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2009.09.27
箱根の秋を楽しむ(小田原)

アクセス;
 箱根湯本;小田急線

カメラ;
 PENTAX K−10D

 RICOH CAPLIO GX−100 24−72mm

レンズ;
 PENTAX DA18−55mm F3.5−5,6 ALU
 PENTAX DA50−200mm F4−5,6 ED
 PENTAX DFA100mm F2.8 MACRO


 前日は早い時間に家を出て、ロープウェイでの「大涌谷(おおわくだに)」や海賊船での「芦ノ湖(あしのこ)」など、いろいろな乗り物からの景色を楽しみ、湖畔に突き出た半島にある「恩賜公園(おんしこうえん)」ではのんびりとすることが出来た。

 のんびり行こうよ: 2009.09.27 「箱根 秋を楽しむ」
 のんびり行こうよ: 2009.09.28 「箱根 秋を楽しむ (旨い物編)」

 適度に疲れて健保の宿泊所へ戻って、卓球やダーツで遊び、露天風呂でゆったりと疲れを癒した。懐石料理の食事(2009.09.27 「箱根 秋を楽しむ」:健保の食事)も楽しんで、すっかり初秋の箱根を満喫した。

健保の宿泊所で 健保の宿泊所で

 朝、眼が覚めて、窓の外を見ると、山合いには霧が出ていた。

 箱根へ向かうJRの特急名は「あさぎり」だが、まさにそれが楽しめた。 施設のある斜面側には霧が降りては来ない様だが、向かいの「明星ヶ岳(みょうじょうがたけ)」の山肌は深く巻いた霧ですっかり覆われている。いや向かいに見える山は「浅間山(せんげんやま)」かも知れない。
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 霧をながめ、早朝の鳥の声を聞きながら露天風呂に浸かるのも悪くはあるまい。

 ブッフェ・スタイルの食事(2009.09.27 「箱根 秋を楽しむ」:健保の食事)は7時30分からでまだ大分時間がある。風呂は部屋にもあるがせっかくなので入るなら温泉がいい。6時から入れるので、斜面下方(宿泊は別棟の五階だが露天風呂があるのは本館の地下一階)にある風呂へ向かう。 3つある露天に順番に浸かって、朝風呂を楽しむことにする。

 霧だけではなく、少し雨が降っている。山の朝霧は昼までには消えるだろうから心配は無かろうが、一日雨では少し困る。なんとか晴れればよいが・・・。

坂を下る バス停へ
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 「彫刻の森」から宮城野(みやぎの)方面へ続くと思われる坂道を降りて強羅(ごうら)下を走る路線バスに乗る予定だ。

 坂道は地図で見るよりずっと急で、もし、これが間違っていて元来た道を戻らなければいけないとなると大変なことだ、と不安がよぎる。家人いわく「そしたら、さらに坂を下って行って別の場所へ移動し、そこから再出発する方が良い」とのことだ。

 まさにその通り。この坂を歩いて登る人は、まずいないのではないだろうか。

 どきどきしながら坂を下ったが、きちんと目指すバス停(「木賀坂下」))に出られて、国道138号線を走る路線バスが程なくやって来て無事に乗ることが出来た。

 険峻な道だがバスは速度が速く、順調に進んで「ガラスの森」や「湿生花園」を通り過ぎ、やがて目的地へ着いた。

仙石原 仙石原の人波
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 あれ、っと思った。随分人が多い。まるでゴールデンウィークの「高尾山」(2009.04.30 「裏高尾-日影沢を登る(高尾山)」) のようだ。連綿と人が連なって斜面を登っている。

 斜面といっても緩やかな小さい丘なので大したものではないが、細い道が行列で一杯になっている。

 いや、随分込んでいる様子がテレビで流れたと家人が言っていたが、月曜日でもこれ程混雑していようとは思わなかった。

秋の風
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 少し写真を撮った。

 子供は「ここに何があるの?」としきりに聞くが、あるものは見ての通りススキの原だけだ。有名な「仙石高原」のススキだよと言っても、なんだか判らないようで「えっ」と言っている。

 何か特別な物があるわけではないのに、これ程までに混雑しているこの場所の状況が、良く飲み込めないようだ。

山百合 ハコネアザミ
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仙石原 仙石原

 「仙石原(せんごくはら)」のススキは、もう5年ほども前になろうか。

 芦ノ湖からの帰り道、夕暮れ時に乗ったバスが薄暮の残照の中でここを通ったのだった。「宮城野」へ着くころには辺りはもう暮れていたので、もっと遅い時期、10月の後半頃だったと思う。

 銀色に、あるいはオレンジ色に輝いて、人気の無い静かな高原に、一斉に風にそよぐ様子が印象的だった。

 野を吹き渡る一陣の風に揺れるススキを眼にして、「また来よう」と心に留めたのだった。

秋の風にそよぐ
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またしても海賊船 芦ノ湖のスケッチを手伝う

 人混みを避けて入り口近くだけで写真を撮って、早々に湖へ向かった。

 昨日同様に、また「桃源台」から船に乗って「箱根町」、今日はさらに「元箱根」まで乗って、湖畔の遊歩道を散歩し建ち並ぶ土産屋を覗いたりと、散策しながら少し遊ぶことにした。

 出船時刻まで少し時間があった。せっかくなので、船上からの景色をスケッチした。(湖を塗りたいというので、波の表現を手伝ってもらう事にした。)

芦ノ湖からの眺め
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芦ノ湖からの眺め

 「桃源台」から「箱根町」へ。関所跡などがある箱根町は昨日歩いているので下船せずにそのまま乗って、そこからさらに「元箱根」へ向かう。

 船から「箱根神社」の鳥居が見える。歩いても1km程なのだが神社までは行かずに湖畔の町並みを少し歩くことにした。お土産を物色するためだ。西武の双胴船も遊覧しているが、その発着所が大きな売店になっている。

芦ノ湖からの眺め
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湖畔 元箱根の町並み

 美味しそうな構えの蕎麦屋がある。湖畔の蕎麦屋さんというのは、どうなのだろう。構えに違わずに美味しいものなのだろうか。どうも、いまひとつ湖畔での食事は気が引けてしまう。

 街道には大きな鳥居などもあって雰囲気がある。箱根神社への鳥居だから、この繁華な道は参道という事になるのだろう。

 湖畔の道沿いは商店が続いているが、ここで行列の出来ている店を見つけた。「腸詰屋」、生ハム・ソーセージの専門店(2009.09.27 「箱根 秋を楽しむ」:ハム・ソーセージ)だ。自家製のさまざまな種類の中から試食してお土産を選べるが、店内でもハムやソーセージを使った軽食を食べられる。種類が豊富で、しかもどれを試食しても美味しいので、目移りしてしまう。
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 そこから帰路についた。箱根新道を通る急行バスなら「箱根湯本」まで30分で着くと言う。

 新道は快適な道路で、そこを路線バスとは思えない速さで走る。あまり早いので車窓からの景色は写真に撮れなかった。途中で敵討ちで有名な「曽我兄弟の墓」や「国道最高地点」などを通過したが、判っていれば写せたかもしれない。

 この早い道もついに渋滞につかまってしまったか、と思ったら、そこはもう箱根湯本の駅前通りだった。

小田原城址 天守の石垣

 箱根湯本は早川を挟んで「早雲寺」があり、北条三代が祭られている。川岸は遊歩道で続き、たしか手前は公園になっていて遊ぶことが出来たと思う。そこを歩くのも良いのだが、箱根の山から早く戻って(湯本から特急に乗らずに)小田原の街で遊ぶ、というのは朝思いついた計画だ。

 文久三年創業の老舗で味わう「駿河湾の干物(「山安」)(2009.09.27 「箱根 秋を楽しむ」:小田原の干物)」、かまぼこ(老舗の「鈴廣」)(2009.09.27 「箱根 秋を楽しむ」:かまぼこ)などは湯本よりも小田原のほうが美味しいだろう。さらに私としては、小田原城に行った記憶が無く、そこに行ってみたかったのだ

 駅前の商店街から城まではそれほどの距離があるわけではない。お土産屋さんや名物の老舗を覗きながら楽しい街散歩が出来る。それぞれの直売所は駅前にあって、「山安の干物」も「鈴廣の蒲鉾」も街歩きのあと、小田原駅への帰り際で買える。それに、巨大な提灯が吊るされた小田原駅にはデパートが併設されているから、そこでもいろいろ(2009.09.27 「箱根 秋を楽しむ」:抹茶ソフト)と旨い物を吟味できる。

 さて、小田原だ。江戸開府以前は今川氏の駿河(するが)とならび海内一の繁華な城下で、北条家(ほうじょう)を継いだ「伊勢新九朗(いせ しんくろう)」がその拠点とした歴史の深い土地だ。
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<北条早雲(ほうじょう そううん) と 小田原城>

 新九朗は出家し「早雲(そううん)」と号し、実は自分自身では「北条」を名乗ってはいない。

 駿河「興国寺城」主で今川氏の配下であったときに堀越公方(京都を本拠とした室町幕府家の関東探題的な位置付け)方の堀越御所を簒奪し、駿河の隣国である伊豆を支配下に置いた。小田原攻略以前の居館を北条家発祥の地の「韮山(にらやま)」において伊豆を治めたので周囲は彼の血統を北条姓で呼び、それが定着したという事情による。そのため、鎌倉幕府執政の北条氏−初代将軍 源 頼朝(よりとも)の妻の政子の家系:代々幕府執権となって権勢を振るう-と区別して、歴史的には「後北条氏」と呼称している。

 早雲は室町幕府で将軍の申次衆をしていた若い頃、都で「応仁の乱(おうにんのらん)」を経験しているが、その後に台頭する足軽(土地に密着しない傭兵・武装集団)と共に、戦国時代の「下克上(げこくじょう)」の気風を招いた人だ。

 出自は「平氏」で「平 高望(たいら たかもち)」を祖とし、同族(同時代ではない)として「熊谷直実(くまがい なおざね)」、「北条時政(ほうじょう ときまさ)」などがあり伊勢家の家系であるが、年を経てから忽然と歴史の表面へ現れたために、正確には判らない。

 下克上とは、幕府から任命された貴族出身の国司(守護職)に代わって独立開拓農場主としての武士が自らの勢力を頼りに国を治める、といものだ。その戦乱の世の契機が、当時から難攻不落とされた小田原城を巡る戦いだった。西相模を支配していた大森藤頼(おおもり ふじより)が納めていた小田原城を奪取すると共に領国の支配権を奪った。その後、東相模の名族である三浦氏を滅ぼし、80歳となっていた早雲(小田原攻略の63歳から17年後)だが、相模の国の支配権を確立した。

小田原城
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 早雲が起こした(後)北条氏の勢力は伊豆・相模からさらに駿河以東の近隣諸国を順当に支配下に置き、勢力を関東全域に広げていった。

 早雲から三代後の氏康(うじやす)は祖父譲りの軍略家であり、ついにその治世中に関東を席巻し、ことごとく領地とした。

 後に北条氏は豊臣秀吉に滅ぼされ武家としては五代目の「氏直(うじなお)」で絶家となる。たが、その際の生産量は300万石。箱根以東に独立した政権を樹立出来るほどの巨大勢力であった。

 室町典礼(小笠原、伊勢、後には吉良などの「高家(こうけ)」)の家である伊勢家、その一葉として礼節の家の流れを汲む早雲。北条氏の根拠地の小田原は関東の文化を築いた歴史がある。

小田原城 小田原城址:
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小田原城址の公園 小田原城址:

 城下として栄えたのは後の江戸時代のほうが比較にならないほど長いが、風土・文化的な基礎は北条三代で完成していただろう。

 その城下町なので神社仏閣や様々な遺構など、色々と興味が尽きないものがあるだろうが、すでにいい時刻だ。いろいろな史跡を訪ねることは出来なそうだ。

 復元された小田原城へ行って、本丸を望み、大手門跡などを楽しむだけになるだろう。

小田原城址:
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小田原城址:堀 小田原城址

 小田原城は北条三代の頃が最大の規模を誇っていて、外郭(城の総構え)は9キロに及ぶ広大なものだ。北条氏が絶家となり、その後は大久保氏、稲葉氏、再興後の大久保氏と数家がこの地を収めた。北条氏後に規模が縮小されてほぼ現在の形を大久保氏が作り上げたという。

 天守は江戸期の二回の大地震(元禄の地震で構造物のほとんどが倒壊)で壊滅し、さらに明治の初めに廃却されて現存していない。

 豪壮な今の天守は、1960年に小田原市によって再現されたもので、旧来の構造とは違っている。最上部の望楼は江戸期には無かったらしい。
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小田原城址:

 現在、復元事業が行なわれて江戸末期の姿として幾つかの構造が復元されつつある。

 城跡の正面側の幾つかの建物で、堀脇の「二の丸隅櫓」、そこから橋を渡って大手口となる「銅門」、さらに「常磐木門」などが復元された。さらに、今も二の丸側では工事をしている。すべてが完成、整備されたら素晴らしいと思う。

 新潟や群馬で「上杉謙信(うえすぎ けんしん)」が、山梨や長野で「武田信玄(たけだ しんげん)」が、今も変わらぬ人気を持っているように、小田原の人は戦国の英雄であった北条氏を深く愛しているのだろう。

小田原城址 小田原城址
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