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2013.05.19
「榛名山ヒルクライム」レースを終えて


カメラ;
 iPhone 4S

 (画像添付時に約30%程度に圧縮)


 さて、今年から始まった「榛名(はるな)山ヒルクライム」というレースがある。北関東の山稜で開催される本格的なヒルクライム・レースだ。

 主催者は「はるなちゃん」という大会キャラクターを作っていて、更にそれだけではなくレースの愛称も考えられていた。その愛称は「ハルヒル」というもの。この愛称は言い易くて実にいいと思う。


 「榛名山」は榛名湖を囲む外輪山の総称であって、異なる山容を持つ複数の山頂から成り立っている。その外輪南側の斜面を舞台にして、自転車が主役となる大きな市民イベントが19日に終了した。

 自転車による山岳登攀レース、いわゆる事前エントリー制での「ヒルクライム・レース」の大会規模としては、その参加者数は全国で第2位に挙げられるもので、「富士ヒルクライム」に次ぐ参加規模だという。

 レース受付開始前の応募枠の設定は5000名だったが、エントリー数は定員目標には僅かに及ばず、4472名。しかし、そうは言っても大会の第一回目としては充分に立派な数字を達成したといえるだろう。

 「初心者コース」、「榛名神社コース」、「榛名湖コース」の3カテゴリーでのヒルクライム競技が行われ、新聞報道によれば<ヒルクライム大会へ場した人数は3893名>だったという。前日の18日に湖畔で行われた約7キロ・コースの「タイム・トライヤル大会」に出場した134名の選手達も、そのスピード競技への参加だけではなく19日に執り行われた「ヒルクライム競技大会」にも参加しただろうから、発表された人数がこの大会での出走の総数ということだろう。


 上毛三山のひとつとして名高い「榛名(はるな)山」の山頂を目指す山岳登攀レースは、麓の「里見(さとみ)、室田(むろだ)」地区にある榛名支所(高崎市役所の出張所)をスタートして近年パワー・スポットで名高い「榛名神社」を経由し、急峻な峠道を登りつめて山頂の榛名湖畔へと向かうものだ。

 計測地点は榛名湖手前の天神峠(外輪山から湖へ到るピーク)までの区間であるが、レースはそこで終わりではなく計測終了後に約2キロほど坂道を下って湖畔を走る。湖畔脇の広いスペースまで出て初めてゴールとなるものだ。そのため、計測区間は約14キロだが、榛名湖コースとして公称されているゴールまでの全長は16.1キロという距離になる。スタート地点からの標高差は約900メートルで、平均斜度は6%、しかし途中で最大斜度13%の激坂が出現するというタイトなコース設定によるレースだ。

 なお、榛名といえば「伊香保(いかほ)温泉」を思い浮かべる人も多かろうが、伊香保や水澤観音のある馴染みの深い東側の斜面ではなく、レースは「倉渕(くらぶち)」へ抜ける際に利用する南側の斜面で行われた。


関連するページ;
のんびり行こうよ 2013.09.01 「2013 赤城山ヒルクライムに向けて」
のんびり行こうよ 2013.09.29 「2013 赤城山ヒルクライムを終えて」

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のんびり行こうよ 2012.09.30 「2012 赤城山ヒルクライムを終えて」

のんびり行こうよ 2013.04.28 「榛名山ヒルクライムに臨んで」

オリジナルのカーボンフレーム 山岳登攀(「赤城ヒルクライム」)に備え、
組み上げた自転車にさらに手を加えて
ブラッシュアップした愛車。


自分の体も含めて、レースを念頭に大いに「軽量化」に挑んだ。

しかし赤城山ヒルクライムの成果は残念ながら2時間46秒。

成年男子50代(クラスD)で326位、
総合順位は1906位(2353人中)という内容だった。
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HARP C−2900 赤城山ヒルクライムの車検証

赤城山ヒルクライムのレース車検証

<前日受付について思うこと (私見)>

 榛名山ヒルクライムレースでは前日受付時の<車検>は行われず、参加者の整備状況に委ねられていた。

 車検は無いが、<レース受付は前日のみ>となっており、しかもレース開始時の集合待機場所の「榛名体育館」まで行かなければならなかった。このあたりの設定はもう少し工夫の余地があるように思われる。

 前日の「レース受付」場所であるが、榛名体育館の他に用意できないものだろうか?。

 前日イベント会場の体育館の他に数箇所が用意されれば大分楽なのだが、と思ったのだ。他に「榛名支所」やレース宿泊セットパックが用意されていた「榛名湖畔」、それに「高崎市内(駅周辺や城址公園)」などの数箇所に設営して管理するのは難しいだろうか。

 私達、レースの参加選手は案内書に記載されていた日程表によれば、レース当日は5時30分までに待機場所として指定された榛名体育館(エリア)に入る必要がある。

 会場(待機集合地点の「榛名体育館」)まで移動する手段として自家用車で来場した際、周辺の駐車場を利用して乗ってきたクルマをレース終了時まで駐車して置きたいと考えた場合の手当てが考慮されていた。レースへのエントリー時に「駐車場利用の申請」が必要となっていたが、それにより個人単位で駐車場が確保されたのだった。

 事務局からは参加案内書と共に、事前申請して確保された駐車場の名称が印刷されて、送付されて来たのだった。駐車場の記載は名称のみで、駐車場周辺の地図や、最寄ICから各駐車場までの経路などの当然必要となる案内の類は残念ながら何も同封されていなかった。駐車場名が記載された書類(レース参加誓約書と物品の引換証が兼用となっていた申請カード)を提出し、それをもとに事務局発行の「駐車券(許可証)」をレース受付時に受け取った。これを明日のヒルクライム・レースに際して、指定された駐車スペースへの入場時に係員へと提示する。それで初めて駐車が可能になる仕組みだ。誘導を兼ねた係員が各駐車場入り口でこの事前申請書をチェックして、提示者の駐車スペースへの入場許可を出すのだった。だから、当日の勝手な「振り」での駐車は出来ない規則になっていた。

 これと同様に、事前登録時に「レース受付」の希望場所を申請する事によって、レース前日に行われる「参加受付」についても管理できるのではなかろうか、と考えた次第だ。「レース受付」の取り扱い場所を複数用意して頂き、<任意選択が可能な数箇所からの指定による割り当て制>とすれば、レース前日の受付場所として指定された「榛名体育館」までの無用な移動が不要と成ろう。それが無理であれば、やはりレース当日の受付実施についてを再考願いたい、と思う。

 高崎市内から前日受付の実施場所として指定された室田にある「榛名体育館」までは、国道406号線などを利用して行くことになる。高崎市の郊外、「問屋町」に近い「高崎環状道路」沿い辺りからだと、車で20分程の道のりとなるものである。あるいは関越道の前橋ICからだともう少し時間がかかり、35分ほどになるだろうか。

 考えてみれば、この移動は参加者全員に課せられているものだろう。「代表者による一括受付も可能」とされているが、大部分の参加者にとってはレース前日の移動が不可欠である。これが不要となる様な運営にできないものか。そうすればエネルギーのロスを防ぐことに成るではないか。車の燃料、交通渋滞など、多くのエネルギーが費やされずに済む。

 さらにその削減で、移動による様々な負担が軽減され、あるいは不要なものとなるだろう。選手の疲労、移動による事故の発生、などの軽減が図れようし、出場前の精神的な安静が保持される、などといった計り知れない多くのメリットが生まれる。

 先に書いたような数箇所(高崎市内など)で前日の必須行事である「レース受付」が済ませられれば選手の負担が減って実に有難いと思うが、どうだろう。事前「車検」を行わない方針であれば、是非、来年はそのような改善を望みたいと願うのだが・・・。
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利根川CR 吉岡からみた榛名(榛東) 2013.04.01撮影


利根川CR上

吉岡から眺めた榛名(榛東)

<前日受付の実際>

 良く判らないことが多かったので受付時に沢山いた係員の方にいくつか質問したが、周りの幾人かに聴いた彼ら自身も誰一人判らず、明確な回答が返ってこなかった。みな、行程や段取りや手配具合が判らずに、彼ら事務局サイドでも回答に困っていたのだ。

 受付が疑問の解決を図る事や、選手・応援者への案内を含んだ行為を行うのではなく、単純に事務的な「申請・受付」であるとした場合 ― それは今回行われた内容、つまり誓約書の提出、ゼッケンや下山袋、大会パンフレットなどとの引き換え行為のみ、という事なのだが ― レース開始の待機場所であるメイン会場までわざわざエントリーした選手が出向いて行く必要性は少ないように思われる。

 <車検>は行われないのだし、<下山用の手荷物の事前預かり(前日預け)>はないのだし、<諸注意の伝達>や<説明>なども行われない。スタート前の集合地点として指定されているような遠隔な現地で「受付け」を行う必然性が、私にはまったく思い当たらないのだが、どうだろう。


 しかし同時に「受付」だけではなくレース前日のイベントもその場所で開かれていた。協賛各社の特設テントが並び、模擬店なども沢山あって、それを存分に楽しんだのだった。体育館内では県内レース開催時のイベントでは恒例の「VAXレーシング・チーム」によるテクニカル解説(レースのコツの伝授やコース攻略、インタビュー)などの選手にとって極めて有効な催しもあった。こうしたレースの盛り上げとなるイベントの開催は必要だし、今回行われた主催側のおもてなしは有難い事だった。だが、なにせそこまでの移動に時間が掛かるのには、閉口した。

 受付時の駐車場は中学校の校庭や体育館横の河川敷グランドなどだったが、両場所ともに土埃が舞っていて、それは凄い状態になっていた。レース受付となった榛名体育館横に出店された地元の模擬店などは、受付のために出入りする車の舞い上げる埃を旺盛に被っていたのだった。カレーや焼きそばやホルモン焼きなどはテントが天井を覆っていたとはいえ露天で作られて供されていて、受け取る我々でさえその埃を避けるすべがまるで無いのだが、駐車する車の方はそんな事には頓着せずに土埃を盛大に巻き上げている。

 せっかくのイベントの魅力が削がれてしまうような、少しばかり残念な場面だった。
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前日受付で貰ったパンフレット

引き渡されたゼッケンには、金券が付いていた。
ミシン目が入れられていたとはいえ、
巧く取らないとゼッケンのほうが破れてしまう。

都合1000円分のサービスチケットは、
すべてテントで販売されていた美味しそうな「食べもの」で消費してしまった。
大会サポート・カー

ここまで送ってくれた友人Hへの昼の「弁当(登利平:とりへい」をゲット。県央部では名物のお弁当だが前日のものは通常と内容が違っていて会場特製品だった。

本当は石臼粗挽きの美味しい蕎麦をお礼に奢ると言う約束だったが、当日が暑い日だった為か、目当ての蕎麦屋へは行ったものの残念ながら蕎麦そのものが売切れてしまっていたのだった。

そして私用には「カレー・ライス(ナスの野菜カレー300円也)」と「ホルモン焼き(東毛地区だとこれが名物なのだが・・)」を調達した。
レース前のカーボン・ローディングとタンパク質の摂取を考えたのだった。

いや、ホルモンを選んだのは、単にチューハイが呑みたかったからだけの理由・・・。


締めて、丁度1000円に収まった。

<スタート前の集合>

 「下山用の手荷物預け」はレース当日の朝のみ受付で、締め切りの時刻は午前6時。

 しかし待機場所の榛名体育館まで移動して集合するリミットに指定された時刻は5時30分。だから実質的には5時30分までに待機集合し、それ以前の時刻に荷物を預けておかなければならない具合になってしまう。しかし、レース開始は午前7時過ぎからなので、随分と長い時間を待機することになる。

 レースは登り基調の内容になる。もしもの際に着用する雨用のウィンド・ブレイカー程度(雨天時の着用は、レース中の体温低下による消耗を避ける意味を持つ)の携行で充分といえよう。レース中の防寒用装備の携帯は不要だが、ゴール後の山頂は下界に比べて数段(標高差900mなので約5度低い)気温が低く、まして下山する際は風によって体温を盛大に奪われるので防寒対策は必須の要素である。

 パーツを入れ替えて少しでも車体を軽くし、さらに自らの体重を落とし、最終的にはシューズやヘルメットやサングラスやグローブ、着用するウェアまでも軽量化して望むレースでは、重い荷物など背負ってはいられない。だから防寒用の冬用の装備(長手袋やヘッド・ネック・アーム・レッグの各ウォーマーや着替えのアンダー・シャツ、上下の冬用ウェア)はザックに収納し、貰った指定下山袋にいれて預けて運び上げて貰わないと大変な事になってしまう。

 それらは<ヒルクライム後の下山時の必須装備>であり、無くてはならないものだ。下山用手荷物預かりの締め切り時刻に遅れてしまったら、そうした重量級の手荷物を背負ってレースに参加し、坂の続くコースを負荷を追って登り詰めなければならなくなってしまう。

 荷物預けの受付締め切り時刻。これが赤城山ヒルクライムと同様の6時10分位(欲を言えば6時30分頃)に設定されると、私達のような遠来の選手は実に楽が出来る。

 実を言えば、当日の駐車エリアから待機場所の榛名体育館(レース前集合地点)までの距離も随分とあった。待機締め切り時刻も5時30分ではなく6時30分や40分位に設定されていると精神的にも焦らずに済むのではなかろうか。

 私の申請に割り当てられたした駐車場は「下里見小学校」で、集合地点の榛名体育館までは3キロ程の距離の場所だが、割り当ての駐車場によっては5キロや6キロを自走して移動しなければならない状態。レース前の丁度良い実走によるアップになるともいえようが、自らの意図とは無関係に移動する必要があるという処がひとつのネックだろう。駐車エリアを確保して貰えただけで充分に有難いことなのだが、重い荷物を背にレース前に走るのは精神的には少し辛いものがあるといえよう。


 さて、集合する場所として今まで書いてきた「榛名体育館」というのは、実はシンボルのことである。風雨を凌げるその建物に選手全員が集合して待機するわけではなく、実際に集合するのは体育館の回りにあるグランド上だ。河川敷のグランドと中学校の校庭に4000名を越える人数と、自転車が分散して並ぶ。グループごとに整列して地面に自転車を置くので混乱はないが、前日同様にこの朝も土埃が濛々とたっている状態だった。

 レース当日の19日は、事前の天気予報で懸念されていた雨にもならずに、スタート時とレースの前半は「晴れ」でその後は曇り空であったから良いが、これが雨降りだったら大変な事になる。グランドは一面の泥沼と化し、レーシング・シューズのビンディングには泥が詰まり、靴底や表面の空気穴から泥と共に水が靴の中に浸入する。タイヤも泥にまみれることになる。そうした場所で待機する私達は、レース開始前に「責め苦はもう充分」とギブアップしたくなるような嫌な状態を、味わい続けなければいけないことになってしまう。

 天候が生憎の雨天となった場合、グランド上での待機者を主催側は如何しようと考えていたのだろう・・・。

 天気予報では雨の可能性(降水確率50%)があったが、運動会に見られるような大型テントなどはまるで用意されていなかったのだ。雨降りとなっていたらグランドや自転車は上に書いた様な眼も当てられない状態に陥り、私達レース参加者は集合してからスタートまでの待機の間 −2時間超の長い時間− ずっと雨に打たれなければならない。

 梅雨前とはいえ天気が良い場合ばかりではないのだから、せめてスタート前の待機時間は2時間を越える様な状態ではなく、1時間以内程度に調整して欲しいものだと切実に思う。
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<スタートまでの長い時間  (その待ち時間は、2時間・・)>

 さて、私達の待機グループが土のグランド上に整列して待ちぼうけを食わされていた2時間の間に、レースの行事は着々と進行していたようだ。

 スタート・セレモニーは、最初の出走者となるエキスパートと最初の3グループが呼び出しを受けて、川を挟んだ数キロ先にあるスタート地点へ移動して行って、つつがなく執り行われた。個別に送付された案内状のスケジュール表にひっそりと記載されていた「7:50 開会式 大森神社前」の文字を私は見落としてしまっていたのだった。「スタート・セレモニー」が行われたという事を、私は最近になって知ったのだった。

 グランド上は相変わらずの状況で、何か特別な行事が行われるわけではなかった。私達、出場選手はただなす術もなく、スタートのための移動の呼び出しが掛かるまでの間、漠然と時間を潰すだけだった。待機場所では<下山時のスピード増加への注意>と<ブレーキ再確認の依頼>という意味の薄いアナウンスが繰り返されていただけ。それに「トイレは複数個所にあるので、分散して利用してください」という案内も行われていた・・・。

 待っている間の無聊を慰めたり、レース前の高揚感を誘うような音楽(例えばテレビ放送テーマで使われたT−SQUAREの「♪ Chaser」や、あるいはドリカムの「♪ OLA! VITORIA!」のような曲だっていい)が流される訳でもなく、出場選手へのインタビューや主催側からの挨拶が行われるわけでもなかった。

 しかし、忘れ去られてしまった私達とは違った状態に、上位タイムで申請した選手達は置かれていたのだった。一方ではセレモニーが行われているであろうスタート会場の様子が、私達に共有されることは無かったのだった。スタートの詳細な様子が実況で伝えられるでもなかったし、ましてやスタート会場からの音響や映像での中継があったわけでもない。

 私達は、本当に無意味で果てしなく無駄な時間をグランド上で費やす事を余儀なくされたのだった。今にして思えば、かたやスタート会場では盛大なセレモニーがあったという事を知って、改めて驚いた次第だ。レース開催のセレモニーをやるのなら、せめて全員が集合して待機していた榛名体育館で7時20分位の時刻でそれをやってはどうだろう。全員が大会の開会式を共有した後に、選手を先導する車に分乗した関係者がスタート場所へ移動すれば、「室田」に開設されたスタート・ゲートに問題なく選手達より前に着ける。その行程でも、各グループのスタート実施は充分に準備できるはず、と思うのだ。


 毎度引き合いに出す「赤城の大会」では、待機場所はスタート・ゲートに隣接していて、そこを取り巻くようにグループ別に整列・集合させられていた。選手全員の待機は舗装された駐車場だが、それに挟まれた通用路がスタート箇所に設定され、そこからスタートの合図でパレード走行して県道に出て、パレードを続けてその後1キロほどを進んでから、レースの計測開始となった。

 だから待機していた選手全員が、セレモニー開始のアナウンスによってスタート・ゲート方向に体を向け直して全員参加の態勢を取ることができたのだった。

 選手みんなで一緒になってストレッチ体操を行い、その延長で片腕を高く上げた状態になったところで、掛け声(「オー!」の声)と共に記念写真を撮った。待機している場所とはいえ、そこはスタート会場という状態だったので、全員がセレモニーに参加できたし、挨拶や選手紹介などの様子も良く聞こえ、各カテゴリー別のスタート風景もすぐ横手で行われるので、目視にて楽しめたものだった。

大会サポート・カー レースの
公式サポート・カー


まるで、ツールのような
<MAVICカー>の登場だ。

さすが、SUBARU!

 榛名の大会では待機していた榛名体育館脇のグランドからスタート会場の「室田」まで、移動距離は2キロほどだったろうか。

 グランドでの長い待機とそこを出る際に被った土埃とで私達はすっかり誇り高き男達(埃・・)となって、朝の日差しを受けて輝く川面を見ながら橋を渡って、国道406号線上をパレード走行してスタート地点へ向かった。

 橋を渡って出た国道を1キロほども走り過ぎると、やがて家並みが現れ、そこから家々が次第に密集し始めた。その門口に出た住民の皆さんの手には、応援用に配られた紅白の小旗が振られていた。

 そして、道の両側が商店街という郷の中心部と思しき場所になりはじたころには、集まっていた見物の衆は列になってゲートの先まで続くのだった。いよいよスタート会場エリアに入ると、なお一層、盛んな声援を受けたのだった。一転して晴れやかな気分に浸れたのだが、スタート位置に並ぶとじきにスタート合図となった。


 ところで、心配していたトイレのことであるが、グランド上に設置された<仮設トイレ>であった。

 エキスパートから8000番台のゼッケンまでの集合グランドに1箇所(10基)、それ以降9000番台までの選手が待機する中学校の校庭に1箇所、1300番台から1500番台の初心者集合はJAが会場なので不明。それに体育館脇の路面に1箇所(10基)。

 そして乗ってきた車を駐車した「下里見小学校」にはトイレの準備がされていなかった。駐車場所でしばらく待機してしかる後に集合場所へと集団で移動するものと私は勘違いをしていたが、駐車場からは準備が整い次第、個人で勝手に集合地点への移動を始めるというものだった。だから指定された駐車場にはトイレの用意がなかったのかも知れない。

 私の集合・待機場所となった榛名グランドのトイレは長蛇の列が出来ていた。しかも出走前の待ち時間の間ずっとそれが続き、とうとうその列が緩和されることは一度も訪れなかった。すぐ近くの体育館脇に置かれたトイレは比較的スムーズだったが、やはり懸念したとおり人数に対する絶対数が不足であったろう。

 集合・待機場所の榛名グランドからは、申告した自分の予想タイムでカテゴリー分けされ、そのグループ別に集団でスタート地点へ移動する。スタート地点への移動後に長い待ち時間があったらイヤだなと思っていたが、移動して10分程でスタートすることになった。

 このタイミングのよさには正直、ホッとしてしまった。なお、スタート地点は待機場所からも程近い、榛名支所の手前の「下室田」の街並みの路上(交通封鎖された国道406号線上)であったがその手前にも3基の仮設トイレが置かれていた。
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当日の山頂行き手荷物預け所

当日の山頂行き手荷物預け所
ヒルクライム・コース図

<コース概要>

 榛名山ヒルクライムのメイン・レースである「榛名湖コース」の全長は16.1kmで、その標高差は900m。

 実際の計測ポイントは天神峠の最高標高地点なので、レース計測の走行距離14.7キロの間で900メートルを登るレース、という事になる。

 平均斜度が6%なのは、登り道一辺倒ではなくコース上に平坦部と降り道が3箇所ほど存在しているためだ。だからそれを加味しない実質的な斜度というものは、もう少しキツイのかも知れない。

 初心者コース(6.7キロ)と榛名神社コース(11.6キロ)は、榛名湖コース(16.1キロ)とスタート地点は同じで、各ゴールまでの走行ルートも重なっている。

 コース上は登り坂一辺倒ではなく、スタートからの2/3は若干のアップダウンを伴った起伏のある道である。このため、それを巧く利用すればメリハリを付けてレースを走ることが出来る。経路上の平坦部は初心者コース上の標高400mあたりで現れ、降り坂は神社コースのゴール手前(一の鳥居の辺り)の標高500mから100m登る毎に3箇所(4箇所だったかもしれない)ほどの区間で出現する。

 区間タイムでの足きりの詳細は不明(何処にそれが記載されているのか判らない)だが、各コースのゴール地点では給水所が設けられている。一旦停まってしまってはペースに影響が出るが、そこで補水する事を考えれば、ゲージに入れて携行するボトルは10キロほどは空のままでも行ける。榛名神社の給水所で激坂用に給水を受ければ、レース前半の10キロほどの間は、なんと500g以上計量化した状態で臨めるという、計算になる。


 さて、榛名神社近くの降り坂を過ぎた後に選手の私達に残されるのは、もう登り坂だけとなる。しかもかなり激しい急な坂道・・・。

 コース前半の緩い坂道は何だったの?と問いたくなるような急登がその地点から始まるのだ。「真っ直ぐに伸びいる急坂」というのが辛く、足にも心拍にもダメージをもたらす。なるべくケイデンスを保って、シートの前にポジションをとってリズムを作ろうとするが、息が次第に上がってくる。

 左手へ回る大きなカーブが現れると、その後はもう九十九折りの坂道が幾重にも重なって、短い距離の間でぐんぐんと高度を上げていく。考えてみたら私達は、神社を過ぎてから天神峠までの4キロほどの間で標高差400m近くを登らなければならなかった。

 「男坂岩」の手前あたりは、コース上の最大の難所だろう。その斜度のあまりのキツさに目がくらむはずだ。
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レース当日

初心者コースに参加する地元の中学生達。
レース当日の待機(約2時間こうしている)

ゼッケン8000番台の出場選手の待機風景(河川敷グランド)

<レースを振り返って>

 スタートは役場近くの街中なので、住民の方達の総出とも思える大声援を受けられた。

 店先に縁台を出してコーヒーを振舞ってくださったお店の方や、両手に一杯のバナナを持って選手に配る人達(子供達とそのお母さん達のグループ)、盛んに旗を振って声援を送ってくれた里見小学校の子供達。手を振り続けてくれたご近所のお年寄達、など・・・。

 実に住民がここに全員集まってしまったのでは、と思える程の盛況な人出での大きな応援だった。

 さらにスタート・エリアでは、年齢別ではなく申請した予想タイム別に構成された各グループ(大会ではこの出走別グループの事を「ウェーブ」と呼んでいた)のスタートにあわせて和太鼓連による「八木節(やぎぶし)」が演奏されて、勇壮に送り出してもらえた。


 選ばれた地元の小学生によるスタート合図を受けて、選手のビンディングが一斉に小気味良い音を立てる。いよいよ、決戦の火蓋が切って落とされたのだ。
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レース当日(スタート前の整列) スタート前の様子。

私達が待機しているのは「第8ウェーブ」。

グループのスタート時刻はは7時40分くらいになりそうだ。



待機場所からこの「大森橋」までの移動時にも感じたことだが、粟立つ様な緊張が波のように湧いてくる。


次第にそれが膨らんで、どんどんと昂まってくるようだ。

 「大森橋」をスタートしてレースを始めてからは6%ほどの斜度を持った単調な長い登り坂が続くのだが、「榛名荘病院」の横のカーブを登った辺りが初心者コースでの最大斜度だったろうか。途中で少なくなった応援者がそのあたりではまた復活して、盛んな声援があった。その声援に励まされる形となったこともあって、最初の坂をぐんぐんとペース良く登ることが出来たようだ。

 4・5キロ過ぎたあたりに現れた平坦部の手前で少しペースを調整し、それで上がり始めた心拍数を戻すことが出来た。だからその先の平坦部では思い切り加速して行くことができた。

 右に大きくカーブを切って緩やかな路面(新しいアスファルトが張られていた)をスピードを上げながら走っていく。ここと神社手間での降り坂が、タイム短縮の稼ぎどころでもあり、疲れが溜まり始めた足や上昇した心拍を回復させるポイントでもある。

 レース展開を考えると、コース上のキモとなる場所だろう。前ギヤをアウターに戻して、後ギヤをトップ寄り2枚目(13T)・3枚目(14T)と降り坂用の板に切り替えていって、思い切りクランクを回して加速していく。

 このように初心者コース上ではまだ充分にレースのゆとりがあって、当初思い描いて来た通りの展開ができた。道の脇に立つ応援者もちらほらといるので、送られた応援に一人づつ丁寧に答えつつ、一層心強く走れたようだ。
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レース当日(スタート前の整列) レース出走の待機場所である榛名体育館から、スタート地点へ移動。

ただいま、スタート待機中。

この撮影の直前に、
沿道の応援の方からバナナを頂いた。

ボトルの水は最低限の分量に調整して軽量化を図ったが、背中のポケットにはバナナを一本差している状態。

冷静さを装った顔をしてはいるが、
実は今食べてしまうかどうか、と切実に迷っている。

 初心者コースのゴール周辺であるゴルフ場を過ぎた辺りからにわかに坂がキツクなり始めたが、これはスタートから7キロほどもゆるい坂を走ったからだろう。

 神社の手前で最初の降り坂が現れた。ギヤを変えて、思い切り漕いで加速を付けて行く。

 とてもヒルクライムレースに出場しているとは思えないような時速で、その坂を降る。右の車線を真っ直ぐに駆け抜けるその加速の余力をかって、登りでの負荷を弱めるという常套作戦だ。降りでの勢いが付くので、次の登りに道が変化した際にはある程度の楽が出来る。

 この降り道のお陰で、100%(分間170拍)近くまで上昇してしまった心拍数(220−年齢=最大心拍数)を一旦90%近くまで落とすことが出来た。しかし、2回目の降り坂の後、二段になった登り坂がきつくて、ここでまた心拍モニターの示す数値が100%を越えてしまう。
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榛名神社の鳥居前あたり 榛名神社への鳥居は、神社よりかなり手前にあった。

スタートから7キロ程の位置になるだろうか。
俄かに坂がキツクなる場所だ。



この写真の撮影は「フォトクリエイト」による。
版権は「photocreateにあるが、購入者には画像の利用権がある。

(有償での提供だが、高額なため何枚も買うことが出来ないのが残念なところ。)

 残念だったが、3回目の降り坂では少し加速を控えて、息を整え、心拍を落とすことに専念した。やがて、神社コースのゴール分岐を越えて、山頂へ向かう左カーブをすぎると今度は右に道を取り直す。目の前にコースが続く様が良く見えたが、そこから先は俄然坂道が激しくなってくる。

 神社横を過ぎてから始まる急坂は、友人Sと共にした自動車での下見で理解はしていたが、想像以上の斜度で迫ってくる。なんとか作戦を立ててコーナーの通過を工夫して斜度を緩めるが、足はもう一杯だし、心拍モニターも10数分に渡って95%を越える数値を示していて、そろそろ限界に近い具合になって来たようだ。

 すでにスタートから12キロほども斜面を登ってきたが、「ハルヒルの激坂」といわれ、14%、場所によっては16%とも書かれた急な坂とは、多分このあたりではなかろうか。

 道路は右手が崖状になっていて、下には渓流が勢いをつけて涼しく流れているのだろうが、その景色を思う余裕がまるで無い。路面を睨み、前方の坂を見つめて必死に漕ぐ。足を休めるためにダンシングとシッティングを繰り返して、走りに変化を付けてペースを一定に保とうと工夫する。

 しかし、あまりの斜度にダンシングを続けざるを得ない状況が続く。私はダンシングが旨くないので、キツさが徐々に足(温存しておいた前側の筋肉)へのダメージとして効いてくる。スピード・メータはあまりの低速に計測を止めてしまい、しばらくゼロの表示が続いている。

 私が踏ん張ってやっとの思いで出しているスピードが遅すぎるためだ。すでに数分の間、時速5キロを下回っているのだろう。赤城山ヒルクライムのラスト2キロの際と同じ状況だ。
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 何度目かのコーナーを右に左にと越えて、遂にモニターに表示された心拍数が105%になった。

 3分ほどはその状態で踏みとどまってペダルを漕いでみたが、もうこのあたりが限界だろう。このままの負荷を足の前側筋肉に与え続けていたら、レース最後の、ゴール直前での加速が出来ない状態になってしまう。

 神社を過ぎて数百メートル登った辺りから自転車を止めている選手を見るようになったが、コースの左側を見ると何人もの選手が自転車を降りている。その人数を数えていって10名を越え20名に近くなった場所で、私も自転車を左に寄せた。

 一旦、そこで自転車を降りることにしたのだ。息を入れ変えて、補水もし、なんとしても心拍数を100%以下の状態に落とす必要があった。

榛名神社の横手の激坂を、登攀中の様子。

スタートから9・10キロ程の位置になる。


この撮影ポイント辺りは10%だが、
この少し先き(数百メートル)で斜度14%の坂が出現する。

スキーで言えば14%は只の初級者コースの緩い斜度だが、自転車での上りは「激坂」といえる厳しいもの。



この写真の撮影は「フォトクリエイト」による。
版権は「photocreateにあるが、購入者には画像の利用権がある。
榛名神社の鳥居前あたり

 コーナーを2回ほど登り、その先の緩い場所までの間、私は激坂を恨めしく思いながら自転車を押して歩いた。距離にして200m位、時間にして4・5分弱ぽどだろうか。

 心拍数が90%にまで回復したので、再び自転車に乗ったが、もう計測点の天神峠までは2キロを切っている。あと少しで坂が終わろうとしているが、この残りの数キロの詰め方がやはりレースを左右するだろう。私は僅かな距離を歩いただけで再び自転車に乗り始めたが、残2キロの案内板が現れた先も急な坂は続いていて、まだまだ自転車を降りて立ち止まったり、押し始める人が後を絶たない状況だった。


 少し後ギヤを重くして、筋肉を使うのではなく体重をかけてダンシングして、ゆっくりとクランクを回し始める。ペダルを踏み込むのではなく、クランクを回すことに意識を集中して長いカーブを登り切る。先に歩いた際に追い越された人達に、ここでやっと追いつくことが出来た。

 何度目かに現れた左の急カーブ、ここも斜度は随分あったが、このコーナー右側(崖側)に大声を上げる応援者がひとりで立っていた。

 「あと、すこーし!」 「残りは僅か500メートルだ! レースはここからだぞッ」と一際大きな声援をうけてその人の目の前を通過した。さらに「赤城よりも、坂はゆるいぞ!」の大きな声を背中で聴いて、にわかに力が湧いて来た。この声援をきっかけにして、私は残りの力をすべて込めてクランクを回して加速を始めた。
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 残り2キロをきってから、少しずつペースを上げて行ったので徐々に先行車を抜き始めていたが、逆に下位ゼッケンで私を抜いていく人も多かった。

 残り1.5キロ程で中だるみというか、ゴール前2キロから始めたスパートに疲れが見え始めて来たからだ。赤城山でのレースの際には、ゴール前はやはり急な坂であり、状況はもっと悪かった。心拍は姫百合駐車場を過ぎてからずっと100%を前後していたのだ。そこで、今回はスパートの余力を残すためにモニターをチェックして95%程度を維持するように努めた。さらに2/3までの経路では太股後側の筋肉(ハムストリング)のみで走り前側の筋肉(大腿四頭筋)は使わずにラスト数キロ用に温存する、という作戦をたててそれを実行していた。

 正直に書くと、降りた場所の坂道では足が攣りそうになってしまっていたのだ。でも、その苦難も少し歩いて回復し、同時に心拍も戻す事ができた。それが功を奏したようだ。そうして調整してラスト2キロから加速を付け始めたにも関わらず、残り1キロからの坂道は斜度があって、本当に辛かった。

 自転車を降りて歩く選手がいると、どうしてもその姿を気持が追ってしまう。

 「コースに、レースに集中しろ!」と思うのだが、苦しい呼吸に喘いでいると、「歩けばいいじゃないか・・」という誘惑が捨てがたく湧き上がってくるのだ。そんな限界ともいえる場面で受けた大きな声援。その人はレース参加のエキスパート選手のようで、ハルヒルの応援者には珍しいレース用のサイクルジャージを着ていた人だった。足元までは眼を配れなかったので正確なところは判らないが、まことに応援のツボを心得た人だった。あの人の発してくれた声援が無かったら、最後の500mをダッシュすることは出来なかったに違いない。

 実に心憎い、絶妙なポイントを衝く応援。私の青いフレーム右横で目立って着いている「赤い<赤城車検>のステッカー」を目に留めたに違いない。選手の気持ちを知る、本当にこころからの励ましといえるものだ。坂やレースに打ちのめされつつあった私は、彼の最後に掛けてくれた言葉が何故発せられたのかを疲れた頭の中で察した。彼の力強い応援のお陰で、私はヘコタレずに済んで、そこでまた大きな力を得たのだった。

 天神峠の頂点の路面に張られた計測ライン上を持てる力をすべて込めて通過した後に、路面から上げた視線の向こう、降っていく道路の先には静かな榛名湖が広がっていた。その様子をみて、身震いするような感覚が湧いて来た。

ゴール目前の湖畔 ゴール目前の場所。

なんだか撮りたい気持が急に溢れて来た。

そこで自転車を停めて、思わず撮影した榛名湖畔の様子。
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 計測点を過ぎ、ゴールまではあと少しの距離(2キロ少し)、湖畔を巻いて走ることになる。

 私は天神峠からの坂が終わって平坦になった湖畔の道で自転車を一旦停めてそこに降り、湖の様子を背中に入れていた携帯電話で撮影することにした。なんだか、今、目の前にある静かな湖の姿を撮っておきたい気持ちが沸いてきたためだ。

 湖の様子を写真に収めた私は、湖畔を廻った先のゴール地点へと向かうために再び自転車に乗って、無事にゴール・ゲートを潜って、そのまま係員の誘導にしたがって手荷物の引き取り場所へと向かった。7時30分過ぎにスタートして始まった私の「榛名山ヒルクライム・レース」が、たった今、終わったのだった。

 天気は雨が降らずに辛うじて保たれたが、湖畔の空は曇っており、残念ながら榛名富士の山頂は雲の中にあった。晴れあがった青空であればどれほど清々しかろうと思えたが、雨に打たれずに済んだだけでもレースとしては幸いなこと。参加した多くの選手にとっても、すこぶる幸せな事に違いなかった。

 私は、「ゴール後は待ち合わせて一緒に下山しよう」と約束した知人を探すために、荷物引取り場所として指定された駐車場内を歩き始めた。


 レースの計測終了点は県道33号線上の「天神峠」だが、ゴール地点は榛名湖畔の周回道路上、町営駐車場前に大きなゲートが置かれていた。

 そこを潜ってレースは終了となって、そのまま係りのボランティアさんに誘導される。湖とは周回道路をはさんだ反対側にある広い駐車場で下山荷物の引渡しを受け、そこの特設テントで着替えを済ませ、その後、イベント会場へ向かったのだった。

 晴れていれば「榛名富士」の秀麗な姿 −富士山と同じ円錐形の美しい様子− が青い空に浮かんで、眼前に裾野が広がる様を見られたと思われるが、生憎、山頂は雲に覆われ、ロープウェイの索道も途中からは霧が掛かっていた。

 榛名富士の前面の湖畔脇、ロープウェイ乗り場へと向かう場所にある広大な町営駐車場がゴールエリアに設けられたイベント会場だった。そこにはステージ用のテントが張られていて、前日のタイム・トライアルや当日の各カテゴリーのヒルクライムの上位入賞者への表彰が行われるところだった。

ゴールへ向かう 計測ポイントの天神峠から降って来て湖畔を走って、さらに先に有るゴール地点へと向かう。

まだ、ゴール到達前なのでレースは終了していないが、タイム計測は終わっている。

だからコース上を撮影する余裕も生まれてきた。
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ゴール直後の様子

ゴールした顔を撮っておこうとして撮影した一枚。
なぜだか、サングラスが完全に顔からズレている。
ゴールゲートとゴールエリア

ゴール後

<下山開始までの長い時間  (その待ち時間も、なんと2時間・・)>

 レース後の下山は集団化された一斉下山であり、300名ほどがひとつのグループとなって、定められた経路を通って、順次山を降りていく。

 グループの出発は、およそ10分おきくらいの間隔で行われたものだったろうか。下山開始時刻は10時40分からであり、その後は、順次、整列次第にスタートする形となっていた。

 整列場所の手荷物引取り場所から表彰イベントなどの行われる駐車場まで続く湖畔脇の2・300メートル程の路上では、それを埋める長蛇の列がすでに出来ていた。イベントの楽しみを途中で切り上げてこの列に並んで、私達が下山開始した時刻は11時前後だったろうか。ゴールしてから下山開始までの待機時間は、スタート待機と同様に、やはりすこぶる長いものだった。

 私はゴール・ゲートを通ったのが9時少し前だったので、その時刻から見ても随分な時間が過ぎていた。だから、平均的な1時間程度の時間で走覇した選手たちは優に2時間以上も山頂で足止めをされた形になる。

 イベントの表彰台は大きなテントになっていたが、そのテントが置かれた駐車場は湖畔を吹く風が通って肌寒く、インナーを含めて冬支度にウェア一式の着替えが済んでいても、長く居たいと思える様な場所ではなかった。晴れていれば、印象はまったく違って来て、清々しさに溢れていたのだろうが、生憎、山の天気は崩れ始めて来ていた。

 表彰式が進行するにつれて肌寒さが増してきて、広い湖面を覆う空も榛名富士の頂上も次第に曇り具合を強めてきていて、午後からの降雨も予想された。

 ゴール後も曇り空で辛うじて天気が保たれていたから良いのだが、ここでも雨や強い風の吹くような悪天候であったら、堪らなかっただろう。

 山頂での2時間の待機はいかにも辛さの限度に近かった。仮に2時間の走行時間で山頂に到ったのだとしても、下山開始までの待ち時間は1時間を優に越えてしまうのだ。
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ゴール・エリア

下山用の冬支度に着替えて、待機する。
下山用の冬支度に着替えて、待機

<下山について>

 さて、集団での下山についてだが、コースも規制されるが、走行するペースもペースカーが先導に立って時速30キロ程度に規制される。

 途中の榛名神社と初心者コースのゴール・エリアでグループは一旦整列しなおして、無条件に5分間ほどの休憩をとり、再度いっせいに下山するといった手順を繰り返したのだった。

 コース上には交差する道は少ないが、私達がレースの最中に登ってきた道の各コーナ部分の左右にはボランティアの人達が立っていて、下山する私達を見送って下さった。その挨拶は温かい気持ちがこもったものだった。

 そして初心者ゴール地点から榛名体育館までの下山路は、レースでの登攀路の県道211号線ではなくその裏道を通る形となった。国道406号線を含んで街道の封鎖をといて開放したためだ。

 この迂回路は村内の道ともいえる生活道路なのだろう。森や林の木立ちが現れ、やがて梅林などの果樹園が続き、そしてついに斜面が広く開けて田畑が現れた。麦畑が多いように思えたが水田もあり、斜面が少し急な場所では棚田になった部分もあって、一枚づつが斜面に重なった田んぼにはそれぞれに水が一杯に張られて田植えの準備が進んでいた。

 降りだけでなく、時に登りも繰り返して、私達は楽しく下山していった。赤城の下山時、畜産試験場の手前から始まった大渋滞のような事を味あわずに済んだのはこの大会の印象として特筆に価するものだろう。赤城県道の封鎖が解かれるため、旧料金所のポイントから自転車は一列となって下山することになっていた。旧料金所から下った蕎麦屋の辺りから自転車を走らせることが出来なくなり、畜産試験場からスタート地点の合同庁舎までの間を満たす、ひと繋ぎに連なった歩く車列が出来上がった。

 赤城ヒルクライムで発生した未曾有の、旧料金所まで連なる大渋滞(自転車のみ)によって、赤城山頂から合同庁舎までの下山に2時間弱の時間を費やす形となったのだった。下山で爽快な気分を味わえたのは旧料金所までで、その少し先からゴール後の表彰式や完走証の引渡しなど各種のイベントが行われた合同庁舎までの6・7キロ程、炎天下の道路を歩く結果となってしまったのだった。その渋滞列が続く間にも、沢山の警備やボランティアの方達がいて、盛んな労いの言葉を掛けてくださったのが唯一の救いと言えようか。


 榛名ヒルクライムでも勿論、道が交差する場所や坂の始まりやカーブのコーナーには今ではお馴染みとなった黄色のブレイカーを着たレース・ボランティアの方が立っていた。交差する道との交通整理をしたり、「スピードを抑えてください」などと書かれた手製のプラカード(学童用のスケッチブックのようだった)を手に私達の安全のために注意を払って下さった。

 途中で幾つかの小規模な集落が現れたが、そうした場所の交差路や道路に面した家の門口にはおじいさんやおばあさんが立っていて、私達に労いの声を掛けてくれもし、そして盛んに手を振ってくれた。

 私達はレースをしていたのではなく、大集団でそのコースを使って下山(「競技」ではなく単なる「移動」という行為)していた訳だが、人の絶対数が少ないから盛大に、という訳ではないが、そこでも惜しみない拍手や温かいねぎらいの言葉を沢山頂いたのだった。

 やがて、榛名支所のある集落に近づいてくると、門口には子供の姿も現れるようになって、手を振りながら大きな声で「お疲れ様!」と言ったり、声を嗄らして「また、来てネ!」とも言ってくれた。それは地元の方達の温かい気持ちが声援や態度いっぱいに込められた、嬉しいものだった。

湖畔会場での表彰式

湖畔会場での表彰式の様子。
榛名湖畔の表彰式会場の大型テント。

暗くて、表彰されている人の顔がよく見えない。

会場となった駐車場の奥のエリアは、地元の人達のおもてなしによるイベント会場になっている。

「なめこ汁」のサービスがあったが、大人気を博しており、長蛇の列が出来上がっていた。

脇で楊枝に刺した梅干がサービスされていた。3個の梅が刺さっていたが、一遍に口に入れたら、それはもう凄い状態。
榛名は桃や梨が有名だが、このあたりはさすがに梅の産地でもあった。

突き抜けるすっぱさでかなり痺れた。

それを打ち消すためだろうか、隣では「韃靼(だったん)蕎麦のそば茶」が配られ、さらに「米粉で作ったかりん糖」がカップに入れられて配られていた。久しぶりに食べた「かりん糖」で、それは甘くて美味しいものだった。
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イベントエリアには面白い自転車の試乗や、
様々なテントが出ていた。

この車体は、フレーム等の構成は一般品を利用している。
しかしギヤ・リングやチェーンなどは特製品だという。しかも前ギヤが130T、後ろが20Tだという。

目にしただけで驚いたが、そのギヤ・スペックを聴いてさらに驚いてしまった。

ヒルクライム後の疲れた足では、とても漕ぐ気持ちにはなれない逸品。
湖畔のイベント会場

 さて、今回のレースに関しては、事務局からもたらされる事前の連絡が遅くて、「のんびり」している私でさえ大分ヤキモキとしてしまった。

 何をするには如何すればよいのか、何時までに何処へ出向けばよいのか、などといった出場者としての「行動スケジュール(様々な依頼事柄の受付)」に不明な点が多々あったからだ。

 参加案内として送付された書類にはタイムテーブルとして通り一遍のイベント時間表しか記載がなく、前日や当日の行動説明が不充分で、参加者がどうすればよいのかさっぱり判らないという点が多く、本当に困惑した。

 様々な受付の時間や場所、例えば「輪行受付」や「前日の自転車預け」についてなどといった事柄がどうしたらよいのかまるで判らない。あるいは、定められた「駐車場の場所」、そこからの「移動時間」やレース前の「待機場所」なども不明なのだった。

 レース開始日の直近になって、公式Webページでスタート順表(5.14公開)や駐車場マップ(UPされた日付は不明)や会場や待機場所のマップ(5.16公開)、前日イベントのスケジュール表(5.17公開)などが順次公開されたが、そうした重要事項を説明した書類関係物は、事前に通知・周知すべき事柄ではないだろうか。主催者側の責務として案内書に同封して郵送すべきものだろうと思うのだが、どうだろうか。

 「Web公開の手法」が悪いとは言わないが、公開したから良いというものではない。イベントの前日になってやっと式次第が公開されたり、事前申請した予測走覇タイム別のゼッケン番号が各人に割り当てられているにも関わらずその「スタート順の時刻表」がレースの5日前になってやっと公開されたり、社会人一般の事務感覚と大分ずれて居るように思われる。

 私の持っているビジネス的な常識から言えば、最低でも事象の2週間前には詳細内容や時間軸などを公開し、周知を図り、参加者へ遺漏なく案内すべきだろう、と思っている。今風のWeb上での時間的な感覚で、大きな大会という公的行事での連絡事項や案内や周知項目の周知(通知や公開)などを測られたのでは困ってしまう。そうしたタイミングのズレは感覚や通念の問題、だから個人的な意見や感想に過ぎないものなのだろうが、「余裕を持って」ということは基本的な広く認識された社会通念と言っても良いのではなかろうか。

 参加者の年齢層が厚く、しかも大人数という<規模>を少しは意識して欲しい。主催側がレース参加の募集をかけた時点で<5000名規模の大会開催>を謳ったのだから、参加する側としてはそれに相応しい準備を期待するのが当然ではないか。あるいはそうした規模の大会として準備し、体制を整えるという裏付けが何らない状態でそれだけの募集枠を決定してしまったのだろうか。

 数百人規模でのクローズなイベント開催を告知するような中途半端な姿勢ではなく、「全国的な規模のある大会」なのだからもう少し配慮が必要だろう。事務局の取り組みからは「周知期間を確保すべきだ」という大切な意識が完全に欠落しているように思われる。

 第一回目の開催だから「背伸び」をしてしまった主催者の不慣れな部分は致し方あるまい、と思っている。出来得れば是非とも来年は、告知の余裕ある実施を、大会の改善点の一番目の要素として願いたい。

MCは有名な「絹代」さん。

自転車のイベントでは引っ張りだこのようで、あらゆる場所でお見かけする人だ。

インタビューを受けているのは、モデルの「日向涼子」さん。
月刊の自転車雑誌、FUNRIDEをずっと購読しているが、彼女の連載ページが実に楽しい。

モデルであり、イラストもこなし、
(FUNRIDEへの連載ページとは別企画にて)今中大介さんを師匠にして先ごろ「FUNRIDE ローラー部」を結成した有望なクライマーでも有る。

カテゴリー別の3位(女子30代)に入賞された。記録は59分54秒!という素晴らしい内容。
絹代さんと日向涼子さん
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レースで出会ったAさん せっかくなので、
下山前に2人並んで
記念撮影しときましょう、という事になった。


私の携帯を渡してボランティアの方に撮影して貰った一枚。

<レースでの出会い>

 榛名山ヒルクライム・レースは、私個人での単独による参加であった。多くの選手はチームのメンバーや仲間達との参加であって、私のように一人でのエントリーは少ないように思える。スタートやゴールエリアではそうした知人同士の気の置けない様子が実にほほえましく、それを眼にしてかねてより羨ましい気持ちを擁いていた。

 しかし、今回のレースでは、同好の氏との素敵な出会いがあった。仮にその人の苗字のイニシャルをとって、ここでは「A」さんとしておこうか。

 Aさんは私よりも若い人で、遠路、横浜から高崎で開かれるこのレースに参加するためにやって来ていた。レース前日での受付や当日のスケジュールなどの関係もあって、多くの人が高崎に宿を確保し、前泊して望んだと思うのだが、彼もそうした遠方参加者の一人だった。

 私は前橋の実家からなら移動距離は比較的に短いので、前日や当日は会場までピストン移動するという手もあった。それを想定して自動車来場用の駐車場は申し込み時に申請して押さえておいたものの、実際のところは「輪行」での会場への移動を考えていた。そのために、高崎環状道路に近いロケーションにあるビジネス・ホテルを予約したのだった。

 レース前日は、いつも自転車を付き合わせてしまっている相棒の友人Hが車で受付会場の榛名体育館(前日イベントが開催される会場でもある)まで送迎してくれて、夕刻になってホテルでドロップしてもらったのだった。

 レースの準備の確認をしている際に、私は大変な忘れ物をした事に気が付いた。パンク修理の道具や簡単なメンテナンス用のアーレンキーを最低限の重さに抑えるために、最軽量のチューブ(50g)と共にタバコの箱ほどの小さなサドルバックに詰め替えて持って来ていた。そのバック内の再点検で、パンク修理時に必要な道具の「タイヤ・レバー」をそのバックに入れていないことに気が付いたのだ。

 実家からの前進基地としたホテルは、高崎の市内の外れにあってスタートエリアからは近い場所だった。しかしそれでもホテルからレース前の待機場所までの自走は10キロを優に越える距離であった。レース当日は国道406号線を早朝の4時台に走る事になるが、その時刻に当然店は開いていないから、パンクした場合にはその地点で行動が止まってしまう。

 見渡すとホテル近くには幸いにも大型系列店の某スポーツ・ショップがあった。そこで、20時前ならまだその店が開いているだろうと、そのチェーン店へ向かうことにしたのだった。

 部屋は5階だったのでエレベータ・ホールで待っていると、目の前の部屋を出てきた人に声を掛けられた。「榛名ヒルクライムに出る人ですか?」、それがAさんとの出会いとなった。

 私はレーシング用のビンディング・シューズを履いてエレベータを待って立っていたのだが、それを目にして声を掛けてくれたのだった。「会場まで自走する予定で、タイヤレバーを忘れてしまい、これから調達にいくのだ」という事を一緒に乗ったエレベータ内で話すと、彼は快い決断を即座に提案してくれた。

 「自分の車にはまだ余裕がある。よかったらそれに自転車を積んでもらって、会場まで一緒にいきませんか」と言ってくれたのだ。バン・タイプのクルマに2台の自転車が積んであったが、広い荷室にはまだ充分に余裕があり、このクルマなら私の自転車やザックなどの一式も余裕を持って積み込めるだろう、ということが判った。

 私はその好意にすっかり嬉しくなってしまい、多少厚かましいお願いだったのだが、その言葉に甘えさせて頂く事にした。これで、自走して会場へ向かう必要が無くなり、レース前の移動中でのパンクというリスクのひとつが消える。実に有難い、まさに「渡りに船」といった喜ばしい話ではないか。

 それはまるで、日本映画の「憑き神」のような出来事。映画で願い事に対して古い祠から現れてきたのは西田敏行さん演ずる「厄病神」だったが、この場合はまるで逆。じつに心優しい「拾う神」が実体化して、窮地に立った私の眼前に、まさに今、明神様のように出現したのだった。
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出会ったAさん ゴール後、主催側へ預けて山頂に運んで貰っていた手荷物を受け取って、着替えを済ます。

下山開始まではまだ大分待機時間があるので、
撮影の余裕もあり、イベント見物や表彰式を楽しめる。



下山して、前橋にもどってから友人Sから聞いた話。

どうやら山頂で「なめこ汁」だけでなく「ホットドック」や「コーヒー」が振舞われていたらしい。

着替えを済ませてイベント会場へ行ったときには、すでにどちらも見かけなかったのだが・・・。

 Aさんは、私よりずっと若い人で、レース参戦の際の年齢別カテゴリー的に言えば私との間では2世代の隔たりがあるのだが、極めて慎重な性格であるようだ。年配の私から見ても若いに似ず、配慮も行き届いている。

 几帳面な人であろう事は、車内の運転席の様子や、荷室の整頓具合や、自転車の積載の方法にもあわられていた。控えめだが快活な人で、気軽に声を掛けてもくれ、良く話をしてくれた。

 この世代の人は個人主義が浸透しているのか、サイクリングロード上の休憩ポイントなどで挨拶しても無視される場合が実に多い。人によって対応は様々なのだろうが、いったいに愛想がよろしくないように常々感じている。

 その点、Aさんの姿勢は彼らとはまるで違っていた。嫌らしくなく社交的だという、珍しい類の人だった。営業さんのように人懐こいけど裏があったり、そうした一見社交的なタイプのひとの中には上滑りであったり、嫌らしい感じのする人もみかけよう。しかしAさんの場合はそうした雰囲気はなく、まったくそういった感じがない誠実で真摯な人だったのだ。


 そうしたAさんの性格のお陰で身構える必要がまるでなく、だから私の話も安心した弾んだものになった。

 さてここで、聴いてみたAさんの自転車の変遷を紹介してみよう。最初にミニベロ(20インチほどのタイヤを着けた小径車)を購入し、それで走っているとクロスバイクに頻繁に追い抜かれるので、クロスバイクを程なくして購入し、そしてさらにそのスピードでは満足せずに、遂に思い極めてロードバイクに手を出したのだという。サイクリングに出掛けた先で、先行するロード車を追ったが追いきれず、そのスピードに憧れを擁いたのだと語っていた。

 しかし、車内に保持されていた自転車は「FOCUS」と「CARRERA」の2台。バリバリの硬派スポーツ・モデルの人気モデルだった。しかも両方共にフル・カーボンフレームの本格的なレース仕様の物件だ。ピナレロやGIANTではなく、TRECKやキャノンデールでもない。この車種を選択したというところが実に渋めでいいではないか。自転車に対して本腰をいれて取り組もうとする姿勢が見えて来て、私は少し嬉しくなって、迷惑も顧みずに色々と質問をしてみたのだった。

 翌早朝にレース待機会場まで送って頂く車に、私のHARP号(別名を「蒼い流星」といいます)も積み込んで、明日の出発時間などを打ち合わせた。そして割り当ての駐車場の場所を聞いてみたら、Aさん用に確保された割り当て場所はかなり遠くで、集合会場の榛名体育館までは6キロ以上も離れた場所にある工場なのだということだった。

 そこで「私の駐車場ならその半分で済むので、場所を変えて下里見小学校にしよう」と提案したのだった。今度はAさんが、「明日、まごつかない為に駐車場までの経路の確認とそこから会場までの道を確認しておきませんか?」といい、その言葉に同意して、ホテルから駐車場への経路確認のシミュレーションをしてみよう、とその場所へと一緒に向かう事にした。

 Aさんは開始までに残る「不安な要素」をすべて取り除いて、無心の境地でレースに取り組もうという心積もりのようだった。私は、その用意周到振りに関心すると共に、その半面で少しでもリラックスさせる事が出来れば良いなと思い始めていた。

 ホテルから集合・待機場所の榛名体育館までは、まっずぐに向かえば20数分ほどのドライブになる。自転車を積み込んでいる際や、この短いドライブの間で、Aさんの自転車との関わりや取り組みの話を聴いたのだった。

 そうして過ごした僅かな時間は、同好の士ならではの、すぐに打ち解けてしまった時間であった。私はじきに、Aさんとは数十分前が初対面であったことを忘れてしまったのだった。それはまるで長い間遭わなかった旧友の近況を聞くようで、あるいはしばらくご無沙汰してしまっていた友人との開いた空間を穴埋めする作業のようであって、本当に心置きなく楽しく過ごすことができた。
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Aさんの武器 Aさんの武器

Aさんの武器。

じつは、フル・デュラ(すべてのコンポーネントがデュラ・エース)で仕上げられた車体を始めて見た。

しかも、最新仕様の11速!。

 Aさんはクロスバイクを買ってからレースにも興味が湧いて、「富士ヒルクライム」レースを現地に出向いて観戦しに行ったのだという。その後、「FOCUS」を買って、富士ヒルクライム・レースの中間点から自分でもそのコースをトレースして登ってみたのだという。

 そうした話などからは、Aさんが本格的なレースを見て、そうせずには居られなくなった<熱気>が伝わってきた。さらにやる気が湧いてきて、程なくして開催される「箱根ターンパイク」でのクライミング・レースに申し込んだが、練習中に「立ちゴケ」してしまい、新品の自転車のリア・ディレイラーのハンガー部分を損傷してしまったのだという。

 そうそう、立ちごけ3回。私もビンディングペダルのSPDクリートに変えた最初の時期に、見事に何でもない瞬間にバランスを失って加速度をつけてコケてしまったものだった。私の場合、コケる際の大切な注意点があった。公道上では危ないので転ぶ時は「必ず左側に向かって転ぶ」ようにしていたのだ。

 「転ぶなら左へ」は我が身を通行する車から守るだけでなく、それにはギヤやディレイラーなど車体の右側面におかれた各種の装置を損壊から守るという大切な意味があった。しかし注意はしていても、一度だけ右側に転んでしまった事があった。

 それはAさんが陥った事態と同様で、一旦崩したバランスを持ち直そうとしてもがいた挙句に、その回復に失敗したためだった。クリートの止めねじが脱落していてビンディングからシューズを外す事がどうしても出来なかったために転んだ苦い経験。そんな思い出がAさんの話で昨日の事のように蘇ってきた。つまりは、私はそのとき、Aさんとの会話を心から楽しみ始めていたのだった。

 リアハンガーの修理パーツの取り寄せがレース出場までに間に合わずに、今度はより戦闘的な「CARRERA」のフレームを買って、「FOCUS」の車体側に着けてあったコンポーネントや各種のパーツを移植して、箱根でのレース参戦に臨んだ事など。実に楽しい話で、そこからはAさんが次第に自転車に夢中になっていく過程が見えてくるようだった。しかもその体験談には自分の経験と重なる部分や想いに共感する部分が多々あって、聞いている私は、益々楽しくなってきた。


 到着した駐車場は街灯もなく暗くて、実際にクルマを停める場所までは判らなかったが、下里見小学校までのアクセス経路はこれで確認できた。さらに車を走らせて、そこから榛名体育館まで向かう経路も実際に車で行ってみて無事に確認し、ナビにも登録できた。


 そこまでの確認で私達はホテルへ戻ることにしたが、その途中、すっかりと意気投合し、地元でチェーン展開するファミレスで食事をしてさらに話を続けたのだった。

 なぜなら、その時になると、そのままホテルに帰ってこの日の幕を閉じてしまうのが何だかとても残念で、すでに私は名残り惜しい気持ちで一杯になっていたのだった。
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クランクと一体化された4本アーム。

新しいSHIMANOの最高峰、という事は世界の最高峰と言うことになる優秀この上ないパーツだ。

デュラ・エース!の11S用のコンパクト・クランク。

実に小粋な仕上げ。


カッコ良過ぎるでしょう、これでは・・。
Aさんの武器

 「箱根ターンパイクでのヒルクライム・レース」への参戦(2012年の12月初頭)後に今回の「榛名山ヒルクライム」へもエントリーして、今は自転車に夢中で、楽しくてたまらないのだと、嬉しそうに話すAさん。

 年齢は私とは大分違うが、私もAさんとはご同様。自転車が楽しくて仕方が無い。

 ヒルクライム・レースなら完全に車とは分離され、多くの安全策が講じられていて、しかもそれらがしっかりと確保されている。そのレースのあり方が他者との争いではなく<何より自分との戦いなのだ>というところに参ってしまっている。

 しかし、気持ちの在り様は似ていても、二人の取り組みは違っていた。大雑把な性格でしかもで面倒を厭い、出走する「榛名湖コース」の試走もしていない私(のんびり行こうよ 2013.04.28 「榛名山ヒルクライムに臨んで」)に比べると、やはり準備周到なAさんの取り組みは素晴らしかった。


 榛名山頂までの試走をしっかりと済ませて、エントリー時の予測タイムよりも早い70数分で山頂へ達したので、レース本番でもそうした時間でゴールできる見込みが立ったのだという。ゼッケンが私と同じ8000番台なので、予測タイムは1時間3・40分と見たのだろうが、試走ではその時間を遥かに上回っていたのだった。ロード用の自転車に乗り始めてまだ一年に満たない状態とは思えない、精進振りである。

 勿論、横浜在住の方なので、神奈川方面の聖地、相模の大山にある「ヤビツ峠」へは、もう5回も練習に行っているという事だった。そして榛名山ヒルクライムへの参加に際しては関越道や首都高などの高速を使ってまで、横浜からの遠路にも拘らず現地を訪れて、その実際のコース全面を試走をしていたのだった。私などは、爪の垢を頂戴して、煎じて呑んで是非にもその姿勢を見習わなければならないだろう。

 「ヤビツ峠」がクライマー達の聖地とは知っていても、いまだ自転車で実走したことはなく、秦野(はだの)駅前から出発する路線バスで終点の「ヤビツ峠」上の駐車場へ行くだけ。そこが例年訪れる、我らがサークルのワンゲル部での山行(のんびり行こうよ 2010.12.18;丹沢、ヤビツ峠から塔の岳へ」)の入り口となる場所だからだ。

 さて大山。山頂の「阿夫利(あふり)神社へと参詣する大山参り」で江戸時代から有名な場所だ。そして私達にとっては、山頂への登山の後に、麓に降りた先にある神社の参詣道に点在する店がお目当て。豆腐などの精進料理が美味しい場所であった。だからそこは、私にとってはヒルクライム練習の聖地にはまだなっていない「山行」の場所だった。
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「パンク修理」をしたことがないという話だったが、それは、覚えておけば自分の財産になる「大切な技術」。

是非とも、
機会を見つけて私が伝授いたしましょう。
Aさんの武器

 翌朝、「4時45分、エレベータ前で待ち合わせ」という約束をたがえる事無くホテルを出て、下見の効果を発揮して無事に指定された駐車場の「下里見小学校」へ車を入れた。そして準備を整えた後、スタート前の集合地点である榛名体育館へ、Aさんと私は一緒に向かったのだった。

 駐車場で自転車を降ろしているときに気が付いたのだが、Aさんの愛車のコンポーネントはSHIMANOの最新型の「11速用デュラ・エース」でフルに固められていた。私はキャリパー・ブレーキだけを今年になってデュラ・エースに変えたのだが、あとのコンポ構成は「アルテグラ」であった。

 レース会場やサイクリング・ロード上では実に多種に渡る自転車を眼にするが、私は始めてフル・デュラの車体を目撃した。しかも先日発表されたばかりの11速モデル。「ツール・ド・フランドル」や「パリ〜ルーベ」などのクラシック・レース、「ツール・ド・フランス」や「ジロ・デ・イタリア」や「ブエルタ・ア・エスパーニャ」などの3大レースでも使われる世界最高峰の優秀なレーシング用の高級パーツだ。こうしたレーシーなパーツ(コンポやホイールやハンドルやシートなど)選定などを見ても判るように、やはりAさんの自転車への取り組みは本気なのだった。

 レースの待機から一緒に並んで、スタートを切った後の1キロ程の間は、ほぼ一緒に走っていた。沿道からの声援に「また来年も来まーす!」と元気な答えを返すAさんに比べ、「いや、来年はどうだろう」と私は答えを返していた。しかし、そうした応援者との遣り取りが数回繰り返されるうちにいつしか、私も「来年も・・」と思い始めていたのだった。
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振舞われた「なめこ汁」、今度はありつけた

山頂と違って、こちらでは「なめこ汁」に長蛇の列は出来ていなかった。
下山を終えたら丁度、昼時になっていたが空腹感はまるでなかった。

しかし振舞われたなめこ汁は美味しさに溢れていて、お腹に味噌となめこの旨みがゆっくりと沁み渡った。
榛名体育館脇での下山後の様子

スタートエリアでの下山後の様子。

<榛名山ヒルクライム 大会を終えて>

 レース内容についてではなく、会場や設営に関することになるが、<道路の幅や路面に関しての懸念>を私はずっと持っていた。

 「赤城山ヒルクライム」のコースは元来が観光道路として設計され構成された有料道路だったものなのだが、榛名山の有料(観光)道路は渋川から伊香保への直登路であり、このレースで設定されたコースとは違う場所にある。(なお、「伊香保観光道路」は、今は赤城の有料道路と同様に償還されて無料化されている。)そして、このレースで選定された道は観光道路ではなく、生活道路であった。

 しかし、開催前の段階で路面の損傷が話題になると、高崎は大きな予算を割いて(あるいは国や県から引き出して)路面を補修した。国道406号線から榛名支所を過ぎて山頂へと登っていく道は「県道211号線」、榛名神社を過ぎてさらに山頂へ上る途中で「県道33号線」へと変わる道だ。スタートから8キロ先の地点辺りから、その上部の区間では実に多くの路面が新しいアスファルトで覆われていて、登りは勿論、下山の際にも充分に安心して通行することが出来た。

 評判では「狭くて危険」といわれた道幅だが、それもレース中の神社周辺の蕎麦屋さんのご近所だけで、他の場所は充分な広さがあった。むしろ、レース中に感じたのは逆に路面の良さだった。急斜面で展開するコーナーを登る際のコース取りも余裕が持てたし、降り坂になる場面でも存分に道幅を活用出来た。あの悪い前評判はいったいなんだったのだろうと、実際にコースを走ってみた今となれば、疑問に思えてならない。


 ゴール後の榛名山頂での長い下山待機(私の場合は2時間の足止め)はこのために必要になった措置だったのだ。考えてみれば、レース中の下山を行わなければ交互通行の道路は上下路の両車線面が利用できる。つまり降ってくる自転車がないから片側1車線の相互通行道路の両方の車線を使えたわけだ。逆に下り時ではレースで登る自転車がいないので、やはり両方の車線を広く使えることになる。

 思えば赤城のレースでは中間地点から上部(旧料金所ゲートと姫百合駐車場の中間辺りの10キロポイントより山頂までの区間)は片側の車線のみでの通行(左側のみ通行)となっていた。私が、ゴールまで残り5キロほどを残す「姫百合駐車場」の先に差し掛かった時に、最初の下山グループが素晴らしい速さで山を降りてきてすれ違ったのだった。反対車線を駆け抜けるエキスパートから送られる「ファイト!」の声援を受けたのだった。

 「榛名」でレース中の道路を狭く感じなかったのは、そうした理由からだった。対面通行の片側車線を潰せば、狭い道幅でも2倍の路面幅となってそこに余裕が生まれる。それに赤城のように車線を規制するためのボランティアさんが道路の中央分離帯に立ち並ばなくて済むから、人数を軽減(人員配置が交差点とカーブの場所のみの最小人数で良いわけだ)できるわけだ。

 レースの最中、登り道では走るのに真剣で、下山では爽快な気分が溢れて来て堪らずに高揚していて、そのことに思い至らなかった。長い下山待機時間を作る事で<狭い路面幅という欠点を補っていた>訳だが、当日が曇り空で、下山終了まで天気が持って本当に良かった。しかしレース当日が雨天だったり、ゴール後が雨模様となっていたなら、主催者はどうしていたのだろう。どんな策を講じて(選手の退避場所やレース車線を規制して下山を早めるといった措置、など)いたのか、興味の湧く部分だ・・・。


 開催前の不安から考えると、杞憂はまるで的外れなものだった。いや、幸いに天気が予報に反して<雨>ではなかったという事が大きく関与している訳で、そうした幸運によって助けられた部分も多かろう。

 まあ、総じて安全面に置いては、充分な配慮が行き届いた大会だったと評価することが出来よう。問題は、開催内容の告知や通達など、単にインフォメーションの貧弱さのみにあったといえようか。

 更にあえて苦言を呈すれば、会場の整理誘導に当っていた警察官諸氏の高圧的な態度や横柄な仕草や言葉、これらは参加者の折角の浮き立つ気分や、温かく寄せられた地元の励ましや、大会開催への共感する姿勢など、といった大切なものを台無しに、簡単に打ち壊すものだった。彼らはそうした態度を取ることが元来の姿勢であって、所詮は職業人として大会に関わっているだけの人達。だから、そもそもの立ち位置が周辺の住民の皆さんや開催事務局関係者やボランティアとして力を発揮してくれた有志の方達とは、まるで異なるものだ。そうした厳然とした相違があるので、ああした処し方なのは致し方あるまい。しかしそうした制服組の中でも、町の駐在さんと思しき交通制御の人の態度は明らかに会場にいた警察官諸氏とは違っていて、実に親身な温もりを感じるものだった。

 コース上の規制や交通整理や駐車場への誘導などはボランティアや民間警備会社での人員で足りていて、思うに警察官による会場整理の支援はまったく不要といえるものだったのではなかろうか。大会の品位や評価が、そうしたまるで大会とは無縁の一部の人によって下がってしまったのでは、主催側や協力を惜しみなく費やしてきた周辺住民の方達も堪ったものではなかろう。

 送られた声援は赤城の大会よりも少ないものだったが、そもそもスタート地点が前橋のような市街地というわけではないし、コースが住宅地の中を走り抜けるわけでもなく、山間の田園地帯とも言える場所を舞台にして開催されているのだった。果樹園が広がり、田畑が開ける郊外の地をスタートして、4キロ過ぎたあたりからは人家のない道を走っていって、あとは山坂だけを相手にして脇目も振らずに、一路山頂へと登り詰めて行くというひたむきなレースであった。

 榛名支所周辺の室田地区での熱気に満ちた応援、それを引き継いで初心者コースの終了あたりまでに沿道に立った人達から盛んに送られた声援や拍手、初心者ゴール手前の先からは家並みが無くなるが、沿道のボランティアの方達の更に篤い応援があった。人家が有る場所では、必ずといっても良いほど沿道の家から顔を出して飽かずに応援をしてくれたのだった。お爺さんやお婆さん達の笑顔、子供達の熱心な力いっぱいの声などは、本当に大きな励みになった。
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大きなフェイスマスクを被り、紫色の髪をなびかせてグングンと坂道を登っていった。

ヒルクライムの有名人。キクミミモータースさん。
私は去年の赤城山でもやはり抜かれた記憶がある。

丁度、神社のあたりでモタつく私を尻目にして、今度も加速を付けて追い抜いていった。
初音ミクさんの愛車ではなかろうか?

 開催前には、その内容通達の情報量不足から、私はこの大会に対して多くの疑念を持っていた。

 高崎での開催という部分は良しとして、スタート地点の設定や「コース選定にもう少し配慮が出来なかったのだろうか」と文句を並べてもみたし、「輪行サポートの体制」などを初めとした「会場へのアクセス支援の内容」に関しても書いてきた。

 赤城山ヒルクライムの大会でのこと(のんびり行こうよ 2012.09.30 「赤城山ヒルクライムに向けて」)が念頭にあって、多くを引き合いに出してそれと比較し、さらに批判めいた内容も書いていた。

 いまだに、事務局に対しては言いたいと思うことは様々にあるのだが、しかし、見事に大きな混乱や事故の発生が無く、つつがなく全国規模の大会が開催されて、そして成功裏に終了できた。これは本当に喜ばしいことだ。

 大会運営を企画段階から立ち上げた実行スタッフの払った努力や忍耐は想像を絶するもので、並大抵の苦労ではなかったことだろう。実にこころから事務局の方には「お疲れ様でした」と言いたい。それにボランティアで参加して大会の成功に骨を折った多くの人達。この人達が交通整理や会場設営などの日陰仕事を支えたから、その惜しみない尽力があったから成功したという局面も多かろう。彼ら縁の下の力を捧げた人達には、出場し無事にレースを終えられた選手の一人として、心からの感謝の意を表したい。

 さらに、来年は2回目の開催となり、末永く継続するであろう大会運営の今後が決定付けられる。「初めての開催だから」という冠(かんむり)言葉が消えて、本来の運営姿勢や主催者の意識、つまりそこでは<自転車への共感の有無>が問われるからだ。是非、改善すべき幾つかの点を真摯に見つめて、もう一度見直して欲しいと考えている。
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2013.04.08
撮影


吾妻川からみた、
榛名山の様子。

あの山並みを自力で登った充実感を、山稜を見るたびに思い出すだろう。
吾妻川からみた榛名(白井)

<レースの外側>

 さて、レースそのものとは、少し離れたお話。

 世代は違うが、共通するアツい趣味を持つというのはいいことだ。その要(かなめ)があってこそ、あの晩の偶然をきっかけにして、見知らぬ者同士が一瞬にして「知人」となることが出来たのだから。

 自転車仲間の一人と呼ぶにははばかりがあるが、私の気持ちのなかでは大切な自転車仲間の一人になった方が、そうして出会ったAさんだった。レースの終了後は約束どおり一緒に下山してきたが、集合会場の榛名体育館から駐車場にもどった後も、実は前橋までAさんの車で送っていただいた。「最寄りの場所まで送りますよ」の言葉に、またしても私が甘えてしまったのだ。前橋インターまで疲れた我が身と、戦いの済んだ武器である愛おしい自転車を運んでいただいた好意は、本当に感謝に耐えないものといえよう。


 考えてみることがある。

 例えば、一人でレースに参加したままだとしたら、私は今のような充実を味わえただろうか。また、素直な感謝の気持ちをレース主催側に対して抱けただろうか。贈られた声援に諸手を挙げて感激していたAさんの姿勢がもしも私の横に無かったとしたら、もっとレースは味気の無いものであったように思われるのだ。

 感激や喜びの気持ちは他の人と分ち合ってこそ倍加する、古くから言われる当たり前の真理が、私の中で親身に沁みている。彼との世代を超えた出会いがなく、そこにAさんが居なかったとしたら・・・。レース前日の晩はもっと不安であったろうし、レース出走時の感動は薄いものだったかもしれない。そして完走後の喜びに到っては今よりも遥かに少ないものだったのではなかろうか。

 偶然とはいえ、実に稀有な出会いを、私はこの手に掴む事ができたといえよう。

 やはり、そこに飛び込んで見なければ何も判らないという世界があるし、人と交わってみなければ何も始まらない。こうしたまたとない大切な出会いが<旅>の中にはある。それが訪れる瞬間が日常のひとコマから離れた旅の中であるから、すべての事柄に対する感受性も高まっているのだし、周りへのアンテナが緊張感を持って張っているからこそ、またとない貴重なものがもたらされるのだろう。
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前日受付で袋に入っていた参加記念品。

榛名神社の「福亀」

パワー・スポット、榛名神社の霊験で
是非手元に福を呼び寄せて寄せて欲しいものだ。
パワー・スポット 榛名神社の「福亀」

 高崎のビジネス・ホテルに前泊の宿を取ったのが事の始まり。私はそのことでレースへの参加を<ひとつの旅>に仕立てたのだった。

 「ツール・ド・草津」のレースでも、宿泊した宿の女将さんや帰りのJRバスで乗り合わせた外人さんの3人組み、輪行で前橋まで帰ったローカル列車の吾妻線で話の相手をしてくれた2人連れの輪行者。その際にも多くの出会いが味わえた。レースは10cmを越える降雪によって生憎にも中止となってしまったが、私の気持が満たされていたのは、存分に草津の湯で癒されたからだけではなく、そうした愉しい出会いがあったからだった。特に宿の女将さんはスキーをやめて久しい私を同じスキー仲間と呼んでくれた。そうした素敵な体験が今回のレース参加でも訪れて、また喜びを味わえるかも知れぬと、少しばかり期待する部分もあったのだ。

 人間、50歳を越えると、人との接触や、そうした<生活とは別の場での交わり>が何ものにも変えがたい大切な財産になる。しかも、それが同じ趣味の事で結びついた人であるなら、これに勝る幸せはそうそう味わえるものではあるまい。

 あと数分、エレベータ・ホールに出るのが遅かったら、Aさんと私が出会うタイミングはなかったのだ。さらには、私がビンディング・シューズを履いていなければ、Aさんから声を掛けられることもなかったのかもしれない。実に多くの偶然が重なって、私が味わった至福の出会いが生まれたのだと言えよう。

 本当に紙一重、それは僅かな瞬間に期せずして起こった偶然だ。お互に過ごして来た「時の道のり」がほんの少しだけ交差した結果で、もたらされたもの。わずかなきっかけで辛うじて成り立った、偶然のなせる技であった。
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 榛名山ヒルクライムの公式リザルトはまだ出ていないが、速報として以下の結果がある。

 成年男子50代の出走者は423名。世代別カテゴリーのトップを走り抜いたのは神奈川の人で、その記録は42分51秒。エキスパートクラス男子の優勝タイムが40分12秒だから、その差は僅かに3分。かなりの高速だといえようが、時速に換算するとは22km/hに及ぶ。

 私の記録は1時間16分57秒でカテゴリー423名中の289位。総合順位は「榛名湖コース」出走完走者2735名中の2074位(DNF;未完走、DNS:未出走者がかなりの数でいたようだ)であった。スタート2キロ過ぎあたりから千切られてしまったAさん(男子30代のカテゴリー)のゴールからは、遅れること9分であった。Aさんとはスタート前に「レースが始まったあとはそれぞれのペースで走りましょう」と約束していた。だから、「千切られた」と書いた表現はむしろ正確なものではない。そもそもの脚力が二人の間では違っていただけなのだった。


 レース終了後(まあ、前日の晩も強く勧めたのだが)、Aさんには「「赤城山ヒルクライム」への参加を改めて推奨した。私が去年味わったあの感激を彼にも是非味わってもらいたい、と思ったからだ。

 尽きかけた力が、心から送られる応援を受けることによって存分な新たな力となって、また湧き上がってくるあの喜び。人を支えるのは、そのひとが払う努力があってこそ成り立つもの。さらには忍耐や修練の積み重ねが必要不可欠な要素なのだが、そこにはまた別の、もっと大切なもがある。

 それが自分とは別の人から送られる力強い支援なのだ、という事が本当に身に沁みた大会での経験だった。自分との戦いであるはずのヒルクライム・レースの只中で、私は切実に人が人を支えるのだ、ということを感じ取ったのだった。

 人は自分のためにこそ必要となる力を出せるものなのだが、少し素直になって一度力を抜いてみればいい。失いかけた自分を支える力を、他者から贈られる激励でまた取り戻すことが出来る。どうやら、自転車乗りの湧き上がる力を支える強い意志には、源となる私達の素直な心の動きがあるようなのだ。

 20キロを越える距離を走り、1300mの標高差を登って行く過酷な「赤城山ヒルクライム・レース」で判ったのは、そのことだった。ヘコタレて限界に達した体力。さらに消耗しつくした気力。太股後ろ側の筋肉はもとより前側の筋肉さえも使い果たしてしまって、もうだめだという諦めを浮かべ、その無意味な言葉を繰り返し始める自分。

 しかし、そんな状態に陥った自分を、周りを取り巻くひとの誠意が支えてくれれば、声援や応援の励みから大きな「気の力(フォース)」を分かち与えてもらえれば、それを意志の源へと変えてしまううことも出来るのだ。

ヒルクライム完走証 ヒルクライムの完走証。

「榛名湖コース」全長16.1キロの走覇を証明する証書だ。


記録は<1時間16分>。



予想した申請タイムは1時間42分。
赤城山ヒルクライムの20%減で想定し、激坂分を加味した数値で登録した。

しかし、実走結果が想定を上回れたのは、嬉しい限り。
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 赤城山と肩を並べて榛名山もまた、同じような確かな手応えを持って、いつでもそこに静かに立っているのだ。その山の頂きへは改めて一度、登っておかなければならないだろう。

 と前回のページ (2013.04.28 「榛名山ヒルクライムに臨んで」)で書いたのだが、「ハルヒルの激坂」と書かれたコース上の斜度は驚くほどにキツくて自分に負けそうな場面が多々あった。しかし、激励を受けて何とか新たな力を沸き立たせる事が出来たし、力を込めて限界を極めて走っている人のファイトを観て、自分の力を出し切って山頂まで走り抜けることが出来た。やはり、まさにそれは登っておかなければならない山だった。

 ひとつの事を成し得たのだという改まった達成感からか、下山はすこぶる爽快な気分が心にも体にも一杯になって、気持ちよく山を下り降りることが出来た。あたりの山郷の景色を満喫する余裕もあったし、途中で現れた登りの場面ではダッシュを掛ける余裕すらあった。計測終了直後はあれほど疲れていたというのに・・・。

 レースは終了しているから、敢えて登坂でのダッシュなどはまるで不要なのだが、そうやって走らずには居られない、明るい朗らかな気分だったのだ。

 あれほどに息遣いが荒くなり、呼吸だけでなく心臓さえもひどく苦しい状態。スピード、ケイデンスと併せたハートレート・モニターが示す最大心拍数との割合率の数値も、もう一杯の状況。言ってみれば疲労の極みといったひどい有様になって、やっとの思いで計測ラインを超えたことが、まるで嘘のような爽快な気分なのだった。疲れを消し去ってその気分がもたらされた理由は、やはり私の横に疲れを知らないAさんの快調に走る姿があって、さらに共にレースを戦った選手の集団に囲まれて走っていたからだろうか。つまりはレースを通じて自分と戦い抜いた人達(レース当日だけではなく、レースに挑むための練習を含めて)と一緒なのだという共感があるから、失った力を体の底から改めて湧き上がらせてくれたのではあるまいか。そうした事が、坂をくだり降りる楽しさや、温かい山郷の景色に包まれる爽快な気分となって、下山する私にもたらされたのかも知れない。

 さて、榛名山ヒルクライム・レースはこれで終了してしまったが、この大会は多くの事を私にもたらしてくれた。参加してみて、本当によかったと思っている。そして、再会を約したAさんに恥じない状態へとトレーニングを積んで、来るべき赤城山での再会の時に備えたいと思っている。


 ところでこれは余談である。

 大きな人気を博している「赤城山ヒルクライム大会」だが、今年3回目のエントリーはネット上の回線混雑を考慮して24日、「金曜の20時から開始」という風に申し込み時刻の変更がなされた。このためか、エントリー開始後、僅か58分程で一般ネット・エントリー枠の先着2650名に達してしまったという。

 まるで往年の益子直美さん張りの豪放なスパイクで速攻を決められしまったようで、あっという間もなく締め切りとなってしまった。ちなみに去年は開始から10時間後に定員に達した状況だった。

 私もAさんも、無事にエントリーが済んだのは言うまでもない。
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