<北条早雲(ほうじょう そううん) と 小田原城>
新九朗は出家し「早雲(そううん)」と号し、実は自分自身では「北条」を名乗ってはいない。
駿河「興国寺城」主で今川氏の配下であったときに堀越公方(京都を本拠とした室町幕府家の関東探題的な位置付け)方の堀越御所を簒奪し、駿河の隣国である伊豆を支配下に置いた。小田原攻略以前の居館を北条家発祥の地の「韮山(にらやま)」において伊豆を治めたので周囲は彼の血統を北条姓で呼び、それが定着したという事情による。そのため、鎌倉幕府執政の北条氏−初代将軍 源 頼朝(よりとも)の妻の政子の家系:代々幕府執権となって権勢を振るう-と区別して、歴史的には「後北条氏」と呼称している。
早雲は室町幕府で将軍の申次衆をしていた若い頃、都で「応仁の乱(おうにんのらん)」を経験しているが、その後に台頭する足軽(土地に密着しない傭兵・武装集団)と共に、戦国時代の「下克上(げこくじょう)」の気風を招いた人だ。
出自は「平氏」で「平 高望(たいら たかもち)」を祖とし、同族(同時代ではない)として「熊谷直実(くまがい なおざね)」、「北条時政(ほうじょう ときまさ)」などがあり伊勢家の家系であるが、年を経てから忽然と歴史の表面へ現れたために、正確には判らない。
下克上とは、幕府から任命された貴族出身の国司(守護職)に代わって独立開拓農場主としての武士が自らの勢力を頼りに国を治める、といものだ。その戦乱の世の契機が、当時から難攻不落とされた小田原城を巡る戦いだった。西相模を支配していた大森藤頼(おおもり ふじより)が納めていた小田原城を奪取すると共に領国の支配権を奪った。その後、東相模の名族である三浦氏を滅ぼし、80歳となっていた早雲(小田原攻略の63歳から17年後)だが、相模の国の支配権を確立した。
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