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2009.11.28
荒川を極める(河口を目指して)

走行距離;
 55km ;走行時間 4時間50分

        往路;JR武蔵野線 「西浦和」駅に集合
            「荒川サイクリングロード」(緊急時用河川敷道路)にて
                西浦和 > 戸田 > 赤羽 > 西新井 > 千住 > 堀切 > 平井
        復路;平井 > 新小岩 > 青砥 > 高砂 > 葛飾柴又 > 金町 > 水元 > 八潮
            つくばエクスプレス「八潮」駅より輪行 (「南流山」にてJR武蔵野線、「西浦和」駅にて解散)

        (私の場合、さいたま新都心から西浦和間の9km。自走の往復分18kmを加算した総行程は73kmだった)


カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24−72mm F2.5−4,4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)


 前回の企画(2009.11.07 「秋の武蔵野を走る」)では、荒川サイクリングロードを快適に走って、まさに武蔵野の秋を満喫した。川越での散策も出来たし、そこからの帰り道も、その前の企画(2009.10.24 「見沼を走って武蔵野の秋を満喫する」)の時とは違って迷わずに「さいたま新都心」まで戻れた。

 やはり、自転車占有道路のサイクリングロードを走るのは快適だし、安全に安心して走行できる。そのため、今度もサイクリングロードを走る企画を立ててみた。いや、前回の成功に味を占めたのだ。

 さて、そんな訳で今回の企画だが、今度は河口を目指そうと思った。

 「荒川」は秩父を源流域として埼玉・東京を流れるが、最終的には大河となって東京湾へ注ぎ込んでいる。その河口域にあるのが「葛西臨海公園」で、東京ディズニーランドのある「舞浜」駅にすぐ隣合わせてた場所になる。では、かなり距離があるのか、というとそうでもない。集合場所の西浦和からは、わずかに35kmで東京湾になる。キチンと走れば、あっという間の距離といえるだろう。

 前回はJR「西浦和」駅を起点に荒川に沿うサイクリングロードを遡上したが、今回は流れに沿って下って行く。
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<出発に向けて (ロード車でのデビュー)>

 今回の「走行」企画に関しては、実は別の意味がある。

 その企画は、私の「ロード車でのデビュー戦」という側面を持ったものなのだ。

 いや、戦うわけではなかった。あくまでも「のんびり」を基調モードにした「ポタリング行」、企画自体は「サイクリング」ではなく、ポタリングなのだった。快速に移動できるロード車で走るから、そのままのんびりモードでよいはずだが、何故か気分としては少し緊張感を伴っている。前傾の強いあのフォームで走る事は、軽いチャレンジという意味を持ってくると思えるのだ。

 どちらかと言えば、あの体勢は戦闘的なフォームで、体力的な素養を必要とするだけでなく、精神的なものを伴う「何か」があるのではなかろうか。思うに、あれは攻めの姿勢ではなかろうか。

 だから人は、あの姿勢を取ると、果敢になってしまう。高速で走らずには居られなくなり、「20キロルール」を踏みにじって突っ走ってしまうのだ。

 スキーのウェーデルンで高速のままギャップに突入していく際に、同じような姿勢になる。腰を折って上体を前傾させるのではなく、臍より少し上、鳩尾のあたりから体を撓わせて、ああした対応姿勢を取る。圧力に屈しない、高速に遅れない、そのために必要な体勢だ。そしてあれは、「戦い」という意識をどこかに湧き上がらせる「ひとつの力」を伴った姿勢なのだろう。

 「ロード車」に決意をもって乗る。

 いや、文章で書くほどの重い決意を秘めている訳ではなく、字面のそれより、ずっと軽くはあるのだが・・・。

 遥かな昔、私が中学生から社会人になるまで乗っていた自転車はナショナル(パナソニックの前身)のスポーツ自転車で、ロードモデルだった。27インチのドロップ・ハンドルで細いタイヤを履いていた。

 銀色に輝く軽量な車体で、最近復活の兆しがある「クロモリ(クロームモリブデン鋼)」のダイアモンド・フレームだった。中学、高校と、随分とその自転車では走って、大学時代はあまり走らなかったが、ティーンエイジャー(13から19歳)の間、長く乗っていたものだ。

 社会人になって数年後、のめり込んだ「基礎スキー」の体力強化のための夏場のオフ・トレーニングで自転車を始めたが、その時は流行し始めたマウンテンバイクを使った。そのマウンテンバイクでも随分と走った。山腹の湖や峠道、旅先に車載して現地の高原をサイクリングをしたり、果敢に攻めたが、スキーから離れる頃には、乗る自転車はクロスバイクに変わっていた。

 そんな訳でロードバイクは初めてではないが、また乗り始めるのは離れてからすでに30年ほどか経過していて、つまりは、随分とご無沙汰していたのだった。

 少し前から、ロードに乗りたい気持ちが湧いて来ていたが、今回いい機会(2009.11.15 「いざ、ロードへ(自転車に乗ってU)」)に恵まれて、軽量な入門モデルを手にすることが出来た。だから、この企画では、早速その自転車で出掛ける事にした。

 まだ、新しい自転車では40kmほどしか走っていないので不安もあるが、これも中年の挑戦だ。超えなければなるまい。

出発(西浦和駅から道満へ) 出発後の快走
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<予定コースの概要 −荒川サイクリングロード(下流域)の意味>

 さて、今回の起点は前回と同様に、JR武蔵野線の「西浦和」駅。

 駅から荒川に向かって行って、戸田市にある「道満(どうまん)グリーンパーク」の浦和側の入り口手前に出る。前回は北上して「さくら草公園」へ向かったが、今回は下流へ向かって左岸を進む。前回も紹介したが、「左岸」とは下流に向かって立って左手側を言う。「セーヌ左岸」など世界的には判らないが、国内ではどの川に対しても「左岸・右岸」で、同じ言い方で統一されている。だから東西南北という絶対的な尺度とは違って、「左岸」で呼ばれる地域が南だったり北だったり、川の流れを主体にした相対的な呼称になる。

 浦和の「秋が瀬公園」(2008.03.09 「秋ヶ瀬への自転車散歩」)よりも規模が小さくなるが、約66ヘクタールの広大なレクリエーションゾーン。川口市の荒川河川敷に広がる公園施設で、河口から35kmほどに位置する「道満グリンパーク」、「彩湖(さいこ)」を通る道を通り抜けていく。

 折角だが、公園へは寄らずにそのまま通り抜ける。今回も公園を抜けるが、前々回や前回のポタリング企画と異なって迷う可能性は無い。何といっても目の前に荒川が流れているからだ。公園の出口からそのまま黙って川の横を行けばよい。

 カヤックやウインド・サーフィンが盛んな「彩湖」の先から河口へ向かって伸びる道は、一見すると「荒川サイクリングロード」のようだがそうではない。実は「災害時緊急通路」という専用道路だ。見かけは同じでもサイクリングロードでは無かったのだ。ただし、ほぼ連続する形で河口域まで続いているし、実質は車・バイクの通行を禁止している。こうした実質的な意味では専用道路と思って良いだろう。

 妙な話だが、整備されたサイクリングロードよりずっと道の幅が広いし、舗装の質がいい。初め、道路の正式な由来を知らないでいたので不思議に思っていたが、改めて調べて「災害時緊急通路」という位置付けが判ると、そうした違いに納得した。

 それもそのはずで、首都災害の折にはこの道に物資輸送のトラックや緊急車両を通すためだったのだ。「物資輸送」とは生活物資の輸送や罹災者への支援物資の輸送だけではなく、首都機能の基盤修復のための建築資材の運搬や工事用の重機の移送なども含むだろう。地震などの自然災害に限らず、大規模なテロの発生など軍事的なものも想定されているだろう。大宮に駐屯して本拠を置く科学防疫部隊などはヘリで迅速に移動するだろうが、物流・工作部隊などは大型車両を都心へ送る必要がある。自転車の走行のみを考えて整備されたレクリエーション道路とは取り組みの姿勢がそもそも違っていたわけだ。

広大な彩湖(さいこ)
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<走行予定コースの概要>

 荒川河川敷に続くその広い道(災害時緊急通路)を進み、まずは「浮間舟渡(うきま ふなと)」へ、さらに板橋方面へ進む。舟渡から橋を渡って、右岸側(板橋区)のコースへ回る。

 河口から25km地点の「板橋リバーサイド21」の堤防上、または河川敷を通る道を利用する。堤防には観客席のような段があって不思議な場所なのだが、堤防の上に立つと見渡たす景色が良い。ただし河川敷内と違って、堤防上の道は狭いので歩行者やジョガーとの接触などの危険性がある。快走するロード車とのすれ違いでも、少し危ない思いをする。

 この道(河川敷内と堤防上の両方)は、最近、自転車の起こすトラブルが多くて、「20キロルール」が謳われている。ルールというのは「最高速度を20キロに落とそう」という呼びかけだ。サイクリングロードであれば自転車が占有主体だが、見掛けと異なりこの道はサイクリングロードではない。だから交通弱者に対しては、強者側になる自転車が一歩も二歩も譲る必要がある。ベルを鳴らして歩行者の横をすり抜けるなど、もってのほかといえよう。


 そのまま「赤羽桜堤緑地」の桜並木を走るが、荒川と平行して流れる「新河岸(しんがし)川」側の土手筋は工事をしていたので注意が必要だろう。道横の河川敷には野球グランドやゴルフ場などの施設が並ぶので横断者に注意する必要があるが、河川敷内の道は充分に広いので快適に走れる。

 荒川の右岸を進み、そのまま「岩淵水門」から足立区へ向かうが、その前に「赤羽(あかばね)」で昼食のため「1番街アーケード」(2009.03.28 「赤羽 1番街アーケード」)に寄り道。「とんぼ」の定食で一休みだ。

 いや、赤羽ではなく、もう少し先の「王子(おうじ)」でもいい。王子駅前の「平澤かまぼこ」(2007.10.08 「都電荒川線に乗って(町屋)」)で一休みという手もアル。

 そこから荒川は南ではなく、東京都心部を避けて東方向へ大きく回っていく。途中、赤羽郊外の「鹿浜橋(しかはまばし)」で今度は左岸側へ渡る。赤羽から南下して王子へ回っているとすれば、荒川へ戻るのは首都高の下を走ってその先の「江北橋(こうほくばし)」を渡って左岸側へ出る事になろう。

 東武伊勢崎線の起点は浅草で、終点は群馬の伊勢崎(2008.01.03 「三日とろろ」)だ。その伊勢崎線の「西新井」駅の近く、河口から20km弱の距離になる「都市農業公園」には江戸時代後期に建てられた実際の民家が移築されている。左岸にあるその公園からは荒川を挟んで遠く富士山がよく見えるはずだ。

 道はそのまま「小菅(こすげ)」、「堀切(ほりきり)」へ向かう。「虹の広場」と「小菅西公園」を抜けてさらに進み、右岸へ戻る。「堀切菖蒲園」やカネボウ発祥の地「鐘ヶ淵(かねがふち)」を通るが、堀切では、ドラマ「金八先生」の朝の通学風景で有名な荒川土手を走れる。河口からは11Kmの地点だ。

 もうひと踏ん張りして「平井(ひらい)、「亀戸(かめいど)」(2008.03.08 「亀戸天満宮と七福神(亀戸)」)へ。亀戸を横手に見れば、すぐに平井大橋になるはずだ。「平井水上ステーション」はこの川を下る水上バスの発着所だ。さらに河口を走って、「葛西(かさい)臨海公園」へ向うが、そうせずに亀戸あたりで街に入って「神社めぐり」をするのもいい。

 葛西臨海公園で休憩後、湾岸を走って江戸川に出る。今度は東京湾を後にして江戸川を遡上する事になる。

 行徳、市川と登っていって、ちあきなおみさんの演歌で有名になった「矢切の渡し」から、寅さんの「葛飾柴又(かつしか しばまた)」(2006.08.15 「せみの抜け殻〜はっぱのフレディ (葛飾、柴又 ぶらり散歩のサイドストーリー)」)へ入り、そこでのんびり遊んで、江戸川対岸の「松戸(まつど;千葉県)」へ。暫く行けばJR武蔵野線の「三郷」駅だ。そこから輪行で西浦和へ戻る。



 途中にはいくつかのランドマークになる水門と公園がある。また、赤羽を過ぎると、道は多くの鉄道線路と交差するので、いろいろな路線の鉄橋が楽しめるはずだ。また、江戸川沿いには「江戸川サイクリングロード」があって、これも整備された専用道路だ。安心して走れるもので、荒川・江戸川間を多くの自転車が周回している。
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広大な彩湖(さいこ) 彩湖を過ぎる

<荒川下流域へ、災害時緊急通路を走る>

 さて、前置きはこの程度にして実走だ。

 「荒川サイクリングロード」(2007.07.16 「夏の入り口(荒川沿いに上尾まで)」)は総延長でいえば、首都圏最大級のものだろう。熊谷の「武蔵丘陵森林公園」から浦和の「秋ヶ瀬公園」まで続く長い道を引き継いで、あたかもその延長で河口まで延びるのが、今回走る「災害時緊急通路」だ。これも含めれば総延長90kmであり、素晴らしいスケールになる。

 河口に向かって、あるいは上流を目指して、この道を多くの自転車が行き交う。場所にもよろうが、右岸でも左岸でも、どちらでも走れるようだ。まあ、そうは言っても走り易さがあるようで、今回は上に書いたコース取りで左岸・右岸を切り替えて走ろうと考えている。

芝川の水門(荒川合流)地点 戸田の桜並木の土手
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 「戸田(とだ)」は川の街で、古くは「戸田の渡し」で中仙道の蕨(わらび)(2007.09.17 「中仙道 蕨(わらび)宿」)と川口とを結んでいた。荒川だけでなく、笹目川や菖蒲川などの大きな川も、笹目川の支流の文蔵川やさらにその支流の上戸田川などの小さな川も市域を流れている。

 戸田はコンパクトな市だが、この荒川のために川を舞台にした公園が豊富にある。埼京線の駅でも「戸田公園」駅というものがあるが、それがこの川の公園だ。「戸田ボート」は公営ギャンブルの競艇場だが、このお陰で戸田市では大きな花火大会が開かれる。その競艇場の近くに漕艇場がある。こちらは大学対抗のレースで有名なボート競技のメッカだ。一斉にオールを合わせて矢のように水上を疾駆する細身のボートの姿を、直ぐ近くで楽しめる場所だ。


 道満から広大な彩湖を越えて、ここまでの道のりは実に順調で、土手からの川筋の景色も美しく、快走することが出来た。道が広く快適に走れるが、ロードバイクが飛ぶようなスピードで追い越していくので、後方確認しつつ走らないと危険がある。

 川筋には、美しく紅葉した桜並木が続く。その並木が途切れるあたりで土手を降りると、横手に「漕艇場」がある。東京オリンピックの競技会場として造成された公園だ。中央や成蹊など私学のボート部の立派なハウスが幾つも並ぶが、丁度、何艘かのボートが浮かんでいた。学生ではなく、社会人の小さな大会が開かれていたようだ。


 この漕艇場の先で川を渡れば「浮間舟渡(うきまふなと)」の町で、大きな池を持つ公園がある静かな街になる。JR埼京線の駅前は商店街などではなく、すぐにその公園になる。「葛西臨海公園駅」や「舞浜駅」のように、まるで駅は公園への入口のような状態なのだ。

 そこを超えれば、じきに目指す赤羽の街に入るのでそのまま進んでしまったが、赤羽へは河川敷をもう少し走って先まで行ってから橋を渡ったほうが効率がよかった。浮間舟渡から「北赤羽」駅までの間は新河岸川が蛇行しているためだ。それに沿って進むと走る距離が大分長くなってしまう。

戸田の桜並木の土手
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 赤羽では、「1番街アーケード」内のシルクロード(屋根のあるアーケード街)にある馴染みの店、「とんぼ」でゆっくりと食事を楽しんだ。

 途中、浮間舟渡の新河岸川筋で橋に出られずに変な場所(川岸の護岸斜面)を走ったが、ここまではほぼ予定通り。アクシデントを克服しつつ順調に進んできた。(遭遇したアクシデントに関しては後ほど報告しよう)


 いつも静かな店内が、この日は大分賑やかだった。

 異動の送別会だか昇進祝いか何かで宴会をする集団がいたためだ。土曜日の昼時は常連の家族連れが主な客層で、たまに呑んでいる人達が居るが、それももの静かに過ごしているのが普通だ。今日の集団は中年のグループだったが、まるでチェーン店の居酒屋ではしゃぐ若者のような乗りの大声で、どうにも騒がしい。「呑んで陽気になれば、あんなもの。素面からすれば何で大声?と、声高なのをそう思う」と走ってきたワンゲル仲間が私の愚痴に答えて言っていた。

 それは得心するのだが、バカ騒ぎする雰囲気の店ではなく、料理に気を使っているきちんとした店なのだ。店を大事に想うのなら、もう少ししんみり飲んだっていいではないか。周りの数組の常連客からの視線に気が付かないのだろうか・・・。いや、またしても愚痴になった。

 宴会モードを目の当たりにして改めて気が付いたが、普段冷静な住職も駆け出す、年の瀬がもうそこまで迫っていたのだった・・・。

戸田のボート(漕艇)場


この直後、思いも由らないアクシデントが私を襲う。
赤羽 1番街
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<幻の東京オリンピック (1940年)>

 川筋に美しく紅葉した桜並木が続き、並木が途切れるあたりで土手を降りると、横手に東京オリンピックの競技会場として造成された戸田の「漕艇場」がある、と書いた。

 この造成は1940年、戦前(第二次世界大戦)に開かれる予定の「東京五輪大会」のボート競技のためのものだったが、1937年の「盧溝橋(ろこうきょう)事件」に端を発して長引く「日中戦争」のため政府がオリンピックの開催権を返上し、大会自体が幻と消えた。返上した形式になってはいるものの内実は違っていた。当時の中国であった「中華民国」(後の台湾政府)が開催地変更を要望し、それを受けてアメリカのIOC委員がボイコットを示唆して辞任するなど、政治的ないくつかの動きがあって、そうした圧力を受けての決定だったのだ。


 以下は余談になる。

 満州国の独立は認めても「中華民国(中国)への進攻は侵略行為である」というのが、当時の米国の日本に対する基本的な立ち位置なのだった。日本はこの後、第二次大戦の引き金となる米国務長官から寄せられた最後通牒の「ハル・ノート」の文言解釈で重大な誤解をする。「中国からの即時撤退」を迫られて軍部が譲れないとした講和条件は、実は満州国を含んでいない。国際的な独立国としてほぼ承認された満州国は中国とはもちろん別の国家、というのがアメリカの解釈で、それが世界の認識だったのだ。しかし、時の政府も大陸に進出した大本営などの軍首脳部も、同じ誤りをした。開拓の地「満州」を手放すわけには行かず、それだけは譲れない、として開戦に踏み切ったのだった。はからずも自らの傀儡政権として樹立した皇帝「溥儀(ふぎ)」による政権の独立性(日本からの独立ではなく、中国からの独立−世界的な意味での「独立国家」という認識−)を認識していなかった訳だ。

 1885年に「日清戦争」の戦勝により割譲(戦争の賠償という意味を持つ国際的な慣例)した「台湾」は意味合いが違う。日清戦争の性格は議論の余地があり、欧米の相次ぐ侵略で弱体化した大陸への進出を日本が狙った明らかな「侵略」なのだが、当時の一般的な重商主義世界観としては、アジアやアフリカは搾取すべき地域として存在していた。当然、そこ(アジア)には日本も含まれていたが、江戸幕府の対応やその後の明治の元勲達の活躍で植民地となることから、かろうじて免れていたのが実情だ。 植民地化から逃れて自らの地域的な経済基盤を確立する方向が当時の主流思想であった。

 だからその当時の帝国主義的な発想からすると、日本のとるべき道は大陸への進出だったのだ。自らも欧米諸国と同列に並んで搾取(支配)する側にまわるのであって、自分を同列において共存・共栄(共営)を求めていくという姿勢は無かった。アジア内での経済圏を確立して共存する、という考えはずっと後になって生まれてくる思想だ。 しかし、折角の貴重な発想(グローバリズムではなくインターナショナリズム)も、実際にはまるで曲がった「大東亜(だいとうあ)共栄圏」という方向で、本来の意図とはまるで違った天皇を中心とする共和体という風に、実行段階で著しく曲げられてしまうのであるが・・・。

 明治の元勲達はヨーロッパへ留学して当時主流の政治学や経済学を学んでいる。それはまさしく帝国主義を基調としたものだったはずだ。「日清・日露戦争」当時の大陸への進出は、国際的な認識と動向を反映した政治的な当然の帰着であったといえよう。日露戦争前に締結され第一次世界大戦まで続く「日英同盟」などは、日本がアジア中心に考えるのではなく脱アジア化とでも言おうか、欧米諸国と同じ視点に立つ(アジアと対立する)という姿勢が大きく現われたものだろう。


 本来は独立国だが、日本の統治する韓国と台湾という地域は国際的に承認されていたもので、もちろん同盟関係にない欧米諸国も承認していた。しかし、「満州国」となると先のふたつほど明快ではなく、少しポジションが微妙になる。中華(漢民族)とは別の満州族という独立した民族の国なので干渉はしない、というのが各国のとった基本的な方針だったのだろう。二つの地域に対して口を挟むことは内政干渉となる。だから、勿論、海外諸国は干渉することはなかった。

 だからその認識では「中国からの撤退」は満州を範囲外とし、「仏領インドシナからの撤兵」を含むアジア地域からの撤退は台湾や韓国を含まない、ものだったのだ。「仏領インドシナ」は油田地帯で石油などの資源確保に必須と考えていたのだろうが、開戦しなければ民需産業用としては備蓄している石油で数年は持ったはずだ。軍部が声高に叫んだ、このままでは衰退し国家が滅亡する、という状況では無かったといえよう。

 そうした誤解は意図的に起こされたとしか思えない。自分達の強力な論拠とすべく要求の意味を曲げて伝え、主要な議論の場や御前会議などでの議論を操作したのだ。主戦派としては何としても「いま、戦うことが是」としたかったのだろう。欺瞞に満ちた主張といえるものだろう。


 その後、漕艇場はオリンピックのボート競技の会場として歓声を沸かせて賑わうことになるが、「東京オリンピック」は当初より四半世紀後、非戦闘員のアジア各国市民の、そしてもちろん日本の市民の多大な犠牲を代償にして終結した凄惨な第二次大戦の戦後、やっと1964年になって開催された。

 世界は、あの大戦により、24年という年月を失ったのだ。

<「大東亜共栄圏」の発想>

 「大東亜共栄圏」の発想は、日本国・満州国・中華民国の三国を中心にアジア地域を自立的な経済圏とし、東南アジア諸国の自治独立権を保った状態として広域の連合体とする考え方だ。それは現在のEU(欧州連合)と同じ共同体を目指したものといえる。

 日本国といっているのは、現在の列島だけではなく、韓国と台湾及び南洋諸島に散在する委任統治領を含んだ領域だ。勿論北海道以北の北方四島は固有の領土で、樺太の南半分と千島列島をも含んでいる。さらに軍が駐留しているインドシナ(ドイツ占領下のフランス政府から統治を承認されたもの)、及びイギリス領マラヤ・オランダ領東インド(インドネシア)の東南アジアの資源地帯、は日本国内という認識になる。

 その基本方針に基づいて、欧米の植民地であったアジア諸国を独立させた。日本軍の占領により宗主国の支配から開放、独立させ、自治権をもった民族政府(フィリピン、ベトナム、ラオス、ビルマ、カンボジア)を発足させたが、それらはみな非選挙による傀儡政権であった。


 現在のアメリカのとる「グローバリズム」は地域の規模(実施されているスケール)が異なるが、実に似ている。いやむしろ同質のものといえようか。

 天皇の位置がより象徴化された「星条旗」へと置き換わり、日本は国家神道により拘束しようとしたが、米国は支配地域に対して宗教的な拘束をしない点が変わっている。そうした相違はあるが、「パックス・アメリカーナ」は、圧倒的な軍事力を背景にした衛星国家・属国化による緩やかな支配体制で、まさに理念とは違った形ですすめられた歴史上の「大東亜共栄圏」と同じ体質のものだろう。

 当時の日本の統治に関しては民族的な立場やもろもろによって、様々な解釈がある。冷静にみれば、帝国支配の植民地から東南アジア諸国の独立をもたらしたのは確かだろう。傀儡政権であった民生政府が民主化(選挙による選出)できたかどうかは難しい。長くヨーロッパの植民地であったが、初等教育が実施された訳ではなくて「教育」はまったく施されず、識字率をみても驚くべき低さであったからだ。

 傀儡政権とはいえ独立自治の政府を樹立させた東南アジア諸国ではなく、国内の「外地(がいち)」に見れば、その事は一層鮮明になる。

 台湾には「台湾総督府」を置いて日本が終戦まで彼の地を統治したが、その後の台湾の成長の礎は、その統治時代があったからとする現地の古老が多い。戦後世代になって大分変わっているが、今も台湾の人は日本の統治に感謝しているという実情がある。統治領から日本の大学へ進むには、医科と理科で、法科では進めなかったという。陸軍士官学校や海軍兵学校という当時の俊優が進むエリートコースではなく、最優秀な生徒でも帝国大学や私大。軍幹部や中央政治には入れない仕組みがあって、それが日本のとった政策なのだった。だから、台湾の秀才達は皆、医師や教師になった。そのため台湾の教育水準は高度に発達し、医療の分野はアジアの水準を優に超えていたという。いま、彼の地が世界に冠たる電脳王国となっている基礎はこの辺りにもあるのだろう。

 韓国の場合もそうだろう。同じく「日清戦争」によって清王朝を中心とした「冊封体制(同盟に近いが属国という扱いの国家間の上下関係)」からの離脱・独立をした「朝鮮」も、やはり基本的な意味合いが違う。、朝鮮は独立後の1887年に「韓国」となったが1910年に日本が併合し李氏朝鮮という独裁王朝は消滅した。開国を要求していた日本は、それに先立って鎖国状態にあった韓国を保護下に置き、その後「朝鮮統監府」をおいて戦後まで統治した。併合の前に保護下に置くための「保護条約」が結ばれ、その後「併合条約」が結ばれたが、これは承認された国際条約であり、有効なものだった。

 ただし、韓国の場合、すこし趣が異なる。本来は母なる国で、同一の根を持つ民族なのだろうが、中華的(儒教的な道徳世界)な意味で文明の遅れた日本(日本は独自の解釈を持って純粋な中華儒教的な上下関係から離れた)が先進国である韓国を支配する。そうした行為が軋轢を生まないはずはない。大戦での民衆への強制移住や強制労働など軍部の取った高圧的な政策が感情的なしこりとして残り、民族的な反目感情も伝統的な部分を重ねて残っている。だから、台湾との間ほど両国間は緊密ではなく、未解決のままで強いわだかまりがあるように思える。

 歴史的に見れば、イギリスとアメリカの関係のように民族の根が同じでしかも上下関係が存在した場合、反目せざるを得ないのだ。米・英は独立戦争前後の軋轢をどうやって乗り越えたのだろう。高句麗王朝の亡命を受け入れた当時や、任那と大和朝廷の関係のように、ある時期が来れば、従前の両国関係が緊密に修復できるものなのだろうか。


 このあたりで閑話休題。
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<荒川下流域へ、災害時緊急通路をさらに走る>

 さて、話題を戻して「ポタリング行」だ。

 「岩淵水門」を目印にその先で荒川を渡ろうとしているので、休憩の済んだ赤羽「1番街アーケード」を抜けて、環七通りに出て、新河岸川へ戻り、川沿いを進んだ。荒川右岸と新河岸川の間にある「桜堤緑地」から荒川へと戻るためだ。

 この水門は「隅田(すみだ)川」との分岐になっている。

 新河岸川と呼んでいた川は隅田川とその名前を変える。時代劇で「大川」と呼ばれる川がしばしば登場するが、それがこの川だ。

 王子(2008.03.15 「江戸の情緒(谷中、王子)」)あたりで流れてくる「石神井(しゃくじい)川」と合流し、尾久(尾竹橋)あたりから都心部へ流れ込む。吾妻(あずま)橋や駒形(こまがた)橋のある浅草界隈を流れ、蔵前・両国橋で「南こうせつ」さんの歌うフォークソングで有名な「神田(かんだ)川」と合流、さらに永代橋で「日本橋川」と合流する。川はずっと街中を蛇行して流れている。王子方面や浅草方面へ向かうにはそれに沿ってもいいが、そうでなければ荒川に沿って進まないと効率が悪くなる。

荒川を進む
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 「新河岸(しんがし)川」は川越から江戸への物流の動脈だった川だ。

 前々回の川越からふじみ野の迷走の際には、この川を何度も渡ったが、細かったその流れが、いま目にする広い川になる。東照宮や喜多院のある仙波から流れて来るが、この水門で荒川と合流して呼称が終わる。

 正保4年(1647年)に時の川越藩主、幕府老中でもあった「松平信綱(のぶつな)」が川運を開き、その後、昭和6年(1931年)まで物流で利用された。古くは物流のための荷船だけでなく、旅客も乗せていて、早舟は4日で江戸を往復するなど数種類の船便があったという。

 山本周五郎の時代小説「柳橋物語」の主人公おせんの幼馴染おもんが災難にあうのが川越に避難するための船着き場でだった。その事件がきっかけで油問屋で大店の一人娘だったおもんは人生を崩されていく。父親は事件で酒におぼれて痴呆となり、自身は女郎に身を落とす変転が待っていた。大火事で浅草から逃れるために川越へ向かうという設定から考えると川筋は新河岸川のはずであり、船着場といえばこの辺りになろう。

 NHKのドラマでは主人公を大好きな若村麻由美さんが、おもん役を井上晴美さんが好演していた。

桜堤公園の土手(新河岸川) なぜか「ゆりかもめ」の群れに遭遇
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 桜の紅葉を戸田に続いてここでも楽しめた。横の川面をみると「ゆりかもめ」が群れ飛んでいた。すごい数で飛び交っていたが、持ってたコンパクトカメラはマルチエリアのオートフォーカスのままなので上手くピントが合わなかった。


 水門を渡って新河岸川を離れ、荒川の河川敷に入り、広い通路を進む。

 じきに北区が終わって足立区になるが、「扇大橋」を過ぎてマンションの一群が途切れるとそこは墨田区で、「西新井」や「千住(せんじゅ)」になる。橋を渡らずに結局ずっと右岸を走っている。

岩淵水門 水門から荒川右岸へ
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 千住宿は「日光街道」の起点で、江戸から「みちのく」への出入口で賑わった街だ。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」といって俳人芭蕉が「おくの細道」への旅に向かったのも、この地からだった。

 行く春や 鳥啼魚の 目は泪

 松尾芭蕉(まつお ばしょう)の「奥の細道」での矢立始めの句だ。(旅の開始に詠んだ有名な俳句)

 生きて再び谷中の桜を見られまいとの決死の思いに、別れを惜しみ旅の安寧を願う弟子達との別れを歌った。今なら46歳はまだ無理も利いて安心していられるが、元禄時代(1689年)の江戸では立派な高齢だ。武家であっても商家であっても隠居して家督を渡して数年、といったことろだろう。京都へ向かうなら安心な旅なのだろうが、みちのくと呼ばれた東北地方への旅は町人文化が開花した元禄の時代であっても不安が大きかったと思う。しかも芭蕉は高齢だった。

 深川から舟で千住まで来て、そこで宿をとり、これからはるかな陸路を弟子の曾良(そら)だけを伴って進んでいくのだ。本人も見送る弟子達の間にも、決死の思いが過ぎるのも無理からぬことだろう。

 「千住大橋」は勿論江戸の昔のそれとは違う巨大な橋だが、家康が幕府を開く前(征夷大将軍に叙任する以前)にここに掛けさせた橋の名は同じ「千住大橋」だった。今、橋の袂には芭蕉の発句を記念して、「矢立初めの地」を示す石碑が建っている。

セルフポートレイト

 この辺りも散策すれば楽しいだろうと思う。西新井にある薬師様(「西新井大師」)へはお参りに行ったことがある。学生時代、東武伊勢崎線の駅ビルや隣接する東武ストアなどで数日間、清掃のアルバイトをしたことがあり、その帰りに行ってみたのだった。

 山岳部に入っていた友人に誘われて、夜中にビル内の掃除をした。親方と監督が大人で、あとは皆学生。全部で20人近い人数が居たように思う。いつも理科大の連中と一緒のグループになって仕事をした。他の学校の人達もいたが、どこの大学生だっか思い出せない。

 我が家の家業は鉄骨屋で、手伝いを早くからしていた。センターポンチ打ち、ドリル、ねじ切り、錆止めの塗装。高校生以上になると溶接や組んだだけの鉄の上など安全を見越した上での高い現場も手伝った。そのため多少は高い場所にも慣れていた。本来が高所恐怖症なので、危険を伴うような高さはもちろん足が動かなくなってしまうが、二階やその屋根程度の高さなら大丈夫だった。現場仕事の雰囲気も判っているた。すぐに動くことや、指示に意見や不満を言わないことや、大きな声を出す事など、父の仕事で「基本」として叩き込まれていたので、清掃を請け負っていた親方に気に入られ大分可愛がってもらった。

 西新井だけでなく竹ノ塚などの東武沿線の別の駅ビルや東武ストアの清掃にも呼び出され、その後も何回かやったものだ。30年も昔の事で、仕事をしたのが正確にどの駅だったかは判然としなくなっているが、一晩で1万円と少しが貰えた。朝、仕事が終わると現金を手渡しされたのだった。それは食品売り場の狭い排気ダクトの中に潜って行って薬剤を使って清掃したり(マスクとゴーグルを着けて一時間ごとに休憩して作業する)、梯子に乗って高い天井のライトや外部の電飾を掃除したりした手当ても含まれている。普通の掃除(天井面)では確か8000円ほどだっはずだ。基本的には、ビル内部のすべてのダクトとスリットなどの天井の開口部、電球関係を清掃し、床などはしなかったので、特別な業務だったのだろう。ビル外に電飾があればそれも清掃する。この仕事したのは丁度今頃で、冬場に近かったので外の作業は手がかじかんできつかった。

 駅ビルが閉店してから内部の掃除をするが、外部はすこし前から仕事を始めたように思う。確か、夜8時から朝5時までだったか。休憩を夜中に挟むが、早く終われば5時までは寝ていた覚えがある。つらい部分もあったが、楽しい事しか覚えていない。一列に並べて立てた脚立に乗って照明を掃除して、田植えのように順次移動していく。脚立の上で冗談を言い合ったり、眼下に見える下着売場の陳列に目を凝らしたり、楽しく作業をした。作業後は状態の確認があって、やり直しが指示される。口が動いていても手が休まず、やり直しのない状態であれば、親方は文句も何も言わない。でもやり直しを指示するときは凄い剣幕で、仕事師という人種を知らなければ肝を潰すだろう。

 一度、停電になってすべての明かりが消えたことがあった。そのとき私は踊り場から伸ばされた一番長い梯子に乗って、天井の電球を外していた。下は駅構内への階段で、落下すればさらに下位に転げてしまう。思わず下で梯子を支える仲間に大声を上げたものだ。通常の天井は脚立の最上部に跨れば足りて、その状態だと自立できて安定がある。ドラマ「ショムニ」の坪井千夏役の江角マキコさんがいつもひょいと担いでいたあれだ。その時は一番高い脚立を開いて一本の梯子状にして、その最上部へ乗っていたのだった。

 いや停電の作業は西新井ではなく別の場所だったかもしれない。確か記憶では、大師様へ行ったのは無事のお礼詣りだったのではと思うのだが、あまりにも昔の、しかも一瞬の出来事なので判然としない。
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 JRの常磐線の鉄橋を潜り抜けてから「堀切(ほりきり)橋」辺りで、周囲の景色が変わる。土手の向こう側から、高い階層のビルが姿を消すためだ。

 土手の向こう側がただの空になって、大分イメージとして浮かぶ「荒川土手」の様子に近くなる。

 なんだか、「♪暮れなずむ街の 光と影の中」と武田鉄也さんの歌う、古いドラマ「金八先生」の主題歌が聞こえてきそうだ。そう、ドラマのオープニング、まさにタイトルバックでの通学風景のロケ地がこの辺りなのだ。

小菅付近(金八先生で有名な景色)
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 「堀切」辺りから快走して「鐘ヶ淵(かねがふち)」を過ぎる。

 河口まであとxxキロという標識が道脇にあるが、その標識された海までの距離がどんどん減っていって、現れるキロ数が一桁に近くなっていく。

 さて、「鐘ヶ淵」。

 土手の少し向こうに「カネボウ」のビルが見える。この場所は、大好きな池波正太郎の時代小説「剣客商売」の舞台。主人公、達観した老剣客の秋山小兵衛の隠宅に設定された土地だ。

 古くから映像化され、主人公を演じる役者が変わって数種類が存在ているが、現行のテレビ・ドラマで演じる「藤田まこと」さんのシリーズがいい。

 初めの1から3シーズンまでの「大路恵美(おおじ めぐみ)」さんの凛々しい女剣客姿の佐々木三冬(ささき みふゆ)役も良かったが、大治郎(だいじろう:小兵衛の息子で同じく凄腕の剣客)と結婚するシリーズ(第4・5シリーズ)で登番してきた「寺島 しのぶ」さんが演じる三冬役も実に様になっている。時の老中、田沼意次(たぬま おきつぐ)の落し胤という設定も、育ちのよさが滲んで無理なく演じているように思える。それに立ち居振る舞いの姿勢がいい。大治郎との真剣の稽古などは素晴らしい緊張感で、動作の切れも良かった。

 彼女は、最近のコメディ映画「ハッピー・フライト」でも凛々しいチーフアテンダント役を演じているが、断然、時代劇の方が似合っている。和装に落ち着きや品があって、さすが、歌舞伎役者の家系の人といえよう。

 ここから隅田川を降れば、浅草までは僅かに3km。昭和初期まで続く江戸を代表する繁華街とは直ぐ指呼の間だ。小兵衛の愛妻、お春の漕ぐ猪牙舟を使っても、直ぐに往復出来そうだ。

荒川の広大な河川敷(紅葉する大欅) 川幅が彩湖のように広い
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 「鐘ヶ淵」を過ぎると、道は「平井(ひらい)」の街に入る。

 この街も私にとっては馴染みが深い。大学生の頃に、友人のアパートがあってしばしば訪れた。といっても大抵は夜で、しかも徹夜で話し込んで疲れて帰るので、街自体はあまり歩いていない。まあ、場所というか、街の色とでも言おうか、そういったものに馴染みがある。

 綾瀬川と中川の合流地点、ランドマークの「葛飾ハープ橋」を目にして、さらに進んで「平井大橋」を過ぎた。

 平井に入れば、亀戸の街も直ぐだろう。ここからなら、「浅草寺(せんそうじ)」(2006.07.02 「浅草、ぶらり散歩」)には4キロ、「柴又帝釈天(しばまた たいしゃくてん)」(2006.08.15 「葛飾、柴又 ぶらり散歩」)へは5キロの距離だ。

 平井大橋を過ぎて暫く行ったところで少し休憩する事にした。時刻はまだ2時前で、今回は大分順調に進んでいて、この分なら、どんなに迷ってロスしても、もう少しで臨海公園へ着けるだろうと思われた。3時には公園を後にして走り出せそうだ。そして目的の河口(東京湾)へは後わずか、4キロ少しを残すのみだ。

 あと4キロで東京湾・・・。

 道満で水を汲んで湾の入口で海に流したらどんな気分だろう。折角、海まで走ってきたのだ、ああ、水を汲んで来ればよかった、と少し後悔した。

中川を渡って小岩方面へ向かう

 金八先生が現れて声を掛けてきそうな、芝生のような下草が生える土手に腰を下ろして、川面を見ながら休憩した。

 目の前を何台もの自転車が素晴らしいスピードで、あっと今に通り抜けていく。

 そこでの休憩中、仲間が「葛西臨海公園へ行っても何も面白みは無い」と言い始めた。明るい内に「葛飾柴又(かつしか しばまた)」へ向かおうという提案なのだった。

 ワンゲルの基本は高所登山以外は合議制で運営するのが暗黙ルールだ。低山のルートは基本的にリーダが設定しているが、バリエーションがあれば意見を汲んでどんどん変更する。「ポタリング」は山行では無いので、行動中のグループを統制するリーダーはいない。企画者の私がコースを設定しただけなので、その運用は基本的には協議による。
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葛飾柴又 名優、故 渥美 清 寄進

駅前から商店街を進んで行くと、
帝釈天への参道脇に建っている。

直ぐ前で屋台が出ているので、見落としがちになる。

 今回の企画での「葛西臨海公園」は実はひとつの象徴で、そこが必須の目的地ではなかった。

 荒川を降っていって、東京湾へ注ぎ込む大河の様子が見たかっただけだ。だから、むしろそこから反転して江戸川を遡って「矢切の渡し」を目指し、「葛飾柴又」で遊ぶという計画を視野に入れていた。快調に飛ばせば「赤羽」は昼前に通り過ぎる。川口から産業道路を進めば、赤羽から新都心の間は一時間掛からずに走れるのだ。だから、計画の際には臨海公園あたりで遅い昼食を取るということも考えていたのだった。

 今回の計画は河口を目指すものだが、それもほぼ達成できたと言ってもよかろう。河口から4キロ。目の前の広大な幅を持つ荒川は彩湖と変わらず、そこは川というより最早、海なのだ。

 彼の言う「日が落ちる前に葛飾柴又へ、帝釈天(たいしゃくてん)へ行きたい」 という切なる提案も頷けた。私は帝釈天の参道の楽しさを知っているので、それもそうだな、と納得した。

 ここからなら柴又は5キロ、さほどの時間は掛かるまい。  ・・ 実はそこに落とし穴があった。

参道のお団子屋、草だんごの老舗だ 参道の団子屋
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帝釈天の境内 帝釈天の境内

 浄水で手を清めて、お参りをする。

 「帝釈天(たいしゃくてん)」は正式な山号は「経栄山 題経寺」という。この寺は「庚申(こうしん)まいり」として江戸庶民の信仰を集めていた。庚申の日(十干十二支:じっかんじゅうにし)にお参りして厄をはらい、人生の大厄難を逃れるという意味を持っていた。宗派は「日蓮宗(にちれんしゅう)」で、江戸開府後間もない寛永(かんえい)年間(1629)に開基された古い歴史を持つ寺院だ。

 有名になって多くの人達のお詣りが絶えないのは、その縁起やご利益によるだけでなく、故「渥美清(あつみ きよし)」さんを主役にして正月を飾って長年続いた人情映画「フーテンの寅さん」シリーズの存在が大きいだろう。下町の人情の機微を知り尽くした「山田洋次(やまだ ようじ)」監督により1969年から1995年までに全48作、「釣りバカ日誌」に変わる前は正月のお楽しみといえばこの映画だった。

 高度成長期から変貌していく下町の姿を巧みに描き、その年の世情を写したストーリーは温かく、ちょっとはずすがとんでもなく純粋な主人公「車寅次郎(くるま とらじろう)」の存在は見る人の心を癒す。普段はフーテンの名の通り自由を求めて旅の空の下に身を置くが、漂泊の暮らしに疲れた時、人情厚い柴又の地へ戻ってくる。小学校低学年までだとまだ難しかろうが、ああしたウィットに富んだ展開のストーリー(人生の悲哀やかけがえの無い出会い)は老若男女、どの世代でも楽しめよう。

 あの映画が無かったら、そして渥美さん演じる愛すべき寅さんが居なかったら、この寺をこれほどに参詣する人は多くなかっただろう、と思うのだ。

帝釈天の境内で 積もる銀杏の葉
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山本亭の庭 山本亭の庭

絵に描いたようなもみじ

 「帝釈天」にたどり着くには、実は随分と時間が掛かった。

 「平井大橋」から京成線の「柴又」駅までは僅かに5キロ、だからルート変更を決定したとき、本来は来た道を引き返しそのポイントへと戻るべきだったのだ。「平井大橋」ではなく、その先の「新小松川橋」を渡ろう、と言ったのは、すこしでも海に近づきたかったためなのだろうか・・・。その辺りの心の動きが思い出せない。

 新小松川橋を渡って、小岩方面へ向かって、そこから真北に上れば柴又だ、という話でまとまったのだった。江戸川に並走する印象があった為だろう。1キロほど後ろの平井大橋に戻ってそこから荒川を渡れば、もうすぐに京成線に出会う。そのまま線路に沿って東方向へ進めばいい。迷う可能性は殆どないといえる。それに比べると新小松川橋からの道は蛇行する中川に沿って北東に向かう必要がある。進んでしまったコースの方が数倍ルートが複雑なのだった。

 荒川を越えてから住宅街の中を走って新小岩駅と小岩駅の中間地点に出た。そこから北上して中川を目指したが、なかなか川と出会わない。やっと川に出て、川筋に沿って走ると鉄橋が現れて線路を潜った。越えた線路は総武線で、暫く走った末にまた小岩駅周辺へと戻ってきたのだった。中川と思った川はそうではなくほぼ直交する「新中川」で、気付かぬ内に北東ではなく南へ走っていた。気を取り直して北上して、ぐんぐん走り、ようやく京成線の「高砂(たかさご)」駅の脇へ出た。そこから線路に沿う道が無くて住宅街の中をジグザグに進んで、ようやく「柴又」駅へ着いたのだった。

 時間にして50分ほどだろうか。繁華街や住宅街、川の横や幹線道路の脇道など10km以上を走った気がする。しかも迷いながら、さらにお互いトップを走る自転車のコース取りに疑心暗鬼となって・・・。

 そうした柔らかめの緊張感の中なので、少し疲れたようだ。どうやら、午後になって糖分が欠乏し、きちんと頭が働くなって来たようだ。

寅さん記念館から江戸川を望む 参道の賑わい
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参道の店 とらやの焼き草だんご(土曜・日曜限定品)

 帝釈天をお詣りして、江戸川の川岸にある「山本亭」へ、そしてその先の「寅さん記念館」へ行って見た。

 記念館の丘から江戸川を眺めようと思ったのだ。着いてみると、記念館はリニューアル中だった。2009年12月にリニューアル・オープンと、記念館の丘の頂上に横断幕が張られてた。私達は「寅さん記念館」には入るつもりははじめから無かったが、そうでない人達もいるだろう。現地だけでなく、途中の案内標識にも貼っておけばいいのに・・・。

 矢切の渡しを漕ぎ出した舟が、丁度、江戸川を渡るところだった。多くの人で土手は賑わっていた。混雑する江戸川を離れ、早々に参道に戻って、「寄り道」をすることにした。

 楽しみにしていた何件かの店での団子の食べ比べと、以前寄って美味しかった駅前の「かなん亭」の焼き鳥を食べるためだ。

お気に入りの焼鳥店(かなん亭) お気に入りの焼き鳥店
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 お寺にお詣りし、参道での食べ歩きを楽しんだ。寅さんについても存分に語ってこの地でのノルマをこなしたので、葛飾柴又の街を後にして、最寄のJR駅へ向かう事にした。

 輪行で帰るつもりなので、早めに電車に乗ろうという算段だった。JR常磐線の「金町」駅が近いが、それでは「新松戸」駅での乗換えがあるので、武蔵野線の「三郷(みさと)」駅を目指す事にした。

 少し迷いつつ「金町」駅に着いた。最初「亀有」駅方面へ向かってしまい、道を戻ったためだ。丁度時刻は四時半程で、「金町」駅に着いた頃、すとんと日が落ちた。京成線では無くJR駅側は意外に乗降客が多く、思ったより混雑していた。ここで輪行を開始するか、それとももうひと踏ん張りして三郷駅へ向かうか、改めて皆で協議した。結局、この駅で電車に乗ろう、そうと決まれば「早速 食事だ」という事になった。

 金町は、上にリンクを貼ったが、以前来たときに魅力的な「路地」奥にに吸い込まれた覚えがあった。

 今回は初めから京成線の踏み切り脇の路地へ行ってみようとした訳ではない。最初はJR駅周辺を探したのだ。だが、適当な店が無かった。適当というのは「金町ならでは」の店という事を意味する。食事が出来てもチェーン店では意味がない、という事だ。

 そうして街中を探して歩く内に、気付くとあの路地の入口に辿り着いていたのだった。意識の底で路地を求めていたのだろうか・・・。

金町の夜 食事はこの店(賀有)

← 路地に吸い込まれていく二人。
やはり、この街には魔力がある。

 以前、来たときに、この路地の何軒かが定食のメニューを店先に出していた。あの時は昼間だったが、昼の定食だけでなく、夜も食べるメニューを置く店があるに違いない。そう思って、路地を進んでいった。

 入口のおでん屋さん。その先のラーメン店。奥くの角を曲がった大皿料理の店。美味しそうだが、ここは少し高くつきそうだ。そしてさらに奥に進んだ場所で見つけた中華料理の店、「賀有」。

 「賀有」という店名は「ここに幸あり」という意味だろうか。

 店の入口に「生ビール+手造り餃子、一人一回のオーダー限り:500円」と店先に置かれた黒板に手書きで書かれていた。嘘であろう。手造りの餃子と生ビールのジョッキ、低価格を売り物にする中華料理チェーン店や最近増えてきた焼き餃子のチェーン店だってこうは行かない。

 何軒か迷ったが、結局その店に寄る事にした。そして、その選択は大正解だった。
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輪行バックに包む バックを抱えて、ホームを急ぐ

 金町で休憩して、大分落ち着き、気持ちが大きくなったためだろう。

 JR常磐線の「金町」駅からの乗車はやめて、もうひと走りしよう、という事になった。

 JR武蔵野線の「三郷」駅まで行って、そこから列車に乗り込もうという訳だ。常磐線の混雑と乗り換えの煩雑さを考えての選択だった。金町から北へ向かうと菖蒲で名高い「水元(みずもと)公園」がある。都内で唯一水郷の景観を備えた公園で、それを越えれば、三郷市なのだった。

 時刻は6時を少し過ぎたところ、辺りは大分暗いが大丈夫だろう。「水元公園」へは順調にたどり着けた。暗く沈んだ池が見える公園に沿って進み、大場川を渡った後に「潮止橋」という橋が現れた。大きな川だったが、何という名前か判らない。橋を進んで県道らしい道に出た。そのまま進んでいくと、やがて遠くに駅の明かりが見えてきた。金町を出てから30分ほど経ったろうか。意外に順調にここまで来られたではないか・・・。

 三郷は工業団地の町で、物流拠点の倉庫が建ち並ぶ。駅の周りは余り繁華ではないが、目にする前方の駅周辺より、もう少し、建て込んでいたはずだ。

 今、暗闇に浮かぶ駅周辺は造成、開発中でガランとしていて何もない。そして、近くまで行ってみたら、それは「JR武蔵野線」の駅ではなかった。さらに「三郷」駅でもない。掲げられた標識を見て信じがたい思いに襲われたが、その駅は「八潮(やしお)」駅で、つくばエクスプレスの駅だった。
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西浦和に到着 サイクリングロードを離れてからの移動は
順調とは言えなかった。

ほぼスケジュールをこなしたが、
もっと効率よく走れたように思う。


今回の反省点は、
見知らぬ市街地での位置把握に尽きる。



しかし、概ね企画は好評だった。

集合・解散地点のJR武蔵野線 西浦和駅へも無事に戻れた。

駅前の明かりで自転車を組み立てた。

私はここから9kmほど、
夜の街を自走して、さいたま新都心へ戻った。

判った道なら、9kmなどあっという間で
20分ほどで着けるというのに・・・。

 辿り着いた駅からさらに先の「三郷」駅を目指すか、それとも、ここから列車に乗り込むか、を検討した。結論はこの駅から列車に乗ろうというもので、理由は「つくばエクスプレス」での乗り換えならJR線より空いているはずだ、という指摘によるものだった。「南流山」駅での武蔵野線への乗り換えが楽なのであれば、ここから乗るべきだと、意見がまとまったのだ。


 前後のブレーキキャリパーを開放し、リアスプロケットのトップにチェーンを切り替える。前輪を外し、後輪を外して、自転車を分解する。フレームを縦に返して、輪行袋の中にサドルを下向きにして立てる。立てたフレームの両脇に外した車輪を合わせて、それらをベルトで固定する。そして袋の外からキャリーベルトを通して、ボトム(BB部分)とハンドルチューブにベルトを掛ける。すると、写真の状態が出来上がる。

 最小のコンパクト状態なのだが、それでも結構な大きさになる。その大きな手荷物を抱えてやって来た列車の先頭車両に乗り込む。大きさが乗降客の邪魔になるため、先頭車両や最後尾車両の運転席の広く開いたスペースを確保して。そこに手荷物になった自転車の袋を置くためだ。ホーム上を抱えて移動する。先頭車両の運転席前に「鉄チャン」が陣取っていたら、アウトだ。

 乗り込みも乗り換えもスムーズに行った。無事に武蔵野線に揺られて、集合地点の「西浦和」駅へと戻れた。

 時刻は9時前だった。出発してから11時間が過ぎていた。
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 さて、こうした催しに「軽いアクシデント」は付き物だ。いや、それがあったほうが印象に残って楽しい思い出になる。輪行組で続発したが、やはり分解・組み立てによって問題が起こるリスクを背負い込むことになる。それを考えて集合を10時に設定しているが、やはり朝は忙しく、慌しく準備・作業をせざるを得ない。そうした事が引き金で問題が起こり易くなるのだろう。

 というのは前回書いたものだが、今回もアクシデントが発生した。


<アクシデント1 (前回の2から繰り上がり)>

 しかも前回の「アクシデントその2:クイックリリースがリリースしっぱなし」が同じ状況で起きたのだった。

 ない、となった時には、またなんで?と思わず口に出してしまった。

 ただ、今回はバネが近くで見つかったので、ネジの部分(クイックリリースのナット部分)を探しに行った。私と仲間で西浦和駅の改札で地面に這って探していると、降りてきた婦人に声を掛けられた。落し物を探していると答えると、ネジのようなものならホーム上に落ちていた、という。仲間がホームに立ち入らせてもらって、無事にナット部品を回収できた。前回との違いは今度のアクシデントは前輪。でも、そもそも、なぜクイック・リリースのナットのネジが外れるのだろう・・・。


<アクシデント2 (ロードデビュー失敗)>

 今回は気合を入れてビンディングペダルを準備した。「クリート(接合金具)」によりぺダルとシューズが密着し、両方が接合するので脚のパワーがダイレクトにクランクに伝わる。さらに引き足が使えて、ペダリングの効率がよくなるという利点がある。確かにその仕組みは素晴らしく、効果は絶大だ。

 もっと早く対応ペダルにすればよかった。

 あの恐怖を味わうまでは、本当にそう思った。戸田の漕艇場で、ボートを見る仲間のいる場所に行って停まった時に事件は発生した。左足が外れないのだ。右足は外れているので、それで対応すればいいのに、外れない左に拘って外そうともがいてバランスを失った。

 いわゆる「立ちゴケ」という状態だ。左に傾いた自転車をどうすることも出来ずにペダルに足を固定したまま横倒しに転がった。棒を転がす様な状態でスローモーションのように倒れこんだのだった。アスファルトではない、小石が混じった硬い地面に強かに体を打ちつけた。さすがにオリンピック会場で、通路の施工も念が入っている。磨耗しない耐用性を考慮して硬く仕上げられているようだった。ひじ、腰骨、くるぶしをそれぞれ打った。買って間もない自転車で早くも転倒という気の滅入る事態だ。

 ビンディングの脱着は何度も練習したのに、と心にぼやきつつ外れなかった靴底を確認した。すると、ネジが一本欠落してクリートの位置が斜めにずれていた。このクリートはマルチ対応ではなく、開放の方向性がある。左右方向へ捻ることで外れる仕掛けだ。曲がってしまっていては左右方向の捩れの力がペダルのビンディング機構へ伝達できない。いくら足を捻ってみても固定された靴がリリースできなかったはずだ。

 クリートは勿論自分で装着した。4mmのアーレンキーを利用するボルトもトルクを掛けて締め込んだつもりだったが、どうやら今ひとつ力が不足していたようだ。

アクシデントその1;クイックの留めネジがない アクシデントその2;クリートの留めビスがない
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「とんぼ」の定食 「とんぼ」の定食

赤羽のアーケードは好きな街だ。

どんどん再開発されて、古い店が消えていく。


余談だが、ワンコインの鉄火丼が食べられた「鮮寿司」も先日閉店してしまった。

<本日の旨い物>

さて、「旨い物」を紹介しよう。


<旨い物1; 赤羽 「とんぼ」の昼定食>

 昼はクリートのアクシデントが発生した関係で、早い時間だったが赤羽へ向かった。パーツをそこで購入するためだ。無事に補修パーツが手に入ったので、当初予定のとおり、シルクロード・アーケードにある「とんぼ」で食事にすることにした。

 私が食べたのは定番の「鮭の焼き魚定食」。大振りで油の乗った鮭が香ばしくて美味。天然出汁の効いた味噌汁も相変らず美味しかった。仲間が食べた「肉豆腐定食」や「刺身定食」も美味しそうだった。
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磯おとめ(高木屋) 草だんご

<旨い物2;葛飾柴又は帝釈天参道のお団子>

 「高木屋」の「磯おとめ」    当日挽いたコシヒカリで作られる団子はやはり一品。
 「かめや」の「草団子」     どちらかといえばくせが無く、オーソドックスな味。

 「とらや」の「焼き草だんご」  これは土曜・日曜の限定品。醤油の香ばしさと海苔、ヨモギの草団子が上手く調和している。

とらやの焼草だんご
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砂肝 鳥皮

<旨い物3;焼き鳥>

 「かなん亭」は気に入りの店で、数年前の柴又散歩以来、最初に食べた時から虜になっている。

 店先に焼き台を出して、炭火を使って焼いている。備長炭かどうかは不明だが、このため焼き上がりの味が違う。この店は店内にテーブル席があるが、やはり、店の横に置かれた縁台で食べたい。炭火で焼いている本格派としては値段は低廉。肉だけでなくうなぎの串などもある。
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賀有のビールセット(破格) 素晴らしく美味しかった餃子

<旨い物4;中華料理>

 金町の路地にある「賀有」という中華料理の店を見つけた。その路地は京成線の金町駅の脇にあって、「賀有」は大分奥までいったところにある。サービスセットとして看板が出ていた「生ビールと餃子」は破格のワンコイン。信じがたい、パフォーマンスだった。

 手造りの餃子はしっかりしているが、皮が厚いわけではなく、実に絶妙。一発で気に入ってしまった逸品だ。

こちらもいい(じゃがいもの千切り炒め) じゃがいもの炒め物、野菜炒め、肉のあんかけ煮なども頼んだが、どれも皆、実に,美味しかった。

厨房が店内のテーブルから見られる構造だが、
中は清潔。
二人の料理人がキビキビを働く様子が見れて、楽しい。


店の接客は女性がしていた。

日本語は上手くないが、まあ、充分に通じている。
どうやら台湾の人のようだった。
どうりで、餃子が一味違って、実に美味しいはずであった。
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