ポタリング のインデックスページへもどる ポタリング の ページ      Top Pageへ移動Top Pageへ移動             このページを閉じる 閉じる

2010.09.11
高麗(こま)の里へ

走行距離;
 104km ;走行時間 5時間9分

        往路;「秋ヶ瀬(あきがせ)」公園入り口に集合

            「荒川サイクリングロード」にて
                浦和・与野・大宮 > 上尾 > 桶川 > 川島
            「比企丘陵サイクリングロード」にて
                川島 > 坂戸(高坂) > 鳩山 > 毛呂山(もろやま) > 日高

        復路; 日高 > 坂戸(高坂) > 川越 > 富士見 > さいたま新都心


カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24−72mm F2.5−4,4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)


 「秋ヶ瀬(あきがせ)」公園(2008.03.09 「秋ヶ瀬への自転車散歩」)への入り口、浦和と新座を結ぶ「羽根倉橋(はねくら)」橋のたもとを出発し、「荒川CR」を北上する。上尾を過ぎて桶川の「太郎右衛門橋」から川島町・川越方面へ進路をとる。川島町から少し南下して坂戸・入間方面への道へ抜け、「比企丘陵CR」へ入って進み、さらに高坂を経て西進し、日高を目指す。

 金色に輝く稲穂を眺めつつ晩夏の武蔵丘陵を走り抜ける、というのが今回の主要な進路だ。

 今回の企画は、先日の「武蔵嵐山に源氏の英雄を訪ねる」(中世の城館跡を訪ねる: 2010.07.17 「荒川から武蔵嵐山へ」)での「武蔵嵐山(むさし らんざん)」までのコースと重複する部分が多い。到着する場所としては、前回の東松山・武蔵嵐山からは一山(小高いボリュームのある丘陵)を超えた南側にある「高麗(こま)の里」を目的地にしている。

 今回の参加者は1人。ロード2台でということだが、息の合った相棒氏(仲間)との軽快な走行を愉しむことができると思う。

武蔵丘陵森林公園CRの案内
 さいたま武蔵丘陵森林公園自転車道 (荒川サイクリングロード:荒川CR  ;アラサイ)
ページTopへ移動
<予定コースの概要 − 荒川サイクリングロードから高麗(こま)の里へ>

 今回は先日の「武蔵嵐山(むさし らんざん)」と途中まで同じコースになるので、浦和にある「羽根倉橋(はねくら)」橋が基点となっている。

 そこは「秋が瀬公園」への入り口なのだが、そこから、浦和側へ続く公園とは逆に上流へ向かい、荒川左岸の河川敷に続く「さいたま武蔵丘陵森林公園自転車道(荒川サイクリングロード:荒川CR 通称アラサイ)」に出て、与野、大宮と荒川CRを走る。

 川越に向かう国道16号線の「上江(かみえ)橋」を渡り、入間川との分岐地点から河川敷に降り、いつものように両方の川を隔てる河川敷の土手に沿って「桶川(おけがわ)」まで直進する。

 前回は「吉見(よしみ)」へ向かい「東松山(ひがしまつやま)」を目指し、そこを抜けて最終的に「武蔵嵐山」へ向かったわけだが、この時のコースは少し北に向かい過ぎていて、だいぶ迂回的に走ってしまった。今回は武蔵嵐山より南を目指すので、それほど北上する必要は無い。だから、荒川CRとは桶川の「太郎右衛門橋」入り口で分かれ、川島町をいったん川越方面へ向かって南下していく。県道12号線を走るわけだが、この通りは時間によっては車の交通量が多いので、早めに県道を外れて脇道へ入ることにする。田を挟んで一本横の道を走れば安全だし、方向が狂うことも少ない。

 右手に「圏央道」が見えて来たら、コースを西にとって進む。稲穂が色づく田園地帯を走り、「都幾川(ときがわ)」の岸辺へ向かう。 そこから国道407を渡って「高坂(たかさか)」方面へ。このあたりの整備された農道は車の通りが少なく見通しも良いので、安全に一定の速度(平均28Kmくらい)で走ることができる。

 黄金色に光る稲穂を見ながら快適に走り、「高坂」からは、南下しつつさらに西へ進んでいく。高速(関越道)を過ぎる辺りからは、徐々に上り勾配が現れ始める。西に向かうに従いあたりが丘陵地帯になるので、若干の坂道を登る事になるのだ。

 おおむね丘を巻いて走ることができるが、それでもいくつかの丘を越えなければならない。「日高(ひだか)」に入るとその「丘超え(ヒルクライム)」は本格的になって、ずっと登りが続く事になる。いや、ただし峠道ではない。だから山岳を走るようなハードさは無く、ちょっとした<負荷トレーニング>と考えれば、うってつけの環境が用意されているといえようか。

 いくつかの丘を登れば、やがて日高の街に入る。日高市役所のあたりはまだ山ではないが、目的地の「高麗(こま)の里」は山並が始まる場所だ。美しい渓流として有名な「高麗(こま)川」を渡って目的地の「高麗神社」へ向かうが、そこがこのコース最大の坂道となろう。

荒川CR 「上江橋」
ページTopへ移動
<コースの実走>

 大宮から川越へ向かう荒川上に掛った「上江橋(かみえばし)」の中ほどから、荒川と入間川の岸沿いの土手道へ降りる。前回は夏の盛りで、旺盛な夏草の繁茂は無理も無かったが9月中旬の入り口となった今もコースの周りは鬱蒼とした夏草に覆われている。

 先日の雨ふりから少しは涼しい日になってきた様だが、猛暑は衰えを知らず、この日もすっかり夏の陽が照っていて、眩しい日差しを浴びつつ走ることになった。

 「入間大橋」を抜け、大型ダンプが盛んに走る県道339号(大宮・川越間の国道16号線の抜け道)を僅かに走ってすぐにホンダエアポートがある「川田谷(かわたや:川運で栄えた集積地)」へ向かう道に入って進む。桶川と川越への県道を結ぶ「太郎右衛門橋」から、荒川CRを外れ、県道12号線を川越方面へ進む。

 この県道は、桶川ポタリング(2009.11.07 「秋の武蔵野を走る」)の際に、桶川から夕闇迫る川越に向かう際に走った道だ。

荒川CR 「ホンダ航空」 川田谷(かわたや:桶川)、
荒川の右岸にあるホンダエアポート


もちろん運営は本田航空(ホンダの関連会社)
ページTopへ移動
 「秋ヶ瀬(あきがせ)公園」の入り口から太郎衛門橋のたもとのポイントまで一時間掛らずに走って来たが、本日は実に快調なペースになっている。

 前回のペースは遅く、この時点ですでに予定より30分遅れで走っている状態だった。「さきたま古墳群」を目的にした「行田(ぎょうだ)(2010.03.13 「荒川から行田へ」)」の際も同様だったが、今回は別次元のペースといえよう。今のところサイクリングロードでの走行というメリットもあって平均車速は28kmほどを保っている。

 こうしたペースだと「まさに、風を感じて走っている」ということを体感できる。日差しはきついが、みずからの速度が一陣の風となって、走っていても爽快でいられるからだ。

 問題は、猛暑の中、バテる事無くいつまでこのペースを維持できるか、ということだろう。

川島町 すぐそばの小川で素晴らしい生物を見つけた。

幾重にも連なってすばやく泳ぐ
小さな魚の群れだ。

黒メダカ、だろうか、またはハヤか・・・。
ページTopへ移動
川島町「氷川神社」の大けやき 川島町「氷川神社」の大けやき

川島町 氷川神社の大けやき


氷川神社といえば、やはりケヤキが関係するのだろう。

<比企丘陵自転車道 へ出て 都幾(とき)川沿いを進む>

 田園地帯の直線道路や、その周辺の集落の道(曲がりくねった昔ながらの村内の道)を走り抜けていたら、あたりが見覚えのある景色になって、いつの間にか前回の国道254号線と交差する場所に出た。これを超えればもうすぐに「鶴ヶ島」や「高坂(たかさか)」ということだ。

 先日の走行から考えると、ずいぶんあっけなくこの場所(川島町の郊外)へ来た事になる。ほぼ県道74号線に平行して脇道を走って来たようだが、ほどなく、「都幾川(ときがわ)」の岸辺へ出た。橋を渡って広域農道として整備された農免道路を進んだ。

 前回、田園地帯に忽然と現れたので少し驚かされたショッピングモールのところまで順調にやって来た。前回の様にここでまた食事をしても良いか、と考えた。

 モール内には前橋にある名店「登利平(とりへい)」があり、そこの「御用鳥追い定食」は私の大好物だからだ。時刻は12時なので食事をするには丁度良いが、もう少し走って、ポタリングに相応しい出合を求めよう、ということになった。まあ、今日の状態はいつもの「のんびりムードのポタリング」ではなく、サイクリングと呼んでも恥じない状態だ。ペースが良いので疲労度合が少ないといえる。だから食事は、別段のんびり・ゆったりと採る必要もない状況なのだが、どうしたものか・・・。

 先日はこの場所に来た時点ですでに1時30分近い時間だっか。それから思うと今回の行程は、やはりいいペースが保たれている。
ページTopへ移動
川島町「氷川神社」の大けやき

 高坂の手前で国道407号線に出て、そこを南へ向かって走った。そして東武東上線の「高坂」駅方向へは向かわずに、だいぶ南の北坂戸の手前辺りから高架を走って東上線を越えた。

 県道248号、途中から名称が変わって343号線にほぼ沿って走った。行政地名で言うと、「鳩山町」ということになる。鳩山は横に長く、東松山と坂戸・鶴ヶ島に挟まれた丘陵地帯だ。

 前回は、高坂インターのほど近くで国道344号線で東松山方面を目指し、途中で関越自動車道を潜り、県道41号線を武蔵松山カントリークラブ方面へ向った訳だが、今回は南下を基本にして進んでいく。

 関越自動車の脇、東松山の「こども動物公園」は丘陵を巧みに利用した美しい公園だ。まあ、ひと山すべてが公園として利用されているという感じだが、その公園を挟んで北側に大東文化大、南側に東京電気大のキャンパスがある。この辺りはちょっとした高度を持つ丘で、僅かに登らなければならない。うまい感じで丘陵を巻いて平地を選んで走っていると「越辺川(おっぺがわ)」の川筋へに出た。


 県道343号線は越辺川に沿って川の北側に蛇行して続いている。その流れを横手に見ながら、いくつかのアップダウンを超えて、軽快に丘陵地帯を走り抜けていた。

 しばらくして、どうも越辺川の様子がおかしいと気になり始めた。私たちは「毛呂山(もろやま)」方面へ向かっていたのだが、川からは大きな流れが無くなり、水面が岸辺まで満ちた状態ではなくなってきた。

 丸く削られた一抱えはありそうな大きな石が瀬の脇に並んでいる。川が山間の急流の様相になり始めていたのだ。急いで、手近かな橋で越辺川を跨ぐ形で南下を始めることにした。

 いや、さすがにこの状況はおかしかろう。心配になったので、携帯電話で確認することにした。あいにく地図を携帯しなかったのだが、持っているi-PhoneにはGPSが組み込まれていて現在地がピンポイントで判る。画面で表示される地図を見て少し驚いた。なんと、もうすぐそこが「越生(おごせ)」の街なのだ。越辺川の源流は越生の「黒山三滝(女滝、男滝、天狗滝)」の逆側の峰にある。 私は、そこで源流地点を確認している。その事が印象に残っているので、川に沿っていてはやがての越生まで行ってしまうという事が充分に判っていた。
ページTopへ移動
 けれど「東武越生線」での川越・越生間の行程は随分時間が掛かった記憶があって、しかも自転車での移動なので「越生」などはまだまだずっと先だと思っていた。

 なぜなら「越生」といえばそこはもう完全な<山>ではないか。それがもう、ほんの少し先だ、という。

 現在の最寄り駅が「東毛呂」駅。次は「武州唐沢」駅、そしてその次が「越生」駅になる。なんとここから越生までは、もう僅かに私鉄の二区間だけであり、私たちはそんな位置まで進出してしまっていたのだった。

 ひとまず東武越生線の路線沿いに道を南にとって進むことにした。さほどの無駄ではなかろうが、20分ほどは遠回りをしたようだ。

 疲労もたまって来たし、何よりそろそろ昼食も気になり始めていた。

 坂戸から鳩山町に続く県道343号線は幹線道路の様相があるが沿道には店舗が無い。休憩もしたいし昼食も採りたかったので、街並みが望めそうな「沢田」という交差点で進路を変えた。県道114号、続いて39号線がそこから南下して続く。しばらく進んでも、店が見つからない。駐車場に車が見当たらない、聞き慣れない店名の回転寿司の店舗があるだけだ。

  しばらく進むと「がってん寿司」があった。このチェーン店のネタはいいのだが、均一値段ではなく少し高めの設定なので、折角だったが通り過ぎることにした。鮎や鱒など、渓流の魚ならばまだしも、なにもこんな土地に来て鮮魚でもあるまい、と思ったのだ。

 「川角農協」の交差点で県道を逸れて、工業団地だろうか配送センターだろうか、というような工場風の集中地区に入った。食事ができるような店を探したが、ここもまるで店が無い。

 いっそ、越生線の線路わきへ出て手近かの駅前に行けばよかったのだが、その考えが浮かばなかった。工場地帯を抜けて住宅地に入り、そこも抜けて「何も無い」と諦めたところで越生線の踏み切りに出会った。あとから考えると水分切れもあってか的確な判断が出来ず、団地の中を少し迷走したようだ。

「武州長瀬」と「川角」駅との間になる。埼玉平成高校通り」ゆたか寿司」

<早めの 本日の旨い物   川角駅 「ゆたか寿司」の定食>

 ふと、踏み切りの先を見ると寿司屋さんの看板がある。「武州長瀬」と「川角」駅との間になる。帰宅後に調べたら、埼玉平成高校通り、踏み切り際といった場所だった。

 まあ、回転寿司よりもよかろうと、店の前で考えた。店先に置かれた小さな黒板に品書きが書かれていて、それがどの品物も、随分と安いのだ。「迷っている場合か」という雰囲気になって、店に入ってみた。

 店は実に雑然としているが、カウンターと座敷という設えの昔ながらの寿司店の雰囲気を残す造作になっている。入り口脇の洗面台の周りには漫画や雑誌が積まれていたりして、まるで近所の床屋のようでもある。まあ、地域に根付いて地道に商売を続けている、ということだろう。

 街の寿司屋さんはどこも淘汰されてしまい、もうすっかり見かけなくなってしまった。昔はどの町内にも必ず寿司店があって、何か「モノ日」だったり、親の機嫌のよい日には家族そろって出掛けたものだ。
ページTopへ移動
 カウンターには先客がいて、本来は広い座敷なのだろうが、そこは老齢のオバサンたちでいっぱいの状態だった。ひとり、中央に男性が居たので、同窓会か或いは何か趣味の会での寄り合いだったようだ。ビール壜なども並んでいて、どのオバサンも元気いっぱいに声高に喋っている。

 どうやら、食べ終わっての歓談中のようで、一安心した。彼女たちが食事前だったら、私たちの作りの順番になるまで、大分待たなければならなかっただろう。

「ゆたか寿司」の昼定食 「ゆたか寿司」の昼定食の茶碗蒸し

 品書きの値段には目を見張ったが、固定ファンも多いようだ。

 まあ、あのボリュームとサービス、そして値段だから、ファンが居ないはずが無い。いや、ファンなどというものではなく信者に近い熱烈なものがありそうだ。何よりも、ご主人のサービス精神とそれを支える女将さんの愛嬌・愛想の良さは、いまどきの店では味わえないものがある。

 「客商売は、こうでなくちゃ」と改めて思い知らされた体験だった。

 ちなみに「山かけ丼」と「つけ麺」を注文したが、大将に止められた。2品を頼もうと思ったのは私が大食いのためではなく、勝手にその値段から量が少なかろう、と考えてのことだった。確認したら、普通の量を出すのだという。

 では「山かけ丼」だけ、という事でお願いしたら、茶碗蒸しの小鉢がビールの大ジョッキと共に出てきた。ジョッキには透明の液体が満ちていた。「えっ、酎ハイ?」と思ったが、それは水だった。今日の天気と私たちの様子を見てのサービスだったらしい。ジョッキの水をガブガブと1/3ほど飲んだ頃に、寿司屋の湯のみで日本茶が出てきた。

 ・・・こうした心使い、まるで石田三成と豊臣秀吉の出合いの情景のようではありませんか。

 店の場所が良く判らなかったので、調べてみたらこんな先達のページを発見した。
ページTopへ移動
しまった、写真・・・

写真を撮るのも忘れ、一気に食べてしまった海鮮丼。
「ゆたか寿司」の昼定食のスープ

 私の注文で出てきたのは、「海鮮丼」で、お願いした「山かけ丼」では無かったが、無論こちらでOK。あまりのボリュームに肝をつぶして一気に食べてしまった。そのため、食事の写真を撮るのを忘れてしまった顛末が付く。

 お鉢の内容としては、ハマチやマグロ、タコやイカ、エビ、それに中落ちなどなど・・・。なんとも豪華な状態だ。ほかにも多くの具材が盛り沢山に入っていたが、もう内容が良くわからない。

 そうそう、ちらし寿司での初体験だったが、生タラコも入っていた。これが寿司飯と相性がよくて案外にいい味を醸していた。

 大満足の一品、お値段はなんと僅かに380円だった。

 数年ぶりに巡り合った<奇跡>としか、言いようが無い貴重な体験だった。
ページTopへ移動
<さあ、日高へ>

 すっかり、満腹になって気をよくしたが、張ったお腹に苦しい思いをしつつ、自転車に跨った。

 ここまでくれば、あと一息で目的地の「日高(ひだか)」の町だ。

 ボリュームのある定食を食べて大分満腹の状態なのだが、この日は快晴だったので、随分と水分を採った。およそ45分に一度、コンビニや自動販売機で水を買った。様々なメーカの多様な500mlのペットボトルの水だ。さながら飲み比べといった様相を呈して、天然水だのビタミンウォータだのアミノ入りだの、さらには栄養ドリンクといった、様々な種類のものだ。

 自転車には、1000mlのゲージを着けて、別途500mlをサイクルジャージの背中に入れて出たが、背中の水は、川島町までに無くなってしまった。その後、自動販売機やコンビニが目に付くたびに、ペットボトルを買って飲んでいる状態だ。もう4リットル程度は水を飲んでいるかも知れない。ゲージの水はとっくにお湯の状態になっているので、こちらは顔を洗うのに使っている。

 昼食でも生ビールの大ジョッキで水を飲んでいるが、少しも間に合わない。

 時間はもうじき3時になる。あと30分くらいで日高だろうから、しばらくは頑張って漕ぐしかない。

 おなかはキツイが、ペースを落とさずに走った。

 徐々に坂道が現れ始めた。ひとつの坂を登ると、また新たな坂が現れる。先日見た今シーズンのツール・ド・フランスの山岳ステージでの映像イメージが頭をよぎる。

 先日、私の自転車はハンドルを取り替えた。腕の幅が狭まりさらに肩から握りまでの位置が近くなったので、立ち漕ぎが従来より楽になった気がする。ウエイトを自転車の前側に乗せて、せっせと漕ぎ続ける。

 坂の途中で「日高市」に入ったことを示す行政区の境界標識が現れた。やっと目的のエリアに入ったのだ。この坂を登れば日高の町並みが見えてくるに違いない。

 きつい坂道でもペースを落とさずに登ったかいあってか、標識を過ぎると少し道が平坦になってきた。

日高、長澤酒造
ページTopへ移動
醸造蔵 長澤酒造:大きなかまど

<日高 長澤酒造>

 越生(おごせ)や小川町は、越辺(おっぺ)川や都幾川(ときがわ)の水流で生活を潤してきた町だ。

 太古から栄えた街の歴史があるが、街中を流れる清流を生かして、町には今も続く「造り酒屋」がある。ここ、日高も高麗川の清流に恵まれている。だから、日本酒の酒造があって、地酒が楽しめる。

 今のご時勢、日本酒の蔵元は随分大変で、市場では焼酎やビールに追われている、という話を聞いた事がある。

 昔気質に日本酒一本でやっていると、商売としては実に厳しい状況に置かれたものになるらしいのだ。

 原料としての良質な米を常に確保しなければならないが、蔵元は生産者に直結はしていないし、そもそもが地元の需要だけを満たしてきたので大量一括仕入れでの大量生産という事ではない。このため地酒の造り酒屋さんでは、仕入れコストを下げる事に関しては厳しいものがあるという。

長澤酒造:大きな釜 長澤酒造:大きな蒸篭
ページTopへ移動
長澤酒造 長澤酒造

 この酒蔵は、県道を走っていて横手に見つけ、清潔な佇まいに吸い込まれるように寄ってしまった。いや、店先の杉玉を見たらもう堪らなくなって立ち寄ってしまった、という訳だ。

 普段は酒を飲まない同行の友人が、珍しく「試飲できますか」と聞いている。その問い掛け店番をしていた女将さんが快く用意をして下さった。透明のガラスのお猪口で試飲した銘柄が、<端麗>というか、何とも素晴らしい味だった。

 多くの地酒は、むしろ少し色が着いた状態なのだが、出された地酒は透明度がひどく高いものだった。

 それを飲んでみると喉越しに「切れ」があってスッキリとしているが、僅かな余韻が残った。これが少しもしつこくないのだった。後味として口に残った状態が、甘い感じに変化しないでそのままの爽やかさ、なのだった。

 その余韻は、薄っぺらな感じがしないものだが、重厚という状態ではない。鳴き始めた秋の入り口の虫の音を楽しむような、豊かな安らぎがそこにあった。

長澤酒造の銘酒  試飲したのは、「秋の詩」 爽やかな純米酒だ。
ページTopへ移動
建郡 1300年

 前々回の「さきたま古墳群(2007.07.22 「さきたま古墳群と古代蓮(行田)」)」へのポタリングでは、古墳時代がその背景だった。

 前回の目的地はずっと時代が下っていて「鎌倉時代」の初期。「鎌倉時代」の幕開けは波乱に富んでいるが、実に興味深いし、埼玉あたりは戦国時代の関東管領家や北条方の攻防戦の主要な舞台でもある。

 それが今回、また時代は昇って古墳時代晩期。舞台は7世紀末の環日本海から武蔵野の地との係りであり、716年のあたりにまで遡る。

 7世紀の朝鮮半島の北部には「高句麗(こうくり)国」があった。ツングース系(女真人や満州人と同系)の民族が栄華を誇った王国で、紀元前1世紀から7世紀後半まで栄えた歴史を持つ。高句麗は新興国の「新羅(しらぎ)」によって滅亡させられたが、その際に多くの人民が亡命し渡来人として定着した。716年、各地に散在していた1800名弱の高麗人をこの地に集めて移住者を中心にして「高麗郡(こまぐん)」が設置され、郡長として「若光」が赴任した。

 716年といえば奈良時代で、律令国家としての日本がその骨格を固めた時代だ。「行基(ぎょうき)」が日本各地を行脚して大仏殿建立の寄進を集めていた頃だ。

 「高麗神社」は渡来の王族、「若光(じゃくこう)」を祀る神社だ。今に続く宮司家はすでに60代目だという。宮司家の発起は「若光」だ。初代の郡長だが、朝廷から王(こにぎし)位を贈呈された。このため一般には「若王」と呼ばれている。

 しかし、彼は渡来人であり、高句麗の王朝貴族を出自とすれば、さらに数代に渡って遡る家系を持っていよう。「百済(くだら)」王家の末裔同様に、早い世代で国人と同化したであろうが、目のくらむような歴史がそこにある。しかも歴世、宮司として連綿と続いているのだから凄まじいといえよう。

 武家ではないが、氏(高麗族)の長者といえようか。

高麗神社 拝殿
ページTopへ移動
高麗神社 拝殿 高麗神社 拝殿

<高麗(こま)神社と高句麗人>

 古代、律令制の日本では先端技術を盛んに輸入していた。門戸を世界に広げていて、国際的な交流の中にあった。

 当時の半島は大陸に次ぐ文化的な先進地帯で、製鉄や陶芸をはじめ仏教(寺院の築造)や多くの要素で、進んだ技術を持っていた。後進の日本としては画期的な生産性を産業で発揮するためには、これらの先進技術を必須としていた。だから、万難を排して先進技術の移入に国家的な規模で取り組んでいたといえよう。

 遣隋使や遣唐使は大陸の超大国を目指し、そこからの技術、仏教、文物などの導入を目的とした国家プロジェクトだが、こうした大陸への働きかけとは別に半島とも盛んに交流を保っていた。

 王朝の歴史と半島との関わりには興味が尽きないが、多くの渡来人(帰化人)を中枢に取り込んで、氏としてその階級を保障し、彼ら技術者集団を尊び、氏姓(うじ かばね)を下賜して国家的な厚い庇護のもとに置いた。秦(はた)氏:6世紀頃に朝鮮半島から渡来が律令的には有名だ。上村?(かみのすぐり)一族や軽部(かるべ)、君子(きみこ)、大伴部(おおともべ)、丸子連(まるこのむらじ)などの百済系渡来人も名高い。

 律令制前期、半島での新興国である「新羅(しらぎ)」により668年に滅ぼされた「高句麗(こうくり)」からは、王族を始めとして多くの人々が列島に渡来し、各地に土着した。

 そうした「高麗人(こまびと:高句麗からの渡来人)」を組織化し、朝廷からの支配下に置くため、武蔵野の原野に入植させたのが、「高麗郷」の始まりだ。首長には、日本に滞在していて半島へ戻れなくなった高句麗の王族である若光を郡の長官である国司として任命し、郷の統率に当たらせた。

 草深い関東の各地、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野などに分布した高句麗からの渡来系の人々を集め、さらに山岳が始まる荒野だったであろう奥武蔵ともいえるこの地域へ、集参させたのだ。

高麗家住宅 
400年前に建てられた家屋を保存している。
勿論、屋根の萱などは葺きなおしているが・・・。
スタンプラリー
ページTopへ移動
高麗家住宅

<高麗(こま)神社の霊験>

 高麗神社は、社歴が古く、創建は710年前後。すでに今年で1300年の歴史を持つ。宮司家は、初期の首長として朝廷から官位を授かって、郷を統率した「若光」の直裔である。すでに当代で60代目を数えると言う。武家ではなかったため、現代まで連綿とその系譜が続いのだろう。武蔵七党の各家のようであったら、とうに滅んで、その家系は現在には伝わってはいまい。

 その「若王」を祭るために建立され、後に神道の古社として整備されたのが「高麗(こま)神社」だ。

 実に霊験はあらたかで、昭和初期この神社に参拝した有力な政治家が後に総理大臣となったため、「出世明神」とも呼ばれた。それが数人ではない。歴代首相中の6名(浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎)がこの神社へ参拝後に首相を拝命しているという。しかし、これは政治的有力者が地方を訪れた際には、その地の古社へは参拝するであろうから、半ばは眉唾ものだろう。

 そうは言っても、この神社の霊験はあらたかで、試験の合格祈願や厄除け、願の成就など、語ればその例は数限りないものと言えよう。

 かく言う私も、過去にこの神社へお参りして、その霊験に預かっている。
ページTopへ移動
高句麗の壁画(朱雀:南) 高句麗の壁画(青龍:東)

 建郡(高麗郡)から1300年を記念した行事が、さまざま行われている。

 「高麗」の発祥は高句麗であり、現在の北朝鮮の地となる。かの国とは国交はないが、その関連の展示があった。天の四方の方角を司る霊獣の図だ。

 これはかの地で発見された廟内の壁画だ。現在はユネスコの世界文化遺産として登録されている高句麗古墳群のものだという。青龍・白虎・朱雀・玄武、(せいりゅう、びゃっこ、すざく、げんぶ)の東西南北を守護する四神がそれぞれの方位の壁面に描かれ、その壁画をこうして神社の建物(拝殿脇の記念堂のような建物)に掲示していた。実物としての壁画は290*200cmであるというから、かなりの大きさだ。

 貴人図や四獣神の図は、高松塚古墳などの例があるように日本でも発見されているが、これほどの規模(図版の大きさ)ではない。

高句麗の壁画(玄武:北) 高句麗の壁画(白虎:西)
ページTopへ移動
 四体の獣神は方位を邪(異界の魔物)から守る聖なる守り神だ。いずれも空想上の生物だが、それぞれの方位と、自然界での物象に置き換えられて考えられている。

 平安京を支配した陰陽道での都の守りは、やはりこれらの神が司っている。

 南の朱雀を海や川、青龍は大川、玄武を台地、白虎を原野として捕らえたのが古代律令制での都市化の前提だ。京都の平安京、奈良の平城京はもちろんこの陰陽道にのっとって都市計画が行われたが、近世に開発された江戸の町も同じ考えかたによっている。

 南を江戸湾、東を隅田川、北を上野山や駿河台の山や台地、西を府中方面へ続く武蔵野の原、とし、その中央に神に守られた江戸の都市を置く。

高句麗の壁画の四神
四神 完了
ゆるキャラ?

 神社では、この方位を守る四体の神をスタンプにして、ラリーの企画を行っていた。

 僅か2箇所でスタンプを押すだけなのだが、ゴールで景品がもらえた。それは「高麗の里」の来歴が分かるクリアフォルダーだった。

 この「高麗郡 建郡1300年記念」の企画では、イメージキャラクターが設定されている。「トライ(渡来人にちなむ)君」と「ミライちゃん」、それに「ナビにゃん」だ。なぜ、猫が登場してくるのか、その理由がちょっと判らない。

高句麗の壁画
高句麗古墳壁画 「狩猟図」
ページTopへ移動
若王を祭る 若王を守る

 高麗神社のほど近くに、大きな寺院があった。

 この寺は、元来は高麗王の「若光」を祭った霊廟から始まったらしい。堂宇としては、入り口に大きな山門があり、丘を登った上に講堂やその他があるようだ。

 階段を登った奥に鐘突堂や塔などがあり、ちょっと見ものだったようだ。拝観料をとるので階段を登るのは止めにし、若光(若王)を祀った素朴なお堂だけをお参りした。
ページTopへ移動
巾着田

 ここからの帰路は、そのまま川越に向かえば、さいたま新都心まで46Km。

 往路のペースに近い調子で漕げれば2時間少しで到達できる距離だ。時刻はちょうど4時を少し回ったところなので、7時前には帰り着ける計算になる。

 神社や寺のある高麗の里を後にし、高麗川へ出る。すぐ近くに「日和田(ひわだ)山 305m」が迫っている場所なので、行きは登りだが、帰りは下り道になる。県道15号線(川越日高線)に出て、そこをそのまま川越へ向かうことにする。

 彼岸花の群落(100万本)で有名な巾着田を偵察して、まだ咲かぬ炎のような紅い花に想いを馳せた。

 県道へまた戻って、さいたまへの岐路につくことにした。
ページTopへ移動