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2013.09.01
 「まえばし赤城山ヒルクライム大会」に向けて

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24−72mm F2.5
 iPhone 4S

 (画像添付時に約30%程度に圧縮)



 故郷、前橋を舞台にした自転車イベント、「まえばし赤城山(あかぎやま)ヒルクライム・レース大会」は今年で3回目の開催となる。

 去年からこの人気レースに参戦し始めた私にとっては、これが2度目の赤城参加になるわけだが、初回は右も左も判らない状態にあったのに無謀にも本格的なヒルクライム・レースへ参加してしまったという状態だった。しかしその後、今年に入ってから群馬を舞台にした幾つかのヒルクライム大会に参加して、若干のレース経験を積んで場慣れもして落ち着いてきたようだ。

 4月に行われた「ツール・ド・草津」は、時ならぬ前夜からの降雪で完全に路面に着雪し、夜明け前から行われた除雪作業でもコース整備が追いつかず、主催者側の尽力の甲斐なく中止せざるを得ない状況となってしまった。

 心温かい女将さんが切り盛りする温泉旅館に泊まって「のんびり」と充分に寛げはしたが、夜半から降り始めた雪は夜明けになっても降り止まずに道路面上に10cmほども積もり、結局、草津白根山へ向かって走る事は出来なかった。

 続く5月に高崎市が主催した「ハルヒル」こと「榛名山(はるなさん)ヒルクライム大会IN高崎」は、天候に恵まれて爽快に走れた。

 榛名山の南斜面 ―東側の伊香保がある斜面ではなく、パワー・スポットで人気の古社である「榛名神社」が建つ側の斜面― の里見地区を舞台にした本当にアット・ホームな雰囲気の大会だった。


 そうやって季節は巡り、厳しい夏の暑さをとおり抜けて、過ごしやすい初秋になった。いよいよ心待ちにした、あの赤城山でのレースがまたやってきたわけだ。


関連するページ;
のんびり行こうよ 2013.09.29 「2013 赤城山ヒルクライムを終えて」


のんびり行こうよ 2012.09.16 「2012 赤城山ヒルクライムに向けて」
のんびり行こうよ 2012.09.30 「2012 赤城山ヒルクライムを終えて」

のんびり行こうよ 2013.04.28 「第1回 榛名山ヒルクライムに臨んで」
のんびり行こうよ 2013.05.19 「第1回 榛名山ヒルクライムを終えて」

TAKIZAWAオリジナルのカーボン・フレーム 第二回赤城山ヒルクライム大会
及び
第一回榛名山ヒルクライム大会
においての決戦車両。

サイクルショップ TAKIZAWA (前橋)が提供するオリジナル・フレーム、
<HARP C−2900>

東レのハイ・モジュラス・カーボンT800で造られたフル・カーボンのモデル。
フレーム+フォークの重量は僅か1.5Kgに過ぎない軽量さを誇る。

実はこれ、OEM提供で有名な台湾に本拠を置くフレーム製造会社、「TRAIGON社」製のもの。
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 「まえばし赤城山ヒルクライム・レース大会」は前橋市内から赤城(あかぎ)山へ登るメイン・ルートの観光道路をコースとし、市街地の中心部からそのまま北に伸びる県道「4号線」を舞台に、赤城山の南側斜面で行なわれるものだ。

 関東平野がその辺りで尽きて終わりを告げ、その先からは赤城山の緩やかに広がった裾野がいよいよ斜度を増しはじめるという場所が、レースでのスタート地点になっている。

 それまで続いていた平野部にしても、実は広大な赤城山の裾野の一部なのだが、そこに立っても「山裾にいる」といった感覚は湧いてこないだろう。それは断崖状の屹立で境界のように分けられて、そこから忽然と斜面が始まっているからで、その崖状になって切り立った手前の区域はいたって平坦な土地であった。そしてその平坦部にあっては、土地に斜度があるとはほとんど感じられないほどに、海抜の上昇率は僅かなものに過ぎないからだ。

赤城山ヒルクライム・レース大会の公式パンフレット

<出場者向け 大会案内>
赤城山ヒルクライム・レース大会の案内状

出場が決定し、事務局から様々の案内が送られてきた。
これは参加ガイドでもあるパンフレット。

日程を含めた案内が、丁寧に掲載されている。
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 これは私の想像だが、その境界域がすっとバターナイフでこそげた様に切り立っているのは、多分、少し南側を東西(東側が下流域)に流れている「桃の木川(もものきがわ)」が古利根川であった古代(飛鳥時代)に理由があるのだと思う。

 その時代までの「古利根川」の強い流れが、赤城山の広大な裾野を少しづつ抉って、やがてそこを小さな崖状のものにしたのではないだろうか。

 若宮(北代田)・鎌倉・下沖・上沖などのスタート場所周辺の各町は関東平野の北端部分であるが、そこから北側(赤城側)は忽然と現れたと思えるような崖状の姿を持っている。それらは太古から続いた大きな河川による侵食活動て出来た河岸段丘のなごりなのではなかろうか、と私は思っている。


 関東平野から続いてそのまま平坦に近い状態だったはずの市街地から伸びて来た道が、レースで設定されたスタート地点の「若宮町交差点」から先になると、思い出したように山頂へ向かって斜面となって続き、徐々にその斜度を増していく。

 その道はほぼ直登といった状況でそのままの一本道で市街地から真っ直ぐに山頂まで繋がるのだが、その伸びていく道路(山麓の中腹からは突然「九十九折り」の特徴ある坂道になる)が、この人気レースの舞台になっているのだった。

山麓地帯が本格的にはじまる「姫百合駐車場」

山麓地帯が本格的にはじまる「姫百合駐車場」。

「赤城山ヒルクライム大会」ではスタートから15キロの地点。
いよいよ山稜を縫って登リ始める場所になる。
60近いカーブが重なり、坂のキツくなるここに第4ゲートが設けられる。

ゲート前後の中盤域―12キロから18キロまで―をどう走るかが、レースでのおおきな「要(かなめ)」となる。
山麓地帯が本格的にはじまる「姫百合駐車場」

山麓にある「姫百合駐車場」は、
鍋割山(なべわりやま)、荒山(あらやま)の登山口。

並び立つのは、赤城外輪山の南峰を占める二つの頂きだ。
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 山腹を這っていた真っ直ぐに伸びた15キロ(スタート地点の交差点からの距離)ほどの道は、途中から始まる九十九折の70近い数で重なるカーブを抜けて、一気に高度を稼ぐ。道のりにして約6キロほど進むと、やがて開けた山頂部へと出る。

 そして道はさらに先へと続き、外輪山に囲まれてその中央に広がる大きな火口湖(地元では「赤城大沼(おおぬま)」と呼んでいる)の湖畔へ出ることになる。

 坂の頂点から湖へ向かっては少し降ることになるが、レースはその下り坂の始まる頂上部分、白樺牧場脇の「赤城山観光案内所」でゴールを迎える。

 その道は地元では「赤城県道」と呼ばれて親しまれた道で、山腹の途中からが赤城山へ入るための観光道路であった。以前は有料道路だったその道がすっかり償還されて、料金徴収のためのゲートが撤去されて久しい。今では道路全体が一般利用者に向けて無料で開放されている。

 私たちレース参加者は関東平野にある市街地の外縁地域から走り始めて、赤城山への坂の始まりでスタートを切り、直後から始まる坂道をへこたれずに一心に登り、そのまま山頂に設けられたゴールへと坂道を上り詰めて行かなければならない。

 そのコース長は20.8キロに渡り、その間の標高差は1313mに及ぶという厳しい内容のものであった。

 しかしコース斜度で表現するとそれ程の「激坂」という事ではなく、最大斜度は9.4%、平均勾配は6.4%となっている。「榛名山ヒルクライム大会」での最大14%のキツさを極めた激坂から比べれば、まず、数値的にはずっと低いものだ。

 それが「まえばし赤城山(あかぎやま)ヒルクライム・レース大会」のコース・プロフィールなのだった。だから一見すると甘めのコースに見えるが、実はレース中盤域に大きな落とし穴があった。

登攀練習用に組み上げた「Ridley TEMPO」

自転車は練習用に組んだRidley社製の「TEMPO」というフレームを使ってのもの。

のんびり 行こうよ「アルミ・フレームを手に入れる」にて紹介しているもの。

組み終わってからさらにパーツをいくつか変更し、デビューしてまだ僅か3ヶ月ほどの今年8月の出来事だった。
悔しいかな、大地ロックしたワイヤーを切断され、実にあっけなく盗難されてしまった。ロックしたのは守衛さんがいるビルの正面入口、コンコースのすぐ脇の大きなウインドウの前で、一番人目に付く場所だ。その間はわずかに40分。

狩野選手のトーク・イベントへの参加者がビル前(前橋問屋町センター)に駐車する事を狙って、めぼしい自転車を目当てに準備していたプロの仕業であるに違いない。なお、リドレー社のテンポ は日本では販売されていないフレーム。
< 登頂練習にて (ソロ) >

前橋赤城山の中腹にある「姫百合駐車場」。


ここは第4関門が設けられるポイントだ。
スタートからは15.1キロの地点となる。

この場所の標高は1017mで、下界よりも気温は6度程低くなる。

装着したクランクは「山坂」に対する練習を意図したカンパニョーロのATENAノーマル・クランクで、ギヤ・リングの歯数は53T*39Tという内容。

インナーに落としてもある程度のトルクがペダリングに必要なもので、私の足ではこの駐車場まで登るのが精一杯だった。

(2013.04.13 撮影)
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Aさんの自転車積載仕様車

<  登頂練習にて (7月試走時) >

Aさん(後述する榛名で知り合った友人)のバンは自転車積載仕様の優れもの。

前橋市立高校の駐車場(市民プール脇)に自転車を停めて、
本番同様に計測開始場所の「若宮町交差点」から山頂を目指して赤城県道を登る。

海抜120m地点から始めて標高1433mの山頂部まで、1313mの高度を稼ぐ。

(2013.07.14 撮影)
若宮町を過ぎて時沢へ向かう

 去年のレースでのことだが、なにしろヒルクライムには初参加だったから「まずは山頂へ、そして何を置いても必ず完走する」という事が私が掲げた第一の目標となった。

 私にとってひときわ深い想い入れのある「赤城山(あかぎやま)」を舞台にした大規模な自転車レースが開催されたと知ったときには実に心引かれる思いがし、翌年の開催時には是非とも自分もエントリーしてあの山を登ろうではないか、そう深く思い極めたのだった。

 そして迎えた去年(2012年)のレースでは実に多くの声援に励まされて無事に完走できて、立てた目標を達成できた上に、ヒルクライムの持つ醍醐味を存分に味わえた。

 だから今年も、去年と同じ素晴らしい感動をまた味わいたくて、この大人気のレースへ急いでエントリーしたのだった。

 今回の掲げた目標は、(私にとっては参加2年目の大会となるから)その中身は初回の「完走」と同じではなくて、もう少し別のものだった。少なくとも「去年の戦績よりも良いタイムを」が、今年からの目標となったのだ。
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アルミフレーム「Ridley ICARUS」 < 登頂練習にて(7月試走時)>

前橋赤城山の中腹より少し手前にある、
「旧料金所跡(赤城山観光案内所跡)」にて。

ここは「第3関門」が設けられるポイントで、
スタートからは8.9キロの地点。

その標高はまだ低くて545mだ。

400mほどの高度を登ったことになる。


(2013.07.14 撮影)

 上位者ではいざ知らず、私レベルの参加者にとってのヒルクライムは、競技としての意味合いのものではあっても「自分との戦い」という意味合いの方が数段の重みを持つレースである。

 それは、自分の払ってきた一年間の努力の度合い、つまりは成長度合いを確認するためのもの、といえよう。

 勿論、レースである以上は他者中に自分の占めるゴール順位は充分に気になるものだが、「次の開催日までの間に積み上げた努力の成果を問う」という側面の方がはるかに「想い」としては強いものがあるように思えている。

 歳を経るに従って、加速度を伴って「持てる体力 = 身体や精神のキャパシティ」はどんどん低下して来る。頑張って積み上げる分よりも、いつの間にか落ちて行って、失ってしまう分の方がはるかに割合として高いようだ。だから、どんどん目減りしていく。そのため少なくとも、せめて落ちた分の体力くらいは努力を払って補わなければならない。そういうエージングとの戦いとも言えるような宿願がある。最近ではそれが、私のような年代における生活第一の命題ではなかろうかと思うのだ。

 そうした生活のなかで生まれてくる強い想いが「去年の自分に、負けるわけにはいかない」というものなのだろう。私がもう2年以上に渡って愛用しているサントリーの提供するサプリメント、ごまの成分を使った「セサミンEX」のコマーシャルで語られるキャッチ・コピーと同じ方向のものだ。画面の中で説得力満点で語られるように、誰もが「年齢を、諦めない」姿勢を保とうと考えるのは無理からぬことだろう。

 だから私が今年から目標として掲げる内容は、「去年の自分を必ず越える」というもの。若いひとならいざ知らず、結局これは今の私の年齢に絡んでくるとは思うが、日を追って老眼の進みつつある身にしてみれば、自然にそういうことになってくるようだった。
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山頂の赤城山総合観光案内所 < 登頂練習にて(7月試走時) >

赤城山頂にある「赤城山総合観光案内所」。


山頂の「白樺牧場」横手にあるゴールである。


スタートの若宮交差点からは20.8キロの距離となる地点で、その標高は1433m。

1313mほどの高度を登ったことになる。


(2013.07.14 撮影)

< 赤城山ヒルクライムについて >

 さてそこで、今年の私の戦積だが・・。

 戦績; 無事に完走できました。; タイムは1時間57分29秒(2012年は2時間0分46秒)。

 クラス別に順次スターとなったのだが、成年男子D(50歳代)である私のスタート時刻は7時35分で、これは去年のレース時の順番と同じもの。レース中のタイム計測はこれも去年同様に電波による自動式となっている。

 成年男子50代(クラスD)で318位(2012年は326位)。

 総合順位はまだ発表がないので不明だが、いずれ発表されたら更新しよう。(2012年は男性2353人中の1906位という内容だった。)


 関連ページ;
  のんびり 行こうよ 2013.09.30 「前橋 赤城山ヒルクライム大会」を終えて
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山頂への初登頂の記念撮影。

1回目の試走での記念写真。
(2回行なったAさんとの赤城山の試走にて)


(2013.07.14 撮影)
山頂にて登頂記念(Aさんとの1回目の試走にて)

 今年得た大きな教訓は「いかに日々の修練の積み重ねが大切か」ということに尽きるだろう。

 2012年は右も左も判らない初参戦であったので仕方がないが、今年はその際とは状況が違う。充分な予測に基づいた戦略も立てられたろうし、その方針にたった練習も積み上げられたはずだ。だからもっとタイムを短縮するための様々な方策が立てられた筈なのだ。

 しかし、やはり去年と同様のタイム。目標である2時間を切れたとはいえ、お世辞にも「努力しました」とは言えない内容だ。そうした面から分析してみると、やはり最大の反省点として挙げられるのが<練習不足、あるいはメンタリティの脆弱さ>という事になってくる。

 要するに、1.コンディションを整えて、2.しかもレース開始までモチベーションを維持する事が重要だった。しかし結局のところ、この判りきった1番2番の成果が出来てない。

 しかもいつも、どうにも安易な練習方向に流れてしまって、いわば「修練」という真剣な取り組みが、私にはまるで出来ていなかったようだ。
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赤城大沼(大洞;だいどう)

< 登頂練習にて(7月試走時) >

赤城山頂にある「赤城大沼(大洞;だいどう)」の景色。

ゴールした場所から約3キロほど降った地点で、標高はゴールよりも約90mほど下の1343m。


(2013.07.14 撮影)
赤城神社

大沼の湖畔にある古社。

「赤城神社」は、ここの他にあと2ヶ所、中腹の「三夜沢(みよさわ)」と平野に降った場所である「二之宮(にのみや)」にある。


2012.05.04 「三夜沢 赤城神社へ詣でる」 (前橋 宮城)
2012.04.15 「赤城 大胡へ向かう(坂道その2)」 (前橋 二之宮)

 ところで今回のレースだが、去年の単独参加ではなく、「ハルヒル」で知り合って友人となった(歳若い)人と一緒だった。榛名山の時と同様にここでは仮にAさんとしておこう。

 Aさんとの出会いがあって、そのあと交わりの度を深めた理由は「榛名山ヒルクライム大会」の際に多くの感動を共有出来たから、という事が原動力になったようだ。
 (のんびり 行こうよ: 2013.05.19;「高崎 榛名(はるな)山ヒルクライムレースを終えて」にてその辺りのことを紹介している。)


 それは宿泊した高崎市内(郊外)のホテルでの、二人の偶然の出会いからはじまったものだった。レースを前にした触れ合いや共感があり、その後のレースではお互いに多くのものを味わえたのだった。

赤城神社の拝殿前の境内

赤城神社の境内の様子 (2013.07.14 撮影)
赤城神社の拝殿前に鎮座する狛犬
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赤城、大沼 (大洞:だいどう) 赤城、大沼(おおぬま)
 別に「大洞:だいどう」とも呼ばれる大きな湖だ。

(2013.07.14
        撮影)

 榛名山のレースでは沿道を埋めて温かく送られた、沢山の声援がもたらしてくれた大きな感動があった。

 下山時に通過した裏道沿いの小さな集落でさえも、字(あざ)の方達が総出なのではないかと思えるほどに老若男女のことごとくが、まさに文字通り「軒並み」といった具合で、皆さんが打ち揃って道端に出ていて下さった。

 レースを終えて下山しているだけの私達に向かって、盛んに手を振りつつ温かい労いの言葉を、本当に沢山掛けて下さったのだ。その歓びは参加した誰もが忘れられないものとして、今も心を温めていることだろう。

 それに大会で味わったレースの醍醐味や出走時や完走後の何とも言えない高揚感、下山時に味わったこのうえなく爽快で清々しい気分など。榛名山を舞台にしたヒルクライム・レースへの参加によって、そうした実に多くのものを得る事が出来たのだった。

 そしてその時、自分の中での深い味わいだけで留まる事無く多くを語らった私達は、お互いにレースで感じた「多くの想い」を確かに共有したのだと思う。
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覚満淵(かくまんぶち)に咲くニッコウキスゲ 高層湿原、
赤城山頂の大沼横に広がる「覚満淵(かくまんぶち)」。

湿原に咲いていた「ニッコウキスゲ」


(2013.07.14 撮影)

 そうして得られる、いくつもの大切な経験を「赤城山」への参加でさらに重ねて欲しいと私は望み、その時に知り合ったばかりのAさんへ強く「赤城山ヒルクライム大会」への参加を推めたのだった。

 このため、赤城山ヒルクラウムへの初回出場時は単独参加で随分と心細い想いもしたが、今回の私はそうではなかった。

 榛名山でのレース時と同じように、同じ場に居て、お互いに体験して得たものを語り合え、それを共有できる仲間と一緒の参加となったからだ。

 気のおけない相棒がいるのは何とも心強い限りだし、なによりレース後にその感想を共有できるところが嬉しくなる。あらためて言うまでもないことだが、そうした「感動の共感」は一人で感じる以上の素晴らしい歓びをもたらしてくれると思うのだ。

試走2回目の記念写真

2回目の記念撮影。
下山に備えて着替え終わったところで、パチリと一枚。
< 登頂練習にて(9月試走時) >

赤城山頂にある
「赤城山総合観光案内所」。

2回目の試走での記念写真。
(Aさんとの赤城山の試走にて)


観光案内所に立つと何時も清々しい気分が味わえる。

レース本番でのゴール地点に、頑張った末に到達できた喜びからだろうか。


(2013.09.01 Aさん撮影による)
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< ホワイト餃子 と 高校生の頃の思い出 >

 すこし、レースの本題からは外れる話題になってしまう事をお許し願いたい。

 丁度、こうした季節でもあり、懐かしい「ホワイト餃子」の姿を見ると思い出す友がいる。


 私に関して言えば、「ホワイト餃子」は大切な思い出でもあり、高校生の頃(店は市内高校生達の「放課後の溜り場」でもあった)からの馴染みの物だった。実はそうやって足しげく通っていたのはもう35年以上も昔の事で、バトミントンに熱中していた私の日々の運動量は果てしなく、そのお陰で食欲は底なし沼のように旺盛だった。

 ダブルスの相棒だった友人と、練習が終わった後によく店へと自転車を走らせたものだ。

 前橋の南部からみれば古い店のあった場所は今より街寄り(今のベイシアホールの裏手)で現在地よりもすこし近い場所だったが、いずれにしても学校の所在からは随分遠い場所だった。その長い道のりを物ともしないで、味とボリュームに惹かれた私達はたびたび店へと遠征をしたものだった。

 今もまるで変わらない味の餃子を食べると、その頃の事が昨日のように蘇ってくる。

 以下の内容は、その友人に因んだ昔話である。赤城山のレースとは関係の無い話なので恐縮するのだが、寛大にご容赦を願うばかりだ。

ホワイト餃子(前橋 若宮町)
                          (2013.07.14 撮影)


<ホワイト餃子  激走後のご褒美の一品>

試走での赤城山登頂を記念して、ボリューム満点の旨いものを食べる。

この餃子屋さん、実はチェーン展開している多くの店舗中のひとつなのだった。その大きなネットワーク内でも、我らが「前橋店」は随分の古株だと思う。
Aさんと一緒に実施した1回目の「赤城試走会」でのご褒美は、前橋で人気の深い老舗店の「B級グルメ」にした。

慣れ親しんだ「ホワイト餃子」。これはもう前橋市民にはお馴染みの店である。

もっちりとした肉厚の外皮に包まれたもので、ボリュームある食感は本当に逸品といえよう。

薄皮の点心然とした上海風の上品な餃子ではなく、皮の厚い、しっかりした「満州風」の餃子である。だから新宿の「老辺餃子館(らおぺんぎょうざかん)」で出てくる海鮮餃子のような、まるで「小籠包(しょうろんぽう)」かと思えるような繊細さはない。


もう、どこまで行っても質実剛健さで直球勝負しよう、といった具合に実直な姿。しかもその外見に違わない骨太な味わい。

写真をご覧のとおり、その形状がまた変わっている。

丁度、ゴルフボール大の球形のものなので、最初は面食らうに違いない。私達のような古株の店出入りの客は、これをライスとスープも一緒に注文しておかずにして楽しむ。
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< ダブルスのペア・メイトだった友人の事 >

 仲の良かった友人が歳を経た今も存命であれば、きっと、笑顔で連れ立って懐かしい店を再訪し得たに違いない。

 私達の高校は先輩の居ない新設校だったので、部活動や受験勉強では何かにつけて苦労を重ねた。その友人を含めた数名の友人達とバトミントン部を創設したのだが、始めは練習方法からして判らなかった。そこで放課後の練習が終わった後も、社会人サークルに属して夜間の指導を受け、さらに群馬大学のサークルに混じって彼らと練習し、そうやって一心に活動して運営を軌道に乗せたのだった。

 多感な私生活での悩みを分かち合ったり、新設校での高校生活で味わう多くの苦楽を、ペアのチーム・メートだった私達二人はいつも共にしたのだった。それは、同じ釜の飯を食い、同じ感動を味わい、同じ悔しさに涙した仲だった。

 1年生から2年生の夏の終わりまでにあった長い休みの間は、見つけたバイト先のスーパーで彼と共に働いた。洋服や本やLP、それに原付バイクなど、当時関心のあったものをお互いの自力で手に入れたのだった。

 ロックやポップスなどの最新音楽のこと、ショーケンの出演するドラマ(「前略おふくろさん」や「祭囃子が聴こえる」など)のこと、恋のこと、友達との関わり、受験勉強の進捗や将来について、本当に周りを取り巻くあらゆることについて、様々の事柄を私達二人は暇さえあれば語り合っていた。


 その親友とは高校卒業後も常時、密に電話連絡を取っていたし、お互いのアパートへ泊りにも出掛けあっていたが、しかし就職後は少し疎遠になってしまっていた。


 大学卒業の前後から数度に渡り、連れ立って近況報告を兼ねた食事をしたが、そこでは互いの将来を語り、そして新社会人となって味わう多くの苦労を愚痴って、励ましあっていたのだった。

 しかし、新人社員からの数年間は実に多忙で、お互いに時間がうまく作れずにいた。まるで離れた別の業界(友人はコーヒー豆を中心に据えた商社、私は情報処理会社)に就職し、会社の所在地も都内と桐生と違っていたので中々直接会うことが難しかったのだ。


 その後は帰省した際の盆と暮れに逢う程度のものだったが、大学を卒業した3年目の秋の入り口に、不意に癌を罹病したという噂を耳にした。会社の同じ課の同じグループに属する直接の後輩が、偶然にも彼が大学で属していたサークル「グリー・クラブ」に属しており、友人の後輩でもあった。サークル・メンバーの人伝てに聴き入れたその噂話をしてくれたのだった。

 それを聞いて居てもたっても居られなくなり、やっと休みを取った私は都内の入院先を何とか訪ねてみたが、彼は一日違いで退院していたのだった。

 全身がバネのように俊敏で、極めて丈夫だった友達なのに、病魔には打ち勝てずに、いともあっけなく旅立ってしまったのだった。


 特に味噌スープでの水餃子(水餃子にはあっさりとした「コンソメ味」もある)などは、焼いた餃子とはまた違って絶品だと思う。スープ仕立てのものは寒い日にはぴったりのもので、北風に吹かれて自転車を漕いでいた高校生の頃を思い出してしまう、「懐かしい青春の味」ともいえようか。

 勿論、普通の餃子の味も美味しくて、昔と少しも変わっていない。対する私の食欲の方がすっかり変わってしまっているので、昔のように大量の餃子は、もちろん今では食べられない。 ・・・少しばかり、寂しさを感じてしまうのであった。
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