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2010.07.17
武蔵嵐山へ(武蔵丘陵を走る)

走行距離;
 74km ;走行時間 5時間10分

        往路;JR高崎線 「さいたま新都心」周辺に集合
            「荒川サイクリングロード」にて
                浦和・与野・大宮 > 上尾 > 桶川 > 北本 > 
            「比企丘陵サイクリングロード」にて
                北本 > 川島 > 坂戸(高坂) > 東松山 > 武蔵嵐山

        復路; 武蔵嵐山 > 東松山 > 坂戸(高坂) (東武東上線)


カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24−72mm F2.5−4,4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)


 さいたまを出発し、「荒川CR」を北上する。上尾、桶川と過ぎて北本に入る。そこから北上をやめて、進路を西へとり「比企丘陵(ひききゅうりょう)CR」を進み、武蔵嵐山へ至る、というのが今回の主要な進路だ。

 私の企画、「武蔵嵐山に源氏の英雄を訪ねる」は、武蔵嵐山(むさし らんざん)にある「畠山 重忠(はたけやま しげただ)」の居館跡を目的地にしている。

武蔵丘陵森林公園CRの案内
 武蔵丘陵森林公園自転車道 (荒川CR)
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<予定コースの概要 − 荒川サイクリングロードから武蔵嵐山(むさし らんざん)へ>

 今回はいつもの「西浦和」ではなく「さいたま新都心」が基点となっている。

 そこから、荒川の河川敷に出て、与野、大宮と「荒川CR」を走る。川越に向かう国道16号線の橋「上江橋」を渡り、入間川との分岐地点から入間川の河川敷に降りる。

 上尾のあたりで入間川は荒川と分かれて川越方面へと曲がっていくので、私たちはそちらへは向かわずに荒川河川敷の土手に沿って直進し、「桶川(おけがわ)」まで直進する。

 CRの主コースは桶川から「北本(きたもと)」へと続き、そのまま「吉見(よしみ)」へ向かい、さらに最後は武蔵丘陵森林公園へと続いていく。だから吉見から別のコースを取り、東松山を目指し、そこを抜けて武蔵嵐山へ向かう。

 荒川の流路に沿って関東平野を北上していく。道の名前は武蔵丘陵と謳われているが、丘陵といっても僅かに登り勾配なだけで、斜度は無いに等しい。

桶川(おけがわ)周辺 荒川CRから分岐

<コースの実走>

 「上江橋(かみえばし)」の中ほどから、荒川と入間川の岸沿いの土手道へ降りると、コースの周りは旺盛な夏草に覆われていた。前回走ったときには、土手は菜の花に埋められて実に美しい状態だったが、今は丈の伸びた強そうな草に覆われている。

 季節はすっかり夏であり、眩しい陽を浴びて、CR上は多くの自転車が行き交っていた。

 夏草を縫うようにしばらく行くと、進行方向に入間大橋が見えてきた。河川敷のゴルフ場やモトクロス場などが両側に広がり、のどかな夏の景色を醸している。橋を抜け、車の走る県道339号を僅かに走る。

 すぐに桶川(おけがわ)の「川田谷(かわたや)」への道に入って進む。前回と違ってCRの整備が完了して、自転車専用道路は新たな舗装がされて快適に走ることができる。

 桶川と川越への県道を結ぶ「太郎右衛門橋」も過ぎてなおも進む。桶川ポタリング(2009.11.07 「秋の武蔵野を走る」)の際に、桶川から夕闇迫る川越に向かう際に走った長い橋だ。

 橋の手前の民間飛行場の「ホンダエアポート」も、そのまま通り過ぎる。ペースを落としてのんびりと走っている場合ではない。何せ、今回の目的地はまだまだ随分と先だからだ。
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荒川CR 北本付近 川島周辺

 もう、「北本(きたもと)」(2007.05.02 「武蔵野の里山(北本自然観察公園)」)へ入るという辺りで、荒川の支流を渡る。

 この地点で荒川CR(「武蔵丘陵森林公園自転車道」)は分岐して川島町を抜けて東松山方面へ向かう道と、そのまま「吉見(よしみ)」の先へ北上する道とにコースを分ける。

 普通に走っていれば、さいたま新都心からこの分岐ポイントまではおよそ一時間弱の距離で、今年の正月に独走したときは50分ほどだった。

 進路を相談し、吉見方面から東松山へ向かいそこから南下して武蔵嵐山へと辿るのではなく、「鶴ヶ島」方面へ出てから東松山を掠めて直接武蔵嵐山へ向かうコースをとる事にした。これなら、少しは時間を縮められるかも知れない。

 今回のペースは遅く、この時点ですでに予定した時間より30分遅れで走っている状態だ。これでは行田のとき(2010.03.13 「荒川から行田へ」)と同様に到着時間が3時過ぎになってしまう。

 少し先行きが心配なので、ペースを上げて若干急ぐことにする。
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都幾川の支流に沿う セルフ

<荒川CR(武蔵丘陵森林公園自転車道) から 比企丘陵自転車道 へ分岐して都幾川沿いを進む>

 分岐のポイントから先は、案に相違してCR未整備地区がしばらく続いた。

 小さく不安を感じつつ走り、小さな集落を抜けて「越辺川(おっぺがわ)」と「都幾川(ときがわ)」の合流する辺りの岸辺へ出た。川越と東松山の間にある川島町の郊外のようだ。

 整備された広域の農地が見渡す限りに広がっていて、区画がきれいに長方形となっている。ただ、そんな整備された地区を少し外れると微妙に道が歪んでいたり、集落内部ではわざと道筋が曲げられていたり、さらに目標物が無いので方向感覚が狂ってくる。県道に出た際に方面標識を確認しつつ進んで、やっとコースを保てた状態だ。

 ほんのわずかの間、バラス道を走って橋に出た。

 このあたりの都幾川(越辺川かも知れない)は蛇行しているので、進路の選択が難しい。川に沿って進んでいてもいつの間にか橋が現れ、さらに渡ると別の方角へ向かってしまう。しばらく進んで行って、また戻ったりと、なかなか油断がならない。
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 ほぼ当初のコース通りに進めたが、判りずらいポイントもあって分岐した地点から40分ほど費やしてしまった。時刻は12時を少し回ったが、食事する場所も見当たらない。細く続いた道はいつしか小川に沿っていて、両脇に深い木立を伴った快適な道になった。

 ほどなく、国道と交差する場所に出た。254号線だ。これを超えればもうすぐに「鶴ヶ島」や「高坂(たかさか)」ということだ。国道を渡って(潜って)さらにCRを進む。

 国道を越えてからのCRは快適で、道脇の小川はきれいに澄んでいた。専用道は木陰で覆われていたので、暑い日差しを避けてかなり涼しく走る事が出来た。まるで、アトラクションのような、迷路を進むのに似た楽しさがあった。
 
 その専用道からいったん離れて、東松山方面へと向かう。広域農道として整備された農免道路だ。車がほとんど走らない道なので車道上を走っていても専用道のように安全だ。またしても現れた都幾川を超えてしばらく走ると水田地帯に忽然と巨大なショッピングモールが出現した。

CRが変質した いいペースで走ってくれた相棒
いいペースで走ってくれた相棒氏

<早めの 本日の旨い物>

 時刻は午後の1時を回ったところで、もう我慢ならず、そこで昼食をとる事にした。

 レストラン街があり、覗くと、ふるさと前橋でなじみが深い「登利平(とりへい)」があった。私の薦めもあって私たち一行3名はそこで寛ぐことにした。実家のすぐそばに大きな店舗があり、そこが本店だが、ここの鳥飯は意外にいける。

 「(上州御用)鳥追い」という定食が私のお気に入りだった。この店では「鳥めしの松重」にした。皮付きの照り焼きと薄味の付けダレを馴染ませたスライスしたささ身の鶏肉を二重に楽しめる定番メニューだ。

 勿論立ち寄ったモール内の店は新規店舗だが、ご無沙汰して、もう5・6年ほどにもなるだろうか。本店や南部店、デパート内のお弁当売り場など、いずれもずいぶん訪れていなかったので、懐かしさが広がった。

 そういえば、前橋の南部にある本店などは5階建てで、ゆったりとした個室の座敷が借りられる。何かの記念日だったと思うのだが、それがなんだったかを思い出せない。どんな理由かは覚えていないが、過ぎし日に、そこで家族と叔父夫婦の宴席を設けた事があった。

 それはもう、ずいぶんと前の事で、食道楽だった亡き父などはその宴席の設えに機嫌を良くして、生貯蔵酒を盛んに頼んだのだった。笑顔を湛えながら、乙にいって飲んでいた姿をふと思い出した。後悔は先にたたないが、あれほど喜んだ姿が見られたのだから、今にして思えば父を誘ってもっと頻繁に行くべきだった・・・。
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埼玉県立嵐山史跡の博物館 内の案内版

<都幾川沿いから 県立「嵐山史跡の博物館」へ進む>

 国道344号線で高坂から東松山方面を目指すが、途中で関越自動車道を潜り、41号線を「武蔵松山カントリークラブ」方面へ向かう。

 下唐子と言う字で「原爆の図」で有名な丸木美術館方面へ向かう。ここで、またしても蛇行する都幾川を2度ほど渡ることになる。美術館の脇を抜ける裏道を走ってやがて国道254号線のバイパスに出て「国立女性教育会館」を目指す。

 この大きな施設の横が目的地で、二つの施設は少し離れた状態で並んでいるが、全域が豊かな樹林地帯になっている。

 やがて現れる「埼玉県立嵐山史跡の博物館」が今回の目的地だ。

 ここは中世(鎌倉時代の初期以降)、源氏の英雄として名高い「畠山 重忠(はたけやま しげただ)」の居館があった場所だ。 館の裏手に広がるt広大な樹林地帯が、「菅谷館(すがや やかた)跡」で案内版が建っている。

 畠山 重忠については、もはや改めて語るまでもないだろう。

 埼玉や多摩近郊などに、いくつもの伝承がある。身近な例では、与野公園の弁天池など、鎌倉への出陣途上にその剣を泉で洗い、その後の幾多の戦功を立てたという伝承が伝わっている。正月には必ずお参りに行っている(2009.01.02 「与野七福神めぐり」)が、その吉例に与って、池は「銭洗い弁天」として賑わっている。

 そういえば、奥多摩の御岳山の神社(2010.01.23 「新春の奥多摩山行;御岳山・大岳山を登る」)にも畠山 重忠 の武具(鎧)が宝物館として飾られていた。
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忠重の像が丘の上にある 郭を守る堀

 館内には説明ロボットが置かれていた。

 別に資料館の内容や畠山重忠のことを彼を模したロボットから聞きたいとは思わないが、説明するロボットはこの資料館の展示予算をほとんど食いつぶしてしまったことだろう。なぜ、こんなくだらない浪費をするのか、その神経が理解できない。史跡博物館なのだから、資料保全や展示にこそ、予算を割くべきだろう。

 さらに、展示エリアの順路出口近くには、センサーで話を切り出す老婆のロボットが居て、民話を語っていた。唖然とするばかりだが、まるで無意味な投資ではないか。

 ほかの展示物、特に鎌倉幕府の起こりから戦国期に至るまでの時代と地域の流れは実に判り易く整理されている。周辺各地に残る遺構(多くは居館や城跡)の説明図なども優れた内容だ。だから一層、ロボットの存在は奇異で低俗的であり、学術的な展示からはどう贔屓目に見ても浮き上がっているとしか思えない。

像へ 忠重の像
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本郭跡
郭の土塁が残り、堀も水堀と空堀を見ることができる
土塁と堀の跡

<菅谷館跡>

 居館跡は広大な敷地で、館というより城郭といったほうがよいだろう。

 中世、鎌倉時代初期からこうした広壮な規模だった訳ではあるまいが、源氏の英雄で幕府の立役者だった事跡を考えれば、勢力も増したし、城域も徐々に広がったのだろう。もともと、都幾川の河岸段丘上にあって、それを巧みに利用した様子が見て取れる。当時としては特筆に価いしようが、山城ではなく完全な平城としての結構を持っている。

 だからむしろ、城跡と呼称せずに館跡といっているのかもしれない。ただもし、当初より農地が広がるこの肥沃な地を治めるのには、丘の上ではなくこの位置が至当と考えたのだとすると、その発想の素晴らしさ、時代を超えた先見性には目を見張るべきだろう。

 同時代の武家豪族の城は全て山城であり、平野部には城は存在しない。1190年代から遥かにくだり、1600年近くになってはじめて、秀吉など時代の先覚者たちの手で都市に城が築かれはじめるのだから。

 そう考えると、これは武家(在地勢力;開拓農場主)の館ではなく、平安時代の荘園領主として派遣された中央勢力の邸宅跡などであったのかもしれない。

白百合が有名  館跡の森には、多くの山百合が咲いていた。
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 前回の「さきたま古墳群(2007.07.22 「さきたま古墳群と古代蓮(行田)」)」へのポタリングでは、古墳時代がその背景だった。今回の目的地はずっと時代が下っている。このため、背景が知識として自然な形で入っているので、ごく身近に感じることができる。

 「鎌倉時代」は「室町時代」前期同様に、その幕開けは波乱に富んでいる。実に興味深いが、このあたりは戦国時代の関東管領家や北条方の攻防戦の主要な舞台でもある。いずれの時代を輪切りにしても、この辺りの地域の歴史遺構には尽きない魅力がある。

カブト発見 勇姿
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鎌倉古道 オオムラサキの森

<鎌倉古道>

 鎌倉の地は古くから交通の要衝で都市として開けていたらしいが、大通り(若宮大路)の設置など大きく都市として整備されたのは幕府の開府からだろう。

 幕府御家人は、非常召集を受けると数日間で鎌倉へ至るために居住地からの旅を急いだ。鎌倉内の邸宅には、最小限の郎党のみで、主要な主戦兵力は在地(本貫地)に残したためだ。

 次第に整備が進んで行ったという面もあろうが、幕府が積極的に道を開削したのではと思える。あるいは(拡張工事を)しなかったというべきだろうか。

 なにせ、残っている古道は軍用とは思えぬほどの狭さなのだ。これでは小荷駄隊などの迅速な移動は難しかろう。

鎌倉古道 鎌倉古道


鎌倉古道
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武蔵嵐山

<武蔵嵐山>

 嵐山(らんざん)は言うまでもなく、「京都の嵐山(あらしやま)」の意味で、武蔵の国の嵐山、とう事を表している。

 この2枚の写真は、「鎌倉古道」を過ぎ、都幾川を渡った南側の川岸脇から、遠望される秩父の山並みを撮ったものだ。水田に稲穂が青く輝いていて、思わず自転車を停めてカメラを取り出したのだった。

 都幾川の流麗な渓谷と遠くの山並みを見た都から派遣された貴族が歌でも詠んだのが、事の起こりと思っていた。しかし武蔵嵐山と命名されたのは、ずいぶん最近で、昭和3年の事だったらしい。私が思い込みをしていただけだったが、当時も同じく豊かに水田が広がっていたのだろうか。

鎌倉古道
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 武蔵嵐山からは、都幾川を何度か渡る。その都幾川はやがて越辺川(おっぺがわ)と合流し、さらに下流で荒川と交わることになる。


 帰路、坂戸の街へに向かう道を走り、越辺川に掛かる橋から眺めた夕暮れ時の川面の様子は、なんとも言えない味があった。特に、無骨な護岸がされていない川の姿は美しい。こんな岸辺なら、しばらく佇んで眺めていたくなる。

 コンクリートの姿では、せっかくの美しい川筋も夕暮れを映す川面もみな、平気な顔で台無しにしてしまう。

坂戸の街へ 越辺川(おっぺがわ)
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