのだった。

 遙かに年を重ねた今でも「天麩羅」といえば、貝柱や海老やキスなどの魚介類ではなく、葱を主体として小エビなども散らした野菜の掻揚げだ。それも一番に思い浮かぶのは、歯ざわりの良い新鮮な舞茸の天麩羅の姿だろう。

善天 天麩羅 善天 天麩羅
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< 天祖神社 寿老人(じゅろうじん) :老子の化身で、1500歳の超長寿を全うした長寿の神 (中国)>

 与野公園は開園が1877年(明治10年)であり、都市公園(2009.05.10 「プリンセス達の饗宴 バラが咲いた」)としてはかなり古い歴史を持つ。

 大宮は鉄道の町で近年になってから発展したのだが、与野は古くからの街なので、大宮よりもよほど賑やかだった。このため、この地には広大な都市公園が存在する。そうした経緯を含めた町の歴史を知らなければ、なぜ「さいたま市」の行政区として独立も出来ないほど弱小な与野の町が、これほどの公園を持っているのか、不思議に思うに違いない。


 さて、公園内には天祖神社がある。天祖は天皇の祖を意味している。このため、この神社の祭神は天祖、天照大神(あまてらすおおみかみ)を奉っている。

 1805年に「天下泰平、国家安全」を祈念した石碑や記念碑が入り口に建っているが、社殿は1841年に再建した。明治元年以前のことなので、国家神道などとは特に関係が無いようだ。

天祖神社
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天祖神社 天祖神社

 この天祖神社よりもむしろその裏の池にある弁天(べんてん)様のほうが、私にはよほどご利益がありそうに思える。源氏の英雄「畠山重忠(はたけやま しげただ)」が出陣の際に刀を洗い武功を立てたという伝説が残る「銭洗い弁天」。

 与野の旧街道は「鎌倉街道」であり、源氏を勝利に導いた歴戦の英雄の「畠山重忠(はたけやま しげただ)」公は武蔵嵐山が本拠地(2010.07.17 「荒川から武蔵嵐山へ 中世の城館跡を訪ねる」)だが、出陣の際に、ここで戦勝の願いを込めてその剣を洗ったと伝えられている。重忠はその数々の華々しい戦歴によって、鎌倉御家人として有名な人だ。

 手持ちのお金を洗い清めるとお金が増えるという、きわめて現世的な願いが叶えられる祠にお参りして、手持ち限りの硬貨(小銭)を願いをこめて洗い清める。
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 天祖神社や銭洗い弁天は公園の北側の一角にある。

 その南側には森や広場や富士山を模した丘を挟んで有名な「ばら園」が広がっている。勿論、私達はワンゲル部員なので、富士に登って休憩した。善天さんの向いにあるの駄菓子屋さんの店先に農産物が縁台に乗って売られていたのだが、そこに金柑があって、仲間が買ったのだった。季節感溢れるそれを、丘(富士山)の頂で、のんびり食べた。


 その丘から見下ろせる「バラ園」(2007.05.13 「咲き誇る薔薇」)は有名だ。時に冬咲きのバラの花を見かけたようにも思うが、この日は残念ながら一輪の花も咲いていなかった。

さあて、食べようかな・・・ 金柑の実
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大国神社

 公園に隣接して「大国神社」と「御嶽(みたけ)神社」のふたつのちがう神社がある。

 「大国神社」は足腰の神様で、お堂のような祠に、沢山の草鞋とともに健脚の願いが掛けられている。ワンゲルメンバーとしてお参りを外してはまずかろう。

 「御嶽神社」は、与野公園のアスレチック広場のすぐ向いにある。ここも、ご神体は山岳に縁起が深いのでお参りをすることにした。

 今はまるでその雰囲気は無いが、梅雨の季節になれば、神社一杯に紫陽花の華麗な花が咲く(2009.06.21 「御嶽神社の紫陽花」)、私の好きな場所だ。

御嶽(みたけ)神社
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<円乗院 大黒天(だいこくてん) :右手に小づち、左肩に袋を下げた蓄財の神 (インド)>

 山門があり、塔があるのが目印の歴史ある寺。

 二重の塔は川越にある喜多院の塔とまるで同じ形だ。「塔」は舎利(しゃり:仏陀の骨)などを基部に納め、それを崇めるための施設であるのが本来の役目だが、納骨堂としてではなく、形状そのものに意味を持つという。先日テレビの番組で知ったのだが、その形状は「仏陀の姿」そのものを象徴したものなのだというのだ。仏様の姿を形而するのであれば、どの寺でも同じ仕様となるのは当然の帰結といえたのだった。

 この由緒ある寺には新しい塔だけでなく、古い鐘突堂があって雰囲気(20071123 「深まる秋に(円乗院)」)があったが、今は取り壊されてしまったようだ。

 真新しい白木の奉納堂にその鐘が収められているので、浄財を集めていずれは元の場所に再建するのかもしれない。

 この寺院の縁起だが、鎌倉幕府の御家人で先ほどもふれた「畠山重忠」公が建久年間(1190〜99)に創建したと言い伝えられている。それを賢明上人(1619年没)が今の地に移建したという。

円乗院

いや、挫けそうな脆い心にふと滲みる 実に力強い言葉ではないか。

素晴しいと呟きつつ、思わず、写真に撮らずにはいられなかった。

円乗院
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円乗院 与野の町並みを歩く

 「本町通り」は歴史の古い旧街道であり、与野の町もこの街道の両側から開けた歴史を持つ。

 ここ数年はまた、道脇が再開発され、どんどん古家が取り壊されている。チェーン店ではない街の独立したコンビニ(酒屋さん)店やいくつかの商店が消えたし、古い民家も次第に無くなり、街路ではいくつかの空き地が目立つようになってきた。

 少し前までは、まだ道の両脇には幾つかの蔵が残っていて街道筋の面影を今に伝えていたが、それも心なしか減ったように思う。

 しかし、未だに商家やいくつか残る蔵の様子で、往時のこの通りの賑やかさと街の繁栄を偲ぶことができる。
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<一山神社 恵比寿: 商売繁盛の日本古来の福の神 (日本)>

 与野の本町通りを、道脇の蔵などを眺めながらそのまま行くと、やがて七福神の看板が見えてくる。

 一山神社(七福神では「恵比寿神」)は、与野の旧街道筋である本町通り沿いにあり、道路からは少し奥まった場所に本殿がある。細長い参道を入って社殿があり、その参道とその周りの僅かな幅だけが境内となっている。だから、民家の間を抜けてお参りするような形になる。

 狭い間口に深い奥行きというものは、古い町並みが残っている京都に例をとるように昔の町屋のつくりだ。主要な場所を広大な武家地が占めてその残りを市民の暮らす場所として、大通りとなる道を中心に街割りして整備した。その古い時代の名残である。

 扇状に広がる氷川神社の様子が気に入っているが、一山神社の奥まった細長い状態も赴きがある。明治時代の創建(勧進)によって比較的新しく作られたものなので、社域が狭いのは仕方があるまい。

一山神社 一山神社

 「一山行者(木曽御嶽講の講祖)」ゆかりの神社だ。1851年に一山行者が死没し、講中で八幡社の地に御嶽社を勧請してこの神社とした、という縁起が残る。

 「講」というのは、宗教的な結社として認められた共同体だが、別に宗教団体ということではない。市民の集合体として密接して、信じる霊地への拝礼のために資金を持ち寄って、その集団の代表者(年毎の交代制であったようだ)を選んで参拝の旅に出す。その集団を取りまとめて霊地へ導く役割を持った者、プロモータ兼聖地や霊地のエージェントが、「先達(せんだつ:講のリーダー)」だ。一方で「行者(ぎょうじゃ:修行を重ねて霊験を体得したもの)」はもっと宗教色が濃い。修行や徳をつんで、自らを高めた宗教の実践者で、組織化されている場合もあろうが、どちらかと言えば在野の宗教家と呼んだ方が相応しかろう。

 一般の神社が建立された理由が、主に権力者や為政者による統治の一環としてのものという気配が濃いのに比べて、一山神社は行者を偲んで市民が建立したという特異な縁起を持った神社なのだった。そうしたためか今もなお修験道の色合いを残す火渡りの行事「ゆず祭り」が、冬至に行われている。

 新春のお参りでいつもそれを思い出すが、年末は忙しく、ついその行事を忘れてしまう。だから残念なことだが、もう20年近くこの町に住むのに、火渡りを実際に見ていないのだった。
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< (与野)氷川神社 福禄寿 :幸福(福)と高給(禄)と長寿(寿)の神 (中国)>

 創建が古く、残っているケヤキの大木は樹齢500年を超え、石段は1855年、本殿は1709年に建立された貴重な文化財だ。それに宝物庫(拝殿の中に置かれていて賽銭箱の奥に見ることが出来る)には、1710年の製作という古い神輿が保存されている。

 古来より与野町と小村田村の鎮守で、土地の氏神だ。


 与野の氷川神社に関しては、季節ごとに何回か書いている。

 2007.01.07 「七草粥(与野)」
 2008.01.04 「与野 七福神(与野)めぐり」
 2008.12.03 「ご近所の紅葉」

 他にも、ここの八雲神社の奉納で夏に行なわれる「与野 夜祭り(2008.07.20 「与野、夜祭り」) 」などでも紹介しているが、土地の信心を集めて奉納盛んな神社といえよう。

 鳥居から続く参道脇にはけやきの巨木が何本かあって、この神社の様相を特徴付けている。奥まった場所になる拝殿の周りはちょっとした森になっていて、桜やクヌギやけやきなどの木々が鬱蒼と茂っていて雰囲気がいい。

与野 氷川神社
元日午後の様子
与野 氷川神社

メンバー撮影
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ほこすぎ橋を渡る

 与野の氷川神社で3時過ぎ、まだ時間が少し早いので、ここから遠征することにした。

 さいたま新都心方向へ向い、「ほこすぎ橋」を渡って、氷川参道へ入り口へ向う。

 そのまま参道を歩いて武蔵一ノ宮として有名な氷川神社(2007.11.25 「氷川神社をめぐる(北与野、大宮)」)へ向おう、という目論見だ。距離は少しあるが、メンバーは皆ワンゲル部員なので、何のことは無い。帰りの楽しみさえ保障すれば、歩くのはそのための絞込みのため、という事で納得される。
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氷川神社(武蔵一ノ宮)参道入り口 氷川神社(武蔵一ノ宮)参道脇の団子

< 武蔵一ノ宮 (大宮)氷川神社 >

 橋からは、鳥居から続く参道脇に植えられたけやきの巨木がずっと、遥かな先まで連なって見える。あれを目にすると、ちょっと考えてしまうが、なに、疲れたら大宮の繁華街へ向えばいい。


 氷川神社の初詣は全国有数の規模の200万人の参拝があり順位は全国10位以内を誇り、境内は勿論、長い参道を埋め尽くす人波みで大変な賑わいとなる。

 なんといっても大宮の氷川神社は関東の氷川様の総本社で、「武蔵一ノ宮」の由緒を誇る。それに「大宮(おおみや)」の地名の元になった神社なのだ。

氷川神社(武蔵一ノ宮)
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氷川神社(武蔵一ノ宮) 氷川神社(武蔵一ノ宮)

 もうじきその季節がやってくるが、神社の横に広がる大宮公園の花が素晴らしい。

 多彩な種類の梅と、それに桜とが続いて楽しめる。

 特に梅は紅梅、白梅ともにその種類が多いので、色合いやその花の風情を堪能できる。八重咲きの花弁もあるし、枝垂れも盛んだ。
 
 それに咲いた枝を渡るようにメジロが飛び交ったりする。鶯に似た色で愛嬌がある様子はいかにも「春のはしり」といった雰囲気(2009.02.21 「雨水に咲く梅」)があふれる。

氷川神社(武蔵一ノ宮)
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氷川神社(武蔵一ノ宮) 御神籤

 氷川神社の参道で、名物のお団子を食べた。そのあと、参詣に向って無事にお参りも済ませた。

 さて、七つの福を背負い込み、さらに武蔵一宮を始めいくつかの神社へも詣でて、本日の企画はすべて消化できた。時間は4時を過ぎたが、さすがに当初予定した「さいたま新都心」までもどるのは、すこし辛い。
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モツ煮 名物の焼き鳥(辛みそつき)

<本日の旨いもの2 大宮 「力(りき)」の焼き鳥>

 新都心ではイルミネーションが華麗で、2月のバレンタインデーまではその様子が楽しめる。

 冬の空気に澄んだ光が溢れるさまは、これはひとつのご馳走だろう。そんなもてなしも含めて新都心界隈の店で反省を、と考えていた。まあ、それは次回へのお楽しみとして、大宮の街で解散することにしようか。

 駅前には「南銀(なんぎん)」という、いわば銀座通りという意味なのだろうが、繁華街がある。また大門町へ抜ける細い路地が幾筋かあるが、そこも賑やかに赤提灯が灯る。

 今日は、大宮では古株の焼き鳥屋さん<力(りき)>で、しっかりと反省する事にした。

オムレツ 牛肉の赤ワイン煮

 大人の反省する様を見れば、子供は愕然とするかもしれない。

 反省を重ね、深めるごとに、逆に意気消沈するどころか益々ご機嫌な様相へ変じるというのは、いったいどうした魔術によるのか。それで反省とは何事か! と・・・。
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ケヤキ広場(2Fデッキ上)のイルミネーション

 大宮駅にて解散し、ワンゲルメンバーには見せることが出来なかったので、写真を撮ることにした。

 新都心のイルミネーションを私は毎年楽しみにしている。何より冬空の空気感のなかでの輝きが美しいためなのだが、年ごとに少しずつ内容が変わるあたりも気に入っているからだ。その変化は、色であったり、飾り付けの手法であったり、飾られる多様なアイテムであったりと様々だ。どこにも変化が無いように思われるのだが、そこには正確に毎年のトレンドがあるようだ。だから、はっきりと違いが判らず、変化が意識できない中でも飽きが来ないのかもしれない。

 今日の行程は「山行」では無いので、ストック兼用のモノポッド(一脚)を持ってこなかった。だから、イルミネーションは手持ちでの撮影になるが、スローシャッターによる若干の手振れはご容赦願おう。まあ、手振れ補正が補助してくれるので、なんとかなるかも知れない。

ケヤキ広場(2Fデッキ)からさがるイルミネーション クリスマスまでの間は、
この下に巨大な
光のツリーがおかれる。
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 ケヤキ広場(2Fデッキ上)のイルミネーションで、光の渦を見つけた。

 枝に輝くLEDのまばゆい光も心が躍るが、こうした工夫も面白い。

ケヤキ広場(2Fデッキ上)のイルミネーション 渦巻く光
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