散歩(のんびり歩こう)のインデックスページへもどる 散歩(のんびり歩こう)の ページ         Top Pageへ移動Top Pageへ移動        このページを閉じる 閉じる

2008.10.25
大正時代祭り(与野)

アクセス;
 JR京浜東北線―与野駅 、 または大分歩くが JR埼京線―与野本町駅

カメラ;
 PENTAX K10D

レンズ;
 PENTAX FA43mm F1.9 LIMITED
 PENTAX DA70mm F2.4 LIMITED
 PENTAX DFA100mm F2.8 マクロ
 PENTAX DA18−55mm F3.5−5.6 AL

 (画像添付時に約30%程度に圧縮)


 去年同様、さいたま新都心で開かれる「咲いた祭り(2008.10.11 「咲いた祭り」)」に引き続き、JR与野駅前で開かれたのが「大正時代まつり」だ。

 今年で17回目の開催。去年、大正時代の15年間を越えたので、現在記録更新中だ。

 去年も書いたが、「与野停車場」が大正元年に開かれてから80周年を記念して始まった祭りで、与野駅の西口商店街の行事だが、仮装パレードや和太鼓、安来節、阿波踊りなど催しものが豊富で、年々客数が増えている。

 与野の旧市域以外からの来訪者がそれほど増えるとは思われない。いや、年々、さいたま新都心・与野・与野本町・北与野駅など与野の中心地区の人口増加が著しく、町の人そのものが増えているからかもしれない。普通の都市は郊外に流入や宅地開発などの人口増加があって、中心部は生活者が減少していくのだろうが、この土地は違っていて、旧与野市域にあるJR駅周辺や国道周辺を中心に、何百戸が収容される大規模なマンションが次々に開発されて続けているからだ。

大正時代まつり
ページTopへ移動
去年の様子 (以下をクリックすることでリンクします)
2007.10.28; 大正時代祭り

以下は、スライドショーを表示。  (イメージのローディングに若干時間が掛かります)
2007.10.28;仮装パレードのスライドショー
2007.10.28:阿波踊りスライドショー

2008.10.25;仮装パレードのスライドショー
2008.10.25;大河ドラマ仮装パレードのスライドショー

 与野駅の西口から与野本町駅へ向かう通りは「与野 停車場通り」という名だが、その両脇の商店街が主催している祭りなので、各店は当日には非常に活気付く。普段は実に静かな通りなのだが、祭りでは、その通り全面を埋め尽くすほどの人出があるためだ。商店にとっては掻き入れ時に違いない。

 広い歩道部分にも模擬店が出る。各自治会や各種団体のものと、いわゆる的屋さん(露天商)のものだ。車道も通行を完全に遮断して歩行者に開放しているので、ゆったりと食べ歩きができる。

 人力車や観覧馬車が用意されていて、駅前から停車場通りの端(与野を縦断する新国道−17号線−との交差点)までの約1Kmほどを、それに乗って楽しめる。支払いは独自の通貨単位の「銭(せん)」だ。私は昔、二銭銅貨を祖母からもらった事がある。戦前までは現役として流通していたのではないだろうか。両替所で独自の通貨に取り替える仕組みは今年も同じだが、以前ほど主催者サイドは通貨へのこだわりを無くしたようだ。どの店でも普通に現行のお金を出しても怒られなくなった。

観覧馬車は独自の貨幣へ交換して乗車する 人力車に揺られて

「停車場通り」だけだが、観覧馬車が用意されていて乗ることが出来る。
ほんの僅かな距離だが、案外楽しそうだ。
ページTopへ移動
深窓の令嬢 仮装パレード

 大正時代の風俗を再現するのがこの祭りの楽しさなのだが、素人の参加も許している「仮装パレード」がメインの催しとなっている。阿波踊りや安来節(やすきぶし)やブラスバンドの演奏などもあってお祭り気分を盛り上げるが、なんと言っても思い思いの衣装で行われるパレードが面白い。

 パレードは人力車に乗ったシルクハットの紳士と貴婦人を先頭にして進む。それに続くのは、紳士と貴婦人、深窓の令嬢、モダンボーイとモダンガール、バンカラな学生・書生・女学生、女給、芸者、将官、軍人、警官、郵便配達夫、でっちどん、などなどだ。

早大生によるチンドン屋さん 与野停車場通り
ページTopへ移動
 パレード中は撮影で忙しいが、その合間には多くの模擬店や屋台や店舗の前に広げられたお弁当や食べ物などを物色する。射的やくじ引き、金魚すくい、水ヨーヨーなどのおもちゃやお楽しみの屋台もあるが、食べ物の屋台のほうが数や種類が多いし、飲食関係の商店は店の前に机を出して自慢の料理を売っているのでさらに食べ物が豊富になる。

 いつものように国道に近い場所で近所の町内自治会で模擬店を出している「みそおでん」から、そうした食べ歩きの手始めとする。歩道のブロックに腰を掛けてすぐに食べてみる。味噌おでんはお土産にすると味が落ちるし、やはり熱いうちにフウフウ言って食べたいものだ。去年は味噌が薄かったが今年は丁度いい。写真にも撮ったが、8枚くらい入っていてわずか10銭(100円)という値段だった。

 好物の蒟蒻(玉こんにゃくの方が好きなのだが・・)を確保して一息ついたので、さらに会場を与野駅へ向かってどんどん進むが、めぼしい店はどこもすでに行列が出来ている。綿菓子やりんご飴、焼きそばや焼き鳥などはもともと人気が高いが、方々の町内会(自治会)の模擬店はどこも低価格なので人が集まってしまい随分と並んでしまう。

好物の「みそおでん」;今年の味噌は濃かった
中華屋さんのチャーハン、値段にびっくり

 主催者の想定よりも多くの来客があるので、町内会(自治会)の模擬店の多くが比較的早い時間に売り切れとなってしまう。「だから、食べ歩きをしようと思ったら15時までが勝負となる。来年、出掛ける場合には、このことを念頭に・・」というのは去年書いたことだが、今年はさらに早まったようだ。すでに13時には、売り切れ店が続出している。

 さて、駅の近くにあるラーメンと餃子のチェーン店では店の前に調理台のカウンターを出していた。お店で出しているのと同じ餃子とチャーハンが持ち帰れるが、どちらも信じられないような値段だった。私は根がセコイので思わず両方を買い込んでしまった。

 さらに去年お土産を買って美味しかった中華料理屋さんでも、去年同様に店の前に机を出して美味しそうな惣菜が並んでいた。自家製のメンマやザーサイ、マーボ丼や中華丼のお弁当など、だ。「中華丼」のお弁当を買ったが、去年は並んでいたにんにくの芽炒め、チャーハンや餃子などはすでに売り切れていた。まだ、13時前なのだが・・・。

お土産のチャーハン


お土産のチャーハン
お土産の中華丼


お土産で買って、持ち帰ってゆっくりと食べた。

普通、こうした屋台ものはその場で食べないと
美味しくないが、これらは皆普通以上に美味しかった。


もっとも、空腹で歩き回ったせいもあるが・・・
ページTopへ移動
通貨単位にご注目。 正統、手焼き醤油せんべい

 伝統芸能というか、由緒正しき屋台も出ている。

 巧みに目の前で飴から形を生み出していく「あめ細工」の店がそれだ。去年と違って今年はかなり年配のお爺さんが挟みを使っていたが、飴から出来上がった造形は、なんとピカチューだった。すごい人気で、長い列がずっと出来ていた。

 暫く見とれていたが、なんとも素晴らしい。別に手本が近くに置いてあるわけでもなく、イラストが張ってある訳でもないのに、チョキチョキと挟みを使って手軽な様子で精密な形状が仕上がってしまう。まさに名人の手技が楽しめた。

 その近くでは、炭火での手焼き煎餅が店を出していた。軽く焦げ目が付く程度に焼いて、さっとお醤油に付けると見慣れた煎餅が出来上がる。近くには、少し焦げた匂いと醤油の香りがしていて、目だけでなく嗅覚でも楽しめた。

伝統芸能の「あめ細工」 向原自治体の模擬店は、13時で売り切れ
ページTopへ移動
下落合の神輿

 仮装パレードの合間には、鎮座していた下落合のお神輿が出座して通りを練った。「与野・夜祭」で出座する上町神輿よりもずっと流麗で精巧な細工が施された立派な神輿だ。

 お神輿の宮造りの様子をマクロレンズで写してみたが、改めて見ても施された細工が精妙で見惚れるほどだ。こんな工芸品が、江戸神輿の掛け声で町衆に威勢よく担がれる。

下落合の神輿 馬車
ページTopへ移動
帝国海軍の将官たち 「時代まつり」の花形はなんと言っても、
大正の頃の衣装をまとった「仮装パレード」だ。

 通りでは、食べ歩きを楽しむ人に混じって、パレードの主役達が歩いている。書生さん、郵便配達夫、警邏巡査、海軍士官とその従卒、ハイカラさん、モダンボーイとモダンガール、貴婦人や芸者さんもいる。

 パレードでは、これらの仮装をした人が会場を進む。今年はどうした訳か、去年楽しかった「逃げ足の速い泥棒とそれを追う警官」はその中に登場しなかった。怪我でもしたのでなければ良いが・・・。

仮装の人達 バリのパワーストーン
ページTopへ移動
 与野の姉妹都市である新潟の南魚沼は、「篤姫」のあとの新しい大河ドラマの主役ゆかりの土地柄だ。

 南魚沼は戦国の世に関東の覇権を北条・武田と争った<上杉>勢の本拠なのだ。越後から関東への進入路である群馬県の前橋(古くは 厩橋:うまやばし と呼称)やその周辺などは戦国末期当時は上杉方の前衛の地であった。

 余談だが、戦国の国取りの凄まじさは厩橋城の支配者でみると良く分かると思う。「厩橋城」は関東から、長野、新潟、福島などの東北南部への入り口・分岐路に当たっている。関東平野の最終部だ。

 戦国の末期に上杉、北条、武田、織田と城主が変遷する。この城は上杉や武田にとっては関東進出への足がかりであるし、北条では関東防衛の前哨拠点だ。

 天下を統一した織田では、信長の命により「滝川一益(たきがわ かずます)」が関東管領として厩橋城に入り、そこを拠点として関東経営に乗り出す。そして信長が本能寺に倒れ関東を一益が撤退すると再び北条の支配地となった。一益がこの地にいたことが秀吉に幸いした。近畿周辺にいれば明智を討っていたのは一益であったかもしれない。

 さらに豊臣秀吉の北条攻めにより「浅野長政(あさの ながまさ)」が厩橋へ入城。その後、徳川家康の江戸入府により重臣の「平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)」、「酒井重忠(さかい じげただ)」と慌しく城主を変える。

南魚沼郡の「大河ドラマ」パレード 美しい縅の具足

 勇猛な軍勢を統率して揺ぎ無かった不敗の将である「長尾景虎(ながお かげとら)」は19歳で越後守護代となり越後を統一する。

 「上杉憲政(うえすぎ のりまさ)」は関東管領として群馬県藤岡市にあった平井城を居城としていたが「北条氏康(ほうじょう うじやす)」に攻め込まれ越後に救援を求め、景虎は関東へ出兵してこれを撃退する。その後川中島での「武田信玄(たけだ しんげん)」とのいくたびかの合戦、さらに箕輪(みのわ)城の「長野業平(ながの なりひら)」や小山城の「小山秀綱(おやま ひでつな)」、「那須 資胤(なす すけたね)」、常陸守護職の「佐竹 義重(さたけ よししげ)」、などの上杉家の家臣団10万の兵力とともに小田原を包囲し、正統の古河公方を古河御所に戻す。北条に侵略されていた古河御所の奪還や正統な古河公方の擁立などの効により憲政から上杉家の家督と室町幕府の管領職を譲られる。

 関東管領職を継ぐと、幾たびも春日山城から出動して関東の地を席巻したが、領土的な野心は少なかったのではないだろうか。越後の虎、毘沙門天(びしゃもんてん)の化身といわれたカリスマ性の高い総大将であるが、出家して「上杉謙信(うえすぎ けんしん)」と名乗り生涯妻を娶らなかった。そのため養子となったのが、後に五大老の一人として豊臣政権の柱となる景勝(かげかつ)だ。

 謙信の死後、もう一人の養子の景虎(かげとら)と「御館の乱」で上杉家の継承を争った。頚城(きびき)・岩船が景勝方に、刈羽・古志が小田原の北条家(最大の版図は250万石)から養子に入った北条氏康の子の景虎方に、蒲原は北部と南部かそれぞれに分かれて、2年間に渡って激しく戦いを続けた。謙信の幼名を貰っていたことから、北条との和睦や同盟のための政略的な縁組であったのだろうが、謙信自身は養子の景虎を気にいって可愛がっていたらしい。

 景虎の宗家である小田原方が越後に侵入して幾つかの城を取り、家臣団も二分しての混戦の様相となったが、最終的には景勝が後継を勝ちとって「上杉の家」を統率する。
ページTopへ移動
直江 兼続 (なおえ かねつぐ)だ

このかぶとは、<愛>の文字を象った有名なもので、直江 兼続(なおえ かねつぐ)のものだ。

 景勝は謙信の遺風を大切にし、後世まで連綿と続く「義の家、上杉の家風」を築く。

 さて、上杉景勝の小姓として仕えて非常な若さで執政となったのが、大河ドラマ「天地人」の主人公、直江 兼続(なおえ かねつぐ)だ。

 腹心以上の存在として景勝にずっと仕えることになり、景勝を追うように波乱の人生を閉じるが、人物のスケールからすると独立した大名となって豊臣政権下で取り立てられてられて中老辺りに就任したとしても少しも不思議ではない人物だった。

 事実、人たらしで人材発掘の名人である豊臣秀吉からは度重なる取立ての誘いが続いたらしい。<豊臣>の姓も下賜されているし、山形30万石で直臣とするという直接に本人への誘いもあったらしい。しかし、兼続は独立はしなかった。もし、豊臣の直臣となっていれば、主家とは同格となってしまうのでそれを恐れたのかもしれない。

 上杉は豊臣政権では大老の家として位置づく。兼続の能力からすると、そうなった場合の役どころとして考えられるのは、筆頭の「浅野長政(浅野ながまさ)」は別格であるが、「石田三成」や「長束正家(なつか まさいえ)」か「増田長盛(ました ながもり)」などと同じく政権運営の中枢の五奉行辺りか、或いは「加藤清正(かとう きよまさ)」や「福島正則(ふくしま まさのり)」、「小西行長(こにし ゆきなが)」などと同じく前線の軍団長といったところか。いずれにしても「山之内一豊」や「藤堂高虎」などよりは上位になったのではないだろうか。
ページTopへ移動
 関が原の戦いで家康側の軍勢を一手に東北の地に引き付けて、がら空きとなった伏見・大阪の地での石田三成の挙兵を助ける大戦略をたてるのが、智謀の将である兼続だ。

 米沢領の30万石を磐石の地に整備する優秀な治世家でもあるが、後に上杉家自体が関が原の敗戦により会津領120万石の大領から一転して、この米沢領へ閉じ込められてしまう。秀吉から任された金蔵である「佐渡金山」の権利も徳川へ取られてしまい藩財政は逼迫する。会津当時の家臣団を解体せずに武士層をそのまま維持したためだ。

  後世、江戸中期に「上杉 鷹山(ようざん)」が出て財政再建に活躍するのは有名な話だ。

 出羽米沢へ改易され30万石となったが、その後の後継問題でさらに減石となり15万石となり藩の財政は逼迫の度を増した。減石されても体面・格式は「国持ち大名」格のままであったから、さらに大変だったろう。そうした状況からの再建だから、その手腕は名君と呼ばれるにふさわしい。

仮装の人達  上杉 景勝の豊臣政権への貢献と、徳川家康への押さえとして
 生誕の地である越後から「会津(あいず)」へと移封される。

 それは、秀吉の天下統治戦略の一環なのだが、
 これによって120万石を領する大名ということになる。

 毛利の周防・長門・安芸などの120万
 前田の加賀、100万石などと並ぶ規模。

 (北条250万石や徳川300万石など、これらは別格だろう)


 景勝は剛毅な主人で、
 股肱の臣である兼続に対して米沢30万石を分かち与える。


 ここまでの気前がいい主人というものが考えられようか。

 外様の雄藩などの家老格では5万石が最大級のものだ。
 主従というより、同盟者に近い存在であったのかも知れない。

 江戸時代になると多くの豊臣恩顧の大名が取り潰され、多くの大名が名家を断絶させられてしまったが、上杉は戊辰までその家を残した。謙信が打ち立て、景勝や兼続が固めた「義の家」の堂々たる家風は、300年もの時代を超えて伝え続けられた。

 関が原では毛利家や島津家と同様に徳川へ敵対した最大規模の家だ。そうした外様大名の多くが「戊辰(ぼしん)戦争」では反徳川として官軍側へ回ったにも関わらず、この藩は官軍を最後まで引き寄せて戦う事になる。

 白虎隊、青龍隊などで有名な会津の保科家と並び、左幕派の「奥羽列藩同盟(おうう れっぱんどうめい)」の中軸として米沢の上杉家があった。有史以来2度目の天下分け目の戦いとなる「戊辰戦争」でもこの義理高い稀有の家は敗軍となってしまった。
ページTopへ移動