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2008.01.04
与野 七福神をめぐる

アクセス;
  JR京浜東北線 与野駅、さいたま新都心駅(高崎線、宇都宮線―さいたま新都心駅
   または JR埼京線―北与野駅、与野本町駅)

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24−72mm F2.4

 PENTAX K10D

レンズ;
 PENTAX DA70mm F2.4 Limited
 PENTAX FA43mm F1.9 AL Limited

 PENTAX A24mm F2.8
 PENTAX A35mm F2.8


 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

 このあたり(埼玉)で「七福神めぐり」と言えば、有名なのは「小江戸、川越 七福神」や「秩父 七福神」、それに「越生 七福神」などだろう。それぞれ歴史のある情緒溢れる古い街が、その舞台になっている。

 二十四節句でいうと、季節は「小寒」だ。「立春」までが<寒中>なのだが今年は例年ほど寒くない。散歩での外出も少しも気にならないと感じている。

 さて、ここでご紹介するのは、旧与野市(さいたま市中央区)にある神社・寺院をめぐる、「与野七福神めぐり」についてだ。

与野七福神   一般的な参拝コースは

   上町氷川神社 ⇒
   一山神社 ⇒
   天祖神社 ⇒
   円乗院 ⇒
   円福寺 ⇒
   鈴谷大堂 ⇒
   二度栗山弘法尊院
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 <与野 七福神>は、いつも楽しんでいるJR東日本主催の「駅からハイキング」でも毎年企画されている。七つの神社仏閣の全部をのんびり歩いて回っても3時間ほどで楽しめるし、駅からもさほど離れていないので疲れれば直ぐに最寄駅へ戻れるなど、アクセスが楽なので新春の縁起担ぎにはお手頃で、最近は人気が高いようだ。

 与野の街は五街道のひとつである「中仙道」が通る宿場町であり、その中心には「本町通り(2007.07.15 「夏の入り口」)」がある。この通りを中心にしていくつかの神社・仏閣が散在している。「氷川神社」と「一山神社」、「円乗院」は与野本町通り沿いにあり、この通りは鎌倉時代から大変重要な街道でもあった。

 与野の街は、この街道を中心に広がって栄え、街の歴史は古く、往時には大宮や浦和よりもずっと賑わっていたらしい。

 「円乗院」から先の「円福寺」、「鈴谷大堂」、「二度栗山」は少し離れているし、場所も判りづらいので注意が必要だ。建てこんだ住宅地の中にあって、よく地図を読み込んでおかないと辿り着けない。

七福神の手ぬぐい

七福神の提灯
今回のコース(書き込みは家人による)
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上町氷川神社 氷川神社

 <上町氷川神社:福禄寿>  さいたま市中央区本町東6丁目

 「福禄寿」は、幸福(福)と高給(禄)と長寿(寿)の神。この神様は中国の神さまだ。
 
 <氷川神社>は去年から新たに「与野・七福神」の仲間入りをした。去年「街歩き」をした(2007.01.07 「七草粥」)ときに少し調べたのだが、この神社は創建が古く、残っているケヤキの大木は樹齢500年を超えている。石段は1855年、本殿は1709年に建立された貴重な文化財だ。それに宝物庫(拝殿の中に置かれていて賽銭箱の奥に見ることが出来る)には、1710年の製作という古い神輿が保存されている。

 古来より与野町と小村田村の鎮守で、土地の氏神だ。(与野町や小村田村は、どちらも与野市となり、さらに今は「さいたま市中央区」になっている。)

 私は今年、この土地に住んで以来初めて、土地の鎮守であるこの神社を一番参りで訪れた。深夜12時過ぎ。それは大変な賑わいだった。それは前橋にある実家に近い「日枝神社」(2008.01.03 「三日とろろ」)の賑わいに匹敵するものだった。夜中ではなく、元旦(日中)にもう一度行って見たら、参拝者がまだ並んでいた。

氷川神社 氷川神社
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一山神社 一山神社

 <一山神社:恵比寿>  さいたま市中央区本町東4丁目

 「恵比寿」は、商売繁盛の福の神。この神様は日本の神さまだ。

 「一山行者(木曽御嶽講の講祖)」ゆかりの神社だ。1851年に一山行者が死没し、講中で八幡社の地に御嶽社を勧請してこの神社とした。冬至には「ゆず祭り」が行われ、炊き上げや火渡りの行事が有名らしいが、残念ながら私はまだ一度も行ったことが無い。

 与野の「本通り」から参道が続くが、50mほども奥まった場所に社殿がある。木立が密で薄暗い神秘的な様子の中に重厚な社殿が建っている。神社の鳥居(二の鳥居)の横にはゆずの木があり、その先に狛犬が置かれている。

 ここの狛犬は「あうん」ではなく、両方の犬が口を開けている。

一山神社 一山神社
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天祖神社(与野公園の入り口) 天祖神社

 <天祖神社:寿老神>  さいたま市中央区本町西1丁目

 「寿老神」は、老子の化身だそうだ。1,500歳の超長寿を全うした長寿の神。この神様は中国の神さまだ。

 1805年に「天下泰平、国家安全」を祈念した石碑や記念碑が入り口に建っているが、社殿は1841年に再建した。この社域と足の神様で公園の横にある大国神社、御嶽社の3社の神域を合わせて「与野公園」になっている。

 そのため、社殿は円乗院側に近い与野公園(2007.11.23 「深まる秋に」)の中にある。また、社殿のすぐ横は噴水池なのだが、「銭洗い弁天」の祠がある。

 普段はひっそりとしているが、正月三が日は入り口の鳥居脇にテントが出て甘酒や焼きそばなどが売られるので賑やかだ。銭洗い弁天には笊が用意されて手持ちのお金を清めることが出来る。

天祖神社 天祖神社

天祖神社 天祖神社
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ちょっと休憩 ちょっと休憩

 天祖神社の入り口は、与野公園(2006.11.03 「秋を探して」)の中にあって、特に境内が公園と区切られているわけではない。公園の中に忽然と鳥居が現れる状態だ。だから、公園の敷地そのものであって、参道の前は大きな休憩所になっている。

 三が日に設えられた鳥居脇のテントの中では、定番の甘酒だけではなく、焼きそばなども売られていた。少しお腹がすいたので、休憩を兼ねて「焼きそば」を仕入れた。子供は近くのコンビニで買ったアイスを楽しんだ。

 一休みした後は、また七福神めぐりだが、ちょっと寄り道ついでに与野公園の元になったほかの神社も回ってみよう。まずは、すぐ横の「銭洗い弁天」からだ。

ちょっと休憩 ちょっと休憩
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与野公園内の銭洗弁天 銭洗弁天

 「銭洗弁天」では硬貨を洗うための笊が用意されている。(4日には片付けられてしまったが、写真は元旦に撮影した)

 「源 義経(みなもと よしつね)」について源氏を勝利に導いた歴戦の英雄である「畠山重忠」(はたけやま しげただ)が、出陣の際に戦勝の願いを込めてその剣をこの池で洗ったと伝えられている。与野の本町通りは「鎌倉街道」だからだ。畠山の領地である武蔵嵐山(むさし らんざん;東松山の先)から鎌倉に抜けるためには与野を通ったことだろう。

 私も手持ちの小銭をすべて洗ったが、さて、霊験は現れるかどうか?

銭洗弁天
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与野公園の横の「御嶽神社」 与野公園の横の「御嶽神社」

 「銭洗弁天」のあとは、与野公園の横にある「御嶽(みたけ)神社」だ。ここと「大国(おおくに)神社」の3社の神域を合わせて出来たのが与野公園なのだが、御嶽神社も大国神社も天祖神社とは異なり、公園の敷地の外にある。

 御嶽神社は紫陽花の花が植えられていて、梅雨の季節には斜面に紫陽花が咲いて美しい。神社自体は、小高い丘の上に小さな祠があるだけで拝殿などは無く、いたってこじんまりとしている。

 大国神社は<足の神様>で、ここもやはり小さな祠というかお堂というか、小高い丘の上に小さくまとまっている。

与野公園の横の「大国神社」 与野公園の横の「大国神社」
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円乗院 円乗院

<円乗院:大黒天>  さいたま市本町西1丁目

 大黒天は右手に小づち、左肩に袋を下げた蓄財の神だ。この神様はインドの神だ。

 円乗院は、真言宗の古い寺院だ。

 鎌倉幕府の御家人の「畠山重忠」(はたけやま しげただ)が建久年間(1190〜99)に創建したものを賢明上人(1619年没)が移建したと伝えられる。そのため、創建は畠山重忠と伝えられている。先の「銭洗い弁天」と同じくこの辺りの英雄であった畠山氏の影響だろう。

 境内には、二重の塔となる大きな宝塔(2007.11.23 「深まる秋に」)があり、その脇には枝垂桜の大樹がある。桜の咲く春には見事な様子となる。

円乗院 円乗院

円乗院 円乗院
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円福寺 円福寺

<円福寺:布袋>  さいたま市中央区上峰4丁目

 「布袋尊」は、未来予知ができる福徳の神だ。この神様は中国の神様だ。

 このお寺も真言宗。真言宗は江戸幕府のころの徳川一門の主要な宗教だ。室町時代からの古刹なのだが、江戸初期に本多佐渡守正信(ほんだ まさのぶ;さどのかみ は官職名)が陣屋を構築するため、現在地に移築したものと伝えられる。
余談だが、「本多正信」と言えば、家康の頭脳で懐刀(ふところがたな)と言われた軍師だった。  権謀術数の策士の悪いイメージが付きまとうのは、完全に池波正太郎さんの時代小説の影響だろう。

円福寺 円福寺
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鈴谷大師

<鈴谷大師:毘沙門天>  さいたま市中央区鈴谷

 「毘沙門天」は鎧・兜を身につけた知恵と勇気の守り神で闘いの神だ。この神はインドの神様だ。毘沙門というと「上杉謙信」(うえすぎ けんしん)が深く帰依していたので、上杉謙信と同じく戦いのイメージが深い。

 日蓮宗なのだが、古くは禅宗だったらしい。(応永の頃(1394〜1428)、周如禅師が日蓮宗へ改宗したと伝えられている。)

 なお、入口にある六地蔵は1667年造立とのことだ。

 このお寺だけ接待所があり、地元のお母さん達による「甘酒」が振舞われていた。

鈴谷大師の六地蔵 鈴谷大師

鈴谷大師
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二度栗山 二度栗山

<二度栗山弘法尊院:弁財天>  さいたま市中央区新中里3丁目

 「弁財天」は七福神のなかで唯一の女神で、学問・芸術・財運の神だ。これはインドの神様だ。

 ここは真言宗で、弘法大師伝説の霊地だという。弘法大師が旅の途中に中里を訪れ、栗を所望して振舞われ、大師は喜び呪文を唱え立ち去った。それ以来、栗が年に2度実を結ぶようになったという伝説が伝わる。「山」と名前が付いているが、小高い丘の上にある。こころなしか、すこし周辺の空気の感じが違う。

 1903年(明治36年)に弘法尊院と改称、高野山金剛峯寺から寺号を許可されたが、寺院というより丘の上のお堂といったほうが相応しい。

二度栗山
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