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2007.10.20
初秋の散歩
  (与野霧敷川)

アクセス;
 さいたま市中央区;

カメラ;
 PENTAX Ist−D

レンズ;
 PENTAX DA50−200mm F4−5.6 ED
 PENTAX DFA100mm F2.8 マクロ


 (画像添付時に約30%程度に圧縮)


 熱が出た。

 暑い日が続いたところへ、最近の急な冷え込みが来て、気が付いたら震えが来るような寒気が襲う。ゾクゾクするだけでなく、頭も痛いし、お腹も痛い。

 寒くなるのは当然で、二十四節句でいう季節は「霜降(そうこう)」で、北国では地面を白く覆う霜が降りはじめる頃だ。

田の畦に咲く ハギ
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 そうした訳で金曜日から寝込んでいたが、土曜日の夕方近くなって少し気分がよくなった。

 そこで、気分転換を兼ねてご近所を散歩することにした。折角なのでカメラをぶら下げて、家の横の田んぼから氷川神社、霧敷(きりしき)川をゆっくりと歩いたのだった。時間にすれば40分ほどだろうか。

 歩いている間にいろいろなことを思い出したので、感覚としてはもっと長い時間(脳内での知覚時間)を楽しんだことになるかも知れない。

?? サルビア

 家からすぐのところに僅かだが田んぼが残っている。

 この田は、初夏から盛夏の間、「豊年えび」やおたまじゃくし(2006.06.18 「豊年えびは豊作の証」)、カエルなど出会える楽しい場所だ。
 
 春の畦(2007.03.04  「春を告げる」)では、オオイヌノフグリやホトケノザ、ナズナなど、早春の草花と出会える。
 
 楽しめるのは春先だけではない。秋口には、ご覧の花々が咲いている。今回写真に写したこれらの花は畦ではなく、田の横にあるの小さな小さな花壇でひっそりと咲いている。

 田の畦に自然に咲いた草花と違い、こちらは意図的に植えられたものだ。だから正確には自然のものではないのだが、ひっそりとした様子に無理なく自然を感じることができる。(ただ、悲しいことに園芸種は多くの花の名前がわからない・・・)

彼岸花

サルビアの蜜を吸う蟻
??
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氷川神社で咲いていた菊
イヌタデ

エノコログサ ??
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 イヌタデやエノコログサなどは、氷川神社(2007.01.07 「七草粥」)の前の空き地がその活動の舞台だ。

 エノコログサは「猫じゃらし」だが、少しの風にもゆらゆらと揺れて風情がある。空き地は原っぱなのだが、周りには鉄条網が張り巡らされているので、残念ながら中に入ることはできない。

 少年の頃には近所にはこうした原っぱが沢山あって、自由に出入りできる遊びの舞台になっていた。

?? ??

 長く伸びる草があると幾本かを束ねて二つにし、その両方を縛ってアーチ型の罠を作って遊んだものだ。そ知らぬ顔をして、あらかじめ仕掛けておいた束の部分に友達を誘い込み、ひっかかる所を楽しむのだ。

 でも、その罠ではあまり成功はしなかったので、次第にエスカレートしていって、悪戯の最後は落とし穴などに発展したように思う。

 今はどうだろうか?子供に聞いたことが無いので判らないが、もし、土の地面がある空き地があったら子供達は昔の私達がしたようにそこに「落とし穴」を作るのだろうか・・・

 やがて成長して大人になってから、実は往時よりずっと危険に満ちた落とし穴が方々にあることを思い知った。うっかりと過ごしていると、そんな穴のひとつにいとも簡単に捕らえ込まれてしまう。そうして改めて考えると、子供時分のあの罠は大人になるための用心であり、ひとつの模擬的な演習だったのかもしれない。
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ケイトウ? 霧引川

 氷川神社からはぶらぶら歩いて霧敷(きりしき)川(2007.03.31 「霧敷川の桜」)に向かった。

 今年も、集中豪雨を受けて川が土手ぎりぎりまで増水するきわどい状態だったが、多分下流の浦和近くでは床下浸水となったのだろう。

 今は「川幅面拡張工事」というのを行っている。上の写真は去年の六月、桜の後の菜の花の時期(2006.06.10 「霧敷川」)に撮ったものだ。川の土手下は全面が流水面ではなく、一段、土の土手がある。その土手に菜の花が咲き乱れて写真のような一面の黄色の帯となっていた。今行われている工事では、この土の部分を削り取って川面としている。

霧引川 霧引川

 この区間(「富士見橋」から「八幡橋」までの間)では、もう写真のような黄色の帯を楽しむことはできない。この工事を見て、子供はザリガニがいなくなってしまうと嘆いていたが、さらには、大きな鯉や亀、白サギや野鴨などの野鳥も、この区間では見られなくなってしまうことだろう。


 河川整備での蹂躙振りを見るといつも思うのだが、「生活」か「小さな自然」かという択一ではなく、その共生という、何かしらの良い方法(解決策)が無いものだろうか?

 この土手の手当てにしても、平らなコンクリートや無骨な錆の出た鉄板で固めるのではなく、黒目川(2007.07.01 「越生への寄り道」)のように土や自然の状態を残してあれば、流域全体に吸水性があって水量調節ができたはずなのだが・・・。
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